外国史各論2(西洋史)覚え書き

参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』、中井義明 、佐藤専次、渋谷聡、加藤克夫、小澤 卓也 著『教養のための世界史入門』、まがいまさこ、堀洋子著『いちばんやさしい世界史の本』

古代ゲルマン社会と民族大移動
ゲルマン民族とはケルト人と言語的にも種族的にも異なる、インド=ヨーロッパ系のゲルマン語を喋る民族の総称で、寒冷化などによって現住地のスカンジナビア半島南部、デンマーク、北ドイツから南下し、紀元前200年頃には黒海に達した。
ローマとは紀元前2世紀以降接触、交易を行なったり、傭兵になったり、ローマに平和的に移住したりしていた。9年のトイトブルクの森の戦いでゲルマン民族がローマを破ると、ローマとゲルマンの境界はライン川とドナウ川になった。
この時のゲルマン民族の居住地域はゲルマニアと呼ばれ、小部族国家が50あまりあり、一人の王、もしくは数人の首長が支配していた。身分は貴族を含む自由民と奴隷に別れ、重要事項は武装能力のある成年男子の自由民からなる民会で決められた。ゲルマン民族は都市で暮らさず、鬱蒼とした森の中の沼沢池で暮らした。
彼らはケルト民族と違い、特権的な神官身分がなく宗教儀礼は年に3回行われる供儀祭であった。彼らはオーディンやトールといった人間とはかけ離れた形の神を崇め、トールにはヤギ、オーディンには人間が生贄に捧げられた。
2~4世紀にはゲルマン人の小部族国家は戦争や移動によって消滅し、それぞれの部族は離合集散を繰り返しその規模を拡大させていった。
4世紀になると、ゲルマン人は、ゴート族、ヴァンダル族、ランゴバルト人などが含まれる東ゲルマン、フランク人、ザクセン人、バイエルン人などが含まれる西ゲルマン、ノルマン人(後のバイキング)が含まれる北ゲルマンの3つに大きく分類されるようになる。
375年ロシア南部から西へ攻めてきたアジア系騎馬民族のフン族によって黒海の北にあった東ゴート族が征服されると、その西にいた西ゴート族がローマ帝国に移住を求め、ライン川を渡って大挙して押し寄せてきた。これがきっかけになり、諸ゲルマン民族が相次いでローマ帝国領内に侵入、この大移動は6世紀末までの約200年間も続いた。
西ゴート族はローマ帝国にトラキア(バルカン半島東部)への定住を認められたが、反旗を翻しギリシャやイタリア半島に侵入410年ローマ市を略奪した。西ゴート族はその後南ガリアに定住し、王国を築いたが、6世紀初めフランク族に敗れると王国をイベリア半島に移し、トレドを首都とする西ゴート王国を作った。
ヴァンダル族はカルパティア山脈やオーストリア(シュレジエン)から406年ライン川を渡りローマ帝国に侵入、イベリア半島へ進み、429年にジブラルタル海峡を渡って南下、カルタゴを占領して北アフリカと地中海を支配した。
フン族に支配されていた東ゴート族はその支配から脱し、東ローマと手を組んで西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルを493年に破ると、イタリア半島に王国を作った。この東ゴート王国はゲルマン諸王国で指導的な役割を果たした。
これら東ゲルマンが作った国家は部族的な伝統を早くに失い短命で終わったが、西ゲルマンのフランク王国は部族的伝統を維持しつつ、10世紀まで続いた。
ほとんどのゲルマン民族は、キリストを神と同一化しなかったため後に異端とされるアリウス派のキリスト教を信仰していたが、5世紀後半にフランク王国の国王クロヴィスが、カトリックに改宗したことでローマ教会と接近、後のフランス王国の基礎を築き、西ヨーロッパのカトリックの発展につながった。

封建制度
中世ヨーロッパのフランク王国には首都が存在せず、中央行政は王国各地にある王宮で行われた。地方の統治において重要な役割を果たしたのが、俗人貴族から選ばれた伯(グラーフ)と呼ばれる地方官で、彼らは王の勅令の公布、貢祖の徴収、軍隊の召集、裁判の主催など地方行政を担当した。
メロヴィング朝末期~カロリング朝にかけてフランク王国は国内で独立しかけていたバイエルン、アキテーヌ、プロヴァンスなどや、近隣のフリーゼン人、ザクセン人、さらに進入してきたイスラーム勢力に対抗するため、高速で各地を転戦できる軍事力の増強を必要とした。その結果多数の騎兵が創設され、宮宰カール・マルテルは騎兵の装備に必要な土地を家臣に恩貸地として給付した。
これはやがて慣習化し、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代には国家的制度としてフランク王国全体に普及した。家臣が主君から恩貸地を受ける代わりに、軍事的な忠誠を誓う、この制度は封建制(レーエン制)と呼ばれ、大量に創出された騎兵の家臣団は、カール大帝の時代における連年の征服戦争を可能にした。
またこの時代には古典荘園制という農業経営組織が出現した。その特徴は、領地が領主直営地農民保有地に二分され、保有地を持つ農民が週3日直営地を耕作することで(残りの3日は自分の保有地を耕作。日曜日は安息日)、その二つの土地が有機的に結合している点である。
古典荘園制以前は、マンキピアと言う直営地で労働を義務付けられた奴隷に近い非自由民、コロニと呼ばれる領主から土地を借り受けた自由農民の2種類の農民が存在したが、カロリング王権の支配が根付く頃には、マンキピアに保有地を貸与し、コロニを領主への隷属関係に取り込むことで、マンスと呼ばれる経営単位を基準とする農奴身分に統一がされた。
つまり、奴隷的非自由人の社会的地位は上昇し、自由保有民の社会的地位は下降したのである。カール大帝はマンス制を王国全土に広め、安定した貢租と賦役労働を確保し王国の財源をより強固なものとした。
また当時の荘園は自給自足的な現物経済が主流と言われていたがイスラーム世界から銀が流入したことでディナリウス銀貨の鋳造が進み、カロリング朝の農村では貨幣経済が浸透していたようである。

新航路の発見
15世紀末以来の数世紀は大航海時代と呼ばれる。十字軍以来ヨーロッパと東方世界との接触が活発化し、ヴェネチアを中心とするイタリア商業都市の東方貿易は、大きな富と東方の知識をヨーロッパにもたらした。
イスラム世界からは実用化した羅針盤や発達した造船技術などが伝えられ、ヨーロッパの航海術は発展、また、ルネサンスの学術は地理学的な知識を提供した(トスカネリの大地球体説に基づく地図など)。
15~16世紀はオスマン帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広域を支配していたので、従来の東西貿易路はほとんど押さえられていた。そこでヨーロッパは生活必需品だったアジアの香辛料をオスマン帝国を介さず、新しい航路で調達しようと試みた。このような経済的動機の新航路の探検は中央集権化した西欧諸国の王の支援のもと行われた。彼らはアジア諸地域との貿易や植民地の獲得によって一攫千金を狙ったのだった。
新航路開拓を先駆けて始めたのはポルトガルとスペインで、ついでオランダ。その後遅れをとってフランスとイギリスが続いた。
レコンキスタ運動でいち早くイスラームを駆逐し中央集権国家となったポルトガルは、バスコ=ダ=ガマの航海を支援、彼は喜望峰を回りアフリカ経由でインドに到達する。この功績によりポルトガルはアジアに大々的に進出し、香辛料貿易で莫大な富を築いた。
カスティリャ王国とアラゴン王国が合体してできたスペインは、1492年の1月、イスラム勢力最後の拠点グラナダを陥落させレコンキスタを完了。カスティリャ女王イサベルは、このレコンキスタをさらに海外にまで展開する目的で、コロンブスの大西洋横断計画を支援する。コロンブスは当初、太西洋を横断すればインドや中国、日本に到着すると思っていたが、カリブ海の島に上陸し、これをインドと勘違いする。
この新大陸発見によって、スペインはアメリカに進出し、先住民を武力で制圧、ローマ教皇のお墨付きをもらって植民地化を試みるが、これに抗議したポルトガルとのあいだで1494年トルデリシャス条約が結ばれ、南米ブラジルはポルトガル領となった。
ポルトガルに雇われ、ブラジル海岸を調査したアメリゴ=ヴェスプッチは、自身の著書『新世界』で新大陸の発見者とみなされたことから、彼の名が新大陸の名前となった。
実際には、コロンブスの方がアメリゴ=ヴェスプッチよりも早くアメリカには到達したのだが、当のコロンブスは自分が到達した場所はあくまでもインドだと思っており、アメリカが大陸であることを最初に指摘したのは彼だったのだ。
世界一周を初めて達成したのは、スペイン王カルロス一世の支援を受けたマゼランの探検隊だが、マゼラン自身はフィリピンに到達した際に現地の紛争に巻き込まれて死亡している。5隻の船、280人の乗員で旅立ったマゼランの探検隊だったが、祖国に帰ってくる頃には船は1隻、生き残ったものはたったの18人だった。この命懸けの冒険で地球が丸いことが実際に立証された。
アメリカ大陸のスペインの探検事業は次第に征服事業に発展、これはコンキスタドールという勇敢で残虐な男たちによって進められた。彼らはアステカ王国やインカ帝国を滅ぼし、中南米一帯を支配、重労働と殺戮、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などによって先住民を激減させると、新たな労働力として黒人奴隷を連れてきた。
メキシコ、ペルーの征服は莫大な金銀宝石をスペインにもたらし、1545年にはボリビア高地で無尽蔵の銀鉱脈が発見、インディオの強制労働によって安価に採掘された。このように16世紀末までには2万トンにものぼる大量の銀がアメリカからヨーロッパに流れたのである。しかしこの安価な銀によってヨーロッパの経済はインフレとなり、南ドイツの銀山を所有していた富豪や、地中海貿易で活躍した南ヨーロッパの商業資本の没落を早めることになった。

