戦国時代覚え書き

戦国時代~安土桃山時代の概要(1467年~1603年)
近年では応仁の乱からではなく、室町幕府から中央政権としての機能が決定的になくなった明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶという説もある。
なんにせよ室町幕府は統治機構として完全に形骸化し、ツワモノたちによる群雄割拠の時代となった。ご存知、織田信長と、その部下の豊臣秀吉が、この戦乱をおさめたが、豊臣氏はその後の朝鮮出兵で失敗し、チャンスが来るまで待って待って待った徳川家康が天下泰平の世を築くことになる。

室町幕府の実権
応仁の乱のあとも室町幕府の内部では権力争いが継続しており、その実権は管領家の細川氏から、その家臣の三好長慶(みよしながよし)、そしてさらにその家臣の松永久秀へと移っていった。

鎌倉公方の分裂
関東を統括する鎌倉公方は、足利成氏の古河公方と、8代将軍足利義政の弟(実際は兄だが母親のランク的なあれで弟に)の足利政知(あしかがまさとも)の堀越公方に分裂し争った。

関東管領の分裂
鎌倉公方の補佐役の関東管領は、山内と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏が内部分裂をしていた。

戦国大名
こんな中央政府の権力争いを尻目に、地方では自ら領国を作り上げ独自支配を行う権力者、つまり戦国大名が育っていった。
15世紀末の北条早雲(鎌倉時代の執権北条家とは無関係で改名の際にあやかっただけ)もそんな一人で、堀越公方を滅ぼして伊豆(堀越)を奪うと、相模へ進出して、小田原を拠点とする戦国大名となり、彼らの子孫は関東一帯にその勢力を広げた。
16世紀に入ると、さらに多くの戦国大名が現れることになる。以下三つの系譜をまとめる。

守護大名系戦国大名
守護大名から戦国大名にそのまま移行したケース。
実は割とレアな存在で、駿河、近江を支配した今川義元や、山梨県“甲斐の虎”武田信玄、薩摩の島津貴久など下克上を一切許さなかった強大な大名が該当する。

守護代系戦国大名
守護の代理出身の戦国大名。
管領の斯波氏の守護代からのし上がった愛知県尾張の織田信長、福井県越前の朝倉義景や、上杉氏の守護代からのし上がった新潟“越後の龍”上杉謙信(旧姓:長尾)らが該当する。

国人系戦国大名
国人出身の戦国大名。広島県安芸の毛利元就や、高知県土佐の長宗我部元親など。
戦国武将の家臣たちは国人や地侍がほとんどだったので、彼らは一番家臣と近しいリーダーだったのかもしれない。

戦国大名の政策①貫高制
家臣の収入額を銭に換算して、それ(貫高)に応じて軍役を課す制度。
経済に割と強い織田信長がいち早く導入した。ちなみに自己申告制だったらしい。

戦国大名の政策②寄親・寄子制
家臣団に組み入れた地侍(子)を、有力家臣(親)に預けて監督させる手法。

戦国大名の政策③分国法(家法、壁書)
武将ごとに制定された家臣団統制や領国支配の基本法で、私婚の禁、罰則の連座制など中世法の集大成的な感じだった。
また喧嘩両成敗法など中世にはなかった新しい法も定められた。
伊達氏の塵芥集、今川氏の今川仮名目録、武田氏の甲州法度之次第、朝倉氏の朝倉孝景条々など。

戦国大名の政策④指出検地
家臣の領主や名主に田畑の面積や収入額を自己申告させ、そのデータを検地帳に登録した。

地方都市の発展
戦国大名は市場税を課さない楽市令を出すことで、経済を活性化させたため、農村の市場や町が飛躍的に増加した。
町(ちょう)とはそもそも裕福な商工業者である町衆を中心とした自治組織を指し、寺社周辺には門前町、浄土真宗の寺院の境内に商工業者が集まった寺内町、ほかに港町や宿場町などの町できた。

中継貿易
戦国時代の明は私的貿易をすべて禁じる海禁政策をとっていたのだが、北のモンゴルと南の倭寇の勢力によって衰えつつあった明には私的貿易のすべてを押さえ込む力がなく、実際には中国、日本、朝鮮、琉球、ベトナムなどの間で中継貿易が盛んに行われていた。

鉄砲の伝来
新たなキリスト教信者獲得と海外貿易圏の拡大を目指したヨーロッパは世界に積極的に進出(いわゆる大航海時代)、1543年に九州薩摩の種子島にポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントを乗せた中国人倭寇の船が漂着すると、島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は彼らが持っていた鉄砲3丁を購入した。
鉄砲は当時の最新ハイテク兵器で、というか最新過ぎて開発されたヨーロッパでもあまり実戦で使用されていなかったのだが(弓の信頼度の方が高かった)、新しもの好きな織田信長はいち早く戦争に導入し足軽鉄砲隊によって長篠の戦いを勝利に導いた。
ちなみに当時の鉄砲の価格は一丁辺りなんと2000万円以上で、その後、国産化によってコストダウンに成功、織田信長の時は1丁50万円にまで値下がりしている。
私的に貨幣を偽造できるような高い鋳造技術がここで生きたのだ。さすが物作りジャパン。
この時代の有名な鉄砲メーカーとして大阪府和泉の堺、紀伊半島の根来衆と雑賀衆、滋賀県近江の国友などがある。全部近畿地方なんだね。

南蛮貿易
その後、ポルトガル人は毎年のように九州の港に来航、1584年にはスペイン人も佐賀県肥前の平戸に来航して日本と貿易を始めた。
彼らヨーロッパ人は当時の日本人に南蛮人と呼ばれたため(酷い蔑称)、この貿易を南蛮貿易という。日本は16世紀半ばから生産量が伸びていた銀や刀、漆器などを輸出し、中国産生糸や火薬(硝石)、鉄砲を輸入した。
また人身売買(奴隷貿易)も盛んで、一人当たり4万円ほどで安売りされていた。
ほかにも天文学、医学、地理学などの学問、カボチャ、トウモロコシ、ジャガイモといった南米由来の野菜、パン、カステラ、コップ、ボタン、タバコ、地球儀、メガネ、カルタ(!)などが日本に伝わっている。
芸術分野では油絵や銅版画の技法が伝わり、ポルトガル人来航の様子を緻密な写実性で描写した南蛮屏風など西洋絵画の影響を受けた作品も描かれた。
主な貿易港は平戸、長崎、大分の御府内(ごふない)で、京都や堺、博多の商人達が積極的に参加した。

キリスト教の布教
南蛮貿易はキリスト教の布教活動とセットで付いてきた。宗教改革で信者が減ったカトリックイエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルは1549年に鹿児島にやってくると、大内義隆や大友義鎮たちの保護を受けて布教を開始した。
ザビエルは外国人に慈悲深い人物で、日本人を「異教徒の中で最も優れていて、親しみやすく善良である」と大絶賛。それと同時にキリスト教では考えられない、公然と行われるBL文化にはたまげたという。
ちなみにキリスト教の神様であるイエスは、当初は「大日」と通訳のヤジロウが超訳しちゃったため仏教の一派と勘違いされた。そこでザビエルはデウス(ポルトガル語で神様)という呼び名で布教することにした。
その後、相次いで来日した宣教師たちは教会堂(南蛮寺)を建てたり、聖職者養成学校のコレジオ(カレッジ)、神学校のセミナリオ(セミナー)を作った。
ポルトガル船は布教を認めてくれた大名領に入港したので、南蛮貿易の利益が欲しい大名は積極的にキリスト教を保護、中には洗礼を受けてクリスチャンになるキリシタン大名も現れた。

天正遣欧使節団
1582年に宣教師ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名の大友義鎮(おおともよししげ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)が、ローマ教皇のもとに派遣した少年使節団。
チームリーダーは伊東マンショでメンバーの年齢は全員中学生くらいだった。
スペイン王フェリペ2世に謁見するなどしてヨーロッパに日本人の存在を広めた彼らは、お土産としてグーテンベルグの活版印刷機を日本に持ち帰ってきた。
この技術で印刷されたローマ字による日本の古典をキリシタン版(天草版)といい、天草版『平家物語』などや『イソップ物語』、ポルトガル語の辞書が有名。

信長の野望
信長様は、尾張の守護代の分家に生まれた。
幼少時は常識破りの行動から「大うつけ」と呼ばれ、身分を気にせず町の民と遊んでいたらしい。しかし信長が中学生くらいの頃に初めて出会った斎藤道三(のちに信長の義理のお父さんになる)は、早くして信長の才能に気づいていたという。
しかしそんな斎藤道三は、長良川の戦いで実の息子のクーデターにあい、織田信長の助けも間に合わず殺されてしまう。
その後、稲生の戦いで弟の織田信勝を倒し、名実ともに尾張の主になった信長は1560年に東海一の大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ると、さらに西へ進軍し、美濃の斎藤氏を稲葉山城の戦いで撃破。
美濃を岐阜と名称を変更した信長は、ここで天下布武の印判を押し、天下統一の野望を宣言した。
1568年には、畿内を追われていた足利義昭を京都に連れ戻し、将軍職に就け、自分が将軍を凌ぐ力を持つことを大々的にアピール。
1570年、姉川の戦いで近江の浅井氏と福井県越前の朝倉氏を倒すと、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年になると将軍職の権威を復活させようと動いた足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。
この翌年には、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、1575年に徳川家康とタッグを組んで戦った長篠の戦いでは、騎馬や投石中心の武田勝頼の軍隊を最新兵器の鉄砲で撃破した。同年には越前の一向一揆も鎮圧している。
こういった宗教勢力は非常に手ごわい相手だったのだが、信長はキリスト教を保護することで、目には目を宗教には宗教をで対抗を試み、1580年には11年も抵抗した強敵石山本願寺をついに屈服させ、お館様は日本の三分の一を征服、天下統一まで後一歩というところまで及んだ。
しかし1582年、中国地方の毛利氏に手を焼いた豊臣秀吉を助けに向かうため、京都に滞在していた信長は、明智光秀の裏切りにあい自害してしまう(本能寺の変)。
これにより信長の野望は惜しくも潰えた。

