クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ!夕陽のカスカベボーイズ

「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 本当に一番怖いことは、いろんなことを忘れていくのに、それが気にならなくなっていくことなんです。

 カフカやサルトルといった哲学書を読むならこっちの方がいいですよ!この映画って笑いながら実存主義について色々と考えさせてくれるとんでもないアニメです。

 この映画のテーマは、自己の存在を全く疑わず無意識的に日々を生きているということを、私たちは実は薄々知っているという実存の恐怖。
 サルトルの『嘔吐』では、マロニエの樹を見ている男の「マロニエの樹」という意味が崩れたとき男の前にある“それ”は枝や幹がグロテスクに伸びる不気味な存在となり、思わず男は吐いてしまったのですが、これはつまり私たちは普段うわべの“意味”で全てを見た気になっているということ。
 しかし己の死のように自分が無意識的に信じていた前提が崩壊する時に「えええ?自分ってなに?」と恐れ戦くのです。自分のこともこの世界のことも何も分からずに生きて死ぬだけなんだと。
 これは「ひろし」と「みさえ」の「“ここ”は一体何なんだ?」「どうやったら帰れるの?」というセリフに端的に現れていて、かなり怖い。

 本作では野原一家をはじめとする春日部の市民が映画の世界に迷い込むというシュールな設定で、なんで映画の中に閉じ込められたか、明確な理由が意図的に作られていないんです。
 クレヨンしんちゃんなんてSF、ファンタジーなんでもアリのおバカ映画なんだから、適当な理由なんていくらでもこじつけられるのに、やらないというのは絶対に確信犯。
 
 もちろんこの映画を見るちびっこにこのテーマは伝わるわけはないから、一応しんちゃんと薄幸の美少女「椿」ちゃんとの切ない恋も描かれていて、それがこの映画の恐ろしい哲学的テーゼにカーテンをかけてくれているのはかなり上手い。
 さらにノープランな「内村プロデュース」御一行をゲストで登場させれば、サルトルの隠ぺい工作は完璧!

 「NO PLAN」といえば、ED曲「○あげよう」いいですよね。結局作中では映画のキャラクターだった椿ちゃんはしんちゃんといっしょに春日部に戻れなかったけど、EDで2人がありえない身長差の社交ダンスをしているのは、ちょっと切なすぎる。
 椿ちゃんっておそらく最後の方で「ただの映画のキャラクターである自分」と「実際の人間であるしんちゃん」との「存在の違い」を薄々気づいてるんですよね。自分は映画から出られずに映画が終わると消滅してしまうと・・・
 そして同じ「映画のキャラ」だという実存に気付きながらも、椿ちゃんと対極の位置にいるのが「映画を終わらせまい」と襲いかかるジャスティスラブ知事。
 映画さえ終わらなければ彼は永遠に生きていけるわけで、この世界の秘密を必死に隠そうとする横暴な知事と、臆病ながらも知事とは異なる選択をする椿ちゃんの対比は印象的でした。
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