絶対王政
15~18世紀のヨーロッパでは、封建制度の行き詰まりによる領主の没落、十字軍失敗による超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などの諸国家間の覇権争いを通じて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力として主権国家が形成された。当時力をつけつつあった市民階級(ブルジョワ)も単独で政治を動かす力は無かったため、権力は王の一人勝ち状態で、その絶対的権力は王権神授説によって正当化、このような体制を絶対王政という。
絶対王制成立のプロセスには二つの説がある。一つ目が15世紀頃から衰退を始めた領主(貴族)たちが領内の市民や農民に対抗するためその権力を国王に集中させたという説、二つ目が没落した封建勢力と、勃興した市民階級の勢力が拮抗したので、国王がどちらにつくかで物事が決定したという説である。
絶対王政期の国王は、封建貴族より下の市民階級から人材を登用して官僚制度を作り、封建契約で従えていた軍隊に代えて、賃金で雇った常備軍を設置し、近代的な国民国家の統合を試みたが、貴族や聖職者の特権も依然として残っており、国王自らがそれらに依存することもあった。
つまり絶対王政における国王の専制政治は、見かけ上は強力なものに見えたが、現実には危ういバランスの上に立つ、過渡的な性格のものだった。そのため国王は自分の支配権は神によって与えられたという王権神授説によって、自らの統治を正当化する必要があったのである。
絶対王政では官僚制と常備軍のための莫大な財源を確保するため、重商主義という経済政策が採られた。これは金銀こそが富で、これを蓄えることが経済発展であるという考え方であった。重商主義ではとにかく貿易収支の黒字を目指すため、輸出が推進され、逆に輸入は抑制される(貿易差額主義)。この重商主義によって国内産業が保護されたので、資本主義という経済体制の誕生が早まることになった。また、各国は貴金属や商品作物の供給源を海外から確保するために競って植民地を求め、ヨーロッパ各国で重商主義戦争が勃発した。
さらに、絶対王政は治安を維持するため、物価の安定、失業対策、労働環境改善といった多くの社会政策を採用し、国民の生活に介入した。絶対王政が後の福祉国家の先駆だとする見方もあるのはこのためである。こうした政策は資本主義の発達を促進したが、それを阻害する側面も持っていた。

ピューリタン革命
テューダー朝のエリザベス1世が未婚のまま亡くなると、1603年スコットランド王のジェームズ6世がイギリスの王位に即してジェームズ1世となり、スチュアート朝を始めた。これによりイギリスとスコットランドは同君連合になったが、国家自体は別個の王国だった。
ジェームズ1世の即位直後、カルヴァン主義的なプロテスタントであるピューリタン(ピュアな人、浄化する人という意味)が次第に経済的に豊かになるとともに勢力を増やし、イギリス国教会の改革と政治への発言権を求めた。一方のカトリックはメアリ1世の時代への復帰を目指していた。
しかし外国人の王であるということから国内支持基盤がもろかったジェームズ1世は王権神授説を貫き、イギリス国教会主義を徹底、あらゆる種類の非国教徒に弾圧を加えた。
これを受けてカトリック教徒の不満分子は国王暗殺を計画するなど(火薬陰謀事件)、宗教上の対立は政治的対立と密接に結びついて問題は複雑化した。
ジェームズ1世の息子チャールズ1世の時代ではさらに専制を強化、これを受けて1628年議会は、議会の課税承認権や、脱法的な逮捕や投獄をやめさせる権利の請願を提出した。すると王は議会を解散、以後11年議会を開かず専制政治を行った。
チャールズ1世はロード=ストラッフォード体制により、国家と国教会の結びつきを強化し、国民の不評を買い、さらにカルヴァン派の強いスコットランドに国教を強制したことで反乱が勃発、戦費調達のために議会を再び開かざるを得なくなった。
しかし議会は課税を拒否し、国王を厳しく批判し合っため、3週間で議会は解散され、新たな議会を開いたが対立は深刻化、42年議員を逮捕しようとして失敗したチャールズ一世はヨークに逃げてイギリスは内乱状態になった。
この内乱は初めは王党派が有利だったが、やがて議会派で頭角を現したオリヴァー・クロムウェルがピューリタン信仰の鉄騎隊を率いてマーストン=ムーアの戦いで形成を逆転させ、ネイズビーの戦いでついに王党派を破った。
しかし内乱に勝利した議会派内部において独立派と長老派の対立が起きた。クロムウェルは、チャールズ一世と妥協を提案する長老派を議会から追放、処刑し、共和制を打ち立てた。この一連の流れがピューリタン革命と呼ばれる。
国王の処刑後、クロムウェルは新政府の中枢に立って、君主制や上院を廃止して民主化を進める一方、カトリック教徒と王党派の拠点であるアイルランドを征服し、その植民地化のきっかけを作った。
また航海法によるオランダへの中継貿易妨害によって起こった第一次英蘭戦争で海外における威信を強めた。クロムウェルは終身護国卿となって軍事的独裁権を握り、劇場などの娯楽施設を禁じるなど厳格なピューリタリズムを国民に強いたが、58年にインフルエンザをこじらせて病死、跡を継いだリチャードが無力だったため、護国卿政治は崩壊した。

アメリカ独立革命
1620年、信仰の自由を求め北アメリカに移住したイギリスのピューリタンは、過酷な環境で生き抜くためにイギリス本国以上に強い自治意識を抱くようになり、古代アテナイのような市民による直接民主制を発達させた地域もあった。
18世紀前半までには、アメリカ東海岸には13のイギリス植民地が形成され、各植民地には住民代表による議会が設置された。また黒人を中心とする奴隷制度に支えられたプランテーション農業や海上での仲介貿易も発達し、イギリスから自給自足で独立する道を歩んだ。
しかし本国イギリスは海外植民地のさらなる拡大を目論み、アメリカ13植民地に対して支配権を強化したため、自立心のある植民地人の反発を買った。本国による砂糖や紅茶などの自由な交易、印刷物の課税の強制は、植民地の反イギリス的論調を増大させ(代表なくして課税なし)、1773年にはボストン港に停泊した東インド会社の商船を植民地人が襲撃するというボストン茶会事件が起こった。
イギリスはこのような植民地人に対して自治剥奪や軍事的圧力を試みたが、植民地側は第一回大陸会議を開催、13植民地が団結して本国と対峙することを誓った。
この対立は武力衝突を生み、1775年にアメリカ独立戦争に発展、植民地側はジョージ・ワシントンを総司令官に立てイギリス軍と戦い、愛国派のスローガンのもと、ついに独立を果たした。
世界最強と言われた当時のイギリス軍を破った背景にはトマス・ペインのベストセラー『コモン=センス』や、避雷針で有名なフランクリンがこぎつけたフランスからの軍事支援があった。
1776年に出されたアメリカ独立宣言はイギリスの市民革命の影響を受けたジェファーソンたちが起草、特にロックの影響(近代自然法)が強く「自然権(私有財産所有権有り)」「信託による政府の設立(社会契約)」「革命権」などが主張されている。
アメリカの独立はアメリカ革命とも呼ばれる。植民地が本国から自分の権利を守っただけの保守的な行動で真の革命でないとする見方もあるが、アメリカの独立は本国イギリスとの闘争であると同時に、植民地人の間の闘争でもあった。イギリスに忠誠であろうとした植民地人は本国やカナダに移住し、その財産が没収されたことで、植民地の富裕階級の数は相対的に減少、また植民地には本国のような農奴や領主、貴族、特権的教会は存在しなかったことから中流階級が力を伸ばした。
アメリカ革命はイギリス革命、フランス革命とともに市民革命としてまとめられるが、貴族的な地主が主導したイギリスや、広域な階層が参加したフランスとは異なり、アメリカの革命は小農・大地主・地方弁護士などが主体となった革命であった。アメリカ革命によって初めて近代政治思想の生存権、自由権、平等権、社会契約説を基盤とする近代国家の実現が宣言され、その後の近代民主主義思想や国民主義の発展が規定された。その点においてアメリカの独立はフランス革命と並ぶ大きな世界史的意義があった。

