『構造主義進化論入門』

 教授になってしまえば、論文などあまり書かなくても、よほどのことがない限りクビにならないが、それまでは切磋琢磨で一生懸命競争をする。それはまさに自然選択そのものだ。自然選択は、生物がやっているかどうかはともかくとして、実は自分たちがやっていることである。

 ホンマでっか!?TVという、日本人のメディアリテラシーを養うために開発された、日本一胡散臭いTVプログラムに出演中の池田清彦さんの著作。
 こしさんからの課題図書ということで、今度のオフ会での話すネタにもなるし早速注文して読んでみた。
 ・・・いや~面白かった!
 なにより、これ、すごい読みやすくて上手な文章。わかりやすくて読みやすい文章は「いい論文」になる得るが、いい論文は後世には残らない。残るのはわかりづらくて雑多な論文というのは、漫画やアニメ等の物語にも言えるなあ。(^_^;)

 現在では、論文はなるべくクリアに要点だけわかりやすく記載し、系統立てて書かなければならないという解説書が数多く出版されている。それらの指導書に照らし合わせれば、『種の起源』は悪文の見本だ。何を書いてあるのかよくわからない。
 私は論文の書き方を学生に教えるときに、まず学会のレフリーつきの論文にアクセプトさせるようなものは、規範的にクリアに書かなければいけないと教えている。しかし、後世に残るようなものは、ダーウィンが書いたように、わけのわからない書き方でないと残らないといっている、クリアなものは普通は長く生き残らないのだ。(114ページ)


 確かに、読者の解釈の余地や引っかかりみたいなものがないと残らないような気がするよね。ダーウィンの『種の起源』以外にも思い当たるのはいくつかある。マルクスの『資本論』、カントの『純粋理性批判』、ラカン、ドゥルーズガタリ…全部わかりづらいし読みづらい(そして分厚い)
 押井守のアニメやエヴァンゲリオンなんかもそうだろ。アレみんなよくわからないで面白がってんだよな。よくわからないものを見せてハッタリかまして、受け手をケムにまくのが私はあまり好きじゃないんだよね。それを見たほとんどの受け手は絶対賢くならないだろうから。
 池田清彦さんの竹を割ったような書き方は、福沢諭吉を彷彿としてかなり好き。そしてなにより福沢さんがすごいのは、わかりやすいのに後世まで残っている!!!尊敬だ!

 しかし、バラエティ番組に出ているような学者は、もう全面的に怪しいというイメージを持つ人がいるけれど(大槻教授とか斎藤孝先生とか)、やっぱりそれなりの経歴や業績がないとテレビで活躍はできないと思うんだよな。
 確かに学者っていうのは研究や実験、論文が核になる仕事かもしれないけれど、学生の教育や、一般の人への啓蒙だって重要な役割だと思っている。これはスポーツで言うならば、前者が選手で後者が監督(もしくはコーチ)みたいなもんでね。
 さらに一般の人にも複雑な専門分野を噛み砕いて説明するっていうのは、相当頭が良くないとできないことだよ。だからスポークスマン的な学者がいたっていいんじゃないか。そんなサイエンスコミュニケーション的な話をこの前佐倉統さんとやり取りしたんだけど(^_^;)

 さて、この本を読むと池田さんや構造主義進化論がトンデモなんじゃなくて、科学という営みの本質が「トンデモ」を内包しているのがわかる。
 トンデモじゃない科学と、トンデモな科学があるんじゃなくて、科学はみんなトンデモ要素を持っていて、その度合いが相対的に違うってだけなんだろう。その指標はなんだっていうのがあるけれど、例えば論文のインパクトファクターや、その理論通りにやれば、同じ結果が得られるという再現性などが該当するに違いない。
 しかし、科学の分野によっては、この客観的再現性が難しい、もしくは不可能な分野もある。政治や経済の社会科学の問題、具体例を出すならば、需要を重視するケインズと、供給を重視するマネタリズムやサプライサイド経済学はどっちが正しいんだっていう話も実験のしようがないから難しい。

