異文化理解覚え書き①

 ・・・これは社会の勉強だと思う。※2017年2回目。

参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』

ハドリアヌスの壁(Hadrian’s Wall)
イギリス版の万里の長城であると共にローマ帝国の国境の最北端でもある。『テルマエ・ロマエ』の市村正親が作った。
もう少し詳しく言うと、グレートブリテン島(ブリタニア)にまで領土を拡大させたローマ帝国が、スコットランドからのケルト人(カレドニア人=スコットランド人)の襲来に備えて建設した。122年に工事が開始。10年の年月をかけて完成した。高さ5メートルの防御壁(リメス)は全長100キロ以上に及び、軍事的な役割がなくなったあとも国境としての役割を果たしていた。
この時期あたりからローマ帝国は領土のスプロール化を懸念して守勢に転じ、国境を脅かすゲルマン民族に頭を悩ませるようになる。
征服戦争は減少し、それによって帝国財政は逼迫し(国境を守る軍隊のコストが略奪した土地や戦利品でまかなえなくなった)、さらに捕虜奴隷の供給は断たれ、奴隷の大量使役を前提とする産業や経営は非効率的だと認識されるに至った(でも忘れて16世紀にまたやり出した※スレイブ・トレード参照)。
さて、ハドリアヌス帝の次の皇帝(マルクス=アウレリウス=アントニウス帝)の時代までを五賢帝時代と言うが、これ以降パクスロマーナは崩壊の道をたどることになる。それを象徴するかのように、ハドリアヌスの壁のさらに北のエリアに142年に建造されたアントニウスの壁(世界遺産認定)は完成後たった20年で放棄されている。

薔薇戦争(The Wars of the Roses)
百年戦争が終わった二年後の1455年から30年にかけて続いた、イギリスの貴族同士の決闘的な内乱。イギリス版応仁の乱という感じで実際時期もほとんど重なる。
薔薇戦争という由来は、イギリスのすべての貴族が赤薔薇をシンボルとするランカスター家、もしくは白薔薇をシンボルとするヨーク家のいずれかに分かれて対立していたことによるもの。
百年戦争終結後、まず王位に就いていたのはランカスター朝のヘンリー6世だったが、彼は精神に異常を来し、王妃マーガレットがランカスター家を切り盛りしていた。
これを好機と見たヨーク家リチャードは王を攻撃、両陣営のあいだで一進一退の攻防が続くが、1460年にリチャードは戦死してしまう。
リチャードの息子エドワードは、キング・メイカーと呼ばれ、王を凌ぐ人気があったとされる有力貴族のウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けて逆襲、ヘンリー6世とマーガレットを追い払い、王位についてエドワード4世になった。
その後、マーガレットは夫をスコットランドに残し、フランスに渡りルイ11世に支援を要請、また、ヨーク家を支援したネヴィルを味方につけ、70年にイングランドに上陸、今度はエドワードがネーデルランドに亡命、再びヘンリー6世が王に復位した。
しかし戦いは終わらず、エドワードがネーデルランドのブルゴーニュ公(※フランスが嫌い)を引き連れて再上陸、国内の貴族と市民の支援を受けてヘンリー6世を逮捕すると、彼をロンドン塔に幽閉した。
こうして泥沼の戦いに勝利したように見えたヨーク家だったが、今度はヨーク家同士で内紛が始まり、シェイクスピアが作品で取り上げたことでも有名な暴君リチャード3世が、エドワード5世(4世の子ども)を処刑し王位を奪うと、その残虐な王に不満を持っていた貴族たちは一斉にランカスター家を支持、これを受けてフランスのブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリーが58年にイギリスに上陸した。
彼はボズワースの戦いでリチャード3世を倒し、新たな王ヘンリー7世として即位、またライバルのヨーク家エリザベスと結婚することで薔薇戦争を終結させ(気を利かせたな)、テューダー朝が始まった。
こうしてイギリスの貴族たちは互いに相打ちし自滅&没落、絶対王政の舞台が整うこととなったのである。