産業革命
18世紀後半からイギリスでは、生産活動に機械や動力を導入する工場製機械工業が展開され、これにより革命的に経済や人々の生活といった社会構造が劇的に変化、劣悪な労働環境で働く労働者が激増した。
都市にはスラムが広がり、この対策に当たったトインビーは、貧困、病気、犯罪は「産業革命」の弊害と呼んだ。しかし産業革命は、生産力を高め伝統的社会の貧困を解消する一面もあり、現代型の社会が生まれるきっかけでもあった。
産業革命は農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で工業化とも呼ばれ、これまでの商人や農業経営者に代わって、工業経営者が有力な資本家になる産業資本主義の時代が到来したのである。
工場都市による大量生産は、熟練の技術を持つ職人やギルドを必要とせず、経営者は賃金の安い女性や子どもを大量に雇うことになる。職人への弟子入りがなくなったことで早婚の傾向が早まり、これが激しい人口増加の一員にもなった。
最初の産業革命がイギリスで起こった一つ目の原因は、7年戦争によってフランスを退けたイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したという対外的なものである。イギリスは本国と西アフリカ、カリブ海・北米を結ぶ三角貿易を行っていたが、その際の莫大な収益が産業革命の資金源になるとともに、アフリカへの輸出品には綿布、カリブ海からの輸入品には綿花があったため、奴隷貿易の中心マンチェスター周辺に原材料の綿花を綿布に加工する綿工業が発達したのである。
二つ目の原因が、早くから第二次囲い込みや、ノーフォーク農法(17世紀に開発された冬に家畜用の餌としてカブを栽培する農法)などの新農法の開発が進んでいたイギリスの国内事情である。
農作物の生産量が上がったことと、ジェンナーの種痘法(天然痘の予防接種)など医療が向上したことにより、18世紀中頃から人口が急増、工業化を支える労働力を提供した。
土壌の性質上、農業改良が困難だった西北部では、すでに18世紀中頃までに毛織物業を中心としたマニュファクチュア(工場製手工業)が成立し、工業生産の伝統が築かれていた。
アイルランドでは、同じ面積で小麦の4倍収穫できるジャガイモがアメリカからもたらされ、18世紀末に人口が増加(ロンドンでは「貧民の食品」と敬遠された)、1801年にアイルランドがイギリスに併合されると、職を求めて多くのアイルランド人がイギリスに流入した。
この他、禁欲と勤勉を勧めたプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や、科学革命による自然科学の発達など、知的、精神的な条件も整えられ、決まった時刻で働く近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が生み出された。
時間給の定着は、労働の時間とレジャーの時間の分離をもたらし、労働者はオフにはパブに集まって飲酒を楽しんだが、工場経営者はこのような習慣を非難し、旅行、読書、音楽といった上品な娯楽を強制、対立が起きた。
イギリスにおける産業革命は前述のとおり、綿工業の技術革新から始まる。1733年、ジョン・ケイが毛織物工業のために発明した飛び杼(織物を織るためのローラー)が、綿工業にも転用され、綿布を織る効率が上昇、このため生糸不足が起こり、これを解決するためにジェニー紡績機(ハーグリーヴスが発明)、水力紡績機などが導入。水力紡績機はやがて蒸気機関に接続され、その能率は飛躍的に向上した。
紡績部門の革新は1779年にクロンプトンによって開発されたミュール紡績機(ミュールとはウマとロバの雑種)によって一段落するが、織布部門での機械化は(カートライトの力織機などがあったがものの)、それほど急速には進まなかったので、多くの手織り工が必要とされた。彼らは労働者の参政権(普通選挙)を求めるチャーティスト運動で活動する。
この時代の経済や社会に最も大きな影響を与えたのは、重工業や交通手段の進歩である。18世紀初頭、ダービーによってコークスによる製鉄法が開発され、イギリス国内では枯渇しかけていた木炭から、豊富にある石炭へ工業料燃料が転換した。これに伴い鉄の生産量も増えて、鉄製の機械が普及した。
17世紀ニューメコンによって開発された炭坑用蒸気機関はワットによって改良、炭坑の他、紡績機にも取り付けられた。
価格の割に重い鉄や石炭を運ぶための交通手段も次々に開発され、マンチェスター周辺の運河は石炭の運搬にその力を発揮、1825年にスティーブンソンが試作した蒸気機関車は、急速に全国に普及し、19世紀後半には鉄道技術がイギリスによって重要な輸出品となる(イギリスは1825年に自国の機械の輸出を解禁)。
イギリスの産業革命は1859年前後にはほぼ完成し、1851年にはその発展の成果を海外にアピールするロンドン万国博覧会が開催された。
これはイギリスによる世界支配、パクス=ブリタニカを象徴する式典であったが、やがてドイツとアメリカが相次いで工業化を成し遂げると1870年代にはイギリスは世界の工場としての地位を失った。

ナポレオンの台頭
ナポレオンは『ゴッドファーザー』で有名なコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれ、パリの士官学校に入って軍人になると、フランス革命において王党派の反乱(1795年)を鎮圧したことが評価され1796年にイタリア軍遠征の司令官に任命される。
フランス革命(=国王の処刑)が自分たちの国にも広がるんじゃないかと警戒した周辺諸国は第1回対仏大同盟を結成していたが、ナポ率いるフランス軍はイタリア遠征においてオーストリア軍を撃破。これによりナポは一躍英雄となる(高価な戦利品を革命の混乱で貧しかった祖国にめちゃくちゃ持ち帰った)。
ナポは次に最大最強の敵イギリスを攻略するために、イギリスの植民地貿易の中継地であるエジプトをその支配下に置こうと遠征に出かけた。あと純粋に遺跡を考古学的に探検したかった(古代エジプトの象形文字解読につながったロゼッタストーンはこの時発見)。
しかしアブキール湾の戦いでイギリスに敗れた上、第2回対仏大同盟が結ばれたことを知ったナポは、エジプトに軍隊を残したままフランスへ戻り、ふがいない総裁政府を倒し1799年、自身が独裁体制を取る総統政府を樹立した。フランス革命は一応ここまでとされている。
独裁者となったナポは、1800年に現在の中央銀行であるフランス銀行を設立し、フランスの通貨を統一すると、翌年の1801年にはローマ教皇と和解、フランス革命では徹底的な政教分離を推し進めていたが、とりあえずカトリックやその他宗教を寛容に認めることにした。現在のフランスでも信者の数はローマ=カトリックが人口の8割を占め最も多いという(でもそんな熱心じゃない)。
1802年、アミアンの和約でイギリスと休戦したナポは、国民投票によって独裁者の夢終身統領になる。
そして1804年にナポレオン法典を制定する。これはフランス革命の思想を定着させるために作られたもので、私有財産の不可侵や契約の自由、家族法などが規定されている。ナポ自身も「自分がしたことで一番歴史に残ると思うのは、40回に及ぶ戦争での勝利ではなく、このナポレオン法典だ」と語っている。実際ナポレオン法典は後の民法の規範になっている。
また、この時ナポレオンはフランス皇帝に即位、これにより第一共和政が終わり第一帝政の時代になる。
皇帝という地位は世襲制なので、これじゃあ民主主義じゃない、なんだったんだフランス革命ってなるんだけど、自由と平等を愛するナポはそこらへんもちゃんと心得ていて、皇帝に即位する際にもやっぱり国民投票を行っている。そして圧倒的大多数の賛成を受けて、“民主主義的に”民主主義的じゃない皇帝になってしまった。ここらへんヒトラー的。
ちなみに音楽家のベートーヴェンは最初はナポの大ファンで「ナポ」というタイトルの曲を作っていたが、調子に乗ったナポが皇帝になると、怒りのあまり楽譜の表紙を破いてタイトルを「英雄」と変更してしまった。
とはいえ、数々の国に戦争を仕掛けたナポレオンは皇帝である前に生粋の軍人だった。1804年には軍隊の携帯食料が腐らないアイディアを一般公募(賞金額12000フラン≒300万円)していて、そこでニコラ・アペールが缶詰の原型となる食料の保存方法(食料を瓶詰めしてコルクで密封)を考案している。

ナポレオン帝国とその崩壊
ナポが皇帝となったことに危機感を抱いた周辺諸国(イギリス、ロシア、オーストリアなど)は第3回対仏大同盟を結成。1805年ナポはイギリス本土に乗り込もうと艦隊を出撃させるが(トラファルガーの海戦)、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗れる。トラファルガーはフランスとイギリスを結ぶドーバー海峡・・・じゃなくて、スペインの方のジブラルタル海峡の方にある岬の名前。
しかしその二ヶ月後のアウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを撃破(アウステルリッツはチェコモラヴィア地方の町)。
ナポレオンは1806年7月ライン同盟を結んで、長いことあった神聖ローマ帝国を滅ぼしてしまう。
さらにプロイセンとロシアとで締結したティルジット条約によって、プロイセンの半分はナポに奪われてしまった。その奪ったエリアにワルシャワ大公国を作りフランスの支配下においた。これは祖国の主権回復を期待してフランスに逃れていたポーランド人の支持をうまいこと利用していたが、ナポが失脚するとたった10年弱であっさりなくなってしまった。
ナポレオンは自分の兄を南イタリアナポリとスペインの王様に、弟をオランダ王にしてイギリス、ロシアを除くヨーロッパ全土を家族経営的に支配してしまった。
自由と平等の精神(と短期間の平和)をヨーロッパ各地にもたらしたナポレオンの大帝国だったが、皮肉にもその精神によってナポレオン支配に抵抗する民族意識が高まることになった。
1808年、まずスペインで反乱が勃発、泥沼のゲリラ戦に発展し(半島戦争)、領土を取られたプロイセンも打倒フランスを目指し立ち上がった。
ちなみにロマン主義の画家のゴヤが描いた(最近では違うという説があるが)進撃の巨人みたいな絵画は、この頃のスペイン人の心情を表現していると言われる。
ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えるために大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出すが、イギリスに穀物を輸出し、イギリスから生活必需品や工業製品を輸入していたロシアが大陸封鎖令を破ったため、ナポレオンは60万もの軍勢でモスクワに遠征する。
しかしロシアはでかい上に寒いので、東に逃げながら焦土作戦を取るロシア軍を追って補給路を絶たれかけたフランス軍は散々な目にあい大失敗。
さらに1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン&オーストリア&ロシアの同盟軍に敗れると、ナポレオンは退位してエルバ島(イタリア半島とコルシカ島のあいだにある小さな島)に島流しにされる。

ナポレオンの百日天下
ナポレオンがいなくなったフランスではルイ16世の弟ルイ18世が王位についてブルボン王朝が復活した。マジでなんだったんだフランス革命。
しかしルイ18世がまた国民に人気がない王様でヨーロッパ情勢はグダグダになった。これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出、ルイ18世はフランスに侵入したナポを捕らえさせようとしたが、そのために派遣した軍もナポレオンに寝返り、ルイ18世はベルギーに国外逃亡、パリに入ったナポレオンは再び皇帝になった。
ちなみにエルバ島時代(1814年5月~15年2月)にナポレオンは最愛の前妻ジョセフィーヌを亡くしている。彼女とは子どもができず、1810年に別の女性(オーストリアハプスブルグ家のマリ=ルイーズ)と策略結婚するために多額の慰謝料(マルメゾンの宮殿含む)を支払って離婚しているが、ナポレオンは生涯彼女を愛し続けていたという。
さて、周辺諸国は、ナポレオン復活しちゃったよと第5回対仏大同盟(数え方によっては7回になる)を結成、1815年イギリスはワーテルローの戦いで敗北し投降してきたナポレオンを、今度はヨーロッパからかなり遠い南太平洋の孤島セントへレナ島に送った。
その島でナポレオンは1821年に生涯を閉じたが、死んだら死んだで、人々はやっぱりナポレオンってすごかったんじゃないかと再評価しだした。これがナポレオン伝説である。
虚栄と野心の独裁者は、善き皇帝、革命を世界に輸出した真の愛国者に姿を変え、1840年イギリスはナポレオンの遺体をパリに移すことを許し、現在ナポレオンはルイ14世が建てた廃兵院のドームに安置されている。

