「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」
罰が下るだと?自分の“所有物”で遊んでいるだけだ。
アカデミー作品賞の話題作!・・・なのに地元で見事にスルーだったので東京まで行って観てきました。お金がなくなりました(><)
ま~最初から最後まで、ひょんなことから奴隷にされちゃった自由人ソロモン・ノーサップさんの一人称視点で、なかなか味わえない奴隷体験ができます。あの長時間の首吊りのシーンは、もう、偏執的でトラウマ必至・・・!
映画の構造はそう言う意味で『ゼロ・グラビティ』(一人称視点をラストまで徹底)に近いんだろうけど、私は見終わったあと『キャプテン・フィリップス』を観たときの疲れを感じました。や~っと助かった~って(^_^;)まあ、『キャプテン・フィリップス』は後半は多少視点が移動するんですけど。
しかし『42』といい『大統領の執事の涙』といい、ここんところ黒人差別を題材にした映画を割と観ている気がするんですが、なんだろ、今流行っているのかな。
それとも前にも言ったけど、アメリカではこういう映画をヴァンパイアやゾンビ映画みたいにコンスタントに撮っていて(同列に語ってしまってすまない)ここんところいい映画が豊作なのだろうか。
もっと穿った見方をするならば、今アメリカで再び差別が社会問題になっているとか?いや、逆に黒人差別はほとんどなくなったからこそ、こういう映画を冷静に作れるようになった??う~んどうなんだろう。
少なくとも、わが国ではそれでも夜は暮れているよね。
『シンドラーのリスト』や『アミスタッド』など、人種差別を扱った映画はこれまでにも、たくさん記事を書いたんだけど、今回印象に残ったのは、『スター・トレック』のカーンで艦隊を恐怖のズンドコに陥れたベネディクト・カンバーバッチさん。
この人がまたいいんですよ。なにがいいって優しい奴隷主なのw
優しかったら奴隷買わねえだろって感じなんだけど、まさにそこが当時の人を相対化できてうまいキャラクター。
つまり、カンバーバッチの次の極悪奴隷主のファスベンダーも、奴隷から自由人になれたぜっていう黒人貴婦人もそうなんだけど、この人たちの共通点は南部の奴隷制を容認、適応しちゃっているってことなんだよね。
これって今から考えれば同罪で、『ジャンゴ』の世界だったらタランティーノに全員ぶっ殺されている気がするんだけど、カンバーバッジさんがインタビューで素晴らしいことを言っていて、当時の人を現代の価値観で断罪するのは簡単なんだ、と。
結局奴隷制がなくなった決定的理由は、奴隷制をやっていない北部の方が経済的に合理的だったって事で、それで南北戦争にも負けちゃった。社会主義も同じような感じで自由経済に負けたけど、みんなに自由を与えた方が結果的に社会は合理化するという自己組織化に気づいたんだよね。
だから経済問題として考えると、あの映画の時代――『大統領の執事の涙』の大体100年前の時代――は、まだ奴隷労働に経済学的な合理性がある・・・と思っていた時代だったんだ。いや、もうちょい厳密に言うと、実際に合理性があったかどうかが分からなかった。
例えばタイムマシンであの世界に行って「旦那、旦那。奴隷制をやめたほうが儲かりますぜ」なんておせっかいに言いに行っても、寛大なカンバーバッチさんもおそらく苦笑いで首をかしげるだろうし、ファスベンダーだったら「うるせえこっち来い」って鞭打ち百回だよ。
なんでかって言うと、「奴隷制」なんていう、南部全域の信仰と結びついちゃっているバカでかい制度は、たとえ何人かに「間違ってるよ」なんて吹聴してもどうにもならないんだよね。
じゃあ大統領に言えばいいのかって言えば、政治家だって世論のカセがあるからね。有権者が「奴隷制なんていうのは必要悪なんじゃないの?」とか思っていたら、大統領でも絶対難しい。まあ『リンカーン』観てよw
ラディカルな意見っていうのは既得権益を守りたい支配階級どころか、理解力や想像力が弱い民衆にも理解されないわけで、だったら通るわけねえよっていう。
頭の中の理屈だけでいくら正しいと確証を得ても、それをリアルに浸透させるっていうのは運とタイミングが物を言うわけだ。
その不条理さに時代に恵まれなかった知識人は絶望する。だってそういう人にとってみれば、みんなが愚かでしか見えないし、それに対して何ら有効な手を打てない自分の無力感にも嫌になるだろう。そしてこういう人は、当たり前だが少数派だ。下手すりゃ数の暴力で圧殺されちまう。
多分カンバーバッジも、ファスベンダーも、最後に出てきたさすらいのブラピ(こいつ一度ひょうひょうと主人公を裏切るのがおもろいw)も、奴隷制の異常さ自体には気づいてはいるんだよね。
気づいているけど、どうにもならないって手を打たない。打ったところで今の時代じゃ絶対に変わらないって事を知っているから。
それを現代の私たちは糾弾できるのか?日本の労働環境は割とシビアで「SUSHI」みたいなノリで「KAROUSHI」なんて言葉が世界に逆輸入されているらしい。
だいたい労働基準法に週40時間までの労働とかはっきり書いてあるのに、みんな絶対守ってないじゃん。雇用の流動化かなんか知らないけど、時給700円前後のバイトを週40時間やって食っていけると思っているのだろうか。
みんなが法律を堂々と破っているこの異常な状況に、私たちは誰も声を上げない。上げたところで絶対変わらないと思っているから。
他にも学校のいじめだってそうだろう。現場経験のない教育学者がさも得意げに「あんなもんは学級制を廃止したらすぐなくなる」とか言っているけれど、問題の質はこの議論と全く一緒だ。
したがって現在だって、未来の人が見たら「なんでこんな非人道的な社会をこいつらは容認し続けたんだろう?21世紀の人間ってバカじゃね?ワロスワロス」とか言われるわけだ。
他の時代や他の国の人を批判するのは簡単だ。だが、いざ自分自身の置かれている状況も同じように批判できるのだろうか。私はできない。だから他の時代や他の国の人の境遇に、できるだけ共感をするようにしたい。
幸せというのは、自分の身に降りかかる不幸をどう受け入れられるかによって大きく変わるのかもしれない。
一度も不幸に遭遇しない人なんて皆無だ。不幸はかわせないし、人に代わりに押し付けることはできない。その究極的なものをハイデッガーは自分の死だとしたわけだ。死や不幸は他人事じゃない。つーか他人事にできない。
ネットは幸せ者が不幸な人をさらに不幸にするだって?それは物事を一面的にしか見てないよ。
幸せ者(リア充)が永久不変に幸せだと思っているのだろうか。
長いモラトリアムの終わり
2014-03-04 22:49:51 (10 years ago)
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- 雑記
3月5日は『怪盗グルーのミニオン危機一発』のDVD発売日!そして私の30回目の誕生日でもあるのです。や~ここ数年「もう20代も終わりか~」とか言ってきたけど、今日でとうとうほんとに20代終了!ガビーン。現実にいざやってくると地味にくるな(^_^;)
具体的になにによってショック受けているかはわからないんだけど、ひとつは「長いモラトリアム期間が終わっちゃったな」という実感だろうか。そう言うと、お前いつまでモラトリアムやってるつもりだったんだよって突っ込まれちゃいそうだけど、こんな複雑化した世の中でバランスよく精神的自立を図っていくのって、かなり時間を割かなきゃ難しくないかっていうのが私の言い訳ね。
もちろん、そういった言い訳が通用するような恵まれた環境だったっていうのはあって、だから、20代は勢い任せに色々チャレンジして楽しんだ10代とは違って、くすぶり続けて終わったような印象はあったものの、やっぱ幸せな10年間だったんだろうな。
あとね、振り返るとやっぱり20代はあっという間じゃなかったよwちゃんと10年分あったよw10年分の長さだった(バカっぽい表現)。もう20代終わりか~ってしみじみ考えだしてから、けっこうあったからねw時間的にwあれ?まだ20代かって。
で、とにもかくにもモラトリアムは終わったのです。それはどういうことかというと20代って言うとまだ若造扱いされるじゃん。でも30代の人を見て世間の人はもう「子ども」だとは絶対思わないわけで。だれがどう見ても30歳は「大人」なわけで。大人として見られる以上は大人として振舞わないとねって。
あと10代の終わり、大学に入りたての頃、私はすっごい尖っていて、その当時の30代の子どもっぽさをすごい批判してたわけです。
もちろんすべての30代がそうだとは思わなかったけれど、ポスト団塊ジュニアはロストジェネレーションって言われているくらいで、その、貧乏くじひいちゃった世代だというのはわかるけど、後発世代としては「この人たち大人なのになんでこんなみっともないんだ?」ってイライラしていた。
30代の「自分さえ良ければ主義」「屁理屈ポストモダン」「自分の境遇を人のせい時代のせいにする責任転嫁」・・・こういう部分が私はすっごいイヤで、こういう大人にだけはならないようにしようと思っていた。
だいたい、30代が団塊の世代をなんと批判しようと、下の世代からしてみれば「大人同士のみっともない争い」にしか見えないの。「大人が悪いんだ!」って言う大人ほどカッコ悪いものはないんだよ。