奴隷貿易(Slave Trade)
15世紀の大航海時代と共に始まり、16世紀に本格化、19世紀末まで続いた。
16世紀、いち早く世界の海に漕ぎ出したスペインとポルトガルの二国は西半球を支配、これに抗議する形で後発国のイギリス、オランダ、フランスは海賊をけしかけ私掠行為を働いた。
これらの国はキリスト教の布教よりも、新大陸の金銀財宝やグローバルなビジネスの拠点の獲得をもくろんでいた。
16世紀、西アフリカに多くの拠点を持っていたポルトガルでは、すでにブラジルでアフリカ人の奴隷を使った砂糖の生産が行われた。

17世紀なかばになると、イギリスやフランスなどでアジアから輸入された茶やコーヒーなどがオシャレなブームになり、カリブ海の英仏植民地では砂糖の生産が激増、北アメリカの植民地でもタバコや綿花、藍などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
商品作物の生産は当初は先住民のインディオが使われたが、彼らはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やチフスに免疫がなかった上、重労働を課されたために、たちまち人口が激減、南米のアンデスでは3分の2のインディオが死に、多くの部族が消滅した。

こうしてインディオの代わりとなる労働力が必要になったわけだが、渡航費を免除される代わりにプランテーションで一定期間働く契約をしたヨーロッパ白人(年季奉公人)では労働力としての絶対数が足りず、砂糖のプランテーション農園を中心にアフリカの黒人が奴隷として大量に供給されるようになった。
もともと黒人奴隷はアラブ商人の仲立ちで販売されていたが非常に高額で、ヨーロッパ各国は黒人奴隷を直接現地で確保するため競って西アフリカに拠点を求めたのである。
初めは商品作物の需要増にこたえるための労働力として捕獲された黒人奴隷であったが、いつしか黒人奴隷そのものが取引の対象として利潤を生むことが分かると、ギニア海岸地区にはベニン王国やコンゴ王国など、奥地に住む黒人を白人に売りつけるという黒人国家まで現れ、大西洋の奴隷貿易は一大マーケットとなった。

その中継地点こそがアメリカで、ヨーロッパ諸国はアフリカの黒人国家に武器を売り、その武器で調達させた奴隷を購入し、船に積み込んでアメリカで売り、アメリカの砂糖やタバコを持ち帰るという三角貿易をおこなった。
狭い船内に押し込められた奴隷達は、航海中に多くの者が死に、また奴隷の自殺や反乱が相次いだことから、じゃあ大切な商品である奴隷をもう少し人間的に扱うのかな、と思ったら、奴隷の輸送に保険がかけられる有様だった。
また生きてプランテーションにまで運ばれた奴隷も、異国の気候や重労働に適応できず、多くの奴隷が使い捨ての消耗品にされた。

19世紀に奴隷が廃止されるまでにアフリカから捕獲された黒人奴隷は1000~4000万人にも及び、アフリカ社会に大きな打撃を与える反面、ヨーロッパ各国は莫大な利益を手に入れ、イギリスでは産業革命の元手になった。

英国国教会(The Church of England)
since1534年。
奥さん(キャサリン)と離婚して他の女(アン=ブーリン)と結婚したいが為にヘンリー8世がでっちあげた教会。
ヘンリー8世は、キャサリンとの結婚を無効と考えるケンブリッジ大学教授クランマーをカンタベリ大司教にして、アンとの結婚の合法化をもくろんだが、当然ながら教皇はヘンリー8世を破門、これに対し1534年に国王至上法というオレイズム全開の法律を制定したヘンリー8世は、トマス=モアなどの反対派を処刑し、各地の修道院に圧力を加えることで英国国教会の成立をごり押しした。

英国国教会はプロテスタントに分類されることが多いが、以上のような個人的かつスキャンダラスな事情でカトリックから分裂したため、教義的にはプロテスタントよりはカトリックに近く(ヘンリー8世はもともと反ルター)、また、教会のトップが国王であることも大きな特徴である。ちなみにヘンリー8世はローマ教皇から信仰の擁護者とまで呼ばれていた(破門されたけど)。
次のエドワード6世のころには、カルヴァン派の教義が取り入れられた共通祈祷書(国民全員の祈りの言葉)が英語で書かたことで、脱カトリックがちょっとだけ進み、メアリ1世の時代にはカトリックが復活することになるが、それはまた別の話。