教育の歴史と思想覚え書き

参考文献:田中克佳著『教育史―古代から現代までの西洋と日本を概説』

古代ギリシャにおけるスパルタの教育
スパルタの社会は、支配階級のスパルタ人、田園地帯に住み、常時は自由を与えられていたが戦時中はスパルタ人に従う義務があったペリオイコイ、被征服民の奴隷ヘイロータイの3つの階級で構成されており、市民権のないペリオイコイとヘイロータイをスパルタ人が力で支配する図式であったが、非市民の人口はスパルタ人の人口を10倍以上も上回った。そのためスパルタ人は非市民に対する支配を維持・拡大するために、市民にその全てを国家に捧げることを求める政治と教育を行う必要があった。
スパルタの子どもは長老の評議会で検査を受け、将来の見込みがないと判断されると遺棄され、育てられる場合でも国家の厳しい訓練を受けることになった。
7歳までは家庭で母親の保護を受けるが、それ以降は国家の兵舎に収容されパイドノモスという教育監の監督のもと、身体的訓練、道徳的訓練が行われた。食べ物や衣服は満足に与えられなかったがこれも訓練のうちだった。
18歳になると、武技の訓練や軍事演習など戦争のための専門的な訓練を受け、20歳からの10年間は国境の駐屯地で軍務につき実戦的な訓練を受けた。こうして30歳になると完全な市民権が認められ、一人の市民として国家に奉仕した。
スパルタの教育は屈強な体に鍛えるための体操が中心で、知的訓練はあまり重視されず、必要最低限の読み書きや詩を暗唱させた程度に過ぎなかった。
女子も男子同様国家の兵舎に収容し各種体操を行わせて体を鍛え、丈夫な子どもを産んで育てることを求められた。しかし男子のような軍事訓練は行われなかった。
 
古代ギリシャにおけるアテナイの旧教育
アテナイの教育も奴隷制を経済的基盤とした上で、国家への奉仕精神を市民に求めた点ではスパルタと同様だったが、支配すべき非自由民の割合はスパルタほど高くなく、ソロンの改革以降、民主制が重んじられた為、教育を用いて極端な国家統制を加えることはなかった。
また、アテナイにおいて国家による教育は16歳~20歳までの体育と軍事訓練のみで、教育の責任は基本的には家庭にあるとされた点や、身体の調和的発達を目標に、身体的訓練だけではなく知的訓練も重視した点もスパルタの教育とは異なった。

さて、アテナイではペルシア戦争を境に伝統的思想の批判と新思想への受容が生じ、国家への奉仕を求める旧教育から、個人の利益を第一とする新教育への転換が求められた。これは人間に関心の中心を置く教育思想の誕生でもあった。
紀元前5世紀中頃までのアテナイの旧教育は以下のような過程を経た。
生まれた子どもは親の判断によって検査を受け、場合によっては殺された。
育てられる場合は7歳までは家庭で母親と乳母の保護を受けるが、その後、ディダスカレイオンという音楽学校(ここでの音楽には詩や歴史学、弁論術の歌唱も含まれる)と、パライストラという初頭体操学校(いずれも私学)に通って知的、道徳的、身体を調和的に発達させるための身体的訓練を受けた。
16歳になると、読み書きの教育を一切中止して国立の高等体操学校ギュムナシオンに入り、より高等な体操の訓練を受けるとともに、大人の討論や裁判の傍聴、市場や劇場の出入り、先輩との議論を通して市民になる準備をした。
18歳になると市民にふさわしい道徳と健全な身体をチェックされて、これに通ると、自由民の登録簿に「準市民(エフェベ)」と記入された。
その後2年間国家の官吏の監督のもと軍事訓練を受け20歳になって初めて正式なアテナイ市民と認められた。
このような旧教育は時代が進むにつれ、道徳的訓練や、厳しい身体的訓練の側面が薄れ、知的、文学的なものになっていった。例えば従来では体操と軍事教育がなされていた16~20歳においてすら知的訓練に多くの努力が費やされた。
アテナイの女子は、家庭の中で母親や乳母から読み書き、音楽、裁縫、家事を教わった。日常生活の用に足りる程度以上の高等教育やスパルタのような体操の訓練はなされなかった。

初期教会の教育
中世ヨーロッパを席巻したキリスト教社会では、古代の学問(哲学、文学など)を、キリスト教にとっての異端――そこで得られる教養は現世的な快楽と誘惑をもたらすものと見るか、キリスト教と同じように真理を求める有用なものであると見るかで解釈が割れていた。
特に東ローマ帝国のギリシャ人教父は古代の学問に友好的であり、その研究を奨励したが、4世紀ほどになるとギリシャ哲学はキリスト教にとっての異端な学問という見方が優勢を占め、教会発展を妨げるヘレニズム文化はほとんど消滅、暗黒時代が続くことになる。
キリスト教会は、ギリシャの諸学派に議論で打ち勝つために洗礼志願者問答学校を作り、教会指導者や牧師たちに理論武装を試みた。この学校はやがて、司教管轄教会の牧師の養成機関となり、西ローマ帝国では将来僧職につく児童が通う司教座聖堂学校と呼ばれた。これは後に大学の原型となる。

修道院学校
キリスト教の僧侶には、修道僧在俗僧の2種類のタイプが存在する。
修道僧は特別な誓いを立てて厳格な規則に従って生活し、在俗僧は人々の生活に親しく関わって生活する。
前述の司教座聖堂学校は在俗僧の養成機関であり、一方の修道僧は修道院学校で学んだ。修道院学校は7世紀~宗教改革(16世紀)までの西ヨーロッパにおいては最も重要な教育機関であった。
ベネディクトゥス戒律によれば、修道院は神への奉仕の訓練のために組織され、修道士は修道院長の下に共同生活を営み、清貧と貞節と服従の3つの誓いを守る義務があった。
修道僧は、自らの労働によって農民の規範になり、職人に技術を教え、商人に商業を刺激し、貧しい者、悩み苦しむ者に避難所を提供し、湿地を開拓し公衆衛生と公共生活の社会資本を整えた。
戒律には一日2~5時間の読書が規定され、聖書と教父の著作の読むべき箇所が指定されていた。その結果、読書用の写本の筆写、文献研究などが行われ、修道院が学芸の保存を担った。
このように中世の修道院は、専門教育の場であるとともに、大学・出版局・図書館を兼ねた学術研究の唯一の機関となった。ただしこのような仕事は怠惰防止のための仕事に過ぎず、極めて貧弱で、無学の修道僧も多かった。

スコラ学
キリスト教神学は聖書中心から論理中心に変わっていく。かつて禁欲主義の砦だった修道院は、その勢力規模を拡大させるとともに、世俗化の傾向を辿り、カロリング朝崩壊後は政治的無秩序のどさくさに紛れて略奪の対象になってしまった。
10~11世紀には、堕落に陥った修道院改革が叫ばれ、そこでは熱心な宗教生活の追求だけではなく、かつて異端とされた古代の学芸を宗教的教義に役立たせるという理解の下、失われた文化の復興がなされた。
このような古代の学芸に対する関心の高まりは、教会勢力の新たな対応を迫った。11世紀中葉においてその対応は3つに分かれた。一つ目が異端扱い、二つ目が世俗の学問の介入を一切禁止、そして三つ目が神学――スコラ学の形成である。
スコラ学最大の特徴は、大学における教師と学生の質疑応答(議論=弁証法)や厳密な文献研究をベースに、教会の権威、教義の学問的根拠を目ざし、哲学と神学の一致を試みる点である。
スコラ学のパイオニア、ラバヌス=マウルス(カロリングルネサンスの立役者アルクインの弟子)は文法よりも弁証法を重視し、アイルランドの哲学者ヨハネス=スコトゥス=エリウゲナは異教徒著作家に対して寛容な態度を取り、彼もやはり弁証法の研究を重視した。
以後400年の長きに渡る実念論(イデア、概念、普遍的実在が唯一の実在)VS唯名論(普遍は存在せず、実在は個々の具体的事物に内在)の論争は、彼とともに始まったと言える。
この論争は、アリストテレスの哲学が教会に採用されたことと、哲学と神学、理性と信仰を切り離したオッカムによって、唯名論こそが自然と精神の探求に不可欠なものであるという見解が決定的となった。

宗教改革
16世紀、ルターが宗教改革において主張した福音主義と万人司祭主義は、全ての人が聖書を読めるように民衆教育の必要性を導いた。ルターは聖書をドイツ語に翻訳し、ドイツ語の読み書きを教える学校を多数設立するように呼びかけ、この学校で男女、貴賎を問わず子どもたちに1~2時間聖書とドイツ語の初歩を学ばせた。
自分の子どもを就学させる義務を親に課し、都市政府に就学の強制を求めたルターの主張は、近代の公教育制度を先取りしたものである。しかしルターは家庭教育の意義も認めていた。実際ルターは聖職者の独身主義の慣習を破り子どもがいた。
農民の先鋭機化に反対したルターは、従来の領邦教会の枠組みの中で宗教改革の実現を目指した。この牽引者をになった巡察官は国家主義的に各地の教会を改宗させ、プロテスタンティズムの学校を新設していった。
教育課程はラテン語の学習、宗教、音楽の3段階で構成され、教科書は指定、子どもは6、7歳で入学したあと、4~8年の教育が続き、選抜による第二段階の教育が制度化された。これらの多くの学校では庶民教育よりも聖俗の指導者育成の性格が強かった。
中等教育を担ったギムナジウムは6歳で入学する9年制の学校で、信仰と学識と雄弁が教育目的のもと、古典語の文法・読解、弁証法、修辞学、古典劇、アリストテレスの哲学、数学、天文学などが教授された。
ギムナジウムの他にも修道院学校や貴族学校が作られエリート養成が行われていた。この時代には大学改革も行われ、ルターの聖書神学を基本としたカリキュラムに改訂がされた。

