『超音速ソニックブレイド』 まえがき

 なんか本サイトに置く場所がないので、この前書いた「ソニックブレイド小説版のまえがき」をこちらに保管しておきます。
 「マイクル・クライトン的SFロボット漫画」がコンセプトだったので、文体パクってますwでも日本のロボットアニメとかと比べればプログラムやシステム化などの概念の導入は新しいと思うんですけど。


はじめに

 21世紀の科学は、今世紀末中に人類史上最大の変革を迎えるでしょう。

 現在の科学とは、私たちを取り巻く「自然」を探求する“だけ”のストイックな学問ではありません。その見方は、現在の科学のほんの一側面を指し示しているに過ぎません。現代の科学は常に「国家」と共にあります。なぜなら現代の科学における重要な研究には、莫大な資金が必要だからです。政府や、企業、研究機関のどこにも属さない(アナーキーで物好きな)科学者が、実費を投じ個人的に研究を行なった上で、人類史に残るような発見を成し遂げることは、20世紀に比べずっと少なくなるでしょう。
 いまや科学技術の発展は国家戦略の重要な一部です。国家と科学はこれまでにない協調関係を築いています。「マンハッタン計画」「アポロ計画」「ヒトゲノム計画」などがよい例でしょう。国家レベルの取り組みが、かつて一個人では成し得なかった、途方もない金と労力と時間が必要な研究を可能にしているのです。科学は国家にとっての強力な“力”なのです。

 我々人類は、前世紀末に強力な“力”を科学技術の発展によって手に入れました。それは核兵器ではありません。それよりもずっと強力な力です。それは「情報技術」です。21世紀の科学の変革は、この分野によって成し遂げられると言っても過言ではありません。情報技術の強力な武器は“個々人の情報を高速かつ広範囲に相互作用させる”ことにあります。これにより科学技術の発展はこれまで以上に加速することは間違いないでしょう。

 一部の数学者はかつて「科学の発展は、いずれ人類の生物学的な限界によって頭打ちになるだろう」と予言していました。ここでいう「生物学的限界」とは人間の寿命のことです。科学とは必ず「検証作業」を伴います。先人たちが発見した科学理論が本当に正しいかどうか、現代の研究者が検証するわけです。この作業は、現在とりあえず正しいとされている「アインシュタインの相対性理論」や「ガモフのビッグバン理論」「マックス・ボルンの量子の確率解釈」などにおいても盛んに行われています。科学は常に懐疑的であるべきなのです。その上で、数学者は科学の未来をこのように想像したのです。
 「科学が発展するにつれ、その理論がますます複雑、膨大になると、十分な検証を行なうのに必要な時間も膨大になり、研究者の寿命をオーバーしてしまう、それが科学の限界だ」
 この数学者の悲観的な予言に対し、20世紀の科学は主に二つの対処法をとりました。
 ひとつは、計算機――すなわちコンピューターを生み出したことです。人間が一生かかっても出来ないような膨大の計算をコンピューターは可能にしました。
 もうひとつは、科学の分野を細かく細分化したことです。膨大な検証作業を“分業化”することで現在の科学は、我々の世界の“ディティール”を克明に描き出してくれました。
 20世紀は、これらの手法が科学を大きく発展させたと同時に、我々の世界の謎をさらに深めてしまった時代といえます。我々の世界の細部は、想像以上に不可思議なものだったからです。これまでの物理学の常識を覆し、科学者に「この世界は確かなものは何一つない」「無は無ではない」「世界は絶えず分岐している」などと、哲学的な見解を要求した量子力学がその典型的な例でしょう。

 21世紀の科学は、このような20世紀の科学が新たに提示した謎に、取り組まなくてはなりません。この謎を理解するためには全く新しい思考、理論が必要です。そのためには「実践情報経済環境シミュレーション工学」などと、前世紀にことごとく細分化してしまった学術理論を統合し、世界の全体像を把握することが不可欠です。
 その再統合の切り札がインターネットをはじめとする情報技術なのです。世界の全体像の把握は(一生のうちに3000億桁の円周率の計算を行なう事が不可能なように)我々人間一人が認識できる範疇を大きく超えます。しかし、そのような限界を人間を情報化し相互作用させることによって乗り越える可能性が、この技術にはあります。

