英語科教育法覚え書き①

 超五月病。世界の中心で助けてくださいと叫ぶ(ふるい)。毎回、教科の教育法で失速するんだよな(^_^;)

参考文献:伊村元道著『日本の英語教育200年』(※意外と文章がべらんめえで面白い。)

 日本の英語教育にさまざまの問題があるのは事実ですが、それにはそれなりの理由があるのです。目先の現象にばかりとらわれないで、少し歴史を調べてごらんになれば納得できることもあるはずですが、それもしないで世間の人は勝手な熱ばかり吹いているように思われてしかたがありません。(はしがきより)

日本における英語教育の歴史
日本に英語を初めて伝えたのは、江戸時代初期に来日(漂着)したイギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)だとされているが、英語学習そのものは、江戸時代後期のフェートン号事件をきっかけに、幕府が長崎通詞数名に英語の兼習を命じたことが始まりであるとされている。
そのため、蘭学者がオランダの学問を学ぶ為に行なっていた訳読(外国の文章を日本語に翻訳すること)が、日本における英語教育の原型となっている。
そこでは、素読(意味は先送りしてとりあえず声に出して読むこと)が行われていたものの、正確な発音などはあまり重視されていなかった。

このような状況を変えたのが、来日した外国人教師だった。彼らの影響で日本の英語教育は、ネイティブの教師が正しい発音や会話表現を教える正則英語と、日本人教師による訳読中心の変則英語という二つの教授法に分かれることになった。
しかし旧制中学などの多くの日本の学校では、江戸時代から続く精読、訳読、文字言語、書き言葉中心の教授法が採用された。
これは英語による日常会話の習得よりも、まずもって西洋の進んだ学問の内容を理解、吸収することが優先されたためである。
そこでは品詞や文型といった文法から出発して和訳と多少の音読が行われていた。この形態の教授法は、現在の学校の授業でもさほど変わらず続いている。

大正時代になると、イギリスから来日した文部省英語教授顧問ハロルド・パーマーのオーディオ・リンガリズムの影響を受けるようになる。
訳読中心の従来の教授法では、英語をコミュニケーションツールとして用いる能力が十分に育たないという批判があったため、新しい教授法が求められたのである。
日本に英語教授研究所を設立したパーマーは、意味理解だけにとどめず、会話の練習を繰り返すことによって実際に英語を使えるようにすることを目標に掲げ、文章ではなく、まず音声から英語に触れ、さらに授業ではなるべく日本語を使わないオーラル・メソッドを提唱した。
これは外国人教師だけではなく、日本の教師も巻き込んだ実践的な運動だったため、日本の英語教育に大きな影響を与えた。

太平洋戦争時には、英語教育を全廃する中等学校も存在したが(※とはいえ中学校の外国語は必修科目で、英語はドイツ語、フランス語、支那語、マレー語とともに終始選択科目として許可されていた。『日本の英語教育200年』p91)、戦後になると、来日した英語教育委員会顧問のチャールズ・フリーズが再びオーラル・メソッドを展開した。その後56年になると、全国の高等学校の入試に英語が出題されるようになり、英語教師の需要は増加していった。

現在では、視聴覚機器の発達、グローバル化などの影響で、コミュニカティブ・アプローチをはじめとする次世代の教授法が数多く生まれているが、いずれの教授法も、理論や形式よりも、コミュニケーションを重視し、また教師主導から学習者中心へという共通点がある。
具体的な流れとしては、94年に英語運用能力の一層の向上を目的に高等学校の科目でオーラル・コミュニケーションが新設、08年度には小学校で英語教育が実施され、さらに20年には小学3年生から必修化することが決まっている。

学習英和辞典
日本の中学生、高校生を対象とした学習英和辞典は、親切な説明、詳しい語法解説など、アメリカのそれよりもはるかにレベルが高いものである。
日本最初の英和辞典は江戸時代後期に長崎通詞によって作られた『アンゲリア語林大成』と、文久二年に開成所(幕府の洋学教育機関)が出した『英和対訳袖珍(しゅうちん。ポケットサイズという意味)辞書』であるとされるが、前者は単語集の域を出ず、辞書の条件(アクセントや用例、例文の解説など)を満たしているとは言い難いものだった。
『英和対訳袖珍辞書』は、開成所教授方でペリーの通訳も務めた堀達之助が責任編集をした辞書で、わが国初のハードカバーの洋装本である。洋装に必要な紙やレザーの輸入が限られたため200部しか印刷できず、定価の10倍(20両)というプレミアがついた。この辞書の需要は高かったため幕府は再販を刊行し、なんと明治20年までシリーズ化された。
明治時代の代表的な和英辞典が、医師でアメリカ人宣教師だったヘボンの『和英語林集成』である。明治維新の激動期に版を重ねたため、今では国語学の重要な研究資料となっている。この辞書で初登場した言葉には、銀行、郵便、巡査、国会、民権、日曜日、女学校、授業、ペン、ポンプなどがある。

