近代文学覚え書き②

 ワン・モア・ケンジ。

『雪渡り』
自分の地元では雪はほとんど降らないので実感ができないが、豪雪地帯では、畑も野原もすべて雪に覆い隠され、多様な地形を“平地化”させ、どこへでもいけるようになるのだという。これがタイトルの雪渡りである。

岩手県出身の宮澤賢治は、地元をはじめとする民俗学的な伝承に詳しく、その知識は『鹿踊りのはじまり』など、自身の作品に様々な形で取り入れられている。
本作も同様で、研究者によっては、この童話に出てくる銀世界を黄泉の国のメタファーと捉えたり、民族伝承においてキツネは神の使いだから、作中の鏡餅はうんぬん・・・と難しく解釈しているが、個人的にそれらはただの自己満足的な深読みであるようにも思える。

童話が寓話的要素を持つということに異論はないが、まずもって童話とは対象のこどもたちが楽しめるようにシンプルにつくられているものであり、ディティールの深読み(たとえば『やまなし』の「クラムボン」など)は、本編のおまけ要素に過ぎないと考えるべきであろう。こどもは知識ではなく直観で鑑賞するのである。
また、宮澤賢治は民俗学とともに自然科学にも強い点(農学を教えていたこと)を見落としてはならない。つまり、普遍性、客観性と、実証主義の重視である。

宮澤賢治作品が、しばしばローカルな農村を題材にしながらも、国家的ナショナリズムを超越し、普遍的なヒューマニズム、コスモポリタニズムを感じさせるのは、その視点のためであろう。
これは、しばしば偏見や思い込みを生む、民俗学的な伝承と対極的な視点で、主観と客観のバランスの良い両立こそが、宮澤賢治作品の真骨頂だと私は思う。

作中における偏見とは、童話や伝承におけるキツネの「人間をそそのかし、化かす」といったネガティブなイメージである。
『雪渡り』のキツネの子ども(紺三郎)は、「キツネの子が出すダンゴはウサギのフン」と言う主人公の少年に丁寧にこう嘆く。
「いヽえ、決してそんなことはありません。…私らは全体いままで人をだますなんてあんまりむじつの罪をきせられてゐたのです。」

さらに、少年が「そいぢゃきつねが人をだますなんて偽(うそ)かしら。」と言うと、「偽ですとも。けだし最もひどい偽です。だまされたといふ人は大抵お酒に酔ったり、臆病でくるくるした人です。」と、キツネは人をだましてはおらず、すべて人間の方が勝手にだまされたと感じていただけだという衝撃の事実を告白する。
そのキャラ造形は、自分たちの種族のネガティブなイメージを払拭しようとミーティングを行う『ファインディング・ニモ』のサメたちのように愉快でコミカルである。

もちろん、この時点では紺三郎の弁解はキツネサイドのブラフである可能性があるのだが、人間の子と、キツネの子、さらにどちらも三男坊だったり四男坊だったりと、彼らの中で不思議な親近感が生まれつつあり、最初のキツネの提案を少年が断ったのも、相手の心理の読み合いなどではなく、純粋におなかがそこまで減っていなかったのだろう。

実際、キツネの子たちの幻燈会(人もキツネも11歳までしか入場できない!)に呼ばれた少年は、世間一般のキツネのイメージよりも、目の前にいる紺三郎の言葉を信じてキツネのダンゴを口に入れるのである。
そこに見られるのは、種族を超えた友情と科学的実証精神に他ならない。このエンディングのすがすがしいカタルシスには、民俗学的な深読みは野暮というものなのである。

宮澤賢治は、閉鎖性を持つ伝承の世界に、理性の光という近代的なエッセンスをあえて加えることで、ドラマ性を高め、新感覚の童話を構築したのである。
ステレオタイプを鵜呑みにせず、まず自分自身で思考し、体験し、確かめてみることが、相手との信頼を築くのであるという、その教訓は、情報化社会に生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれるに違いない。

『やまなし』
クラムボンの正体が気になるとドツボにはまるエピソード。
水面に見える光だか泡だか知らないが、たかが沢ガニの戯れ言である。
重要なのは幼い沢ガニブラザーズがそれを美しいと感じていることであり、美しいものに意味を求めてはいけないというケンジの教訓である(本当か?)。
さて、チャプター2では季節が変わり冬(やまなしが実っているので秋説アリ)になるが、成長したカニ兄弟の口から「クラムボン」というワードは出てきていない。
やはり、ちびっ子特有の見立て遊びだったのかもしれない。そして、今度は「泡」ってはっきり言っちゃってる。・・・泡な気がする。
ちなみに、クラムボンの仮説で一番笑ったのは「クラブ(カニ)・ボンバー」説ね。マイケル富岡氏の揚げ玉ボンバーに匹敵する珍ワードである。

『氷河鼠の毛皮』
初見の読者を恐怖と混乱に陥れた『注文の多い料理店』同様、スポーツ感覚で必要以上に動物を殺すハンターは、ケンジの仏教的モラルにおいては容認できない存在らしい。
幸い、若者の「おまえらが魚を捕って暮らすように、俺たちも毛皮を獲らないと暮らしていけないんだ」という機転で、一触即発の事態は免れたが、やはり己のつまらない欲や見栄で殺生をしてはいけないのである。
余談だが、そんなハンターも近年後継者が減り、高齢化が進み、森の動物を上手く間引けなくなっているという。ニホンオオカミが滅んだ今、森の生態系の調整弁として、こうした自分の必要以上に動物を殺すハンターが必要とされているのは、なんとも皮肉である。
そういえば、自分の祖父もハンターで、足跡の形や経路から獲物の種類や行動パターンを推理していて、幼心にかっこいいと思っていた。

『グスコーブドリの伝記』
両親を失った少年が森でたくましく生きる『ロミオの青い空』みたいな話なのかなと思ったら、途中からにわかに地学分が上がり、ラストはまさかのアルマゲドン。
近年めっきりみない、学者ってかっこいいなって思わせる作品でもある。私もそんな物語を提供したい。
ちなみに、本作の挿絵はあの棟方志功で、また、プロトタイプの『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』では、同じような境遇で育った主人公が裁判官となり慢心する。全然違う!

