昭和覚え書き

昭和の概要(1926年~1989年)
すまん、この流れだと、昭和も昭和時代になるんだろうけど、昭和時代という言い方に抵抗がある昭和生まれなのであった。昭和時代って言うと一時代が終わった感があるしね。おそらく平成生まれは抵抗ないんだろうな。だから若い子にとっては、ここらへんの時代が一番盲点で知らなかったりすることが多い。
・・・あ、概要か。日本が戦った最後の戦争(アジア太平洋戦争)の時代。敗戦という経験は、日米関係、沖縄基地問題、日中・日韓関係、歴史認識問題などといった現代の社会問題に大きなジレンマを与えている。ここまで時代が来ると現代に生きる我々も他人事じゃないのだ。ちなみに戦後史については政治経済の記事を参照。

昭和天皇
歴代天皇の中で最も在位期間が長く(昭和は64年まで)、最も長生きをした天皇(87歳)。
メガネがチャームポイントのインテリ派の天皇で、鈴木貫太郎の奥さん(たか)が子どもの頃の教育係を務めている。
国家の命運をかけた総力戦及び敗戦という大変な時期に、現人神として数々の決断をすることになったが、戦後になると焼け野原になった各地を巡幸するなど、国民と積極的に関わり、ウィットに富んだゆる~い返しをする好々爺として愛された。しかしアメリカの大統領で初めて天皇に謁見したフォード大統領は、そのオーラに足の震えが止まらなかったという。
口癖は、高い声で「あ、そう」。尊敬する人物は源義経で、趣味はゴルフ、お気に入りはミッキーマウスの腕時計。

金融恐慌
1927年。昭和になってさっそく起きた恐慌。
高岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣が、東京渡辺銀行が破綻したという誤報を流してしまい、これを知った国民が経営状態の悪い銀行が破綻する前に自分の預金を引き出そうと殺到して起こった。

第1次若槻礼次郎内閣
金融恐慌を沈静化するために総合商社(鈴木商店)に融資を行い、経営難に陥った台湾銀行を救済しようとしたが、この緊急勅令は若槻内閣の協調路線に反対していた枢密院の同意が得られず実現しなかった。
これにより金融恐慌は放置され、責任を取って若槻内閣は退陣した。

田中義一内閣
1927年発足。立憲政友会の田中義一の内閣。
久しぶりに登場したけど、おさらいすると田中義一は日露戦争の時にレーニン同志などと裏工作をした軍人・・・まあ言ってみればスパイ。

田中義一内閣の政策①金融恐慌の沈静化
預金者への支払いを3週間遅らせることができるモラトリアムを各銀行に認めた。
この恐慌によって三井、三菱、住友などの5大銀行に預金の集中が進み、金融界は5大銀行に支配されるようになる。

田中義一内閣の政策②社会主義運動への対応
1928年の総選挙で当選者を出した、社会主義や共産主義といった無産政党は公然と活動を開始、これを受けて田中内閣は共産党員を一斉検挙し、日本労働組合評議会などを解散させた(三・一五事件)。
また同じ年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑または無期刑と引き上げた。道府県警にも特別高等課を設置し、思想犯の取り締りを強化した。
田中内閣は1929年にも大規模な共産党員の検挙を行い(四・一六事件)、これにより日本共産党は大打撃を受けた。

田中義一内閣の政策③中国への強硬政策
蒋介石率いる国民革命軍は北方軍閥(当時の中国で互いに覇権を争っていた軍事勢力のこと)を倒すために各地方の制圧(北伐)に乗り出した。
これに対して、田中内閣は北方軍閥で満州の帝王と呼ばれた張作霖を支援しようと、1927~28年に3回にわたる山東出兵を行った。

張作霖爆殺事件
国民革命軍に敗北した張作霖を、1928年に関東軍の一部が無断で列車ごと爆破してしまった事件。
この事件の真相は国民には明かされず、満州某重大事件と濁した表現で呼ばれた。
ここでいう関東軍とは、関東庁(旧関東都督府)の陸軍部が独立してできた組織。
この関東軍の暴走に田中義一は厳しい処分ができなかったため、昭和天皇は不快感を示し、田中内閣は総辞職した。関東軍はその後、大陸進出の急先鋒となった。
ちなみに、その語感が好きなのかビートたけしさんがよく言いたがる。

浜口雄幸内閣
1929年。立憲民政党で大蔵官僚出身の浜口雄幸の内閣。
立派なヒゲと鋭い眼差しが、まさに百獣の王の風格だったのでライオン宰相と呼ばれ、国民に親しまれた。
裏工作などには頼らない実直な性格の人物で「信念のもとに正道を進まん」と述べ、とにかく正義感が強かった。
ちなみに浜口雄幸はこの時59歳。初の明治生まれの総理大臣だった(それまで江戸生まれだったのか)。

