大正時代覚え書き

大正時代の概要(1912年~1926年)
明治天皇が崩御し、大正天皇が1912年7月に即位したことで始まる。
大正デモクラシーをはじめとする社会運動や、普通選挙の実施、マスメディアや大衆文化の発達など、今日の現代社会にも通じるような、いわゆる「大正ロマン」の時代。
また、ヨーロッパ全土を焦土と化した第一次世界大戦は、日本に大戦景気をもたらしたが、戦争が終わるとすぐに株式市場が暴落(戦後恐慌)、さらにダメ押しで関東大震災も起こり、結局社会は混乱した。ちなみに大正時代は15年しかない。

大正天皇
1912年7月に、明治天皇の崩御を受けて即位する。
抽象概念(理系科目)が苦手で、病気を理由に学習院大学を中退しているが、文系科目は得意だったらしく漢詩を作ることが趣味だった。
苦手な政務を無理をして行ったために病気が悪化、47歳の若さで崩御した。
ちなみに大正天皇は、学校に行くときにカバンを背負ったのだが、これがランドセルの原型になったという説がある。

孫文
中国の革命家で、もともとは医者。なんと三国志に登場する呉の孫権の子孫。
革命三段階理論や三民主義の考えのもと、中国を(最終的に)民主主義の国にしようとしたが、その思想には一貫性がなく、国の財産を勝手に抵当に入れたり、清王朝を内部崩壊させるためとは言え軍閥(袁世凱)と手を組んだりと、研究者によってかなり評価が割れている人物。逆に考えれば、それだけ柔軟な思考や決断が出来る人だったのかもしれない。短気だったらしいけどね。
ちなみに犬養毅と仲良しで、これが五・一五事件が起きた原因の一つにもなっている。

辛亥革命
1911~1912年。
孫文先生が清王朝を倒した中国の民主主義革命。
これにより中国初の共和国である中華民国ができ、臨時大統領には孫文が就任したが、その後すぐに清の大統領で軍人の袁世凱にバトンタッチした(孫文は一ヶ月ちょっとしか大統領をやってない)。
10月10日に始まったのでダブルテン革命と呼ばれる。
またジャッキー・チェンは辛亥革命を題材にした『1911』という映画を撮っている。
ちなみにジャッキーが演じたのは孫文の相棒の黄興(こうこう)。

第2次西園寺内閣
日本の陸軍は辛亥革命や朝鮮の抗日運動を受けて、朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を要求したが、緊縮財政をとる西園寺内閣はこれを拒否。
そもそも日露戦争は、外国から借金をして戦った上に賠償金が出なかったため、日本の国家財政は逼迫、これ以上軍備を増強する余裕はなかったのだ。
国民も陸軍を非難し、西園寺内閣を支持したため、へそを曲げた陸軍大臣は大正天皇に辞表を提出、しかも後任の陸軍大臣を指名しなかった。
これにより陸軍大臣がいなくなり内閣が作れなくなってしまった西園寺内閣は総辞職に追い込まれてしまった。
このように明治憲法下では、内閣総理大臣の権限が今よりも弱く(同輩内の主席。閣僚任免権は総理にはなく天皇にあった)、軍部大臣現役武官制を利用してストライキ的なことをすればすぐに内閣が潰れたため、軍隊の政治介入は容易であった。

第3次桂内閣
1912年。陸軍と長州藩閥の長老であった桂太郎がまたまた総理になった。
しかし、打倒藩閥政治を掲げていた立憲国民党の犬養毅や、護憲運動の草分け的存在である立憲政友会の尾崎行雄といった野党からの反撃を受け、わずか62日で退陣した。これを大正政変という。

第1次護憲運動
「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動。
桂太郎総理は当時、天皇の侍従長と内大臣も兼任していたため、内閣と宮中の区別が曖昧になり、これは軍と藩閥の横暴を許すものだと、議会勢力に批判されたのだ。
この運動は、犬養毅や尾崎行雄ら野党勢力や、全国の商工業者、民衆などに広まり、憲政擁護大会には2万人が集まった。