 情報技術の発展は目覚ましいものがあります。現在のパーソナルコンピューターにおける演算処理能力、動作速度などのスペックは、5年もたたないうちに10倍以上に向上してしまいます。その発展を支えていた原動力が、いわゆる半導体機器の「小型化」でした。しかし半導体の小型化にも加工技術の限界が存在することは明白です。そして、そのおおよその限界の数値を現在の技術者は知っています。例えば、ハードディスクの記憶密度を際限なく向上させていくと、データーを記録する磁石はどんどん小さくなり、1テラビット/平方インチ以上小型化すると熱に負け、安定してデータを保存できなくなるといいます。独特な物理法則である量子力学が支配するミクロの世界では、これまでの精密加工の常識が通用しないのです。
 しかし心配はいりません。21世紀の科学は、その技術的な限界を設ける量子効果を逆に利用すること(ナノテクノロジー)で乗り越えようとしています。21世紀の情報技術は行き詰るどころか、さらに発展することでしょう。

 21世紀の情報技術によってもたらされる科学技術の進歩はこれまで以上に急進的で、世界の仕組みを大きく変えてしまうことでしょう。そして、その変化は、実に自然に我々の日常生活に溶け込みます。テレビや自動車、携帯電話やインターネットの普及がそうだったように、私たちは生活の急変に違和感を感じることはありません。
 アメリカの世界最大の科学技術振興組織である全米科学財団(NSF: National Science Foundation)は、人類の生活水準を向上するために21世紀中に達成すべき、いくつかの目標を発表しました。そこには「燃料を必要としない自然エネルギー発電技術の向上」や「二酸化炭素回収技術による地球温暖化の抑制」「脳の思考メカニズムの完全解析」「核兵器の根絶」などといった、個人の研究では到底不可能な、グローバルな目標が盛り込まれています。このような規模の大きな目標が、21世紀においても情報工学がさらに発展することを前提に設定されたことはもうお分かりでしょう。
 このような動きはなにもアメリカだけに限られたものではありません。世界各国で科学技術の推進政策が打ち出されており、もはや科学の発展と国家戦略は切り離せない状況となっているのです。

 これが現在の科学を取り巻く状況です。


 これは21世紀の初頭に東京で開かれた情報エレクトロニクスのカンファレンスで、ある世界的な研究者が述べたスピーチである。このスピーチの目的は、21世紀の科学の進歩は国家と共にあるとし、政府から多額の予算を頂くことにある。このスピーチをみる限り、確かに現在の科学者の立ち位置は変わった。科学者の誰もが、政府や企業や投資家からの資金集めに必死だ。科学の研究には金が要る。そのためには、多少意にそぐわない研究をするはめになっても、政府や企業の言うとおりにしておいた方がよい。
 この状況が何ら顧みられることなく21世紀に入り10年が過ぎた時、世界はすっかり様変わりしてしまった。このスピーチの予言通り“変革”が訪れたのである。
 新しい科学技術によっていくつかの業種は廃業の危機に追い込まれていた。21世紀の三大発明といわれている三次元FAXでは運送業、人工知能を搭載した自動車ではタクシー業をはじめとするドライバー(そして警察の交通課。交通事故がほとんどなくなったからだ)、医療用ナノマシンでは内科医、そして軍隊――

 上にあげた、前世紀にはまったく信じられない科学技術を可能にしたのは、ほんの数年前に日本で開発された、一つのプログラムである。それは「適応プログラム」――プログラマーに変わって“プログラム自身がプログラムコードを書く”という極めて汎用性の高いメタ的なプログラムだった。
 このプログラムが生まれた場所は、大学でも、企業でも政府の研究施設でもなかった。驚くべきことに、そこはなんと日本の高校生の自宅――デスクトップ型のパーソナルコンピューターだった。
 適応プログラムの開発者は、高校生の頃アメリカの企業に売却した自分のプログラムがこれほどまでに各方面に応用され、今まで実現不可能とされてきた様々な技術を生み出すとは想像だにしていなかっただろう。当時の彼にそこまでの広い視野はなかったはずである。



 ――最終的に彼のこの行動によって、21世紀の人類はこれまで出会ったことのないような、全く新しい生物に襲われることになる。彼は決して悪意のある人間ではなかった。誰よりも戦争のない平和な世界を望んでいたと言っても、それは嘘ではないだろう。
 しかし彼の行なったことが人類史上最大の災厄を生んだことは純然たる事実であった。



 ・・・続きはこちら

サブカルに世界は描けるか

 いや~『借りぐらしのアリエッティ』よかったですよね~(まだいってやがる)

 なかには「スケール感がない。こじんまりとしている」とか言う批判もあるようですが、小人の話でなんで大きな物語を紡がなきゃいけないんだ?