浜口雄幸内閣の政策①金解禁
大蔵省出身の浜口雄幸は、前日銀総裁の井上準之助を、党内の批判をはねのけて大蔵大臣に起用し、緊縮財政によって物価を引き下げるとともに、産業の合理化を図り国際競争力を強化させようとした。
また1930年に、為替相場を安定させるために、輸入品の代金支払いに金の輸出を認める金解禁(=金本位制の復帰)を行なった。

浜口雄幸内閣の政策②昭和恐慌への対応
しかし悲劇は起こった。
金輸出解禁の前年の1929年にニューヨークの株式が暴落、世界的な恐慌が起こり、これにより日本では昭和恐慌が発生、輸出よりも輸入が増え大量の金が国外へ流出、企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大したのである。
一部の失業者は農村に戻ったが、農村でも農作物の価格が暴落、豊作貧乏が起こっていた。
しかも1931年には東北で大凶作が発生(農業恐慌)、食事が十分に取れない欠食児童や、身売りを余儀なくされる女子がたくさん出た。
これに対応すべく、浜口内閣は1931年に重要産業統制法を制定、各種産業部門のカルテルの結成を認めた。
しかし昭和恐慌は収まらなかった。その原因の一つが、金輸出の再禁止を見越した、財閥の円売りとドル買いで(円高時には円を手放して一気にドルを買い、その後円安になった時にドルを円に替えることで、莫大な利益を獲得する)、1930年1月からの半年で2億円以上に当たる金が流出、財閥に対して非難の声が上がった。

浜口雄幸内閣の政策③協調外交の復活
戦争でイギリスやアメリカには絶対勝てないことを知っていた浜口雄幸は、協調路線の幣原喜重郎外務大臣を再起用し、中国への強硬政策を改めさせた。
1930年には中国の関税自主権を条件付きで認める日中関税協定や、各国海軍の補助艦保有率を定め、ワシントン海軍軍縮条約で決められた主力艦建造の禁止をさらにあと5年延長するロンドン海軍軍縮条約に調印した。
ロンドン海軍軍縮条約では、日本が要求していた大型巡洋艦の対米7割保有は認められなかったため、野党の立憲政友会や海軍、右翼は天皇の統帥権の干犯であるとして、海軍の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を結んだ浜口内閣を批判した。

浜口雄幸狙撃事件
1930年。浜口雄幸が東京駅で右翼の青年の凶弾に倒れた事件。
犯人は犯行理由として、浜口雄幸が天皇陛下の統帥権を侵したことを挙げたが、統帥権の干犯がそもそもどういう意味なのかは理解していなかった。そういうもんなんだよな。
その後、重傷を負った浜口総理に代わって、外務大臣の幣原喜重郎が臨時総理を務めたが、立憲政友会の犬養毅に「あんたじゃ話にならない」といなされて大苦戦、これを受けて浜口総理は再び国会に帰ってくるが、その無理がたたって1931年に亡くなってしまった。
百獣の王ライオンですら戦争への道は止められなかったのだ。

血盟団事件
1932年にライオン宰相の相棒のタカ、井上準之助が「一人一殺」を掲げた右翼の過激派血盟団の凶弾に倒れたテロ事件。彼ら血盟団に暗殺された要人には、三井財閥総裁の團琢磨もいた。ちなみに大学で私に美術史を教えてくれた先生は、この人のひ孫に当たる。

滿蒙の危機
1928年の末、張作霖の息子の張学良は、蒋介石の国民政府と合流し、北伐は完了、国民政府は中国をほぼ統一した。
この事態に対し、日本が持つ満州の権益が危ないと感じた関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を自分で爆破しておきながら、中国軍の仕業だとでっち上げるという柳条湖事件を起こし、これを理由に満州各地に進軍を開始した(満州事変)。
これをきっかけに日本では国家主義が高まり、国家による社会主義運動の弾圧は強化、社会主義者は転向(自分の思想を放棄すること)を余儀なくされた。
さらに社会主義や共産主義以外にも、自由主義、民主主義的な思想にも圧力が加えられるようになった。
1933年には自由主義的刑法学説を唱えた瀧川幸辰(たきがわゆきとき)京都大学教授が休職処分になる滝川事件も起きている。