そういう部分を子どもや若者世代に見せる教育的影響って、意識するしないに関わらず大きいからね。大人はどんな人であれ、子どもたちの規範、ロールモデルとして見られちゃうわけ。
で、いよいよ批判する側から下の世代に批判される側になったなって。20代はそう言う意味で、そんな30代にならないようにいろいろもがいた期間だったようにも思える。
口では何とでも言えるからね。例えばセクハラやパワハラを批判するなら、現実に実際そういうことをしている大人にちゃんと勇気を出して、リスク覚悟で言えるのかという。
そういう理屈と行動をなんとか一致させるように、その落としどころを20代は必死に探していたように思える。
自分で言うのもなんだけど、私って想像力だけは人よりも少しはあると思っていて「いくら正しいとは言え、ここまで言っていいのかな、じゃあもし自分が現実でこういう状況になったら、本当に自分はできるのかな?・・・できないな、じゃあ言うのやめよう」みたいな打算じゃないけど、内言を一度してから発言しているようにしているんだ。
そのプロセスを経てもなお、絶対にこれは人として見過ごしちゃいけない、考えなきゃいけないっていうのだけ発言しているわけで、それでもやっぱり、頭で考えるのと実際に行動するのでは大違いってことなんだ。
だから、映画にしろ漫画にしろ、20代は特に自分の現実的な行動規範になりうるような作品に惹かれていた。よく正義の味方が超人的な力で悪党どもをぶっ殺すのあるけれど、まあ、そういうの小さい頃から嫌いだったけど、あんなこと現実ではできないからね。やったら連続猟奇殺人犯だしねw
やなせたかしさんが言うように、正義をなすということは絶対に自分が傷つくということなんだよね。そういった覚悟をどこまで自分がしているのだろうかっていうことだよね。
そう言う意味で20代のしょっぱなで難病になったっていうのはよかったのかもしれない。人の苦しみがよりわかるようになった・・・気がするw
ぶっちゃけ生きているだけで幸せだからね。ロシアのジャーナリストじゃあるまいし、この平和な世の中、正しいことをして殺されちゃうってことはそうそうない。
せいぜい、仕事を失うくらいなもので、もう仕事を首になるくらい私が倫理規範を逸脱したなら、それはちゃんと責任を取って反省するべきだし、解雇した側があまりに不条理ならば頭脳を使って言論で戦っていけばいい。
それに、遅かれ早かれ人は死ぬんだ。どうせ死ぬなら、少しは人や社会のために生きて死にたいもんね。自分のためにしか生きれない人ほど不幸なものはないと思う。
でも私、すごいエゴイストだけどね。自分の自由のために他人や社会のこと考えているところあるし。それは別に悪いことじゃないと思うんだよ。
人はほかの人の集団からは死ぬまで逃れられないからね。同じ船に乗っちゃってるからね。そう言う意味じゃ今現在、社会の先生の勉強をしているっていうのも、なんか必然なのかもね。
みんなさ、自由主義とエゴイズムを極めてないよ。自分勝手に生きるならそれをとことん突き詰めてみろって、コミュタリアンになるからw
自分の利益を最大化するためにも社会をよくしなきゃいけないの。
とにもかくにも、あと1時間で30歳!30代は何があるのかな。どういうことを考え、どういう成長をするのだろうか。というか途中で死んじゃわないようにだけはしないとな。
なんか最近、生徒とかにも言われるんだよ。早死しそうってw冗談じゃないよね。オレなんかが死んだらそれこそ世界の損失だよ。自分で言うなって?誕生日くらいいいじゃんw
具体的になにによってショック受けているかはわからないんだけど、ひとつは「長いモラトリアム期間が終わっちゃったな」という実感だろうか。そう言うと、お前いつまでモラトリアムやってるつもりだったんだよって突っ込まれちゃいそうだけど、こんな複雑化した世の中でバランスよく精神的自立を図っていくのって、かなり時間を割かなきゃ難しくないかっていうのが私の言い訳ね。
もちろん、そういった言い訳が通用するような恵まれた環境だったっていうのはあって、だから、20代は勢い任せに色々チャレンジして楽しんだ10代とは違って、くすぶり続けて終わったような印象はあったものの、やっぱ幸せな10年間だったんだろうな。
あとね、振り返るとやっぱり20代はあっという間じゃなかったよwちゃんと10年分あったよw10年分の長さだった(バカっぽい表現)。もう20代終わりか~ってしみじみ考えだしてから、けっこうあったからねw時間的にwあれ?まだ20代かって。
で、とにもかくにもモラトリアムは終わったのです。それはどういうことかというと20代って言うとまだ若造扱いされるじゃん。でも30代の人を見て世間の人はもう「子ども」だとは絶対思わないわけで。だれがどう見ても30歳は「大人」なわけで。大人として見られる以上は大人として振舞わないとねって。
あと10代の終わり、大学に入りたての頃、私はすっごい尖っていて、その当時の30代の子どもっぽさをすごい批判してたわけです。
もちろんすべての30代がそうだとは思わなかったけれど、ポスト団塊ジュニアはロストジェネレーションって言われているくらいで、その、貧乏くじひいちゃった世代だというのはわかるけど、後発世代としては「この人たち大人なのになんでこんなみっともないんだ?」ってイライラしていた。
30代の「自分さえ良ければ主義」「屁理屈ポストモダン」「自分の境遇を人のせい時代のせいにする責任転嫁」・・・こういう部分が私はすっごいイヤで、こういう大人にだけはならないようにしようと思っていた。
だいたい、30代が団塊の世代をなんと批判しようと、下の世代からしてみれば「大人同士のみっともない争い」にしか見えないの。「大人が悪いんだ!」って言う大人ほどカッコ悪いものはないんだよ。
そういう部分を子どもや若者世代に見せる教育的影響って、意識するしないに関わらず大きいからね。大人はどんな人であれ、子どもたちの規範、ロールモデルとして見られちゃうわけ。
で、いよいよ批判する側から下の世代に批判される側になったなって。20代はそう言う意味で、そんな30代にならないようにいろいろもがいた期間だったようにも思える。
口では何とでも言えるからね。例えばセクハラやパワハラを批判するなら、現実に実際そういうことをしている大人にちゃんと勇気を出して、リスク覚悟で言えるのかという。
そういう理屈と行動をなんとか一致させるように、その落としどころを20代は必死に探していたように思える。
自分で言うのもなんだけど、私って想像力だけは人よりも少しはあると思っていて「いくら正しいとは言え、ここまで言っていいのかな、じゃあもし自分が現実でこういう状況になったら、本当に自分はできるのかな?・・・できないな、じゃあ言うのやめよう」みたいな打算じゃないけど、内言を一度してから発言しているようにしているんだ。
そのプロセスを経てもなお、絶対にこれは人として見過ごしちゃいけない、考えなきゃいけないっていうのだけ発言しているわけで、それでもやっぱり、頭で考えるのと実際に行動するのでは大違いってことなんだ。
だから、映画にしろ漫画にしろ、20代は特に自分の現実的な行動規範になりうるような作品に惹かれていた。よく正義の味方が超人的な力で悪党どもをぶっ殺すのあるけれど、まあ、そういうの小さい頃から嫌いだったけど、あんなこと現実ではできないからね。やったら連続猟奇殺人犯だしねw
やなせたかしさんが言うように、正義をなすということは絶対に自分が傷つくということなんだよね。そういった覚悟をどこまで自分がしているのだろうかっていうことだよね。
そう言う意味で20代のしょっぱなで難病になったっていうのはよかったのかもしれない。人の苦しみがよりわかるようになった・・・気がするw
ぶっちゃけ生きているだけで幸せだからね。ロシアのジャーナリストじゃあるまいし、この平和な世の中、正しいことをして殺されちゃうってことはそうそうない。
せいぜい、仕事を失うくらいなもので、もう仕事を首になるくらい私が倫理規範を逸脱したなら、それはちゃんと責任を取って反省するべきだし、解雇した側があまりに不条理ならば頭脳を使って言論で戦っていけばいい。
それに、遅かれ早かれ人は死ぬんだ。どうせ死ぬなら、少しは人や社会のために生きて死にたいもんね。自分のためにしか生きれない人ほど不幸なものはないと思う。
でも私、すごいエゴイストだけどね。自分の自由のために他人や社会のこと考えているところあるし。それは別に悪いことじゃないと思うんだよ。
人はほかの人の集団からは死ぬまで逃れられないからね。同じ船に乗っちゃってるからね。そう言う意味じゃ今現在、社会の先生の勉強をしているっていうのも、なんか必然なのかもね。
みんなさ、自由主義とエゴイズムを極めてないよ。自分勝手に生きるならそれをとことん突き詰めてみろって、コミュタリアンになるからw
自分の利益を最大化するためにも社会をよくしなきゃいけないの。
とにもかくにも、あと1時間で30歳!30代は何があるのかな。どういうことを考え、どういう成長をするのだろうか。というか途中で死んじゃわないようにだけはしないとな。
なんか最近、生徒とかにも言われるんだよ。早死しそうってw冗談じゃないよね。オレなんかが死んだらそれこそ世界の損失だよ。自分で言うなって?誕生日くらいいいじゃんw
大統領の執事の涙
2014-02-22 23:32:59 (10 years ago)
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カテゴリタグ:
