鎌倉時代覚え書き

鎌倉時代の概要(1185年~1333年)
武士が政治の主導権を握る幕府体制が始まる。
幕府に従う武士を御家人といい、幕府は彼らに領地を与え、その代わりに軍役を課した。
やがて、執権北条氏が専制的な政治を行うようになるが、元寇によって生活が苦しくなった御家人が幕府に不満を持ちクーデターが勃発、終わる。

治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)
いわゆる源平合戦。
日本一の大天狗と呼ばれた謀略家の後白河法皇は、鹿ケ谷の陰謀で失敗した際、「もう二度と政治に口出しはしません」と平氏に約束したにも関わらず、自分の息子の以仁王(もちひとおう)に打倒平氏を広く呼びかけさせ、源頼朝や、木曽の源義仲などを挙兵させた。
そもそもお前が平氏を重用したんだろうがって感じだが、これも摂関家と結び付きが強かった源氏の力を弱めるための策略で、今度はその平氏が調子に乗り出したから、源氏を利用し平氏を始末しようとしたのだ。『アウトレイジ ビヨンド』の片岡刑事ばりの汚さである。

源頼朝
伊豆では桓武平氏系の北条時政が源頼朝の監視に当たっていたはずなのだが、監視がゆるかったのか、源頼朝は北条時政の娘の北条政子と駆け落ちをして、石橋山の戦いに臨んだ。
この戦いに敗北した源頼朝は、武士の情けで見逃されると、千葉県南房総の安房国に逃げ、一度体勢を立て直し、今度は鎌倉に拠点をおいた。
その後、源頼朝は拠点の鎌倉を動かず、弟の源範頼(みなもとののりより)、源義経を使って戦争を進めることにした。ちなみに幕府とはもともと戦場において大将が指揮を執る幕の中を指し、それが武家政権を指す言葉になった。

平氏の滅亡
対する平氏は、都を大きな港のある神戸の福原京に移転したが、すぐに京都に戻し、畿内や西国での支配を固め、源氏に対抗した。
しかし平清盛が急死してしまった上に、西国で養和の飢饉が起こると、次第に弱体化、北陸で源義仲に敗北し、都落ちした。
その後、源義仲の力が強くなると、後白河法皇は源頼朝に源義仲を始末させ、ついでに西国に逃げた平氏も追討させた。ほんとこいつ汚ねえ。
そして1185年、長門の壇ノ浦の戦いで義経軍に敗れた平氏は滅亡した。
『吾妻鏡』によれば、幼かった安徳天皇と共に三種の神器の刀も関門海峡に水没し紛失した。

頼朝追討の院宣と義経追討の院宣
後白河法皇の悪巧みはこれで終わらず、利用価値のなくなった源氏の共倒れを狙って、兄の待遇に不満を持つ義経に頼朝を討てと命令し(頼朝追討の院宣)、これが失敗すると今度は兄の頼朝に弟の義経を討てと命令した(義経追討の院宣)。
この時、後白河法皇は交換条件として、守護を全国に置く権利、地頭を荘園や公領に置き、彼らに兵粮米を徴収させる権利、在庁官人を支配させる権利を頼朝に認めてしまった。
これが後白河法皇最大のミスだった。
頼朝は後白河法皇の命令通り、奥州に逃亡していた弟の義経を討ち、さらに彼をかくまった奥州藤原氏を滅亡させたが、その後、自身の勢力を西国にまで拡大させると、後白河法皇が恐れていた武家政権成立に動き出す。
後白河法皇は源頼朝の将軍就任に最後まで反対していたものの、頼朝は後白河法皇が死ぬとさっそく1192年に征夷大将軍となり、武家政権である鎌倉幕府を開いた。
様々な勢力を捨て駒のように影で操った後白河法皇も、最後の最後には飼い犬に手を噛まれたのだ。

鎌倉幕府の成立時期
ちなみに鎌倉時代の始まりはかつては「いい国作ろう鎌倉幕府」だったのだが、現在では1192年鎌倉幕府成立説は少数派で、最近の教科書では「いい箱作ろう鎌倉幕府」という謎のメッセージになっている。
これは1185年に平氏の残党と義経追討の名目で守護・地頭が置かれ、武家の支配が全国に及んだことにちなむ。本当どっちでもいんだけど、まあ鎌倉時代はそんな感じで7年伸びた。

二元統治
武家政権が始まったものの、源頼朝の時代には幕府の権力は絶対的なものではなかった。
幕府の財政基盤は、頼朝が所有する知行国や、平家から没収した大量の荘園(平家没官領)だったが、朝廷や貴族、大寺院といった荘園領主の力は根強かった。
鎌倉幕府と朝廷の関係は、新制という朝廷から通達される法令によって拘束され、幕府は守護・地頭を通して朝廷の支配や荘園の維持を助けた。

封建制度
源頼朝は従者である御家人たちを、公領や荘園の管理をする地頭に任命し、先祖代々の所領の支配を保障する本領安堵や、新たな所領を与える新恩給与などの御恩を与えた。
地頭とともに新設された守護は、各国に一人ずつ置かれる諸国の軍事行政官で、東国出身の有力御家人が任命された。
守護は職務内容が国司とかなり丸かぶりで、後の御成敗式目では守護は警察と軍事だけを行い、行政は国司に任せるということになったが、結局国司は形骸化した。
御恩を主人から受けた御家人は、戦時には軍役、平時には大犯三ヶ条(だいぼんさんかじょう)という職務規定に従い、京都大番役、鎌倉番役、異国警固番役などの警備といった奉公をした。
このような土地の支配を認める代わりに、軍役を課す制度を封建制度といい、若干形は違うが中世ヨーロッパや中国の西周などでも行われた。

侍所
御家人を統率。軍事や警察を担当。長官は別当と呼ばれ、和田義盛が務めた。

政所
一般政務や財務事務を担当。初期は公文所と呼ばれた。長官は別当と呼ばれ、大江広元が務めた。

問注所
裁判事務を担当。長官は執事と呼ばれ、三善康信が務めた。

北条時政
源頼朝が謎の急死をし、当時18歳で政治家として無能だった源頼家が2代将軍につくと、御家人たちは主導権争いを始めた。
北条政子の父、北条時政は1203年に自分の孫に当たる源頼家を幽閉、翌年殺害し、頼家の弟でまだ幼かった源実朝を将軍につけた。
北条時政は将軍が幼いということで、彼を補佐する執権という職に就き、将軍版摂関政治みたいなものを始めだした。これを執権政治といい、以降将軍は形ばかりの地位となった。
その後、北条時政は源実朝の代わりに婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を擁立しようとしたが、娘の北条政子や息子の北条泰時に阻止され、伊豆に引退することになった。

北条義時
2代執権。
侍所の別当の和田義盛を和田合戦で滅ぼし、自ら侍所と政所の別当となった。

藤原将軍
1219年、源頼家の子の公暁(くぎょう)が父の敵である源実朝を暗殺、さらに公暁自身もまもなく討たれてしまうと、源頼朝の血は絶えてしまった。
これを受けて北条泰時は皇族を次の将軍につけようと交渉を持ちかけたが、後鳥羽上皇がこれを拒否、仕方なく源頼朝の遠い親戚の摂関家、藤原頼経(ふじわらよりつね)を4代将軍につけた。これを摂家将軍と呼ぶ。
ちなみに藤原頼経は2歳のとき鎌倉に迎えられ、8歳で将軍に即位した。お飾りだったのは言うまでもない。

承久の乱
分散していた皇室領の荘園を集め、西面の武士を置くことで院政を強化した後鳥羽上皇は、歌仲間の3代将軍実朝が殺されると幕府との対決姿勢を強め(4代将軍の依頼を断った)、1221年についに北条氏打倒を呼びかけた。
しかし後鳥羽上皇の予想に反して東国武士の大半は北条氏側につき、北条義時の息子の泰時と時房が京都を攻めると一ヶ月程度で鎮圧されてしまった。
その後、幕府は主犯の後鳥羽上皇を始め3人の上皇を島流しにすると共に、仲恭天皇を廃し、皇室の皇位継承に介入するようになった。
さらに京都に朝廷を監視する六波羅探題を設置し、京都周辺の警備や西国の統治に当たらせ、朝廷が挙兵できないようにした。六波羅は京都にあるお寺の名前。
承久の乱で後鳥羽上皇側についた貴族や武士たちの土地は没収され、幕府側で頑張って戦ってくれた御家人に与えられた。
この時任命された地頭は新補地頭(しんぽじとう)と呼ばれ、幕府の支配権は畿内、西国、荘園、公領と、さらに拡大したが、これにともない武士同士、もしくは荘園領主や国衙たちとの小競り合いも頻発し、裁判制度の確立が求められた。