新興財閥
満州事変以後、軍部と結びついて急成長した新しい財閥。
日産コンツェルンや日窒コンツェルン、理研コンツェルンがそれで、軍需や重化学工業の分野で活躍した。

石原莞爾
関東軍作戦参謀。柳条湖事件や満州事変を敢行した、帝国陸軍きってのエリート。
機関銃を飛行機に取り付けるといったアイディアを出すなど極めて頭が切れる上に、上官すら無能だったら罵倒する異端児キャラだった彼は、同僚の東条英機を「憲兵隊しか動かせない意気地なし」「あいつは子どもの頃からバカ(これはホント)」と徹底的に見下したので、1937年から始まった日中戦争では当たり前だけど東条英機と対立、閑職に左遷される。
彼は軍事思想家としても活躍し、『世界最終戦争論』では、やがて東洋最強の大日本帝国と、西洋最強のアメリカ合衆国が、世界最強をかけて決勝戦を行ない、その時には都市が丸ごと消滅する最終兵器が登場するだろうと論じた。まあ実際そんなようなことは起きたけど。ちなみにこのようなハルマゲドンによって戦争そのものが絶滅し、その後は普遍的な世界平和が訪れるとも予言している。できればこっちも実現して欲しい。

第2次若槻礼次郎内閣
1931年。満州事変はよくないぞと不拡大の方針を打ち出したが、満州事変が世論やマスコミの支持を受けていたこともあり、軍部に同調した内務大臣らは若槻総理に造反、閣内不一致となり退陣を余儀なくされた。
実際、軍部は内閣の方針を無視して中国国民党と衝突している(上海事変)。

犬養毅内閣
1931年。立憲政友会の重鎮で(当時77歳)憲政の神様と呼ばれた犬養毅の内閣。
元老の西園寺公望が昭和天皇に、中国との独自のパイプを持つ彼を推薦して実現した。
ちなみに犬養毅は、慶應義塾で福沢諭吉に学んだ元新聞記者で、報道の自由を掲げる彼は、通信大臣時代にNHKを設立している。
また、かつてから満洲国の建国には強く反対しており、あんなものを作ったのは日本の恥と言っていた。ペンが剣よりも強いことを理解していた犬養毅は、自分一人では軍部と戦うのは無理でも国民世論が味方につけば、戦争への道は食い止められると考えていた。しかしその国民は、犬養の予想以上に全体主義や軍国主義に惹かれてしまっていたのであった。

犬養毅内閣の政策①金輸出再禁止
大蔵大臣の高橋是清元総理が断行、円の金兌換を停止(管理通貨制度へ移行)した。
これにより円相場は下落、恐慌下で合理化を進めた諸産業は輸出を拡大、昭和恐慌から脱却するきっかけができた。

犬養毅内閣の政策②中国との直接交渉
孫文と友達だった犬養毅は、関東軍の進撃を抑えて中国と直接交渉を行うことで、各国からの批判をかわそうとした。
しかし中国との交渉中の1932年に関東軍が勝手に満洲を占領、清王朝のラストエンペラーである溥儀を執政(王というよりは首長レベルの役職)にして満州国を作ってしまった。
この一連の行動に対し中国は国際連盟に提訴、アメリカはこの訴えを認めて、満州国の建国宣言を不承認とした。
また国連の理事会は事実関係の確認のために、満州と日中両国にリットン調査団を派遣した。リットンはイギリス人の元インド提督。

五・一五事件
1932年。
帝都暗黒化(東京大停電)を目論んだ海軍の青年将校たちが、警視庁や首相官邸を襲撃した事件。
青年将校たちは、犬養総理暗殺を実行する前に「犬養毅はタヌキ親父でコミュ力がすごいから、論理で丸め込まれる前に撃ち殺すように」と確認し合っていた。
これにより加藤高明内閣以来8年間続いた日本の政党政治は終わりを告げた。

斎藤実内閣(さいとうまことないかく)
1932年。斎藤実は穏健派の海軍の大将で、こちらも元老の西園寺公望が推薦した。
斎藤内閣は、官僚や政党からも閣僚を出す挙国一致内閣だった。
同年9月には、満州とその権益を承認する日満議定書を取り交わした。また同時に出された秘密文書では、満州国の政府に日本人の役人を採用することが決められていた。

国際連盟からの脱退
リットン調査団は、満州国は日本の傀儡政権であるという結論を国連に報告した。
この調査結果を元に、国連は日本に対して満州国の承認を撤回させようとしたが、日本政府は松岡洋右(まつおかようすけ)全権に対し、この撤回要求を拒否させた。
1933年2月、松岡全権は国連の議場を退席、その翌月には正式に国際連盟からの脱退を通告した。こうして2年後の1935年に日本は国際連盟から脱退した。

塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)
1933年5月。
黄河作戦を仕掛けた日本と、北京まで進行されてはたまらないと考えた国民政府との間で結ばれた軍事停戦協定。
これによって満州事変は一応集結、盧溝橋事件まではとりあえず平和が続いた。
塘沽は天津近郊の地名。