- 映画
「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」
お前の持つすべてはその執事が与えたの。
や~っと観れた!こんなに公開日が楽しみだった映画は『ミニオン危機一発』以来だったんですが、ここんところの前代未聞の大雪でおあずけ食らってて、このままズルズル引き伸ばすと上映終了しちゃいそうだったので、ちょっと遠い初めて行く映画館までドライブして見ました。
で案の定、道がよくわからずギリギリアウトで、着いたらセシルのお父さん死んでた(^_^;)なんでもご主人様に奥さんレイプされて、その抗議に行ったら射殺されちゃったらしい。
つまり主人公セシルのその後の生き方にすごい影響を与えるトラウマ的経験だったわけで、そこを逃したのは痛かったかな。まあ、でもおそらくDVD買いそうな気がするからよし。
アイゼンハワー~オバマさんまで歴代閣下全員集合かと思ったら、実はそうではなかった。でもアメリカの歴史としてはなかなかいい教材にはなると思う。
ジョンソンとレーガン(※似てる)はどっちもポピュリズム政治家として有名だけど、この二人が一番キャラが立っていたというか、人間くさく葛藤してた(^_^;)
つまり大衆人気で大統領になっちゃったタイプの方が、グラウンドデザインを描けなかったり、大衆に迎合する癖がぬけずに強いリーダーシップが発揮できないってことなのかなあ。
でもジョンソン大統領は、黒人問題に対してアファーマティブアクションを起こした人だよね。機会の平等じゃなくて結果の平等を保障しなきゃダメだって。
また、元軍人で悲惨な戦場を実際に経験したアイゼンハワー大統領が軍産複合体を批判し続けたっていうのは教訓にしたほうがいいかもしれない。ちなみにロビン・ウィリアムズさんがやってます。油絵描いてます。
さて、今日の昼間も考えたことだけど「弱者」とは一体なんなんだろう。社会を変えようと戦った、彼ら黒人は弱者だったのか。
私『スイミー』の見過ぎで、ずっと弱者=多数派、強者=少数派で、弱者が団結して数の力で強大な敵をやっつけるという市民革命モデルがインプリンティングされてたんだけど、最近はどうもそうじゃないぞって思ってるんだ。
あの映画の黒人は不当に抑圧されただけで決して弱者じゃないぞ。強者だぞって。勇気がなきゃ公民権運動なんてやれないぞって。
これは社会学でも度々議論されることで、つまりキング牧師や確執があった息子のルイスくんみたいに、自分たちの未来のために自分は死んじゃってもいいっていう行動は、果たして合理的戦略と言えるのだろうかっていうやつで。で、そこまで覚悟決めて行動ができる人は、やっぱり弱者・・・ではないよなあって。
逆に、恐怖に支配されちゃっているかわいそうな弱者は、KKKとか南部のレイシストとかなんだよね。誰よりも繊細で傷つきやすく弱いから、そのフラストレーションを攻撃性に転化させる。
これは恐ろしいことで、ミルグラムっていう学者がイェール大学で行った実験によると、人は誰でも周囲の環境によって簡単にサディストに転向しちゃうらしいんだ。
被験者集団の誰か一人に先生役をやらせて、生徒役の人たちに電流を流すスイッチを渡す。で、生徒役の人が問題に間違うとバツゲームとして先生から電流を流されるというブラック金八先生ごっこ的なロールプレイをやらせると、どんなにリベラルで「暴力反対!」とか言っている人でもブラック金八をやったら、最終的に『ぷっ』すまの草彅くんみたいに嬉々としてみんなに電流流しているらしいんだ。(※ただ草彅くんは自分にも電気を流す。謎。)
その人の信条や政治文化よりも、その場の環境の影響力が想像以上に強いわけだ。だからこそそういう状況に陥らないように、意志の弱い私たちは社会のことを考えないといけない。
闇は闇を追い払えない。
そしてそのためには、クリエイターはこういう作品を作り続けて、みんなに啓蒙し続けなきゃいけないんだよね。
日本の漫画やアニメといった大衆文化も素晴らしいと思うけど、エロとかグロとかあまりに煽情的な作品ばかりで、こういう人間の恐ろしい部分をメタ認識させてブレーキをかけるような作品がもっとあってもいいと思うんだよな。
こればっかりは市場の原理とは相容れないところだよ。なんでも売上で還元できるなら、なんでネオリべのやり方で、こんなにみんなが不安でウジウジしているかの説明がつかないし。
つまり、深刻な人種差別があったアメリカだからこそ、去年の『42~世界を変えた男~』といいコンスタントに黒人差別を題材にした映画を作り続けているんだろう。
こういうレイシズムを取り上げたお話が、日本ではなんとなく自主規制になりそうなのが表現者の端くれとして心苦しい。
在日朝鮮や韓国の人が日本人にいじめられて、でも最終的にそう言う人が日本で総理大臣になったよ、めでたしめでたしみたいな作品を作ったら「非国民」とか言われて社会的に抹殺されそうなのが今の日本。
とどのつまり、弱者の弱者たる所以は団結できないこと(=自分と同じ境遇の人に手を差し伸べる余裕すらないこと)なんじゃないかって、この映画でつくづく思った次第であります。
そして、そこまで追い込まれちゃった人って、実は社会の多数派ではないような気もしている。
ここは私がリアルスイミーを描くしかないのだろうか・・・
セシル二つの顔を持て。本当の顔と白人に見せる顔だ。
お前の持つすべてはその執事が与えたの。
や~っと観れた!こんなに公開日が楽しみだった映画は『ミニオン危機一発』以来だったんですが、ここんところの前代未聞の大雪でおあずけ食らってて、このままズルズル引き伸ばすと上映終了しちゃいそうだったので、ちょっと遠い初めて行く映画館までドライブして見ました。
で案の定、道がよくわからずギリギリアウトで、着いたらセシルのお父さん死んでた(^_^;)なんでもご主人様に奥さんレイプされて、その抗議に行ったら射殺されちゃったらしい。
つまり主人公セシルのその後の生き方にすごい影響を与えるトラウマ的経験だったわけで、そこを逃したのは痛かったかな。まあ、でもおそらくDVD買いそうな気がするからよし。
アイゼンハワー~オバマさんまで歴代閣下全員集合かと思ったら、実はそうではなかった。でもアメリカの歴史としてはなかなかいい教材にはなると思う。
ジョンソンとレーガン(※似てる)はどっちもポピュリズム政治家として有名だけど、この二人が一番キャラが立っていたというか、人間くさく葛藤してた(^_^;)
つまり大衆人気で大統領になっちゃったタイプの方が、グラウンドデザインを描けなかったり、大衆に迎合する癖がぬけずに強いリーダーシップが発揮できないってことなのかなあ。
でもジョンソン大統領は、黒人問題に対してアファーマティブアクションを起こした人だよね。機会の平等じゃなくて結果の平等を保障しなきゃダメだって。
また、元軍人で悲惨な戦場を実際に経験したアイゼンハワー大統領が軍産複合体を批判し続けたっていうのは教訓にしたほうがいいかもしれない。ちなみにロビン・ウィリアムズさんがやってます。油絵描いてます。
さて、今日の昼間も考えたことだけど「弱者」とは一体なんなんだろう。社会を変えようと戦った、彼ら黒人は弱者だったのか。
私『スイミー』の見過ぎで、ずっと弱者=多数派、強者=少数派で、弱者が団結して数の力で強大な敵をやっつけるという市民革命モデルがインプリンティングされてたんだけど、最近はどうもそうじゃないぞって思ってるんだ。
あの映画の黒人は不当に抑圧されただけで決して弱者じゃないぞ。強者だぞって。勇気がなきゃ公民権運動なんてやれないぞって。
これは社会学でも度々議論されることで、つまりキング牧師や確執があった息子のルイスくんみたいに、自分たちの未来のために自分は死んじゃってもいいっていう行動は、果たして合理的戦略と言えるのだろうかっていうやつで。で、そこまで覚悟決めて行動ができる人は、やっぱり弱者・・・ではないよなあって。
逆に、恐怖に支配されちゃっているかわいそうな弱者は、KKKとか南部のレイシストとかなんだよね。誰よりも繊細で傷つきやすく弱いから、そのフラストレーションを攻撃性に転化させる。
これは恐ろしいことで、ミルグラムっていう学者がイェール大学で行った実験によると、人は誰でも周囲の環境によって簡単にサディストに転向しちゃうらしいんだ。
被験者集団の誰か一人に先生役をやらせて、生徒役の人たちに電流を流すスイッチを渡す。で、生徒役の人が問題に間違うとバツゲームとして先生から電流を流されるというブラック金八先生ごっこ的なロールプレイをやらせると、どんなにリベラルで「暴力反対!」とか言っている人でもブラック金八をやったら、最終的に『ぷっ』すまの草彅くんみたいに嬉々としてみんなに電流流しているらしいんだ。(※ただ草彅くんは自分にも電気を流す。謎。)
その人の信条や政治文化よりも、その場の環境の影響力が想像以上に強いわけだ。だからこそそういう状況に陥らないように、意志の弱い私たちは社会のことを考えないといけない。
闇は闇を追い払えない。
そしてそのためには、クリエイターはこういう作品を作り続けて、みんなに啓蒙し続けなきゃいけないんだよね。
日本の漫画やアニメといった大衆文化も素晴らしいと思うけど、エロとかグロとかあまりに煽情的な作品ばかりで、こういう人間の恐ろしい部分をメタ認識させてブレーキをかけるような作品がもっとあってもいいと思うんだよな。
