論文を書いて

 ハーバート・リードの『芸術による教育』について振り返ります。

 学校の教育のカリキュラムにおいて美術の時間が削減されているという客観的な事実は、美術教育が少なからず軽視されていることを物語っていると考えて間違いないだろう。私は美術教育が現在何故軽視されているのか、そしてそのような風潮を打破する美術教育の必要性について大変興味があり、その答えの一助としてリードの『芸術による教育』の研究を行った。『芸術による教育』は示唆にあふれた魅力的な書であったが、この要約を通じて感じたこと、そして残された課題などを記して結びに変えたいと思う。

1.隠れたカリキュラム
 そもそも教育とは何なのだろうか。私は教育の基本的な内容とは、自分と社会との関わり方を学ぶことであると考えている。そして人間が社会的な動物である以上、教育は呼吸や睡眠と同じく人間にとって必要不可欠なものである。
 しかし教育が必要不可欠であっても、現在の学校教育を全肯定することはできない。教育は必要であるが、子どもにどのような教育を施すかは別の問題である。場合によっては不必要な干渉や抑圧を子どもに強いている可能性は大いにあるだろう。
 学校教育の最も危険な点は、最終的な目標が人格陶冶に収斂されている事である。学校教育は基本的に、様々な子どもに対して普遍的に行われていることから、あるべき理想の人格を画一的に押し広める可能性がある。そのためリードが強調したように、子どもの気質をふまえなければならない。
 しかし私の主観ではあるものの、現在の一般的な学校教育は、個々の子どもの気質をふまえるのではなく、そのような微妙な問題、具体的な人格陶冶そのものから距離を置き、客観的な知識を主に教えているように思える。学術的な知識を教える分には子どもの心には直接的に踏み込まない。
 その結果、学歴社会への適応を子どもたちは隠れたカリキュラムとして課されるようになったと私は思う。子どもの心に踏み込まない知識理解を優先する客観中立な教育、学習法も、最終的には子どもの心に多かれ少なかれ影響を与えてしまっていることは間違いない。
 結論から言って私は、現在の学校教育において高校までで学習する知識の量は膨大かつ多岐にわたり、個性がある以上、人によってはある程度取捨選択する余地はあると考える。そして美術教育が、知識理解を主とする教科に比べて必要性が劣るということはない。
 結局ここで言われている必要性とは、受験に使えるかどうかであり、数学が受験科目でなくなったら授業時数が削減される可能性も否定はできない。
 とはいえこうなると、教育の必要性とは受験に使えるかどうかということになってしまう。学歴社会である以上、現在の教育は、学歴社会に適応した子どもを生産しているシステムであるとも言えるが、本来の目的とはあくまでも豊かな人間性を育む事である。

2.人格陶冶の解答としての芸術教育
 豊かな人間性を自分なりに解釈すれば、これは自分が自分らしく生き、それぞれがそれぞれの人生を楽しむことができるようにすることを目標にしているのだと思う。となれば、やはり教育は具体的に子どもの人格に向かい合わなければならない。
 しかしそこにはかつての全体主義に陥る危険性がある。そのため画一的な人格教育は批判されなければならない。ではどのような手段があるのか。その答えの一つこそリードが提示した美的な「芸術教育」なのだと思う。
 この教育は決して「美術の教科教育」ではない。ここは誤解される点だと思う。リードの芸術教育とは、学校教育の“すべての”分野の基礎に芸術的観念を置くことであり、知識理解の教科も創造的に行なわれるということだ。
 これは決して不可能なことではない。そもそも数学や自然科学は、自然の奥に隠された美しい普遍性を探求する学問であり、数学でも素晴らしい解法は美しいと形容され、黄金比などを考えればわかるように美術と密接な関わりもある。数学の力とは公式をたくさん記憶することだけではなく、その使い方も重要である。国語にしろ基礎的な語彙を覚えるは大切だが、それを実践的に使いこなせなければ実用的ではない。
 基礎なくして応用はないが、応用できなければ基礎の意味はない。その応用力とは、私は想像力だと思う。一般的にロジックを組み立てる時、理性だけを使っていると考えがちであるが、感性も併用し想像力を働かせている。
 分かりやすい数学の解法にしろ国語の言語表現にしろ、解りやすいものは情報の取捨選択をしている。何かを伝える時、何が必要で何が不要かを想像力を働かせ、自分の感性に照らし合わせて行なっている。
 人間は社会的な動物で、それは同時に人間は表現の動物であることを暗示している。社会を形成する上で他者とのコミュニケーション、自己表現は必須だからだ。その表現力の源泉が知性と感性が自然に統合された想像力で、それを養う教育がリードの提唱する芸術教育なのである。

