『どのような教育が「よい」教育か』

 記述試験が苦手な世代に送る議論の了解事項。

 苫野一徳さんの『どのような教育が「よい」教育か』を読了。苫野さんは教員経験者ではなく哲学を専門にする学者らしく、タイトル的には具体的な教育方式のメソッドが書かれている感じがするけど、実際は教育哲学の入門書みたいな感じだ。
 端的に言うと、私たちが議論するうえで最低限押さえておくべき了解事項をすっごいページを使って説明したような本。
 普通だったらこんなこと(議論終わればノーコンテスト)当たり前すぎるんだけど、意外と議論が白熱すると感情的になっちゃって我を忘れてしまうことはあるしなあ。
 だから、みんながみんなこの本に書かれているようなこと(=自己了解)が出来たら苦労はないよって話なんだろうけど・・・そのメタな部分の正当性にどれだけの人が納得できるかが、この本の内容が机上の空論か、教育分野のアポリアを解く、地に足付いた実用的なアプローチかどうかの分水嶺になると思う。

 この本ロジックとしてはかなり完璧で付け入る隙はないんだけど、でもさ、理屈では納得できても、人間ってそれだけじゃ動かないからなあ・・・
 まあでも、人間って結局理性や論理でしかうまくつながっていけないっていうのはあるからね。言葉は完璧ではないけれど、民主主義と一緒で暫定的に最も使い勝手がいいのだ。
 私はモラルや道徳こそ客観的なロジックで考えるべきという立場で、たとえばそれと似たような概念で「美」とか「愛」とか「正義」っていうのも、なかなか厄介な怪物じゃない?
 んでそういう魑魅魍魎に対しては、やっぱり抽象的で主観的な観念よりも、論理や言語の力を信じてしまう。芸術作品で世界が平和になったらわけはねえ、実際に世界を平和にするのは国際会議だ。ヴォーパルの剣は結局、教条主義やパターナリズムという呪いに感染しやすい反面、切れ味抜群なのだ。
 あとは、だから、時と場合によるというか。そこを嗅ぎ分ける嗅覚というかデリカシーみたいなものが一番大切なんだよね。そこらへんはモテメンに聞いてよ。

 ・・・とはいえ、なんだかんだ言って私と苫野さんって実は批判のスタンスみたいなものが結構似ているような気がする。

 行き過ぎた価値相対主義(≒ポストモダン思想)をなんとかするために現象学的なアプローチやフッサール(間主観性)やヘーゲル(弁証法)を利用するっていうのは王道ですね!それとハイデッガーのペットボトルの水の話はJJギブソンのアフォーダンスの理屈に近い。(ツイッター)

 ・・・と、こんな感じで、このブログを読んでくれている人は、田代がよくやるお決まりのロジックだなあって思ってくれると思う。
 それも、そのはず、なんと苫野さんと私たいして年齢が違わない。だから世代的に同じものを見て育ち(グリッドマンか)、上の世代の論争に同じようなものを感じ取ったのだろう
 ・・・って冷静でいられんよ!自分と同い年の学者が出てきて、さらに本を出しているという現実がすげ~ショック!
 確かに、本書でロールズとサンデルの論争に大岡裁きをする感じは、私なんかがグールドとドーキンスの論争に対して思ったことと似てるしね。
 ただこういった余計なおせっかいを書いちゃうってのが、私も苫野もまだまだ青いというか・・・(苫野を同族にするな

 だから、本書で出てくる「問い方のマジック」(=どちらが正しいか、と問われると、人は思わず、どちらかが正しいのではないかと思ってしまう現象)に関しては、プロの学者さんらは、ちゃんとその点も踏まえているであろう点に注意。
 サンデル教授とロールズの、いわゆるリベラルコミュタリアン論争にしても、苫野さんもそこまでナイーブな議論じゃなかったよとエクスキューズ入れてたしね(実際サンデルとロールズはライバルでもあり友人)。
 つまり、著者は何が言いたいかというと、こういう意見の異なる立場の人とうまく付き合っていくことで、自由な社会は成立するってことなんだ。それこそが大体の人が「よい」と納得する教育のステートメントなんじゃないかと、この本は落としどころを付ける。

 だから、まあ、こんな感じで、結構読んでて自分が言ったり考えていることとかぶっている部分は多かったんですが、あっちは学者だけあってソースがしっかりしていて、やっぱそこがプロだなあってw
 例えば、よく教育現場や教員研修で言われる「教育とは教師と生徒の信頼関係が成立して初めて成り立つ」という言説、この引用元ドイツの教育哲学者オットー・フリードリヒ・ボルノーだったっていうのは初めて知ったし、小泉さんの構造改革のレトリック(なんで新自由主義と新保守主義が手を組めたの?)がすごいわかりやすく明示されていて、なるほどこう説明すればいいのかと納得しましたw

 教育の自由化・多様化を謳う新自由主義と、ある種の一元化を謳う新保守主義とは、一見相反する思想的立場のようにも見えるが、両者は次のような発想において手を結ぶことができた。すなわち、たとえ格差が広がっても、あらかじめ教育で連帯意識を備えたある種従順な国民を作っておけば、不満は最小限に抑えられるという発想である。(46ページ)

 これ、すごい分かりやすい説明だよね。これと同じ考察をした専門家の人は、構造改革が話題になった当時も結構いたんだけど、苫野さんはツイッターやってるだけあって、要点を簡潔にするのが上手。
 他にもミシェル・フーコーが論じた国家や社会の「権力化」「刑務所化」という考えが、当時の教育関係者にどれだけの衝撃を与えたかもわかった。
 私もユーストリームの「そうだったのか!いじめ税」(懐かしいな)でフーコーを引用したけど、パノプティコンとかってよくできたSFのネタみたいなもんだと思ってたよ。
 ここら辺は、高校時代の私が教育学に興味を持つきっかけになった小浜逸郎さんも学校論で引用していたところ。元ネタなんだろうな。

 しかし、この本のあまりにシンプルな結論

①人によって多種多様な欲望がある
②でもそれら欲望に共通する点もある=ポストモダン的な過度な相対化に対するアンチテーゼ
③それはどの人も自由でありたいという欲求だ=教育の欲望論的アプローチ
④ならば、個々人の自由を最大化するために教育はあるべきだ=社会の相互承認モデル
⑤よって社会の中で自由に生きる(選択の自由を増やす)ために必要最低限の教養を教えるのが公教育のレゾンデートルである

 を受けて、漫画やアニメの作り手がやるべきことは、やっぱり寓話なんじゃないかなあって気がしてきた。もちろん全てがそうであるべきではないだろうけれど、小中学生にいきなりヘーゲルやルソーはきついじゃんw(※分厚い)
 だから、いくら自由がいいって言っても、他者の自由を無視した自分勝手なわがままをやると、巡り巡って結局は自分の損になるよってことを、子供向けの創作ではしっかり伝えるべきだ。私世代はイソップ童話でそれを学んだけど。今のちびっ子は何なんだろうね。

 ・・・チャギントンなんかね。
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