北条泰時
3代執権。
1232年にかの有名な御成敗式目51ヶ条(貞永式目)を制定する。
御成敗式目は、日本初の武士の法典で、先例や道理と呼ばれる武家社会の慣習、道徳に基づき、封建制度における紛争を公平に裁く基準を明確にした。
北条泰時は他にも、執権の補佐をする連署や、幕府の政務処理や裁判を行う評定集というポストを新設、これらのポストには有力御家人、とりわけ北条氏が優先的に任命され、やがて北条氏がほとんど独占するようになる。

北条時頼
5代執権。
御家人の所領に関する訴訟を専門に受け付ける引付衆を作って裁判を迅速化させたり、朝廷にも評定集を設置してつながりを強め、藤原将軍から皇族将軍に変更(もちろんこれも有名無実)、幕府が朝廷を支配できるようにした。

宝治合戦(ほうじがっせん)
1247年。幕府内で強い影響力を持っていた大御家人三浦泰村(みうらやすむら)を、北条時頼とその外戚の安達景盛(あだちかげもり)が滅ぼし、北条氏の独裁体制を確立させた戦い。

惣領制
鎌倉時代の武士は血縁関係で結ばれ、一族(一門もしくは一家)ごとに本家である宗家と、その他の庶子で構成されていた。
惣領は一門のリーダーで、戦時には軍を指揮し、平時には祭祀を取り仕切ると共に、幕府への軍役や、領主・国衙への年貢納入における責任者を務めた。
武士たちは河川近くのちょっと高くなっている土地に堀や塀を巡らせ、その中に館を建てて暮らした。
館の周囲には佃、門田、正作、用作などと呼ばれた年貢がかからない直営地を作り、下人や農民に耕作をさせた。
地頭は、農民から徴収した年貢を国衙や荘園領主に納め、自分の収入は農民から課徴米として別に徴収したため、農民にとっては国税、地方税的なダブルパンチになった。

地頭請所(じとううけしょ)
荘園や公領の領主が、しかたなく地頭に荘園の管理をすべて任せて、その代わりに一定の年貢を納入させること。

下地中分(したじちゅうぶん)
領地を地頭に分け与えて、相互支配を認め合うこと。

武芸の訓練
流鏑馬:走る馬に乗りながら的に矢を射る訓練、もしくは儀式。
笠懸:流鏑馬とほとんど一緒だが、こちらの方がより実践的で余興的だった。
犬追物(いぬおうもの):馬に乗りながら犬を追いかけて弓で射る訓練。一試合に150頭もの犬が射られた。かなり動物虐待だが、用いられる矢は柔らかく殺傷能力はなかった。
巻狩:シカやイノシシを四方から取り囲み、徐々に包囲を狭めながら、弓矢で獲物を仕留める大規模なハンティング。猟犬が使われた。

蒙古襲来(元寇)
13世紀初め、チンギス=ハーンが中央アジア~南ロシアを征服しモンゴル帝国を築いた。
チンギス=ハーンの後継者らは、ヨーロッパや中国の金を侵略し、ユーラシア大陸をほとんど支配してしまう。
チンギス=ハーンの孫のクビライ=ハーンは元を起こし都を北京に移転、朝鮮半島の高麗を隷属させ、次は日本だ!と日本に朝貢を要求してきた。
時の執権北条時宗は、この要求(×4)を拒否するばかりか、元からの使者を殺してしまったので、元は高麗の軍隊を使って日本に侵攻することにした。
クビライは、南宋の旧軍人に農具と作物の種を持たせ、占領後の日本に移住させるつもりだったらしい。

文永の役
1274年。一度目の元寇。
3万もの元軍が900隻の軍艦で、対馬と壱岐を攻めたあと、博多湾に上陸、集団戦術(武士の戦いは基本的に一対一)や火器によって日本軍を圧倒した。
しかし一所懸命の精神(=と恩賞が欲しかった)で無謀な特攻を繰り返す、日本軍の予想外の根性に、元軍の首脳陣が撤退を命令、さらに偶然吹いた暴風雨によって敗退した。
これを受けて幕府は九州の異国警固番役を強化し、博多湾ぞいに石塁を築いた。

弘安の役
1281年。二度目の元寇。
南宋を滅ぼした元が今度は14万2000人の兵士と4400隻の軍艦を率いて襲撃してきた。
しかし今度も台風によって艦隊は一瞬にして壊滅、元軍を追撃した日本軍は海上で強襲し、元軍の4分の3を撃破。日本軍は大勝利した。
一説には、元が高麗に軍艦を突貫工事で建造させたため、神風でみんな沈んでしまったと言う。
この戦争の後、幕府は朝廷管轄の全国の荘園や公領からも武士を動員する権利を得た。
また博多に鎮西探題(ちんぜいたんだい)として北条一門を派遣し、九州の政務や裁判、御家人の指揮に当たらせた。

得宗専制政治
西国一帯の武士の支配権が確立されるとともに、北条氏の家督である得宗の権力も強大なものになった。
得宗の家臣、御内人(みうちびと)と御家人の対立は激化し、9代執権北条貞時の頃には、元寇の戦後処理を行った有力御家人の安達泰盛が、御内人の内管領平頼綱に滅ぼされる霜月騒動が起きた。
平頼綱は、その後成長した北条貞時に滅ぼされたが、これ以降北条氏と御内人は独裁政治を行うようになった。
全国の守護の半分以上、地頭のほとんどが北条ファミリーに独占されてしまい、得宗専制政治は多くの不満を生むようになった。

鎌倉時代の農業
二毛作:一年に米と麦を栽培する。
刈敷:刈った草を田に敷いて肥料にする。
草木灰(そうもくかい):草木を焼いた灰を肥料にする。
荏胡麻(えごま)の栽培:それをさらに麻布を作った。

鎌倉時代の経済
定期市:荘園や公領の中心地、交通の要所、寺社の門前で開催。
三斎市:月に3回行われる市。
行商人:中央から地方へと工芸品や織物を売りに行く商人。
見世棚:奈良や鎌倉などの都市にある常設小売店。
問丸:年貢運送管理や商品の中継、委託販売を行う、物流を専門にした組織。
座:商工業者の同業者団体。公家や寺社に賄賂を贈り、その見返りに販売権を独占した。
貨幣経済:米といった現物支給ではなく、支払いが宋銭などの貨幣になった。
為替:遠隔地取引の際に金銭の輸送を手形で代用すること。
借上(かしあげ):高利貸業者。

永仁の徳政令
元寇での恩給が期待以上に不十分、分割相続の切り返しで所領が細分化、貨幣経済の発展などによって御家人たちの生活は困窮していた。
これを受けて北条貞時は永仁の徳政令を出し、御家人の質入れを禁止し、彼らの借金を帳消しにしたが上手くいかず、畿内や周辺では、地頭や御家人ではない新興武士たちが悪党となり荘園領主に抵抗するようになった。

正中の変
朝廷では後深草天皇の流れを汲む持明院統と、亀山天皇の流れを汲む大覚寺統が皇位継承権で争い、幕府の介入でとりあえず交互で皇位につくようにしていたが(両統迭立)、これに不満を持っていた大覚寺統の後醍醐天皇は、得宗専制政治に対する御家人たちの不満を利用して、1324年に倒幕計画を試みるが幕府側に情報がもれて失敗する。

元弘の変
懲りない後醍醐天皇は女装して御所を抜けると1331年に再び挙兵をして、やっぱり失敗。これにより後醍醐天皇は隠岐に島流しにされた。
しかし後醍醐天皇の息子の護良親王や、大阪河内国の豪族の楠正成(くすのきまさしげ)は、悪党などの反幕勢力を結集させて幕府軍に宣戦布告、隠岐を脱出した後醍醐天皇も倒幕を呼びかけるようになると、呼応する者が急増、有力御家人で幕府軍の指揮官だった足利高氏は北条高時の「高」を与えられたことも忘れたのか、天皇側に寝返り六波羅探題を襲撃、群馬県上野国の御家人新田義貞も鎌倉に攻め込み、北条高時を滅ぼした。これにより1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
ちなみに、この功績(寝返り)を認められて足利高氏は、後醍醐天皇から「尊」の字をもらったのだが、逆に言えばご褒美はそれくらいだった為(高い地位に就かせてもらえなかった)、後醍醐天皇と足利尊氏の間にはしこりが残ることになった。

鎌倉文化
武士の質素で力強い文化と、政権を武士に奪われた貴族のノスタルジックな文化が見られた。

鎌倉新仏教
旧来の難しい学問や祈祷を重視するのではなく、庶民など広い階層の人々を取り込むために、念仏や題目、座禅など誰でもわかりやすい修行を中心としている。
浄土宗:法然。専修念仏。『選択本願念仏宗』。知恩院。
浄土真宗:親鸞。悪人正機説。『教行信証』。本願寺。
時宗:一遍。踊念仏。『一遍上人語録』。清浄光寺。
日蓮(法華)宗:日蓮。『立正安国論』。久遠寺。
臨済宗:栄西。幕府に広まった禅宗。『興禅護国論』。建仁寺。
曹洞宗:道元。山中でひたすら座禅。『正法眼蔵』。永平寺。

