外国史概説覚え書き②

 ひいい範囲が広すぎて泣ける・・・世の高校生すごいよなあ・・・ほかの教科もやりながら、こんな量を覚えなきゃいけないんでしょ??は~リニアモーターカー授業。

仏教の成立時代からヴァルダナ朝にいたるインドの歴史
紀元前2000年に中央アジアから北インド(パンジャーブ地方)にやってきたアーリア人はバラモンという聖職者を頂点とする部族国家を作った。この時のヴァルナという階級制度(バラモン(聖職者)>クシャトリヤ(王族、貴族、軍人)>ヴァイシャ(農民、牧畜民。後に商人)>シュードラ(自由のない底辺労働者。後に一般庶民)が今日のカースト制の基礎となった。
儀式を重んじるバラモン教に対して、世界の心理を追求しようとした人々がまとめた書がウパニシャッド(奥義書)であり、インド哲学の源流となる。

紀元前600~500年頃になるとヴァルナを否定する勢力が現れ、ひとつがクシャトリヤのヴァルダマーナが開いたジャイナ教(禁欲&苦行。徹底した不殺生)、もう一つが釈迦族の王子ガウタマ=シッダールタが開いた仏教である。どちらも身分の高い王子が開いているのが興味深い。
仏教は、諸行無常をモットーに欲望を捨てれば誰でも心の平穏が得られるという教義が、クシャトリヤやヴァイシャの間で受けて広まっていった。

紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の軍隊をインダス河で追い払ったチャンドラグプタはマガタ国などガンジス川流域の国家を滅ぼしマウリヤ朝を起こす。
マウリヤ朝は王が仏教を心の拠り所にし(帰依という)、紀元前3世紀アショーカ王の頃に全盛を迎えるが、アショーカ王が死ぬと衰退し分裂する。
こうして北インドは混乱、南インドはドラヴィダ族のサータヴァーハナ朝が成立する。

1世紀になるとイラン系の遊牧民月氏が北インドでクシャーナ朝を起こしアフガニスタン~西北インドを支配する。
クシャナ朝は2世紀半ばのカニシカ王の時代が全盛だった。カニシカ王も仏教の熱心な信者で、この頃、出家や修行をした人だけが救われるのではなく、すべての人間が救われるという大乗仏教が生まれている(ナーガルジュナが確立)。
大乗仏教は菩薩(仏になるため修行中の人のこと)を信仰する。
クシャーナ朝の領土のアフガニスタンや中央アジアはギリシャ文化が根付いていて、ギリシャ彫刻のエッセンスが仏教彫刻に利用された。これをガンダーラ美術という。

クシャーナ朝はカニシカ王の後に分裂し、チャンドラグプタ1世(※チャンドラグプタとは別人!)がグプタ朝を成立。チャンドラグプタ2世は北インドを統一しグプタ朝の領土を最大にする。
グプタ朝ではインド人の民族意識とインド文化が高まりを見せて、サンスクリット語で書かれたインド文学が黄金時代を迎える。十進法やゼロもこの時できている。
美術はガンダーラ様式とは異なる、インド的なグプタ美術が生まれた。これは寺院の石像や壁画として残っている。
ヒンドゥー教は、バラモン教をベースに仏教と民族信仰を取り入れて、この頃に広まった。シヴァ(破壊)、ヴィシュヌ(維持)、ブラフマー(創造)を主神とする多神教。開祖や教義はない。ヒンドゥー教が出来た正確な年代がわからないのはこのため。

グプタ朝はエフタルという遊牧騎馬民族によって衰え、606年にハルシャ=ヴァルダナがヴァルダナ朝を開く。三蔵法師はこの時代に唐からインドを訪れナーランダー僧院という仏教の研究機関で仏教を学んでいる。

イスラーム教世界の成立
イスラム教は預言者ムハンマドによって610年頃に創始された一神教。
ムハンマドは富の独占を批判したため、裕福な商人から危険視、少数の信者と共にメッカから北のヤスリブに移住(聖遷=ヒジュラと言う)し、ウンマという共同体を作った。
この時ムハンマドと共に移住した人たちのことをムハージルーン、移住先で彼らを受け入れて支援してくれた人たちのことをアンサールと言う。
8年後の630年、ムハンマドは一万人に増えたムスリム軍を率いてメッカに戻り無血征服をする。カーバ神殿の偶像を破壊し、イスラム教の聖殿にした。
ちなみにキリスト教がイエス・キリストを神聖視するのとは対照的にムハンマド自体はあくまでも預言者で普通の人間に過ぎないとされている。