エリザベス1世(Queen Elizabeth I)
テューダー朝最後の女王で、二つ名は処女王(誰とも結婚しなかったため=イギリスと結婚)で、国民にはベスという愛称で親しまれた。
ヘンリー8世が宗教を作ってまで結婚したかった愛人アン=ブーリンの娘である。
しかし、そのヘンリー8世には母アン=ブーリンを処刑され(男子を産まなかったからという理不尽な理由らしい)、また前女王メアリ1世には無実の罪(新教徒を扇動し反乱を起こした疑い)を着せられ、生きては帰れぬロンドン塔へ幽閉されたこともあった。
彼女の最大のライバルは、スコットランド王の父とフランス王族の母という高貴な血統を持ち、熱心なカトリック教徒でもあるメアリ=スチュアートである。彼女はエリザベスの次の王位継承者で、巻き返しを図るイギリス国内のカトリック勢力に担がれ、エリザベス女王暗殺を計画するが失敗、処刑された。
そんな波瀾万丈すぎる人生のエリザベスだが、十分に熟慮を重ね、いざ心に決めたら一心不乱という、やり手の統治者であり、宗教的にも政治的にも混乱していた16世紀のイギリスを、統一法(教義は新教的、制度や儀式は旧教的にして対立を和らげようとした)や、貨幣の改鋳(グレシャムが関わった)、また救貧法(イギリス最初の公的扶助)をおこなうことで立て直し、彼女の治世でイギリスの絶対王政は頂点をむかえた。
さらに、当時のイギリスは対外的にも弱小国で、フランスやスペインなどの大国に常に脅かされていたが、エリザベスはフランシス・ドレイクなどの海賊に私掠許可を与えることで味方に引き入れ、海賊流の荒っぽい戦術でシドニア率いるスペインの無敵艦隊アルマダを退けた。これは当時のヨーロッパ情勢においては驚天動地の大番狂わせだった。
その後は経済力増強のために行ったジェントリ(農村の地主)への独占許可状の乱発や、アイルランド問題にも砕身することになり、日本の戦国時代が終わった1603年に70歳で亡くなった。ちなみに、ちょうどこの時代にシェイクスピアが活躍している。

イングランド内戦(The English Civil War)
清教徒革命の際に勃発した軍事衝突で1642年に始まり、1651年に集結するまで計三回も起きた。この内乱のきっかけは傲慢な国王チャールズ一世が自分の専制政治に逆らう5人の議員を逮捕しようとして、しかも失敗したため。
内戦時の兵隊は槍兵とマスケット銃兵で編成され、槍兵はマスケット銃の弾を込める時間稼ぎをした。戦場で敵味方を区別するために、国王軍はレッド、議会軍はオレンジのたすきを着けていた。

開戦当初は、正式に王から礼状が与えられた百戦錬磨の国王軍が、民兵の集まりに過ぎない議会軍に対して有利に戦争を進めたが、議会派下院議員のオリヴァー・クロムウェル鉄騎隊(アイアンサイド)という鎧を着けた騎兵部隊を作って、マーストン=ムーアの戦いなどで形勢を逆転させた。
鉄騎隊はその後、イギリス初の常備軍となるニューモデル軍に発展する。ニューモデル軍は11の騎兵隊、1の竜騎兵隊(火器を備えた騎兵。使っていた武器であるドラグーンマスケット銃から竜騎兵という)、12の歩兵隊の合計22000人で構成され、ネイズビーの戦いで国王軍を決定的に打ち破り、革命軍の主力部隊としてクロムウェル政権を支えた。
ネイズビーの戦いで敗北した国王軍はチャールズ一世を議会軍に引き渡し、1649年にチャールズ一世は処刑、イギリス最初で唯一の共和制(コモンウェルス)が樹立した(戦争自体は52年のウスターの戦いでチャールズ一世の息子のチャールズ皇太子が大陸に亡命するまで続いた)。

その後、権力を握ったクロムウェルは典型的な独裁政治をおこない、自軍の支持者だった水平派(財産権や参政権の平等を主張する議会派の急進的一派)、国内の王党派やカトリック勢力などを弾圧、穏健的な立憲君主制を唱える長老派(プレスビテリアン)を議会から追放し、自身が率いる独立派(議会派の一派で、長老からの教会の独立を唱える。長老派よりは革新だが、水平派よりは保守)だけで議会を独占した。これをランプ議会という(残党議会という意味)。
こうしてクロムウェルは実質的なイギリスの支配者になったが、にも書いたように58年にインフルエンザであっけなく死んでしまった。その後、王党派と長老派が息を吹き返し結局王政復古、クロムウェルは国賊となり遺体はバラバラにされ、長い間さらし首にされてしまったという。