織田信長の政策①関所の撤廃
寺社や公家が、関銭徴収のために設けた関所を廃止し、自由に人や物が移動できるようにした。

織田信長の政策②楽市令
安土城下で、特権的な販売権であった市座を廃止し、自由に商売をさせることで、経済を活性化させた。秀吉も信長に習って実施している。
江戸時代になると朱子学の影響でお金儲けは後ろめたいものみたいなイメージになってしまうが(だから商社を営んだ坂本龍馬や塾で月謝をとった福澤諭吉は疎まれた)、信長はアダム=スミス的に経済を自由化させたほうが最終的にはみんなが豊かになると考えたらしい。そう言う意味では、信長はやっぱり時代の先を行っていた(アダム=スミスが生まれたのはこの100年以上あと)。

豊臣秀吉の天下統一
信長の野望を継承したのが、身分にとらわれない人事がモットーのお館様に、地侍の生まれながら可愛がられた羽柴秀吉である。
彼は信長の死を知ると、戦っていた毛利氏と講和を結んで、すぐさま明智光秀を山崎の戦いで討伐した。たった11日の天下であった。ただ明智光秀は生存していた可能性があって、千利休や、徳川三代に仕えた僧侶の天海が光秀だったんじゃないかという珍説もある。
なんにせよ、三谷幸喜監督の『清洲会議』見てくれれば分かるけど、信長の敵を討って名を上げた秀吉は、信長の孫の秀信(三法師様)を、信長の息子たちを差し置いて後継者にしてしまうと、このとき対立した信長の筆頭家老、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、石山本願寺の跡地に大坂城を建設した。
1584年には、妻夫木くん・・・じゃなかった信長の次男の織田信雄&徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いを繰り広げ、実力者の徳川家康を味方につけてしまう。
1585年に関白に任命され名字が変わった藤原秀吉は、長宗我部元親を降参させ中国地方を平定、翌年には太政大臣の豊臣秀吉となり、天皇の命令という形で惣無事令を出して日本各地に停戦を呼びかけた。
このように秀吉は、後陽成天皇を京都に作った聚楽第(じゅらくだい)に迎えるなど、伝統的権威を巧みに利用することが得意だった。
でも、この停戦の呼びかけを無視したのが九州の島津義久(しまづよしひさ)で、秀吉はしょうがないから1587年に彼を降伏させている。その後、北条氏政・氏直親子(小田原攻め)を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名たちも服属させて(奥州平定)、1590年についに天下統一を果たした。

豊臣秀吉の政策①太閤検地(天正の石直し)
土地の面積を町、段、畝(せ)、歩に、米を量る升の容量を京升に全国的に統一した。
また田畑と屋敷の土地面積を計算し、その収穫量(石高)を算出、全国の生産力が米の収穫量で一元的に換算されるようになった。これを石高制という。
さらに荘園制度によって一つの土地に複数の土地所有者がいるややこしい状況を改善、実際にそこで働いている農民の田地と屋敷地のものにした。
これを一地一作人といい、農民は自分たちの田畑を法的に所有することができるようになったが、その代わりに石高に応じた年貢を収める義務が課せられた。
ほかにも秀吉は、大名たちには検地帳とともに、徴税や軍役をする際に便利な行政用地図である国絵図も提出させている。

豊臣秀吉の政策②刀狩り
第1条:百姓の武具を全て没収します。
第2条:取り上げた武具は方広寺の大仏建立に役立てられます。
第3条:農民は耕作に専念しましょう。
1588年に実施。農民から武器を取り上げ、土一揆や一向一揆を防ぐ狙いがあったというのが一般的な解説だが、近年ではそういった武力解除としての側面より、農民から帯刀権を奪うことで身分制度を徹底させる側面のほうが大きかったのではないかとれている。

豊臣秀吉の政策③人掃令(ひとばらいれい)
1591年に実施。武家奉公人が町人や百姓になることや、百姓が商人や職人になることを禁じた、身分統制令。江戸時代の身分制度につながる。
これを徹底させるために、職業別に戸数と人数を調査し、兵農分離を実現させた。
江戸時代は8割以上が農民などのデータもここら辺のセンサスから来ている。

豊臣秀吉の政策④バテレン追放令
織田信長は日本の宗教勢力を制圧するためにキリスト教を保護したが、秀吉はポルトガルが日本を植民地にするんじゃないかと危機意識を持ち、1587年の九州平定の際に宣教師(バテレン)を国外退去させた。
しかし1588年に海賊取締令を出して倭寇を鎮圧させた秀吉は、その後も南方貿易を継続させたため、キリスト教徒の取り締まりは不徹底だった。

豊臣政権の財源
①蔵入地(直轄領)からの収入。
②佐渡金山、石見銀山などの直轄化した主要鉱山の利益。
③京都、大阪、堺、伏見、長崎などの豪商の経済力。
とにかく広大な版図を持っていたので、財源は莫大だった。
この時作られた天正大判は巨大な金貨で秀吉政権の経済力を象徴している。
これ一枚(=10両)で米が6トン以上購入でき、現在の価値に直すと大体100万円ほど。

朝鮮出兵
戦国時代が終わり、領土拡大の機会がなくなってしまった諸大名のモチベーションを上げるために秀吉は没落しつつある明の征服を計画した。
とりあえず、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に朝貢と明への先導を要求したが、明に従属していた朝鮮は当然断り、秀吉は朝鮮への出兵を決めた。
秀吉はどうやら東アジアに、アジア版EUというか大東亜共栄圏みたいなものを作ろうとしていたらしく、インドのゴア州に置かれたポルトガル政庁や、フィリピンのマニアに置かれたスペイン政庁、台湾の高山国などにも朝貢を求めている。
さて、第一回目の進軍となる1592年の文録の役では、日本は明との国境付近まで軍隊を進めることができたが、朝鮮義勇軍や明の援軍によって次第に押し戻され停戦。
もう先が長くないと感じていた秀吉は、これが人生最後の大勝負だと、1597年にもう一度朝鮮に軍を送り、慶長の役を始めるが、今度は李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍にハナから苦戦、秀吉が病気で死ぬと、徳川家康や石田三成はすぐに日本軍の撤退を開始した。
この朝鮮出兵によって、諸大名のあいだには亀裂が生じ、大阪城に蓄えていた莫大な財宝をかなり使ってしまった豊臣家は、その没落を早めてしまう。
そんな秀吉とは対照的に、この時うまいこと財力や兵力を温存していたのが徳川家康で、天下泰平は彼の手によって実現することになる。

桃山文化
「桃山」とは、秀吉が晩年に住んだ京都の伏見城の城跡に桃が植えられていたことに由来する。
その特徴は、とにかく豪華絢爛、ヨーロッパの影響が随所に見られ、逆に仏教の影響が薄い点(世俗的)。
建築では、戦時の要塞としての機能よりも領国支配の利便性が優先された城郭建築が有名で、安土城、大阪城、姫路城などが挙げられる。
このような城の内部には大書院という大広間が設けられ、壁やふすまには濃絵(だみえ)という金ピカで強烈な色彩の絵が描かれた。狩野永徳の唐獅子図屏風はあまりにも有名。
こういった障壁画にはダイナミックな水墨画が描かれることもあり、こちらは長谷川等伯の松林図屏風が有名。
扉と天井の間の欄間には透かし彫りの彫刻が施された。

茶道
豊臣秀吉のお茶の先生だった堺の豪商、千利休が確立。
千利休は、茶の湯から余計な要素を取り除いて(バサラ大名がやってた闘茶ゲームとか)、精神的な要素だけを高めることで、たった二畳の茶室で簡素に行う侘び茶にたどり着いた。
1587年にはどんな身分の人も自由に参加できる北野大茶湯を開催している。
ちなみに、この時代の茶器や茶室、庭園には優れたものが多いという。

陶磁器
朝鮮の職人さんを捕虜として連れてきたので、技術が飛躍的に発展。
佐賀の有田焼(伊万里焼)、唐津焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼などは朝鮮の陶工が伝えたもの。
ちなみにそれ以前の縄文土器→弥生土器→須恵器・・・と続く日本の焼き物は六古窯といい、これらと区別される。その6つとは瀬戸、常滑、越前、備前、信楽、丹波で、大学時代、有名な陶芸家の先生に強制暗記させられました。

庶民文化
歌舞伎踊り:出雲大社の巫女さんだった出雲の阿国が京都で始めた。
人形浄瑠璃:琉球から伝わった三味線の伴奏付きの人形劇。
隆達節(りゅうたつぶし):高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌に節をつけた。
小袖の着流し:当時の女子に流行。袖口が狭く、後の和服(着物)の原型になった。