旧仏教の動き
鎌倉新仏教に刺激され、法相宗の貞慶(じょうけい)と華厳宗の明恵(みょうえ)は南都仏教を復興し、律宗の叡尊(えいぞん)と忍性(にんしょう)は戒律を重んじながら、貧しい人や病人へ赤十字的な慈善事業を行った。

中世文学
『新古今和歌集』:藤原定家が後鳥羽上皇の命で編纂。
『山家集』:西行が平安末期の動乱をふまえて詠んだ。
『金槐和歌集』:源実朝の歌集で万葉調。

『十訓抄』:儒教に基づいた教訓を記述。
『沙石集』:仏教説話集。

『方丈記』:鴨長明の随筆。世の中の無常を描く。
『徒然草』:吉田兼好の随筆。動乱記の人間観察。
『海道記』:作者不詳。東海道を取り上げた紀行文。

『水鏡』:四鏡の第3弾で古代~平安時代までの歴史を振り返る。
『吾妻鏡』:作者不詳の歴史物語。幕府の歴史を記述。
『愚管抄』:源頼朝の友達、九条兼実の弟の慈円による歴史物語。

『平家物語』:平家の興亡を描いた軍記物語。琵琶法師が文字の読めない人に語った。
『保元物語』:保元の乱を源為朝を中心に記述した歴史物語。

鎌倉時代の学問
貴族の過ぎ去った栄光を懐かしむ風潮があった。
有職故実(ゆうそくこじつ)という朝廷の儀式や先例を研究する学問が流行り、金沢には金沢文庫という私設図書館が建てられた。新書レーベルみたいな名前だけど。
また宋学(朱子学)も伝わり、その中の大義名分論は後醍醐天皇の倒幕運動の理論的裏付けになった。
さらに鎌倉仏教の影響を受けた神道理論が、伊勢神宮の渡会家行(わたらいいえゆき)によって作られ、伊勢神道もしくは度会神道と呼ばれた。伊勢神道は、仏>神と考えた本知垂迹説とは真逆で神>仏と考えた。

鎌倉時代の建築
東大寺南大門:大陸的な雄大さを持つ大仏様という建築様式が特徴。
円覚寺舎利殿:整然とした美しさと繊細さを持つ禅宗様(唐様)という建築様式が特徴。
蓮華王院本堂:平安時代からの和洋建築。
観心寺金堂:大仏様+禅宗様の折衷様の建築物。

鎌倉時代の芸術
西洋のルネサンスのように、ありのままの人間を肯定するような、写実的な表現が見られ、蒙古襲来絵巻、平治物語絵巻、法然上人絵伝、一遍上人絵伝、春日権現験記といった絵巻物や似絵という肖像画が描かれている。
彫刻では運慶と快慶が作った東大寺南大門金剛力士像が有名。
書道では、和と宋の書風を組み合わせた青蓮院流(しょうれいいんりゅう)を創始した尊円入道親王の『鷹巣帖』がある。

平安時代覚え書き③

平安時代後期
大河ドラマ「たいらの~きよもり~!」の時代だと言っていい。なんといっても白河上皇の院政と平氏の台頭、これに尽きる。どちらも専制的なのも印象的。
地方の勢力に過ぎなかった武士は、もはや中央の皇族や貴族の権力争いに必要不可欠な存在となってしまった。

後三条天皇
1068年即位。藤原頼通の娘に子どもができなかったため、摂政や関白を外戚とせず、大江匡房(おおえまさふさ)などの学者をブレーンにし天皇親政を行った。
ちなみに息子の白河上皇が行ったことで有名な院政を考案したのも後三条天皇である。
1069年には延久の荘園整理令を出し、公領を圧迫するほどまでに増えすぎた荘園の整理に乗り出した。
荘園整理令はかつて醍醐天皇も行っているが、今回は前回の失敗を踏まえて、国司に丸投げするのではなく、中央政府が直接荘園整理に乗り出した。
中央政府は記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園所有者と国司が提出した書類を比較し、荘園を摂関家のものも含めて一つ一つ厳重にチェックした。そして新しい荘園や書類に不備がある荘園に対しては運営停止を命じた。

荘園公領制
後三条天皇の取り組みはかなりの成果を上げ、不明瞭だった公領と荘園の区別も明確化され、公領は郡、郷、保という単位に再構成、豪族や開発領主にその徴税を請け負わせた。
公領の実務の方は目代の指揮のもと、庁官人に行なわせた。
公領や荘園の耕地の大部分は名(みょう)となり、領主はその耕作を田堵に行わせ、年貢(米や絹)、公事(工芸品や特産物)、夫役(勤労奉仕)などを課した。
しかし、区別が明確になったとは言え、公領と荘園の運営システムは割とかぶっていて(中央政府が直接監督すべき公領も現地の豪族や開発領主に一任していたなど)、大宝律令以来の国>郡>里という行政区画と、新設された郡、郷、保という公領の土地単位、さらにそのどちらにも組み込まれない私有地である荘園が同時に共存するような状況になっていた。この体制を荘園公領制と言い、院政期にはさらに広がっていった。
全国の受験生泣かせの、こういったごちゃごちゃした状況は、豊臣秀吉が太閤検地をして一元化してくれるまで続くことになる。Ohボーイ。
実際この土地の本当の所有者は誰だかわからないこともあったんだってさ。

白河上皇の院政
白河天皇は1086年に当時8歳の堀河天皇に皇位を譲ると、院庁を作り、そこから出される院庁下文(いんちょうくだしぶみ)や上皇の命令である院宣(いんぜん)などを用いて、天皇の影で政治の実権を握りだした。
白河上皇は、院の御所を北面の武士に警備をさせ、源平の武士を側近に取り立てるなど、その権力を強化させていった。
その力は天皇の代理に過ぎない摂政や関白を大きく凌ぎ(つまり事実上の天皇)、しかも天皇のように法や先例に拘束されなかったため、やりたい放題ができた。

院政期の上皇
白河上皇が始めた院政はその後、鳥羽上皇、後白河上皇と継承され100年あまり続いた。彼らは、自分の側近、院近臣(いんのきんしん)をガッツリ稼げる国の国司に任命し、上級貴族には一国の支配権を与える知行国制度を実施、さらに上皇自身が自分の国の収益を握る院分国の制度も作り出した。
これにより公領は、上皇や知行国主、国司などの私有地と変わらなくなってしまった。
また鳥羽上皇の時代には、上皇への荘園の寄進が増加、その見返りとして不輸や不入の特権が当たり前のように与えられたので、荘園の独立性はかなり強まった。
こうして私有地化された公領と寄進地は院政の財政基盤となった。
院政期の上皇は、強欲な割に仏教を厚く信仰していたため、出家して法皇になった。そして京都東山の法勝寺(ほっしょうじ)といった大寺院建設の費用を捻出するために、位やポストの売買(成功)に手を染め、政治はすごい乱れた。国司のポストは金さえあれば購入できたのである。
それでも金が足りないと、上皇は大寺院の荘園の一部を武士を動員して取り上げようとし、大寺院が結成した武装組織である僧兵の激しい抵抗を受けた。
これにはさすがの白河上皇も「いくらオレでも鴨川の洪水と賽の目と延暦寺の僧兵だけはどうにもならねえや」と語ったという。
闘いが大好きな下級僧侶で組織された僧兵は、国司と争い、朝廷に要求を突きつける強訴まで行う大勢力と化していた。その中でも特に興福寺と延暦寺の僧兵は、奈良法師、山法師と呼ばれ恐れられた。殺生アリなんかい。

伊勢平氏の台頭
伊勢平氏とは伊勢と伊賀を地盤とする平氏。
源義家ブームで爆発的な人気を博したものの、彼が亡くなると落ち目になった清和源氏とは対照的に、院政期において地道にその勢力を拡大させていった。

平正盛
伊勢平氏の四代目にあたる。
検非違使や追捕使を勤めていた彼は、出雲で源義家の残酷なバカ息子が反乱を起こした源義親追討事件で一躍時の人となり、中央政界に進出するきっかけを作った。

平忠盛
平正盛の子で平清盛の父の平忠盛は瀬戸内海の海賊を鎮圧、鳥羽上皇の院近臣となった。

保元の乱
1156年。「たいらの~きよもり~!」が大活躍した二つの戦争の一つめ。
鳥羽法皇が死んだあとの跡目争いで勃発。
時の院、鳥羽上皇は、祖父の白河上皇の子だとされる崇徳天皇(すとくてんのう)を嫌い、彼を譲位させ、自分の弟の後白河を天皇に即位させた。
勿論崇徳上皇は納得がいかず、後白河天皇を退位させようと武士を動員、朝廷を二分する戦争が起きた。
後白河天皇は側近、藤原通憲(ふじわらのみちのり)のアドバイスを受け、平清盛や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士に夜討ちや奇襲攻撃など、かなりずるい事をさせて戦乱に勝利。
敗れた崇徳上皇は讃岐に島流し、後白河天皇は晴れて上皇になり院政を始めた。