第1次山本権兵衛内閣
1913年。大正政変の原因になった軍部大臣現役武官制を改正し、軍部大臣の資格を現役以外の予備役・後備役(現役を退いた兵士)まで広げた。
また文官任用令も改正し、政党員に高級官僚になる道を開いた。
つまり山県有朋内閣の政策を修正し、官僚や軍部に対する政党の影響力を拡大させた。
これにより野党や民衆の不満を抑えようとしたが、海軍高官の汚職事件(ジーメンス事件)が起こり1年ちょっとで退陣を余儀なくされる。
ちなみにジーメンスとはドイツの会社ジーメンス=シュッケルト社(今もあるコングロマリット)のことで、造船会社ヴィッカース社に発注した巡洋艦金剛の仲介をしていた。多分ロッキード事件的なものだと思う。

第2次大隈内閣
1914年。政界激震の汚職事件が発覚し、山県有朋ら元老たちは緊急事態として、政界を引退していた当時76歳の大隈重信を再び担ぎ出した。
大隈重信が総理の椅子に座るのはなんと16年ぶり。
第2次大隈内閣は、長州閥や陸軍の支援を受け、1913年に65歳で亡くなった桂太郎(立憲同志会)の跡を継いだ。

第一次世界大戦
1914~1918年までの4年間続いた。
ドイツ、オーストリアなど4カ国の同盟軍VSロシア、フランス、イギリス、アメリカ、イタリア、日本など27カ国の連合軍の戦い。
ヨーロッパ全土で繰り広げられた、機関銃、毒ガス兵器、戦車、飛行機、潜水艦、塹壕戦なんでもアリの総力戦で「アイウォンチュー」でお馴染みのアメリカ陸軍兵士募集ポスターもこの頃印刷されている。
第一次世界大戦が始まると、国内ではこれをチャンスにして中国に進出しちゃえという雰囲気になり、1915年の総選挙では与党の立憲同志会が圧勝する。
こうして大隈内閣は議会で陸軍の2個師団増設案を通したが、これは国民負担軽減を掲げる内閣の方針とは大きく矛盾したものだった。
さて、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告をした日本は、その軍事行動の範囲についてイギリスの合意を得ないまま戦争に突入、ドイツの権益だった青島と山東省を接収し、赤道より北のドイツ領の南洋諸島を占領した。

二十一ヶ条の要求
日本が中国の袁世凱に突きつけたひどい要求。主な内容は以下の5つ。
①山東省のドイツ権益の継承
②南満洲と東部内蒙古の権益の強化
③旅順・大連、南満州鉄道の租借権を99年延長(長え)
④日中合弁事業の承認
⑤中国政府の顧問に日本人を採用すること

日本は戦争をちらつかせて、この21個の要求のうち⑤以外のほとんどを認めさせた。
当然中国国内では日本に対する反感が高まり、これを受け入れた5月9日は国恥記念日となった。
ただ、長い交渉と修正の末、中国側もこの日本の“希望”におおむね同意していたらしく(中国側から提案されたものもあった)、袁世凱はこの条約に同意してから日本に一方的に要求を突きつけられたと海外にアピール、これに日系移民を排斥したいアメリカが「日本はひどい」と同調したという説がある。

第4次日露協約
1916年。中国での権益拡大への列強の批判を抑えるために結んだ。
極東における権益をロシアと相互に擁護しているわけだから、中国の利益拡大に列強各国は文句を言うなというロジックだったらしい。