 しかし、もともと道徳や哲学の分野だった経済学が晴れて科学の文脈で研究されるようになったのは、やっぱり数値化できて、定量的に計算できる(可能性がある)からだろう。
 池田さんは科学において、この数式で表現できるというのは非常に重要だとしながらも、そのプロセスには大きな見落としもあるということを、言語学的な観点から説明している。ここら辺のくだりは私もサイト黎明期にコラムで書いたから読んでくれい。
 まあ、かいつまんで説明するならば、数や言語っていうのは、その対象が持つ雑多な「表情的意味」を一つの基準に抽象化し、残りのものは全て捨ててしまう性質があるから(私はそれを「言葉は差別的」と言ったが、本書では「文節恣意性」と呼んでいる)、現実をキレイにモデル化はできるかもしれないけれど、抽象化の基準を誤ると見当違いなモデルを組んでいる可能性もある。
 例えば火が燃えるのはフロギストンがあるとか・・・ここら辺の科学の底板の危うさは、ダーウィニズムが成立するまでの過程を古代ギリシャから網羅して紹介してくれているから十分に理解することができる。私も進化論の歴史は一度ブログにまとめたことがあるんだけれど、百科全書の編集委員、ディドロとダランベールや、精子にはちっちゃな人が入っているという有名なファンタジーを考えたシャルル・ボネが割と掘り下げられて説明されていて非常に勉強になった。

 こういう古くて、もう間違いってされている学説は、現行の生物の教科書ではカットされるようになっちゃっているんだけど、こういう昔の学説を時系列順にちゃんと知っといたほうがいいと思うんだよ。先人たちの失敗があって現在の発見があるわけだから。そういう歴史なしでいきなり凄い発見なんてないわけで、いや、たまにあるけどさw
 例えば、昔は実験器具の精度が良くなくて、その理論の正しさが立証できなかっただけっていう話だってあるわけで、昔の研究の着想のおもしろさだって現在の研究に役立つことは大いにあるだろう・・・というか、どんな学術分野も古代から還元主義(本質主義、実念論、モデルや要素を重視)VS現象主義(構造主義、唯名論、現実や全体を重視)の戦いをしているしね。プラトンVSアリストテレスとか、プランクVSマッハとか、ポパーVSクーンとか、社会学だとヴェーバーVSデュルケムってところか。
 だからわりと人間ってず~っとおんなじテーマの論争を繰り返しているという。部分か全体か。部分で全体を理解できるのか、できないのか。

 そんな感じで、進化論成立の歴史が、ちゃんとそのモデルの根拠になった思想や哲学を込みで説明されている。これは進化論の入門書としては非常に素晴らしいと思う。
 科学はとりあえず正しいんだ!って思っている人は、たぶん、この哲学的な底板まで考えないのだろう。何度も言うように、本来、科学的な態度って、これって不思議だな、これって本当なんだろうか?というある意味懐疑的な態度であって、これは絶対に正しい(=間違っている)!みたいなアジェンダにはなりえないものだ。大体、進化論はおろか、核物理学もバイオテクノロジーも進化論も百年前後の歴史しかない。厳密には60年くらいなんじゃないか。科学の検証に時間がかかるというならこれは怪しいわけで。

 しかし、ある立場に立って研究するためには、そのモチベーションが必要だから、あえて自分が支持する立場をアジェンダ化するっていうのは、科学の研究もクリエイティブな活動である以上必要なんだろうけれど。そういった事情は共感できる。作家も自分が書いているものを絶対的に面白いって信じられないと書く気にならないしさ。
 だから、これ、生物学の本っていうよりは、科学哲学の本に近い。そう言う意味でレンジの広いアクロバティックな論考の本だと思う。(特にエピローグの「科学の挑戦」は「科学は錯覚である」という素晴らしい名言も飛び出し秀逸!)
 