さて、初学者を対象とした、いわゆる学習辞典は、すでに明治18年に『学校用英和辞典』というタイトルの辞書があるが、内容は大人向けの辞書の語数と訳語を減らしただけの縮約版に過ぎなかった。
20世紀に、すみずみまで神経の行き届いた優れた学習英和辞典を送り出したのが、『クラウン』の河村重治郎と、『アンカー』の柴田徹士である。
英語名人という二つ名がある河村が作った『クラウン英和』は、用例中心主義のもと、語数や語義数、注釈をあえて限定し、またほかの辞書がこぞって採用した文型表示や加算・不加算の表示も、語義の流れを妨げる恐れがあるとして採用しなかった。
一方の『アンカー英和辞典』は、きめ細かい語義記述、誤りのない生きた用例、適切な語法解説など、戦後出た様々な辞書の中で最も玄人筋に好評だった辞書である。
主幹の柴田は「今までの英和辞典は見るな」をモットーに、辞書すべてに目を通し、英英辞典をもとに徹底的に手を入れて統一化を図った。
その結果、個々の単語よりも、その単語の文法での機能(統語的側面)を重視した、英作文にも役立つ辞書となった。

ALT
アシスタント・ラングエージ・ティーチャー。外国語指導助手のこと。
昭和61年に自治省が発表した国際交流プロジェクト及び、翌年の語学指導を行う外国青年招致事業(JETプログラム)により、これまで文部省の補助金で実施されていた英語指導助手(MEF)や英国人英語指導教員(BETS)が発展解消し、地方交付金による地方公共団体の単独事業になったもの。
このJETプログラムは、英語教育の振興策というよりは、日本の対米貿易黒字の解消の一環として計画され、海外での広報と募集・選考を外務省が、ALTの活用方法の指導や助言を文部省が担当するという、三省にまたがる国家的プロジェクトだった。これは明治期のお雇い外国人(先進国の学芸・技術・制度を学ぶために官庁や学校に特別待遇で招いた欧米人。ボアソナードやフェノロサなど)に匹敵する規模だった。
また、これまでのMEFは各県に一人か二人しかおらず、そのため学校を巡回訪問していたのに対して、ALTは学校を勤務場所とすることができ(常勤講師)、日本人教師とティーム・ティーチング(TT)という教授形式を取るようになった。これは、教員免許状を持たないALTは教壇に立てないという制度的な事情のほかに、コミュニケーション活動を活性化する役割をALTに期待したいという狙いがあった。
このTTの導入は現場の日本人教師に大きな衝撃を与えた。外国人教師に授業をすべて丸投げするなら簡単だが、一緒に授業をするとなると事前の打ち合わせが必要で、そのための時間も英語力も日本人教師には乏しかったのである。
しかし、全体的には日本人教師もALTも熱心に授業に取り組み、英語の授業における言語活動の確立、日本人教師の英語発話能力の向上など、大きな効果が上がった。また日本と世界の英語教育の接点ができ、日本の英語教育が世界的コンテキストで論じられるようになった。
ちなみにALTの選考は、一次選考が書類審査で、二次選考が提携国の日本大使館で行われる面接である。初年度の倍率はだいたい5倍で(オーストラリアは難関で10倍弱)、給料は月に30万円ほど。

学習指導要領の変遷
文部省が英語教育に関して定めた法規は、戦前では学校令とその施行規則、教授要目があったが、戦後になるとアメリカから教育使節団を迎え、日本政府は彼らの報告書に基づいて教科過程の改正にとりかかった。こうして生まれたものが、学習指導要領である。この名称は、アメリカの教育界の用語(Course of Study=学習過程)を翻訳したものだが、ナショナル・スタンダード・フォー・スクール・カリキュラム(国家基準の学校のカリキュラム)のほうが意味合いは通じやすいだろう。

