ジュラシック・パーク

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆ 曲☆☆☆☆☆」

 だがカリブの海賊は例え壊れたとしても人間を喰ったりはしないぞ。

 ついに満を持してこの映画の投入。なにしろこの映画って小学校の頃から通算500回以上は見ていて、この映画を語り出したら一冊の本が出来ちゃう危険性があるので、ブログ記事としては敬遠していたのです。
 でも一番好きな映画を語らないわけにはいかないし、インディ・ジョーンズファンで、すっごい楽しそうに『クリスタル・スカルの王国』を語るkenkoさんの記事を読んでたら、自分も語りたくなっちゃった。

 あ~もうなにから喋っていいか分からない!全部好き!一時期最初から最後までセリフ覚えていて、アクション・フィギュアを使って、とおしで映画どおりにジュラシック・パーク(以下JP)ごっこしていましたからね。
 また映画に出てくる弁護士がティラノサウルスに食われるトイレも、工作に強く資金もあるM氏の協力で、映画を一時停止してディティールを確認しながら木の板などで模型を制作。洋式トイレはシルバニア・ファミリーの陶器でできた便器を流用し、あのドリフのコントのような爆笑シーンを再現していました。本当にバカだったよな~。

 ・・・え~とじゃあ、この映画の最初の出会いから話したいと思います。この映画が公開された時私は小学校高学年だったんですが、なんと私JPって映画館に観にいってないんです。驚愕の事実。

 なんて野郎だ!って批判されるのは当然だけど、当時の私は恐竜映画で出来のいいものなんて作れるはずがないってタカをくくって、さらに知り合いの人があまり楽しい映画じゃなかったって言っていたので、「ああ、どうせちゃっちい人形が動くゴーモーションアニメ(当初JPもこの手法で行く予定だった)か、またはゴジラのような着ぐるみか」って感じで観ずに馬鹿にしてスルーしちゃったんです。

 しかも当時はJPの影響で世は恐竜ブーム。基本的にブームになるとアンチになるのがマニアだったりするので、今よりもずっと恐竜に詳しかった小学生の私は、このにわか恐竜ブームが大嫌いで、てめえら庶民に恐竜愛なんてあるわけねえだろ。それに便乗してクオリティの低いだっせえ恐竜グッズを売る連中も気に食わん!と金子節全開。本当に嫌な子ども・・・

 とにかくそれくらい悪態つくほどJP以前の恐竜映画はひどかった。もう怪獣映画と一緒で、ハリーハウゼンのストップモーションアニメの恐竜映画も、あの名作と言われる藤子先生の『のび太の恐竜』もティラノサウルスがゴジラみたくて嫌いだったし(藤子先生が描くティラノサウルスって頭がイボのついたティッシュ箱みたくて、これがまたダサいんだ)、世間の恐竜のイメージが怪獣と混同されているのが我慢ならなかった。

 よくオタク第一世代?の金子隆一さんが、恐竜マニアはまずSFや特撮が好きでゴジラの延長線上で恐竜に興味がむいたって言うけど、あんなの私から言えば恐竜マニアじゃない。
 金子さんが子どもの頃は日本の恐竜事情は最悪で、怪獣図鑑の巻末におまけとして恐竜の紹介ページがあっただけかもしれないけど、でも私は恐竜と怪獣を同列に語るマニアも大嫌いだった。
 怪獣は架空。でも恐竜の魅力は実在した動物と言う点であって、別の文脈で語らなければいけない!って本当に小学生の私は熱く語っていたんだよ。とにかくすごかったんだ。オレ基準の絶対視が。今振り返ると本当に痛々しいよね。
 
 で、結局どの恐竜映画も見ては失望していたんだ。あ~あ・・・って。これじゃ怪獣じゃんって。だから映画などのエンターテイメントに実在した動物としての恐竜を求めちゃいけないんだなって諦めてたから、JPも単なる怪獣映画だと思って観なかったんです。