カトリックの教育改革
プロテスタントの宗教改革を受けて、カトリックのイエズス会でも民衆への学校教育が重視されるようになった。イエズス会は教皇庁から学校設立と学位授与の権限を認められ、中等教育を軸とするコレージュを各地に設立した。
イエズス会は教員の養成に精力的で、その教育内容はヒューマニズム的な人間的教養よりは、異端を知り、彼らを説得するための教養が重視された。
教師は権威主義的で、生徒同士の競争も盛んであった。このようにコレージュは厳しいヒエラルキーを形成していたが、授業料が安く、熱心な教育で有能な人材を輩出していたので、世間の信頼を勝ち取った。
イエズス会と対立していたポート=ロワイヤル派は小さい学校と呼ばれる初等中等教育機関を設立、ラテン語を絶対視せずフランス語の教育の意義を認めた。
ラサール派はキリスト教学校同胞会を作り、カトリックの再興を目指し、貧しい子どもには無償の初等教育を実施した。

啓蒙主義
17世紀後半~18世紀のヨーロッパにおいて大きな潮流となった啓蒙主義は、人間の理性(光)によって旧来の伝統や慣習、権威(教会や封建主義)を厳しく批判し、無知や偏見、迷信(闇)から万人を脱却させるという、普遍的な理性的存在としての人間と、その無限の進歩の可能性に対して絶大な確信を抱く思想運動であった。
現実の経験を尊重しつつ、理性による吟味を通じて合理的・科学的態度を形成し、新たな人間や社会秩序の実現を目指す啓蒙主義は、元来教育への関心があったため、その下で多様な教育思想の展開が見られることになった。

ロックの教育思想
ピューリタン革命から名誉革命までの怒涛の時代のイギリスを生きたロックは、近代自由主義や民主主義に立脚した市民社会こそが人間の自然な本性の発現であると論じた。
ロックによれば、人間は自然状態においてすでに自由かつ平等であり、生命や行為の自由のほか財産の私有権も自然権として有すると主張した。
近代な市民社会を担う理想的な人間像を「勤勉にして理性的」な人間に求めたロックは、デカルトの生得観念説を否定し、道徳観念を含め人間のすべての観念は人間の経験に由来すると論じた。
この精神白紙説は、人間の信仰や道徳の根拠を神の存在に求める旧来の考え方から、自由で自立的な人間の知性を尊重する考え方に道を開いた。
この考えは教育思想にも適用され、外からなんでも書き込めるまっさらな素材としての子ども観を提供するとともに、自律した人間形成への配慮、権威や伝統といった束縛からの解放を訴えた。
自由や平等を重視したロックの教育論はあくまでもジェントリ階級を対象にしたもので(紳士教育論)、救貧法の対象とされた3~14歳の貧しい子どもには、労働学校での織物作業や宗教教育を施し、勤勉で従順な精神を養うことを提案している。

ルソーの教育思想
啓蒙主義の思想家は基本的に、人類の発展や文明を普遍的かつ肯定的に捉えたが、人間の歴史を自由で自己充足的な自然状態から不平等な社会状況に生きる転落の過程と捉えた思想家がルソーである。
ルソーは、著書『エミール』において、人間はもともとは善の状態で生まれてくるが、社会の制度や慣習によってその自然の善性が失われていってしまうため、それを守り育てていくことが教育の使命だと論じた。
したがって教育とは子どもの内発的な発達を、大人の干渉によって阻害するようなものあってはならず、子供の自主性を尊重した消極教育を行うべきだと考えたのである。ルソーは「何もしないことが最大の教育である」「徳を授けないで悪徳から守り、真理を教えないで誤謬から守る」と論じたが、子どもの発達段階に応じて諸器官の成長を促し、感覚の練習によって理性への道を準備するという意味では、積極的な教育メソッドであった。
さて、ルソーの目指す理想的人間形成とは、絶対的存在としての自然人と(自己のアイデンティティが自分自身の中にある)、相対的存在としての社会人(自己のアイデンティティが他者や社会の評価にある)のジレンマを克服できるような社会に生きる自然人であった。
絶対主義体制という社会の現実に対して、人間本来の自然性をどこまで回復するかという困難な問題に立ち向かった点においてルソーの近代教育思想家としての独自性がある。

新人文主義
18世紀末、ドイツを中心に、啓蒙主義における合理主義的、主知主義的、功利主義的傾向に対して反動的な運動が起きた。
理性を重視した啓蒙主義とは異なり、人間の各素質の調和が取れた全面的完成を理想とする人間探求が行われるようになった。そのモデルとして人間の知徳美の統一を目指した古代ギリシャの文化があった。これを新人文主義という。新人文主義は、普遍的な人間の純粋性と、代替なき人間の個性をどちらも尊重し、啓蒙主義の遺産を継承した上で、その一面的な理性主義を超克し、感性も含む一層豊かな人間理解と人間形成を目指した。

ペスタロッチの教育思想
農村へのマニュファクチュアの侵入によって旧来の共同体的状況が変わっていったスイスにおいて、経済的にも精神的にも荒廃した民衆に対し、人間性の救済と生活者としての自立を目指し教育活動を行ったのがペスタロッチである。
青年時代にルソーの思想に傾倒し、社会変革は政治的経済的なやり方ではなく、自主的自立的な人間の形成以外にはありえないと考えたペスタロッチは、貧富、貴賎を問わず全ての人々に教育を展開することになった。
ペスタロッチは、知的、心情的、身体的な諸能力を内在する法則に従って自然に調和させるという基礎陶冶、認識対象の本質を捉える直観を基礎として訓練を試みる直観教授という教育理論の下、ナポレオン戦争の孤児に対する教育活動を皮切りに、場所を移しながら、生涯教育実践を試みた。ペスタロッチに直接私事した者の中には幼稚園の創始者フレーベルがいる。

フレーベルの教育思想
19世紀、幼児の発見者と呼ばれるのがドイツのフレーベルである。
幼児期は人間や外界の内的本質を把握するための最初の出発点であり、後のあらゆる発達の基礎的段階であると考えたフレーベルは、大人社会への準備期間ではない、幼児教育固有の内容と方法を確立した。この理念のもとに生まれたのが幼稚園である。
フレーベルはルソーやペスタロッチの影響の他、キリスト教神秘主義の影響も受けており、神的なものが宿る人間の本性は善で無垢であると考えるとともに、子どもの生命に創造力の源泉を見出し、大人はこれを子どもから学ぶことによって、近代文明によって抑圧された全体的生命を取り戻すことができると論じた。
このような子ども観に立つフレーベルは、大人の積極的干渉によって子どもの神性を妨害せずに、受動的、追随的、保護的な教育によって子どもの神性を引き出さなければならないと考えた。
そこでフレーベルは、子どものための楽しい花園を作り、そこで子どもを自由に遊ばせることにした。力いっぱい自発的に、疲れるまで元気よく遊ぶ子は、必ず逞しい、他人の幸福と自分の幸福のために献身的に尽くす人間になると考えたのである。
さらに彼は自身が考案した遊具恩物を用いて、子どもの遊びを体系化しようとした。
今の積み木につながる恩物は、神を中心に万物が統一されることを目的に作られ、子どもの神性を顕現させるアイテムであった。このようにフレーベルの教育には神が中核に置かれているが、当時の教会には受け入れられず、プロイセン政府からも危険思想扱いされ幼稚園は禁止されてしまった。
ルソーに始まりペスタロッチ、フレーベルと受け継がれた子どもの権利を尊重し、自然本性の固有な発達を促す教育思想は、19世紀末~20世紀初頭にエレン・ケイ、デューイ、モンテッソーリなどによって新教育運動として発展する。

イギリスの近代教育制度の成立過程
近代的な教育制度の特徴とされる「公教育」とは、国家や地方公共団体に管理される教育を言い、厳密には近代特有のものではないが、近代になると教育における公教育の割合が飛躍的に増大したことから、公教育が近代の教育の特徴となっている事情がある。
18世紀末から見られた近代市民社会とは国家が国防と警察のみを行ない、市民は自由で自立した存在であるべきだという夜警国家であった。
つまり教育も私事として考えられ、当時の公権力は市民の教育には直接干渉しなかったが、同じく近代の市民社会で展開された基本的人権(教育権)はあらゆる人に適用されるべきものであるという考え(自然法思想)から、無償の義務教育制度が成立することになる。
イギリスでは16世紀までは宗教団体が管理する基金学校の形で文法学校が運営されていたが、近代になると富を蓄積した商人によって経営、運営されるようになる。
しかし信教の自由に基づいた俗人管理になったとは言え、この時代の文法学校は宗教と無関係に存在はしておらず、国教会による学校教育の統制など極めて政治的色彩が強かった。
文法学校では、下級中産階級のジェントリやヨーマンの子弟がエリート教育を受け、市長、判事、弁護士などになり国政に参加するようになった。彼らは下院の勢力となり、貴族階級とともに絶対主義国家を支えた。つまり16世紀中頃以降の文法学校は絶対主義国家が信奉する国教会により統制されており、絶対主義国家を支える人材の育成機関となっていたのである。
しかし16世紀末になると、文法学校による古典語偏重教育は、重商主義のニーズに合致せず国語教育が重視されるようになった。
そして17世紀中葉から非国教徒は実務的な教育を提供するアカデミーを設立、国語教育や自然科学教育を重視し、新しい中等教育機関として時代が要請する人材を排出するようになった。
イギリスではドイツほどに民衆教育政策を国家が積極的に展開せず、主に教会や慈善団体のボランティアがその役割を担っていた。そこでは宗教を中心に若干の読み書き、計算が教えられた。しかし絶対主義国家による民衆教育政策が全くなかったわけではなく、救貧法など国家への民衆教育への関与の兆しが見られた。
18世紀末になるとイギリスは世界に先立って産業革命を成し遂げ、児童や女性が労働力の対象になる機会は増加、これをきっかけに様々な教育が展開された。
おかみさん学校は夫婦共働きの家庭の子どもを対象に、婦人が授業料をとって家に子どもを預かり簡単な読み書きを教えた。この学校は極めて不衛生で、学校機関というよりは託児所に近かった。
授産学校・ボロ服学校は家庭崩壊によって生み出された浮浪児が強制的に入れられる学校で、躾や職業訓練がされた。
ロバート・レークスが始めた日曜学校は、就労児童を日曜日に収容して無償で宗教・道徳教育、簡単な読み書きを教えた。休日開かれるため週日の労働とバッティングせず、産業革命期に大きく発展した。
不就労の児童を対象にした週日学校は、少数の教師と少額の経費で多数の児童に教育を施した。ここではベルとランカスターが考案した、優秀な児童が教師の指示に従ってほかの児童に指導をする助教法を採用していた。
空想的社会主義のオーウェンが始めた幼児学校は労働者階級の幼児の保護と初等教育を行った。
以上の教育はどれもが私学であり、イギリスにおける教育への国家介入は、児童を雇う雇用主に教育を義務付ける1802年の工場法に始まり、公教育そのものは1833年の民衆教育機関に対する校舎設立のための国庫補助金制度で開始される。
イギリス史上初の中央教育行政機構は1839年の枢密院教育委員会で、これは1856年に教育局に昇格するが、クリミア戦争の影響で財政難に苦しむ政府は、生徒の出席状況と読み書き計算の試験結果によって補助金額を決定する出来高払い制度を導入した。この制度は経済学的な自由競争の原理を教育に持ち込んだものであるが、読み書き計算以外の教育のおざなり、試験における不正、教員の質の低下などが表れ批判が相次いだ。
そこで1870年にフォスター法が作られ、学校委員会の設置、小学校教育の世俗化、5~13歳の子どもへの就学強制など、政府による近代的な公教育制度が不十分ながらも実施された。フォスター法で残った課題の無償教育と義務教育は1876年法、1880年法、1918年のフィッシャー法などによって徐々に改善された。
こうして、イギリスの近代公教育制度はボランタイリズムの伝統によって取り組みが遅れたものの、19世紀末にはほぼ成立した。