こればっかりは市場の原理とは相容れないところだよ。なんでも売上で還元できるなら、なんでネオリべのやり方で、こんなにみんなが不安でウジウジしているかの説明がつかないし。
つまり、深刻な人種差別があったアメリカだからこそ、去年の『42~世界を変えた男~』といいコンスタントに黒人差別を題材にした映画を作り続けているんだろう。
こういうレイシズムを取り上げたお話が、日本ではなんとなく自主規制になりそうなのが表現者の端くれとして心苦しい。
在日朝鮮や韓国の人が日本人にいじめられて、でも最終的にそう言う人が日本で総理大臣になったよ、めでたしめでたしみたいな作品を作ったら「非国民」とか言われて社会的に抹殺されそうなのが今の日本。
とどのつまり、弱者の弱者たる所以は団結できないこと(=自分と同じ境遇の人に手を差し伸べる余裕すらないこと)なんじゃないかって、この映画でつくづく思った次第であります。
そして、そこまで追い込まれちゃった人って、実は社会の多数派ではないような気もしている。
ここは私がリアルスイミーを描くしかないのだろうか・・・
セシル二つの顔を持て。本当の顔と白人に見せる顔だ。
漫画と小説の違い
2014-02-19 23:13:28 (10 years ago)
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カテゴリタグ:
- 漫画
ひさびさに、社会の勉強と関係のない記事いやっほう。そう、終わったのです、『80日間宇宙一周』小説版の第3章ギャラクシーミネルヴァが。
いや~~~長かった~~~~!!
なんでこんなに時間がかかったんだか自分でもわからん。いや、イマイチ気分がのらなかったり、スランプに陥って途中で中断していたなら、時間がかかったってのは分かるんですが、謎なのは、ほとんど毎日サボらずにちびちび進めていたんですよ。なのにこんなにかかってしまった。
信じられない、だって第1章なんて5日で書いちゃったからね。私のバーストモードはてんで持続性がないやね。
ホント、なんでこんなにかかったんだろう。言い回しのネタがなくなってきたのか・・・というかたけしさんも言ってたけど、小説って地の文がめんどくさいというか、その部分をどれだけセンス良く組んでいけるかだよね。
映画や漫画の脚本では画で見せちゃう部分も、小説では全部言語化しなきゃいけないわけで、だんだん限界を感じてくるというか、絵で見せたほうが早いだろというかw
だからこそライトノベルなんかは挿絵を豊富に入れてて、つーかもはや挿絵で売れ行きが決まっているような気もするけどオレたち小説書きとしてはあんまり挿絵に頼るのも活字の敗北というか・・・悔しいじゃない。※いつからオレは活字の味方に・・・
しかし、小説って漫画に比べて絵がない分描写をファジーにできるのが面白そう(=楽そう)だなあって思っていたんですが、冗談じゃない。
書いててわかったけど、小説の方が言葉だけで伝える分、すごい直接的で読者の想像の幅を確定させちゃうんだよね。
言葉の力ってなんというか・・・制御が難しい。SNSが度々揉めるのが分かるわ。ソシュール的に言うならば、言語っていうのは「表情的意味」が全くない。
例えば、今回の第3章を今朝読み返してみたんだ。誤字とか絶対あるから。というかあったから。そしたら、「え?この話ってこんなに哀しい話だっけ??」ってゾッとしちゃった。
これを初見で読んだ人絶対うつになるだろって。
小池一夫先生はツイッターで、優れたクリエイターは読者に日常の嫌な部分を忘れさせることができるとか言ってたけど、これじゃあ読者は日常の嫌な部分を思い出すぜって。
私がアイドルマスターやると、こうなるっていうねwこれこそ美少女とミリタリーの本当のコラボだぜって。
で、結局漫画の脚本として書いていた時は、自分の頭の中に漫画の絵のイメージがあったんだよね。本来ならシリアスで悲しいシーンとかでも、絵の描き方でいくらでもコミカルにできるじゃん。
石森章太郎先生の『サイボーグ009』が内容は深刻な割に、あの可愛い画風で助けられたように(この前の映画版は助かんなかったけど)。
だから私も、かなり絵で助けられていたんだなあって。絵を引きはがすと、自分の作品ってこんなにおぞましい内容だったんだって・・・
それに、漫画ではキャラの内面って表情を描けばなんとなくファジーに出来るじゃないですか。あれ?この人はなんでこういう表情をしたんだろう?何を考えているんだろう?みたいな、リアルなライブ感が漫画にはあるけど、小説ではパーソナリティの壁がぶち破れちゃうんだよね。これってリアルじゃ絶対ありえないからね。
まるでテレパシーみたいに、みんなのモノローグが筒抜けで、活字で「彼女はこう思った」って説明できちゃうから、読者の方は「ああそうでござんすか」としか言えないしね。
したがって、すごい悲しいシーンとかは、キャラのすごい悲しい感情が絵というオブラートなしで読者に直接突き刺さってしまうのが辛い。
とにかく、意外と解釈の幅が漫画よりも限定されちゃうんだって言うのは勉強になった。
漫画と小説の違いをまとめると以下の通り。
視覚的描写 漫画:限定 小説:曖昧
心情的描写 漫画:曖昧 小説:限定
没入感 漫画:肉体的 小説:精神的
まあ、なんにせよ小説の方は折り返しに差し掛かり、連載のストックもおそらく数ヶ月分は出来たから、私は古巣の漫画に戻ることにします。
やっぱ、あんたはマイルドでいいよ。読み返すのも楽だし(※これが意外と大切)。ただ、とにかく作業の工数が多い!
いや~~~長かった~~~~!!
なんでこんなに時間がかかったんだか自分でもわからん。いや、イマイチ気分がのらなかったり、スランプに陥って途中で中断していたなら、時間がかかったってのは分かるんですが、謎なのは、ほとんど毎日サボらずにちびちび進めていたんですよ。なのにこんなにかかってしまった。
信じられない、だって第1章なんて5日で書いちゃったからね。私のバーストモードはてんで持続性がないやね。
ホント、なんでこんなにかかったんだろう。言い回しのネタがなくなってきたのか・・・というかたけしさんも言ってたけど、小説って地の文がめんどくさいというか、その部分をどれだけセンス良く組んでいけるかだよね。
映画や漫画の脚本では画で見せちゃう部分も、小説では全部言語化しなきゃいけないわけで、だんだん限界を感じてくるというか、絵で見せたほうが早いだろというかw
だからこそライトノベルなんかは挿絵を豊富に入れてて、つーかもはや挿絵で売れ行きが決まっているような気もするけどオレたち小説書きとしてはあんまり挿絵に頼るのも活字の敗北というか・・・悔しいじゃない。※いつからオレは活字の味方に・・・
しかし、小説って漫画に比べて絵がない分描写をファジーにできるのが面白そう(=楽そう)だなあって思っていたんですが、冗談じゃない。
書いててわかったけど、小説の方が言葉だけで伝える分、すごい直接的で読者の想像の幅を確定させちゃうんだよね。
言葉の力ってなんというか・・・制御が難しい。SNSが度々揉めるのが分かるわ。ソシュール的に言うならば、言語っていうのは「表情的意味」が全くない。
例えば、今回の第3章を今朝読み返してみたんだ。誤字とか絶対あるから。というかあったから。そしたら、「え?この話ってこんなに哀しい話だっけ??」ってゾッとしちゃった。
これを初見で読んだ人絶対うつになるだろって。
小池一夫先生はツイッターで、優れたクリエイターは読者に日常の嫌な部分を忘れさせることができるとか言ってたけど、これじゃあ読者は日常の嫌な部分を思い出すぜって。
私がアイドルマスターやると、こうなるっていうねwこれこそ美少女とミリタリーの本当のコラボだぜって。
で、結局漫画の脚本として書いていた時は、自分の頭の中に漫画の絵のイメージがあったんだよね。本来ならシリアスで悲しいシーンとかでも、絵の描き方でいくらでもコミカルにできるじゃん。
石森章太郎先生の『サイボーグ009』が内容は深刻な割に、あの可愛い画風で助けられたように(この前の映画版は助かんなかったけど)。
だから私も、かなり絵で助けられていたんだなあって。絵を引きはがすと、自分の作品ってこんなにおぞましい内容だったんだって・・・
それに、漫画ではキャラの内面って表情を描けばなんとなくファジーに出来るじゃないですか。あれ?この人はなんでこういう表情をしたんだろう?何を考えているんだろう?みたいな、リアルなライブ感が漫画にはあるけど、小説ではパーソナリティの壁がぶち破れちゃうんだよね。これってリアルじゃ絶対ありえないからね。
まるでテレパシーみたいに、みんなのモノローグが筒抜けで、活字で「彼女はこう思った」って説明できちゃうから、読者の方は「ああそうでござんすか」としか言えないしね。
したがって、すごい悲しいシーンとかは、キャラのすごい悲しい感情が絵というオブラートなしで読者に直接突き刺さってしまうのが辛い。
とにかく、意外と解釈の幅が漫画よりも限定されちゃうんだって言うのは勉強になった。
漫画と小説の違いをまとめると以下の通り。
視覚的描写 漫画:限定 小説:曖昧
心情的描写 漫画:曖昧 小説:限定
没入感 漫画:肉体的 小説:精神的
まあ、なんにせよ小説の方は折り返しに差し掛かり、連載のストックもおそらく数ヶ月分は出来たから、私は古巣の漫画に戻ることにします。
やっぱ、あんたはマイルドでいいよ。読み返すのも楽だし(※これが意外と大切)。ただ、とにかく作業の工数が多い!
