『自然を名づける なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』②

 この前の続き。

第6章赤ちゃんと脳に損傷を負った人々の環世界
 環世界センスがないと、人間は客体、外部の世界に“イカリ”を下ろすこともままならないという話。
 だからこそ、生まれたばかりの赤ちゃんも、猛烈な勢いで動物の名前を覚え分類学者の修行をする。もはや、これは本能といっても差し支えないくらいに。

 幼子はなぜ、ほんの数種類のイヌを見ただけで、どうやってチワワからグレートピレニーズまでが含まれる「イヌ」のカテゴリーを――ときには完璧に――把握するのだろう。なぜ、ネコ、テーブル、這っている人といった他の四つ足のものを、イヌと誤認しないのだろう。大人が「イヌ」と言って指さしたとき、それが意味するのがイヌの立てる音や、イヌの体の一部、あるいはイヌがいる場所のことだとなぜ誤解しないのだろう。同じく毛で覆われた、人間に馴れている四つ足の雄牛がイヌではないと、なぜわかるのだろう。そしてなぜ、そのイヌが足をすべて失っていたとしても、尾を短く切られていても、イヌだとわかるのだろう(194ページ)。

 これ(ほんの一部の事例から全体的な把握をしてしまう)って考えてみればすごい不思議で、ノーム・チョムスキーはこれをプラトンのジレンマと呼んだ。抜群のネーミングセンスである。確かにプラトンのイデア論はこの問題に関する彼なりのアンサーである。

 さて、そんな不思議な能力を持つ赤ちゃんが、さらに成長していくと、お馴染みの“恐竜期”や“ポケモン期”を通過する。
 よく、恐竜オタクでもミリタリーオタクでも、それが好きだって言う割には、恐竜や武器の名前やスペックを丸暗記しているだけで、それらに関係する知識(ミリタリーなら歴史、地政学、政治、経済、社会学、心理学、統計学、物理学など)を総合的に深めようとはしないよなって思ってたんだけど、それはとどのつまり、自分が好きなものを、分類し、命名し、規則どおりに並べることそれ自体が好きなんだっていう。

 恐竜に夢中になっている子どもを見れば誰でもわかるように、子どもたちは、恐竜に対して包括的な関心を寄せるわけではない。彼らが興味を持っているのは、恐竜の形態、行動、名前であり、彼らはその知識によって恐竜の種や属を見分け、分類しようとしているのだ。もし、エリック(※著者の子ども)が、狩猟採集民の世界に生まれていれば、そうした部族の子どもたちと同様に、村の周囲の動植物を分類・命名することを学び、絶滅した巨大な爬虫類に目を向けることはなかっただろう。だが、彼はアメリカの都市部に生まれ育ち、そうした環境にいる子どもの常で、自ら環世界に並べる生物として、おもちゃや絵として頻繁に登場する多種多様な生物、恐竜に焦点を合わせたのだ。

 日本の任天堂が作った仮想生物「ポケットモンスター」は、ボールごとポケットに入れて持ち運びできる小さな生物という設定になっている。映画、フィギュア、ぬいぐるみ、カードなど、ポケモン製品の幅広さには驚かされる。だが、わたしが最も驚いたのは、ほとんどすべての製品が、ポケモンを認識し、分類・命名するのに役立つようにつくられていることだった(190ページ)。

 最近、イギリスで行われた、学童を対象とする研究によると、平均的な八歳児はポケモンをとてもよく識別しており、そのおよそ八〇パーセントを識別できた。しかし、その子どもたちは、イギリスで一般的に見られる生物のことはあまりよく知らず、アナグマ、オークの木、野ウサギの写真を見せても答えられないことが多かった(191ページ)。


 さて、脳に損傷を受けた患者の症例から、どうやら環世界センスは側頭葉にあるらしいことは、ほぼ確定なようなんだけど、興味深いのは、ある患者さんは“生物だけ”分類がさっぱりできず(無生物は区別できる。生物カテゴリー特異性呼称障害と言う)、またある患者さんは“無生物だけ”さっぱり分類ができない(生物は区別できる)ということ。
 どっちも分類という意味では同じなのに、なんで生物か生物じゃないかでここまでくっきり分かれるんだ?って話になるんだけど、どうもこの両者は、分類をする上での“基準”が異なるらしい。
 私たちは、生物は外見、無生物は機能で区別しており、さらに生物の分類は、側頭葉の上側頭溝と側部紡錘状回、無生物の分類は、側頭葉の中側頭回と中央紡錘状回と、両者によって脳の活動する部位も異なっていることも分かっている(が、それ以上のことは未だに研究なう)。

