参考文献:杉谷 隆、松本 淳、平井 幸弘『改訂版風景のなかの自然地理』
円錐火山の一生
①粘性の低い溶岩を噴出して火山体を成長させる(富士山はまだこの段階で8万歳ほどの若い火山)。
↓
②溶岩の粘性が次第に高くなり、厚い溶岩流が重なった階段状の山腹斜面を形成。
↓
③火山体が成長すると、重力的に不安定になった山頂部が大崩壊を起こし、山麓に岩屑流堆積面が形成される。
↓
④噴火様式は次第に爆発的になり(粘性が上がる)、多量の火砕流を出すようになり、火山体の周辺には火砕流台地が形成される。
↓
⑤多量のマグマが放出されると、地下に陥没を生じてカルデラが形成され、さらにその中に溶岩円頂丘が形成されていく(箱根山はこの段階で40万歳)。
↓
⑥火山活動が終息すると火山体は急速に侵食されていき、数十万年もすると断片的な溶岩や火砕流堆積物が点在するだけになる。
扇状地の形成(4月出題)
山麓の谷口で川幅が急に広がり、水深が浅くなって運搬力が落ちると、そこに砂や礫が堆積して扇状地ができる。
扇状地が形成されやすい地域的傾向として①中部山岳地帯の盆地域では起伏比(集水域の勾配)が大きいこと、その臨海部では隆起量が大きいこと②関東平野では堆積場が平野域にあること(扇状地の広がる空間があること)③日本海側では豪雨が強くないこと。洪水流量が大きくなると砂礫が遠くまで流されてしまい、河床勾配が小さくなりすぎる。
これらの条件が不利な西日本には扇状地は少ない。
山地の隆起様式
①曲隆山地
圧縮された地殻が100kmの単位でゆるく盛り上がったもの。活断層は少ない。
②褶曲山地
圧縮された地殻の褶曲によって形成。古い奥羽山脈では褶曲が進んで地層が破壊、山麓に逆断層ができている。
③逆断層地塊山地
圧縮された地殻が破断し、その断片が交互に乗り上げ形成。木曽山脈など。
④横ずれ断層地塊山地
横ずれ断層の一部の地塊が高原状にせり上がって形成。飛騨高原、丹波高原など。
⑤正断層地塊
正断層の引っ張る力によって地殻が裂けて形成。
植生遷移
植生は常に様々な植物のせめぎ合いの結果現れるものである。
溶岩の裸地も草原から森林へおよそ千年の時間をかけて、徐々に変化していく。この変化を遷移といい、最終的にできる林を極相林という。極相林では樹木が枯死しても、森全体の樹種構成は変化しない。
温暖湿潤気候の日本では遷移のクライマックスは森林になることが多いが、その過程で現れる樹種は地域によって異なる。
シラカバ林は本来のブナ林が破壊された際にできる二次林であるが、このような二次林は西日本ではシイやカシ、それ以外ではコナラが多い。
高山地帯の植生(5月出題)
高山帯は中部山岳地帯で標高2500m以上、北海道では1000m以上をいい、森林が生育する限界という意味で森林限界と呼ばれる。
コマクサ(可愛い花)やハイマツ(マツだが高さが1~2mくらいにしかならない)といった高山植物が生える。高山植物は肉厚の葉を持ち根が発達、夏が短いので初夏に一斉に花を咲かせる。
周氷河現象
植生が乏しい高山帯では地表がむき出しなので、凍結・融解の繰り返しによって礫が粉砕、構造土ができること。氷河周辺の寒冷地に見られるから、こう呼ぶ。
雪線
氷河ができるには、雪が積もる量が溶ける量を上回り、残雪が再結晶する必要がある。
標高が高いほど氷河は形成されやすく、その最低高度を雪線という。
オランダ・スコットランドのゴルフ場
オランダやスコットランドは2万年前(最終氷期)には厚さ数千メートルの氷床に覆われていて、面的に激しく侵食され凹凸のある広大な岩盤の裸地になった。
侵食土砂は氷河周辺に運ばれてモレーンを作り、凹地は池になっていることもある。
土壌が貧弱で気候が冷涼なので芝地もよく維持できる。
ゴルフはこのような地形を利用するスポーツだという。
日本では、逆に多大な労力をかけて、オランダやスコットランドの貧弱な自然環境を再現している。日本でゴルフをやるならば最も向いているのは、礫床河川の川原が良いという。
砂浜海岸
沖積低地では河川が運ぶ大量の土砂が堆積し、砂浜海岸が見られる。前浜と呼ばれる海側にゆるく傾斜した斜面には、砂がやや盛り上がったバームという部分ができそこにはよくゴミが打ち上げられている。
陸側では風で運ばれた細かい砂が砂丘を作ることがあり、その上には人工のクロマツの防風防砂林が見られることが多い。
近年遠浅の砂浜では、干拓地や埋立地が広がり、護岸ブロックや消波ブロック、高潮、津波防御のための巨大堤防の建設が進んでおり、さらに全国の主要河川にダムが建設されたことから河口まで運ばれる土砂が減少、自然の海岸線は1993年の時点で55.2%(島嶼部を覗くと44.8%)しか残っていない。
瀬戸内海の燧灘(ひうちなだ=瀬戸内海中央部のこと)に面する織田が浜(愛媛県今治市)は瀬戸内海最大の砂浜海岸だったが、港湾、埠頭整備のために西側の三分の一が埋め立てられコンクリート護岸が伸びる人工的な風景になってしまった。
台地と丘陵(6月出題)
平野周辺の山地との境界部に見られることが多い。
台地や丘陵を作る地層は、山地のものと異なり、数十万年前~数万年前の新しい時代に、当時の低地や浅海に堆積したものであるが、海岸付近では昔の海底が隆起して出来た海岸段丘も台地に入る(火山活動によって出来た溶岩台地や火砕流台地はここでの台地には含まれない)。
台地と丘陵は、時代によって区別され、台地は約13万~7万年前の最終間氷期に形成された地形、丘陵はそれよりも古く標高が高いものを指す。
地盤運動が隆起傾向なら古い地層が台地や丘陵に、沈降傾向ならば沖積低地が広がる。
海水準変動
地球規模の環境問題の一つとして海面上昇がある。温室効果ガスによって対流圏の気温が上昇、海水の熱膨張、山岳氷河の融解、グリーンランドや南極の氷床変化を引き起こし、その結果として界面が上昇すると言われている。
IPCC(気候変動に関する政府間パネル)によれば21世紀末までに0.09~0.88m界面が上昇すると予測されている。
インド洋のモルディブや、南太平洋のツバル、キリギスなどの標高数mしかない珊瑚礁の島々、バングラディッシュなど三角州や湿地帯に多くの人が住んでいる途上国では、十分な護岸や堤防がなく、毎年高潮による浸水被害や海岸浸食が発生している。
山の湖と海の湖
日本には自然の湖が600以上ある。
山の湖とは、火山活動によるカルデラ・火口・マール(マグマが水と触れて水蒸気爆発を起こしてできる小さな火山)などの凹地や、溶岩・泥流の堰止めによってできる湖。北海道、東北、南九州の火山地域に見られる。
海の湖とは、海岸部で砂嘴→砂州→沿岸州(堤防状の砂州)の発達によって外海と隔てられてできる湖。オホーツク海沿岸、北関東や北陸から山陰地方の沿岸部にかけて見られる。
湖は中国・四国地方、九州北部には極めて少ない。
干潟の自然環境(8月出題)
現在の東京湾沿岸部は世界で最も人工改変された海岸地帯だといわれている。戦前までは広大な干潟が広がり乗りの一大養殖地帯になっていたが、戦後になると工場群や団地、ごみ処理施設を建てるため大規模に埋め立てられ、深刻な水質汚染が進んでしまった。砂浜には本来存在しないはずの礫が見られ、干潟に生息する野鳥は姿を消してしまったのである。
九州の有明海には面積が2万3000haもある日本最大の干潟が残されている。有明海の干潟は干満の差が4.9メートルもあり、陸と海が交互に入れ替わる干潟の豊かな生態系は「魚のゆりかご」と言われている。珪藻を食べるムツゴロウという魚はわずか1平方メートルに一匹の割合で生きており、少ない面積で多くの生物が暮らしていることが見て取れる。
鹿児島県喜入市以南、薩南諸島~沖縄にかけての島々の干潟にはマングローブ林が発達している。耐塩性を持つヒルギなどの樹種によって形成されるマングローブは、豊かな生物環境と同時に、人々の資源(燃料、住居、船の材料)も提供している。
さらにマングローブ林は海岸の浸食や高潮から内陸を守る役割も果たしているが、世界的に見ると、燃料や建材を得たり、海岸部でのエビの養殖場を建設するために大量に伐採され消滅の危機に瀕している。
中部日本の6つの季節
①冬(12月中旬~3月上旬)
北西季節風によって西高東低の冬型の気圧配置になる。
日本海側で多降水、太平洋側で寡降水になる。
↓
②春(3月中旬~6月上旬)
季節風が北へ後退、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過し、天候が周期的に変化する。
ユーラシア大陸から黄砂が飛来する。
↓
③梅雨(6月中旬~7月中旬)
梅雨前線帯が本州付近に停滞、全国的に降水量が多く、日照時間は少ない。
ちなみに北海道では梅雨ははっきりしない。
↓
④盛夏または夏(7月下旬~8月下旬)
北太平洋高気圧が北上することで、東アジアの風系が北上、高温な晴天が続く。
↓
⑤秋霖(しゅうりん)または秋雨(9月上旬~9月下旬)
北成分の風が南下し、秋雨前線帯が停滞。台風による降水も多い。
↓
⑥秋(10月上旬~12月上旬)
春と同様、温帯低気圧と移動性高気圧が交互に通過し、天候が周期的に変化する。
社会学概論覚え書き②
2014-05-16 20:12:56 (10 years ago)
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コミュニケーション
記号を媒介として、他者と情報を伝達しあうこと。
動物にも見られるが、人間に固有のコミュニケーションには、記号の中でも間接的な象徴(言語)を媒介として他者と情報を伝達しあうという特徴がある。
言語以外のコミュニケーションには、絵画、彫刻、音楽、演劇、写真、映画、舞踏、漫画、服飾、料理、工芸、建築、園芸などがある。
一般にコミュニケーションは、人間同士が直接的に情報を伝達し合うパーソナル・コミュニケーションと、大量の斉一的情報が不特定多数の人々に伝達されるマス・コミュニケーションに大別される。
マーシャル・マクルーハン
カナダの英文学者。メディアの研究で知られる(「メディアはメッセージである」)。
著書『グーテンベルグの銀河系』で印刷技術の普及によって、これまで聴覚、触覚中心で生きていた人々を、視覚中心の世界に生きるように変えてしまったと論じた(非均質的、非連続的から均質的、連続的へ)。
そしてこれは部族中心の社会から個人中心の社会への移行に対応する。さらにマクルーハンは、現代の電子技術が活字文化から口承文化への先祖返りを促しているとも考察している。
マクルーハンによれば「国民」の概念(ナショナリズム)は印刷技術の普及以前にはなかったという。
メディア
コミュニケーションの手段を指すが、もともとの語源は中間を意味する。
メディアは本来人間が開発したものであるが、メディアが人間世界を創造するという一面もある。
マクルーハンはメディアを人間の精神的なあるいは肉体的な拡張として理解した。
ウォルター・リップマン
第一次世界大戦後に発表した著書『世論』でマスメディアが伝える情報は単純化されたイメージに過ぎず、大衆のステレオタイプを形成する特徴を指摘。またステレオタイプは偏見と結び付き、世論調査に利用されやすく、極端な行動に導く危険性があると考えた。ちなみに冷戦という言葉の名付け親でもある。
コミュニケーション二段の流れ
エリー調査によると、マス・コミュニケーションの過程では送り手のメッセージが直接受け手に伝達されるとは限らず、受け手集団に属するオピニオンリーダーを介して受け手に伝達させる場合、マス・コミュニケーションはパーソナル・コミュニケーションと接合した二段の流れになっている。
またファシズムの中で学校の教師がオピニオンリーダーの役割を演じることもある(擬似インテリゲンチャ=エリートっぽいけど実際は大衆)。
効果研究
マスコミがどのような効果を上げているか研究する。
ここでの効果とは、送り手の意図したように受け手の態度や行動が変化することを指す。
利用と満足の研究
マスコミに人々がどう満足しているかを研究する。マスコミが送り手の意図とは異なる効果を上げることを強調。
マスコミが効果を上げるには、人々の満足に結びつく必要があるので、効果研究と、利用と満足の研究はコインの裏表の関係であるといえる。
リチャード・ホガート
カルチュラル・スタディーズ(文化研究)草創期のイギリスの英文学者。
大衆的出版物(新聞、雑誌、小説)などから労働者階級は「自分を甘やかすこと」を学んだと分析。それらの活字を読み解くリテラシーを問題にしている。
プロの送り手
インターネットの普及で誰もが情報の送り手になることができるようになったが、プロとアマの境界はなくなったのではなく、むしろ明確化されたとも考えられる。
プロの送り手には固有の職業倫理が求められ、自らのコミュニケーションの過程全般に対して責任を負わなければならない。
ネットによって明確化されたのは誰もが情報の送り手にはなれないという事実であった。
社会心理
欧米には、それを実態的に捉えるのが困難であるからか「社会心理」に当たる言葉が存在しないと言う。これに対して「社会心理学」という言葉は欧米にも存在し、そのアプローチは心理学的(個人の心理が研究対象。中心的方法は実験)なものと、社会学的(集団の心理が研究対象。中心的方法は調査)なものがある。