室町時代覚え書き

室町時代の概要(1392年~1573年)
南北朝を統一した足利義満と守護大名たちによる連合政権。
注目すべきは中国と再び国交を結んだことで、なんと菅原道真の遣唐使廃止以来500年ぶり。
その後、独裁的だった足利義教は殺され、文化に没頭しすぎて政治をないがしろにした足利義政は奥さんと弟による跡目争いをきっかけに11年も続いた応仁の乱を起こし、京都を火の海にしてしまう。
これにより下克上の戦国時代に突入、室町幕府自体は戦国時代も続いたが、戦国武将の織田信長によって終わりを遂げた。

足利義満
室町幕府3大将軍で、足利尊氏の子、足利義詮(あしかがよしあきら)の息子。
南北朝の統一を果たした足利義満は、諸国に課す税を徴収する権限、京都の政治を取り仕切る権限といった、朝廷の権限を幕府の管理下に敷いた。
また強大な勢力となった守護の統制を試みた義満は、山名氏、大内氏といった有力守護を挑発し、明徳の乱、応永の乱などの戦争を仕掛け、彼らを討伐していった(山名氏は中国・近畿を合わせて、なんと日本の6分の1を支配していた)。
こうして室町幕府は安定していったが、その安定は将軍と有力守護との勢力均衡によって保たれており、将軍の地位は相対的に低下していた。
そんな義満は、南北朝統一のわずか2年後に、将軍の地位を息子の足利義持に譲っているが、太政大臣になり出家したあとも実権を握り続け、天皇への野望も持っていたという(義満暗殺説があるのはそのため)。
ちなみにこの時代には珍しく、大変時間に厳しい人だったらしい。

管領
室町時代に新設されたポストで、将軍を補佐するという点では鎌倉時代の執権みたいなものだが、侍所、政所、評定衆といった中央機関をまとめて統括しながら、各国の守護に将軍の命令を伝えるという、将軍を凌ぐ幕府の影の支配者にまで発展した執権と比べて、よりサポート色の強いものになっている。
この役職は足利氏一門の、細川氏、斯波氏、畠山氏三管領として交代で任命された。ここら辺も北条氏がポストを独占した鎌倉時代と異なり、室町幕府が守護大名たちの連合政権だったということがよくわかる。

四職(ししき)
京都内外の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官は所司と呼ばれ(その最高の地位が別当)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から任命される慣例になっていた。
これを四職と言い、彼らはみんな守護大名だったため、幕府での仕事の際は領国を留守にしなければならなかった。この時、守護の代役を務めたのが守護代だった。

奉公衆
室町幕府直轄軍のこと。
彼らは将軍の護衛や全国に散在する将軍直轄領である御料所(ごりょうじょ)を管理し、守護を牽制した。親衛隊的な。

鎌倉府(関東府)
東国を統治する地方機関で、リーダーは鎌倉公方と呼ばれ、初代鎌倉公方は足利尊氏の息子の足利基氏が務めた。
鎌倉公方の補佐役は関東管領と呼ばれ、こちらは上杉氏が世襲した。
鎌倉公方は当初は将軍に従っていたが、やがて幕府から独立して関東地方を支配、将軍と対立するようになった。

室町幕府の財政基盤
①御料所の収入
②守護の分担金
③地頭や御家人への賦課金
④京都の高利貸、土倉や酒屋への課税
⑤関所や港で徴収する関銭、津料
⑥京都五山の僧侶への課税
⑦公共事業の際に全国の守護に課す段銭、棟別銭
⑧日明貿易の利益

日明貿易
足利義満は1401年に明の呼びかけに応じ、『日本国王源道義』の返信用紙と明の暦を受け取り、平安時代以来となる中国との国交を500年ぶりに回復させた。
とはいうものの、これは「日本国王」である義満を、明の皇帝である朱元璋の臣下にしてやるというもので、対等な外交というよりは属国扱いだったのだが、これにより日明貿易は明への朝貢という扱いになったので、貿易にかかる経費はすべて明が負担し、日本は莫大な利益を得ることができた。
明は当時中国や朝鮮沿岸で暴れていた倭寇との区別をするために、日本からの遣明船に正式な貿易船であることを示す勘合を持参させたため、日明貿易は勘合貿易と呼ばれた。
これにより大量の銅銭(永楽通宝)が日本に持ち込まれ、このような外貨は日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
日本にはほかにも生糸や高級織物、書画が輸入され、逆に明へは金や銅、硫黄といった鉱物、刀剣や槍などの武器、鎧、扇、屏風といった工芸品などが輸出された。
日明貿易はその後、義満の政策に否定的だった4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の時に「侮辱的である」と一時中止になるが、6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の時に再開され結局150年間続いた。
ちなみに倭寇とは、もともと日本と明との貿易を要求していた密貿易商人だったため、日明貿易の実現によって沈静化した。しかし彼らによって高麗の衰退は早まった。

朝鮮外交
李氏朝鮮は1339年に李成桂(りせいけい)が高麗を倒して建国した国家で、義満はこちらとも国交を樹立した。
倭寇によって高麗が衰退したことを知る朝鮮は、うちもやられちゃたまらないと日本に倭寇の禁止を要求、義満はこれに応じた。
日朝貿易は対馬の守護大名である宗氏を通じて対等に行われ、幕府だけではなく、守護や国人、商人も参加した。
朝鮮からは木綿といった織物や大蔵経が輸入され、日本からは銅といった鉱物、工芸品、南洋諸島のコショウや香料などが輸出された。

応永の外寇
1419年に沈静化はしたもののまだ暴れていた倭寇に悩む朝鮮が、対馬を倭寇撃退という名目で攻撃した事件。これにより日朝貿易は一時中断したが、すぐに再開された。

琉球王国の成立
沖縄では北山、中山、南山の3つの地方勢力が覇権争いをしていたが中山(ちゅうざん)の王様の尚巴志(しょうはし)が統一、1429年に琉球王国を建国した。
室町時代中期には日本と琉球王国の国交はなかったものの民間レベルでは盛んに交易が行われた。

和人とアイヌ
畿内と津軽の十三湊(とさみなと)の日本海貿易が14世紀にはすでに行われていた。
その後、津軽の豪族、安藤氏の支配下に置かれた和人と言う本州人が津軽海峡を渡り、蝦夷が島(北海道南部)に進出し、道南十二館(どうなんじゅうにたて)などの居住地や港を建設した。
和人は北海道に古来から住んでいたアイヌと交易、しだいにアイヌの生活圏を脅かした。

室町時代の農業
生産性はより向上、農村は豊かになり、商品経済が浸透した。
桑、漆、藍、茶なども栽培。
三毛作:二毛作がさらにパワーアップ。米、麦、そばを生産。
米の品種改良:早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)など収穫時期の異なる稲ができた。
大唐米:大陸から伝わった災害に強く収穫量も多い品種。
下肥(しもごえ):肥料として使う人の糞尿。
水車:灌漑用水をくみ上げる。

室町時代の経済
連雀商人や振売:行商人。
大原女:炭や薪を売った女性。
桂女:鮎を売った女性。
六斎市:鎌倉時代では月に3回だったのが6回に増えた。
見世棚:さらに増えた。
座:さらに増えた。大寺社所属は神人、皇室所属は供御人。
米場:米を専門に扱う市場。
魚市:海産物を専門に扱う市場。
古式入浜:のちの入浜塩田。日本では岩塩がないので塩を作るための専用の砂田を作った。
貨幣経済:貨幣の流通量はさらに増えた。
永楽通宝:明銭。
私鋳銭:私的に造られた粗悪な貨幣。
撰銭令(えりぜにれい):私鋳銭などの悪貨と良貨を選別し、その基準や混入率を定めた法律。
酒屋:裕福な酒屋さんは高利貸(土倉)を営むことが多かった。
交通の発達:廻船(かいせん)、馬借、車借など。

北山文化
公家文化と武家文化が合体、禅宗などの中国文化にも影響を受けた文化。
足利義満が京都の北山に山荘(と金閣)を作ったことに由来する。
鹿苑寺金閣は、寝殿造と禅宗様の折衷様建築で修学旅行の定番。

臨済宗
鎌倉時代に生まれた禅宗だが、ストイックな曹洞宗と異なり、幕府の保護を受けたためかなり栄えた。
南宋の官寺の制にならった五山・十刹の制という寺のランキングが作られ、京都の南禅寺が最高ランクに認定され、それに次ぐ五山格には京都五山と鎌倉五山が、その下に十刹格のお寺、さらにその下に諸山のお寺が続いた。
京都五山は天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
五山の僧侶は渡来僧や留学僧が多く、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)らが宋の研究や漢文詩の創作をした。

水墨画
渡来僧や留学僧によって技法が伝えられた。
如拙の瓢鮎図(ひょうねんず)や周文の寒山拾得図(かんざんじっとくず)など。

庶民文化
商工業者や農民の間にも、読み・書き・計算といったリテラシーが向上し、奈良には『節用集』という辞書を刊行した商人もいた。
また庶民のあいだでは、室町時代に流行った小歌を311首収録した『閑吟集(かんぎんしゅう)』が作られ、さらに格式高い能楽と異なり、風刺性の強い喜劇の狂言(コメディだったのか)や、一遍の踊念仏が発展した盆踊り、能や歌舞伎の原型と呼ばれる幸若舞(こうわかまい)、三味線を伴奏とする語り物である古浄瑠璃(有名な義太夫節ができる前の浄瑠璃をこう呼ぶ)なども楽しまれた。

お伽草子
庶民の間で広まった通俗的な短編小説集。
小人が打出の小槌によってコンプレックスを克服する「一寸法師」や、歌の才能に恵まれたニートが宮中に呼ばれる「ものぐさ太郎」など、身分や境遇に恵まれなくても、その人の能力次第では出世できるというアメリカンドリーム的な作品が多く、下克上の思想につながった。
ほかにも相対性理論を思わせるSF作品『浦島太郎』、ヤマタノオロチを父に持ち平安時代を恐怖に陥れた日本最大最強の鬼を描いた『酒呑童子』などが有名。