 じゃあ『風の谷のナウシカ』は本当に「大きな物語」を描ききっていたのか?私はどうも納得できないんですよ。
 というのもサブカルチャーである映画やアニメってパーソナルな「小さな物語」を描くからこそ大衆受けするわけで、地球環境や世界のことなんて我々一般市民には分からないし、興味がないわけでね。
 ハワイが茨城に突っ込み、太平洋が何万年後かに消滅してアメイジア大陸ができちゃうことよりも私たちが興味があるのは、「明日の席替えで好きな女の子の隣になれたらいいな」ってくらいのレベルの話であって、結局そんな小さな物語に共感できるから、私たちはサブカルチャーが好きなんじゃないのか。
 それをさも難しい顔して『風の谷のナウシカ』を観ても説得力がないわけで、本当に大きな物語に興味があるなら、私たちはまず科学を学ぶはずだし、結局「ナウシカ」が面白いのはそういうところじゃないんじゃないの?

 私が大嫌いなアニメで「エヴァンゲリオン」ってのがあって、なんでこれが嫌いかと言うと「中学校の頃このアニメが好きだったクラスメイトの子の態度が尊大で、わけ解らないことばっか言っててむかついたから」というかなり個人的な理由なのですが、その子とは結局高校の頃かなり仲良くなったし、大学でもこのアニメ好きだった人もいたんだけど、未だに一回も見ていない(つーかガンダムもドラゴンボールもワンピースも見ていない)。descf氏も「お前には合わないよ」と言ってたのでまあ、見なくていいかなと。
 決定的なのは私が人生で最も嫌いだった大学の絵画の教員(世代的にはポスト団塊ジュニア)がこのアニメをやたら引用するからだったりする・・・キモい!

 で・・・「この作品には崇高な精神性や「大きな物語」がある!」とか言って、いい歳してサブカルを観ることを正当化している人が「ナウシカ」や「ゲリオン」ファンだと思うのですが、オタクが市民権を得ていなかった時代はともかく、今は大人がアニメ見てても親や親せきに白い目で見られない時代なんで、逆にちょっと可愛い気もしてきています。
 いいじゃん、そんな小難しい理由をわざわざ作らなくても・・・楽しいんでしょ?

 さて「ナウシカ」も「ゲリオン」も共通するところがあってそれは「女の子」が出てくるってことなんだけど、これらの作品でもし可愛い美少女が登場しなかったら、ここまで社会現象になったかどうか・・・
 いやナウシカがいなくてもヒットした!というのなら「ナウシカ」は「大きな物語」で勝利した映画だと認めるし、「ナウシカが健気で可愛いから」というパーソナルな理由でヒットしたのならオタクの分析は間違っているということ。

 結論を言うならば、私は大きな物語ってサブカルでは描けないと思っていて、だって描けたらそれはハイカルチャーになるわけで、強いて言うならそれができるのは科学を用いたSFだけだと思うんですよ。
 たとえば『ジュラシック・パーク』は、キャラクターの精神性(パーソナリティ)をカットして、ルネサンスから近代まで続く「自然を支配し制御できるというスタンス」を全編にわたって批判しているし、空想科学シリーズである『ウルトラマン』も「ハヤタ隊員が恋をした」とかなんとかそういう話よりも、高度経済成長の弊害(環境破壊やそれに伴う公害問題など)を描いたりしているわけです。

 私「なんでウルトラマンって変身するんだろう?」「なんで大きくなるんだろう?」って考えてみたんですけど、答えみつかりました。
 あれは「小さな物語の世界」から「大きな物語」への移行なんです。
 自然環境の逆襲(=怪獣)という「大きな物語」と戦うには人間一人ではとても太刀打ちできない。よってこちらも大きな存在になるしかない。
 つまり人間のパーソナル性を排除したある種の「巨大な象徴」こそがウルトラマン。だってウルトラマンに変身したら基本的にハヤタ隊員の意識があるのかないのか・・・とにかく言葉を喋らないじゃないですか。ジュワッとかヘアッ!とかしか言わないし。
 あれ(ウルトラマン)はもう人間じゃないわけですよ。人間の為に戦ってくださる「守り神」なんです。

 しかし生息地を人間に奪われて都市部で暴れまわる怪獣(野生動物)を無慈悲にバッタバッタとぶっ殺す『ウルトラマン』のプロットは非常にシニカルで、開発に肯定的な一般市民には気分が悪かった。高度経済成長のアンチテーゼみたいなもんだったから。