岡田啓介内閣
1934年。海軍穏健派の岡田総理は、満州国を溥儀を皇帝とする帝国へ移行させるとともに、満州の経営と開発に着手した。これによって満州国は事実上の日本の植民地になった。
この時(1936年)、関東軍の板垣征四郎と共に満州の開発を行ったのが、昭和の妖怪の岸信介(当時40歳)である。
岡田総理は軍部の圧力に屈する形で、天皇機関説を否定する国体明徴声明を出した。これにより政党政治は大きな理論的支柱を失った。

二・二六事件
1936年。陸軍皇道派(右翼の思想的影響を受けた若手将校を中心にした派閥)に官邸を襲撃された岡田啓介が、東京中を逃げ回った軍事クーデター。
この時殺害された人物には、斎藤実、高橋是清などの元総理大臣や、陸軍統制派の中心人物だった渡辺錠太郎教育総監、岡田総理の義理の弟、また重傷を負った人物には、侍従長の鈴木貫太郎がいる。
さて、1400人ほどの兵を率いた青年将校たちは、国会などの主要機関を4日間にわたって占拠、首都には戒厳令が敷かれて岡田内閣は崩壊したが、この事態に最も強い憤りを覚えたのは、皮肉にも彼らが尊敬する昭和天皇だった。
自分が信頼する人々を次々に殺されてしまった天皇は、陸軍の統制派(財閥や官僚と結びついた東条英機ら幕僚将校が中心の派閥。皇道派と対立していた)に彼らの厳罰を指示、反乱軍として鎮圧させた。これによって、陸軍内では統制派が主導権を握ることになり、軍の権威は向上、対する政治家の権威は失墜した。マスコミも軍部主導の国内改革を盛んに喧伝した。

広田弘毅内閣
1936年。軍の要求を受けて組織された内閣。
1936年にロンドン海軍軍縮条約とワシントン海軍軍縮条約がともに失効し、国際的に孤立した日本政府は、陸海軍の帝国国防方針に基づいて国策の基準を発表した。
国策の基準では、対ソ連戦を想定した北進論(陸軍が主張)と、南洋諸島及び東南アジアへの進出を想定した南進論(海軍が主張)の両方が採用された。
広田内閣は、戦艦大和や武蔵の建造など、大規模な軍備拡張計画を推進しようとしたが、それに反対する政党の批判や、国内改革が不徹底だという軍部の批判を受けて1937年の1月に総辞職をした。
そんな彼は、過激派に戦闘機で自宅を機銃掃射されるほどの平和主義者だったのだが、日独防共協定、日独伊三国防共協定(こちらは近衛内閣外相時代)に調印したことから、戦後、連合軍にA級戦犯にされ、東京裁判で死刑判決を受けてしまった。
ちなみに最愛の女性と恋愛結婚をした、家族を愛するマイホームパパとしても有名。

林銑十郎内閣(はやしせんじゅうろうないかく)
1937年。軍縮で名を上げた総理候補の宇垣一成が、陸軍の支持を得られず組閣することができなかったために陸軍大将の彼に白羽の矢が立った。
大軍拡のための重要産業を育成するために、軍財抱合(軍と財界の連携)を試みたがうまくいかず、短命に終わった。

第1次近衛文麿内閣
1937年。国民や軍部、元老から広く支持を受けた、貴族院議長の近衛文麿の挙国一致内閣。
内閣直属の機関である企画院を設置し、臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法などを制定、軍需産業に資金や輸入資材を集中させた。このような経済統制によって台頭したのが経済官僚だった。
彼らは軍部と結びついて強力な国防国家を建設しようとした。
国家主導の軍需の拡大は、国策に協力する大企業が莫大な利益を上げた一方で、一般人には増税を強いることになった。また浜口内閣が危惧した、多額の赤字国債、紙幣乱発によるインフレーションも発生した。
近衛内閣はさらに、国民精神総動員運動(国家主義と軍国主義を掲げた上で、節約や貯金など国民の戦争への協力を促す)や、国家総動員法(議会の承認なしで戦争に必要な物資や労働力を動員できる)、軍需工業動員法、電力国家管理法なども制定。
国家の戦争遂行のためにはなんでもアリになった。こういうのを全体主義と言い、戦争に否定的な人はみんな共産主義者にされ逮捕されてしまった。
第1次近衛内閣はドイツからソ連、イギリス、フランスを仮想敵国にする軍事同盟を持ちかけられたが態度を保留した。