政治学覚え書き⑬(選挙制度と投票行動)
2014-02-09 16:58:03 (10 years ago)
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- 政治
なんか急に40年ぶりとかいう大雪が降って、見事に体調が悪いんですが(エンドレス鼻水)、今日は東京都知事選の投票日ってことで、選挙をまとめるのにこれ以上の機会はないってことで、頑張ります。
マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム~マネーは踊る~』では(もう何回観たんだろうか)、資本主義が民主主義と対立する概念だと描かれていた。これに町山さんをはじめ、多くのにわか社会派評論家は突っついた。
つまり、資本主義はひとつの経済の仕組みであって、政治形態である民主主義の対立概念にはならないということだ。もちろん私もそうだと思ってたから「むむ?」(C)川平慈英って思ったんだけど、実を言うとムーア監督はこれを意図的にやってたどころか、政治経済の歴史をしっかり勉強すれば、この対立モデルは正しいことがわかった。
つまり知ったかぶりをして恥をかいたのは町山と私だったのだ。
どういうことか説明しよう。作中ムーア監督はしきりに「資本主義とは自由競争制」という定義を強調していた。つまり資本主義とは自由主義に基づく経済システムであることが分かる。
そして、歴史を振り返るに、この自由主義と民主主義は対立概念であった時代があるのだ!今では当然のようにセットで語られることが多い、自由主義と民主主義。
では、この二つは何が異なり、どういった事情で戦っていたのか。まずはそこから。
自由主義と身分制議会
古代のギリシャやローマで行われていたデモクラティアと、近代以降のデモクラシーには大きな違いがある。前者は限られた人口と有権者(女性と奴隷、外国人に投票権なし)による直接民主制であったのに対して、後者では国家の規模が大きいため代表制民主主義にならざるを得ない。
そもそも、この代表制の起源は中世~近世の、厳しい制限選挙によって議員が選出される身分制議会であり、特にこの機能が拡大したのがイングランドで、議会が最高立法機関になった。
したがって、議会に自分の代表を送ることができたのは、たくさん税金を納めているような金持ち(貴族や平民の財産所有者)だけで、言ってみれば財産を持つ者こそが自由人にふさわしい経済的、精神的独立を維持し、健全な政治的判断ができるということで、制限選挙が正当化されていたのだ。
18世紀にバークが提唱した国民代表の観念(政治家は自分に投票してくれた人の召使ではなく、優れた政治的判断力はまずもって国家全体の利益のために使われるべきだという考え)、このようなエリート支配を支えるものになった。
こういった考え方は、すでに古代ギリシャからあって、プラトンは「民主制とは貧しく無知な民衆とそれを操る扇動者による堕落した形態」であると認識していた。そもそもデモクラティアとは衆愚政治のことだし。
よって経済的に自立した自由人が行う政治体制が自由主義的な代議制ならば、それはすぐに民主主義と結びつくものでなかったことが言える。
民主主義と人民主権論
近代で民主主義的な思想が復活したのは、16世紀の宗教戦争で「神の前では一切の人間は平等」というイエスの教えをリアルな社会にまで適用しようとプロテスタントが主張したからだ。
ユグノー(新教徒)急進派は、カトリック支配への武力抵抗を呼びかけるために、人民こそが政治的権威の究極的な源という人民主権論を展開、ピューリタン革命でもっともラディカルな思想を持った水平派は、この考えを下に国王なんてなくして、男子普通選挙法を実施しろと要求をした。
このような議論は、宗教戦争の混乱が終わると、それと一緒に収束してしまうが、18世紀に入り、この考え方を制度論的にしっかりと考えたのがルソーだった。
ルソーは古代ギリシャの直接民主制といった古典的な民主主義に影響を受けていて、この考え方はアメリカの独立やフランス革命の原動力となったが、革命後の体制はルソーの言うような直接民主制ではなく、制限選挙による代表制を採用した。
それくらい民主主義は急進的だったのである。
エリートVS大衆
結局、カトリック教会や絶対王政、身分制という共通の敵を倒すために、自由主義と民主主義はそれぞれ独立して戦ったのだが、自由主義(エリート支配)は民主主義に、民主主義は自由主義にそれぞれ脅威を感じるようになった。
19世紀になり産業革命とそれに伴う労働者の増加は、選挙権拡大運動へとつながり、さらに私有財産権すら廃止しろという社会主義思想が加わることになった。
民主主義化された社会に警鐘を鳴らしたのがトクヴィルで、民主主義は、多数派が数の論理で少数派の権利を踏みにじる多数の暴政をもたらす危険性があるとした。
さらに、平等な社会とその画一化は、社会から孤立し、私的な世界に閉じこもる自己中心的な個人を生み、そのような個人は簡単に多数派の意向に同調、利益誘導でちょちょいと人間の自由を抑圧する穏和な専制ができてしまうと考えた。
とはいえトクヴィルによれば、民主主義の発展は歴史の必然、不可抗力なのだという。
さて、こんな感じで始まった民主主義だったが、新たに選挙権を得た労働者階級が、一部の論者が恐れていたほどのラディカルな改革を求めず、既存の自由主義的体制の範疇で行動することが判明(※)、ここでやっと自由主義と民主主義は合体した。
※:この前読んだオルテガの『大衆の反逆』でまさにそういった部分があったのだが、紛失してしまった!