 そして『ウルトラマン』はその意味合いを続編で大きく変えてしまう・・・それが「エヴァンゲリオン」の元ネタと言われる『帰ってきたウルトラマン』なのです。
 「帰ってきたウルトラマン(=新マン)」の何が新しかったのかと言えば、ウルトラマンの戦いを非常にパーソナルな次元にまで落とし込んでしまったという点。
 象徴的なのがやはり「必殺!流星キック」でしょう。この話は防御用バリアーを張る強大な怪獣キングザウルス三世(この怪獣最も好き!)に負けたウルトラマンがキャンプで己を鍛え直し、血のにじむ特訓の末必殺技「流星キック」を修得。
 ななななんとキングザウルス三世のバリアーには屋根がなく、そこをジャンプで飛び越え蹴りをかましてやっつける、というあらすじです。

 え?ウルトラマンは飛べるだろって?なんて野暮なこと言うんだ!

 この話で言いたいのは『帰ってきたウルトラマン』あたりから、ウルトラマンが小さな存在である人間の代わりに巨大な自然と戦ってくださる「大きな存在」ではなく「小さな存在」と同化しはじめたということです。
 つまり新マンでは、ウルトラマンに変身する郷隊員自身が「タッコングから子どもを助けよう!」「俺は負け犬なんかじゃねえ!見てろよ加藤隊長!」「ナックル星人め!よくもオレの彼女を殺したな!」ととっても意識的に戦っているんです。
 主人公のプライベートな感情が、直接「大きな物語」に投影され、世界を変えてしまう・・・これって「セカイ系」っていわれる脚本のジャンルで、これが流行ったのが「エヴァンゲリオン」以降らしいのです。
 まあそりゃそうだ。真似した「帰ってきたウルトラマン」が「セカイ系」なんだから。

 ここでウルトラマンは大きな物語のSFから、大衆受けする小さな物語のサブカルに良くも悪くも降格した。
 新マンを私は批判しているわけじゃありません。というのも新マンの特に前半はわたくし超大好きで中学生の頃何十回も見ているんです。だから実はエヴァオタクの友だちと私は中学生のころ同じものを見ていたはずなのにいがみ合っていたのだよ。

 というわけで結論。

 サブカルチャーに世界は描けない。描けるのは「ナウシカちゃん可愛いな」というキミとボクの「セカイ」だけ。

しまった・・・!

 この前制作スタッフの方が「俺たちの仕事を見ろ」とコメントくれたテレビ番組「情熱の系譜」見忘れた!もう「ワールドビジネスサテライト」やってるやん!
 なんだ、あの番組短いのか!情熱大陸みたいなのと勘違いしてた!

 ま・・・まあユーチューブでも見られるとか言うんでアップされたら見てみよう。忘れてなかったら・・・

Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!

 「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」

 ビーンはまったく成長してなかった。

 ついに前作の映画版から12年ぶりにミスタービーンが帰ってきた!

 いや~中学生の頃クラスで仲良かった友達に「田代ミスタービーンって知ってる?すっげえおもしれえよ」と言われ、その人の家でビデオを見せてもらい、今まで体験したことのないタイプの笑いに抱腹絶倒した思い出があるのですが、それから10年以上の時が経ち、ローワン・アトキンソンが辟易とするほど熱病のように流行ったビーンブームも遠い昔の話・・・私の本棚に今なお並ぶ『ミスタービーンの秘密の日記』が懐かしい。

 しかしビーンの故郷、本国英国では状況は違う。イギリスではテレビ番組は質の高いものをじっくり時間をかけて作るのが普通。よって面白い作品を何度も何度も再放送するそうです。実はビーンブームの時もそんなに作品数は無かったじゃないですか。え?これしか(13本)作ってないの?と。
 「ミスタービーン」はそんな英国で数え切れないほど国民に繰り返し愛されているコメディなのです。
 主演のアトキンソンは確か英国俳優所得番付第一位になった経験もある大スターで、世界に数台しかないマクラーレンF1マシーンも所有している根っからのカーマニア。21世紀にはいっても「ミスタービーン」がアニメ化したり根強い人気があるそうです。今はどうだ?