西安事件
国民政府の張学良が、中国共産党を攻撃したい蒋介石を西安の郊外に監禁した上で、内戦はやめてともに日本と戦おうと中国共産党に持ちかけた事件。
これにより国民党と中国共産党は手を組み、抗日民族統一戦線結成のきっかけができた。

盧溝橋事件
1937年7月。日中戦争の引き金として知られる発砲事件。
日中両軍の衝突は一旦は収まったものの、近衛内閣は軍部の圧力に屈して、兵力を増派、戦線を拡大したので日中戦争が勃発した。当時の日本政府は、この戦争を北支事変とか支那事変と呼び、局地の戦闘扱いにした。
日本軍の戦法ってだいたい宣戦布告なしの奇襲攻撃が多いんだけれど、これは宣戦布告すると“戦争状態”になってしまい、となると中立法をとるアメリカから弾薬が輸入できなくなってしまうからである(アメリカは戦争状態の国に武器を輸出しない立場をとっていた)。

第2次国共合作
9月。国民党と共産党が抗日民族統一戦線の成立を宣言した。
日本軍は国民政府の首都の南京を陥落させたが、国民政府は漢口・重慶と退きながら徹底抗戦をした。いわくつきの南京30万人大虐殺もこの時起きている。
こうして戦況は泥沼化、平沼内閣はドイツの中国駐在大使のトラウトマンに仲介を依頼するなど、和平工作も試みるが、結局失敗、1938年1月の近衛内閣の声明(国民政府は相手とせず)によって和平交渉の可能性を自ら潰してしまった。
さらに11月には「日中戦争の目的は日・満・華が連帯する新しい秩序の建設である」という東亜新秩序声明を出した。この背景にはヨーロッパ各国が危機的状況に陥り、極東地域に構っていられなくなったことが挙げられる。つまり、イギリスが中国への支援の手を緩めたことろで中国へ一気に攻勢をかけようとしたのだ。

汪兆銘(おうちょうめい)
中国国民政府の要人で1940年に日本の傀儡政権の首班になった。
南京に作られたこの新国民政府は弱く、一方の中国国民政府はイギリスやアメリカから援蒋ルートによって援助を受け続け、日本と戦った。

平沼騏一郎内閣
1939年1月。国家総動員法に基づく国民徴用令米穀配給統制法(米の集荷を政府が統制するために一元化した法律)を出した。
東大卒のエリート官僚出身の平沼総理は各方面から受けが悪く、近衛内閣の路線を継承するに終わった。ドイツと手を組む決断を曖昧にしたのも一緒だった。

阿部信行内閣
1939年8月。阿部信行は予備役の陸軍大将。
この頃になると、ついにドイツは隣国ポーランドを侵攻、第二次世界大戦が勃発したが、阿部内閣は第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
一方の陸軍は、アメリカによって日米通商航海条約を破棄されたことをきっかけに、ならば優勢のドイツと手を組み、それを足がかりに南方のアジアの植民地をまとめて開放してしまおうという大東亜共栄圏構想を打ち出した。
それはまあ建前で、本音は南方の資源、戦争に必要な石油やゴムやボーキサイトの獲得が狙いだった。
実際、この頃の国内経済はかなり逼迫しており、「贅沢は敵だ」というスローガンとともに価格等統制令が出されている。
しかしアジア版EU的な大東亜共栄圏の建設は、アメリカやイギリスとの戦争を覚悟することでもあった。

米内光政内閣(よないみつまさないかく)
1940年1月。米内光政は海軍大将。
海軍では良識派として知られ、猛進撃を続けるドイツのヒトラーと日本が手を組むことを憂慮した昭和天皇の推薦を受けて総理になる。
彼もドイツとの軍事同盟締結には消極的で、阿部内閣同様、第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
また、米内内閣の頃には七・七禁令(贅沢禁止令)が出された。これにより宝石や象牙、銀製品といった贅沢品の販売や製造が禁止された。これは戦争によって莫大な利益を得た軍需成金に対する市民の不満を抑える目的があった。

第2次近衛文麿内閣
1940年。
内閣情報局を設置し、出版物、演劇、ラジオ、映画など全てのマスメディアを戦争のプロパガンダに利用した。
また大日本産業報国会を作り、労使一体で国策に協力させた。これによって日本のすべての労働組合は解散させられた。
ドイツ軍は、この年の4月にデンマークとノルウェー、5月にはオランダを奇襲した。
飛行機と戦車を駆使した電撃的な奇襲作戦は強力で、6月にはとうとうフランスのパリが陥落、こうして1940年時点で、ヨーロッパでナチスドイツと戦っていた国はイギリス一国になってしまった。
このような状況の中、第2次近衛内閣はドイツ、イタリア、ソ連との連携を強化する方針を打ち出すと共に、イギリスやアメリカの援蒋ルートを断ち切るために南進を決めた。
1940年9月、日本はドイツに降伏したフランスの植民地のインドシナ北部へ進出(北部仏印進駐)、時を同じくしてアメリカは鉄の対日輸出を禁止するという経済制裁を加えた。
10月には、全国の国民の戦意発揚を掲げる指導的組織である大政翼賛会が発足、翌年になると小学校が国民学校になり国家主義的教育が推進された。
また朝鮮や台湾では、日本語教育や創氏改名をはじめとする皇民化政策が取られ、そのため台湾のお年寄りには日本語が上手にしゃべれる人がいる。