ここでいう「座」とは武田鉄矢一座的な、寺社の保護を受けて能を演じる専門集団のことで、興福寺を拠点とした大和猿楽四座の一つである観世座からは世阿弥・観阿弥親子が出た。彼らは足利義満に評価され、猿楽能を完成させた。
また世阿弥は『風姿花伝』という能楽書を著した。

永享の乱(えいきょうのらん)
なんとくじ引きで決まった衝撃の将軍、足利義教が将軍の権力強化を狙って、1438年に幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした戦い。彼は比叡山や九州もこんな感じで平定しており、室町将軍家における最大領土を獲得している。
足利義教は突然怒りだしたり性格に難があったものの、十代で天台宗の大僧正になったという超エリートで、4代将軍家持が後継者を決めずに亡くなった為(※5代将軍義量は家持より先に亡くなった)、出家していたにも関わらずピンチヒッターで6代将軍に抜擢された経緯がある。

嘉吉の乱(かきつのらん)
有力守護を弾圧し続けた第六天魔王の足利義教が逆に、有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺されてしまった事件。
赤松満祐はすぐに幕府に討たれたが、義教の殺害によって将軍権力は大きく揺らぎ、室町幕府は衰退していった。室町時代版本能寺の変みたいなもの。

応仁の乱
世継ぎに恵まれなかった8代将軍足利義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を次の将軍にすることを約束するが、その後妻の富子が男の子を出産、この時生まれた足利義尚(あしかがよしひさ)を推す富子と足利義視のあいだで家督争いが勃発した。
これに管領の細川勝元(ほそかわかつもと)が義視派として、四職の山名持豊(やまなもちとよ)が富子派として参戦したことで、家督争いは他の有力守護たちも巻きこむほどに拡大、1467年には細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて争う応仁の乱に発展した。
応仁の乱は11年も続いたため、主な戦場だった京都は火の海になり(これで何回目だ)、1477年にやっと両者痛みわけで終結したが、各地での地域的な紛争はその後も継続し、室町時代の統治体制は崩壊した。

惣村の団結
室町時代後期になると、結束した惣村の農民たちが、悪徳荘官の免職や天災による不作などを理由に年貢の減免を求めて文書を送る愁訴や、荘園領主に大挙して押し寄せる強訴、惣村の全員が耕作を放棄して村から逃げ出してしまう逃散(ちょうさん)などを起こすようになった。
また、農民たちは傘連判状(からかされんばんじょう)に円環状に署名をしており、みんなが対等の立場で立ち向かうことを確認するとともに、事件の首謀者が処罰されることを防いだ。

土一揆
さらに惣村同士が結束して起こす土一揆も多発、なかでも売買や貸借契約の破棄を求める徳政一揆が多かった。
当初は簡単に徳政令を出さなかった幕府も、繰り返される一揆に負けて次第に徳政令を乱発、挙げ句の果てには徳政令を出す際に手数料を取っていた(分一徳政令)。
土一揆の「土」とは土を耕す農民が中心になって起こしたことに由来。

正長の徳政一揆
1428年。最初に起きた徳政一揆として知られる。
滋賀県の近江で琵琶湖を渡ってきた荷物を馬で京都へ運ぶ運送業の馬借らが、生活苦に耐え兼ねて蜂起。これに農民も加わり、高利貸を営む酒屋、土倉、寺院を襲撃した。
当時情勢が不安定だった幕府は徳政令を出さなかったが、畿内では守護大名によって地域ごとに徳政令が認められた。

嘉吉の徳政一揆
1441年。足利義教が殺された嘉吉の乱直後に勃発。
数十万もの惣村農民が京都を占拠した。
この時には幕府は押し切られる形で徳政令を出している。

山城国一揆
1485年。こちらは応仁の乱で戦争に明け暮れていた守護に代わって力をつけた、京都南部の山城国の国人たちが既得権を守るために結んだ一揆で、内部対立をしていた畠山氏をまとめて国外に追い出した。
山城国はその後、国人たちが8年間自治的支配をした。まさに住民自治。まさにイニシアティブ。

加賀一向一揆
1488年。一向宗(浄土真宗本願寺派)の信仰で結束した講という組織が、守護の冨樫政親(とがしまさちか)を自殺に追い込んだ一揆。
その後加賀は「百姓たちの国」となり、石山本願寺が支えた自治は100年も続き、戦国大名たちをも手こずらせた。彼らは死ねば極楽浄土の阿弥陀如来のもとへ行けると信じていたため、死をも恐れず戦ったのである。

寧波の乱(ニンポーのらん)
1523年。ニンポーとは中国の港の名前。
室町幕府が衰退したことで明との国交は途絶えてしまったのだが、日明貿易自体はその後も、堺商人とつながった細川氏と、博多商人とつながった大内氏によって続けられ、その両者が日明貿易の主導権を争った経済戦争。勝利した大内氏は日明貿易の利益を独占した。

嘉吉条約
1443年。対馬の宗氏と朝鮮の間で結ばれた貿易協定で、日本からの渡航者が増大したため負担が増えた朝鮮は、宗氏を通じて日本から派遣される渡来船を年間50隻に削減させた。これにより日朝貿易は縮小した。

三浦の乱(さんぽのらん)
1510年に在朝日本人が起こした暴動。三浦とは朝鮮が貿易のために開いた3つの港。

コシャマインの戦い
1457年。アイヌの大首長コシャマインが和人の居住地を襲撃した。
上ノ国の領主、蠣崎氏が反撃し制圧された。

東山文化
8代将軍足利義政は(度を越した)文化人として知られ、祖父の足利義満にならって京都の東山に慈照寺銀閣を作った。修学旅行の時に、金閣が本当に金ピカだったから、銀閣もさぞ銀ピカに輝いていると思ったら、割と地味でガッカリした記憶があるが、足利義政の時代には応仁の乱などによって幕府の財政はかなり逼迫していて、銀ピカにする余裕はなかった上に、もともと東山文化のモットーが禅の簡素の追求やわび・さびなので当初から銀ピカにする予定はなかったらしい(銀閣という呼び名も江戸時代以降に「あっちが金閣ならこっちは銀閣にしよう」みたいな感じで付けられた)。
また、有名な近代和風建築の原型である書院造(床の間)や、枯山水という庭園様式も禅宗の影響である。
さらに、茶道では、村田珠光(むらたじゅこう)が茶に禅の精神を取り入れ侘び茶を創始、生花では座敷の床間を飾る立花様式が定まった。

林下(りんか)
五山・十刹の制による臨済宗のヒエラルキーに入らなかった寺のことで、室町幕府衰退とともに衰えた五山に代わって地方武士や民衆の支持を得た。
この代表的な人物に宗純(一休さん)がいる。実際の一休さんは愉快な小坊主ではなく、ニヒルで自由主義的な反骨精神を持つ人物だったらしい。
ちなみにとんねるずのタカさんがリアル野球盤などでよく言う「花は桜木(男は石橋)」はもともとは一休さんの言葉。
ほかにも一休さんは後小松天皇の隠し子だったという説がある。まさかの皇族。
あと一休さんに「屏風の虎を捕まえろ」というディメンション的に無茶なことを言ったのは足利義満。

天文法華の乱
1536年。法華一揆が延暦寺と衝突し、寺を焼き討ちにされた挙句京都を追われた事件。
他宗派を厳しく批判することが特徴の法華宗の日親は『立正治国論』で足利義教を諌めてしまったので、幕府から迫害&拷問されたが、その後布教によって京都の商工業者に広まった。

蓮如
応仁の乱の頃に現れた浄土真宗本願寺の僧。
彼は布教の際に、読みやすい平仮名で書かれた御文(おふみ)を用いて、信者たちを講と呼ばれる団体に組織、北陸や東海を中心に信者が増えた。

東山文化の芸術
彫刻では能面、工芸では後藤祐乗の金工や、金箔をまいた漆工芸の蒔絵が有名。
また雪舟が日本的な水墨画の作画技術を集大成し、大和絵では応仁の乱のあとに土佐光信が土佐派の基礎を固めた。
土佐派の狩野正信と狩野元信親子は水墨画に大和絵の手法を融合し有名な狩野派を開始している。狩野元信の代表作は大徳寺大仙院花鳥図。

東山文化の文学
『新撰莬玖波集』:正風連歌を確立した宗祇(そうぎ)が編纂。
『犬莬玖波集』:より自由な俳諧連歌を作った山崎宗鑑が編纂。

東山文化の学問
『公事根源』をまとめた一条兼良など、政治や経済において力を失った公家が有職故実の研究を行った。
また、応仁の乱が終わると公家や僧侶は荒廃した京都から地方へ移り、地方武士たちに都の文化を伝えた。肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に講師として招かれた桂庵玄樹による薩南学派や、中部や関東をめぐった臨済僧の万里集九が残した漢詩文などがそれである。

足利学校
平安初期に建てられ、鎌倉後期には既に廃れていたが15世紀半ば、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が、校長先生に有名なお坊さんを呼んだり、蔵書の数を増やしたりするなど再興。
これにより足利学校は、室町時代から戦国時代における日本の最高学府となり、全国から集まった禅僧や武士が高度な教育を受けた。現在の復元は江戸時代に最も栄えた時のもの。
フランシスコ・ザビエルはここを「坂東の大学」と呼んだ。