その後、参政権は女性や異なる人種に拡大され、エリートVS大衆というわかりやすい二元的モデルはダールのポリアーキー論(少数のエリートではなく複数の少数集団によって政治が行われているという考え方)などによって棄却されるに至った。
つまり、多元的民主主義という時代が始まったわけで、異なる見解を持つ人々がどのように合意形成を図るべきか、つーか図れるのかはいまだに議論がある。
ロウィは『自由主義の終焉』で、多元主義の実態は、利益集団間のインフォーマルな交渉で政治的決定が行われる利益集団民主主義だと批判した。
こういった多元的民主主義を打破する、ひとつのアイディアとして国民投票を積極的に導入したり、地方自治体、職場、学校にも民主主義システムを入れるという参加型民主主義という考え方がある。
これにより、みんなが偏狭な自己中心性から脱して、公民的資質を持つ成熟した存在に成長していけばいいんだよ、と考えたのが、ハンナ・アーレント(労働レイバー、仕事ワーク、活動アクションの三段論法)をはじめとする思想家だ。
なんにせよ、デモクラシーをどう捉え、どうやって運営していくかは未だに決着がついていない。まあ、選挙戦のゴタゴタ見てればわかるよね。
選挙制度の分類
①選挙区制②投票方式③代表制の3つの側面からそれぞれ類型化ができる。
選挙区制では選挙区の定数が一人の小選挙区、定数が複数の大選挙区(実態では10~20)、大選挙区の一種で定数が2~6の中選挙区の3つに分類できる。
次に投票方式で類型化すると、一人の候補者名を書く単記投票制と、複数の候補者名を書く連記投票制に分類できる。
前者は小選挙区制、後者は大選挙区制に対応する。
連記投票制は、選挙区の定数と同じ数の候補者名を連記する完全連記投票制と、定数よりも少ない制限連記投票制に分けられる。
ちなみに日本の中選挙区制は、単記非移譲式(単記制で落選者の票が第二希望の有権者に移譲ができない)という独特な投票方式をとっている。
最後に代表制の側面で分類すると、多数代表制と、比例代表制に分けられる。
多数代表制は相対多数制(投票数に関わらず最も多く得票した候補者が当選)と絶対多数制(過半数の投票を得ないと当選できない)に分けられる。
比例代表制は選挙区全体の議席数を各党の得票率に比例するように配分する制度で、日本ではドント方式(各党の得票数をあらかじめ1、2、3…と整数で割り、その商の大きい順に議席を割り当てていく方式)が採用されている。ちなみに商が同じになった場合はクジで決めるらしい。足利義教か(^_^;)
日本の選挙制度
日本の選挙では衆議院選挙が小選挙区比例代表並立制を実施。
全国に小選挙区が300箇所。比例区は地方ブロックごと(拘束名簿)。定員480人…だったが議員定数削減で475議席に減った。0増5減(小選挙区が5議席減った)。
ちなみに小選挙区と比例代表の両方に重複立候補ができるため、ある政党が大勝すると杉村太蔵的に泡沫候補が棚ぼた当選することもある。
参議院選挙の選挙区は都道府県ごとで議席数は選挙区によって違う(1~5人区)、比例区は全国統一である(非拘束名簿)。定員は242人…だったが2018年の自民党の強引な6増法案で248人になった。さらに特定枠という選挙運動を行わなくても拘束名簿方式で当選させることができる制度が比例区に追加された。
6増法案が通ったため、その半数の124人が3年ごとに改選される(選挙区で74人、比例区で50人)。
また、公職選挙法の改正により、2000年から外国にいる有権者が投票できる在外選挙、2003年から期日前投票制度が導入、さらに2016年から選挙年齢が18歳に引下げられた。
一票の格差問題
現在では、どの都道府県でもとりあえず一議席は与えてやろうという1人別枠方式が取られているが、都道府県によって人口のギャップがありすぎるため、例えば神奈川県の有権者の一票に対する島根県の有権者の一票の影響力が2倍以上になり、違憲状態となっている。
これを解消するために、現在取り沙汰されているのが、単純に都道府県ごとの人口をある決まった定数で割って、適切な定数を決めるというアダムズ方式だが、これだと議員定数の削減になる反面、定数ゼロの県もできてしまうため、賛否両論となっている。
ちなみにアダムズとはこれを考案したアメリカの第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズのこと。詳しくは映画『アミスタッド』を観よう。
6増法案も建前としては、この一票の格差が参議院で3倍になるのを防ぐために採決された(埼玉の選挙区を6から8に増やした)。
投票行動の分析
一般大衆が政治に参加する時代になったわけだけど、その政治的行動を分析する方法は大きく二つある。ひとつが集計データ分析で、各選挙区ごとのそれぞれの政党の得票数を調べることで、その国の政治を分析する。
もうひとつが個人レベル・データ分析で、世論調査みたいに、人々の意識をひとりひとりに質問することで、個人レベルのデータを集め、それを分析する。
最近はこっちが主流だが、それは20世紀半ばのアメリカで、有権者の投票行動を行動主義心理学的なアプローチで研究することが増えたからである(行動科学的政治学)。つまり、集計データだけでは有権者の心理学的傾向と実際の行動との結び付きが分からないのだ。
例えば、集計データ分析で「黒人が多い地域では識字率が低い。よって黒人は識字率が低い」という調査結果が出たとして、個人レベル・データ分析をしてみると、その地域で識字率を下げていたのはもっぱら白人だった、なんてこともあるのだ。
エリー調査
1940年にコロンビア大学で実施された大統領選挙における世論調査で、行動科学的政治学を大きく発展させた調査として有名。
一般的な有権者が大統領選でどの候補に投票するかは、各候補者の公約によってではなく、有権者自身の社会的、経済的地位、居住地域、宗教などの社会学的要因によって決まるというのだ。
また、有権者が誰に投票するかは、あらかじめ早い時期から決まっていて、選挙運動の影響は大して受けていないらしい。
さらにエリー調査は、一般の人々はマスメディアから直接情報を得るよりも、オピニオンリーダーから情報を得るという仮説も示した。これによれば、マスメディアによって投票を変えた人(改変効果)はわずか全体の8%だったという。
しかし50年代からテレビという幸せな箱が登場、マスメディアが有権者に与える影響はずっと大きくなっていく。
ミシガンモデル
ミシガン大学では、1948年以降、大統領選になると全国世論調査を行っているのだが、それによるとアメリカの有権者の多くは、候補者が打ち出す政策よりも、子どもの頃に家庭や地域の人に受け継いだ政治支持態度(政党帰属意識)に基づいて投票を決める場合が最も多いと言う。
さらに、政策争点で判断するよりは、各候補者の見た目やイメージで投票を決めていると言うのだ。この結果は、アメリカの有権者が近代民主主義理論が掲げた合理的有権者像とあまりにかけ離れており、あれ?もしかして衆愚政治やってない?という可能性を示唆するものになったのだ。
政治的無関心(アパシー)層
ミシガンモデルを踏まえるならば、支持政党がない人は政治にあまり関心がないのでは?ということになるのだが、日本で考えると支持政党なしの有権者(無党派層)が急激に増えるのは、自民党の55年体制が崩壊した93年頃、すなわち政局が流動的になったことに関係がありそうで、支持政党なし=政治に興味なしとは直ちに言えない状況になっている。
これは、自民党、民主党どちらの人気も衰えた2010年以降、特に顕著である。テキストによれば、政党によって候補者を決めるのは、情報コスト的にこれまで最も合理的だったが、現在はどの政党もだいたい同じことを言っていて差別化が難しくなったことが、無党派層の拡大の原因に挙げられるという。
確かに、他の政党と全く独自の公約打ち出してるの日本共産党くらいのものだわ(^_^;)
ハロルド・ラスウェル
シカゴ学派の大物政治学者ラスウェルは現代の政治的無関心(アパシー)を無政治的無関心、反政治的無関心、脱政治的無関心の3つに分類した。
①無政治的無関心:政治以外のものを優先
②反政治的無関心:宗教上の理由などで積極的に政治との関わりを避ける
③脱政治的無関心:政治に絶望し離脱
争点投票から業績投票へ
ちなみに、アメリカ本国でもミシガンモデルの批判はあって、つまり、ミシガンモデルはわりと政局が安定して穏やかな時に調査したから、そういう傾向が見られただけであって、国論が二分された60年代後半~70年代半ば(ベトナム戦争や公民権運動)で見れば、政策争点は明確化していたよ、という。
そして現在では、有権者は候補者の過去の業績に基づいて投票を判断しているという研究もある。つまり有権者が、政党や争点に基づく投票をしていなくても、合理的な行動をしている可能性があるのだ。
マスメディアの強力効果理論
言うまでもなく、現在の政治(有権者)にマスメディアが与える影響は大きい。では具体的にはどういった影響を与えているのか、いくつか紹介。
フレーミング効果
情報の送り手が報道内容をどういった枠組みで伝えるかによって、受け手の意見や態度が変わってしまうという効果。編集の仕方で同じ内容のニュースが、なんとでもなっちゃう!