日ソ中立条約
1941年4月。
南進を進めるためには北方が手薄になるため、その安全を確保するために結んだ。
またアメリカを牽制する狙いもあった。なんだかんだ言ってソ連は大国だから。

日米交渉
しかし近衛総理はアメリカとの戦争は絶対に回避しようと日米交渉も開始していた。
しかし1941年6月、イギリスへの上陸を諦めたドイツが(レーダーを用いた対空防衛システムが厄介だった)、独ソ不可侵条約を突如破ってソ連に侵攻、無謀な両面作戦を開始してしまった。これに日ソ中立条約を結んだばかりの日本は態度を決め兼ねた。
そこで天皇も出席する大本営政府連絡会議である御前会議が開かれ、その結果軍部の強い主張のもと北進と南進を同時に進めることが決まった。
しかし近衛総理はまだ日米交渉を続けていた。1941年7月には、強硬派の外交官松岡洋右(国連脱退、日独伊三国同盟、日ソ中立条約などに関与)を除外するために一度総辞職もしている。

第3次近衛文麿内閣
第2次近衛内閣総辞職直後に結成。
1941年7月、日本軍はインドシナの南部に進出(南部仏印進駐)、これに対してアメリカは対日石油輸出の禁止を決定、さらに在米日本資産の凍結と、イギリス、中国、オランダとともにABCD包囲網という経済封鎖を行った。
日本は石油が産出しないので、一時間に400トンもの油を食う軍艦を抱える海軍にとっては重大な死活問題となった。
9月6日の御前会議では、日米交渉の期限を10月上旬にし、交渉失敗の場合は戦争に踏み切ることが決定されたが、10月に入っても日米交渉はなかなか進展せず、総辞職になった。

東条英機内閣
東条英機はもともと陸軍大臣で、このままでは暴走しかねない陸軍参謀本部を何とかするために、内大臣(天皇の補佐)の木戸幸一によって大抜擢された(今までは元老が首相の選任権を握っていたが、最後の元老だった西園寺公望は1940年に亡くなっている)。
日中戦争では、自身の兵団を率いた稲妻作戦で、関東軍始まって以来の猛進撃を実現させカミソリ東条と称えられた。
ちなみに東条英機は自分を褒める部下をとにかく可愛がった。小さい頃から成績が悪かった東条は、努力一筋で総理大臣まで上り詰めたので、色々とコンプレックスがあったのかもしれない。
さて、1941年11月、アメリカのハル国務長官から突きつけられた提案(ハル=ノート)は、中国とインドシナからの無条件撤退、満州国の汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の破棄という、日本を満州事変以前の状態に戻すような内容で、これまでの戦争ですでに10万人の犠牲者を出していた陸軍が飲めるものでは到底なかった。
こうして12月1日の御前会議で、日本は米英開戦を最終決定した。
そして一連の情報はアメリカの暗号解読機によって筒抜けだった。日本はすでに情報戦で敗北していたのである。
昭和天皇から戦争の回避を任された東条総理は無念のあまり泣いたという。

太平洋戦争
1941年12月8日。
日本は日米交渉の打ち切りをアメリカとイギリスに通告し、宣戦布告をした。
しかし、日本海軍はその前日の7日の朝に「ニイタカヤマノボレ」「トラトラトラ」の暗号電文の下、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けていた。
こうして、これまで一貫して戦争反対の立場だったアメリカは「真珠湾を忘れない」を合言葉に日本との戦いを決意した。
ちなみに、アメリカ海軍は日本軍がサイパンを通って南側から攻めてくると思っていたので、空母を南太平洋や大西洋に回していたのだが、なんと南雲司令長官率いる日本軍は択捉島の方から赤城や加賀などの空母6隻で襲ってきたので大パニック。「これは演習ではない」とラウドスピーカーで呼びかけたのも手遅れで、大打撃を受けた(逆に言えばアメリカは大切な空母を守れたとも言えるが)。
アメリカ西海岸に住む12万人以上の日系人は強制収容所に送られた。
日本の言い分としては駐米外交官の不手際によって、日米交渉の打ち切りが真珠湾攻撃までに間に合わなかったそうだが、駆け引きや裏工作が繰り広げられる非常時ということもあって、その真相はわからない(アメリカはすでに情報を傍受していたという話もある)。
なんにせよ、この時に撃破された戦艦アリゾナは今なお真珠湾に沈んでおり、当時のアメリカ人の怒りと悲しみを伝えている。