近代文学覚え書き①

 大正時代の作家、ミヤケン(宮沢賢治)の作品を読む単位。ほかの近代作家は勝手に読んでろ!みたいないさぎよさがよい。
 また、私も長いこと大学でさまざまな単位を取り続けているけど、レポート課題が「自由に論じなさい」は初めて見たよw本当に自由に書いていいのか、その反面めちゃめちゃ要求水準が厳しく、自由という名の地雷なのかは判断に困るが、自由に論じさせてもらいました。

『注文の多い料理店』
宮沢賢治が生前に刊行した唯一の童話集である。文庫版の解説(650ページ)にもあるように、一冊の童話集は複数の短編童話作品の寄せ集めではなく、音楽CDでいうならばアルバムである。つまり、どの作品(シングル)を選んで、どういう順番で収録するか、という意図的な構成が試みられている場合が多い。
したがって、本作に収録されている9つの童話(序文を入れるとちょうど10つ)にも、通底するテーマや世界観があるはずで、それが童話集全体を“一つの作品”にしているのである。その共通項を見つけるために、まず各エピソードを順に振り返ってみようと思う。

1.序
これから紹介される童話の舞台がさりげなく紹介されている。
そこから、ケンジが日常的な情景にある何気ない美しさを捉えていることがわかる。こういった感性や時間的ゆとりは、幼い子どもが共感しやすい部分だと思う。
自分も小学生くらいまで近所の山の中に入り、森に差し込む太陽の光、それがあたってきらめく葉の上の露の美しさに感動していたが(目の細胞は年をとるごとにくすんでいくらしいので、子どもの頃のほうがそういった情景が鮮やかに見えていたのかもしれない)、30歳を過ぎるとさすがにヤバい大人だと思われるのでそういう遊びはめっきりしていない。しかし、たまに学校でへんてこな虫や爬虫類を捕まえたり観察して童心に帰っている。
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ちなみに私はヘビは大丈夫だが、カブトムシの幼虫は気持ち悪くて触れない。他人のおちんちん触っているみたいで。
脱線したが、思い返せば、居場所の選択肢が家、学校に限られる子どもが、唯一、大人たちの支配から逃れることができるイーハトーブ(ケンジの考えたユートピア的世界)が身近な自然だったのかもしれない。
最近の子どもは野山で遊ばないと言われるが、それは大人社会からの逃避先がテレビゲームやスマートフォンに変わっただけに過ぎない。
とはいえ、それは0か1の単純化されたシグナルであって、複雑なものを複雑なまま受け入れる訓練にはなりえないと思う今日このごろである。

2.どんぐりと山猫
トップバッターの作品は、作品集全体のテーマを代表的に象徴するエピソードである場合が多い。
手紙でヤマネコに森に呼び出された少年が、どんぐりコミュニティの言い争いを仲裁するという内容で、子どもの頃にしか訪れることができないイーハトーブの世界観が貫かれている。
ヤマネコ、馬車別当、どんぐりと、イートハーブの住人は総じて無能で、かつ愛らしく、解説では、『デクノボウ』礼讃であるとともに、優劣関係自体の相対化も試みられているとされているが、それはメタ的な大人の解釈だろう。
思い返せば、子どもの頃は自分勝手な価値観を絶対視していたわけで、そこに相対主義などはない。だが、主人公の少年は、そういった愛くるしくも独善的な子どもの世界に、大人の対応をして諍いを収めてしまうのである。
つまり、このエピソードは大人になりつつある少年が子どもの世界に別れを告げる教養小説なのである。
ちなみに、ヤマネコは本エピソードとは違ったキャラ造形で『注文の多い料理店』で再登場する。

3.狼森と笊森、盗森
実在する3つの森の名前がどういう由来で付けられたのかという物語の設定が途中から無視され、崩壊する、その適当さが印象的な作品。もう付けられてるじゃん。みたいな。
序で作者が「なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」と小泉総理の国会答弁なみのエクスキューズをしたことを思い出しニヤリとしてしまう。
というか、この物語で作者が本当に描きたかったのは、入植者である人間のコミュニティと、それを受け入れ、時に拒む森や山との、プリミティブな攻防戦であろう。
こういった経緯(自然の恵みに感謝したり、しなくなったり、時々畏怖したり)で徐々に自然信仰(アニミズム)はできていったのだろうなと考えさせる、わりとメタ的な視点を持つ内容となっている。語り部に寿命が非常に長い岩石をチョイスしたのも、これが理由だろう。
ラストに岩石が、森へのお供え物が最近小さくなったとこぼすのがいい。人間は忘れる生き物であり、過去からあまり学ばないのである。

4.注文の多い料理店
表題作。
童話集のタイトルになるくらいなので、ちびっこが笑顔になるハートウォーミングな内容だと思っていた。小学校の国語の教科書に載っていた『ねずみのつくったあさごはん』のような動物が料理で恩返しする話や、フジテレビのドラマ『王様のレストラン』のようなオーダーが多く忙しい料理店の話かと。
ちがった。ホラーだったのである。
主人公が、わりと遊び感覚で動物を殺すハンターである時点で、ちょっと穏やかじゃない展開になりそうだな、とは思った。
彼らは猟犬の死すら金銭的損失にしか捉えておらず、教訓的寓話が多い童話の世界では、まずこういうやからはひどい目に遭うと相場が決まっているのである。
つまり、本作は『王様のレストラン』ではなく、獲物を狙うハンターが、逆に獲物になってしまうという『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク』だったのである。
ハンター達を化かして自分で自分を料理させようとするのがヤマネコなのがいい。これがオオカミだとこういう悪知恵を使った作戦は取らなそうだし、仮に取られたらハンターの二人は助からなかったであろう。キツネも人を化かすが、基本的に単独行動のイメージがある(キツネが集団で人をばかす昔話を私はよく知らない。ぽんぽこはタヌキだったし)。
ネコだからいいのだ。ネコだから、途中で仲間割れをし、それが(メタ的には滑稽であるやり取りのはずが)、食われる当事者にとっては統制のとれていない連中の只中に放り出されるという、不安と恐怖を増幅させる演出になっているのである。
また、死んでもまったく心を傷めなかった猟犬によって九死に一生を得るというラストも皮肉が効いている。しかし猟犬は確か冒頭で死んじゃったはずである。ということは…というホラー結末も想定できる。
しかし全エピソードでもっとも恐ろしいこの話を表題にした理由が気になる。なんにせよ、9つの中で一番インパクトが強いエピソードであることは確かである。