ロンドン万国博覧会(The Great Exhibition of 1851)
開催期間は5月~10月。
女王の旦那アルバート公がプロモーターとなってしかけた、ヴィクトリア時代のイギリスを象徴する世界最初の万国博覧会。
最大の目玉は当時の最新技術(30万枚のガラス&鉄骨&プレハブ工法)の結晶であるクリスタルパレス(水晶宮)で、いち早く産業革命をなしたイギリスの優れた工業技術は他の国を圧倒し、国内でも大勢の労働者が団体旅行的に集まった。
来場者数は最終的に600万人を超え、当時のイギリスの人口の3分の1に当たる。これを可能にしたのが、印刷出版技術の向上(フライヤー)と鉄道網の整備である。
出典品は、原料・鉱物部門、機械・土木部門、ガラス、陶器などの製品部門などに分けられ(恐竜やドードー鳥もいた)、その巨額の利益によって科学博物館やホールなどの文化施設が建てられた。
ちなみに水晶宮は万博終了後に取り壊される予定だったが、それを惜しむロンドンッ子の声に応えて場所を移転して再建、太陽の塔的に残されることになった。留学時代の福沢諭吉も訪れたと言うが、1936年に火災で焼失してしまった。

ボーア戦争(Boer War)
ダイヤモンド鉱山や金鉱を狙ってボーア人(ボーアとはオランダ語で「農民」という意味で、アフリカのケープ植民地に移住したオランダ人を指す)が建国したオレンジ自由国やトランスヴァール共和国(位置的には現在の南アフリカ共和国に当たる)を、帝国主義的膨張政策に湧くイギリスが強引に併合しようとした大義なき戦争。大英帝国の輝かしい歴史に暗い影をおとすことになった。

第一次ボーア戦争(1880~1881年)
オレンジ自由国で見つかったダイヤモンド鉱山をめぐってイギリスとトランスヴァール共和国が争った戦争。
イギリス軍はトランスヴァール共和国の激しい抵抗にあい、1881年のマジュバ・ヒルの戦いで大敗。併合を諦めプレトリア条約でトランスヴァール共和国を承認することにした。

第二次ボーア戦争(1899~1902年)
ケープ植民地の首相であり企業家のセシル・ローズはトランスヴァール共和国の併合にもう一度チャレンジ、金とダイヤモンドの独占を狙った。
セシル・ローズはトランスヴァールの北にローデシア(現ジンバブエ)を置いて、そこからトランスヴァール内のイギリス人の保護という建前でジェームソンら武装勢力を送り込んだがボーア人民兵によって失敗(ジェームソン事件)。引責辞任した。
この事件でイギリスに危機感を持ったトランスヴァールはオレンジ自由国と同盟を組み、こうして第二次ボーア戦争が始まった。
ボーア民兵のゲリラ戦にイギリスは苦戦、最終的に45万人という兵力を投入すると共に、ゲリラが支配する地域の住民を強制的に収容所に押し込めるという非人道的行為を行ない辛勝、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国のエリアに1910年南アフリカ連邦を建国した。しかしそのイニシアティブは結局イギリスではなくボーア人が握った。なんだったんだろう。

第一次世界大戦(The First World War)
開戦までの流れはこちらを参照。

サラエボ事件
1914年6月28日。オーストラリアのフランツ=フェルディナント大公夫妻が、オーストラリアに併合されたボスニアで暗殺された事件。
事件が起こった場所がボスニアの州都のサラエボだったことからサラエボ事件という。
実行犯はプリンツィプという反ハプスブルク家(=反オーストリア)を掲げるセルビア(サラエボの隣の国)の青年で、橋のたもとから皇太子夫妻をピストルで射殺した。この橋はプリンツィプ橋と呼ばれることになる。
セルビア政府はこの事件と直接関与はしていなかったが、オーストリアはドイツの支援を受けて7月28日にセルビアに宣戦布告。セルビアはオーストリアが戦争を始める大義名分を得るためにでっち上げた事件だと主張したが、結局この事件はヨーロッパの火薬庫に火をつけることになった。
セルビアを支援するロシアが総動員令を発令すると、ドイツはロシアとフランスに宣戦布告、8月4日にドイツはベルギーの中立を無視してそこを通過し北フランスに進撃する。
これを国際法違反だとしたイギリスがドイツに宣戦布告すると、他の列強国も同盟・協商関係にしたがって次々に参戦、全ヨーロッパを巻き込むワールドウォーに発展した。