第7章ウォグの遺産
 ウォグとは著者が仮定した、動植物に興味関心がある人間の祖先(類人猿)の名前。ウォグは自然を観察し、生き物を分類することが大好きで、生き物なんか興味ねえよていう類人猿のコブよりも多くの子孫を残すことができた。
 なぜならば、生物を分類して見分けるというのは、とどのつまり、それが食えるか食えないか、食われるか(危険な動物か)食われないか(安全な動物か)という、自然界でサバイバルするうえではとっても重要な判断能力だったからである。
 そして、このような環世界センスはなにもヒトに限ったものではない。ダイアナザル、ベルベットモンキー、アメリカコガラ・・・それどころかアメーバもやっているらしく(彼は単細胞の分類学者である)、そうなってくると、この「ウォグの遺産」は生物誕生の時から受け継がれてきた、すべての生物の生存にとってなくてはならないものだということになってくる。

第8章数値による分類
 生物の分類に数理的な統計学を持ち込んだパイオニア、ロバート・ソーカルの話。
 某超人のごとく、カンザス州にやってきたソーカルは生物に関する知識も、(デビット・ハルに言わせれば)複雑な関係性の中にパターンを認知する直感的能力(すなわちIQ)もなかった。 しかし、そんな門外漢だからこそ、ものさしと鉛筆、パンチカード(コンピュータ)さえあれば、旧来的な直感だよりの手法よりも、合理的かつ正確な分類ができると、分類学者たちにうそぶくことができたのだ。こうしてビール6缶パックを賭けた彼の戦いが始まった。
 同じ頃、ロンドンではピーター・スニースという若い医者が、「クロモバクテリウム」というマレーシアの病原菌を分類、教科書の分類では鞭毛の形(太いのと細いのの2タイプがある)で見分けましょうとか書いてあるのだが、実際に調べてみたところ、同じ細菌でも鞭毛のタイプが相互に素早く変わってしまうことがわかった。

 言ってみれば、細菌のそのときの気分によって分類しているも同然の頼りなさだった(227ページ)。

 なんだよこれ、しっかりしろよ細菌学者って感じだが、スニースは大人でいや!細菌が悪い!こいつらは他の生物と比べて、分類に役立つこれといった特性の差がねえ!と細菌の方に八つ当たりしてみた。

 細菌は人間の持つ環世界センスを容易に呼び起こさない種類の生物なのだ(228ページ)。

 この手の環世界センス(直感)に頼れない生物の分類をどうやったもんだろう。そう思った細菌学者は、とりあえず手当たり次第に特性を選んで、好き放題に分類をしてしまった。これはヤバイ。

 スニースにとって必要だったのはカンザスへの航空券だった。(略)ソーカルはすでにその問題を解いていたからである(229ページ)。

 ソーカルは、ハチの形質を数値コード化して(ここまでは実は従来の分類学者と変わらない)、それらの特性を直感ではなく、数式に当てはめて、近縁関係を並べていった(幸か不幸かソーカルにはハチに関する興味も知識もなかったので直感の働かせようがなかった)。
 全97種の計122形質、11834個の数値は“すべて同列に扱われ”、共通点の数だけ単純にカウントすることで作られた系統樹は、ハチの専門家(上司のミチナー教授)が知識と直感を駆使して作った樹形図とよく似ていたが、若干異なる部分もあった。
 これこそが数量分類学の誕生だった。環世界センスなしでも分類は(直感よりも正確に)出来たのである。

 数量分類学の降臨は単に数字だけの問題ではない。分類学者の生物界とのつきあい方や理解の姿勢が変わってしまったのだ。生きとし生ける物への没入とか感覚の饗宴はもはや分類学と関わりなくなった。いまや、分類学は器具で生き物の尻尾をつまみ上げ、突き放して観察し、レンズを通して冷徹に観察する仕事になったのだ(240ページ)。