5.烏の北斗七星
純粋な子どもたちの世界ではなく、残酷な大人の世界(戦争)をカラスで擬人化した、イデオロギー色の強い異色作。
これを短篇集のちょうど真ん中に置いているのは何か意図がありそうである。確かに、このエピソードがトップバッターやラストであると、童話集の体裁で反戦的なメッセージが強調されかねない。
さて、『銀河鉄道の夜』『グスコーブドリの伝記』などで、自己犠牲を美化していると批判されることもある宮沢賢治だが、それは大切な誰か、もしくはコミュニティの幸せのために生きることの尊さ、幸福を伝えたいのであって、その対象は相手の命を奪う戦争ではないのである。
つまり、ケンジは決して死を肯定してはいない。普遍的な生の素晴らしさを登場人物が肯定するからこそ、彼らはときに利他的に動くのである。
これを踏まえると、同一のテーゼ(普遍的な生のための自己犠牲精神)が戦争を扱った本作でも貫かれていることがわかるだろう。

 どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように。そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまいません。(『カラスの北斗七星』より)

6.水仙月の四日
人間の子と遊びたいが、人間には見えない、という孤独な雪童子のエピソード。
ケンジのふるさと岩手県の豪雪から着想を得たと思われる。
水仙月とはケンジが創作した暦の一つらしい。フランスの革命暦みたいな。
昔の子ども(もしくは途上国の子ども)は、親に普通教育を受けさせる義務がなかったために、大人扱いされてよく働かされたのだが、そういった社会的なペーソスがこの作品にはある。
つまり、自分の本意ではないんだけど仕事だからやらねばならぬ的なストレスを、幼い子どもに強いているという、時代の悲哀が満ちているのである。

7.山男の四月
山に住む男が、どう考えても怪しい中国人商人にだまされて、薬で箱に変えられてしまうというエピソード。全編で最もファンタジー色が強い。そして唯一、伝家の宝刀の夢落ちを明確に使用している。
中国人キャラの「アナタ~~するよろし」という口調は、この頃からあったのか、よもやケンジが確立したのか非常に気になるところである。

8.かしはばやしの夜
トップバッターの『どんぐりと山猫』と同様に、人々が固執する順位や優劣関係を破壊するエピソードだが、ビルドゥングスロマンの『どんぐり~』とは異なり、こちらのほうがずっとシュールかつ詩的、感覚的な内容となっている。
いきなりケンカを売ってくる画家、木(自分たち)を切るなら地主だけじゃなくオレたちにも酒をよこすのが筋と言う柏の木の大王、評価は先着順というめちゃくちゃな提案をされて何も疑わず次々に歌を詠む柏の木々・・・「まるでキチガイ病院だ!」(C)キリヤマ隊長。
こういういかれたノリはルイス・キャロルっぽくて好きです。

9.月夜のでんしんばしら
地面に深く固定され、それぞれが電線でつながれており、明らかに動くのに不向きと思われる電信柱を果敢に動かせたケンジのチャレンジ精神が光るエピソード。
さらに、互いにつながれているという拘束性から軍隊を連想したのが上手い。
しかし、停電した客車に電気をつけるため、果敢に列車に飛び込んだ「電気総長」を名乗るぢいさんのその後が気になる。でもたぶん大丈夫。勢力不滅の法則だから。

10.鹿踊りのはじまり
手ぬぐいを初めて見るシカたちが勇気を持ってその正体をつきとめようとするラストエピソード。
『狼森と笊森、盗森』と同様に民俗学的雰囲気が強い(鹿踊りも岩手県に実在する)。
なんとなくだが、ケンジは最後のエピソードにこれを持ってくるか、『狼森~』を持ってくるかで迷ったような気がする。
だが、「最近の人間は自然をかえりみなくなったなあ」という岩のぼやきで終わるよりは、箱の中身はなんだろな的バラエティ路線で終わった方が、子どもたちはきっと喜ぶだろうという判断のもと、この打線を組んだに違いない(本当か?)

国文学覚え書き②

 こんばんは。第二弾は江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『奥の細道』です。この人は東京から出発して北関東へ行って、東北、北陸、最終的に名古屋まで旅して回ったんだけど、その歩く速さがかなり速いので、ジャパニーズ・ニンジャだったんじゃないかという説もある。
 前回の『平家物語』と異なり、俳句コーナーはあるものの、とどのつまり旅行記なので、写実的(淡々と視覚的情報を記述する)で読みやすい。ということで、今回は超訳ヴァージョンは必要なしということで、よしなにお願い申し上げそうろう。

『奥の細道』


月日は永遠に(終わることのない旅をする)旅人(のようなもの)であって(by李白)、行く年来る年もまた旅人である。
船頭として船上で生涯を過ごす人や、馬子として馬のくつわを引いて老いるのを迎える人は、日常そのものが旅であって、言ってみれば旅を住処としているのだ。
私がリスペクトする李白、杜甫、西行といった昔の人も、多くが旅をしながら亡くなっている。

というわけで、私もいつの頃からか、ちぎれ雲が風に誘われて行くように、さまよい歩きたいという思いがやまず、海岸をさすらい歩き、去年の秋に、隅田川のほとりの古びた家に、旅から戻り、留守中にできた蜘蛛の巣をはらいのけて住んでいるうちに、また次第に年も暮れて、春の霞の空を見ると、いざ白河の関を越えん、と、人の心をそそのかす“そぞろ神”が憑いて心を狂わせ、さらに道祖神(旅を守ってくれる神様)も私を旅に招いているような気がして、取るものも手につかず、ももひきの破れを繕って、笠の緒を付け替えて、三里(膝のつぼ)に灸を据えるとすぐに、松島の月が最初に気にかかったので、住んでいた家(芭蕉庵=草庵)は人に譲って、杉風元雅さん(松尾芭蕉のパトロン)の別荘にうつった。