寺内正毅内閣
1916年。戦時中の超然内閣。
前大隈内閣の与党各派は、合同で憲政会を作ってこれに対抗しようとしたが、寺内内閣は1917年に衆議院を解散、その後の総選挙で寺内内閣を支えた立憲政友会が第一党になった。
寺内正毅は頭がとんがっていて目がつり上がっていて、通天閣のアレにそっくりだったのでビリケン宰相と呼ばれた。ビリケン宰相は、藩閥と官僚だけで組閣したため、非立憲内閣・・・ヒリッケン内閣・・・ビリケン内閣と言うわけ。
ちなみにビリケンさんはもともとアメリカの芸術家プリッツが作った像。

西原借款
寺内内閣は、1916年からの3年間にわたって、袁世凱の跡を継いだ段祺瑞(だんきずい)に総額1億5000万円ものお金を貸した。西原とは寺内総理の私設公使、西原亀三のこと。
これにより中国での権益拡大を狙った。

石井・ランシング協定
特命大使石井菊次郎がワシントンでアメリカの国務長官ランシングと結んだ協定で、日本の権益拡大に批判的だったアメリカを牽制した。

ロシア革命
1917年。レーニン同志がニコライ2世を退位させロマノフ王朝を滅ぼした。
これによりソビエト社会主義共和国連邦が誕生。ちなみにソビエトとは「会議」という意味。

シベリア出兵
1918年にソ連は第一次世界大戦から離脱、世界初の社会主義国を警戒した列強国はロシア革命に干渉を始めた。
日本も連合軍の主力となってシベリアに兵を送り込んだが、イギリス、フランス、アメリカが引き上げる中、日本だけが第一次世界大戦が終わっても兵を引き上げなかったため(1922年まで出兵してた)、国内外から批判を受けた。

大戦景気
第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパへの軍需品供給とアジアやアメリカへの製品(主に織物)輸出で日本は大儲け、1914年時点で11億円あった日本の借金は吹き飛び、1920年には日本は逆に27億円以上の債権を持つようになっていた。
特に躍進したのが海運業と造船業で、第一次世界大戦で不足した船舶を供給し続けた日本はアメリカ、イギリスに次ぐ世界三位の海運国になった。この時現れた金持ちは船成金と呼ばれた。
この他にも、ドイツからの薬品や化学肥料の輸入が途絶えたことで発達した化学工業や、大規模な水力発電事業を中心とした電力業も躍進した。
その一方で大戦景気は、物価を高騰させたため民衆の生活は苦しかった。

米騒動
重工業の発展に伴い農業従事者は減り、1918年のシベリア出兵では米の需要が上がると見越した投資家が米を投機的に買い占め、米の価格が高騰した。
またこの頃の農家は、麦やヒエではなく白米を食べていたので米の需要自体もそもそも高かった。
これに対して富山県の漁村では、奥様方が船への米の積み込みを妨害し、米屋に押しかけるという、富山の女一揆が起こり、これが全国に波及、時の寺内内閣は適切な対応を取れずに軍隊を出動させ、責任を取って総辞職した。

原敬内閣
マダムの力を思い知った元老たちは、農村を支持基盤にする立憲政友会の原敬を首相にした。彼は爵位を持たなかったことから、平民宰相と呼ばれ(でも家系自体は盛岡の上級武士)、国民からの期待度は高かったが、普通選挙法の実施を「時期尚早である」と見送り、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げただけだった。
これにより原敬内閣の人気は急落したが、衆議院を解散した後、鉄道の拡充や高等学校の増設などを公約に掲げると、人気が回復、解散総選挙で圧勝した。
しかし原敬内閣は、大戦景気の終焉と1920年の戦後恐慌によって財政難に陥り、大きな成果を上げる前に東京駅で政治腐敗(立憲政友会の汚職事件)に怒った駅員に暗殺されてしまう。
これに大きなショックを受けたのが、意外にも軍閥の重鎮の山県有朋で、程なくして彼も後を追うように亡くなってしまった。
ちなみに原敬内閣は日本初の本格的な政党内閣と呼ばれている。つまり衆議院の第一党の総裁が組閣し、陸軍、海軍、外務大臣以外のすべての閣僚が立憲政友会の党員で構成されていたのである。