平治の乱
保元の乱の三年後、1159年に起きた戦争。
保元の乱において崇徳上皇側についた自分の父親まで斬った源義朝は、平清盛ばっかり後白河上皇に気に入られているとジェラシーを募らせ、藤原信頼(ふじわらののぶより)と共に兵を挙げた。
彼らは、後白河上皇を幽閉し、上皇の側近の藤原通憲を自殺に追い込んだが、平清盛がこれを鎮圧、義朝軍はまだ子どもだった源頼朝を残して、ほとんど処刑されてしまった(当時13歳だった頼朝は伊豆に島流し、赤ちゃんだった弟の義経は寺に預けられた)。

平治政権
平清盛は後白河上皇を武力で支え、上皇のために蓮華王院を建設、1167年には武士として初めて行政機関のトップである太政大臣に任命された。
平清盛はかつての藤原家のように、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、そこで生まれた子、安徳天皇の外戚となった。
伊勢平氏の一族は、それぞれに最高のポストが与えられ、彼らは、各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、さらに西国一帯の武士を家人として従えた。
伊勢平氏は全盛期には、日本の半分の知行国や500あまりの荘園を所有するまでになっており、武士でありながら芸術文化にも造詣がある貴族的な性格を持ち合わせていた。
また、平清盛は神戸に港を作り、父が始めた日宋貿易をさらに推進させた。とはいえ、宋と正式に国交を開いていたわけではなかったが、日宋貿易は平時政権の基盤となる、珍宝や宋銭、書籍などをもたらした。
あともともと神聖な場所とされた厳島に神社作ったのも清盛。

鹿ケ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)
とはいえ平治政権はかなり専制的だったため、旧来の貴族を中心に不満を持つ者も多く、1177年には後白河法皇の側近、藤原成親(ふじわらのなりちか)や俊寛(しゅんかん)たちが平氏打倒を企てた。
平清盛はこの陰謀の関係者を一網打尽にしたが、平時政権に対する不満は収まらなかった。

院政期の文化
院政期には貴族文化に、新たに台頭した武士や庶民の文化が混ざり合った。
浄土教は全国的に普及、地方には阿弥陀堂が建設された。
また貴族や庶民の間で流行った田楽や猿楽もこの頃生まれている。

『大鏡』
~鏡シリーズ第1弾。「大根(今)水増し」の語呂合わせで覚える四鏡のひとつで、白河上皇の時代に書かれる。平安時代前期~中期までの藤原北家の栄華を、200歳近く長生きした二人のお爺ちゃんが若い侍に語る、対話形式の歴史物語。
同じく平安末期に書かれた『今鏡』は第2弾。平安中期~平安末期を今度は長寿のお婆さんが回想する。

『今昔物語集』:日本、インド、中国の説話(伝承された物語)集。
『将門記』:平将門の乱を描いた軍記物語。
『陸奥話記』:前九年の役を描いた軍記物語。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』:後白河法皇が民間の歌謡(今様)を学んで作った。

四大絵巻
『鳥獣戯画』:動物を擬人化した異色の作品。
『伴大納言絵巻』:応天門放火事件を描いた絵巻。
『信貴山縁起絵巻』:信貴山の修行僧、命蓮(みょうれん)の説話を描いた絵巻。
『源氏物語絵巻』:内大臣三条西実隆によって書かれ、いい収入になったらしい。

平安時代覚え書き②

平安時代中期
かの有名な藤原一族による摂関政治の最盛期。めっちゃ栄えたが、藤原頼通の娘が子どもを産めなかったことから急速に衰退。あの欠けることのない満月のようにこの世はオレ様の思い通りだぜ!と歌った藤原家の栄華はわりとあっけなかった。
また10世紀に入ると、地方でないがしろにされた豪族や農民が武士化、一大勢力となっていく。

藤原家の外戚政治
外戚政治とは自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた皇子を天皇にして、天皇のおじいちゃんとなることで、天皇をサポート(=操縦)する摂政(天皇が幼少時に国政を代行)や関白(成人した天皇を補佐)の地位につくこと。
奈良時代、文武天皇に娘を嫁がせ、その子どもを聖武天皇として即位させた藤原不比等以来、藤原家の常套手段になった。
しかし、古代からの慣習で母方の一族が力を持つものの、当時の天皇は一夫多妻制で、自分の娘がうまく天皇の目にとまり、さらにその間に男の子が生まれても、その子を天皇に即位させるためには激しい競争があったため、なんだかんだで経済力やコネがものを言った。帝に寵愛された『源氏物語』の皇子、光源氏も母方の実家の身分が低かったため、天皇にはなれなかったという経緯がある。
成功(じょうごう)は朝廷の儀式や寺社の造営に私財を投じる見返りに官職が与えられることで、重任(ちょうにん)は金を払うことで高収入の官職に再任(任期継続)してもらうこと。
このような政治腐敗が進み、地方の政治もないがしろにされた。

藤原北家
藤原不比等を父に持ち、奈良時代の長屋王の変で活躍、その後全員天然痘で死んじゃった藤原四兄弟を覚えているであろうか。
藤原百川が光仁天皇を即位させ、奈良時代末に磐石となった藤原家だったが、今度はその四兄弟の子孫たちが内輪揉めを起こしてしまう。
その中でも中心的な地位にまで上り詰めて平安中期に一人勝ちしたのが、次男の藤原房前の子孫である藤原北家であった。
ちなみに、長男の武智麻呂→南家、三男の宇合→式家、四男の麻呂→京家で、三男の式家は薬子の変で藤原冬嗣(北家)の働きによって失脚している(薬子兄妹は藤原式家)。あれも藤原四家の勢力争いだったのだ。

承和の変
842年。藤原北家で藤原冬嗣の子の藤原良房が、大伴氏(懐かしいな)の子孫の伴健岑(とものこわみね)を処罰した事件。
嵯峨天皇の時代はかなり平和だったものの、天皇の皇位を兄→弟→兄の子→弟の子という順番で回していたので、この慣習は外戚政治を試みる藤原家にとっては、じれったくて都合が悪かった。
また、嵯峨天皇は引退して上皇になったあとも実力があり、藤原家ににらみを効かせていたので、嵯峨天皇の息子の仁明天皇(にんみょうてんのう)に妹が嫁いだ藤原良房も、甥っ子の道康親王をいきなり天皇に即位させることができずやきもきしていた。これまでの慣例で言えば、仁明天皇の次の天皇は、嵯峨天皇の弟(純和天皇)の子、恒貞親王(つねさだしんのう)になるのが筋だったのである。

通例
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→恒貞親王(弟の子)

しかし政界の重鎮の嵯峨天皇が亡くなると、藤原良房は恒貞親王を飛び越して、仁明天皇の次に道康親王を即位させようと画策した。

良房の計画
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→道康親王(兄の孫)

この動きを察知し、警戒したのが恒貞親王の側近の伴健岑だった。
そこで藤原良房は彼ら恒貞親王派がクーデターを企てていると言いがかりをつけて、まとめて逮捕。これにより藤原良房はこれまでの慣例を破って、次の天皇は前の天皇の子どもがなれるという新たな流れを作ったのである。かなり強引だけど。

清和天皇と藤原良房
嵯峨天皇政権で秘書(蔵人頭)を務め、承和の変で恒貞親王派を処罰した藤原良房は、外戚政策で自分の孫を清和天皇に即位させると、自分は摂政となった。
摂政は聖徳太子など、代々皇族が担ってきたが、藤原良房は初の皇族以外の摂政だった。このように身内から摂政や関白を出した藤原家を藤原摂関家、摂政や関白に上り詰めた人を氏の長者と言う。

応天門放火事件
866年。清和天皇の家(大内裏)が誰かに放火されるというとんでもない事件。
事件後に大納言の伴善男が「犯人は嵯峨天皇の七人目の息子の源信(みなもとのまこと)だ」と告発、源信は「まったく身に覚えがない」と無罪を主張した。
当時高校生くらいだった清和天皇は、藤原良房の意見を聞いて、とりあえず源信の処分を保留。真相は闇の中かと思われたが、事件から五ヶ月が過ぎたある日、「伴善男が清和天皇の家に火をつけているところを見た」という衝撃的なタレコミがされて、清和天皇はお手上げ、藤原良房を摂政に正式に任命し、伴善男の取り調べをさせた。
さらに、伴善男の取り調べ中、タレコミをした人の娘が伴善男の家臣に殺されるという殺人事件も発生、その犯人に応天門の放火事件についても追求したところ、「伴善男が火をつけた」と自白。
伴善男は全財産を没収され島流しにされた。これによりヤマト政権からの有力豪族、大伴氏は完全に歴史から姿を消し、藤原家のさらなる躍進につながった。
ちなみに、この放火事件の様子は『伴大納言絵巻』にも描かかれており、本当どうでもいいけれど、中学校美術の教育実習の際、授業で取り上げたことがある。なんか4コマにまとめて、空欄のフキダシを追加して生徒にセリフを考えさせてた気がする。