プライミング効果
プライミングとは焦点報道という意味。ニュースは課題設定だけでなく、どの政治争点が重要か判断する基準の形成にも影響を与えるという効果。例えばブッシュ大統領は、911の際にテロに対して強靭な姿勢をマスコミによって流されたことで、支持率が急上昇した。
沈黙の螺旋
マスメディアが世論調査の分布を報道すると、自分の意見が少数派なんだと感じた人はどんどん沈黙し、その結果、多数派の意見がますます強く報道されてしまう現象。
涵養効果論
マスメディアが与える影響は短期的ではなく、長期的なものであるという理論。
長期にわたって長時間テレビを見ていると、ある一定の価値観を身につけてしまう。
面白いのは、暴力的なドラマを長期的に見ている人の方が、リアルでも実際に暴力に巻き込まれる可能性が高かったというのだ。
デシベルメーター
マスメディアが国民に代わって、代理人である政治家がちゃんと仕事をしているか監視(モニタリング)する機能のこと。
アナウンスメント効果
マスメディアが選挙戦の前に各政党の有利、不利の予測を報道すると、その予測が有権者の投票行動に影響を与えてしまうこと。
有権者が、勝ちそうな政党に入れてしまうのをバンドワゴン効果、逆に不利な政党に入れたくなるのが判官びいき効果で、こちらは日本が中選挙区制をやっていた頃よく見られた。
しかし小選挙区制では、負けそうな候補者に入れるということは自分の1票を死票として無駄にすることになるので、自分が応援する候補者に勝つ見込みがない場合は、投票を棄権することが最も合理的な戦略になる(選挙の代わりに遊びに行ったほうが効用が高くなるから)。
ちなみに負けそうな方にあえて票を入れて、特定政党に権限が集中することを防ぎ、全体のバランスを取ろうとするメタな人はバッファー・プレイヤーと呼ばれている。
ダウンズの合理的選択モデル
個々の有権者は、与党と野党のどちらに投票するかという判断をどうやって決めているのか?それを表した方程式。
B=E(UA)-E(UB)
利益(政党間の期待効用差)=A党が勝つことで得られる効用-B党が勝つことで得られる効用
よって有権者は、この結果BがプラスになればA党に、マイナスになればB党に投票する。
この考え方を、有権者が投票するか棄権するかに応用したのが、ライカーとオーデシュックの二人。
R=PB-C+D
投票したことによる見返り(リワード)=有権者が自分の投票をどれだけ有効と見ているかの度合い(プロバビリティ)×政党間の期待効用差(ベネフィット)-投票に行くためのコスト(機会費用)+投票への義務感(デューティ)
つまりRがマイナスになると、その人は投票にいかないのが最も合理的な判断になるのだ。
だいたい今日は雪だったしね。
マイケル・ムーア監督の『キャピタリズム~マネーは踊る~』では(もう何回観たんだろうか)、資本主義が民主主義と対立する概念だと描かれていた。これに町山さんをはじめ、多くのにわか社会派評論家は突っついた。
つまり、資本主義はひとつの経済の仕組みであって、政治形態である民主主義の対立概念にはならないということだ。もちろん私もそうだと思ってたから「むむ?」(C)川平慈英って思ったんだけど、実を言うとムーア監督はこれを意図的にやってたどころか、政治経済の歴史をしっかり勉強すれば、この対立モデルは正しいことがわかった。
つまり知ったかぶりをして恥をかいたのは町山と私だったのだ。
どういうことか説明しよう。作中ムーア監督はしきりに「資本主義とは自由競争制」という定義を強調していた。つまり資本主義とは自由主義に基づく経済システムであることが分かる。
そして、歴史を振り返るに、この自由主義と民主主義は対立概念であった時代があるのだ!今では当然のようにセットで語られることが多い、自由主義と民主主義。
では、この二つは何が異なり、どういった事情で戦っていたのか。まずはそこから。
自由主義と身分制議会
古代のギリシャやローマで行われていたデモクラティアと、近代以降のデモクラシーには大きな違いがある。前者は限られた人口と有権者(女性と奴隷、外国人に投票権なし)による直接民主制であったのに対して、後者では国家の規模が大きいため代表制民主主義にならざるを得ない。
そもそも、この代表制の起源は中世~近世の、厳しい制限選挙によって議員が選出される身分制議会であり、特にこの機能が拡大したのがイングランドで、議会が最高立法機関になった。
したがって、議会に自分の代表を送ることができたのは、たくさん税金を納めているような金持ち(貴族や平民の財産所有者)だけで、言ってみれば財産を持つ者こそが自由人にふさわしい経済的、精神的独立を維持し、健全な政治的判断ができるということで、制限選挙が正当化されていたのだ。
18世紀にバークが提唱した国民代表の観念(政治家は自分に投票してくれた人の召使ではなく、優れた政治的判断力はまずもって国家全体の利益のために使われるべきだという考え)、このようなエリート支配を支えるものになった。
こういった考え方は、すでに古代ギリシャからあって、プラトンは「民主制とは貧しく無知な民衆とそれを操る扇動者による堕落した形態」であると認識していた。そもそもデモクラティアとは衆愚政治のことだし。
よって経済的に自立した自由人が行う政治体制が自由主義的な代議制ならば、それはすぐに民主主義と結びつくものでなかったことが言える。
民主主義と人民主権論
近代で民主主義的な思想が復活したのは、16世紀の宗教戦争で「神の前では一切の人間は平等」というイエスの教えをリアルな社会にまで適用しようとプロテスタントが主張したからだ。
ユグノー(新教徒)急進派は、カトリック支配への武力抵抗を呼びかけるために、人民こそが政治的権威の究極的な源という人民主権論を展開、ピューリタン革命でもっともラディカルな思想を持った水平派は、この考えを下に国王なんてなくして、男子普通選挙法を実施しろと要求をした。
このような議論は、宗教戦争の混乱が終わると、それと一緒に収束してしまうが、18世紀に入り、この考え方を制度論的にしっかりと考えたのがルソーだった。
ルソーは古代ギリシャの直接民主制といった古典的な民主主義に影響を受けていて、この考え方はアメリカの独立やフランス革命の原動力となったが、革命後の体制はルソーの言うような直接民主制ではなく、制限選挙による代表制を採用した。
それくらい民主主義は急進的だったのである。
エリートVS大衆
結局、カトリック教会や絶対王政、身分制という共通の敵を倒すために、自由主義と民主主義はそれぞれ独立して戦ったのだが、自由主義(エリート支配)は民主主義に、民主主義は自由主義にそれぞれ脅威を感じるようになった。
19世紀になり産業革命とそれに伴う労働者の増加は、選挙権拡大運動へとつながり、さらに私有財産権すら廃止しろという社会主義思想が加わることになった。
民主主義化された社会に警鐘を鳴らしたのがトクヴィルで、民主主義は、多数派が数の論理で少数派の権利を踏みにじる多数の暴政をもたらす危険性があるとした。
さらに、平等な社会とその画一化は、社会から孤立し、私的な世界に閉じこもる自己中心的な個人を生み、そのような個人は簡単に多数派の意向に同調、利益誘導でちょちょいと人間の自由を抑圧する穏和な専制ができてしまうと考えた。
とはいえトクヴィルによれば、民主主義の発展は歴史の必然、不可抗力なのだという。
さて、こんな感じで始まった民主主義だったが、新たに選挙権を得た労働者階級が、一部の論者が恐れていたほどのラディカルな改革を求めず、既存の自由主義的体制の範疇で行動することが判明(※)、ここでやっと自由主義と民主主義は合体した。
※:この前読んだオルテガの『大衆の反逆』でまさにそういった部分があったのだが、紛失してしまった!
その後、参政権は女性や異なる人種に拡大され、エリートVS大衆というわかりやすい二元的モデルはダールのポリアーキー論(少数のエリートではなく複数の少数集団によって政治が行われているという考え方)などによって棄却されるに至った。
つまり、多元的民主主義という時代が始まったわけで、異なる見解を持つ人々がどのように合意形成を図るべきか、つーか図れるのかはいまだに議論がある。
ロウィは『自由主義の終焉』で、多元主義の実態は、利益集団間のインフォーマルな交渉で政治的決定が行われる利益集団民主主義だと批判した。
こういった多元的民主主義を打破する、ひとつのアイディアとして国民投票を積極的に導入したり、地方自治体、職場、学校にも民主主義システムを入れるという参加型民主主義という考え方がある。
これにより、みんなが偏狭な自己中心性から脱して、公民的資質を持つ成熟した存在に成長していけばいいんだよ、と考えたのが、ハンナ・アーレント(労働レイバー、仕事ワーク、活動アクションの三段論法)をはじめとする思想家だ。
なんにせよ、デモクラシーをどう捉え、どうやって運営していくかは未だに決着がついていない。まあ、選挙戦のゴタゴタ見てればわかるよね。
選挙制度の分類
①選挙区制②投票方式③代表制の3つの側面からそれぞれ類型化ができる。
選挙区制では選挙区の定数が一人の小選挙区、定数が複数の大選挙区(実態では10~20)、大選挙区の一種で定数が2~6の中選挙区の3つに分類できる。
次に投票方式で類型化すると、一人の候補者名を書く単記投票制と、複数の候補者名を書く連記投票制に分類できる。
前者は小選挙区制、後者は大選挙区制に対応する。
連記投票制は、選挙区の定数と同じ数の候補者名を連記する完全連記投票制と、定数よりも少ない制限連記投票制に分けられる。
ちなみに日本の中選挙区制は、単記非移譲式(単記制で落選者の票が第二希望の有権者に移譲ができない)という独特な投票方式をとっている。
最後に代表制の側面で分類すると、多数代表制と、比例代表制に分けられる。
多数代表制は相対多数制(投票数に関わらず最も多く得票した候補者が当選)と絶対多数制(過半数の投票を得ないと当選できない)に分けられる。