マレー沖海戦
日本がアメリカに宣戦したことで、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告、これにより戦争は全世界に拡大、日本、ドイツ、イタリアは枢軸国と呼ばれた。
日本は真珠湾攻撃の成功をスタートに、マレー沖海戦では航空機(一式陸上攻撃機)でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズを撃破、大艦巨砲主義(どんどんでかい戦艦を作れば戦争に勝てるという考え方)を終焉させ航空主兵論を台頭させた。
ちなみにこれを境にバトルシップの製造は減っていき、世界で最も巨大な戦艦は大和(64000トン)ということになった。
さらに日本軍は、香港、フィリピン、マレー半島といった欧米の植民地を次々に制圧(解放)し、南太平洋の一円を支配した。

翼賛選挙
このような日本の連戦連勝に日本国民は大熱狂、1942年4月に東条内閣が行った総選挙では、政府の援助を受けた推薦候補が国民の支持を集めて絶対多数を獲得した。
もちろん政府の援助を受けない候補者もいたが、彼らは警察や当局の干渉を受けた。
こうして憲法や議会政治は形骸化、議会は政府の提案に承認を与えるだけの機関に成り下がった。

ミッドウェー海戦
しかし日本軍は、八紘一宇の思想(天皇陛下を中心に世界がひとつになる考え方)や大東亜共栄圏の構想の下、戦線を拡大させすぎてしまう(勝って兜の緒を締めれなかった)。
当然、物資の補給も困難になり、1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカの海軍機動部隊に大敗北を喫した。
これにより日本側は主力空母4隻と、巡洋艦1隻、200機以上の艦載機を失ったが、軍部はこの事実を国民には知らせず、生き残った兵士を隔離した。
これ以降日本の戦況は悪化していく。

ガダルカナル島の戦い
1942年8月。
西太平洋の島であるガダルカナル島をめぐる日本軍とアメリカ軍の戦い。
日本はここに新しい飛行場を作る予定だったのだが、アメリカ軍に占領されてしまい、何が何でも奪還したかった。しかし日本軍は物資の不足と感染症(マラリア)などによって撤退を余儀なくされた。このようにアメリカに補給路を断たれてからの、南方の戦いでは戦死者よりも病気にかかって死ぬ兵士の数の方がずっと多かった。

サイパン島の戦い
1944年6~7月。この敗北により日本の絶対防衛圏の一角が崩壊、この責任を取って東条英機は内閣を総辞職した。その後は小磯国昭内閣ができるが、戦況は悪化する一方だった。

学徒出陣
1943年。戦況の悪化を受けて、文系の大学生や高等専門学校生を徴兵した。

勤労動員
学生や女性たちを軍需工場で働かせた。

学童疎開
陥落したサイパン島から、アメリカ軍の爆撃機が本土に襲来するようになったため、都市から田舎に子どもたちを避難させた。
『窓ぎわのトットちゃん』を思い出します。

総合切符制
戦争が始まり、物資は配給制になったのだが、戦況が悪化すると引換チケットがあっても物資がないという状態にまでなってしまった(もしくは質の悪い食料や衣料を買わされた)。この時の人々の摂取カロリーは1日あたり1793キロカロリー、第二次大戦に参戦した国の中でも極めて低かった。

ヤルタ会談
1945年2月。ヤルタとはクリミア半島にある都市。
連合国側のアメリカ、イギリス、ソ連が、ナチス政権の根絶など戦後処理を話し合った。
日本との戦争を早く終らせたいアメリカは、ソ連に対日参戦を要求、その代わりに千島列島と南樺太を日本から返還させることを認めた。
このようにヤルタ会談とは勝ち組三カ国の利害関係を調整する会議だった。

東京大空襲
戦況がどんなに不利になっても、日本は一億総玉砕の根性のもとに、なかなか戦争をやめなかった。
そこでアメリカ軍は日本人の戦意喪失を目的に、軍事施設から一般市民の住む市街地にターゲットを変えて爆撃することにした(ウォルト・ディズニーのアイディアらしい)。
1945年3月の東京大空襲では、300機のB29爆撃機が1700トンの焼夷弾を投下、たった一晩で10万人の人が焼き殺されてしまった。
『ちいちゃんのかげおくり』はおそらくこの出来事を描いた作品。