14ヶ条の原則
1918年。「平和は勝利なき平和でなければならない」と語ったアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンがドイツに提案した原則で、これまで乱発された秘密外交の廃止や、民族自決などを定めた。この民族自決の精神は東ヨーロッパの多くの国を独立させることになった。
なんにせよこれをドイツが受け入れたことで第一次世界大戦は終わった。
短期間で終わると思っていた戦争は「落ち葉が散る頃までには」「クリスマスまでには」・・・と結局どんどん長引き、全世界で6300万人もの兵士が動員され、990万人もの犠牲者が出てしまった。この死者数は過去100年のすべての戦争で亡くなった死者数の合計をはるかに超えるものだったという。

パリ講和会議
1919年。ヴェルサイユ条約が調印され、これに基づく新秩序をヴェルサイユ体制という。
日本は、山東省のドイツの権益の継承と、赤道より北の旧ドイツ領南洋諸島の統治権を獲得した。アメリカはこれに反対したが、ヴェルサイユ条約自体には調印している。

国際連盟
ウィルソン大統領の呼びかけで、国際連盟もこの時に発足した。日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国になった。
しかし国際連盟結成を呼びかけた当のアメリカが、モンロー主義を掲げる上院議会の反対によって加盟できず、またソ連も加盟しなかったので、影響力はそこまで大きくなかった。
モンロー主義とはアメリカはヨーロッパ情勢に首を突っ込まないよという考え。

人種差別撤廃案
パリ講和会議で日本が出した世界初の人種差別撤廃法案。
国際連盟が白人ばかりで占められてしまうのは人種差別だと主張したが、移民排斥を展開していたアメリカ上院やイギリス、オーストラリアの猛反対にあって廃案にされた。

三・一独立運動(万歳事件)
朝鮮の独立を求める大衆運動。
その背景にはロシア革命の成功や、ウィルソンの民族自決思想、日本による併合を最後まで拒んだ大韓帝国初代皇帝高宗の死などがあった。
3月1日にソウルで行われた独立宣言書の朗読会(&万歳)がきっかけだった為にこう呼ばれる。この運動の中心になったのは東学党やキリスト教徒、仏教徒などの宗教勢力で、中国のナショナリズム(五・四運動)に影響を与えた。
日本は朝鮮総督府を通じて弾圧をするが、その一方で朝鮮総督の資格を文官まで拡大したり、憲兵警察を廃止、言論、出版、集会の自由を認めるなどをして、朝鮮の民衆に譲歩、国際社会からの批判をかわそうとした。
また日本のマスコミはこの運動を「朝鮮で起こった暴動」と伝えたが、吉野作造や石橋湛山は一定の理解を示している。

五・四運動
1919年。ヴェルサイユ条約に不満を持つ中国が山東省の返還を求めた運動。
5月4日の北京の学生による街頭運動がきっかけだった為にこう呼ばれる。
中国はヴェルサイユ条約には調印していない。
ちなみに、この時の学生や労働者によるデモ行進やゼネスト(全国的なストライキ)、ボイコットなどが中国共産党に高く評価されている。

ワシントン会議
1921年。アメリカの呼びかけで行われた、戦争の再発防止と列強国の協調を目指す国際会議。日本からは加藤友三郎と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が派遣された。
加藤は軍縮関連の交渉を、幣原はそれ以外の交渉を担当した。
アメリカの狙いはこの会議によって日本の膨張を抑えることだった。

四カ国条約
1921年。日本、イギリス、フランス、アメリカで結ばれた条約。
太平洋諸島を現状維持し、太平洋で起きた紛争は話し合いで解決することが決められた。
この締結に伴って、日英同盟は破棄された。
日英同盟破棄の背景には、日本とイギリス両国のロシアに対する脅威が低下したことが挙げられるが、アメリカの思惑もあった。アメリカにとっては世界最強の軍隊を持つイギリスが日本と手を組んでいる状況は、たいへん都合が悪かったのである。
実際この条約は日英同盟を破棄さえできればよかったので、国際法としては全く役に立たないものだった。