比例代表制は選挙区全体の議席数を各党の得票率に比例するように配分する制度で、日本ではドント方式(各党の得票数をあらかじめ1、2、3…と整数で割り、その商の大きい順に議席を割り当てていく方式)が採用されている。ちなみに商が同じになった場合はクジで決めるらしい。足利義教か(^_^;)
日本の選挙制度
日本の選挙では衆議院選挙が小選挙区比例代表並立制を実施。
全国に小選挙区が300箇所。比例区は地方ブロックごと(拘束名簿)。定員480人…だったが議員定数削減で475議席に減った。0増5減(小選挙区が5議席減った)。
ちなみに小選挙区と比例代表の両方に重複立候補ができるため、ある政党が大勝すると杉村太蔵的に泡沫候補が棚ぼた当選することもある。
参議院選挙の選挙区は都道府県ごとで議席数は選挙区によって違う(1~5人区)、比例区は全国統一である(非拘束名簿)。定員は242人…だったが2018年の自民党の強引な6増法案で248人になった。さらに特定枠という選挙運動を行わなくても拘束名簿方式で当選させることができる制度が比例区に追加された。
6増法案が通ったため、その半数の124人が3年ごとに改選される(選挙区で74人、比例区で50人)。
また、公職選挙法の改正により、2000年から外国にいる有権者が投票できる在外選挙、2003年から期日前投票制度が導入、さらに2016年から選挙年齢が18歳に引下げられた。
一票の格差問題
現在では、どの都道府県でもとりあえず一議席は与えてやろうという1人別枠方式が取られているが、都道府県によって人口のギャップがありすぎるため、例えば神奈川県の有権者の一票に対する島根県の有権者の一票の影響力が2倍以上になり、違憲状態となっている。
これを解消するために、現在取り沙汰されているのが、単純に都道府県ごとの人口をある決まった定数で割って、適切な定数を決めるというアダムズ方式だが、これだと議員定数の削減になる反面、定数ゼロの県もできてしまうため、賛否両論となっている。
ちなみにアダムズとはこれを考案したアメリカの第6代大統領ジョン・クインシー・アダムズのこと。詳しくは映画『アミスタッド』を観よう。
6増法案も建前としては、この一票の格差が参議院で3倍になるのを防ぐために採決された(埼玉の選挙区を6から8に増やした)。
投票行動の分析
一般大衆が政治に参加する時代になったわけだけど、その政治的行動を分析する方法は大きく二つある。ひとつが集計データ分析で、各選挙区ごとのそれぞれの政党の得票数を調べることで、その国の政治を分析する。
もうひとつが個人レベル・データ分析で、世論調査みたいに、人々の意識をひとりひとりに質問することで、個人レベルのデータを集め、それを分析する。
最近はこっちが主流だが、それは20世紀半ばのアメリカで、有権者の投票行動を行動主義心理学的なアプローチで研究することが増えたからである(行動科学的政治学)。つまり、集計データだけでは有権者の心理学的傾向と実際の行動との結び付きが分からないのだ。
例えば、集計データ分析で「黒人が多い地域では識字率が低い。よって黒人は識字率が低い」という調査結果が出たとして、個人レベル・データ分析をしてみると、その地域で識字率を下げていたのはもっぱら白人だった、なんてこともあるのだ。
エリー調査
1940年にコロンビア大学で実施された大統領選挙における世論調査で、行動科学的政治学を大きく発展させた調査として有名。
一般的な有権者が大統領選でどの候補に投票するかは、各候補者の公約によってではなく、有権者自身の社会的、経済的地位、居住地域、宗教などの社会学的要因によって決まるというのだ。
また、有権者が誰に投票するかは、あらかじめ早い時期から決まっていて、選挙運動の影響は大して受けていないらしい。
さらにエリー調査は、一般の人々はマスメディアから直接情報を得るよりも、オピニオンリーダーから情報を得るという仮説も示した。これによれば、マスメディアによって投票を変えた人(改変効果)はわずか全体の8%だったという。
しかし50年代からテレビという幸せな箱が登場、マスメディアが有権者に与える影響はずっと大きくなっていく。
ミシガンモデル
ミシガン大学では、1948年以降、大統領選になると全国世論調査を行っているのだが、それによるとアメリカの有権者の多くは、候補者が打ち出す政策よりも、子どもの頃に家庭や地域の人に受け継いだ政治支持態度(政党帰属意識)に基づいて投票を決める場合が最も多いと言う。
さらに、政策争点で判断するよりは、各候補者の見た目やイメージで投票を決めていると言うのだ。この結果は、アメリカの有権者が近代民主主義理論が掲げた合理的有権者像とあまりにかけ離れており、あれ?もしかして衆愚政治やってない?という可能性を示唆するものになったのだ。
政治的無関心(アパシー)層
ミシガンモデルを踏まえるならば、支持政党がない人は政治にあまり関心がないのでは?ということになるのだが、日本で考えると支持政党なしの有権者(無党派層)が急激に増えるのは、自民党の55年体制が崩壊した93年頃、すなわち政局が流動的になったことに関係がありそうで、支持政党なし=政治に興味なしとは直ちに言えない状況になっている。
これは、自民党、民主党どちらの人気も衰えた2010年以降、特に顕著である。テキストによれば、政党によって候補者を決めるのは、情報コスト的にこれまで最も合理的だったが、現在はどの政党もだいたい同じことを言っていて差別化が難しくなったことが、無党派層の拡大の原因に挙げられるという。
確かに、他の政党と全く独自の公約打ち出してるの日本共産党くらいのものだわ(^_^;)
ハロルド・ラスウェル
シカゴ学派の大物政治学者ラスウェルは現代の政治的無関心(アパシー)を無政治的無関心、反政治的無関心、脱政治的無関心の3つに分類した。
①無政治的無関心:政治以外のものを優先
②反政治的無関心:宗教上の理由などで積極的に政治との関わりを避ける
③脱政治的無関心:政治に絶望し離脱
争点投票から業績投票へ
ちなみに、アメリカ本国でもミシガンモデルの批判はあって、つまり、ミシガンモデルはわりと政局が安定して穏やかな時に調査したから、そういう傾向が見られただけであって、国論が二分された60年代後半~70年代半ば(ベトナム戦争や公民権運動)で見れば、政策争点は明確化していたよ、という。
そして現在では、有権者は候補者の過去の業績に基づいて投票を判断しているという研究もある。つまり有権者が、政党や争点に基づく投票をしていなくても、合理的な行動をしている可能性があるのだ。
マスメディアの強力効果理論
言うまでもなく、現在の政治(有権者)にマスメディアが与える影響は大きい。では具体的にはどういった影響を与えているのか、いくつか紹介。
フレーミング効果
情報の送り手が報道内容をどういった枠組みで伝えるかによって、受け手の意見や態度が変わってしまうという効果。編集の仕方で同じ内容のニュースが、なんとでもなっちゃう!
プライミング効果
プライミングとは焦点報道という意味。ニュースは課題設定だけでなく、どの政治争点が重要か判断する基準の形成にも影響を与えるという効果。例えばブッシュ大統領は、911の際にテロに対して強靭な姿勢をマスコミによって流されたことで、支持率が急上昇した。
沈黙の螺旋
マスメディアが世論調査の分布を報道すると、自分の意見が少数派なんだと感じた人はどんどん沈黙し、その結果、多数派の意見がますます強く報道されてしまう現象。
涵養効果論
マスメディアが与える影響は短期的ではなく、長期的なものであるという理論。
長期にわたって長時間テレビを見ていると、ある一定の価値観を身につけてしまう。
面白いのは、暴力的なドラマを長期的に見ている人の方が、リアルでも実際に暴力に巻き込まれる可能性が高かったというのだ。
デシベルメーター
マスメディアが国民に代わって、代理人である政治家がちゃんと仕事をしているか監視(モニタリング)する機能のこと。
アナウンスメント効果
マスメディアが選挙戦の前に各政党の有利、不利の予測を報道すると、その予測が有権者の投票行動に影響を与えてしまうこと。
有権者が、勝ちそうな政党に入れてしまうのをバンドワゴン効果、逆に不利な政党に入れたくなるのが判官びいき効果で、こちらは日本が中選挙区制をやっていた頃よく見られた。
しかし小選挙区制では、負けそうな候補者に入れるということは自分の1票を死票として無駄にすることになるので、自分が応援する候補者に勝つ見込みがない場合は、投票を棄権することが最も合理的な戦略になる(選挙の代わりに遊びに行ったほうが効用が高くなるから)。
ちなみに負けそうな方にあえて票を入れて、特定政党に権限が集中することを防ぎ、全体のバランスを取ろうとするメタな人はバッファー・プレイヤーと呼ばれている。
ダウンズの合理的選択モデル
個々の有権者は、与党と野党のどちらに投票するかという判断をどうやって決めているのか?それを表した方程式。
B=E(UA)-E(UB)
利益(政党間の期待効用差)=A党が勝つことで得られる効用-B党が勝つことで得られる効用
よって有権者は、この結果BがプラスになればA党に、マイナスになればB党に投票する。
この考え方を、有権者が投票するか棄権するかに応用したのが、ライカーとオーデシュックの二人。
R=PB-C+D
投票したことによる見返り(リワード)=有権者が自分の投票をどれだけ有効と見ているかの度合い(プロバビリティ)×政党間の期待効用差(ベネフィット)-投票に行くためのコスト(機会費用)+投票への義務感(デューティ)
つまりRがマイナスになると、その人は投票にいかないのが最も合理的な判断になるのだ。
だいたい今日は雪だったしね。
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