テキストでは社会学的アプローチを取り上げ、社会心理を「社会のメンバーに共有されている心理」と定義する。
社会心理の研究の源流は19世紀後半のドイツにおける民族心理の研究にあるとされ、民族心理とは民族的アイデンティティの中核をなすものだと捉えられていた。
ヴィルヘルム・ヴント
実験心理学を創始したドイツの心理学者。
民族心理を個人心理の相互作用から生まれると考えた(構成心理学)。民族心理は個人心理から完全に独立した実態ではないが、それはそれぞれの個人心理にも還元できないとしたヴントは、具体的な研究対象として、言語、芸術、神話、宗教、法律などを取り上げた。
ヴントの研究の中でも国民性は現在でも様々な文脈で用いられている。それは、ある国家のメンバーが共有するパーソナリティの特性を指す。
ギュスターヴ・ル・ボン
フランスの社会心理学者。
固有の規則や名簿を持たない人々の集合である群集を研究した。群衆とは未組織の集団であり、それは古来から存在したものの、近代における産業化、民主化、都市化などの要因によってさらに台頭してきたと考えられている。
ル・ボンは、群集心理を「人間は集合化することで、感情や本能に支配されるようになる」と分析し、群衆は革命的であると同時に保守的でもあるという。つまり熱しやすく冷めやすいことが群衆の属性と考えられる。群集心理の研究は、パニックや暴動の研究としても行われている。
オルテガ・イ・ガセット
これに近い言説としてはオルテガの『大衆の反逆』が挙げられる。大衆は自分を指導することができない存在であり、その大衆が社会を指導するようになったことはひとつの反逆であるとオルテガは考察した。オルテガは社会のメンバーをエリートとマス(大衆)に区分し、前者が特別な素質を備えた人、後者は平均的な人だと定義した。そしてオルテガは大衆が政治に影響力を持つようになったことをファシズムなどとともに批判した。
民主主義とは、無知蒙昧な大衆がデマゴーグによって簡単に扇動されてしまうような危険性を持つラディカルな政治形態だと考えられていたのである。
エーリッヒ・フロム
ファシズムが人々に支持された理由を、アメリカの社会学者フロムは、自由を獲得した近代の人々が自由から逃れる道を探した結果にあるとした。
近代人は、自由であるがゆえに孤独な存在である。そのため自由を得たいという欲求とともに、自由から逃れたいという矛盾した欲求に常時さらされている。そのような意味では『自由からの逃走』はある種のパニック現象(自己保存欲求に基づく集合的な逃走)であったとも考えられる。
デビッド・リースマン
社会心理(社会的性格)を伝統的な儀礼や慣習に従う「伝統指向型」、自分の中の指針に従う「内部指向型」、他人からの信号を受け取るレーダーに従う「他人指向型」の三つに分類。この中で内部指向型から他人指向型への移行が20世紀以降に見られ、数多くの孤独な群衆を生んだ。
リースマンは政治的無関心を伝統型無関心(政治についての知識がないのでプロの政治家に任せておけばいいという態度)と現代型無関心(政治に対する知識はあるが自分とは無関係だとして参加しようとしない)に分類したことでも有名。
党派性
また社会学者による社会心理に対する議論が一般の人々にとって説得力のあるものかどうかは難しい問題である。社会学者がある集団Aの社会心理をBであると考察したとき、それについてその集団が違和感を持つ場合がある(集団Aは自分たちの社会心理をAだと思っているから)。
その文脈ではイデオロギーの研究は、外部からその集団を観察する社会学者にとって苦々しい事実を突きつけた。つまりAが集団Bの党派性を問題にする場合、そのA自身の党派性は問題にされないのである。
しかしこのような完全に客観的な立場に立つことは、現実問題として果たして可能なのであろうか。集団Bを評価する際、評価する側の党派性がバイアスを与えていることは十分考えられる。
ジャン・ボードリヤール
大衆心理として興味深い点は、大衆自身が大衆文化の流行を追いかけ続けることで、自分の他の凡庸な人々と差別化を試みようとしている点である。しかしそれは、非凡な人々と自分を同一化しているとも言える。
ボードリアールはこのような現代の消費社会を記号論の立場から研究をした。ボードリヤールによれば消費社会そのものが唯一の神話として機能してしまっているのだという。
消費社会では、人々は商品の実体(現実)ではなく、他人が持っていない“差異”を消費しており、このような社会をシミュラークル(まがい物)という概念を使って悲観的に分析したのである。
宗教
超自然的・超人間的な存在(神など)に対する信仰のこと。
デュルケムは宗教を聖と俗の二元論で分析し、聖なるものの信仰の体系とした。さらに宗教は社会を統合する機能を持つと考えた。
これに対してヴェーバーは、宗教は社会の安定に寄与するのではなく、逆に社会の変革を促進すると考えた。
宗教と深い関わりを持つカリスマ的支配は、指導者の個人的カリスマだけに担保されているため安定性を欠いているというのだ。
さらに規則や伝統に縛られないことから、カリスマ的支配は固有の革命性を持っている(カエサルやナポレオン、ヒトラーなど)。
トーテミズム
トーテムとは「一族の者」という意味を持つネイティブアメリカンの言葉で、それを象徴する図案を刻んだ柱をトーテムポールという。
ディルケムはこれを社会の旗であるとし、トーテミズムを原始的な信仰であるとしたが、これはレヴィ=ストロースによって現代においても普遍的に見られる現象であると批判されている(シンボルマークやロゴマークなど)。
エートス
宗教社会学の展開にあたってヴェーバーが考えた概念で、人々の生活様式を規定する心的要因を指す。行為に対して一定の傾向性があり、ギリシャ語のエトス(慣習)に由来する。
例えば近代資本主義はプロテスタンティズムの倫理観に基づくのではないかという研究がある。
ピーター・バーガー
オーストリア出身のアメリカの社会学者。
人間の世界構築をノモス(社会秩序)、カオス(無秩序状態)、コスモス(宗教的秩序)と弁証学的に分析した。ノモスが俗なるものであるのに対し、コスモスは聖なるものであると対比される。
またバーガーは近代化に伴って宗教が社会的影響力を失っていくことを世俗化と提示した。
宗教は公的なものから私的なものへ変容してしまう。
カール・マルクス
科学的社会主義のマルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』において、宗教を「民衆の阿片である」と批判したが、皮肉なことに彼の思想(幻想よりも現実)も宗教的意味を持ってしまった。
そういやオタクなんかも、好きなコンテンツを崇拝したり布教したり神曲!とか言ったり、世俗化した宗教的に消費されている気がする。信者の意識があるかはわからないけど。
ジェンダー
一般的に性別。適当な訳語がないが、生物学的な性(セックス)と区別される社会的な性とされる。女らしいファッションのスカートなど。
フェミニズム
従来抑圧されてきた女性の社会的地位を向上させる立場。
ジェンダーの概念自体が男性優位の社会を批判する目的を持つ。
フェミニズムは男女の平等が実質的また形式的に実現しているかどうかを問題にする(選択的夫婦別姓制度など)。
ポリティカルコレクトネス
政治的に公正な表現という意味。男性優位だったり白人優位に取られかねない表現を言い換える。「人間」とか「かれまたはかの女」とか「子ども」など。
医療と福祉
通常の生活を営むのに必要な身体的、精神的能力に異常のある状態である病気から回復させるための専門的援助を指す。
病院
入院もしくは通院患者に医療を提供する空間。
また病院はホテルやレストランのように社交の空間でもある(トーマス・マンの『魔の山』のサナトリウム=長期療養所など)。
病人の役割
パーソンズは、病人は社会的な役割を免除される存在であると定義した(学校の欠席、会社の欠勤など)。
社会保障
英語ではソーシャルセキュリティで、社会的に安全や安心を確保することを意味する。
国家が国民に最低限度の生活水準(ナショナルミニマム)を保障する。
①社会保険
加入者が保険料を拠出する
②公的扶助
申請者に対して、資力調査(ミーンズテスト)を経て、生活に必要な費用を支給する
③社会福祉
児童、母子、高齢者、障害者などに社会的な支援をする
プロフェッション
①長期の訓練を受け
②資格の認定を得た
③特定の団体に属する人々が
④高度な技能をもとに
⑤社会の信託に応える
タイプの職業。
現代社会
現代は英語でモダンだが、これは近代も意味する。
デュルケムは近代社会を、異質な人々が分業によって有機的に結合した社会と定義した。
グローバリゼーション、異文化コミュニケーション、外国人労働者、格差社会、環境問題など様々な問題がある。
ウォルト・ロストウ
アメリカの経済学者。ロストウは近代化を産業化の過程として捉え
①伝統的社会(国民所得5%未満)
②離陸のための先行条件期(5~10%)
③離陸期(10%)
④成熟への前進期(20%)
⑤高度大衆消費時代
の五段階からなる経済発展段階説を提唱した。
遊びと労働
オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、遊びに人間の本質を求め(ホモ・ルーデンス=遊戯人)、学問を含む様々な文化は遊びを通じて生まれてきたとする。
また労働は、生存のための手段として存在する点で、遊び(完結的)と区別され、ものを作ることに人間の本質を求める考え方もある(ホモ・ファーベル=工作人)。
記号を媒介として、他者と情報を伝達しあうこと。
動物にも見られるが、人間に固有のコミュニケーションには、記号の中でも間接的な象徴(言語)を媒介として他者と情報を伝達しあうという特徴がある。
言語以外のコミュニケーションには、絵画、彫刻、音楽、演劇、写真、映画、舞踏、漫画、服飾、料理、工芸、建築、園芸などがある。
一般にコミュニケーションは、人間同士が直接的に情報を伝達し合うパーソナル・コミュニケーションと、大量の斉一的情報が不特定多数の人々に伝達されるマス・コミュニケーションに大別される。
マーシャル・マクルーハン
カナダの英文学者。メディアの研究で知られる(「メディアはメッセージである」)。
著書『グーテンベルグの銀河系』で印刷技術の普及によって、これまで聴覚、触覚中心で生きていた人々を、視覚中心の世界に生きるように変えてしまったと論じた(非均質的、非連続的から均質的、連続的へ)。
そしてこれは部族中心の社会から個人中心の社会への移行に対応する。さらにマクルーハンは、現代の電子技術が活字文化から口承文化への先祖返りを促しているとも考察している。
マクルーハンによれば「国民」の概念(ナショナリズム)は印刷技術の普及以前にはなかったという。
メディア
コミュニケーションの手段を指すが、もともとの語源は中間を意味する。
メディアは本来人間が開発したものであるが、メディアが人間世界を創造するという一面もある。
マクルーハンはメディアを人間の精神的なあるいは肉体的な拡張として理解した。
ウォルター・リップマン
第一次世界大戦後に発表した著書『世論』でマスメディアが伝える情報は単純化されたイメージに過ぎず、大衆のステレオタイプを形成する特徴を指摘。またステレオタイプは偏見と結び付き、世論調査に利用されやすく、極端な行動に導く危険性があると考えた。ちなみに冷戦という言葉の名付け親でもある。
コミュニケーション二段の流れ
エリー調査によると、マス・コミュニケーションの過程では送り手のメッセージが直接受け手に伝達されるとは限らず、受け手集団に属するオピニオンリーダーを介して受け手に伝達させる場合、マス・コミュニケーションはパーソナル・コミュニケーションと接合した二段の流れになっている。
またファシズムの中で学校の教師がオピニオンリーダーの役割を演じることもある(擬似インテリゲンチャ=エリートっぽいけど実際は大衆)。
効果研究
マスコミがどのような効果を上げているか研究する。
ここでの効果とは、送り手の意図したように受け手の態度や行動が変化することを指す。
利用と満足の研究
マスコミに人々がどう満足しているかを研究する。マスコミが送り手の意図とは異なる効果を上げることを強調。
マスコミが効果を上げるには、人々の満足に結びつく必要があるので、効果研究と、利用と満足の研究はコインの裏表の関係であるといえる。
リチャード・ホガート
カルチュラル・スタディーズ(文化研究)草創期のイギリスの英文学者。
大衆的出版物(新聞、雑誌、小説)などから労働者階級は「自分を甘やかすこと」を学んだと分析。それらの活字を読み解くリテラシーを問題にしている。
プロの送り手
インターネットの普及で誰もが情報の送り手になることができるようになったが、プロとアマの境界はなくなったのではなく、むしろ明確化されたとも考えられる。
プロの送り手には固有の職業倫理が求められ、自らのコミュニケーションの過程全般に対して責任を負わなければならない。
ネットによって明確化されたのは誰もが情報の送り手にはなれないという事実であった。