今年度最後の試験

 今年度最後の大学の試験に行ってきました。結局ギリギリ1教科取得が間に合わず、中学1種と高校は来年度の春に持ち越し・・・つまりその時もう一度教員免許の申請書類を書かなきゃいけないという(´;ω;`)
 で、日本史だけの受験だった前回と打って変わって、今回は一度に4科目、しかも朝食も昼食も食わずに出撃しちゃったので、もう3つめの試験(※論述)あたりで、腹が減って試験どころじゃなくなり、最後の政治学はかなり投げやりに書いてしまった・・・

 教訓:4科目受験はちゃんとご飯食べてった方がいい。

 理科や数学みたいに計算できればささっと回答が終わっちゃうようなタイプの試験じゃないからなあ。「○○について論述せよ」式だから場合によってはかなりの長文になるという。で、いくら文章書くのが得意で早くても、4教科だと1時間半くらいかかっちゃって、もう空腹で辛かった。グダグダして布団から出られなかったのが敗因。でもまあ、終わっちゃったものはいいや。

経済学概論2:マクロ経済学とはどういう学問か
すげえ漠然とした出題。ケインズからピケティまでいろいろ書いておいた。お腹減った。

倫理学概論:ロールズの正義論の利点と難点
ほかにも2つ問題がある選択形式だったんだけど、この先生はホントにロールズが好きなのか、出題頻度がハンパない。ロールズはサンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』でかなり掘り下げられていたから、まあなんとかなった気がする。ただ正義論の利点ってなんだろうなって考え込んじゃった。とりあえず人間観の正しい関係を善に優先させたことで、何が道徳的に善いかという答えの出なさそうな議論を一旦ペンディングできる点が利点とか書いた気がする。苦し紛れである。あとベルグソンの倫理学が出題されていたけれど、あの人の思想ってエランヴィタールとか抽象的でつかみどころなくてうまく説明できないのでやめた。
お腹すいた。

教育哲学:ルソーの教育思想について解説せよ
これは、もう『エミール』について書いた。読んだことあるし。主人公(家庭教師)の先生(聖職者)が独身主義を破っちゃったり(孕ませた)、信仰心自体を相対化しちゃったくだりが、当時の宗教勢力の逆鱗に触れて、作者のルソーが亡命するはめになったとか、いろいろ面白いエピソードがあるんだけど、ブログにまとめたくらいのことにとどめておいた。お腹すいて早く終わらしたかったから。

政治学概論2:日本の中央地方関係について論じよ
まさかの地方自治!これは全く山が外れた。で、後回し。アリソンモデルとか国際政治学がずっと出てたからその流れでくると思ってたのに。
もう4科目目になると私の空腹も限界が来てて、何書いたか覚えてないっす。3割自治問題とかもなんで3割と呼ばれているかとか書き忘れたし。小泉さんの三位一体の改革とかも書けなかった。もう血糖値が低くて(^_^;)今後はちゃんとご飯食べて試験受けないとな。まあ不合格でも、次頑張ればいいや。割と好きな分野だし。

 あと、高校の歴史の免許に必要な単位で「教育の歴史と思想」っていう高校公民の「教育哲学」と内容が丸かぶりな講座があるんだけど、試験内容も丸かぶりで、こっちもルソーだった。つまり、昨日どっちも試験を申し込んでおけば、同じ答案を二つ量産するだけでどっちも単位ゲットできたということで、悔しすぎる。
 つーかそこまで一緒なら、教育哲学の単位を高校歴史にも適用させておくれよ(´;ω;`)

 それと、やっぱり理科の試験問題が面白いね。

物理学概論2:空気中を伝わる音波は縦波か横波か。摂氏30°をケルビンとファーレンハイトで表すとそれぞれ何度か計算して求めよ。

生物学概論1:生命の起源について考えるときに想定される「RNAワールド」について解説せよ。解説中に「リボザイム」という言葉を含むこと。

地学概論1:地球に磁場が形成したことによって現代文明にとって欠かせない鉄資源が生み出された。地球磁場成立の過程(メカニズム)と鉄資源が生み出されるまでの一連のメカニズムについて論述せよ。

化学概論2:色が見えるしくみと色をもつ分子の関係について、具体例を交え、説明しなさい。

 これらの問題の答えが普通に気になるので(特に地学概論)、理系出身の人、もしくは科学クラスタの人、よかったら解いてみてちょ。ファーレンハイトってなんやねん。

 で、試験の帰りに中学からの友人(妻子持ち)に会ってきたんだけど、その子ども(幼児)に「たしろ」と呼び捨てにされた。「たしろうどんたべる?」とか「たしろかえるの?」とかwパパが「田代」って言うから真似しちゃうんだな。
 これは、つまり、あれだよね、クレヨンしんちゃんの「え~っと、みさえの名前ってなんだっけ?」と同じだよね(^_^;)まあ私中学校で生徒に「まさひろ」って呼ばれているから、もうどうでもいいんだけどwまさひろって誰やねん。

政治学覚え書き⑮(ガバナンス)

 おそらく最後の政治学覚え書き。政治はなんらかの政策を実行しないといけないんだけど、その政策過程について政治学ではどのように研究されているのか、を。

国際レジーム
国家主権を分類したことで知られるアメリカの政治学者クラズナーの定義では「国際関係における“特定の政策領域において”国々の期待が収斂するような明示的または暗黙的な原則、規範、規則、および意思決定手続きが創出すること」とされる。
国際レジーム論では、国際制度そのものを国際協調が具現化したものとして捉え、中央集権的な統治機構がない(アナーキーな)国際関係においても国際協調は可能であると考える。
国際レジーム論には三つの論点がある。
①アナーキーな国際関係においてなぜ国際レジームが形成されるのか。
②形成された国際組織はなぜ存続、あるいは変容するのか。
③国際レジームは本当に国際協調を促進するのか。

ネオリアリズムの国際レジーム論
国際組織が現実に存在していること自体は否定しないが、国際関係における協調の可能性を低く見積もっている新現実主義(ネオリアリズム)は、覇権国が存在している時に、覇権国の選好に合致すれば国際レジームは形成され、それを覇権国が支持している限り国際レジームは存続するが、覇権国が衰退するとそれに伴って国際レジームも脆弱になるという覇権安定論を唱えている。ちなみにモーゲンソーは多極安定論を、ウォルツは二極安定論を支持している。
新現実主義は国際レジームを「公共財」と考え、その提供者は、公共財の費用を負担できる覇権国しかありえないとする。また国際レジーム自体は国家間の力関係を反映したものにすぎず、国家の行動を協調的に促進する効果は持っていないと考える。

ネオリベラルインスティテューショナリズムの国際レジーム論
これに対して新自由主義制度論(ネオリベラルインスティテューショナリズム)は覇権国の存在が必ずしも国際レジームの形成・存続に必要ないとした。
国家は共通の利益を実現するために国際レジームを形成し、その利益が続く限り国際レジームも存続すると考える。
そして国際レジームが国際協調を促進するメカニズムについては、囚人のディレンマや、コースの定理などを挙げている。
彼らは国際レジームが存在しない状況で何故国際レジームが形成されるのかという①の問いには答えていないため、覇権国家による国際レジーム形成を否定していない。

コンストラクティヴィズムの国際レジーム論
ネオリアリズムとネオリベラルインスティテューショナリズムの考え方はどれも国家を合理的な主体であることが前提になっているが、構成主義(コンストラクティヴィズム)はこの合理的選択理論を批判する。構成主義には、国家の選好には知識共同体が影響を与えているというアイディアや知識を重視する立場や、アクター間の相互作用、国際関係の間主観性を重視する立場がある。
ここら辺の問題はサイモンのところで。

グローバルガバナンス
冷戦終結後の国際社会におけるグローバル化は、一国だけでは対応出来ない規模の大きな問題(グローバルイシュー)をもたらすことになった。
これに対処するための、国際社会における各国(及び非国家的主体)の活動を制御・規制する取り決めがグローバルガバナンス(ガバナンスとは「統治」の意味)である。
国際レジーム論では、各国を従える中層集権的な政府(地球連邦みたいなやつ)は存在しないと考えるが、かと言って完全にアナーキーな状態でもない今日の世界秩序をイシュー横断的に捉える包括的な概念(国際レジーム論では貿易、環境、安全保障などの特定領域を対象とする)で、多元的かつ重層的な国際ネットワークを射程に入れる。
アメリカの国際政治学者オラン・ヤングが提唱。

グローバルガバナンス論が示した重要な課題は以下の三つ。
①特定の問題領域に特化した国際制度や組織が、複数の争点の関連によって提示された問題にどうやって対応するか。(対象範囲がかぶるIMFとWTOや、労働と貿易を対象とするILOやWTOなどはうまく連携できるのだろうか?)