 で、恐竜ブームはその後あっさり終わって、私とJPは潰れかけのおもちゃ屋で偶然再会する。そのおもちゃ屋は、恐竜ブームで大量入荷した恐竜のおもちゃの売れ残りを格安で売りさばいていたんだけど、そこのワゴンセールにジュラシック・パークのフィギュアがまじっていたんだ。
 その時の衝撃は今でも忘れられない。げええええええ!なんてクオリティなんだ!って。
 今まで日本で売っていたどんな恐竜のおもちゃよりも、それはリアルでカッコ良かった。大体皮膚の質感を出すためにゴムでできているなんて発想がすごい!
 日本のウルトラ怪獣のオモチャなどは基本ソフトビニール製で、ゴムで出来たフィギュア、しかも動いたり吠えたりするギミックが私にはすっごい新鮮だった。アメリカのおもちゃってかっこいいい!って。
 もうあっちのアクションフィギュアって箱からしてかっこいいんだよね。箱から出さずに飾っているコレクターがいるのも分かる。

jpstego.jpg

 ほら、かっこいいでしょ?映画版のJPにステゴサウルスは出ないけど。原作小説には映画のトリケラトプスの役どころとして出るんだけど。でも本当は映画でも核移植室のシーンで冷凍胚のサンプルとして名前だけ出るんだけど。しかもスペルミスでstegasaurusってなってるんだけど。

 ・・・で、こんなかっこいい恐竜が出る映画だったのか!うわ~観ればよかった!って感じでレンタルビデオ屋で借りてみたのが私とJPの最初の出会いだったりする。

 前置きが長かったけど、ここからが本題。JPは本当に恐竜映画として新しかった。それは恐竜をCGで表現したって言うのも確かにある。CGで動物そのものを描写するなんて当時は考えられなかったから。これを観たジョージ・ルーカスは「いいな~!俺もスターウォーズでCGやりたい!」って言ったそうな。
 無論JPのCGは、映画史のエポックメイキングとして充分すごいけど、CG使用はフィル・ティペット担当のゴーモーションアニメからの急な路線変更のため、合計十数分しか使ってないし、JPはシリーズ通してCG以上に「スタン・ウィストンスタジオ」制作の実物大のアニマトロニクスの恐竜を撮影に(本当に苦労して)使っているから、JPの恐竜のリアルさはCGのすごさだけではないんだよね。
 だからJPはCG映画の金字塔である以上に、これまでの恐竜映画の、恐竜のミニチュア模型がぎこちなく動くダサいイメージどころか、一般人の恐竜のイメージすらも変えてしまったところが一番すごいところだと思う。啓蒙しちゃったのだ。

 恐竜って「愚鈍だったから滅びた」って言う進歩主義史観に基づくイメージをなかなか払しょくできなかったんだけど、60年代に群で狩りをする活発な小型肉食恐竜が発掘されて、そこから恐竜は現在の動物と同じく社会性があって、その一部はとても敏捷で鳥のように賢く、爬虫類なのに温血動物だったのかもしれないっていう学説が出てくることになる。
 この一連の恐竜に対する価値観の転換を恐竜ルネサンスって言うらしいんだけど、この恐竜ルネサンスは学会や一部のマニア以外はあまり知られてなくて、未だに一般向けの図鑑はのろまな恐竜像が描かれ続けていた。

 この恐竜ルネサンスをいち早く創作に取り入れたのが、常に時代の半歩先を感じ取るアンテナを持つJPの原作者マイクル・クライトンだ。
 この人は決して恐竜が好きなオタクではない。クライトンは学究精神にあふれた人で、自分の作品のテーマに選んだものは、何年もかけて真面目に先行研究するSF作家なんだ。
 だからクライトンが恐竜を取り上げる時に、未だ一般認知度の低い恐竜ルネサンスをフューチャーするのは当然だった。

 クライトンは、自身の小説に恐竜ルネサンスを代表する、賢い小型肉食竜ドロマエオサウルスの仲間の「ヴェロキラプトル」を登場させ、今まで恐竜の代名詞だったティラノサウルスを凌ぐ大活躍をさせた。
 これがもう怖いのなんのって。今までは「でかくて強力無比だが頭は弱いのが恐竜」って感じで、その代名詞がティラノサウルスのような大きな肉食竜だったんだけど、その恐竜のイメージは本書のヴェロキラプトルでことごとく覆される。
 彼らは小柄ですばしっこく、知能が高く人間の行動すら出しぬいてしまう。誰かが言ってたけど、まったくもって一番たちの悪い現代型の恐怖の象徴なんだ。
 映画でも最も最悪で恐ろしい恐竜としてヴェロキラプトルを置いてくれて(とはいえ映画ではこの演出は一作目だけなんだけど)、それがあの映画の“新しさ”になったんだ。