寺子屋
地方武士の子弟の教育が行われる寺院のこと。
テキストは『御成敗式目』や、社会に必要な一般教養をやさしくまとめた『庭訓往来』だった。
足利学校同様こちらも平安時代には既にあったらしい。

南北朝時代覚え書き

南北朝時代の概要(1336年~1392年)
天皇中心の社会に戻そうと建武の新政が行われたが結局すぐに失敗、その後、朝廷が京都と奈良の二つにでき、政治は大混乱。
日本史における戦乱の時代と言ったらやっぱり戦国時代がイメージされるが、南北朝戦争は戦国時代に匹敵するほど長期化しており、その利害関係があまりに複雑な上に、情勢が二転三転しているため、テレビゲームなどにはややこしくて取り上げられないという事情がある。
戦争を略奪のチャンスとしか考えない新興武士の悪党、部下になんでもあげちゃう足利尊氏によって権限が大きく拡大した守護、その守護から独立しようと国人と名乗る地頭、そして守護と主従関係を結び侍の身分を獲得する農民など、戦国時代におけるバトルロイヤルの伏線がはられている。

建武の新政
鎌倉幕府滅亡後に京都に戻った後醍醐天皇が、10世紀後半の醍醐天皇や村上天皇に習って1333年~1336年の間に行った、急進的な天皇親政。
後醍醐天皇は幕府、院政、摂政・関白の全てを廃止し、中央には重要政務を一手に引き受ける記録所、鎌倉時代の引付衆に当たる雑訴決断所、警察省に当たる武者所(長官は新田義貞)、後醍醐天皇を支持した武士に恩賞を与える恩賞方を設置した。
地方では行政府の国司の力を強化、守護の権限を引き下げると共に、東国には陸奥将軍府(頼良親王と北畠顕家)と鎌倉将軍府(成良親王と足利直義)を置いた。
また、後醍醐天皇は天皇の法令である綸旨(りんじ)によって、土地所有権は天皇の許可がなければ認められないようにし、さらに強力な人事権を行使して、役職と家柄を切り離し(得宗専制政治を廃止)、官職と官位を切り離した(大宝律令からの官吏相当制を廃止)。
このような後醍醐天皇の改革は、醍醐&村上の延喜・天暦の治よりは、中国の君主独裁制に近く、その上、武士の力に頼りながら、武士社会の慣習を無視したものだったので、武士たちは当然反発し、護良親王のクーデターや、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画などが起きた。

中先代の乱
1335年に鎌倉時代の執権北条高時の息子の北条時行が鎌倉を占拠した事件。
このクーデターを後醍醐天皇のために鎮圧した足利尊氏は、協力してくれた武士たちに勝手に恩賞を与え始め、これを危険視した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵として認定、新田義貞に足利尊氏討伐を命じた。
ちなみに足利尊氏はかつては歴史ファンの人気が低く、江戸時代に水戸学を始めた水戸光圀(水戸のご老公)も『大日本史』において天皇に弓を引いた逆賊だと批判していたが、現在では客観的な評価がされている。

南北朝時代の始まり
朝敵にされてしまった足利尊氏は当初は苦戦したものの、九州での大逆転(多々良浜合戦)をきっかけに、西国のほとんどの武士を、自身のカリスマ性や、持明院統の担ぎ出し、宗教的演出などで味方に付け、1336年に京都を制圧、新たに光明天皇を即位させ、聖徳太子を思わせるトラディショナルな建武式目を発表した。
これにより戦争は集結したかと思いきや、講和に一度は納得した後醍醐天皇が吉野で正統な天皇であると主張したため、京都の光明天皇と奈良の後醍醐天皇という、二つの王朝が日本にできてしまった。

二頭政治
1338年に征夷大将軍に任命された足利尊氏は、弟の足利直義(あしかがただよし)と職権を分担して政治にあたった。
人情味があり武士の人気が高かった尊氏は軍事的な指揮権や人事権を、理論派で冷静だった直義は法令順守に則った行政権や司法権を掌握した。
一方南朝の後醍醐天皇は、新田義貞や北畠顕家を失い劣勢のまま亡くなった。

観応の擾乱
1350年。武力によって領土拡大を訴える急進派の高師直と、戦争を早急に終結させようとする保守派の足利直義による北朝の内部分裂。
最終的に幕府派(尊氏派)と、足利直冬率いる旧直義派、そして南朝の三つ巴の戦いになった。

単独相続
南北朝戦争時には、所領の細分化が進みすぎたため(子孫が幾何級数的に増えるため一人あたりの土地の面積がどんどん減る)、本家と分家の嫡子(長男)がそれぞれに土地を単独相続するようになり、それまでの惣領制を支えてきた血縁的結合よりも地縁的結合が優先されるようになった。
そのため本家と分家の対立も増え、それが南北朝戦争を長期化させることになった。
ちなみに、この単独相続への移行によって夫と別に財産を持っていた嫁、つまり女性の社会的地位が低下した。それまでは自分の旦那を選択できたり、複数の異性との交際がOKだったりと、割と日本の女性の地位は高かった。実際北条政子は夫婦別姓だったしね。

南北朝統一
南北朝戦争は60年も続いたが、1392年に3代将軍足利義満が南北朝を統一させ戦争を集結させた。
具体的には、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を渡し、以後は北朝の持明院統が皇位を継承することになった。
ちなみに、義満は京都の室町にある邸宅「花の御所」で政治を行ったので、足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになった。
したがって学校の教科書では南北朝時代も室町時代に含んでいたりするけれど、1392年以前は室町幕府は存在しないので足利幕府と呼ぶ本もある。

守護大名
南北朝戦争の際、味方を増やしたい幕府によって、苅田狼藉(田地の紛争の際に一方が勝手に稲を刈り取ってしまう行為)の取り締まりが出来る権利、使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)という幕府の判決を強制執行する権利、半済令(はんぜいれい)という国内の荘園や公領の年貢の半分を徴収する権利などを与えられた全国の守護たちは、他の荘園や公領を襲撃し、その利益を分け与えることで地方武士を支配しだした。
また、本来領主の仕事である年貢の徴収を請け負う守護請も現れた。
このような国衙の権限を吸収し一国を支配する守護を守護大名という。

国人一揆(こくじんいっき)
国人とは地頭などの領主をやっていた一部の地方武士。
彼らは守護に頼らず自分たちで結束し、自主的に紛争を解決したり農民と契約を結んだ。
このような結束を一揆といい(暴動って意味じゃなかったんだ)、ひとつの地域権力として守護と対立した。

惣村の普及
惣村とは、荘園の内部に農民が自主的に作り上げた自治的な村のこと。
惣村の農民は惣百姓と呼ばれ、農業につかう灌漑用水などの共同管理や入会地(いりあいち)と言う共同利用地を確保し、年貢も惣村単位でひとまとめに行った(村請)。
また、おとな(沙汰人)と呼ばれた惣村の指導者は、寄合という会議で決められたルールである惣掟に従って村を運営した。
惣村の祭礼は宮座という集団が行った。
惣村は力をつけ、惣百姓の中には守護などと主従関係を結んで、侍の身分を獲得するような地侍も現れた。

南北朝文化
動乱の時代だったので多くの歴史書、軍記物語が書かれた。
『増鏡』:源平争乱後の歴史を公家の立場で記述。
『梅松論』:室町幕府成立過程を描く。
『神皇正統記』:北畠顕家の父親の北畠新房(親房)が伊勢神道を根拠に南朝の正当性を主張。
『太平記』:南北朝の動乱を描いた軍記物語。戦争で翻弄される人々の姿を描く。

連歌
平安時代にできた長句(5・7・5)と短句(7・7)を別の人が交互に詠むゲーム。
武家、公家問わず大流行した。
南北朝時代の歌人である二条良基(にじょうよしもと)『応安新式』というルールブックを執筆し、方式を確立。彼は『莬玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、これは後に勅撰和歌集に準じるものとして和歌と対等に扱われた。
このように本来は格式高いものだが、バサラ大名はパーティーピーポー的なゲームとして楽しんだ。

鎌倉時代覚え書き

鎌倉時代の概要(1185年~1333年)
武士が政治の主導権を握る幕府体制が始まる。
幕府に従う武士を御家人といい、幕府は彼らに領地を与え、その代わりに軍役を課した。
やがて、執権北条氏が専制的な政治を行うようになるが、元寇によって生活が苦しくなった御家人が幕府に不満を持ちクーデターが勃発、終わる。

治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)
いわゆる源平合戦。
日本一の大天狗と呼ばれた謀略家の後白河法皇は、鹿ケ谷の陰謀で失敗した際、「もう二度と政治に口出しはしません」と平家に約束したにも関わらず、自分の息子の以仁王(もちひとおう)に打倒平家を広く呼びかけさせ、源頼朝や、木曽の源義仲などを挙兵させた。
そもそもお前が平家を重用したんだろうがって感じだが、これも摂関家と結び付きが強かった源氏の力を弱めるための策略で、今度はその平家が調子に乗り出したから、源氏を利用し平家を始末しようとしたのだ。『アウトレイジ ビヨンド』の片岡刑事ばりの汚さである。

源頼朝
伊豆では桓武平氏系の北条時政が源頼朝の監視に当たっていたはずなのだが、監視がゆるかったのか、源頼朝は北条時政の娘の北条政子と駆け落ちをして、石橋山の戦いに臨んだ。
この戦いに敗北した源頼朝は、武士の情けで見逃されると、千葉県南房総の安房国に逃げ、一度体勢を立て直し、今度は鎌倉に拠点をおいた。
その後、源頼朝は拠点の鎌倉を動かず、弟の源範頼(みなもとののりより)、源義経を使って戦争を進めることにした。ちなみに幕府とはもともと戦場において大将が指揮を執る幕の中を指し、それが武家政権を指す言葉になった。