 「分類学者はコンピューターに置き換えれば良いとおっしゃりたいのですか?」
 「違いますね。あなた程度だったらそろばんに置き換えれば十分です」(242ページ)


 しかし、この手法にも問題がなかったわけではない。これは、こしさんもよく指摘するんだけど。

 最大の難点は、数量分類学がつくる分類体系は(略)一般的な全体的類似性に基づく分類だった。数量分類学者が導いた樹形図は、最初にコンピューターに入力した数値、すなわち生物の群間に見られる全体的類似と相違の表のみを反映している。ダーウィンが求めてきたものへの回答ではなかったし、それを目指してもいなかった。つまり、数量分類学がつくった樹形図は分類学者にとっての究極目標である生物の進化的類縁関係を解明してはいなかった(244ページ)。

 その他にも(略)大きな問題があった。分類学者ならば誰もが承知しているように、ハチのもつあまたの形質の中から尾部の色彩パターンを選んでコード化するという形質の選択そのものが主観的な作業である。たとえ数値化されていたとしても、研究者が目に見える形質のどれを選び出すかによって大きくバイアスを受ける。観察が難しかったり、思いもよらなかったり、見つからなかったりという理由で、これまで分類学の解析対象になったことがない形質は山ほどあるだろう(245ページ)。


第9章よりよい分類は分子から来たる
 戦後、いよいよヘモグロビンやシトクロムCなどの分子を比較すれば生物を分けられるよという分子生物学が分類学に波乱を巻き起こした。

 分子生物学者は、分類学者に対して、生きものの外見なんか見なくていいし、むしろそうすべきだと主張し、いまや重要なのは目に見えないタンパク質とDNAなのだと面と向かって言い放った(261ページ)。

 その目に見えないタンパク質とDNAが、今まで環世界センスでは“見えていなかった”種――隠蔽種を次々に発見、見た目はそっくりなのに分子上は異なる種のサンショウウオや、サメ、ヘビ、エビ、チョウなどが次々に“発見”、挙げ句の果てには、環世界センスは「界」をまるまる見逃していたというのだ。これぞカール・ウーズが発見した古細菌、メタノコッカス・ジャナスキー!!(この学名キャッチーで覚えやすい。ジャナイ・ジムナスティクスみたくて)

 細菌と古細菌はそれぞれ大きなドメインを保有しているのに、お気に入りの生物たちが全部いっしょくたにせせこましいドメインに入れられているのを見た分類学者たちは唖然として言葉も出なかった。そんな分類体系は話にならない。肉眼では見えないちっぽけな微生物にそれほどの地位を享受するほど重要な違いがあるとはとても思えない(266ページ)。

 一九八〇年代半ばになると、分子分類学者と伝統的分類学者は正面衝突の様相を呈するようになった。その手の学会やセミナーは大入り満員で、生命の進化樹の真実は、これまでの定説どおり生物の形や大きさのような物理的性質を調べればわかるのか、それともDNAやタンパク質のような分子データを調べるかわかるのかについて、誰もが声高にときに口汚く言い合っていた(267ページ)。

 “ジェル野郎”(※DNAの塩基配列を調べる際の電気泳動法でゲルを使うから)と侮蔑されて呼ばれていた分子分類学者たちは、なじみのないサンショウウオや誰も知らない原始細菌の分類学を修正するだけにとどまらず、全生物の大分類そのものをやりたい放題に修正した。彼らは自然の秩序そのものを書き換え始めたのだ(274ページ)。

第10章魚類への挽歌
 ついに伝統的な分類学を完全に葬る分岐分類学の登場なんだけど、実はこの学問、ヴィリ・ヘニックという内気で物静かなドイツ人の昆虫学者が考えたんだけど、その後の数量分類学ブームのせいで、彼の『系統体系学理論の基本原理』(来るべき革命のバイブルとなる本である)は20年近くも無視されていたといういきさつがある。
 というのも、さすがジャーマン、彼の本はドイツ語ができる人でも難解で、そこで登場する造語――例えば「共有派形質」などが、どんなものを示す言葉かわかりづらく全然キャッチーじゃなかったのである。
 しかし、ヘニック博士と違って読みやすい本が書ける著者はさすがである。この初心者には苦痛な分岐分類学のメソッドが、284ページのポケモンみたいな可愛い珍生物のクラドグラム(進化の枝分かれ図)によって一発で分かるようになっているので、要チェキだ。