 思えばJPは“新しさ”にあふれていた映画だった。ついこないだも『アバター』っていう3DCG映画が新しい映画の代名詞だって言われていたけど、正直映像表現以外はすっごい古くさいSF映画だった。特に物語が。
 JPは映像表現(=CG)も新しかったけど、それ以上にJPの恐竜そのものが新しかったし、脚本のテーマ性も新しかったと思う。
 もう新しさを箇条書きするよ。

①恐竜ルネサンスを一般に広めた。

②恐竜を遺伝子工学でクローニングさせた。
 これは80年代のアメリカがバイテクブームだった時代性を取り入れているし、これまであった恐竜時代にタイムスリップするパターンや、現代に恐竜が生き残っている島があるコナン・ドイルの『失われた世界』のパターンとも全く違う、恐竜モノの新しいジャンルとなった。
 また「タイムスリップもの」だとジュラ紀と白亜紀の恐竜を一度に登場させられないという問題がある。これは詳しくない人には瑣末な問題だけど、これを適当にやるとマニアがサーってひいてしまう。
 ジュラ紀と白亜紀って時期によっては一億年近く離れているんだ。つまり戦国時代に人工衛星やミサイルを出すくらい、いやそれ以上にめちゃくちゃな話なんだよ。
 この「タイムスリップもの」を恐竜マニアも納得するように忠実にやったのがNHKのアニメ「恐竜惑星」で、いろんな恐竜に会うために、いちいちいろんな時代と場所に萌ちゃんが行ったり来たりするからすっげえつまらなかった。
 あのアニメは結局「萌え」の語源になっただけで、作品自体は恐竜マニアの支持を取ってエンターテイメントを犠牲にしちゃった様な代物なんだ。
 さてこの問題はJPではまったくスルーできる。JPの恐竜は現代によみがえったクローンなんだから、ティラノサウルスとステゴサウルスが同じ動物園に共存できるんだ!
 まあJPの恐竜は、そのほとんどが白亜紀後期の恐竜だから、そこまで気にしなくても良かったかもしれないけど、地質年代を「マーストリヒト期」とかのレベルまで知っている人にはやっぱり駄目なんだろうな。

③ジュラシック・パークというテーマパークがリアル。
 「恐竜サファリ」って言うアイディアはJP以前にもあった。でも自動車型タイムマシンでジュラ紀に行って野生の恐竜を見て回るとかそんなのだった。
 重要なのは、恐竜をよみがえらせたインジェン社がジュラシックパークを建設した理由がちゃんとあること。
 もともとクライトンは「のび太の恐竜」のように大学生が恐竜の卵を復活させる話を考えていたそうだ。でもその恐竜復活にかかる予算が莫大で、どうしても小説にリアリティがなくなってしまうとその設定を断念した。
 そこでクライトンはベンチャー企業が金もうけのために恐竜を復活させるというアイディアに路線変更。クライトン曰く「これはがんの治療じゃない」・・・つまり恐竜復活にかかった資金をパークの入場料で回収しようとしたわけ。
 クライトンはこのような金もうけしか考えない“公”の意識が欠如した、市場原理主義の暗黒面をこの小説で批判したんだけど、この部分は映画ではかなり薄められていたよね。空気読んだよねスピルバーグ。
 原作ではウォルト・ディズニーのあくどさを「ジュラシック・パーク」の創始者ジョン・ハモンドに重ねて間接的に叩いているんだけど、これってアメリカ文化そのものを批判するようなものだからなあ・・・

 しっかし映画では見事にこの「ジュラシック・パーク」っていうテーマパークを映像化したよね。ロゴマークといい、いちいちカッコいいじゃん。私はこの映画が一番好きなのはここかもしれない。この映画に出てくる架空のテーマパーク「ジュラシックパーク」自体がカッコいいんだよ。
 レストランの横の売店で売っているジュラシックパークのグッズとかやたらリアルじゃん。マグカップとか。ああいう小さなこだわりが映画内世界にリアリティを与えるわけだ。ファンタジーで架空の世界を作るときにこれは基本なんだけど、この映画もハードなSFながらも架空の世界を作るという上では同じだったんだ。いやあすごい!
 