シュリーフェン計画
西のフランスと東のロシアを同時に相手にしなければならないドイツは、まずは西部戦線でフランスを迅速に片付けて、その後にすぐさま東部戦線のロシアを打ち破り、6週間で戦争を終わらせるという、シュリーフェン計画(シュリーフェン将軍のアイディア)を実行したが、思いの外ロシア軍の動員が迅速で、ドイツ軍は西部戦線に割いていた兵力の一部を東部戦線に回さざるを得なくなった。
これにより東部戦線のタンネンベルクの戦いではヒンデンブルク率いるドイツ軍が勝利したものの、西部戦線のマルヌの戦いで敗北、西部戦線は膠着し、泥沼の塹壕戦に陥った。
また勝利した東部戦線においても国土の広さや厳しい寒さで決着の見通しは立たなかった。
こうして短期間で終わると思われていた戦争は「落ち葉の散るころまでには・・・」「クリスマスまでには・・・」とどんどん延長され、結局4年以上もかかることになる。

挙国一致体制
第一次世界大戦がそこまでの泥沼になるとは思ってもいなかった各国の市民は、開戦当初この戦争を防衛戦争と考えて歓迎、大都市では愛国ムードが漂い、若者は戦争に好奇心を抱きワクワクして軍に入隊した。だが、彼らはロマンを求めた戦場でさんざんな目に遭いロスト・ジェネレーション(迷える世代)などと呼ばれてしまうことになる。
引き金を引くだけで機械的に人間を次々に射殺できる機関銃、そしてその銃弾を避けるために掘られた塹壕にかくれる兵士をいぶり出すための毒ガス兵器の登場(1915年4月のイープルの戦いで初めてドイツ軍が使用)は、戦場を地獄絵図に変え、16年2月~12月までのヴェルダン要塞(ロレーヌ地方ムーズ)の攻防戦はフランスドイツ両軍に70万人の死者を出した。
同年6月、フランス北部のソンムの戦いではイギリス軍の戦車(マークⅠひし形戦車)が史上初めて登場し、西部戦線の塹壕や鉄条網をたたきつぶした。
フランスドイツ両軍は最初の一年で常備したすべての軍需物資を使い果たし、戦争が総力戦&消耗戦の様相を呈すると、経済体制は軍需産業が最優先となり、イギリスでは史上初の徴兵制が取られ、貿易を断たれたドイツ・オーストリア・ロシアでは国民の消費生活が統制されることになった。
こうしていつまでたっても戦争終結のめどすら立たず、国民生活も窮乏すると戦争に対する市民の不満が噴出、国際的反戦運動の動きも出始め、各国政府は更に強力な戦時指導体制を構築しなければならなくなった。
例えばドイツでは1916年8月に“タンネンベルクの英雄”ヒンデンブルクらの軍部独裁体制が成立、一方イギリスではロイド・ジョージが挙国一致内閣の首相に就任し、食糧配給制度などの国家統制を強めた。

戦時秘密外交
戦争が長期化すると両陣営は、どちらにも属さない中立国を自軍に引き入れようと、戦後の領土の配分をあらかじめ約束するような条約を結びだしだ。
その外交交渉は、議会や世論の動向に左右されることを嫌い、秘密裏で行われた。
例えば、開戦当初はドイツ、オーストリアと三国同盟を結び、中立を守っていたイタリアであったが、イギリスなどが未回収のイタリア(トリエステ、チロルなどイタリア人が居住するオーストリア領のこと)の領有をロンドン秘密条約で約束すると、領土問題でオーストリアともめていたイタリアはあっさり寝返り、オーストリアに宣戦布告してしまう。
このように秘密条約を特に乱発したのがイギリスである。イギリスはインドにも戦後の自治を約束して145万人以上のインド人兵士を集めたが、極めつけは以下の3つの秘密条約である。
1915年、オスマン帝国を滅ぼすために西アジアのアラブ人(パレスチナ人)の反乱を企てたイギリスは、アラブ民族運動の指導者フセインとフセイン・マクマホン協定を結ぶ。その内容は戦後、アラブ人の独立国家建設をイギリスが約束するというものだった。
ところが、その翌年の1916年、フランス&ロシアとの間で戦後のオスマン帝国のエリアを分け合うサイクス・ピコ協定(外交官サイクスとピコに由来)が結ばれる。
さらに翌々年の1917年には、ロスチャイルド家などのユダヤ人実業家の資金力が欲しかったイギリスの外相バルフォアが、パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを作ることをシオニストに約束(バルフォア宣言)、これはパレスチナを国際管理地域とするサイクス・ピコ協定と矛盾する内容であり、ぶっちゃけイギリスはオスマン・トルコさえ倒せればどんな勢力と手を結ぼうともよかったのであった。
案の定、戦後このエリアはけっきょく誰が統治するのか揉めに揉め、約束のつじつまが合わせられなくなったイギリスはこの問題を国連に丸投げ。これこそが今に至るパレスチナ問題なのである。

