『外来種のウソ・ホントを科学する』

 最近はあれだけど、自分は結構本を読むのが好きで、読書の醍醐味ってのはやっぱり自分だけでは気づかないような新しい視点、違ったものの見方、尺度を知ることができるっていうのがあると思う。
 で、子どもの頃は、読む本読む本、衝撃の連続で楽しかったけど、ある程度の数を読んじゃうと「これもう知ってるよ」みたいに、なかなか新鮮な驚きを与えてくれる本に当たる打率が下がってきて、本当にいい本って限られてるなっていう。

 そんな中、近年のヒットがこの本(もうひとつがこれ)。まあ、新鮮な驚きというよりは、前々から保全生態学のファナティックな運動にちょっと胡散臭さを感じていて、ホントなのかなあっていうもやもやを、英国の生物学者が見事に晴らしてくれたという爽快さがこの本にはある。
 よくよく考えてみるとさ、根拠がちょっと弱いんだよね。だから、私にとってはこの分野って江戸しぐさとかEM菌とかと一緒でさ。別に私は、それで心が安らぐなら、他人が目くじら立てることないと思うし、いちいち立ててる奴もバカだと思うんだけどね。
 まあ、おせっかいに啓蒙してきたら嫌だけどね。勝手にやってくれる分にはいいんだ。

 でさ、そもそも運動って時点でさ、科学じゃないじゃん。運動をしなきゃダメって時点で。だって重力の法則とか相対性理論は正しい運動なんて歴史上やってないわけじゃん。まあ、進化論に関してはアメリカでは宗教上の問題もあって、ドーキンスみたいに啓蒙頑張っている人がいるけどさ。
 だから、とどのつまりその分野で飯を食っている人がいるってことだよね。生活がかかっているからやっぱりコンスタントかつ過激に宣伝をし続けなきゃいけないという。血を吐く悲しいマラソンですよ。そんなバイアスについても慎重に考えなきゃいけないという、メディアリテラシーを考えるきっかけにもなる。

 ただ、悲しいかな。動物が好きな人が読んでないんだよね。結局ダーウィン進化論を生物種に対しては受け入れられても、生態系全体になるとなぜかスタティックかつ排他的なものと捉えちゃうんだよね。
 マニアって結局、自然界を博物館の標本が並ぶショーケースなようなものだと勘違いしているみたくて、流動的なものだと捉えるのが苦手なんだよな。
 で、結局こういう部分に抵抗がないニュートラルな人って、まず、短期間にドラスティックに個体数が増えたり、形態が変化する昆虫や、遷移という視点がある植物が好きな人(この本の著者の専門は植物)だったり、逆にタイムスパンがかなりマクロな地質が好きな人だったりする。これが鳥や魚になるとちょっと在来種原理主義者が出てきて、おっかねえなっていう。

 TOKIOの鉄腕ダッシュとか、テレ東の池の水全部抜いてみたとか、外来種バスター的なバラエティ番組が最近増えているけど(ジャパンはスゴイ系の番組とともに)、幸いなのはこういう特定のイデオロギーを植え付けかねない分野を義務教育の理科ではあまり深くは取り扱わないってことだよね。
 教科書作っている人はやっぱり慎重というか、例えば今理科で気象学やってるけど、エルニーニョ現象までは載ってるんだけど、地球温暖化問題は載ってないんだよ。このバランス感覚というか、めんどくさい部分は知らぬ存ぜぬの事なかれ主義というか。
 ネットでアジテーションしてる人たちよか、現場の方が責任と立場がある以上ちゃんとしてるのかもね。下手なこと言えないじゃん。

 てことで以下は、この本で重要だと私が感じた箇所。興味を持ったらぜひ読んでみてほしい。まあ、読むべき人は絶対読まないであろうことはわかるんだけどさ。

 エルトン(※侵入生物学のパイオニア)の遺したものが新しい科学分野ではなく、旧来のある思考体系――ヴェーゲナーのプレート・テクトニクス以前、そればかりかダーウィン以前にさえ遡れる原理の残滓の上に培われた体系であるのは明らかだ。植物も動物も静止して動かず、不変の世界に生息しているという原理だ。(58ページ)

 まず定義からして、外来種は数がおびただしく、最もよく目立ち、とことん人の手が加えられた環境――つまり街や都市に生息することになっている。日々の生活で外来種に出くわすのは日常茶飯事なので、誰しも一家言あり、しかも外来種といえば在来種をせっせと押しのけるというのがもはや「自明」になってしまっている――現実にはその限りでないとしても。同様に「自明」とされているのが、対策として何かしなければならないことだ。対策がどうあるべきかは必ずしも自明ではなく、そのうえ誤った対応は事態をかえって厄介なものにしかねないにもかかわらず。
 そこで、ジャーナリストが電話をかけてきて、その場で答えを欲しがる。「アジア原産のオオスズメバチが英国を席巻してわが国のミツバチを全滅させるってほんとうですか?」。訊かれた科学者が、個人的には席巻も全滅もありそうにないと考えていたとしても、そういう脅威でもなければ、南フランスまで出かけて行ってハチの生態を調べる費用を誰が出してくれようか。いずれにせよ、導入種の多くは定着に失敗していること、稀に成功する種があっても、まず問題を引き起こすには至らないこと、また、仮に害をなす生物がいたとしても、それが事前に目をつけて用心していた種であるケースはめったにないということを根気よく説明しているうちに、電話は切れてしまっているだろう。(64ページ)