光孝天皇と藤原基経
藤原基経(ふじわらもとつね)は藤原良房の養子で彼の後継者。
884年に仁明天皇の子の光孝天皇が即位すると関白となった。

阿衝の紛議(あこうのふんぎ)
光孝天皇の次に即位したのが光孝天皇の息子で藤原家を外戚としない宇多天皇(うだてんのう)だった。宇多天皇は自分を天皇に推薦してくれた太政大臣の藤原基経を関白から解任して(厳密には藤原基経が“形式的”に辞退した)、阿衝という形だけの名誉職にしようとしたが、これに反発した藤原基経が職務放棄(スト)、慌てて宇多天皇はこの辞令を撤回した。
この時、天皇陛下に対してマジギレした藤原基経に対し、怒りを収めるよう文章を送って諭したのが、文章博士の菅原道真だった。

宇多天皇と菅原道真
とは言うものの宇多天皇は藤原基経が亡くなると、摂政と関白を置かず、その代わりに学者の菅原道真を重用した。菅原道真は「唐から学ぶものはほとんど学んだ」と、遣唐使を廃止したことで有名。

藤原時平
894年に醍醐天皇が即位すると、藤原基経の息子の藤原時平は、901年に菅原道真を九州の大宰府に左遷させた(昌泰の変)。その後失意のうちに亡くなった菅原道真は、朝廷に大きな雷を落とし、祟りだとみんなをビビらせ、その後学問の神様として祀られた。

醍醐天皇
醍醐天皇は父親の宇多天皇同様、摂政と関白を置かなかった。
天皇自ら政治を行うことを天皇親政と言う。
醍醐天皇は延喜の荘園整理令で荘園の不正の撲滅に取り組み律令制度の立て直しを図っている。

朱雀天皇と藤原忠平
次に即位した醍醐天皇の息子の朱雀天皇には、藤原基経の息子で藤原時平の弟の藤原忠平が摂政と関白を務めた。これにより藤原家の勢力は維持された。

村上天皇
兄の朱雀天皇から引き続き藤原忠平が関白を務めたが、彼が亡くなるとやっぱりその後は摂政や関白は置かなかった。
政治家だけでなく、芸術家としての才能にも恵まれた村上天皇は、平将門や藤原純友が起こした承平天慶の乱によって逼迫した朝廷の財政を改善させるべく倹約に努め、あの清少納言も絶賛、醍醐天皇の治世と共に延喜・天暦の治とカリスマ的に称えられている。
当然、藤原家にとっては目の上のたんこぶ的な天皇であったことは言うまでもない。

安和の変(あんなのへん)
969年。左大臣で醍醐天皇の皇子の源高明(みなもとのたかあきら)源満仲(みなもとのみつなか)の策略によってやっぱり九州に左遷される事件。源高明は村上天皇派。
これによって藤原氏の政敵は誰もいなくなり、摂政や関白の職は彼らが独占するようになった。で、案の定、今度は藤原北家間の戦いが始まるのであった。
ちなみにこの事件によって源満仲一族は藤原氏に取り入り、以後多田源氏としてその勢力を拡大していく。多田とは兵庫県の地名。

藤原道長
藤原一族間の争いを収めたのが、ご存知、藤原道長で、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇はみんな藤原道長の外孫である。天皇親政を試みようとした三条天皇と対立した際には、三条天皇が火事にあったり目を悪くしていたとはいえ(不遇の天皇と言われる)、圧力をかけて三条天皇を引退させるまでの実力を持っていた。
文学の愛好家としても知られ、「早く続きを読みたい」と紫式部の『源氏物語』の原稿を催促したり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」というオレイズム全開の歌を歌っている。
時代が割と平和だったこともあり、政治や軍事において藤原道長自身が特に手腕を発揮するようなことはあまりなく、満州の女真族が攻めてきた刀伊の入寇の際にも「ただ海賊が対馬で暴れているだけ」と何も手を打たなかった。地方の有力者が「朝廷は頼りにならない」と見限ったのも頷ける。
藤原道長は付き合いでの飲み会があまりにも多く、そこに運動不足も重なって深刻な糖尿病を患い62歳で亡くなっている。
ちなみに彼のお抱え陰陽師として安倍晴明がいる。

藤原頼通
藤原道長の息子で、50年もの間、摂政・関白を務めた人物。
また十円玉に彫られている平等院鳳凰堂を建立したことでも有名。
この時点で藤原家の摂関政治は最盛期を迎えるが、後冷泉天皇に嫁いだ娘の寛子が子どもに恵まれなかったため、藤原摂関家は絶頂から一気に下り坂になってしまう。
しかし寛子自身は明るく優しい皇后で後冷泉天皇と仲がよく、昭和天皇の皇后の97歳に次ぐ、長生きをした(92歳)。案外幸せだったのかもしれない。

荘園の発達
荘園の始まりは奈良時代の墾田永年私財法で、貴族や寺社が農民を使って開墾させた荘園を自墾地系荘園、既に開墾されていた土地を誰かが買収した荘園を既墾地系荘園といい、この二つをまとめて墾田地系荘園と呼んだ。

9世紀末、貴族や寺社、地方豪族が経営する荘園では、律令制度が機能不全に陥り、戸籍や計帳の記載をちょろまかして実際よりも少ない税を納める不正が横行した。
そこで醍醐天皇は延喜の荘園整理令において律令制度を立て直し、不正をなくそうとしたが、国司に荘園の整理を任せたため効果は薄く、税収は落ち込んだ。

10世紀前半、政府は一国の統治をやっぱり国司に任せ、その見返りに一定額の税の納入を国司に請け負わせるようになった。このような徴税請負人になった国司は受領(ずりょう)と呼ばれた。
受領は戸籍記載の不正に対抗するため、課税対象を戸籍(=人)ではなく田地に変更し、田地をという単位に分けて、田堵(たと)と呼ばれた有力農民に一年契約で耕作を請負わせた。
この時代には、祖調庸は官物、雑徭は臨時蔵役と名称が変更されている。
受領の中には、あまりの暴政で有力農民たちから訴えられた藤原元命など私腹を肥やす者もおり、赴任された国にろくに行かず、目代という代理人を派遣させるだけで収入を得る受領も多かったという。これを遙任と言い、まあ、とにかく地方には行きたくなかったらしい。今よりずっと僻地だっただろうし。

一方の現場型の田堵はやがて多くの下人を抱えて大規模経営を行うようになり、土地の所有権を示すために自分の土地に名前を付ける名主(みょうしゅ)に成長、さらに寺院や豪族に頼らず自ら開墾し土地開発を行なう開発領主にメガ進化した。

田堵→名主→開発領主→荘官

10世紀以降、律令制度の衰えを受けて、開発領主は国司ではなく、それよりも地位が上の中央貴族や寺社に直接年貢を納めたり田地を寄進するようになり、国司や周囲の領主から自分の土地を守ってもらう後ろ盾を得ようとした。これを寄進地系荘園といい、この時の開発領主を荘官、寄進を受けた権力者を領家と言った。
そして、その領家がさらに上位の階級の貴族や皇族に寄進をした場合、その権力者は本家という上級領主となった。

寄進系荘園のヒエラルキー
本家>領家>荘官

開発領主は政府や国司から税を免除され(不輸)、特権階級化し、その後不輸の対象や範囲をめぐって国司と開発領主は対立を始めた。開発領主は領家の後ろ盾のもと、国司が派遣する検田使を荘園に立ち入れないようにしたため(不入特権)、中央と地方の対立はさらに激化した。

武士の成長
9世紀末に律令制度が機能不全に陥ると、各地の豪族や有力農民、国衙(国司の役所)の役人、荘官などが、支配下勢力の維持と拡大を目指して武装。兵(つわもの)=武士へと成長した。
彼らは惣領と呼ばれた本家のリーダーを中心に、兄弟や子孫を家の子(分家)として従え、さらにその下に血のつながりのない家人や郎党を集めて武士団を形成した。

武士団のヒエラルキー
棟梁>惣領>家の子>家人・郎党

彼らは家同士で闘争を繰り返し、中央から派遣されてくる国司にも反抗した。
このような武士団を率いたリーダーが棟梁で、地方の大豪族や、任期を終えてもなお地方に残った国司、中央から武士の鎮圧に派遣された武官などがその地位についたが、中でも有名なのが桓武天皇の子孫の平高望(たいらのたかもち)を祖とする桓武平氏と、清和天皇の子孫の源経基(みなもとのつねもと)を祖とする清和源氏だった。
彼らは天皇の血を引くものの、母親の地位が低いことで出世競争に敗れた皇子たちであり、中央でくすぶっているよりは、地方で武士団を率いたほうがマシだと考えたのだった。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1019年に、九州北部が満州に住んでいた女真族の海賊に攻められた事件。
藤原道長ら中央政府は、対馬で海賊による拉致・虐殺が起きているというのに、何ら手を打たず、とうとう女真族は博多湾にまで迫ってきた。
藤原道長との政争に敗れ、大宰府に左遷されていた大宰権帥(だざいのごんのそち。ぶっちゃけ閑職)藤原隆家は現地の九州の武士を率いてこれを撃退、これにより武士団の形成は九州北部にまで及んでいたことが分かっている。
ちなみに「刀伊」とは女真族のことで、朝鮮ではそのように呼ばれていたらしい。