アメリカ合衆国参戦
1917年、膠着する戦争に転機が訪れる。モンロー主義(ヨーロッパのいざこざには首を突っ込まないという考え)を掲げて中立を保ち続けたアメリカ合衆国が参戦したのである。
アメリカ大統領ウィルソンは無併合・無賠償という勝利なき平和をモットーに戦争集結を各国に斡旋、しかし実際にはアメリカは物資や兵器の供給、資金の融資などを通じて連合国との結びつきを強めていた。
また、ドイツ軍はUボート(ウンターゼ・ボートの略)で15年5月にイギリスの客船ルシタニア号を撃沈させており、この乗客には128人のアメリカ人も含まれていたことから、アメリカ世論はアベンジに傾き、民主主義の擁護を掲げて17年4月ドイツに宣戦を布告する。
ロシアのソヴィエト政権が講和交渉をはじめると、ドイツでも帝国議会の多数派が講和を決議、帝政の民主化を求める運動が激化、軍部と保守派は独裁を一層強化することでこれを押さえつけた。フランスにおいても対独強硬論のクレマンソー内閣が設立して挙国一致体制が再構築された。
18年1月、社会主義革命の広がりを恐れたウィルソンは、ソヴィエト政権のレーニンが行った和平案や秘密条約の公表に対抗して、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などの14カ条の平和原則を発表する。
一方のソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和に踏み切り、3月にブレスト=リトフスク条約を結んで戦線から離脱した。これによりドイツは東部戦線の兵力を西部方面に送り込み、終盤の巻き返しを図ったが、補給不足のために進撃は止まってしまった。
9月にはブルガリア、10月にはオスマン帝国、11月にはオーストリアと同盟国陣営は次々と単独休戦を行うと、残されたドイツ軍は戦争の勝利を諦め、議会に政権を委ねることにした。
こうしてドイツ議会はアメリカと休戦交渉に入るが、ここでこれまであまり目立った活躍をしなかったドイツ海軍が突然しゃしゃり出て最後の絶望的出撃を命令すると、かねてより上層部に不満を持っていたドイツの水兵たちは11月3日、キール軍港で蜂起、この反乱は革命となって全国に波及し、首都ベルリンで共和制の設立が宣言される(皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命)。
こうして1918年11月11日にドイツの新共和国政府はコンピエーヌの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終わった。

ヴェルサイユ条約
1919年のパリ講和会議において、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれ、戦争に負けたドイツの処遇が決まった。
これによりドイツは、全植民地を失うとともに、ラインラント地方の非武装化、アルザルロレーヌ地方のフランスへの割譲を約束させられ、さらに潜水艦と空軍の保有を禁止され、極めつけに1320億金マルク(金とちゃんと兌換できるマルクという意味)という巨額の賠償金を支払うという散々な目にあった。
この現在の価値で20兆円くらいする天文学的数字は、これまでの戦争がその損失を敗戦国からの賠償金によって補填することが慣例だったためであるが、もはやこの戦争の損失(特に主戦場のフランスの損失)は賠償金で補えるレベルではなかったのである。
これにより戦時中からインフレが続いていたドイツはさらにハイパーインフレになり(フランスへの借金返済にルール地方を当てたため)、国民の不満が噴出、次の世界大戦への伏線が出来てしまった。
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