対談 dario×ゴーダイ  “普遍”は存在するか?

 脚本に次ぐ、このブログの新しい試みです。

 dario氏とSkypeをやっていたら、お喋りがちょっとした議論になってしまい、これはけっこう面白いので「ブログの記事にさせて!」と編集してみました。
 ゴ=ゴーダイ、d=dario氏です。

 話はdario氏の「しょブログhttp://ameblo.jp/do-s2000/theme-10021197378.html」で「NHK ハーバード白熱教室」を取り上げていたことから始まります。実は私もこの番組の第三回だけ偶然見ていたんです。なんか変な番組がやってるぞ、と。

ゴ:NHK ハーバード白熱教室!オレも見た!

d:おおお。あれ録画してました いまでもたまにみるw

ゴ:カントがうんたらって言ってたなあ。教授のカントの解釈ってあれであってるのかな?(私はカントの「三批判書」は読み解くのを挫折した経験があります)

d:コミュニティに対してのなんらかの感謝をこめての行動はすべきだが、それははじめは義務でなく個人の選択だろうと考える。

生まれた赤ちゃんに祖国を思えや親に感謝しろは、感覚的にもおかしさを感じるのではないだろうか?

義務は個人の選択がありきでなりたつものであり、選択肢のない生まれた国や親に対しての義務はもともとなく、選択可能な人間になってからそれでもその選択をしているという時点で義務は生まれるものだと思う。

ゴ:その意見はクリティカルだね。「責任」ってのは社会的な契約だと思うから。一方的な強制は本来成り立たないはずだよね。

d:うんうん

ゴ:自分はおそらくあの番組の構造について分析するな。議論の内容でなくて、あの人の授業の仕方。

d:ああ、それは最終回で本人が言及してましたよ

ゴ:どういうこと?

d:なぜこの方法をとっているのか。アリストテレスの時代に 対話法?? ってのができたという始まりがあって・・・対話法でいいんでしたっけ?

ゴ:いいんじゃない?w(聞き役モード)・・・弁証法?

d:それかも。その方法はそのときに生まれたものであり、いまも続ける必要はないのだが私の授業はみてもらってもわかるとおり、その弁証法を行っているのである。

それは哲学において「普遍性」というのを常に考えているのだが、その普遍性は さまざまなひとの考えを そのときにいいと思えるものを選択していくことでしか作られず、波のように行ったり来たりするものなんじゃないか。

ゴ:ケースバイケースな柔軟なテーゼでしか結局実用性がないってこと?

d:そしてそれは過去のあるときと同様の答えをいましている。

ゴ:??↑ちょっと分からなくなってきたぞw・・・ああ歴史は繰り返してるってことか

d:弁証法も結局のところ「繰り返す」ことが普遍に近づく上で最善の方法という話。

ゴ:哲学という手段の目的化か

d:だから普遍といって 一択 になるのは誤りで多数があるから普遍をつくる という話になった

ゴ:あの白熱教授の普遍は本質主義ではないってことね。どっちかというと相対主義に近いね。

d:そうですね!それもあの人の 一部の考えにすぎないとは思いますが、あの授業では少なくともそう表現していました。

ゴ:しかしdario氏の「普遍的義務(国家や社会を成り立たせるために全ての国民が最低限守らなければいけないかなり拘束力が強いルール。刑法など)」という概念は面白い。これってオリジナル?

d: いや テレビででた言葉なんじゃないかな?

ゴ:使い勝手がいいな

d:番組では、普遍性があるものとしてスタートしているから、普遍的な義務という言葉がたぶんでていたんですが、普遍的な義務 はなんなのか は明確でなかったんです

ゴ:それで自分で定義した?

d:これやっていいと思う? いい?だめ? という比較だったのかな? テレビでは。自分はそれは「普遍」とは合致しないと考えていました。だから再定義したんです

ゴ:「普遍」という言葉の定義によるよね。リンゴが地面に落ちるのは、この番組の議論で言う「普遍」なのか?重力がどの物体にも働く力ならば普遍的法則は確かに存在するよね。では「普遍的な思想」はあるのか?

d:普遍的思想は現実にはないと思います。

ゴ:物理法則は普遍的だと俺は思う。で、思想はそういった物理法則じゃないよね。それは法則の上に成り立つ流動的なシステム。遺伝子プールとかと一緒。・・・では物理法則と思想の違いは?引力の法則と遺伝子浮動の違いは?