 さてこの作品、NHKが深夜にテレビ放送した時からギャグが日本人にはどぎついということでいろいろカットされ、しかもビデオ版でもカットされ、結局ノーカット版は国際線の飛行機の中とか(あとは英国)でしか見れなかったという伝説があるのですが、その反省を生かしたのか映画版ではビーンはけっこう良くも悪くもまともになってしまい(けっこう喋る)、大衆受けはしたもののコアなファンにはギャグがユルユルで物足りないと評価されたそうで。

 たとえば今回の映画もそうだけど、映画版のミスタービーンってちびっ子と友情をはぐくむじゃないですか。でも精神年齢8歳のビーンにとって子どもはライバル。子どもの漫画は横取りするわ、頭をモヒカンにしちゃうわ、飛行機でゲロをぶちまけるわ(これは善意が裏目に出たw)・・・子供とも対等に戦うのがビーン流。
 もっと言えばビーンって社会的弱者にも容赦しない。儒教の国日本ではこの手のギャグが主にバッサリカットされているんだけど、障害者、重傷者、老人も自分の邪魔になるなら徹底的に痛めつける。良くも悪くもこの人って平等主義なんです。

 私はかつて『悪い障害者』というギャグ漫画を担当編集者に見せたところ「これは危ない」と没になった経験があるのですが私は思いましたよ。中学生のパンチラやSEXを大々的に載せてる雑誌に言われたかないわ、と・・・
 この漫画は「障害者」というレッテルを逆手にとり健常者の同情をかい、己の欲望の為にハンデキャップを利用するというとんでもない障害者が主人公のギャグ漫画で、「障害者」ってだけで、健常者が彼らになにか親切にしようとするのは逆に障害者にとっては余計なお世話で失礼なのではないか?というメッセージを込めた内容でした。
 特別支援学校の先生をしている友人の評価は高かったのですが・・・やっぱこういう笑いってまだまだ日本には早いのかもしれない。

 イギリスでなんでああいうきわどい笑いがOKかといえば、障害者や病人が普通に社会に溶け込んでいて、いい意味で特別扱いしないんですよ。
 障害者を健常者のコミュニティから遠ざけるとか、結果的に家に引きこもるしかないとか・・・そんな感じの日本とは違い、ヨーロッパはやっぱり社会福祉政策が進んでいる。
 なにしろちょっと前までハンセン病の断種やってた国が日本なんで、バリアフリーはスロープ付けるだけでいいのか、物質的な話だけで済ませちゃいけないんじゃないか?と、思うわけです。

 まあ、とにかくそういうきわどいお笑い文化がイギリスにはあって、というか実は「ブラックアダー」とかは「ビーン」よりもずっとブラックでやばいらしい(人種差別ネタ、王室ネタ、エログロ何でもあり)のですが、いかんせん私は英語が駄目でヒアリングできないんだよな・・・
 しかしそんな濃ゆ~いギャグをそのまま映画として世界中に発信するわけにはいかないので(自国のお笑いにプライドのあるイギリスはしようともしないだろうけど)ミスタービーンの映画版は御家族みんなで楽しめるように薄めて作っております。

 でもやっぱり黒いところもあります。その黒いところとは(前作の映画『ビーン』とも共通するんですけど)芸術批判。
 前作では古典絵画、今作では前衛的な映画をことごとくちゃかしてます!やっぱり「ビーン」はこうじゃなきゃ!
 ウィレム・デフォーが演じた傲慢で自己満足的な(本人に言わせれば芸術的な)作品を作る監督ってけっこう実際にいそうだし、そんな映画をカンヌ映画祭で見させられて退屈している観客の描写が何ともシニカルw。そんな自己満足的フィルムをビーンはことごとくぶち壊す!いいぞもっとやれビーン!!
 そしてビーンが自分のシーンをカットされてしまった可哀想な女優さんの為に、自分のビデオカメラで撮った映像をつなげて作った映画は観客から大絶賛!もうこの映画が何が言いたいか解りますよね?芸術なんて理解している奴はいないんだよ。

 今回は前作でやたらビーンを喋らせてしまった反省からか、テレビシリーズ往年のネタを引っ張ってきて、ビーンを喋らせずにシーンをつないでいます。
 これはかつてあったミスタービーンのBEST版(「ベスト・ビッツ・オブ・ミスタービーン」)みたいな構成で、ビーンにハマった人は「ああそんなネタあったなあ・・・!」って楽しめるし、初見の人は爆笑すると思う。
 過去にホテルでかっこいい男と張り合って腐った生ガキを大量に食べてしまいホリデーをベッドで過ごした経験から、2007年のビーンはカキを食えなくなっているしw、それを喰わずに隠すのは誕生日のタルタルステーキのネタと一緒。
 またビーンが盗んだ自転車は戦車に踏まれてしまうのですが、あれもビーンファンなら愛車のミニクーパーが戦車に踏みつぶされてぺしゃんこになったネタを思い出すはず。
 「昔と同じことをしているだけじゃん」と言う人もいるかもしれませんが、笑いって何回見ても面白いものってある。志村けんさんのコントとか。だからいいじゃないですか、小ネタくらい。あの自閉傾向気味の動きは何度見ても破壊力抜群!