承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
さらに10世紀半ば、中学校の歴史の教科書にも取り上げられる大きな武士の反乱があった。
それが承平天慶の乱で、関東地方で起きた平将門の乱と瀬戸内地方で起きた藤原純友の乱のこと。

平将門の乱
東国の平将門が、常陸(茨木)、下野(栃木)、上野(群馬)など東国の大半を占領して新皇を自称した事件。
940年、同じ桓武平氏の平貞盛や、下野押領使(栃木県警)の藤原秀郷らによって、新皇自称後わずか二ヶ月で滅ぼされた。
ちなみに平貞盛は平清盛のおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん。
しかし平将門は、中央から派遣されてきた強欲な国司をやっつけてくれたと地元の人に英雄視され、神田明神の祭神となった。
また、はねられた首が空を飛んで落ちたという大手町の首塚は工事で移転しようとすると謎の事故が起こるというサンクチュアリーになっている。ちなみに「かんだ」とは平将門の首を失った「からだ」という意味らしい。

藤原純友の乱
平将門の乱と同時期に瀬戸内海で起きたのが藤原純友の乱で、彼はもともと伊予の国(愛媛県)の国司として派遣された貴族だったのだが、任期満了後も現地にとどまり、939年に地元の海賊たちを従えて、伊予の国府や北九州の大宰府を焼き討ちにしてしまった。
これは941年に源経基と小野好古(おののよしふる)によって鎮圧された。
平将門の乱との共通点は、どちらも力を持った武士の反乱で、さらに朝廷ではなく地元の武士がこれを鎮圧しているという点である。もはや朝廷は武士の力なくして、地方を平定することはできなくなっていたのである。
武士の実力を認めた朝廷は、彼らを侍として受け入れ、宮中や都、貴族のSPとして雇うようになった。天皇の身辺警護に当たった滝口の武士などがこれで、平安京内裏の清涼院の滝口という場所に詰所があったからこう呼ばれた。
また地方では受領(国司)直属の館侍や、国衙の軍事組織の国侍、警察職の押領使や追捕使に任命された。

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
1028~31年。平忠常が房総半島の上総で起こした乱で、これを鎮圧した清和源治の源頼信(みなもとのよりのぶ)は、清和源治の東国進出のきっかけを作った。
ちなみに源頼信は、安和の変で暗躍した源満仲の息子、藤原純友の変で活躍した源経基の孫に当たる。

前九年の役
陸奥(東北地方太平洋側)で国司にたてついた豪族の安倍頼時を、源頼信の息子の源頼義(みなもとのよりよし)が滅ぼした戦い。
9年続いたからこう呼ばれる。
この勝利の影には出羽(東北地方日本海側)の豪族の清原武則の援助があった。これにより清原氏は東北全体を支配できるようになった。

後三年の役
こちらは陸奥と出羽に勢力を伸ばした清原一族の内紛。3年続いた。
源頼義の息子の源義家(みなもとのよしいえ)が、藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けて活躍した。
藤原清衡は奥州藤原氏を起こし、前九年の役と後三年の役で亡くなった人々を弔うために中尊寺金色堂を建立(三万枚の金箔、沖縄の夜光貝、アフリカゾウの象牙を使うなど賢覧豪華)、京都を凌ぐ黄金都市を岩手県平泉に作ることを夢見た。
清原だったのになぜに藤原?って話だけど、馬や砂金を送って藤原家にそれだけ接近できる地位にまで上り詰めたっていうこと。あと藤原清衡って出自がけっこう複雑で、実は清原氏に滅ぼされた安倍家の子で、お母さんが清原氏と再婚したことで、清原氏の養子に入ったという波乱万丈の人生を歩んでいる。

源義家
朝廷から恩賞が出なかった際、自分の財産をなげうって部下の武士たちの労をねぎらったため人望を集め、東国武士の棟梁としての地位を確立した。
源義家の人気は東国にとどまらず中央にも届き、彼に荘園を寄進するものが相次ぎ、最終的には寄進を禁じていた朝廷も源義家を認め、中央からパージした源氏は再び中央でのし上がっていくことになったのである。

国風文化
平安時代中期は遣唐使が廃止されたため、国家としてはどこの国とも国交がなく、大和絵や日本風の書道(和様)など大陸文化を日本独自に熟成させた国風文化が栄えた。
貴族は寝殿造の邸宅に住み、男性は正装の束帯(普段着は衣冠と言う)、女性は女房装束(十二単)を着用していた。
男性の成人式は元服、女性の成人式は裳着(もぎ)と呼ばれ、元服は10~15歳で行われた。
この時代、渤海は10世紀前半に遼に滅ぼされ、朝鮮半島の新羅は高麗に滅ぼされた。中国の唐は907年に滅んでいる。みんな逝っちまった。

国文学
ひらがなやカタカナが開発され、文学表現の幅が広がったことで発達した。
かな物語:『竹取物語』(?)、『伊勢物語』(?)、『源氏物語』(紫式部)
日記:『土佐日記』(紀貫之)、『紫式部日記』(紫式部)、『更級日記』(菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ)
随筆:『枕草子』(清少納言)

『古今和歌集』
905年に紀貫之が編纂。初の勅撰和歌集。
あの「君が代」の歌詞も載っている(詠み人知らず)。
君が代はそもそも長寿を願う歌で、曲がついたのが明治時代(1880年に欧米に倣って日本も国歌を作った)、法的に正式な国歌になったのは、なんと小渕総理の時代で1999年(国旗国歌法)。

本地垂迹説
日本神話の神々を仏の化身と考える思想。明治時代に神道国教政策が取られると廃止された。

御霊会(ごりょうえ)
死者の祟りを防ぐために鎮魂をする儀式。それだけ政治的敗者が出ていたということらしい。

浄土信仰
阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという考え方。
10世紀半ばに諸国や京で教えを説いた空也(市聖)や、『往生要集』を執筆した源信(げんしん。みなもとのまこととは違う人!)がいる。
末法思想によれば1052年から仏法が衰え乱世になると考えられたことから、現世は諦めて来世で救われたいという人が増え、浄土教は貴族や庶民に大きく広まった。
法成寺(ほうじょうじ):藤原道長建立。
平等院鳳凰堂:藤原頼道建立。
阿弥陀如来増:平等院鳳凰堂の本尊。寄木造を完成させた定朝(じょうちょう)の作品。
高野山聖衆来迎図:来迎図(らいごうず)とは往生する人々を迎えに仏が来臨する様子を描いた絵。

平安時代覚え書き①

平安時代の概要(794年~1185年)
京都で貴族中心の優雅な社会が実現。
しかし貴族は地方をないがしろにしたため、勢力をつけた豪族(→武士団)が社会的地位を獲得。とても長い時代だったが最後はグダグダで源氏が平家を滅ぼして終わる。

平安時代前期
平安時代はとにかく長いので3部構成にします。
平安時代前期は仏教と律令制で国家を安定させようとしてイマイチうまくいかなかった奈良時代の軌道修正を桓武天皇や嵯峨天皇が試みた時期と言える。
新しいポスト(令外官)、追加の政令(格式)が作られ、山岳部に寺を立てる系の仏教や、現在の日本の仏教のスタンダードとなっている大乗戒壇もこの時代に現れる。

桓武天皇
781年に即位。藤原百川が擁立した光仁天皇の子。
天智天皇系の桓武天皇は、天武天皇系の干渉や寺院勢力の介入を断ち切るために784年に首都を京都の長岡京に移転、とにかく寺から離れたかったので東大寺も移転させずに奈良に置き去りにした。

長岡京
しかしこの首都移転計画に不穏な空気が流れる。長岡京の工事を主導していた藤原百川の子、藤原種継が暗殺され、その容疑が桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)にかけられたのだ。捕らえられた早良親王は無実を主張しハンガーストライキを試みたが、護送中に餓死してしまう。
すると桓武天皇の身内に次々と不幸が起こり、これは無実の罪で死なせてしまった弟の祟り的なものなんじゃないかと恐怖した桓武天皇は、陰陽道と風水を駆使して再び遷都を行なった。

桓武天皇の政策①平安京
長岡京のホラー的展開を受けて、平安京は風水学的にかなり立地条件が良い場所に建てている。
四神相応という考えのもと、南に朱雀(=盆地)、北に玄武(=山)、東に青龍(=川)、西に白虎(=大道)がある場所がズバリ平安京だった。「山と川による自然の砦」と呼ばれた平安京は、実際400年近い平安をもたらした。