社会心理
欧米には、それを実態的に捉えるのが困難であるからか「社会心理」に当たる言葉が存在しないと言う。これに対して「社会心理学」という言葉は欧米にも存在し、そのアプローチは心理学的(個人の心理が研究対象。中心的方法は実験)なものと、社会学的(集団の心理が研究対象。中心的方法は調査)なものがある。
テキストでは社会学的アプローチを取り上げ、社会心理を「社会のメンバーに共有されている心理」と定義する。
社会心理の研究の源流は19世紀後半のドイツにおける民族心理の研究にあるとされ、民族心理とは民族的アイデンティティの中核をなすものだと捉えられていた。
ヴィルヘルム・ヴント
実験心理学を創始したドイツの心理学者。
民族心理を個人心理の相互作用から生まれると考えた(構成心理学)。民族心理は個人心理から完全に独立した実態ではないが、それはそれぞれの個人心理にも還元できないとしたヴントは、具体的な研究対象として、言語、芸術、神話、宗教、法律などを取り上げた。
ヴントの研究の中でも国民性は現在でも様々な文脈で用いられている。それは、ある国家のメンバーが共有するパーソナリティの特性を指す。
ギュスターヴ・ル・ボン
フランスの社会心理学者。
固有の規則や名簿を持たない人々の集合である群集を研究した。群衆とは未組織の集団であり、それは古来から存在したものの、近代における産業化、民主化、都市化などの要因によってさらに台頭してきたと考えられている。
ル・ボンは、群集心理を「人間は集合化することで、感情や本能に支配されるようになる」と分析し、群衆は革命的であると同時に保守的でもあるという。つまり熱しやすく冷めやすいことが群衆の属性と考えられる。群集心理の研究は、パニックや暴動の研究としても行われている。
オルテガ・イ・ガセット
これに近い言説としてはオルテガの『大衆の反逆』が挙げられる。大衆は自分を指導することができない存在であり、その大衆が社会を指導するようになったことはひとつの反逆であるとオルテガは考察した。オルテガは社会のメンバーをエリートとマス(大衆)に区分し、前者が特別な素質を備えた人、後者は平均的な人だと定義した。そしてオルテガは大衆が政治に影響力を持つようになったことをファシズムなどとともに批判した。
民主主義とは、無知蒙昧な大衆がデマゴーグによって簡単に扇動されてしまうような危険性を持つラディカルな政治形態だと考えられていたのである。
エーリッヒ・フロム
ファシズムが人々に支持された理由を、アメリカの社会学者フロムは、自由を獲得した近代の人々が自由から逃れる道を探した結果にあるとした。
近代人は、自由であるがゆえに孤独な存在である。そのため自由を得たいという欲求とともに、自由から逃れたいという矛盾した欲求に常時さらされている。そのような意味では『自由からの逃走』はある種のパニック現象(自己保存欲求に基づく集合的な逃走)であったとも考えられる。
デビッド・リースマン
社会心理(社会的性格)を伝統的な儀礼や慣習に従う「伝統指向型」、自分の中の指針に従う「内部指向型」、他人からの信号を受け取るレーダーに従う「他人指向型」の三つに分類。この中で内部指向型から他人指向型への移行が20世紀以降に見られ、数多くの孤独な群衆を生んだ。
リースマンは政治的無関心を伝統型無関心(政治についての知識がないのでプロの政治家に任せておけばいいという態度)と現代型無関心(政治に対する知識はあるが自分とは無関係だとして参加しようとしない)に分類したことでも有名。
党派性
また社会学者による社会心理に対する議論が一般の人々にとって説得力のあるものかどうかは難しい問題である。社会学者がある集団Aの社会心理をBであると考察したとき、それについてその集団が違和感を持つ場合がある(集団Aは自分たちの社会心理をAだと思っているから)。
その文脈ではイデオロギーの研究は、外部からその集団を観察する社会学者にとって苦々しい事実を突きつけた。つまりAが集団Bの党派性を問題にする場合、そのA自身の党派性は問題にされないのである。
しかしこのような完全に客観的な立場に立つことは、現実問題として果たして可能なのであろうか。集団Bを評価する際、評価する側の党派性がバイアスを与えていることは十分考えられる。
ジャン・ボードリヤール
大衆心理として興味深い点は、大衆自身が大衆文化の流行を追いかけ続けることで、自分の他の凡庸な人々と差別化を試みようとしている点である。しかしそれは、非凡な人々と自分を同一化しているとも言える。
ボードリアールはこのような現代の消費社会を記号論の立場から研究をした。ボードリヤールによれば消費社会そのものが唯一の神話として機能してしまっているのだという。
消費社会では、人々は商品の実体(現実)ではなく、他人が持っていない“差異”を消費しており、このような社会をシミュラークル(まがい物)という概念を使って悲観的に分析したのである。
宗教
超自然的・超人間的な存在(神など)に対する信仰のこと。
デュルケムは宗教を聖と俗の二元論で分析し、聖なるものの信仰の体系とした。さらに宗教は社会を統合する機能を持つと考えた。
これに対してヴェーバーは、宗教は社会の安定に寄与するのではなく、逆に社会の変革を促進すると考えた。
宗教と深い関わりを持つカリスマ的支配は、指導者の個人的カリスマだけに担保されているため安定性を欠いているというのだ。
さらに規則や伝統に縛られないことから、カリスマ的支配は固有の革命性を持っている(カエサルやナポレオン、ヒトラーなど)。
トーテミズム
トーテムとは「一族の者」という意味を持つネイティブアメリカンの言葉で、それを象徴する図案を刻んだ柱をトーテムポールという。
ディルケムはこれを社会の旗であるとし、トーテミズムを原始的な信仰であるとしたが、これはレヴィ=ストロースによって現代においても普遍的に見られる現象であると批判されている(シンボルマークやロゴマークなど)。
エートス
宗教社会学の展開にあたってヴェーバーが考えた概念で、人々の生活様式を規定する心的要因を指す。行為に対して一定の傾向性があり、ギリシャ語のエトス(慣習)に由来する。
例えば近代資本主義はプロテスタンティズムの倫理観に基づくのではないかという研究がある。
ピーター・バーガー
オーストリア出身のアメリカの社会学者。
人間の世界構築をノモス(社会秩序)、カオス(無秩序状態)、コスモス(宗教的秩序)と弁証学的に分析した。ノモスが俗なるものであるのに対し、コスモスは聖なるものであると対比される。
またバーガーは近代化に伴って宗教が社会的影響力を失っていくことを世俗化と提示した。
宗教は公的なものから私的なものへ変容してしまう。
カール・マルクス
科学的社会主義のマルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』において、宗教を「民衆の阿片である」と批判したが、皮肉なことに彼の思想(幻想よりも現実)も宗教的意味を持ってしまった。
そういやオタクなんかも、好きなコンテンツを崇拝したり布教したり神曲!とか言ったり、世俗化した宗教的に消費されている気がする。信者の意識があるかはわからないけど。
ジェンダー
一般的に性別。適当な訳語がないが、生物学的な性(セックス)と区別される社会的な性とされる。女らしいファッションのスカートなど。
フェミニズム
従来抑圧されてきた女性の社会的地位を向上させる立場。
ジェンダーの概念自体が男性優位の社会を批判する目的を持つ。
フェミニズムは男女の平等が実質的また形式的に実現しているかどうかを問題にする(選択的夫婦別姓制度など)。
ポリティカルコレクトネス
政治的に公正な表現という意味。男性優位だったり白人優位に取られかねない表現を言い換える。「人間」とか「かれまたはかの女」とか「子ども」など。
医療と福祉
通常の生活を営むのに必要な身体的、精神的能力に異常のある状態である病気から回復させるための専門的援助を指す。
病院
入院もしくは通院患者に医療を提供する空間。
また病院はホテルやレストランのように社交の空間でもある(トーマス・マンの『魔の山』のサナトリウム=長期療養所など)。
病人の役割
パーソンズは、病人は社会的な役割を免除される存在であると定義した(学校の欠席、会社の欠勤など)。
社会保障
英語ではソーシャルセキュリティで、社会的に安全や安心を確保することを意味する。
国家が国民に最低限度の生活水準(ナショナルミニマム)を保障する。
①社会保険
加入者が保険料を拠出する
②公的扶助
申請者に対して、資力調査(ミーンズテスト)を経て、生活に必要な費用を支給する
③社会福祉
児童、母子、高齢者、障害者などに社会的な支援をする
プロフェッション
①長期の訓練を受け
②資格の認定を得た
③特定の団体に属する人々が
④高度な技能をもとに
⑤社会の信託に応える
タイプの職業。
現代社会
現代は英語でモダンだが、これは近代も意味する。
デュルケムは近代社会を、異質な人々が分業によって有機的に結合した社会と定義した。
グローバリゼーション、異文化コミュニケーション、外国人労働者、格差社会、環境問題など様々な問題がある。
ウォルト・ロストウ
アメリカの経済学者。ロストウは近代化を産業化の過程として捉え
①伝統的社会(国民所得5%未満)
②離陸のための先行条件期(5~10%)
③離陸期(10%)
④成熟への前進期(20%)
⑤高度大衆消費時代
の五段階からなる経済発展段階説を提唱した。
遊びと労働
オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガは、遊びに人間の本質を求め(ホモ・ルーデンス=遊戯人)、学問を含む様々な文化は遊びを通じて生まれてきたとする。
また労働は、生存のための手段として存在する点で、遊び(完結的)と区別され、ものを作ることに人間の本質を求める考え方もある(ホモ・ファーベル=工作人)。
社会学概論覚え書き①
2014-05-15 00:47:27 (10 years ago)
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カテゴリタグ:
- 社会学
この前試験に行ったばかりなのに、またやってくるっていう。今回は暗記科目ばかりなのでスケジュールがキツキツ。教員採用試験も迫ってきてるしね。
しかし外国史概説はやっちまったなあ。レオン三世とレオ三世を取り違えるとは・・・つーかあれって読み方の問題なんじゃないの?ダメ?ンひとつで不合格って厳しなあorz
社会学とはなにか
しばしば社会学は三面記事と呼ばれる。
これは新聞が全4ページ構成だった頃、3ページ目が社会面だったことに由来。
様々な雑多な出来事を包括的に捉える。
サッカー、ロック、カフェ、茶髪、携帯電話・・・なんでもあり。
社会学の創始者
①オーギュスト・コント
フランス革命の混乱期に生きた社会学者。JSミルとは友達。
『実証哲学講義』で「社会学」という言葉を発案。
三段階の法則
人間の知識は神学的(神話、宗教)→形而上学的(哲学)→実証的(自然科学)という三つの段階を経て発展するという法則。
コントは社会学をこの実証的段階に対応する学問であるとした。つまり社会学は実証的な科学足り得ると考えたのだ。
②トマス・ホッブス
おなじみホッブス先生。社会秩序の成立を最初に理論的に研究したという意味でこの人を社会学の創始者に挙げる人もいるらしい。
③エミール・デュルケム
社会学の講義では必ず出てくる人。
コントやホッブスは時代的に古すぎてアカデミックな社会学者とは言えないため、デュルケムが社会学の理論的基礎を作った、よって彼が社会学の創始者だ!という人もいる。
④マックス・ヴェーバー
デュルケムと同じ理由でヴェーバー先生も社会学の創始者として挙げられることがあるらしい。政治学や経済学でも出てくるから、本当レンジが広い人だったんだろうな。社会学もそう言う意味じゃレンジが広いよね。その分漠然としててつかみどころがないけど…
⑤タルコット・パーソンズ
構造機能主義の創始者として知られる。その名のとおり、社会の骨組みである構造と、他の構造や社会全体に対して作用している機能に着目する学派。
社会を構成する個々の人間よりも、システム工学的な側面を重視するため、抽象的過ぎるとして批判も起きており、80年代以降は衰退しているという。
⑥ハーバード・スペンサー
テキストでは以上の5人が社会学の創始者として挙げられていたが、コントの影響を受けたイギリスの哲学者スペンサーも社会学の祖として知られている。
社会を構造と機能の観点から分析した社会有機体説(現在の構造機能主義の先駆け)が有名だが、「進化」や「適者生存」を発案した人のイメージが私には強い。
公平な観察者
アダム・スミスの著作『道徳感情論』に観察者という概念が行為者の対立概念として提示されている。属性は公平。
行為者がエゴ(利害関心)を抑制するのは、観察者の共感を得ようとするためで、そう言う意味で観察者は社会の安定化に一役買っているとされる。
ただアダム・スミスは観察者もできるだけ行為者の立場に立たなくてはいけないとも論じている。結局生きてる限り全ての人が当事者なわけだから。