②国際社会におけるガバナンスの決定プロセスに、発展途上国や非国家的主体(国連やIMFなどの国際組織、多国籍企業、NGOなど)が新たに参加することによって、従来の決定プロセスは変容するのだろうかという「民主主義の赤字」の問題。

③多国間協調と国内利害のジレンマの問題。例えば、国際貿易の自由化が国内の集団に利益格差をもたらすといったような可能性(TPPの議論など)。
そしてこのような多国間交渉を従来通り政府に任せていいのだろうか。国際協調は国家内の利害対立を克服し推進されるのだろうか。

サミュエル・ハンチントン
著書『文明の衝突』で知られるアメリカの政治学者。
資本主義VS社会主義というイデオロギーの対立構造が冷戦終結によってなくなると、その代わりにキリストVSイスラームという宗教間の対立が起こることを予言。そして実際その通りになった。すごい。

サイモンの満足モデル
ハーバート・サイモンはノーベル経済学賞を受賞した政治学者。組織論が専門。
意思決定のプロセスは一般的に「課題設定→選択肢の探求→結果の予測→結果の評価→選択」という手順で行われるが、よくよく考えてみると現実問題として考えられる全ての選択肢を洗い出し、その結果を確実に推測、評価し、あらかじめ決められた評価基準に最も適合する選択肢を選ぶことは不可能である。
人工知能を作るときにもこんなようなNP問題は大きな障壁となっているんだけど、サイモンはそんなことリアルな人間はやっていない、人間は合理的であろうとする理想はあるものの、その合理性には限界があることを指摘、制約された合理モデル、満足モデルを考案した。
満足モデルの特徴は以下の三つ。
①選択肢の検討は一挙ではなく、ひとつずつ順番(逐次的)に行われる
②逐次的な検討の途中で、一応満足できる選択肢が発見された時点で選択肢の探求はきりがないので終了、最善の選択肢を発見することにはこだわらない。
探求を停止することによって余った時間やエネルギーは反対派の説得やほかの意思決定に使われる。
③結果を評価する基準(要求基準)は変化する。時間的制約がある場合、制限時間内に満足できる選択肢が見つからない場合は、要求水準を下げて、以前は満足できないと捨ててしまった選択肢を採用する。意思決定を放棄するよりはマシなので。

経済的人間
経済学が前提とする合理的な知性を持つ人間。多分そんな奴は人類にはいない。
ある種の理想。

経営的人間
決定の過程では合理性は制約されるが(満足モデル参照)、その目的意図においては制約を受けない人間。政治学や行政学が前提とする。

公共的人間
政治家や官僚などの政策エリートは、意図だけでなく結果においても合理的であることが多い。自分の決定が正当なものであるということを事前に説明することがあるからである。
公共的人間というと高い使命感と倫理観を持つ人という印象があるが、ここではしっぽを掴まれないような言い訳をあらかじめ考える人くらいの意味。

公共的人間における三つの観点
①アカウンタビリティ
説明責任。自分がおこなった意思決定について合理的な説明を行う責任。
②コンプライアンス
法令遵守。高度経済成長までに多用された、法的根拠が不明確な活動は現代では通用しなくなっている。
③トランスペアランシー
透明性。意思決定の過程をつまびらかにしても異論が出ないような論理武装が必要。

アリソンモデル
アメリカの政治学者グレアム・アリソンは、著書『決定の本質』において政策決定過程を、それを行う組織がどのように構成されているかという観点から三つに分類した。

①合理モデル
組織を一人の人間であるように単一の行為者と見る(最も単純なモデル)
問題点:誰にとっての国益か、何を国益とするかという問題

②組織過程モデル
組織の決定を組織内のルール適用の結果と見る
問題点:異なるルールや手順に従う複数の組織が決定に関与する場合、その政策決定は合理的でない場合があること

③政府内政治モデル
組織の決定を役職者たちの駆け引きの結果と見る(最も複雑なモデル)
問題点:関与する人間が変われば、同じ役職にあったとしても異なる政策決定がなされ、その駆け引きの相互作用を分析するのは極めて複雑。

アリソンはキューバ危機の際、核戦争を引き起こす可能性のある重大な決定が両国の一般市民をないがしろにして決定されたことを指摘し、政治的決定の影響を被る国民が、どのように政府をチェックすべきかという問題を提起した。

ゴミ缶モデル
組織論の研究者であるマーチとオルセンが提唱。
何か解決しなければいけない課題が先にあり、そのあとに解決方法を探すという政策過程は、極めて論理的で分かりやすいが、実際には「なんとなく」で政策を決めてしまい、そのあと政策にあった課題を後付けしまうこともある。
ゴミ缶モデルでは三つの前提がある。

①政策決定者の選好は不確か
何がしたいのかわからないままとりあえず参加して、徐々に自分のしたいことが分かったり、分からなかったり…

②政策決定者の持っている知識や情報は不確か
課題について十分に知識を持っていないこともある。

③政策決定への参加は流動的
参加者が日によって変わったり、同じ参加者でも積極性が日によって違うことがある。

この①~③を総括してマーチらは組織化された無秩序と呼んだ。
政策決定は偶然に左右され、課題や政策はまるでゴミ箱にゴミを投げ込むかのように適当に政策決定の場に投げ込まれるというのだ。

コーポラティズム
協調主義という意味。
単一、もしくは少数の頂上団体をそれぞれに持つ経営者と労働者が、賃金や物価上昇率を協議、そこで決定された方針に従って頂上団体が下位の利益組織を統制するような政治体制を指す。
各種の団体や組織が階層的に構成されている(そのヒエラルキーのトップが頂上団体)、頂上団体と政府との関係が安定的などの特徴がある。

デュアリズム
二元主義という意味。
労使交渉の対等性を訴えるコーポラティズムに対して、労働者の立場の弱さを強調する。
利益団体の影響力は均等ではなく、多元主義的な均衡も実際には強い団体に有利に形成された偏った均衡であると考える。

政党の機能
①政策形成機能
利益団体や国民の利益、意見を政治過程に吸い上げる。
政党のメンバーの議員が地元の要望を聞き入れ、地元に有利な政策を提案する。
数多くの団体や個人の利害を調整して、いくつかの政策にまとめる。

②政治的指導者の選抜と政府の形成
特に政権与党の党首が首班指名される議院内閣制や、単独で政権を取れない連立政権では重要。国民が首班を選ぶ大統領制においても政党支持態度に基づいて候補者に投票する有権者が多いことから(ミシガンモデル)政党が指導者の選抜に与えている影響は大きい。

③政治家の人材発掘と登用
政治家を発掘して育てる(政治的リクルートメント)。自民党の派閥など。

④国民の政治教育
テレビや新聞などのマスメディア、選挙運動を通じて国民に政治教育を行なう。

経済学覚え書き⑩

 去年は『キャピタリズム~マネーは踊る~』にめちゃくちゃハマって何十回も観て、経済学ブームがあったんですが、時は流れその時得た知識がけっこう抜けちゃったので、専門書引っ張り出して基本事項を再確認。

マクロ経済学における三つの経済主体

①家計
家計は消費や貯蓄の主体で、企業や政府に労働や資本・土地などの生産要素を提供することから生産要素の供給主体とも言われる。家計はその対価として賃金や利子・配当、地代などの得た収入を元に、企業から商品(材やサービス)を購入したり、政府に税金を収めたりすることで消費されている。

②企業
企業は生産の主体であり、資本を元手に設備投資を行い(工場や機械を購入したりソフトウェアを開発すること)、労働者を雇って商品を生産し、それを家計や政府に販売している。このため企業は生産要素の需要主体と呼ばれる。企業には生産財生産部門と消費財生産部門があり、生産財生産部門は消費財生産部門に原材料や部品、工作機械などの設備を提供し、その代金を得ている。

③政府
政府は家計や企業から税金を徴収し、道路や橋、公園などの公共財(社会資本)や、教育や警察、消防、国防などの公共サービスを家計と企業に提供している。また政府は企業に補助金を支払うこともある。国が行う公共事業にかかる金額と公共サービスの提供にかかる金額(公務員の給料など)を合わせたものを政府支出という。例えば財政政策は政府支出を上げて、企業の生産水準を上げることをいう。ケインズ経済学はこれを重視する。

有効需要理論と乗数プロセス
有効需要理論とは、消費や設備投資などの有効需要が低下すると、商品が売れないので企業が生産量を縮小させ、求人を減らし、失業率が上がるというものである。すると人々の所得は減少し、さらに需要は落ち込み、ますます景気は悪化する。この一連の流れをデフレスパイラルという。逆を言えば需要を刺激すれば、企業の商品は売れて、企業の生産量は拡大、雇用も増えて失業率は低下すると言える。
また需要の増加が、生産料の増加と所得の増加を生み出し、それが連鎖反応的に他の需要に波及していく過程を乗数プロセスという。

景気循環

インフレーション
・メリット
お金を持ってても仕方がないので、消費が活発化(有効需要が上がる)
通貨価値が相対的に下がるので輸出産業が儲かる

・デメリット
お金の価値が下がりすぎると物価が高くて、買いたくても買えなくなる
通貨価値が相対的に下がるので輸入が困難(国際市場における通貨の信用が下がる)