草の戸も 住みかはる代ぞ 雛の家
(訳:わたし一人が住んでいた草庵も住人が替わります。次に住む家族には娘がいるそうで、雛人形などが飾られるのでしょう)

以上の表八句(百韻連句の冒頭の八句)を草庵の柱に掛けておくので、よかったら見てね。

旅立ち
三月下旬の二十七日、夜明けの空はぼんやりとかすみ、月は有明けの月で光はなくなっているので、富士の峰はかすかにしか見えず、上野や谷中の桜の梢を再びいつ見られるのかと思うと、ちょっとさみしい。

親しい人たちはみんな、前の晩から集まってくれて(今朝は一緒に)舟に乗って見送ってくれる。
千住というところで舟をおりると、三千里(1万2000km)もあろうかという旅にこれから出発するのかという思いで感極まり、幻のようにはかないこの世の分かれ道に離別の涙を流す。

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
(訳:春という季節の別れを思い、鳥は鳴き、魚の目には涙が浮かんでいるかのように私には思えてならないのだ)

これを、旅で使う携帯用筆記用具の書き始めとしたが、やはり足が進まない。私たちを見送りに来てくれた人たちは、途中まで一緒に並んで、(私たちの)後姿が見えるまで、ずっと見送ってくれているに違いない。

白河の関
心もとない日々が続いたが、白河の関(福島と栃木の県境にある8世紀の砦)にさしかかると、ようやく旅の実感が湧いてきた。

平兼盛は「いかで都へ(この感動を都へ伝えたい!)」と、便りを求めたのも、もっともである。

中でも、この白河の関は東国三関の一つで、風流を愛する人々の心をとらえてきた。

(能因法師の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと)今の季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。
また(源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと)今は青葉の梢に(美しい紅葉が想像されて)、いっそう趣深く感じられる。

白い卯の花に、茨の白い花が咲きそえられて、雪にも勝る心地である。
昔の人は冠と衣装を着替えてこの関を越えたと、藤原清輔は書き残している。

卯の花を かざしに関の 晴着かな by曾良
(訳:私たちは卯の花を冠代わりにして、白河の関を越える晴れ着としよう)

平泉
(奥州藤原氏)三代の栄華も一眠りの夢のようにして(消え失せ)、(藤原氏の政庁の)大門の跡は一里(約4km)ほどこちら側にある。(3代目)秀衡(の居館)の跡は、田や原っぱになっていて、金鶏山(秀衡が平泉鎮護のために築いた小山)だけが(昔の)形を残しているのみだ。

まずは高館(源義経の居館跡)に登ると、(眼下の)北上川は南部から流れてくる大河である(ことが分かる)。
(北上川の支流の)衣川は、和泉の城を取り囲むように流れ、高館の下で大河(北上川)に合流する。

泰衡(秀衡の息子)らの旧跡は、衣が関を隔てて、南部地方(盛岡市一帯)からの入り口を厳重に警備し、夷(の侵入)を防いだのだろう。
そうであっても、(義経は)忠臣を選りすぐってこの城に立てこもり、一時的に功名を立てたが(敗北し、そこも)今や草むらとなっている。

国破れて山河あり、城春にして草青みたり
(訳:国が滅びても山河は昔のままで、城跡も春になると草が青々と茂っている※杜甫の漢詩の引用)

と笠を敷いて(腰を下し)、時が移るまで涙を流したのであった。

夏草や 兵どもが 夢の跡 by松尾
(訳:生い茂った夏の草むらを見ていると、かつてこの地で夢のために命を張って戦った武士たちが、ただただ儚く切ない)

卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな by曽良(旅に同行した松尾芭蕉の弟子)
(訳:白い卯の花に、義経の老臣兼房の白髪を連想してしまう)

かねてから、話を聞いて驚いていた二堂(中尊寺金色堂=光堂と経堂)が開かれていたので行ってみた。
経堂には三将(藤原清衡、基衡、秀衡)の像を残していて、光堂には(その)三代の棺を納め、三尊(阿弥陀三尊。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の3体)の仏像を安置している。
七宝はなくなり、珠で飾られた扉は風雨で破れ、金の柱は霜・雪によって朽ちて、もう少しで荒れ果ててただの草むらになるところを、(光堂の)四方を新しく囲んで、(屋根)瓦を覆って雨風をしのぐ(ように保護している)。
(こうして)しばらくは千年の昔のかたみとなっているのである。

五月雨の 降り残してや 光堂
(訳:あたり一面が雨で朽ち果てている中で、この光堂だけは輝いている。まるで五月雨が光堂を避けて降ったかのように)

立石寺
山形領内に、立石寺という山寺がある。
慈覚大師が開いた寺で、ことさら清らかで静かな土地である。
一見したほうが良いと、人々が勧めるので、尾花沢より引き返した。その道のりは七里(28km)ほどである。

日はまだ暮れていない。
山のふもとの宿坊(参詣者の宿泊施設)にチェックインしてから、山上にある堂に登る。
岩に巌が重なって山となり、松や檜の常緑高木は年をとり、土や石も古くなめらかな苔が覆っていて、岩の上に建てられた僧侶たちの住居の扉は閉じられていて、物音は聞こえない。
切り立った崖をめぐり、岩をはうようにして進み、仏閣を拝み、すばらしい景色はひっそりと静まりかえっていて、心が澄んでいくことのみ感じられる。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
(訳:静寂の中、ただ聞こえるセミの鳴き声は、まるで岩に染み入るようである)

 あ、そうだ。話変わるけど、『怪盗グルーのミニオン大脱走』鑑賞。どんどん『アイス・エイジ』シリーズっぽくなってきたなw今後もコンスタントに作られそう。これだけキャラが増えて盛り沢山だとたいてい破綻するんだけど、紙一重でストーリーをまとめているのがすごい力技。
 ミニオンたちの活躍は原点回帰ということで少なめ。ちゃんとグルーの話になってます。日本版はもう、劇場版ドラえもん的に「ミニオン」ってつけるって決めたっぽいけど、あくまでも奴らは名も無き脇役に過ぎぬ・・・あるけど。

