アフォーダンスについて

 センター試験の現代文にJ・J・ギブソンを出すか普通?

 センター試験ってとどのつまり「五択問題」なので、そこまで読解力なくても運でどうにかなる人もいて、偏差値は結構高くなりがち。現代文を偉そうに塾で教えてる私も偏差値55くらい(凡人レベル)だったし。
 言い訳するならば現代文は高校の通知表では美術よりも成績が良かったし、記述だと偏差値は60~70くらいだったんだけど、候補から正しい解答を選ぶってのが苦手で、なかには作り手が下手ですごい微妙な問題もあるしね・・・

 まあとにかく現代文でギブソンの概念が出てきたわけです。で、これがなかなか結論は大したこと言ってるわけじゃないのに、文章がやたら読みづらい。実際大学レベルの文章だと思う。
 というわけで中学校の頃から「要約」を生業としてきた?私が、要約します。

 アフォーダンスとはひとことでいうならば「生物が“能動的に見出す”環境の意味、価値の事」

 まずギブソンは生物と環境を論じる時に「物質(サブスタンス=実体)」と「媒体(ミディアム=媒介)」に分けるわけです。ここでいう媒体とは生物に刺激を伝える仲介物で、例えば陸生動物なら空気(音を伝える)、水生動物なら水といった感じです。

 このセンター試験の文章は「物質の状態変化」を知っている人はかなり混乱してわけがわからなくなるのですが(おそらく翻訳が下手)、つまり我々生物は媒体の部分(空気や水といった流体)ではうろうろ自由にうろつくことができますが、物質のある場所ではそこを透明人間やニュートリノでもない限り直進できない(なんも難しいこと言ってるわけじゃない。だってモノのあるところはぶつかるから)。

 この「物質と媒体の境界(物体の表面。サーフェス)」にあたる部分こそが生物がアフォーダンスを見出す場所で、それが生物にとっての「環境」である。とかいうのです。 

 まあ確かに、耳(物質)と空気(媒体)のサーフェスで音を知覚し音楽を楽しんだり、空気(媒体)の中を進んでテーブルの道具(物質)を手(物質)でとって「おおこれはあれに使えるぜ」と考えるわけだから。
 生物はサーフェスの環境の中から“主体的に”アフォーダンスを選択しているわけです。

 つまりこれって主体客体問題・・・認知心理学の話。
 
 たとえばリスのような小さな動物にとって森のカシワの木はオオカミに襲われた時に身を隠す「隠れ場所」という価値をアフォードするかもしれない。
 でも同じ木を見て住友林業の人は「あ、この木は今作ってる家の屋根にぴったりの形だ!使えるぞ」とチェーンソーで切り倒すかも知れない。
 ゾウはちょっとした木なら障害物とは思わずにぶち倒して直進しちゃうかもしれない。ゾウにとってカシワの木には「オオカミから隠れる隠れ場所」というアフォーダンスはない。でかすぎるもん。
 ポイントは、動物によって選ぶアフォーダンスが異なるという点です。リスとゾウでは木に対するリアクションが異なるから。

 しかし環境から見出せるアフォーダンス自体は「客観的なもの」です。椅子がアフォードする「座れって休める家具」という価値は、その物質がもっている客観的な特性です。「じゃあ座って休もう」「今は立っていよう」という利用者の主観で、椅子のアフォーダンスが変化するわけではありません。

 また「アフォーダンス」とは、本文でも指摘されているように太陽から降り注ぐ「宇宙線」などといった、生物に対して一方的に反応を強制するような刺激ではありません。
 そのような運命論的環境主義(生物は環境によって全てを決定されている・・・ハッハッハという考え方)を言っているわけではないのです。そういう意味で巨大隕石襲来といった環境の大激変はアフォーダンスの議論から除外されます。

 生物が主体的に環境に適応する時、生物は物質と媒体の境界(サーフェス)で「意味」や「価値」を主体的に見出したり、選択したりしているよ、ということなのです。
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