社会
人々が相互行為を通じて固有の結合を作り上げている状態を指す。家族、仲間、クラブ、会社、組合、政党、国家など。
社会という言葉自体は明治初年に登場。幕臣、作家、政治家の福地源一郎が、この言葉を最初に用いたらしい。
福沢諭吉は「社会」に当たる言葉として代わりに人間の交際という言葉を用いた。
実際欧米のソサエティは組合や交際という意味がある。
しかし日本では社会に出るというと、疎遠な人間関係の空間へ出ていくような(世間の冷たい風に吹かれる)ネガティブなニュアンスがある。
名簿と規則
社会を定義する上で、それを構成するメンバーは特定されるべきか、また、メンバーの行動は何らかの規制を受けるべきなのか、という問題。
例えば家族はメンバーは特定されるものの、メンバーの行動を規制する明確な規則を見つけることは難しい(加藤家家訓??)。
名簿も規則もない集団の例では群集が挙げられる。
マージナルマン
境界人のこと。スナフキンみたいなもんで、どこに属するか定かにしないため内集団や外集団の攻撃や迫害の対象になるが、彼らの対立構造を客観的に分析できる位置にもある。アダム・スミスの公平な観察者に近い。
ユダヤ系ドイツ人のジンメルなどがマージナルマンの典型例。
また移民の国アメリカの社会学者サムナーが内集団と外集団を理論づけたことも興味深い。
社会学の社会学
社会学は取り上げる内容によっては研究や理論そのものが社会的な制約を受けてしまう。
社会学は知識や現象そのものも研究対象にするため、合わせ鏡のように自分の研究行為も研究対象になってしまう。
機械的連帯と有機的連帯
デュルケムが提唱。前者は同質のメンバーが機械的に結合している状態で原始社会を指し、後者は分業によってメンバーが有機的に結合している状態で近代社会がこれにあたるとされる。
分業がうまく機能していない状態をアノミー(無規制状態)であるとしたことは有名。
行為(4月出題)
行動の一種。しかし行動は動物でも行うが、行為は人間しか行わないとする。
行為は象徴(シンボル)によって社会的に意味付けられた行動を指す。
動物は記号と記号の内容が直接結びつくような単純な信号(シグナル)には反応するが、抽象的な象徴を操作することはできない(記号と記号の結びつきが間接的※言語やアレゴリーなど)。
社会名目論
社会は虚構であり、存在するのは社会が実在するように振舞う人間であるという立場。
社会実在論
社会は実在するという立場。社会が存在するように人間が振る舞うのもそもそも社会が存在するからであると考える。
デュルケムVSヴェーバー
デュルケムは社会は個人に超越すると考えた(社会的事実=社会実在論)。
社会はひとつの有機体のようなもので分解することはできない。
これに対してヴェーバーは社会は一つの実体ではなく、人々の個々の行為に分解できると考えた(理解社会学)。
ヴェーバーの理解社会学
ヴェーバーは人間の行為に着目する、そしてそれを4つに分類した。
①感情的行為
感情にかられて無意識のうちに行なう行為
②習慣的(伝統的)行為
習慣化してほとんど無意識におこなっている行為
③目的合理的行為
ある目的のために手段として意図的に行われる行為
④価値合理的行為
道徳的、宗教的、美学的といった固有の価値に基づく行為
自分に課せられた命令や責務を果たす為に行われる。
またヴェーバーは人間の行為を、手段的行為(インストゥルメンタル)と、行為そのものが目的である完結的行為(コンサマトリー)にも分類している。
ロバート・マッキーヴァー
アメリカの社会学者。彼はコミュニティとアソシエーションを対比させたことで知られる。
コミュニティは「私たちは仲間である」という感情で結びついた自然発生的に生まれた集団を指す。
これに対してアソシエーションは人々が特定の目的のために創設する集団を指す。サッカー日本代表など。
マッキーヴァーによると、家族や国家はコミュニティでもありアソシエーションでもあると言う。
ロバート・マートン
こちらもアメリカの社会学者。
官僚制の研究において、システムの部分が全体の目的において貢献した場合を順機能、逆効果だった場合は逆機能であると定義した。
家族(5月出題)
夫婦関係、親子関係、きょうだい関係などを基盤として成立する親族関係者の集団。
①家族は共同の住居を持っている
②家族のメンバーは感情的に融合している(コミュニティでありゲマインシャフト)。
③家族はメンバーの福祉を志向している
ジョージ・マードック
アメリカの社会学者で、核家族の機能を4つに分類した。
①性的機能
②経済的機能
③生殖的機能
④教育的機能
これらは全て人間の生産に関わる機能である。
パーソンズの性別役割分業
父→手段的役割(家族の外的な機能。職業。手段的)
母→表出的役割(家族の内的な機能。家事。完結的)
フィリップ・アリエス
フランスの歴史家。中世には子どもの概念はなかったという(小さな大人として扱われていた)。近代社会への移行において子どもの概念が誕生した。
中世では子どもの社会化は社会が担っていたが、近代に入るとそれを家庭と学校が担当するようになり、それが子どもの概念を生んだとアリエスは論じた。
センサス
国家の人口状態を把握するために行われる社会調査のこと。国勢調査など。
古代ローマでは皇帝アウグストゥスがユダヤで住民登録を行なった記録がある。
都市
①人口が凝縮している
②第二次~第三次産業が発展(大量の第一次産品を必要とする)
③広域的なコミュニケーションの中枢である(政治、経済、文化の中心)
④人工的な構築物(自然環境よりも文化環境、社会環境の特性が濃厚)
⑤移住者の空間であり自由を基調とする(不特定多数の人が出入り)
ゲオルク・ジンメル
社会を人間の相互作用の過程として捉えたドイツの社会学者。
大都市にはもっぱら悟性や貨幣によって支配されるような主知主義的傾向があるとした。
また都市は、人口密度が高いため身体的には密接しているが、精神的には疎遠であり、それは互いの敵意に転化する可能性をはらんでいるとも論じている。
だが精神的な疎遠には都市が自由な空間であることを裏付けるポジティブな側面もある。
ちなみにジンメルはシカゴ学派のパークの先生。
パークは都市のスラム化に着目した。都市化とともにローカルコミュニティが発生し、それが秩序基盤を喪失させていくという(社会解体)。
アーネスト・バージェス
シカゴ学派の中心人物。都心から郊外へ広がるにつれ5つの同心円地帯をモデル化した。
①都心地域(中央ビジネス地区)
②遷移地帯(イタリア人街、ユダヤ人街、中国人街、スラム地域)
③労働者住宅地帯
④住宅地帯(高級アパートメント、独立家族住宅の専用地区)
⑤通勤者地帯(郊外地区)
確かにアメリカって金持ちほど郊外に住んでいるイメージがあるなあ(^_^;)
スプロール現象
日本の都市でよく見られる、市街地の無秩序な拡大のこと。
インフラの整備が後回しになっているため、防災的にも問題になっている。
参与観察
観察対象の場所に実際住んでみたり、集団に加わってみること。
シカゴ学派のウィリアム・ホワイトはボストン市内のイタリア系移民のスラム街で実際生活したという。
フェルディナント・テンニース
ドイツの社会学者。
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという社会法則を提唱。
ゲマインシャフトは人間的関係で結合した集団。家族や田舎。有機的。
ゲゼルシャフトは利害関係で結合した集団。会社や大都会。機械的。
※デュルケムの機械的連帯から有機的連帯とは順序が逆!
規範
規範(ノルマ)の語源はコンパスであり、それは人々の行為のものさしである。
この規範に人々がどれだけ従っているかを評価することをサンクションという。
これは規範に同調する行為には報酬を、規範から逸脱する行為には罰則を与えるものである。
ベンサムはサンクションを4つに分類している。
①自然的制裁…不摂生で体を壊す
②道徳的制裁…世間から非難を浴びる
③法律的制裁…法的に処罰される
④宗教的制裁…神の怒りや罰を恐る
この内ベンサムは特に③を重視した。
規範は「慣習」「習律」「法」の三つに分類される。
①慣習
社会の構成員が日常的に繰り返すことで正当化される行為様式を指す。
②習律
一定の慣習が社会の安定のために必要であるという信念を伴ったものである。その意味でこの二つを厳密に区分することは難しいが、慣習に比べて習律の方が社会のメンバーを拘束する力が大きい(=すなわちサンクションも大きい)。
③法
日常的な行動の様式を遵守する慣習とも、順守の習慣を伴った慣習である習律とも区別される。なぜなら習律はそれを遵守しなければならないという信念は主観的なものであり、法律のような客観普遍性はないと考えられるからだ。
とはいえ法は本来慣習を基盤としており、それから完全に分離した法は客観的な拘束力および正当性を持ち得ないと思われる。
ヴェーバーの正当性論
政治学覚え書き③とかぶるけど再登場。
①伝統的支配
伝統によって権威づけられたモノに対する
②合法的支配
合理的な法律や命令権に基づく
③カリスマ的支配
ある個人に備わった非日常的なカリスマがもっている権威に対する
※また、このような支配の正当性が担保されるのは、被支配者がその支配を正当だと容認した時だけであるとヴェーバーは考えた。
道徳
主体の外部にある指針が法律ならば、道徳は主体の内部にある指針と対比させることができる。例えば、完全犯罪を成し遂げて法の目をくぐり抜けたとしても、なにか後ろめたい気持ちがあるならば、それは道徳的な罪を負っているからである。人間のこの道徳心について考察したのが、ユダヤ人の思想家のレヴィナスである。
レヴィナスは人間の顔に注目し、他者の顔が「汝殺すなかれ」という呼びかけを行っているというのだ。これに耳を傾ける義務が私たちにはあり、それこそが倫理の根拠となっているという。またカントは『実践理性批判』において、道徳とは何かの目的のための手段として扱ってはならず、自分の意志の格律が常に普遍的であるように行動すべきである、と論じた(定言命法)。
ロバート・パーク
シカゴ学派の社会学者。都市化によって従来の道徳的秩序が崩壊し、その結果反社会的行動が増加すると考えた。つまり逸脱は社会的統制が不十分な場合に生じると考える。
アノミー型自殺
デュルケムは、道徳的秩序の崩壊によって人々の欲求が無規制状態に陥り、そのような状態の中での焦燥や幻滅によって自殺をしてしまうという、「アノミー的自殺」を考えた。この無規制状態を表すアノミーはロバート・マートンによっても引用され、様々な逸脱行為の原因と考えられた。
ラベリング理論
シカゴ学派のハワード・ベッカーは、社会が人にレッテルを貼ることで逸脱者と同調者を区別するというラベリング理論を考えた。
逸脱者のレッテルを貼られたアウトサイダーが、やがて逸脱者としてのアイデンティティを獲得し、組織化された逸脱者の集団に加わっていく。これが逸脱行為そのものが理論的に正当化される過程である。
ベッカーは社会的統制そのものが逸脱行為を生み出す原因になっていると考えたのだ。
しかし外国史概説はやっちまったなあ。レオン三世とレオ三世を取り違えるとは・・・つーかあれって読み方の問題なんじゃないの?ダメ?ンひとつで不合格って厳しなあorz
社会学とはなにか
しばしば社会学は三面記事と呼ばれる。
これは新聞が全4ページ構成だった頃、3ページ目が社会面だったことに由来。
様々な雑多な出来事を包括的に捉える。
サッカー、ロック、カフェ、茶髪、携帯電話・・・なんでもあり。
社会学の創始者
①オーギュスト・コント
フランス革命の混乱期に生きた社会学者。JSミルとは友達。
『実証哲学講義』で「社会学」という言葉を発案。
三段階の法則
人間の知識は神学的(神話、宗教)→形而上学的(哲学)→実証的(自然科学)という三つの段階を経て発展するという法則。
コントは社会学をこの実証的段階に対応する学問であるとした。つまり社会学は実証的な科学足り得ると考えたのだ。
②トマス・ホッブス
おなじみホッブス先生。社会秩序の成立を最初に理論的に研究したという意味でこの人を社会学の創始者に挙げる人もいるらしい。
③エミール・デュルケム
社会学の講義では必ず出てくる人。
コントやホッブスは時代的に古すぎてアカデミックな社会学者とは言えないため、デュルケムが社会学の理論的基礎を作った、よって彼が社会学の創始者だ!という人もいる。
④マックス・ヴェーバー
デュルケムと同じ理由でヴェーバー先生も社会学の創始者として挙げられることがあるらしい。政治学や経済学でも出てくるから、本当レンジが広い人だったんだろうな。社会学もそう言う意味じゃレンジが広いよね。その分漠然としててつかみどころがないけど…
⑤タルコット・パーソンズ
構造機能主義の創始者として知られる。その名のとおり、社会の骨組みである構造と、他の構造や社会全体に対して作用している機能に着目する学派。
社会を構成する個々の人間よりも、システム工学的な側面を重視するため、抽象的過ぎるとして批判も起きており、80年代以降は衰退しているという。
⑥ハーバード・スペンサー