沖縄戦
1945年。日本軍は鎌倉時代の元寇を撃退した神風にあやかって、特別攻撃隊を組織、パイロットが飛行機ごと敵に突っ込む自爆体当たり攻撃で、なんとかアメリカ軍の沖縄上陸を阻止しようとしたが、3ヶ月に及ぶ攻防の末、ついに1945年の6月に沖縄本島は占領された。この責任を取って小磯内閣は退陣した。

鈴木貫太郎内閣
1945年4月に組閣。天皇の侍従長を務めていた人物で、その信頼は熱く、引退同然だった彼を総理大臣にするために説得したのは、ほかならぬ昭和天皇自身だった。
鈴木総理は「私の屍を越えていけ」と戦争続行を声高に叫んだが、これは軍部向けのポーズで、8月9日に長崎にその人口の半分以上(73000人)を一瞬で消滅させてしまった原子爆弾ファットマンが落とされると、鈴木総理は即座にポツダム宣言の受諾(連合国への無条件降伏)を決定、これに抵抗する軍部に対しては、天皇の聖断を仰ぐという切り札を使った。ちなみにこの時、過激派に暗殺されそうになっている。
暗殺で気づいた人もいるかもしれないけれど、鈴木貫太郎は二・二六事件で3発の銃弾を受けて死にかけた人物で、彼は子どもの頃にも魚釣りに行って溺れたり、海軍時代ではイカリごと海に落ちたりと、とにかく悪運の強い人だった。そのため死にぞこない貫太郎と呼ばれていた。なんにせよ彼が死にぞこなったおかげで、日本の誰もが止められなかった戦争は集結したのであった。

終戦記念日
1945年8月15日。昭和天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に告げた。
国民にとっては天皇陛下のお声を聞くのはこの時が初めてだったので、感無量になったという。しかし厳密には戦争が終わったのはもうちょっと後で、戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印が行われた9月2日が本当に戦争が終わった日である。
太平洋戦争では、日本だけでも230万人もの兵士、80万人もの一般市民が犠牲になった。
第二次世界大戦全体ではなんと4600万人以上の人が亡くなっている(内ユダヤ人が600~1100万人虐殺、国家として最大の犠牲を出したのはソ連で2000万人)。
この悲劇は、たとえ不愉快だろうが、トラウマになろうが、絶対に忘れちゃいけないと思う。

東久邇宮稔彦内閣(ひがしくにのみやなるひこないかく)
1945年8月。ポツダム宣言の受諾と同時に総辞職した鈴木貫太郎内閣に続いて発足。
東久邇宮稔彦は皇族だったが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策と対立し、わずか54日で総辞職。
これは歴代の総理大臣の中で最も在位期間が短い。三谷幸喜のドラマの『総理と呼ばないで』ではこの内閣の記録に負けないように、田村正和総理が頑張った。

幣原喜重郎内閣
1945年10月。
協調外交でアメリカに知られていた元外務大臣の幣原喜重郎の内閣。
GHQの指導のもと、占領政策が実施された。
その占領政策とは設計主義に基づいた福祉国家の建設で、ニューディール政策に関わったスタッフがアメリカでは実現できなかった大きな政府を実現させようとした。
具体的には以下のものがある。
①女性に参政権を与える
②労働組合結成を奨励
③教育制度の自由主義的改革
④秘密警察や治安維持法の廃止
⑤経済の民主化
⑥国家と神道を分離する神道指令
⑦戦犯容疑者にしない代わりの天皇の人間宣言
⑧財閥解体&独占禁止法の制定
⑨自作農を増やす農地改革


マッカーサー三原則
1946年2月。日本政府に新しい憲法草案を作らせたら明治憲法とほとんど変わっていなくて、呆れたGHQのマッカーサー元帥が直々に突きつけた要求。マッカーサーノートとも言う。
①天皇を元首とする
②戦争を放棄する
③封建制度を廃止する

これに基づいてアメリカ主導で草案(マッカーサー草案)が作られ、11月に日本国憲法は公布された(施行は翌年5月3日)。
ちなみに、自民党などは、この日本国憲法を“アメリカの押しつけ憲法”というが、アメリカ側は一枚上手で「だったら日本国民にこの憲法案の是非を問わせる用意がこちらにはある」と持ちかけたらしい。国民がどっちを選ぶかは明白でしょう?という。

 さて、古代からふりかえってきた日本の歴史もこれでおしまい。いや~長かった。特に古代は漢字の変換すらままならなかったからなあ。
 そして来月にはもっと漢字変換が鬼畜の中国史の試験がやってくるのであったゴゴゴ…
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