平家の滅亡
対する平家は、都を大きな港のある神戸の福原京に移転したが、すぐに京都に戻し、畿内や西国での支配を固め、源氏に対抗した。
しかし平清盛が急死してしまった上に、西国で養和の飢饉が起こると、次第に弱体化、北陸で源義仲に敗北し、都落ちした。
その後、源義仲の力が強くなると、後白河法皇は源頼朝に源義仲を始末させ、ついでに西国に逃げた平家も追討させた。ほんとこいつ汚ねえ。
そして1185年、長門の壇ノ浦の戦いで義経軍に敗れた平家は滅亡した。
『吾妻鏡』によれば、幼かった安徳天皇と共に三種の神器の刀も関門海峡に水没し紛失した。

頼朝追討の院宣と義経追討の院宣
後白河法皇の悪巧みはこれで終わらず、利用価値のなくなった源氏の共倒れを狙って、兄の待遇に不満を持つ義経に頼朝を討てと命令し(頼朝追討の院宣)、これが失敗すると今度は兄の頼朝に弟の義経を討てと命令した(義経追討の院宣)。
この時、後白河法皇は交換条件として、守護を全国に置く権利、地頭を荘園や公領に置き、彼らに兵粮米を徴収させる権利、在庁官人を支配させる権利を頼朝に認めてしまった。
これが後白河法皇最大のミスだった。
頼朝は後白河法皇の命令通り、奥州に逃亡していた弟の義経を討ち、さらに彼をかくまった奥州藤原氏を滅亡させたが、その後、自身の勢力を西国にまで拡大させると、後白河法皇が恐れていた武家政権成立に動き出す。
後白河法皇は源頼朝の将軍就任に最後まで反対していたものの、頼朝は後白河法皇が死ぬとさっそく1192年に征夷大将軍となり、武家政権である鎌倉幕府を開いた。
様々な勢力を捨て駒のように影で操った後白河法皇も、最後の最後には飼い犬に手を噛まれたのだ。

鎌倉幕府の成立時期
ちなみに鎌倉時代の始まりはかつては「いい国作ろう鎌倉幕府」だったのだが、現在では1192年鎌倉幕府成立説は少数派で、最近の教科書では「いい箱作ろう鎌倉幕府」という謎のメッセージになっている。
これは1185年に平家の残党と義経追討の名目で守護・地頭が置かれ、武家の支配が全国に及んだことにちなむ。本当どっちでもいんだけど、まあ鎌倉時代はそんな感じで7年伸びた。

二元統治
武家政権が始まったものの、源頼朝の時代には幕府の権力は絶対的なものではなかった。
幕府の財政基盤は、頼朝が所有する知行国や、平家から没収した大量の荘園(平家没官領)だったが、朝廷や貴族、大寺院といった荘園領主の力は根強かった。
鎌倉幕府と朝廷の関係は、新制という朝廷から通達される法令によって拘束され、幕府は守護・地頭を通して朝廷の支配や荘園の維持を助けた。

封建制度
源頼朝は従者である御家人たちを、公領や荘園の管理をする地頭に任命し、先祖代々の所領の支配を保障する本領安堵や、新たな所領を与える新恩給与などの御恩を与えた。
地頭とともに新設された守護は、各国に一人ずつ置かれる諸国の軍事行政官で、東国出身の有力御家人が任命された。
守護は職務内容が国司とかなり丸かぶりで、後の御成敗式目では守護は警察と軍事だけを行い、行政は国司に任せるということになったが、結局国司は形骸化した。
御恩を主人から受けた御家人は、戦時には軍役、平時には大犯三ヶ条(だいぼんさんかじょう)という職務規定に従い、京都大番役、鎌倉番役、異国警固番役などの警備といった奉公をした。
このような土地の支配を認める代わりに、軍役を課す制度を封建制度といい、若干形は違うが中世ヨーロッパや中国の西周などでも行われた。

侍所
御家人を統率。軍事や警察を担当。長官は別当と呼ばれ、和田義盛が務めた。

政所
一般政務や財務事務を担当。初期は公文所と呼ばれた。長官は別当と呼ばれ、大江広元が務めた。

問注所
裁判事務を担当。長官は執事と呼ばれ、三善康信が務めた。

北条時政
源頼朝が謎の急死をし、当時18歳で政治家として無能だった源頼家が2代将軍につくと、御家人たちは主導権争いを始めた。
北条政子の父、北条時政は1203年に自分の孫に当たる源頼家を幽閉、翌年殺害し、頼家の弟でまだ幼かった源実朝を将軍につけた。
北条時政は将軍が幼いということで、彼を補佐する執権という職に就き、将軍版摂関政治みたいなものを始めだした。これを執権政治といい、以降将軍は形ばかりの地位となった。
その後、北条時政は源実朝の代わりに婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を擁立しようとしたが、娘の北条政子や息子の北条義時に阻止され、伊豆に引退することになった。

北条義時
2代執権。
侍所の別当の和田義盛を和田合戦で滅ぼし、自ら侍所と政所の別当となった。

藤原将軍
1219年、源頼家の子の公暁(くぎょう)が父の敵である源実朝を暗殺、さらに公暁自身もまもなく討たれてしまうと、源頼朝の血は絶えてしまった。
これを受けて北条義時は皇族を次の将軍につけようと交渉を持ちかけたが、後鳥羽上皇がこれを拒否、仕方なく源頼朝の遠い親戚の摂関家、藤原頼経(ふじわらよりつね)を4代将軍につけた。これを摂家将軍と呼ぶ。
ちなみに藤原頼経は2歳のとき鎌倉に迎えられ、8歳で将軍に即位した。お飾りだったのは言うまでもない。

承久の乱
分散していた皇室領の荘園を集め、西面の武士を置くことで院政を強化した後鳥羽上皇は、歌仲間の3代将軍実朝が殺されると幕府との対決姿勢を強め(4代将軍の依頼を断った)、1221年についに北条氏打倒を呼びかけた。
しかし後鳥羽上皇の予想に反して東国武士の大半は北条氏側につき、北条義時の息子の泰時と、義時の弟の時房が京都を攻めると一ヶ月程度で鎮圧されてしまった。
その後、幕府は主犯の後鳥羽上皇を始め3人の上皇を島流しにすると共に、仲恭天皇を廃し、皇室の皇位継承に介入するようになった。
さらに京都に朝廷を監視する六波羅探題を設置し、京都周辺の警備や西国の統治に当たらせ、朝廷が挙兵できないようにした。六波羅は京都にあるお寺の名前。
承久の乱で後鳥羽上皇側についた貴族や武士たちの土地は没収され、幕府側で頑張って戦ってくれた御家人に与えられた。
この時任命された地頭は新補地頭(しんぽじとう)と呼ばれ、幕府の支配権は畿内、西国、荘園、公領と、さらに拡大したが、これにともない武士同士、もしくは荘園領主や国衙たちとの小競り合いも頻発し、裁判制度の確立が求められた。

北条泰時
3代執権。
1232年にかの有名な御成敗式目51ヶ条(貞永式目)を制定する。
御成敗式目は、日本初の武士の法典で、先例や道理と呼ばれる武家社会の慣習、道徳に基づき、封建制度における紛争を公平に裁く基準を明確にした。
北条泰時は他にも、執権の補佐をする連署や、幕府の政務処理や裁判を行う評定集というポストを新設、これらのポストには有力御家人、とりわけ北条氏が優先的に任命され、やがて北条氏がほとんど独占するようになる。

北条時頼
5代執権。
御家人の所領に関する訴訟を専門に受け付ける引付衆を作って裁判を迅速化させたり、朝廷にも評定集を設置してつながりを強め、藤原将軍から皇族将軍に変更(もちろんこれも有名無実)、幕府が朝廷を支配できるようにした。

宝治合戦(ほうじがっせん)
1247年。幕府内で強い影響力を持っていた大御家人三浦泰村(みうらやすむら)を、北条時頼とその外戚の安達景盛(あだちかげもり)が滅ぼし、北条氏の独裁体制を確立させた戦い。

惣領制
鎌倉時代の武士は血縁関係で結ばれ、一族(一門もしくは一家)ごとに本家である宗家と、その他の庶子で構成されていた。
惣領は一門のリーダーで、戦時には軍を指揮し、平時には祭祀を取り仕切ると共に、幕府への軍役や、領主・国衙への年貢納入における責任者を務めた。
武士たちは河川近くのちょっと高くなっている土地に堀や塀を巡らせ、その中に館を建てて暮らした。
館の周囲には佃、門田、正作、用作などと呼ばれた年貢がかからない直営地を作り、下人や農民に耕作をさせた。
地頭は、農民から徴収した年貢を国衙や荘園領主に納め、自分の収入は農民から課徴米として別に徴収したため、農民にとっては国税、地方税的なダブルパンチになった。

地頭請所(じとううけしょ)
荘園や公領の領主が、しかたなく地頭に荘園の管理をすべて任せて、その代わりに一定の年貢を納入させること。

下地中分(したじちゅうぶん)
領地を地頭に分け与えて、相互支配を認め合うこと。

武芸の訓練
流鏑馬:走る馬に乗りながら的に矢を射る訓練、もしくは儀式。
笠懸:流鏑馬とほとんど一緒だが、こちらの方がより実践的で余興的だった。
犬追物(いぬおうもの):馬に乗りながら犬を追いかけて弓で射る訓練。一試合に150頭もの犬が射られた。かなり動物虐待だが、用いられる矢は柔らかく殺傷能力はなかった。
巻狩:シカやイノシシを四方から取り囲み、徐々に包囲を狭めながら、弓矢で獲物を仕留める大規模なハンティング。猟犬が使われた。