 ・・・と、まあこのように「恐竜ルネサンス」+「クローン技術(数年後本当に実現)」+「テーマパークで飼育されている動物」というファクターが見事に融合してジュラシックパークの恐竜がキャラクタライズされているのだ。
 私はこれ以降恐竜ではなく、このカッチョイイSFを作ったマイクル・クライトンにはまってしまう。新しさってこんなにかっこいいんだ!と。
 いくら恐竜ルネサンスだ!って言っても、太古の生物であることに変わりのない恐竜ですら表現の仕方によってここまでクールでスタイリッシュに描ける。それがすごいと思った。
 
 そして恐竜モノに「複雑系数学」や「スーパーコンピューターによるネットワーク管理」「資本主義、科学主義への警鐘」を盛り込むって言うのがすごすぎ!クライトンさん盛り込み過ぎ!

 また見どころはほかにもたくさん。JPはとにかくキャラがいい!登場人物。アーノルドといい、ネドリーといい、どいつもこいつも立ってやがるw
 基本的にこの映画って孤島に取り残された登場人物が一人ずつ殺されていく、クローズドサークルタイプのミステリー小説に似ているんだけど、そのサスペンスフルな状況とキャラの濃さが巧くマッチしているというか。
 キャラについてはウィキペディアで私が細かく整理してまとめたから、当該記事を見てほしいんだけど、やっぱこの映画で一番いいのはマルカム博士だよね。覚えてないと思うけど、中学校の頃はK氏も同意していたんだ。「田代、マルカムカッコいいよな」って。

 あのニヒルなスタンスはまさに現代人。実際あれからコンピューターがものすごく社会に普及して、マルカムの予言通りに世の中はなったから(マルカムよりもニヒルな東浩紀なんてプロの評論家が登場する始末!)その反面マルカムがJPで言っていた言説に新しさはなくなっちゃったんだけど、それでも彼の意見が科学の本質を突いていたのには変わりがない。

 マルカムは基本的に進歩主義(=科学主義)を批判するから、それはSFそのものを批判していることにもなる。実際今SFが衰退しているのは日本において「科学の進歩がみんなの幸せをもたらすに違いない」という幻想が消滅したから。そんな幻想はウルトラマンの時代、高度成長期で終わってしまった。

 マルカムがかっこいいのは最新の科学(彼は常にコンピューターで複雑系の数理モデルを作成する)にふれながら、その最新の科学にきわめてドライで懐疑的だという点だ。
 最新の科学は科学の限界を突きつけるという。確かにゲーデルの不完全定理もハイゼンベルグ不確定性原理もそうだ。
 そもそも科学の基礎をなす数学自体が人間が勝手に考えた抽象概念にすぎない。数学とはただの了解事項、スポーツのルールと同じ性質のものなんだ。だから数式を解いて正しい答えが出るのは当たり前なんだ。人が考えたルールの上で遊ぶものなんだから。

 そしてマルカムのカオス理論は、一般人のロゴス――理解や感情移入の限界を超えたところにあると思う。だから彼の言説がニヒリズムとしてしか考えられない。
 だが待ってほしい。本来科学と言う学問は「客観的再現性」を重んじる。つまり人間の主観と無関係であるはずだ。
 しかしそれは科学の歴史において全くの虚構だったことも実はすぐに解る。世界の真理の探究という動機自体が宗教と密接に関係していたわけだし、科学の理念はともかく、事実としては科学は人間の為にあったことは間違いないはず。

 ただ、そんな人類のための科学(また科学の発展そのもの)が、いつの間にか科学が人間個人の主観のキャパを超えだした。だからほとんどの人は科学や哲学を嫌う。
 人間は自分たちが数万年しか歴史のないタダのサルだとは思いたくないし、最新の科学理論がつきつける人類の絶滅、地球や太陽、宇宙の死を受け入れられるほど、精神的に強くはない。人はそこまでニヒルには生きれないのだ。
 多くの人はつねに未来はきっとよくなるはずという無根拠な希望がないとやっていけない。だからマルカムは嫌われる。「お前の意見なんてまったくの無意味だ。ニヒリストだ」と。
 
 科学はいまや、何百年もの歴史を持つ信仰になってしまっている。そして、それ以前の中世のシステムがそうであったように、もはやこの世界に適合しなくなりつつある。
 しかし科学は、この世界とどう付き合うか、この世界でどう生きていけばいいのか、判断する助けとなってはくれない。汚染物質を造っても、それを使うなとはいえない。それもこれも、誰にも制御できない科学というものの責任だ。


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