テキストでは以上の5人が社会学の創始者として挙げられていたが、コントの影響を受けたイギリスの哲学者スペンサーも社会学の祖として知られている。
社会を構造と機能の観点から分析した社会有機体説(現在の構造機能主義の先駆け)が有名だが、「進化」や「適者生存」を発案した人のイメージが私には強い。
公平な観察者
アダム・スミスの著作『道徳感情論』に観察者という概念が行為者の対立概念として提示されている。属性は公平。
行為者がエゴ(利害関心)を抑制するのは、観察者の共感を得ようとするためで、そう言う意味で観察者は社会の安定化に一役買っているとされる。
ただアダム・スミスは観察者もできるだけ行為者の立場に立たなくてはいけないとも論じている。結局生きてる限り全ての人が当事者なわけだから。
社会
人々が相互行為を通じて固有の結合を作り上げている状態を指す。家族、仲間、クラブ、会社、組合、政党、国家など。
社会という言葉自体は明治初年に登場。幕臣、作家、政治家の福地源一郎が、この言葉を最初に用いたらしい。
福沢諭吉は「社会」に当たる言葉として代わりに人間の交際という言葉を用いた。
実際欧米のソサエティは組合や交際という意味がある。
しかし日本では社会に出るというと、疎遠な人間関係の空間へ出ていくような(世間の冷たい風に吹かれる)ネガティブなニュアンスがある。
名簿と規則
社会を定義する上で、それを構成するメンバーは特定されるべきか、また、メンバーの行動は何らかの規制を受けるべきなのか、という問題。
例えば家族はメンバーは特定されるものの、メンバーの行動を規制する明確な規則を見つけることは難しい(加藤家家訓??)。
名簿も規則もない集団の例では群集が挙げられる。
マージナルマン
境界人のこと。スナフキンみたいなもんで、どこに属するか定かにしないため内集団や外集団の攻撃や迫害の対象になるが、彼らの対立構造を客観的に分析できる位置にもある。アダム・スミスの公平な観察者に近い。
ユダヤ系ドイツ人のジンメルなどがマージナルマンの典型例。
また移民の国アメリカの社会学者サムナーが内集団と外集団を理論づけたことも興味深い。
社会学の社会学
社会学は取り上げる内容によっては研究や理論そのものが社会的な制約を受けてしまう。
社会学は知識や現象そのものも研究対象にするため、合わせ鏡のように自分の研究行為も研究対象になってしまう。
機械的連帯と有機的連帯
デュルケムが提唱。前者は同質のメンバーが機械的に結合している状態で原始社会を指し、後者は分業によってメンバーが有機的に結合している状態で近代社会がこれにあたるとされる。
分業がうまく機能していない状態をアノミー(無規制状態)であるとしたことは有名。
行為(4月出題)
行動の一種。しかし行動は動物でも行うが、行為は人間しか行わないとする。
行為は象徴(シンボル)によって社会的に意味付けられた行動を指す。
動物は記号と記号の内容が直接結びつくような単純な信号(シグナル)には反応するが、抽象的な象徴を操作することはできない(記号と記号の結びつきが間接的※言語やアレゴリーなど)。
社会名目論
社会は虚構であり、存在するのは社会が実在するように振舞う人間であるという立場。
社会実在論
社会は実在するという立場。社会が存在するように人間が振る舞うのもそもそも社会が存在するからであると考える。
デュルケムVSヴェーバー
デュルケムは社会は個人に超越すると考えた(社会的事実=社会実在論)。
社会はひとつの有機体のようなもので分解することはできない。
これに対してヴェーバーは社会は一つの実体ではなく、人々の個々の行為に分解できると考えた(理解社会学)。
ヴェーバーの理解社会学
ヴェーバーは人間の行為に着目する、そしてそれを4つに分類した。
①感情的行為
感情にかられて無意識のうちに行なう行為
②習慣的(伝統的)行為
習慣化してほとんど無意識におこなっている行為
③目的合理的行為
ある目的のために手段として意図的に行われる行為
④価値合理的行為
道徳的、宗教的、美学的といった固有の価値に基づく行為
自分に課せられた命令や責務を果たす為に行われる。
またヴェーバーは人間の行為を、手段的行為(インストゥルメンタル)と、行為そのものが目的である完結的行為(コンサマトリー)にも分類している。
ロバート・マッキーヴァー
アメリカの社会学者。彼はコミュニティとアソシエーションを対比させたことで知られる。
コミュニティは「私たちは仲間である」という感情で結びついた自然発生的に生まれた集団を指す。
これに対してアソシエーションは人々が特定の目的のために創設する集団を指す。サッカー日本代表など。
マッキーヴァーによると、家族や国家はコミュニティでもありアソシエーションでもあると言う。
ロバート・マートン
こちらもアメリカの社会学者。
官僚制の研究において、システムの部分が全体の目的において貢献した場合を順機能、逆効果だった場合は逆機能であると定義した。
家族(5月出題)
夫婦関係、親子関係、きょうだい関係などを基盤として成立する親族関係者の集団。
①家族は共同の住居を持っている
②家族のメンバーは感情的に融合している(コミュニティでありゲマインシャフト)。
③家族はメンバーの福祉を志向している
ジョージ・マードック
アメリカの社会学者で、核家族の機能を4つに分類した。
①性的機能
②経済的機能
③生殖的機能
④教育的機能
これらは全て人間の生産に関わる機能である。
パーソンズの性別役割分業
父→手段的役割(家族の外的な機能。職業。手段的)
母→表出的役割(家族の内的な機能。家事。完結的)
フィリップ・アリエス
フランスの歴史家。中世には子どもの概念はなかったという(小さな大人として扱われていた)。近代社会への移行において子どもの概念が誕生した。
中世では子どもの社会化は社会が担っていたが、近代に入るとそれを家庭と学校が担当するようになり、それが子どもの概念を生んだとアリエスは論じた。
センサス
国家の人口状態を把握するために行われる社会調査のこと。国勢調査など。
古代ローマでは皇帝アウグストゥスがユダヤで住民登録を行なった記録がある。
都市
①人口が凝縮している
②第二次~第三次産業が発展(大量の第一次産品を必要とする)
③広域的なコミュニケーションの中枢である(政治、経済、文化の中心)
④人工的な構築物(自然環境よりも文化環境、社会環境の特性が濃厚)
⑤移住者の空間であり自由を基調とする(不特定多数の人が出入り)
ゲオルク・ジンメル
社会を人間の相互作用の過程として捉えたドイツの社会学者。
大都市にはもっぱら悟性や貨幣によって支配されるような主知主義的傾向があるとした。
また都市は、人口密度が高いため身体的には密接しているが、精神的には疎遠であり、それは互いの敵意に転化する可能性をはらんでいるとも論じている。
だが精神的な疎遠には都市が自由な空間であることを裏付けるポジティブな側面もある。
ちなみにジンメルはシカゴ学派のパークの先生。
パークは都市のスラム化に着目した。都市化とともにローカルコミュニティが発生し、それが秩序基盤を喪失させていくという(社会解体)。
アーネスト・バージェス
シカゴ学派の中心人物。都心から郊外へ広がるにつれ5つの同心円地帯をモデル化した。
①都心地域(中央ビジネス地区)
②遷移地帯(イタリア人街、ユダヤ人街、中国人街、スラム地域)
③労働者住宅地帯
④住宅地帯(高級アパートメント、独立家族住宅の専用地区)
⑤通勤者地帯(郊外地区)
確かにアメリカって金持ちほど郊外に住んでいるイメージがあるなあ(^_^;)
スプロール現象
日本の都市でよく見られる、市街地の無秩序な拡大のこと。
インフラの整備が後回しになっているため、防災的にも問題になっている。
参与観察
観察対象の場所に実際住んでみたり、集団に加わってみること。
シカゴ学派のウィリアム・ホワイトはボストン市内のイタリア系移民のスラム街で実際生活したという。
フェルディナント・テンニース
ドイツの社会学者。
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへという社会法則を提唱。
ゲマインシャフトは人間的関係で結合した集団。家族や田舎。有機的。
ゲゼルシャフトは利害関係で結合した集団。会社や大都会。機械的。
※デュルケムの機械的連帯から有機的連帯とは順序が逆!
規範
規範(ノルマ)の語源はコンパスであり、それは人々の行為のものさしである。
この規範に人々がどれだけ従っているかを評価することをサンクションという。
これは規範に同調する行為には報酬を、規範から逸脱する行為には罰則を与えるものである。
ベンサムはサンクションを4つに分類している。
①自然的制裁…不摂生で体を壊す
②道徳的制裁…世間から非難を浴びる
③法律的制裁…法的に処罰される
④宗教的制裁…神の怒りや罰を恐る
この内ベンサムは特に③を重視した。
規範は「慣習」「習律」「法」の三つに分類される。
①慣習
社会の構成員が日常的に繰り返すことで正当化される行為様式を指す。
②習律
一定の慣習が社会の安定のために必要であるという信念を伴ったものである。その意味でこの二つを厳密に区分することは難しいが、慣習に比べて習律の方が社会のメンバーを拘束する力が大きい(=すなわちサンクションも大きい)。
③法
日常的な行動の様式を遵守する慣習とも、順守の習慣を伴った慣習である習律とも区別される。なぜなら習律はそれを遵守しなければならないという信念は主観的なものであり、法律のような客観普遍性はないと考えられるからだ。
とはいえ法は本来慣習を基盤としており、それから完全に分離した法は客観的な拘束力および正当性を持ち得ないと思われる。
ヴェーバーの正当性論
政治学覚え書き③とかぶるけど再登場。
①伝統的支配
伝統によって権威づけられたモノに対する
②合法的支配
合理的な法律や命令権に基づく
③カリスマ的支配
ある個人に備わった非日常的なカリスマがもっている権威に対する
※また、このような支配の正当性が担保されるのは、被支配者がその支配を正当だと容認した時だけであるとヴェーバーは考えた。
道徳
主体の外部にある指針が法律ならば、道徳は主体の内部にある指針と対比させることができる。例えば、完全犯罪を成し遂げて法の目をくぐり抜けたとしても、なにか後ろめたい気持ちがあるならば、それは道徳的な罪を負っているからである。人間のこの道徳心について考察したのが、ユダヤ人の思想家のレヴィナスである。
レヴィナスは人間の顔に注目し、他者の顔が「汝殺すなかれ」という呼びかけを行っているというのだ。これに耳を傾ける義務が私たちにはあり、それこそが倫理の根拠となっているという。またカントは『実践理性批判』において、道徳とは何かの目的のための手段として扱ってはならず、自分の意志の格律が常に普遍的であるように行動すべきである、と論じた(定言命法)。
ロバート・パーク
シカゴ学派の社会学者。都市化によって従来の道徳的秩序が崩壊し、その結果反社会的行動が増加すると考えた。つまり逸脱は社会的統制が不十分な場合に生じると考える。
アノミー型自殺
デュルケムは、道徳的秩序の崩壊によって人々の欲求が無規制状態に陥り、そのような状態の中での焦燥や幻滅によって自殺をしてしまうという、「アノミー的自殺」を考えた。この無規制状態を表すアノミーはロバート・マートンによっても引用され、様々な逸脱行為の原因と考えられた。
ラベリング理論
シカゴ学派のハワード・ベッカーは、社会が人にレッテルを貼ることで逸脱者と同調者を区別するというラベリング理論を考えた。
逸脱者のレッテルを貼られたアウトサイダーが、やがて逸脱者としてのアイデンティティを獲得し、組織化された逸脱者の集団に加わっていく。これが逸脱行為そのものが理論的に正当化される過程である。
ベッカーは社会的統制そのものが逸脱行為を生み出す原因になっていると考えたのだ。
外国史概説覚え書き③
2014-04-27 02:34:02 (10 years ago)
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ルネサンス
中世ヨーロッパの窮屈なローマ=カトリック社会の反動で、14世紀になるとキリスト教以前のギリシャ、ローマの文化(人間中心主義)を復興させようという動きが生まれた。これがルネサンス(再生)でイタリアで始まった。
ルネサンスがイタリアで始まった理由には諸説あるが、イタリアには古代ローマ帝国の遺跡があったこと、またビザンツ帝国崩壊によってイタリアに渡った学者がギリシャやローマの学問を伝えたことなどが挙げられている。
フィレンツェで金融貿易業を営んだメディチ家など、富裕層の商人がイタリアには多く、彼らが芸術家のパトロンになったことも大きい。
文学ではボッカチオの『デカメロン』(近代小説の走り)や、ダンテの『神曲』、ペラトルカの『叙情詩集』、建築ではブラマンテのサン=ピエトロ大聖堂、政治学ではマキャベリが『君主論』を著している。
自然科学ではトスカネリ(イタリア)が大地球体説、コペルニクス(ポーランド)が地動説、ガリレオ=ガリレイ(イタリア)が物体落下の法則、ケプラー(ドイツ)が惑星運行の法則を研究した。