 それに中心軸のプロットは今回はかなり異色ですからね。テレビでやったネタだけじゃさすがに映画の長尺は持ちませんから、今回はビーンに好意を持つ美人の女優さん(ミニクーパーの塗装のセンスもドンピシャ!)が出てきて結構後半でストーリーに絡んでくるんですよ。まさかビーンでラブロマンス!?
 でもビーンって女性のヌードも見れないほど異性に興味がなくて(さすが精神年齢8歳)、おかげでクリスマスには彼女に逃げられたことがあるのですが、今回もあんな美人な女優さんにキスされて、その直後に拭ってますからねw。ほんとあんたって人は・・・ 

 さて今回でビーンは最後の作品になるらしいのですが、最後の作品である今作にビーンの唯一の相棒であるクマのぬいぐるみの「テディ」(あと宿敵?リライアントリーガル)が登場しなかったのはとても残念!(これが☆4の理由)
 そしてやっぱり「アメリカ」「フランス」とアウェーで戦ったのだから最後はやっぱり母国「イギリス」を舞台にした映画版を作って終わりにしてほしいなあ(テディにも会いたい!)。
 もう一回やってくれませんか?アトキンソンさん!

借りぐらしのアリエッティ

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 やっべ、トトロ超えた。

 なんか「アリエッティって自分だったらゴキブリの話にするなあ」という記事を書いたら、実際にこの映画を見た方からとてもトラックバックをしていただいたので、これはもう観るしかないと、生まれて初めて映画館でジブリ映画を観ました!
 ちなみに「ゴキブリの話」とは、アリエッティの見た目をゴキブリにするんじゃなくて、つまり可愛い小人の女の子に恋をした少年も、結局は己のプライバシー保護のために「許してくれ!アリエッティ!」と泣きながらスリッパでアリエッティを駆逐する悲恋ものを私なら作るというはなしです。ゴキブリは本当に見た目“だけ”で嫌われているのか?という考察の映画。

 ・・・ちゃかして悪かった!!(モニターの前で土下座)

 この映画大変よくできている。この夏の「友」でもあり「ライバル」でもあるアニメ映画『トイ・ストーリー3』とこの映画は、内容がとっても対称的。どちらも「主役が小人」「主役がおもちゃ」とファンタジックなのに、そこで描いているものは全く逆。
 「ファンタジー」の設定で徹底的に「リアル(人間のネガティブな感情や別れ=死)」を描いたのが『トイ・ストーリー3』だとすれば、『借りぐらしのアリエッティ』は「ファンタジー」の設定で「より純度の高いファンタジー」をストレートに見せてくれた!
 「アリエッティ」の世界に、自動販売機の中で違法賭博やっているおもちゃは存在しないんですよ!(なんか熱くなってます汗)
 私なんかも漫画を描くときには「リアル」を削り出して描写するために、あえてファンタジー的要素を用いて、そのギャップで攻めることをやるし、それが好きなんですけど(中学校から基本的にこの手法は変わっていない)、この映画はそんなひねくれた戦法はしない。
 すっごい純粋な人たちが作ったんだろうな、お母さんが自分の子に読ませたくなるような童話の基本系なんです。文部科学省とか推薦しそうだ、というかもうしてる??
 