九カ国条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ、中国で結ばれた条約。
各国が持つ中国の領土と主権を尊重し、中国の経済的な門戸開放と機会均等を確認した。
これにより石井・ランシング協定は破棄され、日本は中国に山東省を返還した。

ワシントン海軍軍縮条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアで結ばれた条約。
今後10年間、主力艦の建造をやめ、その保有量を制限するという内容。
これにより日本の主力艦保有率はアメリカとイギリスの6割ということにされた。
これは日本を封じ込めるとともに、莫大な軍艦建造費に悩む各国の負担を軽減する目的があった。ちなみに当時日本は国家予算の半分を軍事費に使っていたが、この条約によりたった5年で27%にまで下がった。

ワシントン体制
四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする体制。
中国の主権を尊重するとか言っておきながら、中国が結ばされた不平等条約や、中国に駐留する各国の軍隊はそのままだった。

高橋是清内閣
1921年。暗殺された原敬の跡を次ぐ形で任命される。
恰幅のいい総理大臣で、バランスのとれた政治を行ったことからダルマ宰相と呼ばれていた。
彼は7回も大蔵大臣を経験した財政のプロで1億円以上の歳出抑制に成功、国家財政を立て直した。

幣原外交
高橋是清内閣はワシントン体制を受け入れ、協調外交路線をしばらくの間とることにした。また、その後の加藤友三郎内閣、第2次山本権兵衛内閣も同じ路線をとった。
この一連の協調路線は、外務大臣を務めた幣原喜重郎に因んで幣原外交と呼ばれている。

大正デモクラシー
日露戦争のあとから大正時代末まで起きた民主主義的な一連の運動。
護憲運動、普通選挙運動、労働運動、社会主義運動など。
天皇機関説と民本主義が思想的バックボーンになった。
ちなみに民主主義を求める風潮は日本だけでなく世界的なものだった。
世界各国が悲惨な戦争にはもうウンザリしていたのである。

天皇機関説
憲法学者の美濃部達吉が提唱。
天皇は国家の最高機関だが、その統治権の行使は憲法に基づくという考え方。
言ってみれば立憲君主制で、となると天皇の統治権に対して立法機関である議会が制限を加えられるという解釈も成り立つので、1935年に軍部を中心に波紋が起きた(天皇機関説事件)。

民本主義
政治学者の吉野作造が提唱。
ぶっちゃけ民主主義(デモクラシー)と一緒なんだけど、一字変更している。
これは民“主”って言っちゃうと国家の主権者が国民になってしまい、大日本帝国憲法の天皇主権と矛盾してしまうからである。
なんにせよ天皇は日本国の主権者ではあるけれど、国民の意向を重視すべきだという考え方で、もっと具体的に言うと普通選挙制度を実施しようぜってこと。
吉野作造は1918年に思想啓蒙団体の黎明会を結成し、平和と協調を訴えた。
この影響を受けた学生たちは東大新人会などの思想団体を作り、労働運動や農民運動と連携を深めた。

戦後恐慌
第一次世界大戦による大戦景気は戦争とともにあっさり終わり、ヨーロッパの市場が回復すると、日本は大幅な輸入超過(貿易赤字)に悩まされるようになった。
さらに1920年には株式市場が暴落、戦後恐慌が発生し、アジアやアメリカに売っていた綿糸と生糸の価格は半値以下まで下がってしまった。

労働運動
第一次世界大戦による産業の発達で急増した労働者による賃上げ運動。
鈴木文治が1912年に組織した友愛会は全国組織へと発展し、大日本労働総同盟友愛会に改称、1920年に労働者の祭典であるメーデーを日本で初めて主催した。
メーデーはもともとアメリカの労働者が8時間労働を要求した運動。毎年5月1日。