ルネサンスの三大発明は火薬(戦術を大きく変え騎士階級を没落させる)、羅針盤(遠洋航海が可能になり大航海時代につながる)、活版印刷(聖書などの書物を大量に印刷できる)で、どれもが社会に大きな影響を与えた。
宗教改革
ことの発端は、教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の建設費を集めるために免罪符を発行したことによる。免罪符はドイツの諸侯たちに豪商フッガー家を通して大量に販売された。
ルターは『95ヶ条の論題』(※多いw)で、これを批判し、ローマ教会から独立した新しい宗派プロテスタント(抗議する者)を設立する。その主張は福音主義(聖書以外の権威は全て排除する)と万人祭司主義(みんながそれぞれ聖書を直接読む=みんなが司祭になる)であった。ちなみに牧師がいるのがプロテスタント。
説教師のミュンツァーは、ルター派と農奴制廃止を結びつけ1524年に社会的な運動に発展させた。このドイツ農民戦争は鎮圧されるが、その後二回のシュパイエル帝国議会や、ルター派の諸侯が皇帝軍と戦ったシュマルカルデン戦争を経て、1555年アウグスブルグの宗教和議において、諸侯はカトリックとプロテスタントのどちらかを自由に選べるようになった。
スイスではルターの影響を受けた改革派が多く、1541年には改革派のフランス人カルヴァンが招かれている。『キリスト教綱要』で予定説(職業はあらかじめ神が与えた天職なので頑張ろう)を提唱したカルヴァンはルターよりも受けて、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー(契約仲間)、ネーデルランドではゴイセン(乞食党)と呼ばれ、それぞれ広まっていった。
フランスではこれがきっかけで1562年にユグノー戦争が起こり、1598年にプロテスタントの自由と権利を認めるナントの勅令が出されてやっと集結した。
1534年、政略結婚した奥さんカザリンと離婚し、侍女アン=プーリンと再婚したかったイングランド国王ヘンリー8世は離婚を認めないカトリックと対立、英国国教会を設立し、王は国教会の長でもあるという首長法を制定する。
しかしヘンリー8世が死ぬと、カザリンの娘メアリ1世が女王として君臨、カトリックを復活させ、新教徒を弾圧、血のメアリと恐れられるが、ちょっと気持ちはわかる。
ちなみにヘンリー8世には最終的に6人の奥さんがいた。
その後1558年にアン=プーリンの娘エリザベス1世が即位すると、翌年に統一法を出して英国国教会を確立させた。
カトリック側も内部の改革を行なって組織の立て直しを図った。
1545年~1563年にはトリエント公会議で教皇の至上権を再確認、宗教裁判を強化した。
スペインのイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルは1534年にイエズス会を設立、軍隊のような組織と厳格な規律を持つイエズス会は、新たな信者獲得のためにインドや中国、日本に渡り伝道を行なった。
フランス革命
フランス革命は1789年~1799年の十年間にわたって起こった市民革命。
18世紀のフランスには「聖職者>貴族>市民、農民」というヒエラルキー構造(アンシャンレジーム)があり、人口の98%を占める市民、農民の第三身分には納税の義務はあったが参政権がなかった。商工業の発展で市民が力をつけると、アンシャンレジームに対する不満が募り出した。
一方の聖職者や帰属には納税の義務はなかったが、アメリカ独立戦争などで慢性的な財政赤字に悩んだルイ16世は、聖職者や貴族からも税金を徴収しようと89年5月に三部会を招集する。
しかし、各身分一票を主張する聖職者、貴族と、各議員一票を主張する第三身分が対立(第三身分の方が圧倒的に数が多いから)、翌月第三身分は独自に国民議会を作ってしまう。そして、憲法ができるまでこれを解散しないぞとテニスコートの誓いをした。
王は国民議会に圧力をかけようと、ヴェルサイユに軍隊を集結、さらに聖職者や貴族にも課税を考えていた蔵相ネッケルを罷免すると、市民は7月14日バスティーユ牢獄を襲撃。フランス革命が始まった。
8月、国民議会は封建的特権を廃止、身分制度はなくなり、さらに人権宣言を採択。人間の自由と平等、国民主権、私有財産の不可侵などがうたわれたが、ここらへんは政治学覚え書きで書いたので割愛。
10月、革命の混乱と不作で食糧危機が起きるが、王は贅沢な暮らしをしていると知ったパリの女性はパリからヴェルサイユへ行進。王をパリへ連れて帰る。これにより国民議会はパリに移った。10月には教会財産の没収やギルドも廃止された。
国民議会は立憲君主制を目指したが、1791年ルイ16世が王妃マリー=アントワネットとともに逃亡を試み失敗、王への信頼は地に落ちる(ヴァレンヌ逃亡事件)。
国民議会は1791年憲法(立憲君主制と制限選挙を定めた)を発布して解散、代わって立法議会が召集されるが、立憲君主制を目指すフイヤン派と、共和制を目指すジロンド派が対立し出す。
さらに立法議会は92年に男子普通選挙による国民公会に変わる。
周辺諸国とフランスの対立も深まり、ジロンド派はオーストリアに宣戦布告、フランス義勇軍(司令官がほとんど国外亡命していたため)はヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、第一共和制を実現させた。
国民公会は王制廃止を宣言し、ルイ16世は1793年1月に処刑されてしまう。
同年6月、国民公会では急進的なジャコバン派が主導権を握り1793年憲法(主権在民)を制定、7月に領主権の廃止、10月に革命暦の採用を行なった。
ジャコバン派はその後恐怖政治を行ない、マリー=アントワネットや、王党派、保守的なジロンド派、ジャコバン派の指導者まで次々に処刑した。その数合計16000人。
これを推進したロベスピエールも結局1794年の7月にテルミードールのクーデターで処刑された。
ちなみに左翼右翼というのは、この頃の議会の左側に急進的なジャコバン派、右側に保守的なフイヤン派やジロンド派が着席していたことに由来する。
その後穏健的な共和派の支配が回復し1795年憲法が制定、5人の総裁からなる総裁政府ができる。
しかし、総裁政府は安定せず、1799年にブリュメール18日のクーデターが起こり、12月にナポレオンの統領政府が成立した。これは実質的にナポレオンの独裁政府だった。これにより第一共和制が終わり、第一帝政が始まる。
ナポレオンは国民投票で終身統領になった。とにかく人気があったのだ。
中世ヨーロッパの窮屈なローマ=カトリック社会の反動で、14世紀になるとキリスト教以前のギリシャ、ローマの文化(人間中心主義)を復興させようという動きが生まれた。これがルネサンス(再生)でイタリアで始まった。
ルネサンスがイタリアで始まった理由には諸説あるが、イタリアには古代ローマ帝国の遺跡があったこと、またビザンツ帝国崩壊によってイタリアに渡った学者がギリシャやローマの学問を伝えたことなどが挙げられている。
フィレンツェで金融貿易業を営んだメディチ家など、富裕層の商人がイタリアには多く、彼らが芸術家のパトロンになったことも大きい。
文学ではボッカチオの『デカメロン』(近代小説の走り)や、ダンテの『神曲』、ペラトルカの『叙情詩集』、建築ではブラマンテのサン=ピエトロ大聖堂、政治学ではマキャベリが『君主論』を著している。
自然科学ではトスカネリ(イタリア)が大地球体説、コペルニクス(ポーランド)が地動説、ガリレオ=ガリレイ(イタリア)が物体落下の法則、ケプラー(ドイツ)が惑星運行の法則を研究した。
ルネサンスの三大発明は火薬(戦術を大きく変え騎士階級を没落させる)、羅針盤(遠洋航海が可能になり大航海時代につながる)、活版印刷(聖書などの書物を大量に印刷できる)で、どれもが社会に大きな影響を与えた。
宗教改革
ことの発端は、教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の建設費を集めるために免罪符を発行したことによる。免罪符はドイツの諸侯たちに豪商フッガー家を通して大量に販売された。
ルターは『95ヶ条の論題』(※多いw)で、これを批判し、ローマ教会から独立した新しい宗派プロテスタント(抗議する者)を設立する。その主張は福音主義(聖書以外の権威は全て排除する)と万人祭司主義(みんながそれぞれ聖書を直接読む=みんなが司祭になる)であった。ちなみに牧師がいるのがプロテスタント。
説教師のミュンツァーは、ルター派と農奴制廃止を結びつけ1524年に社会的な運動に発展させた。このドイツ農民戦争は鎮圧されるが、その後二回のシュパイエル帝国議会や、ルター派の諸侯が皇帝軍と戦ったシュマルカルデン戦争を経て、1555年アウグスブルグの宗教和議において、諸侯はカトリックとプロテスタントのどちらかを自由に選べるようになった。
スイスではルターの影響を受けた改革派が多く、1541年には改革派のフランス人カルヴァンが招かれている。『キリスト教綱要』で予定説(職業はあらかじめ神が与えた天職なので頑張ろう)を提唱したカルヴァンはルターよりも受けて、イングランドではピューリタン(清教徒)、スコットランドではプレスビテリアン(長老派)、フランスではユグノー(契約仲間)、ネーデルランドではゴイセン(乞食党)と呼ばれ、それぞれ広まっていった。
フランスではこれがきっかけで1562年にユグノー戦争が起こり、1598年にプロテスタントの自由と権利を認めるナントの勅令が出されてやっと集結した。
1534年、政略結婚した奥さんカザリンと離婚し、侍女アン=プーリンと再婚したかったイングランド国王ヘンリー8世は離婚を認めないカトリックと対立、英国国教会を設立し、王は国教会の長でもあるという首長法を制定する。
しかしヘンリー8世が死ぬと、カザリンの娘メアリ1世が女王として君臨、カトリックを復活させ、新教徒を弾圧、血のメアリと恐れられるが、ちょっと気持ちはわかる。
ちなみにヘンリー8世には最終的に6人の奥さんがいた。
その後1558年にアン=プーリンの娘エリザベス1世が即位すると、翌年に統一法を出して英国国教会を確立させた。
カトリック側も内部の改革を行なって組織の立て直しを図った。
1545年~1563年にはトリエント公会議で教皇の至上権を再確認、宗教裁判を強化した。
スペインのイグナティウス=ロヨラやフランシスコ=ザビエルは1534年にイエズス会を設立、軍隊のような組織と厳格な規律を持つイエズス会は、新たな信者獲得のためにインドや中国、日本に渡り伝道を行なった。
フランス革命
フランス革命は1789年~1799年の十年間にわたって起こった市民革命。
18世紀のフランスには「聖職者>貴族>市民、農民」というヒエラルキー構造(アンシャンレジーム)があり、人口の98%を占める市民、農民の第三身分には納税の義務はあったが参政権がなかった。商工業の発展で市民が力をつけると、アンシャンレジームに対する不満が募り出した。
一方の聖職者や帰属には納税の義務はなかったが、アメリカ独立戦争などで慢性的な財政赤字に悩んだルイ16世は、聖職者や貴族からも税金を徴収しようと89年5月に三部会を招集する。
しかし、各身分一票を主張する聖職者、貴族と、各議員一票を主張する第三身分が対立(第三身分の方が圧倒的に数が多いから)、翌月第三身分は独自に国民議会を作ってしまう。そして、憲法ができるまでこれを解散しないぞとテニスコートの誓いをした。
王は国民議会に圧力をかけようと、ヴェルサイユに軍隊を集結、さらに聖職者や貴族にも課税を考えていた蔵相ネッケルを罷免すると、市民は7月14日バスティーユ牢獄を襲撃。フランス革命が始まった。
8月、国民議会は封建的特権を廃止、身分制度はなくなり、さらに人権宣言を採択。人間の自由と平等、国民主権、私有財産の不可侵などがうたわれたが、ここらへんは政治学覚え書きで書いたので割愛。
10月、革命の混乱と不作で食糧危機が起きるが、王は贅沢な暮らしをしていると知ったパリの女性はパリからヴェルサイユへ行進。王をパリへ連れて帰る。これにより国民議会はパリに移った。10月には教会財産の没収やギルドも廃止された。
国民議会は立憲君主制を目指したが、1791年ルイ16世が王妃マリー=アントワネットとともに逃亡を試み失敗、王への信頼は地に落ちる(ヴァレンヌ逃亡事件)。
国民議会は1791年憲法(立憲君主制と制限選挙を定めた)を発布して解散、代わって立法議会が召集されるが、立憲君主制を目指すフイヤン派と、共和制を目指すジロンド派が対立し出す。
さらに立法議会は92年に男子普通選挙による国民公会に変わる。
周辺諸国とフランスの対立も深まり、ジロンド派はオーストリアに宣戦布告、フランス義勇軍(司令官がほとんど国外亡命していたため)はヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍に勝利し、第一共和制を実現させた。
国民公会は王制廃止を宣言し、ルイ16世は1793年1月に処刑されてしまう。