 さて、この映画を見る前は「こういう記事を書くだろうなあ」と私は思っていました。今からその鑑賞前の脳内イメージを思い出して書き起こしてみます。


 スタジオジブリはもう駄目ですね。『借りぐらしのアリエッティ』は『となりのトトロ』の二番煎じで、それは「もはやジブリはファンサービスしかできない」ということを示しているのではないでしょうか。
 「コナン」「カリ城」「ナウシカ」くらいから宮崎監督をずっと好きな人は「エヴァンゲリオン」や「踊る大捜査線」のファンように「おっ!待ってました!」と相変わらず映画館に見に行ってくれるし、グッズも買うことでしょう(特にゲリオン)。
 しかしそれってもうこのスタジオがエスタブリッシュメントと化したということで、そこに新しいチャレンジ精神はないわけです。
 宮崎駿さんという「超強力なジブリのエンジン」が古くなり(言葉は悪いですが)ポンコツ寸前なのではないか?という話は随分前から言われてきたし、実際ジブリという飛行船は「死の翼アルバトロス(分かる人だけ分かってw)」のようにどんどん高度を下げて墜落の危機。
 宮崎駿さんがやってきたようなアニメを書き続ければ、飛行機の高度を維持できるというのは大間違いで、常に「宮崎を超えてやる!」いや、「ジブリから宮崎を追い出してやる!」くらいのクリエーターの人がジブリにいなきゃ遅かれ早かれ宮崎さんがいなくなってジブリは墜落ですよ。
 宮崎監督っておそらく「もののけ姫」やってジブリから出るべきだったんです。確か「これがぼくの最後の作品だ」とか言ってましたよね。天才的なアニメーターなのは分かりますからアニメーターはやめないにしてもジブリからは出ていくべきだった。
 なぜなら「もののけ姫」って「ナウシカ」を時代と国を変えてもう一回やっているだけだったし、それはつまりやりたいことを一周したってことですよね。ならいいじゃないですか。
 ジブリはもう若手に任せて(別に育てなくてもいい。クリエイタ―って教育に関係ないところで勝手に育つもん)、ジブリから出ていった方がジブリの作家には良かった気がします。
 なにしろあんな個性の強い人がスタジオにいて仕切っている限り、宮崎さんの模倣になるのは目に見えているんですから、宮崎さんはジブリに未練がましくしがみつかず飛び出すべきだった。
 「なにい?もののけ姫のCMこんな残酷にしやがって!ふざけるな!俺は出ていく!」ってそのまま出ていけばいいんだよ!ジブリを立ち上げ、そしてつぶしたのは宮崎駿だ!!


 ・・・こんなことを書く予定でした(長かった?)。でもこの「アリエッティ」って「トトロ」と似て非なるもの。
 細かい設定はもちろん似てますよ。ジブリオタクじゃない私でも感じるのですから、詳しい人は「あ、あれはあの作品のオマージュ・・・」って相似点をたくさん発見するんでしょうね。
 でもこの映画って近年のジブリアニメには珍しく、ストーリーにテーマを貫くしっかりとしたがあるんです。ジブリでこの芯を感じたのは『紅の豚』以来かな?
 つまり私って「考えるな。感じろ」って大嫌いなんです(ブルース・リー強くてカッコいいけど)。
 むしろディベートが最も苦手と言われる日本人が世界と交流する今こそ「感じるな。考えろ」の時代なわけで、「芸術の解釈なんて好き勝手でいいじゃ~ん?」というスタンス?の「千と千尋」「ハウル」や「ポニョ」・・・まあ大体のジブリ作品がこれが理由で駄目だったんです。一番ひどかったのやっぱり『ハウルの動く城』ですね・・・

 「アリエッティ」のストーリーってたしかに単純でひねりがないかもしれませんが、描きたいものがピュアでストレートな人間の美しい心なら、やっぱりピュアでストレートなプロットで描くのが最善なんです。だからこの映画は「これ以上面白くしようがない!」で「面白い度☆5」なんです。

 さて、その美しい心ってなんだ?っていうと、別に誰でも解るし思ったり感じたりしたであろう「誰かの為に生きたい」という気持ち。今の若い人達(私も含まれますが)って実はこの気持ちが上の世代が想像するよりも強かったりするんですよ。
 アリエッティも病弱なショウ君(モヤモヤさまぁ~ずかよ!)もその思いは共通していて、だから時に事態をいじくって悪化させてしまう。うん。ハイゼンベルグ不確定性原理を地で行くストーリー展開!
 「美しいなあ」と雪を手でつかまえると、美しいと感じた雪の結晶が壊れてしまうように、人間の干渉(主体)は自然環境(客体)を変えてしまう。
 だから「環境を守ろう」も「壊そう」も実は環境にとってみれば同じこと。世界は人間がどうあがいても変わってしまう。このアリエッティや翔の運命のように・・・なぜ?主体と客体は不可分だから。人間は自然の一部でしかないから。