ムハンマドの後継者カリフ(政治的指導者というポスト)によってイスラム教徒は、本格的に征服活動(ジハード)を開始し、8世紀初めに古代オリエントに変わる大帝国を築いた。
古代オリエント、ギリシャ、インド、中国といった古代文明の成果を融合した高度な都市文明を発展させ、年にはモスクを中心に市場(スーク)や学校が作られた。
ウラマーと呼ばれる知識人によるコーランの解釈学、法学、神学、歴史学(アラブの学問)の他、医学、哲学、地理学、数学、化学なども発展し、近代ヨーロッパの形成に大きな影響を与えた。
共通語はアラビア語で、イスラム教徒の商人はイスラム教をアフリカ、インド、アジアに伝えた。

アラブ人は最初は特権階級だったが、8世紀にアッバース朝ができイスラム法(シャリーア)が整備されると、アラブ人の特権は否定され、すべてのイスラム教徒が平等の権利を保障されるようになった。ちなみにほかの宗教からの改宗者をマワーリーと言うが、彼らも等しい税がかけられた。
しかし多数派のスンニ派の影響力は大きく、ウマイヤ朝を倒す革命運動に協力してくれたシーア派の期待を裏切り、アッバース朝は彼らを弾圧することになった。
アッバース朝の基礎を作ったのは二代目カリフのマンスールで、アラブ人のホラーサーン軍を重用した。

アッバース朝に敗れたウマイヤ家は756年にイベリア半島で後ウマイヤ朝を築く。
後ウマイヤ朝の学者たちは東方イスラム世界の文化を積極的に導入し、10世紀のアブド=アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎える。
東方イスラム世界では9世紀のハールーン=アッラシードの頃に黄金時代を迎え、首都バグダッドは「世界で並ぶものがない都市」と呼ばれた。
しかしカリフのラシードが亡くなるとタヒール朝、サッファール朝、サーマーン朝などの独立王朝が出現、帝国は内部から分裂し、カリフの権威が及ぶ範囲は小さくなった。

10世紀以降はエジプトのトルコ人が西に移住、トゥールーン朝という国家を作る。
さらに北アフリカのチュニジアではファティマ朝ができ首都カイロを作った。ファティマ朝はシーア派の中でも過激なイスマイル派に属し、建国時からアッバース朝のカリフと真っ向勝負した。
またアッバース朝の親衛隊を形成するトルコ人奴隷(マムルーク。奴隷を育てたエリート軍人みたいなもので騎馬戦士)が勢力を拡大、カリフの改廃を自由に行なうまでになった。
この混乱に乗じてイラン人の軍事政権ブワイフ朝がバグダッドに入城、1055年にはそのブワイフ朝をトルコ人のセルジューク朝が駆逐、彼らはアッバース朝カリフからスルタン(支配者=君主)の称号を授けられた。しかしそのセルジューク朝も12世紀半ばを過ぎると衰え滅ぼされた。

シリアからエジプトに派遣されたクルド人将軍サラディンはファティマ朝の宰相となって実権を握り、1169年にアイユーブ朝を開き、スンニ派の信仰を復活させてイスラム世界統一を図った。
また1187年のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、エルサレムを奪還している。
ちなみにイギリスのリチャード一世は第三回十字軍で聖地を再征服しようとしたが失敗し、サラディンと和解している。サラディンは割といいやつで西洋人の記録でも「異教徒に寛大な人だった」と記されている。

中世ヨーロッパ、シャルルマーニュの時代
シャルルマーニュって誰やねんって思ったらカール大帝のフランス読みであった。
ピピンはローマ教皇の同意の元フランク王国を築いたメロヴィング家を廃し、751年にカロリング朝を開いた。
ピピンの死後、ピピンの息子カールとカールマンの兄弟がフランク王国を二つに分けて治めていたが、771年にカールマンが死ぬと、カールが王国を統一支配することになった。
カール大帝は領土を拡大させるため、王国の南にあるイタリアのランゴバルド王国を滅ぼし、イタリアの北部を併合、中部イタリアを教皇領として確認、さらに王国北のザクセン人を征服、王国東のバイエルン公国も併合する。さらにドナウ川中流のスラヴ人やアジア系のアヴァール族にも勝利し、その土地を併合。王国西にあるイベリア半島のイスラム教徒の進行を食いとめ、8世紀末までにヨーロッパの主要部分はほとんど統一してしまった。こうしてフランク王国はビザンツ帝国と双璧をなす強国になった。
カール大帝は800年のクリスマスにローマのサンピエトロ大聖堂で教皇レオ3世に皇帝の帝冠を受け西ローマ帝国の復興を担うことになった。
カール大帝はビザンツ帝国との関係が悪化すると、アッバース朝のハールーン=アッラシードと手を組み圧力をかけてビザンツ帝国にもにしローマ皇帝を承認させた。