 わたしたち人間という生物の心の奥底にひそむ願望の問題なのだ。自分たちの視野が狭く、環境を適切に管理できないことを、誰かの、何かのせいにせずにはいられない願望の。(68ページ)

 Bに引き続いてAが起こったから、AはBが原因であると仮定するのは、科学では初歩的な誤りだ。ただの偶然かもしれないし、ギョリュウの場合のように、AもBも、両方とも何かの原因で引き起こされたとも考えられる。
 ギョリュウは土壌の塩分を高めて在来種との競争に勝ち、在来種を排除すると非難される。だが簡単に結論に飛びつく前に、もっと単純な別の可能性を考えてみてはどうだろうか。ギョリュウは新しい環境によりよく適応したのである。その新しい環境は、ダム建設、人間が利用するための利水、消火体制の改変、家畜の放牧の増大などによって作り出されたものだ。(97ページ)


 例えば、野生のアナウサギ(導入種。ただし最も最近の氷期の前から英国にいた)を好む英国人はまずいないが、茶色いヤブノウサギ(これもこの前の間氷期には英国にいて、今回の間氷期になってまた導入された)となるとどうも甘い。それどころかノウサギは、現在独自の生物多様性アクション・プラン(BAP)ができているほどだ。(略)ノウサギが在来種ではないことは問題ではないのか――どうやらそうらしい。
 一般的に言って、わたしたちは、愛らしくてわれわれに厄介をかけない動物や植物が好きだ。さらに言えば、生息数が減少している生き物が好きで、彼らになりかわって頑張ってしまうことさえしばしばある。(略)
 愛情の対象は在来種であってほしいという願望があまりにも強力なために、そもそもその生物が在来種がどうかという判断まで左右されることがある。(118ページ)


 ここまでくると、「在来」とはいったい何かといささか混乱してくるだろうし、もししていないなら、多少は混乱したほうがいい。(120ページ)

 ディンゴはおよそ四〇〇〇年前、東南アジアから海を渡ってきた人々に連れられてオーストラリアにやってきた。外国生まれの渡来者であるにもかかわらず、ディンゴこそ、オーストラリアで絶滅の危機に瀕している小型有袋類を救うカギなのだ。ヴィクトリア州はようやくにしてその事態に気づき――いささか遅きに失したが――、ディンゴを絶滅危惧種のリスト入りさせることにした。(略)
 遅まきながらもヴィクトリア州がこう決断したことは、稀にみる常識の発露と考えていいだろう。(125~127ページ)


 限界に達している群集/群落では、定義からして新たな生物種が足場を作るのは難しい。だがもし新たな生物種が足場を確保したとしたら、それはすでに存在している生物種の利用できる資源が減り、遅かれ早かれ、その生息地内の既往生物が死に至ることを意味する。
 だがほぼ普遍的をいってもいいくらいに、実験的に得られるデータでは、群集/群落が限界に達することはなく、地域の生物多様性はやすやすと増大する。(141ページ)


 現実世界の実証例は、ほとんどすべてが反対方向を向いていて、多様性に富んだ生態系ほど実際には侵入されやすいように思える。論理的にはおそらくこれが当然なのだ――生態系内部の力関係というものを考えてみれば。植物の群落でも動物の群集でも、およそ生物の集団は多くの個体からなっていて、いずれも永遠に生き続けるわけではない。したがってそこには必然的に入れ替わりが起こる。もしも新しい個体が定着することでその種が集団の中で存続していくことが可能なのであれば、集団はその新しい個体に「侵入されうる」ものになっていなければならない。(略)つまり、群集/群落は、多様になるためにはそもそも「侵入されうる」場でなければならなかったのだし、引き続いて多様であり続けるためには、やはり侵入可能な場であり続ける必要がある。(144ページ)

 わたしたち人間が、うっかりにせよわざとにせよ、以前にもまして多くの生物を地球上のあちこちに連れまわしていくと、地球の状態は三億年前、大陸が全部、パンゲアと呼ばれる超大陸にまとまっていた頃とよく似てくる。わたしたちが日に日にパンゲアらしくなっていくのは、陸地を突き動かしてくっつけるのも、生物種のほうを動かすのも、どちらも、いつもならカンガルーがラクダに出会わないようにしている分散の障壁を取り除く行為の、両面に過ぎないからだ。(149ページ)

 ニッチ理論が何らかの成果を出すほどの長い間、外的な干渉を一切受けずにいられる生態系がほとんどないこと。生物集団のほとんどは、はた目にはいくら不変に見えようと、現実には常に何らかの災害からの回復途上にある。(略)生態学の教科書にあるような整然としたニッチで生物集団の説明がつけられると考えていては、正解よりも間違いに近づくだけだと如実に示してくれる実例だろう、(154ページ)