桓武天皇の政策②蝦夷開拓
宝亀の乱などでなかなか開拓が進まなかった蝦夷に対して、797年坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命、大軍を送り込んだ。
802年、坂上田村麻呂は蝦夷開拓の拠点を多賀城から岩手県奥州の胆沢城(いさわじょう)に移し、翌年には岩手県の盛岡に、より規模のでかい志波城を作ったが水害にあったことから、胆沢城が150年間東北地方の鎮守府となった。
坂上田村麻呂は蝦夷をほぼ平定するが、平安京の造営と蝦夷開拓は国家財政と民衆の負担が激しく、継続派の菅野真道と中止派の藤原緒嗣徳政論争が起き、最終的に藤原緒嗣の意見が桓武天皇に採用されて中止となった。
これにより坂上田村麻呂はお役御免になってしまうが、彼は解任後も臨時職の征夷大将軍を名乗っていたという。

桓武天皇の政策③農村立て直し
国家からの重税が嫌で農村から逃げ出す農民や、戸籍に嘘を書いて税の負担を軽くしようとする農民(女子の方が負担が軽いので女って申告しちゃう男とか)に対し、6年おきだった班田収授の手続きを12年おきに延長したり、公出挙の利息を3割に、雑徭の期間も年間60日から30日に減らすなど、負担を軽くした。これにより農民を農村に定着させ税収を安定させようとした。

桓武天皇の政策④地方政治改革
地方では増えすぎた国司や郡司が国家財政を圧迫し、不正も相次いだ。そこで律令になかった官職(令外官という)の勘解由使(かげゆし)を新設し、国司の不正を取り締まらせた。

桓武天皇の政策⑤軍事力増強
これまでは中国の府兵制に習って農民を兵役に付かせていたが、プロの軍人ではないため質が低く、軍事力は弱体化してしまった。そこで郡司の子弟や地方の有力豪族、有力農民から、弓馬に優れた人を集めて少数精鋭の部隊を作ることにした。これを健児の制という。健児は精鋭部隊の兵士のことで「けんじ」じゃなくて「こんでい」と読む。

平城天皇(へいぜいてんのう)
父親の桓武天皇が亡くなったあとに即位した天皇。
当初は積極的に政務に臨み、『続・日本記』で削除された長岡京藤原種継暗殺事件を再び掲載したが、病弱かつ桓武天皇との仲もあまりよくなかったので、即位からたった三年で、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、退場、太上天皇(引退した天皇のこと。略して上皇)になった。
ちなみに嵯峨天皇は、その後政界の重鎮として君臨、56年の生涯においてなんと50人もの子どもを作った日本史上最強の絶倫天皇となる。

薬子の変(くすこのへん
二所朝廷の対立とは都をもう一度平城京に戻そうとする平城上皇(平城京在住)と、このまま平安京でいいだろという嵯峨天皇のあいだで起こった兄弟喧嘩。
結局嵯峨天皇が勝利し、平城上皇は出家、国政に介入していた愛人は自殺、愛人の兄は殺された。これを平城上皇の愛人の名前をとって薬子の変という。

嵯峨天皇の政策①検非違使(けびいし)の設置
検非違使とは平安京の治安を守る令外官。大雑把に言うと京都府警。

嵯峨天皇の政策②蔵人頭(くろうどのとう)の設置
天皇の傍にいて、機密文書や詔勅の取次ぎを行う、秘書的ポスト。これも令外官。
薬子の変を受け、これまでどおりに太政官に天皇の命令を通すと情報が漏れるんじゃないかと設置。定員は二名で初代蔵人頭は、藤原冬嗣と巨勢野足(こせののたり)。

嵯峨天皇の政策③弘仁格式(こうにんきゃくしき)の編纂
時代の変化に合わせて官庁の実務を合理化するために作られた政令みたいなもの。
格とは律令を補完したり修正するもの、式は施行細則のことで、桓武天皇時代にすでに着手されていたが中断されていた。
格式は、後の清和天皇や醍醐天皇も編纂しており、まとめて三代格式と言う。

弘仁・貞観文化(こうにんじょうがんぶんか)
平安時代初期の文化。唐の影響を消化していった貴族中心の文化。

天台宗(本山:比叡山延暦寺)
最澄が開く。
著書『顕戒論』で、仏教を一般にも広く伝えるために、東大寺(→国分寺)主導の授戒制度を改めて比叡山にも大乗戒壇を儲けるべきだと考えた。これは国家公務員的なお坊さんや信者の既得権益に踏み込んだ主張だったため、奈良時代からの南部六宗を中心に波紋が起きた。
大乗仏教とは、釈迦は優しい人だろうからきっとみんなを救済してくれるという、ある種の希望的観測を試みる宗派(生前の釈迦がそういうことを言ったという記録はない)。
弟子の円仁と円珍は天台宗に、呪文(真言)を唱え、指で印を結ぶ密教(経典を学ぶのは顕教と言う)を導入したが、その後両者は対立。円仁は山門派、円珍は寺門派となった。

真言宗(本山:高野山金剛峰寺)
空海が開く。
著書『三教指帰』で、孔子の儒教、老子の道教(ありの~ままの~的な思想)、仏教の中で、最も偉いのは仏教だと論じた。
823年に嵯峨天皇から教王護国寺(東寺)を授かり、布教するための道場にした。
漢詩にも心得があり『文鏡秘府論』『性霊集』などの著作がある。
さらに庶民への布教のための私立学校、綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を京都に開校している。

天台宗と真言宗の共通点
①遷都するくらい従来の仏教が嫌いな桓武天皇にハマった。
②加持祈祷(呪文唱える系の祈祷)で病気や災いを避け現世利益を求めた。
③山岳信仰と結びつき修験道(山篭りの修行)の源流になった。

密教芸術
観心寺如意輪観音像:主要パーツを一本の木材でつくる一本造りの仏像。
薬師寺僧形八幡神像:神仏習合を反映。
園城寺不動明王像:絵画。
神護寺・教王護国寺の両界曼荼羅:仏や神は大日如来の分身だよという図
室生寺金堂:山間部にある寺院。

文章経国思想(もんじょうけいこくしそう)
文学で国家を栄えさせようとする考え方。
『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』:勅撰漢詩集。

三筆
書道が上手な嵯峨天皇、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)の三人を指す。

弘仁・貞観文化の学問
明経道(みょうぎょうどう):儒教を学ぶ。
紀伝道:中国の歴史を学ぶ。
大学別曹:貴族の子が通う私立の寄宿学校みたいなもの。藤原氏の勧学院、在原氏の奨学院、橘氏の学館院など。

奈良時代覚え書き

奈良時代の概要(710年~794年)
律令制を継承し、仏教中心の社会を作ろうとした。が、大仏を作るための大増税や飢饉で農民の生活は極めて不安定だった。また、平安時代に活躍する藤原氏が勢力を増大させようと頑張るが、この時点では全然磐石ではなく、ライバル(主に皇族)と激しい政争を繰り広げた。

元明天皇
710年に都を藤原京から平城京へ移した天皇で、天智天皇の娘。
和同開珎の鋳造もこの人が行わせている。これは、平城京を建ててくれた人に対価として支払うために発行されたもので、711年には蓄銭叙位令によって流通の促進を試みたものの、平城京や畿内(大阪、京都、奈良)以外ではあまり流通しなかった。

平城京
唐の都の長安をモデルに条坊制で作られた。
条坊制とは風水に基づき、東西と南北に走る道路で碁盤の目状に都市を区画する方法。
X座標が一~四坊大路(平城京には実は七大路まである)で、その中央には朱雀大路が南北に走り左京と右京を分けている。Y座標が一~九条大路。
朱雀大路の北に天皇の住まいの平城宮がある。平城宮には天皇が生活する内裏や、政務と儀式の場所の大極殿、朝堂院、二官八省の官庁が霞ヶ関的に置かれた。

官道と駅家
地方から平城京へ続く幹線道路を官道といい、16キロごとに官吏の駅家(うまや)が置かれた。
馬に乗って急行する公務員(駅使うまづかい)が使う施設(宿泊所、食堂、厩舎)なので、決して現代の道の駅的なものではない。
官道からは支線道路の伝路が引かれ、郡家に通じていた。

国府
地方政治の中心地。政務や儀礼を行う庁舎の国衙(こくが)、や役所や倉庫、国司の居館などがあり、付近には国分寺があった。

南都七大寺
代表的な七つの官立の大寺院のことで、朝廷から保護された大安寺、元興寺、薬師寺、興福寺、東大寺、西大寺・・・そして平城京からちょっと遠いけど斑鳩の法隆寺(法隆寺の代わりに唐招提寺にする人もいる)の七つ。

藤原不比等
飛鳥時代に大宝律令を作った人で、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、さらに文武天皇と宮子の息子(この子がのちの聖武天皇)にも、別の奥さんとのあいだにできた娘の光明子を嫁がせることで、その政治的主導権を固めていった。
藤原氏は天皇家と密接な関係があるものの皇族ではなく、大化の改新に貢献した中臣鎌足が、朝廷から「藤原」の姓を賜ったことで代々受け継がれていった。
ちなみに『竹取物語』において、かぐや姫におねだりされた宝物を偽物でごまかした車持皇子(くらもちのみこ)はこの人らしい。

