国語科教育法覚え書き④

 先日の試験勉強の残骸です。早いもので、今年度の単位も残るは書道と漢文学とイギリス文学の3つで終了。作家と作品名の英語の綴りを覚えないといけないイギリス文学が取れるか怪しいが、まあできれば年内に全て片付けてすっきり年を越したいものです。

森鴎外(1862~1922)
本名は林太郎。島根県出身の小説家、医学者。
東京大学医学部卒業後、陸軍に入り、1884年にはドイツ留学する。
軍医関係の要職を歴任した後、帝室博物館長や帝国美術院長などを勤めエリート街道を突き進んだ。
作家としてはドイツ留学の後に、訳詩集『於母影』を発表、「しがらみ草紙」を創刊し、90年に処女作『舞姫』を発表した。以後、創作、翻訳(アンデルセン、ゲーテなど)、評論(坪内逍遙との没理想論争が有名)と多方面の活躍をした。
ちなみに『舞姫』は、留学期の鴎外の青春の断面が伺える作品である。文体の典雅な和文調と、適度に用いられたヨーロッパ的感触は、それまでの戯作小説的文体とは全く異なる清新な芳香を放ち、当時の青年を魅了した。

斎藤茂吉(1882~1953)
本名は「もきち」ではなく「しげよし」。読み方だけを変えるという珍しいペンネームのタイプ。山形県出身の歌人、医師。東京大学医学部卒業。
1913年、歌集『赤光』によって認められ、その語『あらたま』『寒雲』『暁紅』『つゆじも』など多くの歌集を発表した。歌論に『短歌写生の説』『小歌論』など、随筆に『念珠集』『不断経』などがある。
また『万葉集』や柿本人麿等の古典や、正岡子規作品などに関する研究や評論も高く評価された。『死にたまふ母』は母危篤の知らせを受けてから、葬儀後までの作者の心境の変化を歌った歌である。

芥川龍之介(1892~1927)
東京出身の小説家。東京大学英文学科在学中に、雑誌「新思潮」の創刊に加わり、そこで『鼻』を発表、これが夏目漱石に大絶賛され、作家として認められる。こうして夏目は芥川にとっての生涯の師となった。
以後、平安時代の説話やキリシタンの世界を取材して、『芋粥』『地獄変』『奉教人の死』など、技巧を凝らした構成、格調高い文体、理知的な鋭さを持つ優れた短編作品を発表する(しかし長編小説は得意ではなかったらしい)。
人生に対して傍観的な芸術至上主義者であった芥川だが、晩年には時代の流れの中で自分の態度に疑問を感じるものの、結局そこから抜け出すことができず、自ら命を絶つことになった。35歳没。

宮沢賢治(1896~1933)
岩手県の詩人、児童文学者。
法華経に生涯傾倒し、農学校教師・農業技師として農民生活の向上に尽くすかたわら、東北地方の自然と生活を題材に、詩や童話を書いたが、急性肺炎のため37歳で夭折した。
生前は無名に近く、自身が発表(自費出版)した作品も童話集『注文の多い料理店』および詩集『春と修羅』のみである。
没後、生前に書かれた多くの作品が発掘、評価され、その豊かな空想性とユーモア、宗教性、土着性、科学精神などの交錯する世界が注目を浴びた。

坂口安吾(1906~1955)
新潟県の小説家。東洋大学インド哲学科卒業。
虚無的な、あるいは逆説的な発想と、その底にある強い合理主義の精神によって特徴付けられる多くの作品を残した。
『吹雪物語』『白痴』『道鏡』等の小説、『日本文化私観』『青春論』『堕落論』等の評論がある。
ドリンクのラムネは「ラムネさん」という人が開発したんじゃないか?という「さまぁ~ず×さまぁ~ず」のトークテーマのような評論『ラムネ氏のこと』は、それが書かれた時期がアヴァンギャルドな絵画を描いただけで逮捕された戦中であることを踏まえると、芸術抵抗派の屈せざる仕事として後世に記憶されるものである。