カール大帝は、人口数万人ごとに管理区域を設定し、そこに国王直属の伯(グラーフ)をおいて軍事と政治を担当させた。グラーフは世襲禁止で土着化を防止、さらに巡察使を臨時で派遣して、その仕事ぶりを監視させた。
このように中央集権化に努めたが、ゲルマン部族には根強い慣習法があり、分権的動きを完全に抑えることはできなかった。そのためカール大帝は絶えず王国領内を移動して、グラーフとの個人的関係を築く必要があった。

カール大帝は道路の改修、交易の保護、銀を通貨とする貨幣制度を定めたが、最も有名なのが文教政策で、聖職者を育成するために各地の修道院や教会に附属学校を設置させ、一般的教養を高めるため周りの国から有名な学者を招待しラテン語と古典文化の研究をさせた。この一連の古典文化の興隆はカロリング=ルネサンスと呼ばれる。ちなみに文化人を保護したカール大帝自身は読み書きができなかった(水泳が得意な体育会系だった)。

しかし西ヨーロッパはカール大帝が死ぬと分裂を始め、帝国は崩壊。843年のヴェルダン条約で西、中部、東フランク王国の三つに分かれた。これらは後にそれぞれフランス、イタリア、ドイツ(神聖ローマ帝国)になる(870年のメルセン条約)。

聖職叙任権闘争
中世ヨーロッパで精神的権威を得たローマ=カトリック教会は政治的にも強大な勢力となり聖界諸侯と呼ばれた。彼らはローマ教皇を頂点とするヒエラルキー(教皇>大司教>司教>司祭>修道院長)を作り、教会の規律などの問題は聖職者たちの公会議が最高の意思決定機関になった。
教皇が聖職者の叙任や罷免の権利を持つとされていたものの、実際には多くの教会がその土地を私有する領主に支配されていた。これを私有教会制(アイゲンキルヘ)と言う。

もともと諸侯勢力が強いドイツは王権の維持・強化のために帝国教会は重要な政策であったが、そこにも世俗権力が介入し教会の腐敗化をもたらした。
910年、この教会の世俗化、腐敗化を内部から改革するためにフランス東南部のクリュニー修道院は初期修道院精神の復活を目指す。
ベネディクトゥス戒律(祈り&労働)の厳格な励行、それまで日常的に横行していた聖職の売買(シモニア)や妻帯を批判、領主の私闘(フェーデ)を戒め、女性や子ども、巡礼者などを暴力から保護する神の平和運動も推進された。
この改革運動はヨーロッパ各地に波及、教皇レオ9世は改革派の人物を集めて積極的に教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。

1075年には教皇グレゴリウス7世が教皇教書により教皇権の至上性と優越を宣言、教会勢力を帝国統治に利用するドイツ国王ハインリヒ4世と対立した。グレゴリウス4世がハインリヒ4世を破門&廃位すると、彼は世俗諸侯にも反旗を翻され孤立、1077年にカノッサ事件(ハインリヒ4世がカノッサ城のグレゴリウス7世に雪のなか謝りに行った事件)が起きた。
カノッサ事件は教皇権の優越を示すものであったが、ドイツ国王の勢力は再び回復し、諸侯勢力を抑え、その後も教皇と国王の対立構造は続いた。

聖職叙任権闘争を集結させたのは、1122年に結ばれた教皇カリストゥス2世とハインリヒ5世のヴォルムス協約で、司教や修道院長は教会法によって選出、指輪と杖(霊的権威)の授与は教皇が、笏(教会領などの世俗的権利)の授与は皇帝が行うことなどが決められた。
ドイツでは皇帝の笏の授与が教皇よりも先立つとされ、ドイツ皇帝は教会に対する実質的影響力を維持した。
しかし教皇の権力は11世紀末から13世紀初めにかけて絶頂に達し、インノケンティウス3世(在位1198~1216)は、ドイツの国王選任問題に介入しオットー4世を破門、離婚問題でフランス国王フィリップ2世を破門、カンタベリ大司教選任問題でジョン王を破門している。
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