同年6月、国民公会では急進的なジャコバン派が主導権を握り1793年憲法(主権在民)を制定、7月に領主権の廃止、10月に革命暦の採用を行なった。
ジャコバン派はその後恐怖政治を行ない、マリー=アントワネットや、王党派、保守的なジロンド派、ジャコバン派の指導者まで次々に処刑した。その数合計16000人。
これを推進したロベスピエールも結局1794年の7月にテルミードールのクーデターで処刑された。
ちなみに左翼右翼というのは、この頃の議会の左側に急進的なジャコバン派、右側に保守的なフイヤン派やジロンド派が着席していたことに由来する。
その後穏健的な共和派の支配が回復し1795年憲法が制定、5人の総裁からなる総裁政府ができる。
しかし、総裁政府は安定せず、1799年にブリュメール18日のクーデターが起こり、12月にナポレオンの統領政府が成立した。これは実質的にナポレオンの独裁政府だった。これにより第一共和制が終わり、第一帝政が始まる。
ナポレオンは国民投票で終身統領になった。とにかく人気があったのだ。
外国史概説覚え書き②
2014-04-26 20:21:23 (10 years ago)
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- 歴史
ひいい範囲が広すぎて泣ける・・・世の高校生すごいよなあ・・・ほかの教科もやりながら、こんな量を覚えなきゃいけないんでしょ??は~リニアモーターカー授業。
仏教の成立時代からヴァルダナ朝にいたるインドの歴史
紀元前2000年に中央アジアから北インド(パンジャーブ地方)にやってきたアーリア人はバラモンという聖職者を頂点とする部族国家を作った。この時のヴァルナという階級制度(バラモン(聖職者)>クシャトリヤ(王族、貴族、軍人)>ヴァイシャ(農民、牧畜民。後に商人)>シュードラ(自由のない底辺労働者。後に一般庶民)が今日のカースト制の基礎となった。
儀式を重んじるバラモン教に対して、世界の心理を追求しようとした人々がまとめた書がウパニシャッド(奥義書)であり、インド哲学の源流となる。
紀元前600~500年頃になるとヴァルナを否定する勢力が現れ、ひとつがクシャトリヤのヴァルダマーナが開いたジャイナ教(禁欲&苦行。徹底した不殺生)、もう一つが釈迦族の王子ガウタマ=シッダールタが開いた仏教である。どちらも身分の高い王子が開いているのが興味深い。
仏教は、諸行無常をモットーに欲望を捨てれば誰でも心の平穏が得られるという教義が、クシャトリヤやヴァイシャの間で受けて広まっていった。
紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の軍隊をインダス河で追い払ったチャンドラグプタはマガタ国などガンジス川流域の国家を滅ぼしマウリヤ朝を起こす。
マウリヤ朝は王が仏教を心の拠り所にし(帰依という)、紀元前3世紀アショーカ王の頃に全盛を迎えるが、アショーカ王が死ぬと衰退し分裂する。
こうして北インドは混乱、南インドはドラヴィダ族のサータヴァーハナ朝が成立する。
1世紀になるとイラン系の遊牧民月氏が北インドでクシャーナ朝を起こしアフガニスタン~西北インドを支配する。
クシャナ朝は2世紀半ばのカニシカ王の時代が全盛だった。カニシカ王も仏教の熱心な信者で、この頃、出家や修行をした人だけが救われるのではなく、すべての人間が救われるという大乗仏教が生まれている(ナーガルジュナが確立)。
大乗仏教は菩薩(仏になるため修行中の人のこと)を信仰する。
クシャーナ朝の領土のアフガニスタンや中央アジアはギリシャ文化が根付いていて、ギリシャ彫刻のエッセンスが仏教彫刻に利用された。これをガンダーラ美術という。
クシャーナ朝はカニシカ王の後に分裂し、チャンドラグプタ1世(※チャンドラグプタとは別人!)がグプタ朝を成立。チャンドラグプタ2世は北インドを統一しグプタ朝の領土を最大にする。
グプタ朝ではインド人の民族意識とインド文化が高まりを見せて、サンスクリット語で書かれたインド文学が黄金時代を迎える。十進法やゼロもこの時できている。
美術はガンダーラ様式とは異なる、インド的なグプタ美術が生まれた。これは寺院の石像や壁画として残っている。
ヒンドゥー教は、バラモン教をベースに仏教と民族信仰を取り入れて、この頃に広まった。シヴァ(創造と破壊)、ヴィシュヌ(維持)、ブラフマー(実在)を主神とする多神教。開祖や教義はない。ヒンドゥー教が出来た正確な年代がわからないのはこのため。
グプタ朝はエフタルという遊牧騎馬民族によって衰え、606年にハルシャ=ヴァルダナがヴァルダナ朝を開く。三蔵法師はこの時代に唐からインドを訪れナーランダー僧院という仏教の研究機関で仏教を学んでいる。
イスラーム教世界の成立
イスラム教は預言者ムハンマドによって610年頃に創始された一神教。
ムハンマドは富の独占を批判したため、裕福な商人から危険視、少数の信者と共にメッカから北のヤスリブに移住(聖遷=ヒジュラと言う)し、ウンマという共同体を作った。
この時ムハンマドと共に移住した人たちのことをムハージルーン、移住先で彼らを受け入れて支援してくれた人たちのことをアンサールと言う。
8年後の630年、ムハンマドは一万人に増えたムスリム軍を率いてメッカに戻り無血征服をする。カーバ神殿の偶像を破壊し、イスラム教の聖殿にした。
ちなみにキリスト教がイエス・キリストを神聖視するのとは対照的にムハンマド自体はあくまでも預言者で普通の人間に過ぎないとされている。
ムハンマドの後継者カリフ(政治的指導者というポスト)によってイスラム教徒は、本格的に征服活動(ジハード)を開始し、8世紀初めに古代オリエントに変わる大帝国を築いた。
古代オリエント、ギリシャ、インド、中国といった古代文明の成果を融合した高度な都市文明を発展させ、年にはモスクを中心に市場(スーク)や学校が作られた。
ウラマーと呼ばれる知識人によるコーランの解釈学、法学、神学、歴史学(アラブの学問)の他、医学、哲学、地理学、数学、化学なども発展し、近代ヨーロッパの形成に大きな影響を与えた。
共通語はアラビア語で、イスラム教徒の商人はイスラム教をアフリカ、インド、アジアに伝えた。
アラブ人は最初は特権階級だったが、8世紀にアッバース朝ができイスラム法(シャリーア)が整備されると、アラブ人の特権は否定され、すべてのイスラム教徒が平等の権利を保障されるようになった。ちなみにほかの宗教からの改宗者をマワーリーと言うが、彼らも等しい税がかけられた。
しかし多数派のスンニ派の影響力は大きく、ウマイヤ朝を倒す革命運動に協力してくれたシーア派の期待を裏切り、アッバース朝は彼らを弾圧することになった。
アッバース朝の基礎を作ったのは二代目カリフのマンスールで、アラブ人のホラーサーン軍を重用した。
アッバース朝に敗れたウマイヤ家は756年にイベリア半島で後ウマイヤ朝を築く。
後ウマイヤ朝の学者たちは東方イスラム世界の文化を積極的に導入し、10世紀のアブド=アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎える。
東方イスラム世界では9世紀のハールーン=アッラシードの頃に黄金時代を迎え、首都バグダッドは「世界で並ぶものがない都市」と呼ばれた。
しかしカリフのラシードが亡くなるとタヒール朝、サッファール朝、サーマーン朝などの独立王朝が出現、帝国は内部から分裂し、カリフの権威が及ぶ範囲は小さくなった。
10世紀以降はエジプトのトルコ人が西に移住、トゥールーン朝という国家を作る。
さらに北アフリカのチュニジアではファティマ朝ができ首都カイロを作った。ファティマ朝はシーア派の中でも過激なイスマイル派に属し、建国時からアッバース朝のカリフと真っ向勝負した。
またアッバース朝の親衛隊を形成するトルコ人奴隷(マムルーク。奴隷を育てたエリート軍人みたいなもので騎馬戦士)が勢力を拡大、カリフの改廃を自由に行なうまでになった。
この混乱に乗じてイラン人の軍事政権ブワイフ朝がバグダッドに入城、1055年にはそのブワイフ朝をトルコ人のセルジューク朝が駆逐、彼らはアッバース朝カリフからスルタン(支配者=君主)の称号を授けられた。しかしそのセルジューク朝も12世紀半ばを過ぎると衰え滅ぼされた。
シリアからエジプトに派遣されたクルド人将軍サラディンはファティマ朝の宰相となって実権を握り、1169年にアイユーブ朝を開き、スンニ派の信仰を復活させてイスラム世界統一を図った。
また1187年のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、エルサレムを奪還している。
ちなみにイギリスのリチャード一世は第三回十字軍で聖地を再征服しようとしたが失敗し、サラディンと和解している。サラディンは割といいやつで西洋人の記録でも「異教徒に寛大な人だった」と記されている。
中世ヨーロッパ、シャルルマーニュの時代
シャルルマーニュって誰やねんって思ったらカール大帝のフランス読みであった。
ピピンはローマ教皇の同意の元フランク王国を築いたメロヴィング家を廃し、751年にカロリング朝を開いた。
ピピンの死後、ピピンの息子カールとカールマンの兄弟がフランク王国を二つに分けて治めていたが、771年にカールマンが死ぬと、カールが王国を統一支配することになった。
カール大帝は領土を拡大させるため、王国の南にあるイタリアのランゴバルド王国を滅ぼし、イタリアの北部を併合、中部イタリアを教皇領として確認、さらに王国北のザクセン人を征服、王国東のバイエルン公国も併合する。さらにドナウ川中流のスラヴ人やアジア系のアヴァール族にも勝利し、その土地を併合。王国西にあるイベリア半島のイスラム教徒の進行を食いとめ、8世紀末までにヨーロッパの主要部分はほとんど統一してしまった。こうしてフランク王国はビザンツ帝国と双璧をなす強国になった。
カール大帝は800年のクリスマスにローマのサンピエトロ大聖堂で教皇レオ3世に皇帝の帝冠を受け西ローマ帝国の復興を担うことになった。
カール大帝はビザンツ帝国との関係が悪化すると、アッバース朝のハールーン=アッラシードと手を組み圧力をかけてビザンツ帝国にもにしローマ皇帝を承認させた。
カール大帝は、人口数万人ごとに管理区域を設定し、そこに国王直属の伯(グラーフ)をおいて軍事と政治を担当させた。グラーフは世襲禁止で土着化を防止、さらに巡察使を臨時で派遣して、その仕事ぶりを監視させた。
このように中央集権化に努めたが、ゲルマン部族には根強い慣習法があり、分権的動きを完全に抑えることはできなかった。そのためカール大帝は絶えず王国領内を移動して、グラーフとの個人的関係を築く必要があった。
カール大帝は道路の改修、交易の保護、銀を通貨とする貨幣制度を定めたが、最も有名なのが文教政策で、聖職者を育成するために各地の修道院や教会に附属学校を設置させ、一般的教養を高めるため周りの国から有名な学者を招待しラテン語と古典文化の研究をさせた。この一連の古典文化の興隆はカロリング=ルネサンスと呼ばれる。ちなみに文化人を保護したカール大帝自身は読み書きができなかった(水泳が得意な体育会系だった)。
しかし西ヨーロッパはカール大帝が死ぬと分裂を始め、帝国は崩壊。843年のヴェルダン条約で西、中部、東フランク王国の三つに分かれた。これらは後にそれぞれフランス、イタリア、ドイツ(神聖ローマ帝国)になる(870年のメルセン条約)。
聖職叙任権闘争
中世ヨーロッパで精神的権威を得たローマ=カトリック教会は政治的にも強大な勢力となり聖界諸侯と呼ばれた。彼らはローマ教皇を頂点とするヒエラルキー(教皇>大司教>司教>司祭>修道院長)を作り、教会の規律などの問題は聖職者たちの公会議が最高の意思決定機関になった。
教皇が聖職者の叙任や罷免の権利を持つとされていたものの、実際には多くの教会がその土地を私有する領主に支配されていた。これを私有教会制(アイゲンキルヘ)と言う。
もともと諸侯勢力が強いドイツは王権の維持・強化のために帝国教会は重要な政策であったが、そこにも世俗権力が介入し教会の腐敗化をもたらした。
910年、この教会の世俗化、腐敗化を内部から改革するためにフランス東南部のクリュニー修道院は初期修道院精神の復活を目指す。
ベネディクトゥス戒律(祈り&労働)の厳格な励行、それまで日常的に横行していた聖職の売買(シモニア)や妻帯を批判、領主の私闘(フェーデ)を戒め、女性や子ども、巡礼者などを暴力から保護する神の平和運動も推進された。
この改革運動はヨーロッパ各地に波及、教皇レオ9世は改革派の人物を集めて積極的に教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。
1075年には教皇グレゴリウス7世が教皇教書により教皇権の至上性と優越を宣言、教会勢力を帝国統治に利用するドイツ国王ハインリヒ4世と対立した。グレゴリウス4世がハインリヒ4世を破門&廃位すると、彼は世俗諸侯にも反旗を翻され孤立、1077年にカノッサ事件(ハインリヒ4世がカノッサ城のグレゴリウス7世に雪のなか謝りに行った事件)が起きた。
カノッサ事件は教皇権の優越を示すものであったが、ドイツ国王の勢力は再び回復し、諸侯勢力を抑え、その後も教皇と国王の対立構造は続いた。