 なぜある種の生物は巧みに定着し、ある種の生物は定着できないのか、生物はいかにして集団に溶けこみ、その集団はどのようにふるまうのか、理解できていないことはすでに数多く列挙されている(略)(170ページ)

 本来の姿からあまりにも改変が進んでしまった土地は、原初の、その土地固有の植物には見知らぬ場所なのではないか。そうした環境では、うまく適応する外来種(どんなに頑張ってもどのみちなくならない)を目の敵にするのではなく、むしろ味方に取り込むことでしか前へ進めないのではないか。(186ページ)

 わたしたちには、何が在来種で何が外来種かわからないことが多い。そしてその両者をどう定義するかは、わたしたちの好き嫌いに呼応してしばしば捻じ曲げられる。たしかに有害な外来種は締め出しておきたいが、害を測定するのには長けていない。また、栄えている外来種のほとんどが、単に人間が生み出した隙間をうまいこと利用しているだけで、たいてい彼らもまた、人間が与える恩恵の受け手に過ぎないという事実を認めたがらない。(198ページ)

 わたしたち人間にはどうも時間を適切な尺度で捉えるのが苦手なようだということだ。プエルトリコの耕作放棄地が事実上単一の外来樹に席巻され、一面の外来種が二〇年、三〇年、ひょっとすると四〇年も占有種を主張してくると、これはなにか手を打たなければ、と逸る気持ちを抑えかねる。(略)だが待ち続けることが正しい方針なのだ。なぜなら地方行政や自然保護基金とは違って、森林が成熟する過程では、三〇年や四〇年はほんの一瞬にすぎないのだから。最終的にできる、在来種と外来種の混生林(とはいえ、在来種が過半数を占める)という形態は、もしかしたらみんなが望む理想形ではないかもしれないが、横から人間が手を出した時に起こりうる結果よりははるかにいいものだ。(202ページ)

 園芸は長きにわたって、植物を地球のあちこちに動かす最大の原動力である。かつては作物として有用な植物が大勢を占めていたが、近年では主として観賞用の植物が多く動く。栽培されるようになると、やがて自然界に脱走していく可能性が高まることは、幾多の研究で明らかにされている。(222ページ)

 現代の物資や人間の流通量は圧倒的だから、ホモ・サピエンスのそばが好きな、あるいは人間の造る建物や乗り物、ペット、庭、家畜や畑を好む生物は、やがては新天地にばらまいてもらえる。そういう種を私は、人間愛好種(アンスロポフィル)と呼びたい。(230ページ)

 わたしたち人間は、今や空前絶後の数で生物をばらまいているが、わたしたち自身のせいでそうして拡散が前にもまして必要になっているとも言える。生物にとっては新たな生息地に拡散できることはいつだって有益なのだが、生息地が破壊されたり分断されたりすれば、効果的に分散できることは、有益という以前に生存に不可欠になってくる。加えて、温暖化の脅威も増しており、だからこそあらゆる生物がどのみち移動しなければならなくなる。(231ページ)

 問題は、生物を移していいかどうかではなく、移すべきはどの生物か、ということになる。「一切の移転を認めない」方針は、アライグマや迷惑雑草、アブラムシ、コナカイガラムシなどなどといった、あまねく容易に分散する人間愛好種にさらに有利に働くだけだ。絶滅が懸念される生物の移住に手を貸すのは、そうした生物が少なくとも同じ競技場で競争できるように、そこへ向かって小さな一歩を踏み出す手伝いをすることだ。(略)生物を動かすのは「神様ぶる」ことだと批判する向きもあるが、人間はさんざん神様ぶってしまっている。それもどちらかといえば旧約聖書的神様で、「主は自ら助くる者を助く」の原則を貫いて、自分を助けられる立場にないものはまったく支援に値しないと解釈している神様だ。(236ページ)

 科学は、調査結果に主観的な道徳価値を付与したりはしない。(244ページ)

 外来種のコストはアメリカ合衆国全体で、年間一〇〇〇億~二〇〇〇億ドルにのぼるという主張である。この数字には表がついていて、それを見たところ、少なくとも半分は人間がかかる病気に関連する莫大な費用で、そのほとんどはインフルエンザだ。インフルエンザウィルスを侵入的外来種と呼ぶのはいくらなんでも飛躍しすぎではないだろうか。(251ページ)

 「民族的出自にかかわらず、誰もが環境保護、文化的遺産保護活動に完全参加」できるようにすることを目標に掲げる団体、UKブラック・エンヴァイロメント・ネットワークが、外来生物排斥が外来人間排斥へと転化する境界線の微妙さを懸念して、両者にもっと寛容にと盛んにキャンペーンを張っていることは、注目していいだろう。なるほど、見た目はほとんど同じカエルやビーバーを何とか区別しようとする話を読めば、人間世界での似たような話――人間を、肌の色や人種で区分けしようとして歴史を、思い起こさずにいられないところがある。(269ページ)

 侵入的な在来種は見すごされ、わたしたちのアンテナには引っかからない。(274ページ)
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