d:思想は人や場所、時で左右されるし、一過性だ。

ゴ:オレの答えは「適応性」があるかないか。生物になんで心や意識があるかって、自然環境に適応しないといけないから。

d:相手に合わせるんですね。

ゴ:よって普遍的法則は「ある」。その法則にある程度しばられながらも、自由に適応ができるんだと思う。人の観念や思想は物理法則を超えられないじゃん。イメージでリンゴ浮かせられないじゃん

だから「この世において普遍的なものは何か?」と考える時に、この二つの階層ををいっしょくたに議論しちゃダメってこと。答えが出ない。

d:うんうん

ゴ:だからようは生物学をやればいいんだwみんな。哲学の答えは生物学にあるもん。カントも実際科学者だし・・・

d:ほぉ。そうするとどうなるのだかわからないのですが、そのような二層構造をもうちっと詳しく

ゴ:物理法則の上に思想が乗っかっている構造をイメージして。その二つの層は論じるコンテキストのようなものが違う。ことなる定規を用いる必要がある。

d:うんうん

ゴ:下(物理法則)は、人の振る舞いを制限する基礎的なルール。上(思想)はそのルール内で好き勝手できる応用編。ボーナスステージ。

d:それを混同してるケースが見受けられるって先輩は思うわけですよね

ゴ:哲学の議論においてはね。リチャード・ドーキンスがそんな事言って哲学者をめちゃくちゃ怒らせたらしい。

d:fmfm

ゴ:つまりあの教授のテーゼである「普遍性はさまざまなひとの考えをその時その時でいいと思えるものを選択していくことでしか・・・」ってのは俺が思うに「適応行動」なだけの様な気がする。

あと、多数があるから普遍をつくるという話になった。ってこれはただの民主主義w

d:多数があるから普遍をつくるってとこなんですが、それはその選択の幅を増やすという意味で多数決ではないんです。

ゴ:多数というのは多数意見のことじゃないのか。つまり多数というよか多様性ってこと?

d:意見の多様性があるから、人はより普遍といえるようなバランスのとれた思考ができるというニュアンスですかね。その人にとってのバランスのいい選択でしかありません

ゴ:自分はもっと力関係がアンバランスだと思うなあ・・・

d:fmfm どういうことでしょうか

ゴ:ああ、dario氏は個人レベルの話をしてて、おれは集団レベルで論じてるのか。そもそも民主主義って全然平等じゃないよね。みんなの意見は平等に同じだけ社会に反映はされない。奴隷を納得させた奴隷制だと思ってるあれは。

自分は集団のシステム的な構造はインターネットに近いと思っていて、すごい周りを納得させられるカリスマ力のある少数派が、大多数の意見(世論)を操作、形成してしまうと思う。
賢い人と普通の人の集団に占める割合がとってもアンバランスだよね。ネットワークってなんにせよそんなアンバランスな形になっているらしい。

d:うんうん

ゴ:つまりdario氏ってけっこう個人主義というか・・・いやオレの方が現実では個人主義だよ!でも思想はdario氏の方が個人主義的じゃん。
でも「個人の自由意思」を最小単位で現在の民主主義的社会を見ると、理想的ないいイメージしか見えない。社会科学的に見ると、結局民主主義の中で民主主義のルールをしっかり理解し、遊び倒しているのはごく一握りの賢い人。

d:自分が強くでる人間は、民主主義だと理想の社会を感じるわけですね。自分の考えも採用されるから

ゴ:結局強く出る奴の影響を、かなりオレたちは無意識的に受けているんだ。だから自分の考え、自分の判断って思っていたものはサブリミナルマインドだらけで、それは果たして俺の考えなの??ってなる。

社会と全く切り離された個人はおそらく存在し得ないし。そこにわざとか知らないけど気付かなかったのが近代合理主義。

d:自分が自分の考えだとどれだけ思えるのかで十分意味を果たすのだと思います。少なくとも一般市民は。
参画している意識が大事で、その考え自体がサブリミナル的に作られてても別にいい。それでも社会に関わろうとしてるから、その個人は満足してるはず。

ゴ:普通の人はそこまで自分をメタ的に見ていないよってこと?じゃあ民主主義はすごいよ

d:そうなりますよねw

ゴ:超すごい、みんな納得の新興宗教だよ!

d:ある特定の人のサブリミナルマインドで栄えますよねw
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