最初の学習指導要領は1947年(昭和22年)に制定された“試案”で、これをたたき台にして、実際の経験に基づいた意見を現場から本省に送ってもらい、年々改正をしてより良いものにしていきたいという意向があった。そのため法令くささがなく、親しみやすい文章で書かれている。
しかし、そこに掲げられている目標は「英語で考える習慣を作ること」「われわれの心を英語を話す人々の心と同じように働かせる」といったように、戦前のパーマーを思わせる英米一辺倒のものとなっている。授業時数は中学校で週に1~4時間で、高等学校では指定されていない。

続く昭和26年度(1951年)の『中学校・高等学校学習指導要領 外国語科英語編Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ(試案)』では、中央省庁としての権威を捨てた文部省が、サービス機関に徹して、本が手に入りにくかった当時の教師のための参考書として作ったものである。
原本は759ページ全三巻で、史上最大のボリュームの学習指導要領である。
この指導要領は、英語教育がなにに寄与するかを①知的発達、②文化の伝達、③品性の発達、④社会的能力の発達、⑤職業的能力の5項目にまとめている。
授業時数は、中学校で週4~6時間、高校で週5時間である。

占領が終わって文部行政が独立を取り戻すと、学習指導要領から“試案”の文字が消え、学校教育法に基づき法的拘束力を持つようになった。
昭和33年版(1958年)の学習指導要領には実用主義への転換ということで、目標が具体目標に絞られ、このほかに各学年の目標が設定されている。
また高等学校においては「英語A」と「英語B」の2つの科目に分かれた。
授業時数は中1と中2で3時間、中3で3~5時間、高校生では英語Aがそれぞれ3時間で英語Bが5時間である。

昭和44年(1969年)の『中学校学習指導要領』の改訂では、「言語に対する意識を深める」といった3つの柱の総括目標という前置きが追加されただけで、内容はほとんど同じである。
授業時数は中学校で若干増加し、中1で4時間、中2で3~4時間、中3で4時間である。
高等学校においては、授業時数は変わらずに初級英語と英会話が科目として加わり、それぞれ6時間と3時間を高校3年間のどこかで履修する形となっている。

昭和52年版(1977年)では、目標を項目別に分けずに一括提示するようになった。高校の目標も中学校のそれとほぼ同様である。
中学校は一貫して週3時間、高等学校は科目編成が行われ、英語Ⅰ週4時間、英語Ⅱ週4時間、英語ⅡA(英語会話)・B(リーディング)・C(ライティング)が各3時間となった。さらに集中した英語学習を行うコースである英語科が新設された。

平成元年版(1989年)では、新しい学力観や観点別評価の影響から、「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てる」と、目標が態度にまで言及するようになった。
また、今までひとまとめだった「聞く・話す」がリスニング重視で分離独立、高校ではオーラルコミュニケーションが新設された。
授業時数は、中学校が3時間で選択の時間を利用して+1、2時間、高校が英語ⅠとⅡ、リーディング、ライティングが週4時間、オーラルコミュニケーションA・B・Cが各2時間となった。

平成10年版(1998年)からは中・高ともに外国語(英語とは限らない)が必修となり、「実践的コミュニケーション能力」という目新しい表現に象徴されるように、いっそう実用性が重視された。
授業時数は中学では変化がないが、高校では英語Ⅰが3時間に減り、オーラルコミュニケーションⅠが2時間、Ⅱが4時間になった。

最新の学習指導要領が平成24年度(2012年)から施行された平成20年改訂版である。
目標は「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方を働かせ,外国語による聞くこと,読むこと,話すこと,書くことの言語活動を通して,簡単な情報や 考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりするコミュニケーションを図る資質・能力を育成することを目指す。」と、実用的なコミュニケーション能力をかなり重視した内容になっている。
授業時数は、中学において週3コマから4コマに増加された(3割増)。高校においては科目編成がなされ、コミュニケーション英語基礎週2時間、コミュニケーション英語Ⅰ週3時間、コミュニケーション英語Ⅱ・Ⅲ週4時間、英語表現Ⅰ週2時間、英語表現Ⅱ週4時間、英語会話週2時間と、科目数および時数が大幅に増えている。
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