 今回のメインテーマは、過去の栄光にしがみつく松山ケンイチと、(昔のように悪党に戻れよとそそのかす双子の兄弟に出会っても)過去を振り返らない鶴瓶師匠の対比ってことなんだろうな。つーかグルー、大人になりすぎだろ。なんていう安心感w
 だから悪党の下で働きたいミニオンたちに関してああいうふうに落としどころ付けるのうまいし、同じようなアルゴリズム(悪党がやりたい)で動くネファリオ博士を、ああしちゃうのも思い切ったなあ。セリフなしかよ!
 ほいで、今までの博士がやっていた救援ポジションに奥さんが来たと。さりげなくグルーの左手の薬指にリングがついているのがとてもいい。あと自分が好きなキャラグルーのママもセリフ付きで再登場。嬉しい。

 芦田愛菜ちゃんは声変わり。次女より大人っぽい声を出す三女になっちまったぜ。「バイバイ、ろくおんせい」が懐かしいものよ。同じ子役キャラのエヴィル・ブラットについて思うところはあったのだろうか。
 声でいうなら、グルーの声は本家だとスティーブ・カレルって人がやってるんだけど、この人の声質は笑福亭鶴瓶さんよか浜田雅功さんに似ている。同じ関西弁キャラだし。でもCGアニメ映画のビッグタイトルである『シュレック』やっちゃってるからなあ。ハマタは。
 相変わらず中島美嘉さんは本家と声が一緒でうまい。一作目ではグルーがぎこちなくパパになる過程を描いたけど、三作目はママできたかという。
 そういやルーシーは家族とは死別でもしてるのかな。結婚式でもサイラス・ラムズボトムさんしか来なかったし。だとしたら、本作の悪戦苦闘は泣けるところがあるよな。

 たまにはいけませんって言ってもいいんだよ。

国文学覚え書き①

 ついにやってきた、夏休み国語大作戦!

 ・・・一年あっという間だなあ。
 てことで、手始めに古典から攻略中です。今回は『平家物語』の現代語訳なんだけどさ、あらためて思うのは、古典の現代語訳って現代語じゃねーよな。
 とりあえずなんとか現代人が意味を読みとれるくらいに古典の文法を直訳しているだけで、まあ原文を尊重しているっていうのもあるんだろうけど、こんな言い回ししねーよとか、いとおかしくねーよとか、すごい読みにくい。文章ってやっぱり読みやすさが命じゃん。
 しかも、古典で読む文章って学術的な記録文章というよりは、とどのつまり娯楽作品なわけで、文法どうこうよりも、その作品の核となる面白さをまず味わわせたほうがいいんじゃないかっていう。なんで、いきなりつまらねー“作業”をやらせるんだっていうね。
 だから、今回は原文のニュアンスを尊重し、だいたい文法通りに翻訳した、いわゆる「現代語訳」と、読みやすさを重視した「超訳」の2ヴァージョンでお楽しみいただきたく存じ候う。

『平家物語 木曾の最期』
これまでのあらすじ
平安時代末期の覇者である平氏を都から撃退した武闘派サムライ源義仲(故郷から木曽義仲と呼ばれる)であったが、彼らの軍隊はお行儀が悪く、都の人に迷惑をかけてしまっていた。
源平合戦の黒幕――後白河法皇は、お前はもう用済みだと言わんばかりに、源氏の総大将源頼朝に義仲を消せと命じる。
こうして都に範頼、義経などの鎌倉軍が侵攻(宇治川の戦い)、義仲の愛人の巴御前(※つよい)など濃いキャラクターの活躍もあり木曽軍は奮戦したが、結局は多勢に無勢ということで木曽義仲は敗走。義仲の運命やいかに――!?

現代語訳ver.
 木曾左馬頭(さまのかみ)のその日の格好は、赤い錦の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧を着て、鍬形(くわがた=兜の飾り)を打ち付けた兜の緒をしめて、立派な装飾のされた太刀をさして、石打ちの矢(猛禽類の尾羽で作った矢のこと)の、その日の戦いで射て少し残っているものを頭よりも高く背負って、滋籐の弓(黒漆を塗り藤を巻き付けた弓)を持って、世に名高い木曾の鬼葦毛という、非常に太くたくましい馬に、金をあしらった鞍を置いて乗っていた。

 あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗るには、
「昔聞いたことがあるであろう(昔聞きけむ)、木曾の冠者(自分のこと)を、今は見ているであろう(今は見るらむ)、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲だ。(お前は)甲斐の一条次郎と聞く。お互いに(打ち合うには)いい敵だ。この義仲を討ち取って、源頼朝(兵衛佐)に見せるがよい。」
と叫んで、駆ける。

 一条次郎は、
「今名乗ったのが大将軍だ。者ども、討ち逃がすなよ。取り逃がすな若党、討ち殺せ」
と言って、大勢で取り囲んで、我こそが討ち取るといって進撃して行った。

 木曾義仲勢は300騎あまり、6000騎の(一条次郎勢の)中を縦に、横に、四方八方に、十文字に駆けて、(彼らの)後ろに出たところ、(味方の軍勢は)50騎ほどになっていた。
 そこを突破していくと、土肥の次郎実平の軍勢2000騎が支えている。そこも突破していくと、あそこでは4~500騎、ここでは2~300騎、140~50騎、100騎と、突破してくうちに、(味方はたった)主従5騎になってしまった。5騎になっても、巴は討たれなかった。

 木曾殿が
「お前は、さっさと、女なのだから、どこへでも逃げろ。私は討ち死にしようと思うのだ。もし人の手にかかって自害をせずに死んだならば、木曾殿は最期の戦いに女をお連れになっていたなどと言われるのは、残念である。」
とおっしゃっても、逃げようとしなかったのだが、あまりにも(木曾殿から)強く言われるので、巴は
「見事な敵がいないでしょうか。私の最期の戦いをご覧に入れたい。」
と、控えていたところに、武蔵国に聞こえる力持ち(大力)、御田八郎師重が、30騎ばかりで現れた。

 巴は、その軍勢の中に駆け入り、御田八郎に(自分の馬を)押し並べると、(御田八郎を)むんずとつかんで馬から引き落とし、自分が乗る馬の鞍の前部(前輪)に押し付けて動けないようにし、首をねじ切って捨ててしまった。
 その後、身に付けていた武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ち延びていった。義仲の家来の手塚光盛(手塚太郎)は討ち死にし、手塚盛重(手塚別当)も敗走した。

