情報社会論覚え書き

参考文献:安田雪著『パーソナルネットワーク―人のつながりがもたらすもの』

完全グラフ
ある集団があったとき、その構成員が全てお互いにつながりあっているネットワークを完全グラフという。
完全グラフの場合、各構成員のつながりの度合いに偏りがないため、ネットワークを分析することができず、手も足も出ないネットワークと呼ばれている。
また、構成員全てが孤立しているネットワークも同じ理由で分析ができない。
ちなみに、関係の度合いにバリエーションがない場合は、研究者は関係がある部分よりも、関係が欠如している部分に注目する。この部分にネットワークの力の源泉、つまり誰かが仲立ちとなってネットワークをつなぐ機会があると考えるのである。

コミュニティとモジュールの概念の違い
一定の地域の住民が連帯して作る共同体がコミュニティである。
ポーランドの社会学者バウマンは、コミュニティを「安心」すなわち「異なる他者の不在」と強く関連付けている。

一方で統計物理学者は、分析に不必要な要素(地縁や心理など)をネットワークから排除して、コミュニティを特定する方法を編み出している。
例えば、現実社会のコミュニティなら、町や都市といった空間概念や人口によって規模や様相を把握することができるが、ネット上にあるSNSなどのデータは不特定多数の人間の相互作用の連鎖であり、こういった膨大で複雑でネットワークは、いわばごちゃごちゃした巨大なスパゲッティの塊のようなもので、これをそのままの形で分析することは難しい。
そこで、SNSのデータなら、仲良しグループや共通性の高いグループといった、いわゆるクラスタで分けたり、企業のメールログなら、送受信者を部署ごとに分けたり、内容をテキストマイニング(文字列のデータから有用な情報を抽出すること)することでグループ解析を行なっている。つまり、膨大なネットワークをいくつかの細かい部分に分割することで、分析しやすくしているのである。

また、ネットワークのつながりの構造だけからコミュニティ抽出を行なう手法も開発されている。
いくつかの手法があるが、M・E・Jニューマンらが開発したモジュラリティの概念が一番重要だとされている。
彼らのコミュニティ抽出に典型的なのは、コミュニティのメンバー同士に、そのメンバーとそれ以外のメンバーよりも強い関係があるように、メンバーを分割することである。
言い換えれば、コミュニティ内部の関係性は、そのコミュニティと外部との関係性よりも強く、濃密・活発であると仮定して、その条件を満たすようにネットワークを切り分けて整理するのである。

この時抽出されたコミュニティはモジュールと呼ばれ、モジュールへの切り分けの適切さの評価指標はモジュラリティ(Q)と呼ばれている。
この評価指標は、モジュールの中の紐帯数を、同じ大きさで同じ紐帯数のランダムネットワークの期待値と比較することで得られ、この時の値を最大にするようにコミュニティ抽出をすべきだ(モジュールの関係性をランダムな状態のそれよりも可能な限り引き離す=アトランダムにする)という「最適化問題」が、ニューマンらのコミュニティ抽出問題である。

具体的なアプローチとしては、全員がバラバラの初期状態から段階的にコミュニティを作り上げ、Qの値を少しずつ近づけていくアルゴリズムなどが知られているが、ある種のネットワークでは紐帯数の分布などが原因で、適切にコミュニティ抽出ができない場合があることも分かっており、改善策や他の抽出方法の比較検討も進んでいる。
また、モジュールなどの概念を現実社会の現象に巧みに応用した仮説検証型の研究はほとんどなく、今後の応用研究が待たれる分野である。

ソーシャル・キャピタル
日本語に直訳すると「社会関係資本」といった意味になる。
社会学では、個々人に還元できない目に見えない社会的つながりによって生まれる強み、そのつながりを担う人にもたらすメリットだとされている。
ソーシャル・キャピタルには、マクロな公共財的視点から捉える立場と、ミクロな戦略的関係視点から捉える立場の2つの立場がある。

ソーシャル・キャピタルをマクロな視点から捉える代表的な論客がロバート・パットナムである。
パットナムは、ソーシャル・キャピタルを「個々人のつながり、すなわち社会的ネットワーク、およびそこから生じる互酬性と信頼性の規範」だと定義する。
つまり、人々の規範意識が高く、互いに信頼し合っているようなコミュニティでは、活力があり治安がよく、逆にひとりぼっちでボーリングをしているような孤独なコミュニティでは、日常生活の効率も悪く、都市も衰退するとパットナムは考えたのである。
現代人が生活経験全体に対して感じている不安感は、その生活基盤を直接的に破壊する大災害そのものよりも、その際に予想される政府や自治体の機能不全や、ご近所や家族・親戚からの支援の欠如に対するものなのである。

ソーシャル・キャピタルを公共財ではなく、ミクロな視点から捉える代表的な論客がナン・リンと、ロナルド・バートである。
リンは、個人的な資産や財力、学歴や資格といった資源とは別に、社会的なつながりを通じて到達できる資源について述べている。つまり、顔の広い人は、知り合いが少ない人に比べて、多くの情報や支援を得られるというわけである。
バートもミクロな関係が個人にもたらす利点に注目するが、リンと異なる点は、他者が持ち得ない関係を持つことによってもたらされる利益、相対的な有利さをソーシャル・キャピタルと定義している点である。

パットナムはこの主張に対して、個人的な影響量や友情が社会関係資本であるということだけならば、利己的な個人は適切な時間とエネルギーを投資し、それを獲得しようとすると予想できるが、社会関係資本は同時に外部性を有しておりコミュニティに広く影響するので、コストも利益も、つながりを生み出した人のみに全てが還元されるわけではない、と論じている。
つまり、つながりに富む個人であっても、つながりに乏しい社会に所属している場合は、そのパフォーマンスは劣るし、孤独な人でもつながりに富む社会に所属している場合は、その利益を受けることができる場合もあるということである。

もっといえば、ソーシャル・キャピタルは容易にフリーライドができる。例えば治安の良い町であれば、旅行者も安心して観光を楽しめるし、フリーライドされても簡単には減衰はしない。
一方、ミクロな視点のソーシャル・キャピタルは、匿名ではなく固有の人間関係によってもたらされているので、フリーライドはされにくく、しにくいのである。

弱い紐帯の強さ
人間関係のつながりは強い方が良い、社会関係が弱まっていくのは良いことではない、という近代社会の常識を覆したのが、グラノヴェターの論文である。
強い紐帯(ちゅうたい)が狭い範囲の人々を緊密に結びつけるのに対して、弱い紐帯はともすれば分断されがちな社会の、その内部の小さなコミュニティ同士を結びつける役割を果たし、情報収集と拡散においても、社会統合機能においても、実は優れた社会的機能を持っている(例えば群衆の安定に寄与)という内容である。

例えば、電話の発展型としてテレビ電話が想定されたが、現在では電話よりも相互制約が少ないメールや、匿名性の高いSNSでコミュニケーションを取る人の方が圧倒的に多い。そういった意味で、グラノヴェターの先見性は鋭く、論文発表から30年以上経ってもその輝きは失われていない。
これは、強い紐帯と弱い紐帯のどちらが優れているかという話ではなく、使い分けの話であり、例えば情報を届けたい人や、欲しい情報があらかじめ決まっている場合は、他者に適切な情報を伝えるのには適さない弱い紐帯よりも、強い紐帯を使った方が良い。
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