聖職叙任権闘争を集結させたのは、1122年に結ばれた教皇カリストゥス2世とハインリヒ5世のヴォルムス協約で、司教や修道院長は教会法によって選出、指輪と杖(霊的権威)の授与は教皇が、笏(教会領などの世俗的権利)の授与は皇帝が行うことなどが決められた。
ドイツでは皇帝の笏の授与が教皇よりも先立つとされ、ドイツ皇帝は教会に対する実質的影響力を維持した。
しかし教皇の権力は11世紀末から13世紀初めにかけて絶頂に達し、インノケンティウス3世(在位1198~1216)は、ドイツの国王選任問題に介入しオットー4世を破門、離婚問題でフランス国王フィリップ2世を破門、カンタベリ大司教選任問題でジョン王を破門している。
仏教の成立時代からヴァルダナ朝にいたるインドの歴史
紀元前2000年に中央アジアから北インド(パンジャーブ地方)にやってきたアーリア人はバラモンという聖職者を頂点とする部族国家を作った。この時のヴァルナという階級制度(バラモン(聖職者)>クシャトリヤ(王族、貴族、軍人)>ヴァイシャ(農民、牧畜民。後に商人)>シュードラ(自由のない底辺労働者。後に一般庶民)が今日のカースト制の基礎となった。
儀式を重んじるバラモン教に対して、世界の心理を追求しようとした人々がまとめた書がウパニシャッド(奥義書)であり、インド哲学の源流となる。
紀元前600~500年頃になるとヴァルナを否定する勢力が現れ、ひとつがクシャトリヤのヴァルダマーナが開いたジャイナ教(禁欲&苦行。徹底した不殺生)、もう一つが釈迦族の王子ガウタマ=シッダールタが開いた仏教である。どちらも身分の高い王子が開いているのが興味深い。
仏教は、諸行無常をモットーに欲望を捨てれば誰でも心の平穏が得られるという教義が、クシャトリヤやヴァイシャの間で受けて広まっていった。
紀元前4世紀にアレクサンドロス大王の軍隊をインダス河で追い払ったチャンドラグプタはマガタ国などガンジス川流域の国家を滅ぼしマウリヤ朝を起こす。
マウリヤ朝は王が仏教を心の拠り所にし(帰依という)、紀元前3世紀アショーカ王の頃に全盛を迎えるが、アショーカ王が死ぬと衰退し分裂する。
こうして北インドは混乱、南インドはドラヴィダ族のサータヴァーハナ朝が成立する。
1世紀になるとイラン系の遊牧民月氏が北インドでクシャーナ朝を起こしアフガニスタン~西北インドを支配する。
クシャナ朝は2世紀半ばのカニシカ王の時代が全盛だった。カニシカ王も仏教の熱心な信者で、この頃、出家や修行をした人だけが救われるのではなく、すべての人間が救われるという大乗仏教が生まれている(ナーガルジュナが確立)。
大乗仏教は菩薩(仏になるため修行中の人のこと)を信仰する。
クシャーナ朝の領土のアフガニスタンや中央アジアはギリシャ文化が根付いていて、ギリシャ彫刻のエッセンスが仏教彫刻に利用された。これをガンダーラ美術という。
クシャーナ朝はカニシカ王の後に分裂し、チャンドラグプタ1世(※チャンドラグプタとは別人!)がグプタ朝を成立。チャンドラグプタ2世は北インドを統一しグプタ朝の領土を最大にする。
グプタ朝ではインド人の民族意識とインド文化が高まりを見せて、サンスクリット語で書かれたインド文学が黄金時代を迎える。十進法やゼロもこの時できている。
美術はガンダーラ様式とは異なる、インド的なグプタ美術が生まれた。これは寺院の石像や壁画として残っている。
ヒンドゥー教は、バラモン教をベースに仏教と民族信仰を取り入れて、この頃に広まった。シヴァ(創造と破壊)、ヴィシュヌ(維持)、ブラフマー(実在)を主神とする多神教。開祖や教義はない。ヒンドゥー教が出来た正確な年代がわからないのはこのため。
グプタ朝はエフタルという遊牧騎馬民族によって衰え、606年にハルシャ=ヴァルダナがヴァルダナ朝を開く。三蔵法師はこの時代に唐からインドを訪れナーランダー僧院という仏教の研究機関で仏教を学んでいる。
イスラーム教世界の成立
イスラム教は預言者ムハンマドによって610年頃に創始された一神教。
ムハンマドは富の独占を批判したため、裕福な商人から危険視、少数の信者と共にメッカから北のヤスリブに移住(聖遷=ヒジュラと言う)し、ウンマという共同体を作った。
この時ムハンマドと共に移住した人たちのことをムハージルーン、移住先で彼らを受け入れて支援してくれた人たちのことをアンサールと言う。
8年後の630年、ムハンマドは一万人に増えたムスリム軍を率いてメッカに戻り無血征服をする。カーバ神殿の偶像を破壊し、イスラム教の聖殿にした。
ちなみにキリスト教がイエス・キリストを神聖視するのとは対照的にムハンマド自体はあくまでも預言者で普通の人間に過ぎないとされている。
ムハンマドの後継者カリフ(政治的指導者というポスト)によってイスラム教徒は、本格的に征服活動(ジハード)を開始し、8世紀初めに古代オリエントに変わる大帝国を築いた。
古代オリエント、ギリシャ、インド、中国といった古代文明の成果を融合した高度な都市文明を発展させ、年にはモスクを中心に市場(スーク)や学校が作られた。
ウラマーと呼ばれる知識人によるコーランの解釈学、法学、神学、歴史学(アラブの学問)の他、医学、哲学、地理学、数学、化学なども発展し、近代ヨーロッパの形成に大きな影響を与えた。
共通語はアラビア語で、イスラム教徒の商人はイスラム教をアフリカ、インド、アジアに伝えた。
アラブ人は最初は特権階級だったが、8世紀にアッバース朝ができイスラム法(シャリーア)が整備されると、アラブ人の特権は否定され、すべてのイスラム教徒が平等の権利を保障されるようになった。ちなみにほかの宗教からの改宗者をマワーリーと言うが、彼らも等しい税がかけられた。
しかし多数派のスンニ派の影響力は大きく、ウマイヤ朝を倒す革命運動に協力してくれたシーア派の期待を裏切り、アッバース朝は彼らを弾圧することになった。
アッバース朝の基礎を作ったのは二代目カリフのマンスールで、アラブ人のホラーサーン軍を重用した。
アッバース朝に敗れたウマイヤ家は756年にイベリア半島で後ウマイヤ朝を築く。
後ウマイヤ朝の学者たちは東方イスラム世界の文化を積極的に導入し、10世紀のアブド=アッラフマーン3世の時代に最盛期を迎える。
東方イスラム世界では9世紀のハールーン=アッラシードの頃に黄金時代を迎え、首都バグダッドは「世界で並ぶものがない都市」と呼ばれた。
しかしカリフのラシードが亡くなるとタヒール朝、サッファール朝、サーマーン朝などの独立王朝が出現、帝国は内部から分裂し、カリフの権威が及ぶ範囲は小さくなった。
10世紀以降はエジプトのトルコ人が西に移住、トゥールーン朝という国家を作る。
さらに北アフリカのチュニジアではファティマ朝ができ首都カイロを作った。ファティマ朝はシーア派の中でも過激なイスマイル派に属し、建国時からアッバース朝のカリフと真っ向勝負した。
またアッバース朝の親衛隊を形成するトルコ人奴隷(マムルーク。奴隷を育てたエリート軍人みたいなもので騎馬戦士)が勢力を拡大、カリフの改廃を自由に行なうまでになった。
この混乱に乗じてイラン人の軍事政権ブワイフ朝がバグダッドに入城、1055年にはそのブワイフ朝をトルコ人のセルジューク朝が駆逐、彼らはアッバース朝カリフからスルタン(支配者=君主)の称号を授けられた。しかしそのセルジューク朝も12世紀半ばを過ぎると衰え滅ぼされた。
シリアからエジプトに派遣されたクルド人将軍サラディンはファティマ朝の宰相となって実権を握り、1169年にアイユーブ朝を開き、スンニ派の信仰を復活させてイスラム世界統一を図った。
また1187年のヒッティーンの戦いで十字軍を破り、エルサレムを奪還している。
ちなみにイギリスのリチャード一世は第三回十字軍で聖地を再征服しようとしたが失敗し、サラディンと和解している。サラディンは割といいやつで西洋人の記録でも「異教徒に寛大な人だった」と記されている。
中世ヨーロッパ、シャルルマーニュの時代
シャルルマーニュって誰やねんって思ったらカール大帝のフランス読みであった。
ピピンはローマ教皇の同意の元フランク王国を築いたメロヴィング家を廃し、751年にカロリング朝を開いた。
ピピンの死後、ピピンの息子カールとカールマンの兄弟がフランク王国を二つに分けて治めていたが、771年にカールマンが死ぬと、カールが王国を統一支配することになった。
カール大帝は領土を拡大させるため、王国の南にあるイタリアのランゴバルド王国を滅ぼし、イタリアの北部を併合、中部イタリアを教皇領として確認、さらに王国北のザクセン人を征服、王国東のバイエルン公国も併合する。さらにドナウ川中流のスラヴ人やアジア系のアヴァール族にも勝利し、その土地を併合。王国西にあるイベリア半島のイスラム教徒の進行を食いとめ、8世紀末までにヨーロッパの主要部分はほとんど統一してしまった。こうしてフランク王国はビザンツ帝国と双璧をなす強国になった。
カール大帝は800年のクリスマスにローマのサンピエトロ大聖堂で教皇レオ3世に皇帝の帝冠を受け西ローマ帝国の復興を担うことになった。
カール大帝はビザンツ帝国との関係が悪化すると、アッバース朝のハールーン=アッラシードと手を組み圧力をかけてビザンツ帝国にもにしローマ皇帝を承認させた。
カール大帝は、人口数万人ごとに管理区域を設定し、そこに国王直属の伯(グラーフ)をおいて軍事と政治を担当させた。グラーフは世襲禁止で土着化を防止、さらに巡察使を臨時で派遣して、その仕事ぶりを監視させた。
このように中央集権化に努めたが、ゲルマン部族には根強い慣習法があり、分権的動きを完全に抑えることはできなかった。そのためカール大帝は絶えず王国領内を移動して、グラーフとの個人的関係を築く必要があった。
カール大帝は道路の改修、交易の保護、銀を通貨とする貨幣制度を定めたが、最も有名なのが文教政策で、聖職者を育成するために各地の修道院や教会に附属学校を設置させ、一般的教養を高めるため周りの国から有名な学者を招待しラテン語と古典文化の研究をさせた。この一連の古典文化の興隆はカロリング=ルネサンスと呼ばれる。ちなみに文化人を保護したカール大帝自身は読み書きができなかった(水泳が得意な体育会系だった)。
しかし西ヨーロッパはカール大帝が死ぬと分裂を始め、帝国は崩壊。843年のヴェルダン条約で西、中部、東フランク王国の三つに分かれた。これらは後にそれぞれフランス、イタリア、ドイツ(神聖ローマ帝国)になる(870年のメルセン条約)。
聖職叙任権闘争
中世ヨーロッパで精神的権威を得たローマ=カトリック教会は政治的にも強大な勢力となり聖界諸侯と呼ばれた。彼らはローマ教皇を頂点とするヒエラルキー(教皇>大司教>司教>司祭>修道院長)を作り、教会の規律などの問題は聖職者たちの公会議が最高の意思決定機関になった。
教皇が聖職者の叙任や罷免の権利を持つとされていたものの、実際には多くの教会がその土地を私有する領主に支配されていた。これを私有教会制(アイゲンキルヘ)と言う。
もともと諸侯勢力が強いドイツは王権の維持・強化のために帝国教会は重要な政策であったが、そこにも世俗権力が介入し教会の腐敗化をもたらした。
910年、この教会の世俗化、腐敗化を内部から改革するためにフランス東南部のクリュニー修道院は初期修道院精神の復活を目指す。
ベネディクトゥス戒律(祈り&労働)の厳格な励行、それまで日常的に横行していた聖職の売買(シモニア)や妻帯を批判、領主の私闘(フェーデ)を戒め、女性や子ども、巡礼者などを暴力から保護する神の平和運動も推進された。
この改革運動はヨーロッパ各地に波及、教皇レオ9世は改革派の人物を集めて積極的に教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。
1075年には教皇グレゴリウス7世が教皇教書により教皇権の至上性と優越を宣言、教会勢力を帝国統治に利用するドイツ国王ハインリヒ4世と対立した。グレゴリウス4世がハインリヒ4世を破門&廃位すると、彼は世俗諸侯にも反旗を翻され孤立、1077年にカノッサ事件(ハインリヒ4世がカノッサ城のグレゴリウス7世に雪のなか謝りに行った事件)が起きた。
カノッサ事件は教皇権の優越を示すものであったが、ドイツ国王の勢力は再び回復し、諸侯勢力を抑え、その後も教皇と国王の対立構造は続いた。
聖職叙任権闘争を集結させたのは、1122年に結ばれた教皇カリストゥス2世とハインリヒ5世のヴォルムス協約で、司教や修道院長は教会法によって選出、指輪と杖(霊的権威)の授与は教皇が、笏(教会領などの世俗的権利)の授与は皇帝が行うことなどが決められた。
ドイツでは皇帝の笏の授与が教皇よりも先立つとされ、ドイツ皇帝は教会に対する実質的影響力を維持した。
しかし教皇の権力は11世紀末から13世紀初めにかけて絶頂に達し、インノケンティウス3世(在位1198~1216)は、ドイツの国王選任問題に介入しオットー4世を破門、離婚問題でフランス国王フィリップ2世を破門、カンタベリ大司教選任問題でジョン王を破門している。
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