 今井の四郎と木曾殿の主従二騎になって、おっしゃったことは
「日頃は何とも思わない鎧が今日は重くなったぞ」

 今井四郎(※家来なので「候ふ」を連発する)が申したことは
「御身もまだ疲れてはいません。馬も弱ってはいません。何によってひとつの大鎧を重く感じることがありましょう。それは味方に軍勢がいないので臆病になってそう思うのでしょう。兼平一人がお仕えしているだけでもほかの武者千騎分だと思ってください。
矢が7つ8つありますので、しばらく防ぎ矢(敵の攻撃を防ぐために射る矢)をいたしましょう。あそこに見えますのは粟津の松原と申します。あの松の中でご自害なさいませ。」
と、言って打って出る途中で、また新手の武者が50騎ほど現れた。

「殿はあの松原へお入りくだされ、兼平はこの敵を防ぎましょう。」
と、申したところ、木曾殿がおっしゃったことは
「義仲は都でいかようにもなるところであったが、ここまで逃れて来たのは、お前と同じ場所で死のうと思うためである。別々の場所で撃たれるよりも同じ場所で討ち死にしよう。」
と言って馬の鼻を並べて駆けようとなさると、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申したことは
「弓取り(武士)は、長年にわたってどのような高名がございましても、最期の時に不覚を取れば長い傷でございます。御身は疲れてらっしゃいます。後続の軍勢はございません。
敵に押し隔てられ、どうでもいい(人の)郎党に組み落とされなさって、お討たれになられたら、あんなにまで日本中で評判が高かった木曾殿を、誰それの郎党が討ち取ったなどと申されることは口惜しゅうございます。ただあの松原にお入りくだされ。」
と申したので、木曾殿は
「それでは」
と、言って栗津の松原にお駆けになさる。

 今井四郎は、たった一騎で50騎ばかりの中へ駆け入り、あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声を上げて名乗ったことは、
「日頃噂にも聞いていたであろう、今はその目でご覧あれ。木曾殿の乳母子、今井四郎兼平、今年33歳になる。そういう者がいるとは源頼朝(鎌倉殿)までもご存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ。」
と言って、撃ち残した8本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射る。生死は分からないが、即座に敵8騎を撃ち落とす。

 その後、刀を抜いてあちらに対峙し、こちらに対峙し、斬って回ったが顔を合わせる者はいない。敵の武器などを多く奪い取った(分捕り)。
 ただ「射取れや」といって中に包囲し、雨の降るように射たけれども、鎧が良いので裏へ貫通せず、鎧の隙間を射ないと痛手も負わない。

 木曾殿は、たった一騎で粟津の松原に駆けられたが、正月21日の夕方なので、薄氷が張っており、深田があるともしらずに馬をざっと乗り入れたので、馬の頭も見えなくなった。あぶみで馬の両ばらをにつけた泥よけ(あふる)を蹴っても蹴っても(あふれどもあふれども)、鞭で打っても打っても動かない。

 今井の行方がわからないので、空を見上げられた甲の内側を、三浦の石田の二郎為久が追いかけてきて、弓を十分に引き絞っていきなり射た。深手なので甲の正面を馬の頭に当ててうつぶされたところに、石田の郎党二人が加勢してきて、ついに木曽殿の首をとってしまった。

 太刀の先に貫き、高く差し上げ大声を上げて
「この頃、日本国にその名を轟かせなさった木曾殿を三浦の石田の二郎為久がお討ち申したぞ」
と名乗ったので、今井四郎は戦っていたがこれを聞き、
「今は誰をかばうために戦いをするべきであろうか。これをご覧あれ。東国の方々。日本一の剛の者が自害する手本を。」
と言って、太刀の先を口に含み馬から逆さまに飛び落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦はなくなったのである。

超訳ver.
その日の木曽義仲は、赤い服とチャイナスタイルの鎧を着て、角のついた兜をかぶり、立派に装飾された太刀をさし、戦いで余った矢を背負い、黒い弓を持ち、そして有名な“木曾の鬼葦毛”という、非常に太くたくましい馬に、金をあしらった鞍を置いて乗っていた。

義仲は、あぶみを踏ん張って立ち上がり
「昔聞いたことがあるだろう、木曽のルーキーと呼ばれた男を!今見ているこの私こそが、その源義仲だ!
お前は山梨県の一条次郎と聞く。互いに戦うにはいい敵だ。この義仲を討ち取って、源頼朝への土産にするいい。」
と、叫んで敵に駆けていった。

一方の一条次郎が
「今名乗ったのが相手のボスだ。野郎ども、討ち逃がすなよ。ぶち殺せ!」
と言うと、一条の軍勢は大勢で義仲を取り囲み、我こそが討ち取ると次々に義仲に挑んでいった。

木曽義仲の軍勢は300騎あまり、対する一条の軍勢は6000騎である。その中を縦横無尽に駆けて、軍勢の後ろまで出たところ、味方の軍勢は、300騎から50騎ほどにまで減っていた。

一条の軍勢の後ろには、伊豆の次郎実平という武士の軍勢2000騎が守りを固めていたが、そこも突破していくと、その次には4~500騎が待ち構え、その次には2~300騎、140~50騎、100騎と・・・キリがなくそれらの軍勢を突破してくうちに、結局味方は主従5騎になってしまった。

ちなみに5騎になっても、義仲の愛人の巴は討たれなかった。
義仲は 「お前は女なのだから、どこへでも逃げろ。オレは討ち死にする。その時、もしお前がいたら、木曽は最期の戦いに女を連れてたらしいよ、と死後みんなにからかわれてしまう、それはちょっとやだ。
と、巴を逃がそうとしたが、巴は逃げようとはしなかった。

しかしあまりにも義仲がしつこく言うので、巴は
「では、骨のある敵はいないかしら。私の最後の戦いを見せてあげるのに。」
と鼻息荒くスタンバッていた。

すると埼玉県で有名な力持ち、御田八郎師重というわかりやすい噛ませ犬キャラが、30騎ばかりで現れた。

巴はその軍勢の中に駆け入り、御田八郎に自分の馬を並走させると、八郎をむんずとつかんで馬から引きずり落とし、自分が乗る馬の鞍に押し付けて動けないようにすると、八郎の首をねじ切って捨ててしまった。超つええ。