 世界は変わっていく。そしてエントロピーの法則でいずれ美しいものはすべて消えてしまう。翔君が熱力学第二法則を知っていたかは知りませんが(病床で読んでいる本がプリゴジンだったらオレ失禁したと思う)、若いのに無駄に賢い彼はそこら辺を知っている。そして絶望している。「どうせ死ぬからいいや、楽しいことやってみよ!」と全裸で街を突っ走ってみる(それ楽しいか?)元気もない。心臓弱いから。
 で、同じく若いアリエッティは小人族の滅びをうすうす感じながらも否認している。見なかったことにして空元気で日々を乗り切っている。ふたりとも本当にいい奴。でもやはり若い。若いから出した答え(「ニヒリズム」「否認」)に「それでいいのかな・・・?」と心の中で自問自答し自己矛盾を抱えている。

 ここで超かっこいいのが、アリエッティのオヤジなんですよ!オレこんな惚れぼれする男キャラを見たのは『紅の豚』以来だわ。アリエッティのパパって無口だけど、大人だからニヒリズムも否認も知っていて、自分でその落とし所をつけて家族のために一生懸命借りをして生きている。
 パパには若い二人と違って、ママとアリエッティという守るべきものがあるから精神的にすごい強い。角砂糖をキッチンに取りに行く冒頭のミッションのまるで特殊部隊のような身のこなしは『トイ・ストーリー1』の記事でも書いたけど、もう私の「直球ど真ん中」で、あれでもう「アリエッティ」の世界にとりこまれたね。やられたよ。私しゃ。

 おいおいこのオッサンちっこいのに無駄に動きがカッコいいぞ!と(笑)。
 
 そしてそのオヤジの運動神経の良さがアリエッティにもちゃんと継承されているのが、もうおかしくてw。パパは両面テープで壁を登ったけど、アリエッティはイヤリングかなんかでカーテンを登り、見事ドアロックを解除!
 大きい翔と小さいアリエッティの協力プレイは、まるでアクションゲームのようで、テレビゲーム世代にはたまりません!!(このゲーム作ってくれねえか!?やりてえ!)
 まあ、こういう小さな冒険を共有し、ふたりとも一回り成長したわけで。この物語において2人の親密度合いを表すバロメーターが「角砂糖」だったんだけど、それをプレゼントして終わるラストとかやっぱぶれてないよな。なにを描きたいかはっきりしてるもん。

 まあ、いろいろ書いたけどまだ書き足らないなあ・・・他の人が書かなそうな所と言えば、生物関係かな?ええと、わたくし「アリエッティはゴキブリ」とか言ってましたが、開始数分でゴキブリ出てきました。しかもこの映画の動物は、カマドウマもゴキブリもネコもカラスもみんなディフォルメしてあって可愛い。タヌキ以外は。
 で、アリエッティと翔君を対面させるのがカラスで(あのシーン『ファインディング・ニモ』の歯医者さんにペリカンが突っ込むオマージュじゃね?)、ラストのアリエッティと翔君の最後の別れを導いたのがネコなんですよね。人間と小人の仲介者が動物なのが面白い。

 あとお手伝いさんの行動が理解できないって人はおかしいんでね。あれはアリエッティに感情移入しているからおかしいと思うわけで、一番心理描写がリアルだったのがハルさんでしょう。翔君の小人へのリアクションがファンタジーなら、ハルさんはリアルな反応ですよね。
 実際に小さい頃カエルやトカゲといった小動物を庭でつかまえて瓶や水槽に飼うっていうのは誰しも経験があるわけで、それが小人だったらなおさらでしょ。私なんて何回家でトカゲを脱走させて怒られたか・・・

 最後に曲。なんか『マスター・キートン』っぽいなあ、と思ってたらどっちもスコットランド的話ですよね。小人や妖精といった「伝承」を生活の中に取り入れて楽しむ文化はイエッス、スコットランドだし、欲を言えばもう舞台もグレートブリテン島でよかったんじゃないかって気がする。
 そっちの方がアリエッティ一家が船出する先が美しい英国の田園風景でよかったんじゃなかったのかな。だって日本の住宅地だったでしょ。最後の画。日本ってイギリスのように古い建物を人から人へ使いまわしていかずに、家が古くなったら壊して新しいの建てちゃうから都市景観がメチャクチャなんですよね。ロンドンなんて100年前とほとんど変わってないんじゃないか?

 とにかく、こんなすごいレベルならもう宮崎監督いなくても大丈夫。むしろもう追い出した方がいいって!
 今回は「トトロ」に気を使ったような話だったけど、若手の人が宮崎監督を意識せずに好き勝手作ったジブリ作品をそろそろみたいなぁ。

 あとアリエッティ・・・やっぱり借りたものは返さなかったw(洗濯バサミだけ返したw)
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