3.美的と自然と言う言葉
 以上が今回ハーバート・リードの『芸術による教育』を読解、要約して学んだことである。リードの芸術教育は魅了的であると共に課題もあることは第三章で論じた。そのアキレス腱が「自然な成長は美的である」という概念だろう。
 芸術や美術を扱う上でどうにも避けて通れない問題が、美的かどうかの判断である。これは現在の学校における美術教育の評価の問題の原因にもなっている。それが美しいかどうかという判断は、個人の主観的側面が大きいため、突き詰めれば社会的調和ではなく個人の意見の対立を生む。自分の美的感覚を突き詰めた芸術家が、時に社会に適応できない変人とされることからも、美的な判断とは主観的で、語弊を恐れずに言うならばエゴである。この問題を上手く調停するのが深層心理学でいうならば超自我なのだろうが、私はこれを理性の役割なのではないかと考えている。美術教育における評価の問題、主観的な美的な感性における社会とのあるべき調和の仕方は今後の課題である。
 リードは『芸術による教育』において、「民主的な教育の制度は、普通の人々、控え目な精神を持った庶民の為に計画されるのであって」、「超人の種族を作るために教育するのではありません」と述べている(1)。この言葉から、リードの芸術教育がプロの芸術家を育成するためのものではないということであることが読み取れるが、リードは同時に、「教育の目的とは、芸術家、すなわち、さまざまな方式による表現にすぐれた人々を創造すること」であるとも述べている(2)。これは矛盾ではなく、ここで言う芸術家とは、本来の語意よりももっと広い意味で用いた言葉なのである。それは表現する人全てを芸術家と指示していのだ。
 人間が自分らしく社会で生きるためには、自己表現を学ぶ必要がある。美的な感覚や芸術を学ぶ理由は、豊かな人間関係を築くことである。自分の主張を、どこでどれだけすべきかはケースバイケースであり、そのフレキシブルな振る舞いを可能にする力こそ、感性と理性の自然な調和がもたらす想像力なのかもしれない。そう言った意味で、リードの芸術教育とは感性“だけ”を教育しない。リードは芸術と科学を区別しないのだ。リードの芸術教育は、知性も育む。知性と感性の統合こそ芸術による教育の目的なのである。

4.リードの芸術教育論が誤解されてきた理由
 リードの芸術による教育とは、“美術教育ではない”ということだ。しかしそのタイトルから、美術の教育方法が書かれていると思われても仕方がない。本書は学校教育における美術の優位性や必要性を支持するものでは全くない。
 基本的に美術を教える教員は、そもそも自身が美術が好きで職に就いている。この『芸術による教育』の読み手の多数を占めると思われる美術教育関係者が、同時に美術愛好者であることが、リードの芸術教育論が誤解されてきた原因の一つであると私は考える。
 私は、学校教育において美術教育の有用性が見つけられなかったら、削減はおろか、削除されても仕方がないという前提で本書を読み進めた。美術が好きだと言うことが時に客観的な理解の桎梏になることもあり得るからだ。
 そして繰り返しになるが、リードの芸術教育は、絵画や彫刻のような美術教育では全くないということが理解できた。彼の論考は美術と言う一教科に収まるようなスケールのものではなかったのだ。リードの芸術教育を自分なりに誤解の無いように要約するならば、「ユングの心理類型に基づいた子どもの個別性を尊重する、想像力を養う教育」なのである。美術教育は芸術教育の十分条件ではあるが、必要条件ではないのである。
 想像力さえ育成するならば、全ての教科が芸術教育になりえる。そしてそれこそが教育の本質であると言うリードの主張は、学校教育において美術教育が置かれている現状を直接的に改善するものではないが、教育そのものに対する視野が広がったことは、私にとって貴重な経験だったと言える。

 最後に『芸術による教育』を勧めてくださった指導教官新井哲夫教授には、本論文を作成するにあたって丁寧かつ熱心なご指導を賜りました。ここに感謝の意を表します。


1.ハーバート・リード著 宮脇理 岩崎清 直江俊雄訳『芸術による教育』(フィルムアート社2001年)「第10章 環境」344ページ
2.同上書「第1章 教育の目的」29ページ