太宰治(1909~1948)
本名は津島修治(つしましゅうじ)。
青森県出身の小説家。戦前~戦後にかけて無頼派、戯作派と称される作品を残す。
父親は地元の名士で、いわゆるブルジョア階級だった。
学生時代は成績優秀で、井伏鱒二や芥川龍之介の小説に没頭、小説家を目指すようになる。
またこの時同人活動もしているが(プロレタリア文学っぽい作品を書いていた)、なかなか評価されず人生最初の自殺未遂もしている。ちなみに芥川が自殺したときは、あまりのショックでひきこもりになっている。
高校卒業後は、あまりに人気がないので試験無しで入学できるという理由だけで東京帝國大学文学部フランス文学科を受験するが、その年だけなぜか試験があり、フランス語など全く知らない太宰は事情を話してなんとか入学する(もちろん授業にはついていけなかった)。
井伏鱒二に弟子入りした後、バーのウエイトレスと服毒自殺を図るが、ウエイトレスだけ亡くなり、太宰は一命を取り留めた(『人間失格』ではこの経験を書いている)。
その後、芸者の妻と駆け落ちする形で結婚もしている。
大学5年生になった太宰は仕送り打ち切りに備えて、新聞社などに就活するが失敗、今度は首つり自殺をはかるが、結局授業料が払えず大学は除籍になった。
また、芥川賞に何度もチャレンジするが落選。選考委員の川端康成をディスったり、自分の作品に注目してくれていた佐藤春夫に入選をお願いしたりと、とにかく芥川賞(というか芥川龍之介)に固執した。
このころになると薬物中毒がひどく(麻薬性のある鎮痛剤であるパビナールにハマった)、芸者の妻と温泉でまたまた薬物自殺をして失敗。
その後、芸者の妻とは離婚するが、井伏鱒二の紹介で二人目の奥さんと結婚。これがきっかけとなったのか、今までの乱れた生活を反省した太宰は、精神的にも安定し『走れメロス』『富岳百景』など優れた作品を残した。
戦後になると、美容師など様々な女性と関係を持ちつつ、華族の没落を描きベストセラーとなった『斜陽』といった退廃的な作品を発表。
そして愛人の美容師と玉川上水でついに入水自殺を成功させる。39歳であった。

中島敦(1909~1942)
東京出身の小説家。東京大学国文学科卒。
私立横浜高等女学校、続いてパラオの南洋庁に勤務したが、持病のぜんそくのために短い一生を終えた。そのため、作品の大部分は死語に発表されたものであるが、作者の豊かな古典的教養と優れた知性、格調高い文体は高く評価されている。
才能のある詩人志望が陥る不条理を描いた『山月記』は、中国の『人虎伝』を引用した作品だが、作者の詩人的な自意識を燃焼させた独自の世界を形成しており、『李陵』と並んで代表作となっている。

丸山真男(1914~1996)
大阪府出身の政治学者。東京大学法学部卒。
マックス・ヴェーバーなど政治思想史を専攻し、現代の社会・政治や、文化・文学などの問題についても、多くの論考や評論を発表している。
著書に『日本政治思想史研究』『政治の世界』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』などがある。
『「である」ことと「する」こと』は、法的な権利をはじめとする様々な権利、それこそ自然権や基本的人権も永久不可侵なのは建前であって、自分で主体的に主張したり行動しないとその維持はできないよという、政治に無関心な割に権利に執着するオレ達日本人への警句である。
そのわりにはかなりアクティブに活動した学生運動については距離を置いていた。これには「丸山さん!なぜ動かない・・・!」と同僚の教授の失望を買ったらしいが、なんでもかんでも「する」ゃいいもんでもないらしい。

谷川俊太郎(1931~)
東京生まれの詩人。戦後、知的で清新な感受性に富んだ叙情で注目される。
父は法政大学学長で哲学者。
85歳の現在もツイッターなどのSNSを用いて精力的に活動中。
詩集に『二十億光年の孤独』『六十二のソネット』『愛について』『絵本』などがある。
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