外国史概説覚え書き③

ルネサンス
中世ヨーロッパの窮屈なローマ=カトリック社会の反動で、14世紀になるとキリスト教以前のギリシャ、ローマの文化(人間中心主義)を復興させようという動きが生まれた。これがルネサンス(再生)でイタリアで始まった。
ルネサンスがイタリアで始まった理由には諸説あるが、イタリアには古代ローマ帝国の遺跡があったこと、またビザンツ帝国崩壊によってイタリアに渡った学者がギリシャやローマの学問を伝えたことなどが挙げられている。
フィレンツェで金融貿易業を営んだメディチ家など、富裕層の商人がイタリアには多く、彼らが芸術家のパトロンになったことも大きい。
文学ではボッカチオの『デカメロン』(近代小説の走り)や、ダンテの『神曲』、ペラトルカの『叙情詩集』、建築ではブラマンテのサン=ピエトロ大聖堂、政治学ではマキャベリが『君主論』を著している。
自然科学ではトスカネリ(イタリア)が大地球体説、コペルニクス(ポーランド)が地動説、ガリレオ=ガリレイ(イタリア)が物体落下の法則、ケプラー(ドイツ)が惑星運行の法則を研究した。
ルネサンスの三大発明は火薬(戦術を大きく変え騎士階級を没落させる)、羅針盤(遠洋航海が可能になり大航海時代につながる)、活版印刷(聖書などの書物を大量に印刷できる)で、どれもが社会に大きな影響を与えた。

宗教改革
ことの発端は、教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の建設費を集めるために免罪符を発行したことによる。免罪符はドイツの諸侯たちに豪商フッガー家を通して大量に販売された。
ルターは『95ヶ条の論題』(※多いw)で、これを批判し、ローマ教会から独立した新しい宗派プロテスタント(抗議する者)を設立する。その主張は福音主義(聖書以外の権威は全て排除する)と万人祭司主義(みんながそれぞれ聖書を直接読む=みんなが司祭になる)であった。ちなみに牧師がいるのがプロテスタント。

説教師のミュンツァーは、ルター派と農奴制廃止を結びつけ1524年に社会的な運動に発展させた。このドイツ農民戦争は鎮圧されるが、その後二回のシュパイエル帝国議会や、ルター派の諸侯が皇帝軍と戦ったシュマルカルデン戦争を経て、1555年アウグスブルグの宗教和議において、諸侯はカトリックとプロテスタントのどちらかを自由に選べるようになった。

スイスではルターの影響を受けた改革派が多く、1541年には改革派のフランス人カルヴァンが招かれている。『キリスト教綱要』で予定説(職業はあらかじめ神が与えた天職なので頑張ろう)を提唱したカルヴァンはルターよりも受けて、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー(契約仲間)、ネーデルランドではゴイセン(乞食党)と呼ばれ、それぞれ広まっていった。
フランスではこれがきっかけで1562年にユグノー戦争が起こり、1598年にプロテスタントの自由と権利を認めるナントの勅令が出されてやっと集結した。

1534年、政略結婚した奥さんカザリンと離婚し、侍女アン=プーリンと再婚したかったイングランド国王ヘンリー8世は離婚を認めないカトリックと対立、英国国教会を設立し、王は国教会の長でもあるという首長法を制定する。
しかしヘンリー8世が死ぬと、カザリンの娘メアリ1世が女王として君臨、カトリックを復活させ、新教徒を弾圧、血のメアリと恐れられるが、ちょっと気持ちはわかる。
ちなみにヘンリー8世には最終的に6人の奥さんがいた。
その後1558年にアン=プーリンの娘エリザベス1世が即位すると、翌年に統一法を出して英国国教会を確立させた。

カトリック側も内部の改革を行なって組織の立て直しを図った。
1545年~1563年にはトリエント公会議で教皇の至上権を再確認、宗教裁判を強化した。
スペインのイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルは1534年にイエズス会を設立、軍隊のような組織と厳格な規律を持つイエズス会は、新たな信者獲得のためにインドや中国、日本に渡り伝道を行なった。

フランス革命
フランス革命は1789年~1799年の十年間にわたって起こった市民革命。
18世紀のフランスには「聖職者>貴族>市民、農民」というヒエラルキー構造(アンシャンレジーム)があり、人口の98%を占める市民、農民の第三身分には納税の義務はあったが参政権がなかった。商工業の発展で市民が力をつけると、アンシャンレジームに対する不満が募り出した。
一方の聖職者や帰属には納税の義務はなかったが、アメリカ独立戦争などで慢性的な財政赤字に悩んだルイ16世は、聖職者や貴族からも税金を徴収しようと89年5月に三部会を招集する。
しかし、各身分一票を主張する聖職者、貴族と、各議員一票を主張する第三身分が対立(第三身分の方が圧倒的に数が多いから)、翌月第三身分は独自に国民議会を作ってしまう。そして、憲法ができるまでこれを解散しないぞとテニスコートの誓いをした。
王は国民議会に圧力をかけようと、ヴェルサイユに軍隊を集結、さらに聖職者や貴族にも課税を考えていた蔵相ネッケルを罷免すると、市民は7月14日バスティーユ牢獄を襲撃。フランス革命が始まった。

8月、国民議会は封建的特権を廃止、身分制度はなくなり、さらに人権宣言を採択。人間の自由と平等、国民主権、私有財産の不可侵などがうたわれたが、ここらへんは政治学覚え書きで書いたので割愛。

10月、革命の混乱と不作で食糧危機が起きるが、王は贅沢な暮らしをしていると知ったパリの女性はパリからヴェルサイユへ行進。王をパリへ連れて帰る。これにより国民議会はパリに移った。10月には教会財産の没収やギルドも廃止された。

国民議会は立憲君主制を目指したが、1791年ルイ16世が王妃マリー=アントワネットとともに逃亡を試み失敗、王への信頼は地に落ちる(ヴァレンヌ逃亡事件)。

国民議会は1791年憲法(立憲君主制と制限選挙を定めた)を発布して解散、代わって立法議会が召集されるが、立憲君主制を目指すフイヤン派と、共和制を目指すジロンド派が対立し出す。

さらに立法議会は92年に男子普通選挙による国民公会に変わる。
周辺諸国とフランスの対立も深まり、ジロンド派はオーストリアに宣戦布告、フランス義勇軍(司令官がほとんど国外亡命していたため)はヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、第一共和制を実現させた。
国民公会は王制廃止を宣言し、ルイ16世は1793年1月に処刑されてしまう。

同年6月、国民公会では急進的なジャコバン派が主導権を握り1793年憲法(主権在民)を制定、7月に領主権の廃止、10月に革命暦の採用を行なった。
ジャコバン派はその後恐怖政治を行ない、マリー=アントワネットや、王党派、保守的なジロンド派、ジャコバン派の指導者まで次々に処刑した。その数合計16000人。
これを推進したロベスピエールも結局1794年の7月にテルミードールのクーデターで処刑された。

ちなみに左翼右翼というのは、この頃の議会の左側に急進的なジャコバン派、右側に保守的なフイヤン派やジロンド派が着席していたことに由来する。

その後穏健的な共和派の支配が回復し1795年憲法が制定、5人の総裁からなる総裁政府ができる。

しかし、総裁政府は安定せず、1799年にブリューメル18日のクーデターが起こり、12月にナポレオンの統領政府が成立した。これは実質的にナポレオンの独裁政府だった。これにより第一共和制が終わり、第一帝政が始まる。
ナポレオンは国民投票で終身統領になった。とにかく人気があったのだ。
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