デカルトについて

 この記事はdescf氏の疑問の解答です。でも私、哲学研究者じゃないので、大体しか分かりません。あしからず。

 考えてみれば、世の中に確実なものなんてないって気付きます。そうやって「世界の全てを疑って、それでも疑いようのないものを見つけよう」と考えたのが、数学者のデカルトです。
 このやり方を「方法的懐疑」って言って、「じゃあ自分の存在も幻で存在しないかもしれない」って、究極的にデカルトは疑うわけなんですけど、でもそうやって疑っている以上、疑っている自分の存在は、存在していないと疑えないことになるので、「じゃあ自分は存在してるんだな」って結論が「われ思うゆえにわれあり」という言葉です。

 実を言うとデカルトの方法的懐疑とかの思想は、どっちかというと自然科学よりで、まあデカルトって科学者でもあるからなんですけど、以後の科学哲学や、「自己そのもの」の研究に大きな影響を与えています。
 たとえば、量子力学や動物行動学のフィールド研究などで、今はやばい事態になっている「客観的再現性」という科学の考え方があるんですけど、大雑把に言うとこれは「実験や観察をしている研究者は、研究対象とは無関係な、客観的なものとして基本的に疑っちゃダメ」ってことなんですけど、これって「自分の存在は疑わない」デカルトの思想を受け継いでいると思います。

 このように、主体(研究者)と客体(自然)を分けて考える哲学のやり方こそデカルトの哲学で、以後このラインで自然科学の研究や、自己を対象とする哲学(カントとか)が行われていきます。今は不確定性原理とかでくずれました。
 デカルトには他にも「心身二元論」と言う功績もあるのですが、これはバイオロジーの第1回で触れているのでそちらをご覧ください。

作り手は理性、読み手は感性

 日本語ってなかなか難しくて、なんというか曖昧と言うか、はぐらかしてニュアンスを伝える言葉ですよね。こういったはっきりと物事を相手に伝えようとしない「本来の言葉の目的としてはおかしいだろ」って言語使っているから、日本人の恋愛観も、人間関係も、空気読む人がいいとか、なんで気持ちを察しないとか、言葉を深読みしなきゃ伝達がしっかり成立しない場合が多々あるのではないかと思います。

 「人間言葉じゃ伝えきれない想いがある」とか言いますけど、じゃあジェスチャーとか表情でコミュニケーションがそれよりもできるかと言えば、そうでないわけで、やはり言葉を使いこなせなきゃ人間関係はしんどいし、楽しくないわけです。
 しかも、これは自分と他者の双方がある程度言葉をうまく扱えなければいけないので、一生懸命話し手が言葉を正確に述べても、相手が言葉を知らないんじゃ、結局伝わりません。

 芸術作品でも、「別にそれでいいじゃん。その表現媒体が他者に伝える正解が一つだと面白くないよ」とか言う人がいますが、こんな屁理屈、佐賀のがばいばあちゃんでも言いません。正解が一つじゃないからって、送り手が正解を作らなくていいはずはない。こういうコミュニケーション軽視の人がいるから、子供っぽいもめ事が起きてしまうような。

 で、なんでこんなことになったのかな?って考えてみたんですけど、おそらく「現在は映像の世紀だからじゃないか」と思うんです。映像って理屈じゃないし、でも受け手に与えるインパクトは大きいわけで。感性に訴えてくるんですよね。
 そんな映像の社会で生きているから、なんとなくのイメージでしか人は、ものを見なくなっちゃったんじゃないか、と。
 でもそれってやっぱり「なんとなく」しか伝わらないわけだから、結局相手が何が伝えたかったかは分からない。これが齟齬の原因じゃないかと思います。

 仕事とかする上でこのコミュニケーションの力はとても重要だし、漫画だって読み手を感動させるには絵の曖昧なイメージだけじゃなく、なにか明確なメッセージをぶちこまなければいけないと思います。
 で、その受け手に対する明確なメッセージを上手く発射できるかは、ノラネコさんの言葉を借りれば、やはり「ロジック」なんじゃないか、と。
 送り手は物語をロジックで組み立て、受け手に発射、受けてはそれによって感性を揺さぶられるわけで、この議論で大切なのは、「感性を揺さぶるのは感性じゃなく、意外とロジックなんじゃないか」ってことです。
 リードなんかに即して言えば、ロジックを組み立てる想像力を働かせるためには、理性と感性どちらも必要なのは言うまでもないんですが。