蒙古襲来(元寇)
13世紀初め、チンギス=ハーンが中央アジア~南ロシアを征服しモンゴル帝国を築いた。
チンギス=ハーンの後継者らは、ヨーロッパや中国の金を侵略し、ユーラシア大陸をほとんど支配してしまう。
チンギス=ハーンの孫のクビライ=ハーンは元を起こし都を北京に移転、朝鮮半島の高麗を隷属させ、次は日本だ!と日本に朝貢を要求してきた。
時の執権北条時宗は、この要求(×4)を拒否するばかりか、元からの使者を殺してしまったので、元は高麗の軍隊を使って日本に侵攻することにした。
クビライは、南宋の旧軍人に農具と作物の種を持たせ、占領後の日本に移住させるつもりだったらしい。

文永の役
1274年。一度目の元寇。
3万もの元軍が900隻の軍艦で、対馬と壱岐を攻めたあと、博多湾に上陸、集団戦術(武士の戦いは基本的に一対一)や火器によって日本軍を圧倒した。
しかし一所懸命の精神(=と恩賞が欲しかった)で無謀な特攻を繰り返す、日本軍の予想外の根性に、元軍の首脳陣が撤退を命令、さらに偶然吹いた暴風雨によって敗退した。
これを受けて幕府は九州の異国警固番役を強化し、博多湾ぞいに石塁を築いた。

弘安の役
1281年。二度目の元寇。
南宋を滅ぼした元が今度は14万2000人の兵士と4400隻の軍艦を率いて襲撃してきた。
しかし今度も台風によって艦隊は一瞬にして壊滅、元軍を追撃した日本軍は海上で強襲し、元軍の4分の3を撃破。日本軍は大勝利した。
一説には、元が高麗に軍艦を突貫工事で建造させたため、神風でみんな沈んでしまったと言う。
この戦争の後、幕府は朝廷管轄の全国の荘園や公領からも武士を動員する権利を得た。
また博多に鎮西探題(ちんぜいたんだい)として北条一門を派遣し、九州の政務や裁判、御家人の指揮に当たらせた。

得宗専制政治
西国一帯の武士の支配権が確立されるとともに、北条氏の家督である得宗の権力も強大なものになった。
得宗の家臣、御内人(みうちびと)と御家人の対立は激化し、9代執権北条貞時の頃には、元寇の戦後処理を行った有力御家人の安達泰盛が、御内人の内管領平頼綱に滅ぼされる霜月騒動が起きた。
平頼綱は、その後成長した北条貞時に滅ぼされたが、これ以降北条氏と御内人は独裁政治を行うようになった。
全国の守護の半分以上、地頭のほとんどが北条ファミリーに独占されてしまい、得宗専制政治は多くの不満を生むようになった。

鎌倉時代の農業
二毛作:一年に米と麦を栽培する。
刈敷:刈った草を田に敷いて肥料にする。
草木灰(そうもくかい):草木を焼いた灰を肥料にする。
荏胡麻(えごま)の栽培:それをさらに麻布を作った。

鎌倉時代の経済
定期市:荘園や公領の中心地、交通の要所、寺社の門前で開催。
三斎市:月に3回行われる市。
行商人:中央から地方へと工芸品や織物を売りに行く商人。
見世棚:奈良や鎌倉などの都市にある常設小売店。
問丸:年貢運送管理や商品の中継、委託販売を行う、物流を専門にした組織。
座:商工業者の同業者団体。公家や寺社に賄賂を贈り、その見返りに販売権を独占した。
貨幣経済:米といった現物支給ではなく、支払いが宋銭などの貨幣になった。
為替:遠隔地取引の際に金銭の輸送を手形で代用すること。
借上(かしあげ):高利貸業者。

永仁の徳政令
元寇での恩給が期待以上に不十分、分割相続の切り返しで所領が細分化、貨幣経済の発展などによって御家人たちの生活は困窮していた。
これを受けて北条貞時は永仁の徳政令を出し、御家人の質入れを禁止し、彼らの借金を帳消しにしたが上手くいかず、畿内や周辺では、地頭や御家人ではない新興武士たちが悪党となり荘園領主に抵抗するようになった。

正中の変
朝廷では後深草天皇の流れを汲む持明院統と、亀山天皇の流れを汲む大覚寺統が皇位継承権で争い、幕府の介入でとりあえず交互で皇位につくようにしていたが(両統迭立)、これに不満を持っていた大覚寺統の後醍醐天皇は、得宗専制政治に対する御家人たちの不満を利用して、1324年に倒幕計画を試みるが幕府側に情報がもれて失敗する。

元弘の変
懲りない後醍醐天皇は女装して御所を抜けると1331年に再び挙兵をして、やっぱり失敗。これにより後醍醐天皇は隠岐に島流しにされた。
しかし後醍醐天皇の息子の護良親王や、大阪河内国の豪族の楠正成(くすのきまさしげ)は、悪党などの反幕勢力を結集させて幕府軍に宣戦布告、隠岐を脱出した後醍醐天皇も倒幕を呼びかけるようになると、呼応する者が急増、有力御家人で幕府軍の指揮官だった足利高氏は北条高時の「高」を与えられたことも忘れたのか、天皇側に寝返り六波羅探題を襲撃、群馬県上野国の御家人新田義貞も鎌倉に攻め込み、北条高時を滅ぼした。これにより1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
ちなみに、この功績(寝返り)を認められて足利高氏は、後醍醐天皇から「尊」の字をもらったのだが、逆に言えばご褒美はそれくらいだった為(高い地位に就かせてもらえなかった)、後醍醐天皇と足利尊氏の間にはしこりが残ることになった。

鎌倉文化
武士の質素で力強い文化と、政権を武士に奪われた貴族のノスタルジックな文化が見られた。

鎌倉新仏教
旧来の難しい学問や祈祷を重視するのではなく、庶民など広い階層の人々を取り込むために、念仏や題目、座禅など誰でもわかりやすい修行を中心としている。
浄土宗:法然。専修念仏。『選択本願念仏宗』。知恩院。
浄土真宗:親鸞。悪人正機説。『教行信証』。本願寺。
時宗:一遍。踊念仏。『一遍上人語録』。清浄光寺。
日蓮(法華)宗:日蓮。『立正安国論』。久遠寺。
臨済宗:栄西。幕府に広まった禅宗。『興禅護国論』。建仁寺。
曹洞宗:道元。山中でひたすら座禅。『正法眼蔵』。永平寺。

旧仏教の動き
鎌倉新仏教に刺激され、法相宗の貞慶(じょうけい)と華厳宗の明恵(みょうえ)は南都仏教を復興し、律宗の叡尊(えいぞん)と忍性(にんしょう)は戒律を重んじながら、貧しい人や病人へ赤十字的な慈善事業を行った。

中世文学
『新古今和歌集』:藤原定家が後鳥羽上皇の命で編纂。
『山家集』:西行が平安末期の動乱をふまえて詠んだ。
『金槐和歌集』:源実朝の歌集で万葉調。

『十訓抄』:儒教に基づいた教訓を記述。
『沙石集』:仏教説話集。

『方丈記』:鴨長明の随筆。世の中の無常を描く。
『徒然草』:吉田兼好の随筆。動乱記の人間観察。
『海道記』:作者不詳。東海道を取り上げた紀行文。

『水鏡』:四鏡の第3弾で古代~平安時代までの歴史を振り返る。
『吾妻鏡』:作者不詳の歴史物語。幕府の歴史を記述。
『愚管抄』:源頼朝の友達、九条兼実の弟の慈円による歴史物語。

『平家物語』:平家の興亡を描いた軍記物語。琵琶法師が文字の読めない人に語った。
『保元物語』:保元の乱を源為朝を中心に記述した歴史物語。

鎌倉時代の学問
貴族の過ぎ去った栄光を懐かしむ風潮があった。
有職故実(ゆうそくこじつ)という朝廷の儀式や先例を研究する学問が流行り、金沢には金沢文庫という私設図書館が建てられた。新書レーベルみたいな名前だけど。
また宋学(朱子学)も伝わり、その中の大義名分論は後醍醐天皇の倒幕運動の理論的裏付けになった。
さらに鎌倉仏教の影響を受けた神道理論が、伊勢神宮の渡会家行(わたらいいえゆき)によって作られ、伊勢神道もしくは度会神道と呼ばれた。伊勢神道は、仏>神と考えた本知垂迹説とは真逆で神>仏と考えた。

鎌倉時代の建築
東大寺南大門:大陸的な雄大さを持つ大仏様という建築様式が特徴。
円覚寺舎利殿:整然とした美しさと繊細さを持つ禅宗様(唐様)という建築様式が特徴。
蓮華王院本堂:平安時代からの和洋建築。
観心寺金堂:大仏様+禅宗様の折衷様の建築物。

鎌倉時代の芸術
西洋のルネサンスのように、ありのままの人間を肯定するような、写実的な表現が見られ、蒙古襲来絵巻、平治物語絵巻、法然上人絵伝、一遍上人絵伝、春日権現験記といった絵巻物や似絵という肖像画が描かれている。
彫刻では運慶と快慶が作った東大寺南大門金剛力士像が有名。
書道では、和と宋の書風を組み合わせた青蓮院流(しょうれいいんりゅう)を創始した尊円入道親王の『鷹巣帖』がある。