 ほんで、本題の構造主義進化論。冒頭でネオダーウィニズム(=ダーウィン+メンデル)の不十分な点を指摘し、なんと本全体の5分の4が過ぎた時に初めて登場するんだけど(^_^;)、本人も言っているように、これは今の時点ではひとつのユニークな考え方に過ぎない。
 じゃあ、箸にも棒にも引っかからない、荒唐無稽な話なのかといえばそうではない。少なくとも思考実験としてはすごい面白い。それに数値化(モデル化)できなければ正しくないというのは、逆におかしな話だし。快楽を数値化したベンサムの功利主義は科学的に絶対正しいのかっていうとクエスチョンがつくだろう(ただこの人の理屈が下支えになって近代経済学は誕生)。
 それに、このような複雑なアプローチでの研究はコンピューターの発達でかなり進んでいると思う。ちょっと前まではDNA扱うだけでもマシンスペック的にすごかったわけだから。
 ちなみに、この理論自体は87年くらいに池田さんは考えている(当初は安定化中枢説と言っていたが、「似たようなので構造主義進化論っていうのが既にあるよ」って指摘された)。
 分子生物学全盛の80年代にDNA至上主義にケンカを売ったのがすごい。確かに20年時代を先取りした本であることは間違いない(^_^;)

 今後は、解釈系のシステムや、恣意的に構築されたルールの構造を実験科学の文脈でどうやって確認するのか、どこまでできるのかが課題になりそう。
 本書で出てくる、構造主義進化論(進化とは新しいシステムが追加され複雑化すること)における「多元的」っていう言葉は、構造主義の文脈でよく言われる文化多元主義とか相対主義っていう、時にラディカルな均質化というよりは、フラクタルとかの階層構造の意味合いの方がピンと来るな。多層的なシステムになっているというか。
 で、このモデルに一番近いのは、経済学のペティ=クラークの法則とかかもしれない。1次産業を基部にして2次産業、3次産業の順に栄えていくっていう。そしてそれらには優劣関係はない。農業と製造業の、どっちが産業として優れているかは比較しようがないからね。

 あとは表現の問題だよなって気がする。つまり「ネオダーウィニズムは不十分だ!」→よって構造主義的アプローチがそれを補完する・・・と「ネオダーウィニズムは間違っている!」→よって構造主義進化論によって駆逐される・・・だと受ける印象がかなり違う。
 迫力勝ちするのは後者だから、あえて過激な表現にしている感があるけど、こういう表現がカチンと来る人がいて、池田清彦はダーウィニズムを信じていないトンデモ学者だっていう烙印を押されるんだろうな(^_^;)
 実は本書のネオダーウィニズム(いきすぎたDNA一元主義)の欠陥は、ダーウィン進化論の申し子リチャード・ドーキンスも著書でまとめていて、でもそれもダーウィニズムの文脈で説明可能だ!って同じ事実から対極的な結論を導き出しているのが興味深い。
 こういう現象が起きてしまうのも、まずもってダーウィンの進化論(『種の起源』)の表現が曖昧で、親切に読解すればどんなことも予言しているように読めるから(遺伝子浮動とか中立説とか)、こんなんズりいし、反証できないよ!っていうツッコミは、なんか社会現象化したアニメ作品と、その熱心な信者を、アンチが批判している図式と似ている(ダーウィンが用不用説を支持していたところは無視かよ!とかw)。アンチが信者に何を言っても勝てないのと一緒だよねw理屈じゃねえんだ・・・
 ただ、私もダーウィニズムが構造主義生物学も取り込んじゃうような可能性はあるんだよなあw修正ネオダーウィニズムとか・・・構造主義ダーウィニズムとか、多元主義的ダーウィニズムとか・・・うわ、自分で考えててありえそうな気がしてきた!!
  
 構造主義進化論は今のところ思弁の産物にすぎず、論文が書けない。これで論文がどんどん書けるようになると、ネオダーウィニズムは終演するだろうと私は信じている。フォン・ベーアという有名な発生学者によると、生き残った理論は三つの段階をとるという。
 第一に、あまりにもばかげているということでみんなから無視される段階。第二に、みんな「そうかもしれない」と思いつつも、その理論によると論文が書けないし、主流の理論にも合わないので、自分自身が生き残るために無視している段階。第三は、「実は私もずっと昔からそう思っていたのだ」とみんながいう段階。この図式でいえば、構造主義生物学はまだ第二段階である。(164ページ)
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