デフレーション
・メリット
お金をたくさん持っている人はさらに金持ちに
通貨価値が相対的に高いので、外貨や輸入品を安く購入できる

・デメリット
お金を貯蓄するようになるので、消費が滞る(有効需要が下がる)
消費者の給料も減り、さらにそれが消費を鈍らせるというデフレスパイラルが発生

円高と円安
一般的に
円高
・国際的に信用が高い通貨は買われる→好景気の場合に発生
円安
・国際的に信用が低い通貨は売られる→不景気の場合に発生

しかし日本の財政赤字は危機的状況の割に、ほかの通貨の信用がそれよりも低いからか円が安定して買われることもある。
また、不景気だと円安が発生するが、これは国際貿易においては輸出に有利となるので、貿易黒字が増え、景気が改善し、結果的に円高になる場合がある。
さらに、円高だと外貨で稼いだ利益が両替時に目減りすることになるので、輸出産業にとっては不利となる。逆に材料を海外から輸入するような産業や、海外旅行が好きな人は嬉しい。

フィリップス曲線
日本の労働者の賃金はこれまで高いと言われていた。
企業が失業者を出さないように労働者に高い給料を払い続けるには、商品の値上げを行うことになるので、物価は上がりコストプッシュインフレーションが発生する。
このことを示したのがフィリップス曲線で、失業率が高いときはインフレ率が低く、失業率が低い時はインフレ率が高くなる。
このようなトレードオフの関係は19世紀後半から20世紀初頭の景気データに基づいて考えられており、ケインジアンが猛威を振るっていた当時の経済学界では、極端なインフレや高い失業率を回避するために政府が適切なファインチューニングを行うべきであると考えられていた。

フィリップス曲線フリードマンver.
だが、フィリップス曲線が示すインフレ率と失業率のトレードオフの関係は1970年代以降次第に確認されなくなってきたことから、フリードマンはインフレが起こると失業率は一時的には下がるものの、長期的には失業率は元の水準に戻ってしまうとフィリップス曲線を批判。
つまりインフレ率と失業率には相関関係はなく、どんなインフレ率であろうと失業率はだいたい一定の値(自然失業率)をとるというのだ。
例えば、こういうことが考えられる。高い賃金によるコストプッシュインフレによって、メーカーの商品価格は上昇。高い商品では消費者の購入意欲は上がらないので、企業は生産量を縮小、雇用は減り、結局失業者は増加してしまう。
従って、政府が裁量的に市場に介入し、インフレ率を高めても、結局同じ失業率に戻るなら、物価が高くなるだけ逆効果、経済状態は不安定になるとフリードマンは考えた。
ちなみにフリードマンが引いた“長期的なフィリップス曲線”はインフレ率と全く関係がないので垂直線となる。

フィリップス曲線クルーグマンver.
だがだがクルーグマンによると、低インフレやデフレの状態においてはフィリップス曲線は長期でも右肩下がり(=失業率とインフレ率は相関)になるという。
デフレの状態では市場に出回っている貨幣の量が少ないので、賃金を調達することが難しく、失業率が改善できない。安倍さんがアベノミクスで世界で初めてインフレターゲットをデフレ対策で実行したのはそのため(イギリスなど他の国ではインフレ抑制対策としてインフレターゲットを行っている)。

ローレンツ曲線
所得格差を調べる際に最もよく使われる指標。
人口の百分比と、所得の百分比の表を作り、その表において原点を通る45度の直線が均衡分布線。すなわち、全ての人の所得が等しい(=所得格差が全く無い)状態を表す。
まあ、理想的な共産主義でもない限りそういうことはあまりないので、実際の所得分配状況を示したローレンツ曲線は、所得格差がひどいほど均衡分布線から遠ざかり、下方にたるむ感じになる。一般的にローレンツ曲線は、原点から所得が低い世帯順に並べていくので、アメリカのようにものすごい格差社会の場合は、グラフの後半で傾きが急に大きくなる(ラストの少数で一気に累計所得が上がってしまう)ってわけ。
この場合、均衡分布線とローレンツ曲線で囲まれた面積で算出するジニ係数は1に近づく(逆にローレンツ曲線が均衡分布線と重なる場合はジニ係数は0で所得格差はない)。

日本政府の財政政策

平成26年度一般会計予算の内訳①歳出

第一位:社会保障関係費(31.8%)
高齢化率21%を超える超高齢化社会だけあって、文句なしの第一位。
その上、合計特殊出生率は人口の維持に必要な2.1を1970年代に下回り、近年では1.3→1.4の低水準を続けている。
つまり高齢者が増加する一方で、その保険料を支える現役世代が減っているということなので、高齢者給付の削減と、現役世代の負担軽減という困難な課題を同時に相手にしなければならない。

第二位:国債費(24.3%)
赤字国債は73年の第一次オイルショックの時に初めて発行され、その後、経済は持ち直したが、バブル経済崩壊後はコンスタントかつ幾何級数的に発行され、来年度には合計900兆円に達する見通し。これはもちろん対GDP比100%を超えている(一年間のGDPを超える借金があるということ)。
ちなみに平成27年度の国債発行額は170兆円で、なんとか減らそうとはしているんだけれど、古い国債の借金を返すための国債(借換債)も赤字国債などと共に発行しているという、なんだかよくわからないけれど大変なことになっている。

第三位:地方交付税交付金(16.8%)
小泉さんはトリニティ的に地方分権を推進したが、まだまだ地方財政は中央からの依存財源でやりくりしているということだろうか。ちなみにこの三位一体の改革で、地方債の許可制は廃止され、国の許可なしに自由に発行ができる事前協議制になっている。また地方に寄付すると特産物がもらえる上に、寄付した金額のほぼ全額が確定申告時に控除されるふるさと納税なども話題になっている(寄付できる上限は所得額に応じて決められている)。

ちなみにこの上位3つで歳出の七割以上を占めている。
以下、第四位が公共事業、第五位が文教及び科学振興、第六位が防衛費となっている(どれも6~5%ほど。民主党政権時は文教及び科学振興が12%で第四位をマークしていたが、現在では削られて第五位に転落した)。

平成26年度一般会計予算の内訳②歳入
半分弱が公債金でまかなわれている、極めて不健全な状態。
租税収入で最も割合が高いのは消費税(16%)で、以下所得税(10%)、法人税(10%)。

プライマリーバランス(基礎的財政収支)
公債金収入(借金で得た収入)を除いた歳入から、公債の利払い費と債務償還費を除いた歳出(一般歳出)を引いた額。この差が均衡している場合は、経済成長率が金利よりも高い限り、政府の借金の対GDP比、すなわち借金の依存度は次第に縮小する(『入門経済学』)。
プライマリーバランスを黒字化に・・・とかちょっと前の民主党政権は掲げていたけど、プライマリーバランスとは国の借金を毎年どれだけ返しているかの指標じゃなくて、借金なしでどれだけ行政サービスを行っているかという、公債依存度を示す指標なのである。

国債発行の問題点
①財政の硬直化
借金の返済に追われて自由に使える予算が減る。
②世代間の不公平
将来世代にツケを残すため。
③クラウディングアウト(押しのけ効果)
国債の発行によって政府が資金を吸い取ってしまい、民間企業の分がなくなってしまう。

日本銀行の金融政策

①基準貸付利率及び基準割引率操作(ロンバート型貸出制度)
金融機関は日銀から担保の範囲内でお金を借りられる。その時の利率が基準貸付利率。
これが市中銀行間の短期金利であるコールレートよりも高いと金融機関は民間の市中銀行からお金を借り、これがコールレートよりも低いと金融機関は日銀からお金を借りる。
つまり金融機関は基準貸付利率とコールレートを比較してお金を借りる先を決定する。
かつて日銀は政策金利である公定歩合を定め、市中銀行の金利を拘束していたが、94年の金利自由化により各金融機関は自由に金利を決められるようになった。
しかし銀行金利をすべて市場の原理に任せてしまうと急激な金利上昇(盧武鉉大統領時代の韓国みたいな)を起こすことがあるので、基準貸付利率は“コールレートの上限”として市場金利の安定化を果たしている。

②公開市場操作
有価証券の売買によって市場に出回る通貨供給量(マネーサプライ)を調節する。
金融緩和をしたい場合は買いオペレーション。
金融引き締めをしたい場合は売りオペレーション。

③預金準備率操作
市中銀行の法定準備率を上下させて市場に出回る通貨供給量を調節する。
法定準備率↑・・・市中銀行が貸し出せる資金が減る
法定準備率↓・・・市中銀行が貸し出せる資金が増える

④無担保コールレートオーバーナイト物
公定歩合に変わる日銀の政策金利。
野村證券のサイトによれば「担保なしで、短期資金を借り、翌日には返済する取引」
すごい。一日しか借りれない!w
これは住宅ローンなどにも影響を与えるので、日銀はこの無担保コールレートオーバー~(長い)を使って市中の金利水準を調整している。

フィッシャー効果
一般的に
インフレ・・・銀行金利は高い
デフレ・・・銀行金利は低い

インフレとはどんどん物価が高くなるということであり、裏を返せば貨幣の価値がどんどん低下することでもある。
例えば、現在100万円を持っていて10年後に物価が2倍に上がるとする。すると現在の100万円は10年後では50万円の価値しかないということになる。
このようにインフレが進む状況においては、銀行にお金を預金するのは損である。むしろ逆に銀行から資金を借りるほうが得になる。現在100万円借りても、10年後には実質50万円分の返済で済むことになるからである。こうなると市場に貨幣が出回り、さらにインフレが進んでしまう。
そこで銀行は、みんながお金を預金してくれるように、金利を引き上げ(出来ることならインフレ率と同じだけ)、金融引き締めを行う。
ちなみに物価の変動を考慮した金利を、名目金利に対して実質金利という。
仮に、物価上昇に合わせて名目金利を引き上げると、実質金利は理論上インフレ率とは独立に決まるということになる。このように名目金利が物価変動と同じように変化する現象をフィッシャー効果という。
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