平安時代覚え書き③

平安時代後期
大河ドラマ「たいらの~きよもり~!」の時代だと言っていい。なんといっても白河上皇の院政と平氏の台頭、これに尽きる。どちらも専制的なのも印象的。
地方の勢力に過ぎなかった武士は、もはや中央の皇族や貴族の権力争いに必要不可欠な存在となってしまった。

後三条天皇
1068年即位。藤原頼通の娘に子どもができなかったため、摂政や関白を外戚とせず、大江匡房(おおえまさふさ)などの学者をブレーンにし天皇親政を行った。
ちなみに息子の白河上皇が行ったことで有名な院政を考案したのも後三条天皇である。
1069年には延久の荘園整理令を出し、公領を圧迫するほどまでに増えすぎた荘園の整理に乗り出した。
荘園整理令はかつて醍醐天皇も行っているが、今回は前回の失敗を踏まえて、国司に丸投げするのではなく、中央政府が直接荘園整理に乗り出した。
中央政府は記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園所有者と国司が提出した書類を比較し、荘園を摂関家のものも含めて一つ一つ厳重にチェックした。そして新しい荘園や書類に不備がある荘園に対しては運営停止を命じた。

荘園公領制
後三条天皇の取り組みはかなりの成果を上げ、不明瞭だった公領と荘園の区別も明確化され、公領は郡、郷、保という単位に再構成、豪族や開発領主にその徴税を請け負わせた。
公領の実務の方は目代の指揮のもと、庁官人に行なわせた。
公領や荘園の耕地の大部分は名(みょう)となり、領主はその耕作を田堵に行わせ、年貢(米や絹)、公事(工芸品や特産物)、夫役(勤労奉仕)などを課した。
しかし、区別が明確になったとは言え、公領と荘園の運営システムは割とかぶっていて(中央政府が直接監督すべき公領も現地の豪族や開発領主に一任していたなど)、大宝律令以来の国>郡>里という行政区画と、新設された郡、郷、保という公領の土地単位、さらにそのどちらにも組み込まれない私有地である荘園が同時に共存するような状況になっていた。この体制を荘園公領制と言い、院政期にはさらに広がっていった。
全国の受験生泣かせの、こういったごちゃごちゃした状況は、豊臣秀吉が太閤検地をして一元化してくれるまで続くことになる。Ohボーイ。
実際この土地の本当の所有者は誰だかわからないこともあったんだってさ。

白河上皇の院政
白河天皇は1086年に当時8歳の堀河天皇に皇位を譲ると、院庁を作り、そこから出される院庁下文(いんちょうくだしぶみ)や上皇の命令である院宣(いんぜん)などを用いて、天皇の影で政治の実権を握りだした。
白河上皇は、院の御所を北面の武士に警備をさせ、源平の武士を側近に取り立てるなど、その権力を強化させていった。
その力は天皇の代理に過ぎない摂政や関白を大きく凌ぎ(つまり事実上の天皇)、しかも天皇のように法や先例に拘束されなかったため、やりたい放題ができた。

院政期の上皇
白河上皇が始めた院政はその後、鳥羽上皇、後白河上皇と継承され100年あまり続いた。彼らは、自分の側近、院近臣(いんのきんしん)をガッツリ稼げる国の国司に任命し、上級貴族には一国の支配権を与える知行国制度を実施、さらに上皇自身が自分の国の収益を握る院分国の制度も作り出した。
これにより公領は、上皇や知行国主、国司などの私有地と変わらなくなってしまった。
また鳥羽上皇の時代には、上皇への荘園の寄進が増加、その見返りとして不輸や不入の特権が当たり前のように与えられたので、荘園の独立性はかなり強まった。
こうして私有地化された公領と寄進地は院政の財政基盤となった。
院政期の上皇は、強欲な割に仏教を厚く信仰していたため、出家して法皇になった。そして京都東山の法勝寺(ほっしょうじ)といった大寺院建設の費用を捻出するために、位やポストの売買(成功)に手を染め、政治はすごい乱れた。国司のポストは金さえあれば購入できたのである。
それでも金が足りないと、上皇は大寺院の荘園の一部を武士を動員して取り上げようとし、大寺院が結成した武装組織である僧兵の激しい抵抗を受けた。
これにはさすがの白河上皇も「いくらオレでも鴨川の洪水と賽の目と延暦寺の僧兵だけはどうにもならねえや」と語ったという。
闘いが大好きな下級僧侶で組織された僧兵は、国司と争い、朝廷に要求を突きつける強訴まで行う大勢力と化していた。その中でも特に興福寺と延暦寺の僧兵は、奈良法師、山法師と呼ばれ恐れられた。殺生アリなんかい。

伊勢平氏の台頭
伊勢平氏とは伊勢と伊賀を地盤とする平氏。
源義家ブームで爆発的な人気を博したものの、彼が亡くなると落ち目になった清和源氏とは対照的に、院政期において地道にその勢力を拡大させていった。

平正盛
伊勢平氏の四代目にあたる。
検非違使や追捕使を勤めていた彼は、出雲で源義家の残酷なバカ息子が反乱を起こした源義親追討事件で一躍時の人となり、中央政界に進出するきっかけを作った。

平忠盛
平正盛の子で平清盛の父の平忠盛は瀬戸内海の海賊を鎮圧、鳥羽上皇の院近臣となった。

保元の乱
1156年。「たいらの~きよもり~!」が大活躍した二つの戦争の一つめ。
鳥羽法皇が死んだあとの跡目争いで勃発。
時の院、鳥羽上皇は、祖父の白河上皇の子だとされる崇徳天皇(すとくてんのう)を嫌い、彼を譲位させ、自分の弟の後白河を天皇に即位させた。
勿論崇徳上皇は納得がいかず、後白河天皇を退位させようと武士を動員、朝廷を二分する戦争が起きた。
後白河天皇は側近、藤原通憲(ふじわらのみちのり)のアドバイスを受け、平清盛や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士に夜討ちや奇襲攻撃など、かなりずるい事をさせて戦乱に勝利。
敗れた崇徳上皇は讃岐に島流し、後白河天皇は晴れて上皇になり院政を始めた。

平治の乱
保元の乱の三年後、1159年に起きた戦争。
保元の乱において崇徳上皇側についた自分の父親まで斬った源義朝は、平清盛ばっかり後白河上皇に気に入られているとジェラシーを募らせ、藤原信頼(ふじわらののぶより)と共に兵を挙げた。
彼らは、後白河上皇を幽閉し、上皇の側近の藤原通憲を自殺に追い込んだが、平清盛がこれを鎮圧、義朝軍はまだ子どもだった源頼朝を残して、ほとんど処刑されてしまった(当時13歳だった頼朝は伊豆に島流し、赤ちゃんだった弟の義経は寺に預けられた)。

平治政権
平清盛は後白河上皇を武力で支え、上皇のために蓮華王院を建設、1167年には武士として初めて行政機関のトップである太政大臣に任命された。
平清盛はかつての藤原家のように、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、そこで生まれた子、安徳天皇の外戚となった。
伊勢平氏の一族は、それぞれに最高のポストが与えられ、彼らは、各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、さらに西国一帯の武士を家人として従えた。
伊勢平氏は全盛期には、日本の半分の知行国や500あまりの荘園を所有するまでになっており、武士でありながら芸術文化にも造詣がある貴族的な性格を持ち合わせていた。
また、平清盛は神戸に港を作り、父が始めた日宋貿易をさらに推進させた。とはいえ、宋と正式に国交を開いていたわけではなかったが、日宋貿易は平時政権の基盤となる、珍宝や宋銭、書籍などをもたらした。
あともともと神聖な場所とされた厳島に神社作ったのも清盛。

鹿ケ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)
とはいえ平治政権はかなり専制的だったため、旧来の貴族を中心に不満を持つ者も多く、1177年には後白河法皇の側近、藤原成親(ふじわらのなりちか)や俊寛(しゅんかん)たちが平氏打倒を企てた。
平清盛はこの陰謀の関係者を一網打尽にしたが、平時政権に対する不満は収まらなかった。

院政期の文化
院政期には貴族文化に、新たに台頭した武士や庶民の文化が混ざり合った。
浄土教は全国的に普及、地方には阿弥陀堂が建設された。
また貴族や庶民の間で流行った田楽や猿楽もこの頃生まれている。

『大鏡』
~鏡シリーズ第1弾。「大根(今)水増し」の語呂合わせで覚える四鏡のひとつで、白河上皇の時代に書かれる。平安時代前期~中期までの藤原北家の栄華を、200歳近く長生きした二人のお爺ちゃんが若い侍に語る、対話形式の歴史物語。
同じく平安末期に書かれた『今鏡』は第2弾。平安中期~平安末期を今度は長寿のお婆さんが回想する。

『今昔物語集』:日本、インド、中国の説話(伝承された物語)集。
『将門記』:平将門の乱を描いた軍記物語。
『陸奥話記』:前九年の役を描いた軍記物語。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』:後白河法皇が民間の歌謡(今様)を学んで作った。

四大絵巻
『鳥獣戯画』:動物を擬人化した異色の作品。
『伴大納言絵巻』:応天門放火事件を描いた絵巻。
『信貴山縁起絵巻』:信貴山の修行僧、命蓮(みょうれん)の説話を描いた絵巻。
『源氏物語絵巻』:内大臣三条西実隆によって書かれ、いい収入になったらしい。
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