その後、巴は身に付けていた装備を脱ぎ捨て、東の国の方へと落ち延びていった。
また、義仲の家来の手塚光盛(手塚太郎)は討ち死にし、手塚盛重(手塚別当)も敗走した。こうして5人だった義仲の仲間たちは、ついに2人だけになってしまった。

すると義仲が「日頃は何とも思わない鎧が今日は重く感じる」と弱音を吐いたので、家来の今井四郎は、こう言った。

「あなたはまだ疲れてはいません。馬も弱ってはいません。では、なぜ鎧が重く感じるのか、それは味方がいなくなってビビっているからです。(※ズバズバ言う四郎)
ですが、ご安心を。兼平一人がお仕えしているだけでも、一般的な武者千騎分(当社比)だと思ってください。
矢がまだ7、8本ありますので、しばらく敵の攻撃を防げます。
あそこに見えるのは粟津の松原という場所です。敵にやられちゃう前に、あの松の中でカッコよくご自害なさいませ。」

その時、新手の武者が50騎ほど現れた。

「殿はあの松原へお入りくだされ、兼平はこの敵を防ぎましょう。」
と今井が言うと、義仲は
「私は都でどうなるとも知れないところであったが、ここまで逃れて来たのは、お前と同じ場所で死のうと思ったからである。
別々の場所で討たれるよりも、同じ場所で討ち死にしよう。」
と言って、自分の馬を今井の馬に並べて駆けようした。

だが、今井四郎は馬から飛び降り、義仲の馬の前に立って
「武士は、生前にどんなに高い人気があっても、最期に不覚をヘタをこけば面目丸つぶれでございます。
義仲様はやっぱり疲れています。幸い、後続の軍勢はございません。
わたくしは“木曽義仲っていたじゃん。あいつさ、結局よくわからないモブキャラに討たれたんだってさ”なんて後世で言われるのは、悔しいのです。なので、ただあの松原に行ってください。」
と食い下がるので、

義仲は
「じゃ、そんなに言うなら」
と、栗津の松原へ駆けていった。

こうして、今井四郎はたった一騎で、50騎ばかりの中へ駆け入ると、あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声で名乗りを上げた。

「日頃、噂にも聞いていたであろう、今はその目でご覧あれ。木曽殿の乳母子、今井四郎兼平!おかげさまで今年33歳にならせていただきました。(※意外とこっちのほうがニュアンスが近い気がする)
そういう名の男がいることは、あの源頼朝も知っているであろう。ならば、この兼平を討って私の首を頼朝に見せてみよ!」

こうして戦闘モードに突入した今井は、撃ち残した8本の矢を、矢継ぎ早に放った。すると、全ての矢がスナイプショットし、即座に敵8騎を撃ち落としてしまった(生死は不明)。ジェレミー・レナーか。

矢が全て尽きたため、今度は刀を抜いてあちらこちらに斬って回ったが、今井の相手になる者はいなかったので、敵の武器などを多く奪い取ることができた。

敵は「ぶち殺せ~!」と、今井に向けて雨の降るように矢を放った。しかし、今井の着ている鎧のクオリティが良かったために、矢は貫通せず、また鎧の隙間でないと痛手も負わなかった。

一方の義仲も、たった一騎で粟津の松原に駆けたのだが、その日は冬の夕暮れどきで、地面に薄い氷が張っており、彼は、深い田んぼがあるとも知らずに、そこに馬を乗り入れてしまったので、ズブズブと沈んでいき、結局馬の頭も見えなくなった。
これはやばいと、あぶみで馬の両ばらを蹴っても、鞭で打っても、うんともすんとも動かない。

ふと心細くなった義仲は、今井の行方を探そうと振り返った。――これが義仲の命取りとなった。
三浦の石田の・・・なんちゃらという男が現れて、空を見上げ、隙を作った義仲の頭を矢で射抜いてしまった。
これが致命傷となり、馬の上でうつぶせになったところを、石田の仲間二人が加勢して、あっさり義仲の首をとってしまった。

石田は、義仲の首を刀の先に突き刺し、それを高く差し上げると
「最近、日本で話題沸騰だった木曽義仲を、この三浦の石田の二郎為久が獲ったど~!
と叫んだので、交戦中だった今井は
「もう戦う意味がなくなってしまった。それではみなさん、最後に武士が自害する手本をお見せしましょう。」
と言って、刀の先を口に入れて、馬から逆さまに飛び降り、自分で自分を貫ぬいて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わったのである。

解説
『平家物語』は13世紀前半に作られた軍記物語で、作者は不詳。日本中をまわった琵琶法師によって文字の読めない庶民に弾き語られたことで有名である。
この世のすべてのものはいつかは滅びて無くなってしまう(諸行無常)という仏教的な教訓から始まる寓話だが、平安時代末期に栄華を誇った源氏のライバル平氏を悪逆の限りを尽くす暴君として描き(むしゃくしゃして奈良の大仏を焼くなど)、その滅亡をある種の因果応報とする点においては、中国の儒教思想の影響も読みとることができる。
庶民の間で受け入れられたのは、こういった分かりやすい勧善懲悪のストーリー(正義の源氏VS悪の平氏)によるところが大きいだろう(とどのつまりスター・ウォーズ)。
さて、『木曾の最期』では、平家を都から追い出し華々しい活躍をした木曾義仲が、源頼朝の軍勢に討ち取られてしまういきさつを描いたもので、朝日の将軍ともてはやされた義仲が、自らのミスであっけなく殺され、逆に義仲の護衛が武士として見事な死に様(自決)を見せるという対照的な結末が印象に残るチャプターである。
そこに漂うのは北野武映画的なニヒルなペーソスに他ならないが、都を占拠した“悲劇の武将”木曾義仲の態度は、やはり“おごれる人”であり、その死亡フラグは読者に約束されているのである(実際には木曾義仲の都での乱暴狼藉は『平家物語』の創作らしい)。