 大体感性だけで生きてたら、世の中絶対やっていけない。道徳とかモラルって超自我がなんだって言いますけど、理性の領域だと思うんですよ。
 例えば人に向かって「キミの顔はぼくの美的感覚に合わない。不細工」とか言ったら、こいつ友達できませんよ。

 でも逆に理性を総動員して、相手に自分の意見を的確に言うのもまずいのかな?私なんかは的確に切り込んでくるとかTくんやKO氏に言われたし、もうちょっと曖昧なニュアンスでしゃべるようにしよう。それが日本人のあるべき態度かもしれないし。
 女性も結構自分の意見言わない、奥ゆかしい男性の方が好きな人多いらしいですからね。で、自分の思いつきはやたら言うんだけど。
 結論:日本語は相手にわざわざ自分の想いを汲み取らせる厄介な言葉。

定滑車と動滑車について

 今年度から中途半端に副教材として復活した中学校の理科の分野は、イオン、てこの原理、月の軌道、遺伝子などがありますが、定滑車と動滑車もカムバックしました。
 滑車を上手く使うと、重い物を少ない力(仕事の量は結局一緒)でこなすことができるって話なんですが、一時期消えた分野の中で、滑車だけはテキストから学習がいのページにもほとんど姿を消していて、まあその内テキストにもしっかり載ると思うんですけど、今は塾で教える時ちょっとテキストにないのは不便なんで要点をまとめます。

 まず「定滑車」なんですが、これは天井に滑車が固定されていて、その滑車にロープを取り付けて、そのロープの片方に荷物を吊るし、もう片方のロープを下に引っ張って、荷物を持ち上げるという方法です。
 これは結局荷物の位置エネルギー分、頑張って引っ張らなきゃいけないので、けっこうしんどいです。

 で、「動滑車」というのはロープの片方を天井にくっつけて、ロープの真ん中に滑車をぶらさげて、その“滑車”に荷物を取りつけて、ロープのもう片方を上に引っ張る方法です。
 この場合、引っ張る人と天井が半分ずっこで荷物を持ち上げてくれることになるので、半分の力で仕事ができます。
 でも結局、動滑車の時の二倍ロープを引っ張る必要があるので、最終的にこなす仕事の量は一緒です。

 滑車の数をガンガン増やすと、とんでもなく重いものも(ロープを引っ張る時間はかかりますが)持ち上げることができます。建設現場のクレーンなどは滑車をうまく組み合わせていて、何トンもの荷物を吊り上げています。
 「定滑車×5、動滑車×5」の組み合わせの場合、引っ張る力は10分の1になってくれますが、ワイヤーを引っ張る距離は10倍になるので、けっこうのろのろです。
 
 まとめ
「仕事(ジュール)=力の大きさ×その力を動かした距離(動滑車の場合は荷物でなくロープを引っ張った長さ!)」
「仕事率(W)=仕事(ジュール)/かかった時間(秒)」

バルールについて

 学校の授業で先生が「バルールがどうこう」とか何気なく言ってたんですけど、結局さっぱり意味が分からなかった思い出があります。
 バルールとは「色価」とも言うそうで、色に関係する絵画の概念の言葉なんでしょうけれど、私の眼は赤と緑の区別がつかないので、まあ色がちゃんと分からないんです(花火茶色で塗ったり、人の肌を緑で塗ったりします)。だから色の話をされても、クオリアとして理解や納得が出来ないから、どうにもならないというか・・・
 それでも頑張ってイメージしてみるに、色と言うのは色相や彩度、明度によって、奥まって見えたり、飛び出して見えるので(分かりやすい例は、影の明度の暗いところ)そこをふまえた上で、画家の人は色の選択して立体感や空間を出しているのかな、と。
 調べてみたら「バルールとは色の相関関係が重要」とか描いてあって、まあ青のとなりに補色の黄色置いたら、かなり黄色が強調されて見えるとかそういうことかもしれません。違うかな?

 色に関しては私は正確に見えていない・・・というか、何を持って正確に色が見えているかは他人の目になれない以上、確認のしようがないですけど、とにかく他の人はもっと青と赤が明確に区別できるらしいですね。
 だから色に関係する絵画技法の話をされても、私はなかなか実感が出来ないのかもしれないです。まあ画家になるつもりはないし、バルールを考えてどこにどの色をのせるかは、色がちゃんと解っていても、その人のセンスの問題もあるし難しいですよね。
 すごい画家の作品って形が取れてるどうこうもありますけど、鑑賞者の心を打つのは、やっぱり色遣いの巧みさだと思います。バルール・・・解れば面白いんだろうなあ。
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