“責任”について

 私は変わりものなのか、年上の人と接する時、すっごいウマが合う人と合わない人がいます。絵画の教員の言っていることが、どうしても承服できないのは、あの人が気位の高いアーティスト気質で、私はどっちかと言うと大衆娯楽的と言うか、エンターティナー気質だというのが原因なのかな?と一晩かけて分析してみたんですけど、あの先生って対話ベタで、私以上に子供っぽいと思うんです。だって私みたいなガキの戯言、「ハイハイ」と余裕を持って受け流せばいいじゃないですか。

 そしてあの先生の持論が個人主義と言うか、「自分の責任は責任転嫁せず、自分(だけ)で負え!」と言う自己責任の考え方。
 私は屁理屈野郎で、生意気な奴と言うのは十分承知しています。しかしちょっと考えれば自己責任論ほど馬鹿馬鹿しいものはないのに、それを信じ込んでしまっている。
 一言で言えば「小さな政府」にしろ「自己責任論」にしろ、あれは責任を個人に要求する魔女狩り敵な、閉じた思想なんです。私は個人と社会は不可分だと思っています。
 ですからあの先生のよく言う「他者にある程度、強制されたとしても、それを最終的に選んだのは自分なんだから、その責任は自分一人で負うべきだ」という考え方は、はっきり言って戦後民主主義教育にどっぷりつかっちゃった浅い考え方だと思うんです。

 高校の頃、とんでもなく勉強のできるクラスメイトがいて、その人が夜騒ぐ暴走族を見て、「こいつら皆死刑にしちゃえ」とマジな口調で言っていて、夜通し議論になっちゃったことがあります。この様な考え方は、大阪府の橋下知事や教育再生会議もしていて、戦後民主主義は突き詰めれば、社会における異分子は排除しちゃえばいいという差別主義につながるのだな、と考えさせられました。
 学校において問題のある学生はバシバシ退学にさせればいい。いじめっ子はいじめをした責任を自己に追わせればいい。という発想の恐ろしいところは、学校から排除された子どもたちの行く末を全く考えていない、想像力の欠如にあります。

 そしてここが重要なのですが、学生よりも立場が高い教員自身が積極的かつ謙虚に、学校と言う組織や、教育現場の現状をメタ的に見つめて内省しないで、今の学校に合わない学生に振る舞いを強制させる。これがもっとも愚かな行為だと思います。
 そういうことやっている人に限って、みんな平等だ。という左翼的思想を持ってたりもするから、二枚舌と言うかよく分からない。まあ平等だから、各々で責任を負えってことなのでしょうか。
 かつてジャコバン派がフランス革命の名のもとに、虐殺を繰り返した歴史を忘れてはいけないと思います。
 システムや権威にあぐらかいてる教員は、大学にしろ、学校は誰のためのものかもう一度考えた方がいいと思います。それは第一に、学生の為にあるべきものなのです。
 あなた方教員の生活の為にあるわけではないのです。
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