カーズ/クロスロード

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 君にチャンスをあげられる最後のチャンスなんだ。
 
 ピクサー作品の中で最もハマったシリーズ。一作目を見て衝撃を受け、あの同じところくるくる回るレースは何なんだ!?ってことでノラネコさんにストックカーレースって教えてもらった時から、早7年くらい。
 ほいで、その7年前と全く同じ舞台、キャラクター(特に2で欠番した赤坂さんのボブ・カトラス、あの悪徳ヒゲ牧場チック・ヒクス、前作いいタイミング引退できたキングことストリップ・ウェザース、企業家の良心テックス社長、そしてドッグ・ハドソン!)が帰ってきてるんだから、まずそこで泣く。
 もちろん2も好きで、つーか回数としては2の方がたくさん見てるんだけど、2はさ、映画のジャンルが違うじゃんwあれ、思い切ったよなって思ったけど。
 確かに、1やってすぐに、この3の内容はやれないよなっていう。ある程度年数が経ったほうが胸に来るだろっていう。あ、これ、去年も『ファインディング・ドリー』でも書いたな。フラッシュバック効果っていうか。マーベルじゃないけど、結構意図的な長期計画があるっぽいよね、ピクサー。

 ということで、1で泣いた人には感涙の出来。結末なんとなく最初の方で分かっちゃったけど(でも泣く)。ほろにがいビターな感じは『モンスターズ・ユニバーシティ』と通底するものがある。あちらもある種のスポーツものだったしな。
 スポーツの世界って、どうやってもフィジカル的な限界があって、さらに、せつないことに科学、技術的な側面もあってさ。実際大学生の頃に体育学の教授に教わったけど、東京オリンピックでのメダリストの体操の演技っていまでは中学生でもできるらしいしね。オリンピック目指してる中学生じゃないよ。普通の学校で普通の中学生にやらせてできるんだって。そういう現実をやるんだよな。ピクサーって。

 お友達がまた減ったな。

 冒頭がいいよ、とにかくこの映画。すごい満ち足りたレース人生が脅かされるあの感じ。曲も前作みたいなロックとかじゃなくて、格式高いクラシック使ってたり。うまいよね。オペラなんだよね。シェイクスピア四大悲劇なんだよね。
 もう、こうなるとフィジカルだけの話じゃなくてさ、生まれた時代がどうこうになってくるっていう。それを車というメタファーでやっているという。どうやっても新しく開発された自動車の方が性能いいもんなっていう。
 そこがスポーツの残酷さだよ。そのうち理科の授業で進化をやるんだけどさ、進化というのは、昔の恐竜とかが劣っていて、現代の人類が優れているとかそういうもんじゃありませんよ~とかいうんだけどさ。いや、恐竜のほうが人類よりも劣っているんだよ。スポーツっていうのはそういうものなんだよ。同じ土俵、同じルールでフェアに戦う以上、相対主義に逃げられないんだよ。

 それでも、なんつーか成績だけが全てじゃないというか。それは一作目から意表をついた結末でやってるんだけど、そのあとモンスター大学があって、それでこれっていう。
 クーベルタンじゃないけど。広義の意味での参加というか。形は変われどスポーツに携わることはできるよっていう。メンター、教師としての人生の面白さというか。
 だからといって、じゃあ参加さえすれば満たされるのか?んなわけねーだろ的な、やりきれない心のシャウトもあって、ちょっとこの映画計り知れない。

 俺はまだ走れたのにチャンスを与えられなかった。
 はじめからトレーナーになるのが夢だと思ってた?

 でも、やっぱり自分が勝つことだけがスポーツの楽しさじゃないよ。それだけじゃ人生はさみしいよっていう。若い世代に、自分の知恵や経験、立場を活かして、適切にチャンスを与えてあげるのだって幸福なことだろうっていう。今まで与えられてきた分を今度は与える側になるのも楽しいよっていう。
 教え授けるっていう楽しさってあるからな。あれ、意外と面白いぞって思っちゃったんだろうね。そのチャンスをクルーズも与えてくれたんだろうね。かつてのマックイーンのように。
 そういやさ、最近NHKやテレビ東京がやたら人工知能押しでさ、AI教師とかAI投資とかやってて、ふざけんじゃねーよって感じなんだけど。
 あれってひとつはAI共のせいで自分の仕事奪われかねないっていう、産業革命の頃にラッダイト運動やった人的な反発もありそうなんだけど、でも冷静に考えてみると、別にAIごときに自分が負けるという恐怖心はないんだよね。

 辞めるタイミングは若者が教えてくれる。

 これは作中のセリフだけど、AIには教えられたくねえよっていう。で、この映画も統計学とか数学とか出てきて、もう圧倒的にマックイーンはもう勝てないよってアナライズしててさ、すごいのは、『ハドソン川の奇跡』みたいにそういう合理的で冷酷な数字に一矢・・・報いないっていう、本当に勝てなかったってとこで話を終わしちゃうピクサーなんだけどw子どもアニメでそれやるかっていう。まあ、思い返せば子どもアニメに本格的にコンピュータ持ち込んだ理系集団なんだけどね、この人たち。
 でも、マックイーンにそういう合理的な世界の次世代トレーニングをさせずに、レジェンドって言われる古い世代のコミュニティの方に行かせたっていうのは示唆的だよ。
 つまりさ、いくらAI教師が正しくてもさ、こいつらはメンターたる条件が欠けてるんだよな。つまり、そいつ自身が人生の中で何をなしたか、何を積み上げたかっていうのが、教える内容よりずっと大切なんじゃないかってことなんかなって。

 そうね。先生もよかったのよ。

 そう考えれば、AIには人生の履歴がないんだよ。いやバージョンとかあるのかもしれないけど、そうなるとさ、そのAIを改良しているエンジニアのおじさんこそがメンターの素質があるわけで、やっぱり人を教え導くのは人間なんだよね。生き様に人は惹かれるんだよ。
 だから、この映画見て、AI全然怖くねーよっていう。あいつら生き物じゃねーし。生き様ねーしっていう。
 所詮はツールであって、AIによって世界に変革が起きるとかうそぶいているのは、自動車やインターネットやiPhoneが出た時でも、世界は変わるとか言っているいつもの人たちなんだよね。そういう風に大げさに言ったほうが販促になるからな。そんな簡単に世界は変わりません。

 人生に近道はないのよ。マックイーンさん。
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