 ヘニックの規則を現実の生物と現実の分類に当てはめようとしたとたん、それが無害であるとはとうてい言えないことが明らかになった。“怒れる分岐学者”と言う前に、このいかれた新手の分類学者たちは、ナンセンスな分類を提唱しては、馬鹿げた変更を要求し始めた。彼らは論理を杓子定規に当てはめては、それから外れる人為的な分類群を追放し始めた。ガも無脊椎動物も魚類もシマウマも実在しない動物群であるという罪状で全て葬り去られた。さらに、鳥類はほんとうは恐竜だとのたまうにいたって、分岐学者のナンセンスは極まった。彼らは自らの分類こそ悟りの境地であって、それ以外のものは天罰を下すしかないと考えた(294ページ)。

 突如として恐竜は絶滅からよみがえった(301ページ)。


 こうして進化分類学VS数量分類学の戦いは、分岐学の参戦で三つ巴の泥沼となった。これにより、眠くなるほど退屈だった分類学者の会合は、TVタックル的なエンターテイメントになったという。

第11章奇妙な場所
 こうして客観的かつ合理的、そして非人間的な科学は、環世界センスという人間の先入観をとっぱらうことに成功した。
 しかし、それは同時に、生物学っていうのはなんか小難しくて専門家に任せとけばいいもんなんでしょう?というイメージも一般人に植え付け、生物や生態系に関する興味関心を著しく後退させた。別に熱帯林がなくなってどれだけの生物が滅んでも、オレたちには関係ないもんね~みたいな。
 そもそも関係があっても、その現状を正確に認識したり、具体的な対応策を講じたり、そのために運動をするなんてことは、素人には到底不可能なのである。なぜならば、プロの生物学者は環世界センスとは別の次元で研究を行なっているからである。
 そもそも思ったんだけど、環世界センスって多分グローバリズムとか、40億年近い進化の過程とか(原子力で出る放射線の半減期とかもそう)、そういうスケールのデカすぎる問題に関しては、歯が立たないんだろうな。人間が少数のコミュニティで、限定的な環境で暮らしていた時には、すごい役に立つ能力だったんだろうけど。
 じゃあ現代において環世界センスは何に役立っているのか?それはショッピングの際のブランドのロゴや、パッケージの判別である。今絶滅の危機に瀕している野生動物の分類にはあまり使っていない。
 しかし、今こそ環世界センスを使って、生物の多様性を認識しよう。だって厳密な科学を使うと、細菌、古細菌、その他の3種類しか生物いなくなっちゃうからな!

第12章科学の向こう側にあるもの
 分類学は、もともと科学ではなかったというまとめ。人が生きるための本能的な欲求だったんだと。
 ちなみにアリおじさんEOウィルソンは、地球上の既知の生物種180万種すべてをエンサイクロペディア(百科事典)にまとめる一大プロジェクトをやっているらしい。まさに博物学2.0!
 あと、著者がとにかく魚が好きっていうのがよ~く伝わる。・・・今度魚の本書けば?w

 ヒトの環世界センスを本気でよみがえらせようとするには、クジラを魚と認識する程度では十分でない。わたしたちはありえないほど馬鹿げた可能性をも許容しなければならない。例えば、地上を駆けまわる巨大なヒクイドリは哺乳類であるとか、ランを親指に見立てるとか、コウモリは鳥であるという分類もありえる(349ページ)。

 ・・・とうとうすごいこと言い出した著者。でもこれくらい言わせてくれよってくらい、今の分類学って窮屈なんだろうな。
 ネットでもたまに分類オタク(分類ポリスでも良い)にイライラさせられるんだけど、キャロルも三中も言ってたけど、そもそも分類なんてもんは、夜空の星を星座に区別するようなもんだからね。そこまで重箱の隅をつついて目くじら立てることないだろっていう。

 つーか分岐分類だってクジラは魚でしょ?ってね。
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