長屋王の変
皇族でもない藤原氏が気に入らなかったのが、聖武天皇時代の左大臣で、天武天皇の孫の長屋王だった。
自分の娘の光明子を皇后にしようとする藤原不比等を、皇族の慣習を破るものだと批判、藤原不比等が亡くなると政治的主導権を藤原氏から剥奪した。
これに反発したのが、藤原不比等の子どもたちで、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂の四兄弟は、729年に長屋王が呪いの力で謀反を企てているといいがかりを付け、居城を包囲、長屋王を服毒自殺させた。これを長屋王の変と言う。

橘諸兄(たちばなのもろえ)
長屋王を倒した四兄弟は祟なのか呪いなのか天然痘によってまとめて死んでしまう。
これにより主導権を握ったのが皇族の橘諸兄だった。
橘諸兄は、唐から帰国した学者、吉備真備(きびのまきび)と、僧侶の玄昉(げんぼう)を重用した。

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
橘諸兄の人事に納得がいかなかった藤原広嗣が九州北部の大宰府で兵を挙げた乱。
結局鎮圧され、藤原家の勢力はさらに縮小した。

聖武天皇
こういった度重なる勢力争いにうんざりしていたのが平和主義者の聖武天皇だった。
蔓延する疫病や飢餓の発生にも心を痛め、首都を平城京から恭仁(京都)→紫香楽(滋賀県)→難波(大阪)と約1~3年周期で次々と移しながら、仏教で世の中を安定させる鎮護国家の思想のもと、国分寺や国分尼寺を諸国に作らせた。これを国分寺建立の詔と言う。
743年には近江の紫香楽の宮で大仏建立の詔を発し、平城京に戻ったあとも、大仏の建立は続けられた。

孝謙天皇(こうけんてんのう)
聖武天皇が退位すると、藤原不比等の娘、光明子の子である孝謙天皇が即位した。
これにより藤原氏は勢力を盛り返すことになった。

藤原仲麻呂
光明子の甥、藤原不比等の孫の藤原仲麻呂は、橘諸兄の子の橘奈良麻呂の乱を鎮圧し(つーか「な“か”まろ」と「な“ら”まろ」が戦わないでいただきたい)、自分の義理の娘(粟田諸姉あわたのもろえ。未亡人)を淳仁天皇(じゅんにんてんのう)と再婚させることで、経済的特権を手に入れ、恵美押勝(えみのおしかつ)と改名、太政大臣まで上り詰めた。
藤原仲麻呂は、朝鮮半島を支配していた新羅を従属国にしようと侵略戦争を計画していたりもした。そのため同じく新羅と対立する、中国東北部の国渤海と友好関係を結んでいる。

恵美押勝の乱
これで藤原氏も安泰かと思われたが、光明子が亡くなり、孝謙上皇は、藤原仲麻呂が即位させた淳仁天皇と対立、政権で孤立した藤原仲麻呂は、764年に恵美押勝の乱を起こすが返り討ちにあって殺されてしまった。
淳仁天皇は淡路島に島流し、孝謙上皇が称徳天皇として、再び天皇に返り咲いた。
これにより藤原氏はまた低迷した。ちなみに称徳天皇は自分に逆らう人間に「きたなまろ」など、小学生レベルのあだ名をつけたことでも有名。

道鏡
称徳天皇政権で主導権を握ったのが、称徳天皇の体調を念仏で回復させ、彼女に寵愛された僧侶の道鏡で、称徳天皇から強大な地位(法王)を授かると強引な仏教政治を始めた。
これにより律令制時は混乱し、国家財政は逼迫してしまう。
座ると膝が3つあると言われたほど、おちんちんが巨大で、称徳天皇とはただれた関係だったという週刊誌ネタもある。

光仁天皇
二回も天皇に君臨した女帝の称徳天皇が亡くなると、天智天皇の血筋を引く光仁天皇が即位することになった。
長いあいだ天武天皇の血を引く者が天皇に即位していたこともあって、この皇位継承は電撃的だった。
これを画策したのが藤原百川(ふじわらのももかわ)で、仏教政治で社会を混乱させた道鏡を左遷、復興事業に乗り出した。
以後、藤原氏の活躍は平安時代中期に絶頂期を迎えることになる。よかったね。

蝦夷の開拓
蝦夷とは東北地方より北の地域。
ここを開拓しようと政府は、8世紀初頭に日本海側に出羽国を置き、秋田城を築いた。
太平洋側には多賀城を築いた。
奈良時代終盤780年には伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)がヤマト政権に対して反乱を起こし(宝亀の乱)、開拓はなかなか進まなかった。

南方の開拓
隼人という人々が南九州(鹿児島県、種子島、屋久島など)に大隅国を作り、薩南諸島の人々と交易を行なった。

掘立柱住居(ほったてばしらじゅうきょ)
飛鳥時代では民衆はいまだに竪穴式住居に住んでいたのだが、さすがに奈良時代になるともうちょい風通しのいい家に住みたくなって、高床式の掘立柱住居が普及するようになった。
これは基礎石はないものの(地面に直接柱を打ち込む)そこそこ頑丈で、豊富な木材さえあれば安上がりに作れるので民衆に広まった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)
723年。新たに灌漑施設を作って未開地を開墾した人は三世代にわたって保有を認めるという法律。旧来の灌漑施設を作って開墾した人にも、本人一世代に限って保有を認める。
税収を上げる効果はなかった。

墾田永年私財法
743年。開墾した田んぼは永久に開墾者のものとする思い切った法律。
この法によって耕地は拡大し、税収は一時的に上がったが、貴族や有力豪族の私有地が拡大し、東大寺などの大寺院にも大規模な開墾を許したことで、彼らに力をつけさせる結果となった。こうして出来た私有地を初期荘園という。
結局、農民の生活はますます不安定になり、貧富の格差が増大、口分田を捨てて逃亡する農民が相次いだ。逆に裕福になった農民は無許可で出家したり、貴族の従者になり税負担を逃れたりした。
奈良時代の終盤には、税は滞納し、兵士は弱体化。国家の財政や軍備に悪影響を及ぼした。

天平文化
奈良時代の文化で、特徴は唐の国際的な文化の影響と、律令国家確立後の貴族的な雰囲気。

『古事記』
天皇家の正統性をアピールするために国の歴史をまとめた国史。712年完成。
天武天皇の命を受けた太安万侶(おおやすまろ)が執筆し元明天皇に献上。
日本語を漢字の音と訓で表記したことで有名。
日本最古の歴史書だが、勅撰(天皇陛下責任編集のこと)で書かれたかどうか怪しいので正史認定をされていない。

『日本書紀』
これも国史だが『古事記』よりも対外向けで、ムチャな記述はひかえめ。720年完成。舎人親王(とねりしんのう)が編纂。

『風土記』
諸国に編纂させた地誌。
713年に完成したが、今ではほぼ完全に残っているのは『出雲風土記』のみ。

『懐風藻』
現存する最古の漢詩集。751年完成。

『万葉集』
最古の和歌集。大伴家持らが編纂。770年完成。
宮廷の歌人だけでなく、防人の歌や山上憶良の貧窮問答歌なども収録。

南都六宗
仏教理論の6つの学派のこと。

鑑真
中国の唐の僧侶で戒律の専門家。6度目の渡航でやっと来日。
自分で自分に誓うルールである戒、集団のルールである律を日本に伝えた。
律宗の中心となる唐招提寺を開く。

行基
僧侶の活動は僧尼令という法律で寺の中に限定されていたが、それを破って民衆への布教や慈善活動を行なったことで当局に弾圧された。後に大仏建立に貢献し、日本で最初に大僧正の位を授かったという振れ幅の大きい人生を送った人物。

奈良時代の建築
石の基礎や瓦を用いて壮大。東大寺や唐招提寺など。

奈良時代の彫刻
木の芯材に粘土をつけて作る塑像と、塑像の原型の上に漆や麻布をくっつけて原型を抜く乾漆像の技術が発達。乾漆像は手間とお金がかかった。
東大寺法華堂日光・月光菩薩像:塑像
東大寺法華堂執金剛神像:塑像。ギリシャ彫刻のヘラクレスとポーズが一緒。
東西寺戒壇院四天王像:塑像
東大寺法華堂不空羂索(ふくうけんじゃく)観音像:乾漆像。立像で手が4対ある。国宝。
唐招提寺鑑真像:乾漆像
興福寺八部衆像:乾漆像

奈良時代の文化財
正倉院鳥毛立女屏風:絵画。髪の毛や服や木の葉の部分に山鳥の羽毛が貼り付けられていた。
薬師寺吉祥天像:絵画。左手に宝玉を持つ女性の絵。
正倉院螺鈿紫檀五弦琵琶:楽器。現在手に入らないような大きい貝殻や琥珀がちりばめられている。
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