日本労働総同盟
1921年に大日本労働総同盟友愛会がさらに改称して出来た。
これまでは労働者と資本家の協調路線をとっていたが、階級闘争へと路線変更、各地の労働運動を指導するようになった。
これにより八幡製鉄所や、三菱造船所、川崎造船所などで労働争議が多発した。

小作争議
小作料の減免を求める運動。これを背景に1922年に、小作人組合の全国組織、日本農民組合が結成された。

社会主義運動
大逆事件以来、冬の時代だったが、またまた盛り上がり出した。
1920年に、日本社会主義同盟が結成、1922年には堺利彦らが日本共産党を非合法に結成した。ちなみに現在活動している政党で、この共産党が一番古い。
またロシア革命の影響で、マルクス・レーニン主義(共産主義)も台頭した。

女性解放運動
1911年に平塚雷鳥が女性の地位向上のために結成した青鞜社が先駆け。
この運動は、市川房枝との新婦人協会によって引き継がれ、彼女たちは女性の参政権を要求する運動を行った。
1922年には、女性の政治運動を禁止した治安警察法が改正され、女性でも政治的アジテーションができるようになった。

部落解放運動
1922年に西光万吉(さいこうまんきち)を中心に全国水平社が結成された。

普通選挙運動
1919~20年に労働者たちの友愛会や学生を中心に盛り上がり、これを受けて加藤友三郎内閣や第2次山本権兵衛内閣は普通選挙の導入を検討したが、関東大震災や虎の門事件が起こって社会は混乱、山本内閣が総辞職してしまったので実現しなかった。

関東大震災
1923年。マグニチュード7.9の巨大地震。この未曾有の大災害により決済ができなくなった手形(震災手形)が大量に出回ることになり、山本内閣は日銀に各銀行への特別融資をさせたがうまくいかず、日本の経済危機は深刻化した。
ちなみに、ワシントン海軍軍縮条約でスペックをごまかした曰くつきの戦艦の長門はこの時、救援物資を運んでいる(山本総理は海軍出身)。
また、この地震の際に在日朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが広がり、民衆はおろか警察や自警団までもが朝鮮人を無差別に虐殺するという痛ましい事件が起きた。

虎の門事件
アナーキストの難波大助が、裕仁親王を狙撃した事件。
幸いなことに銃弾は当たらなかった。
裕仁親王はのちの昭和天皇で、難波大助は大逆罪で死刑になった。
この責任を取る形で山本内閣は辞職した。

清浦奎吾内閣(きようらけいごないかく)
1924年。貴族院と官僚の勢力を背景にする超然内閣。
これに反発した、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は第2次護憲運動を起こした。
ちなみにこの3つの政党を合わせて護憲三派と言う。
清浦内閣は対抗措置として議会を解散したが、総選挙で護憲三派に敗北し総辞職してしまった。

加藤高明内閣
1924年。護憲三派の連立内閣。
1925年に以下の3つの政策を行なった。
加藤内閣は、連立を組んでいた立憲政友会が陸軍の田中義一を総裁に迎えて革新倶楽部と合体すると連立を解消、憲政会のみの単独政権になった。

加藤高明内閣の政策①ソ連との国交樹立
幣原喜重郎の協調外交によって実現した。後に弱腰外交と批判される。

加藤高明内閣の政策②普通選挙法の成立
納税額の制限が完全撤廃、満25歳以上のすべての男子が衆議院議員の選挙権を与えられた。
これにより有権者数は4倍の1240万人になった。

加藤高明内閣の政策③治安維持法の成立
天皇制や私有財産制度などの廃止を目的とする結社や参加者を処罰する法律。

憲政の常道
憲政会と立憲政友会による政党内閣が続く、加藤高明内閣~犬養毅内閣までの8年間を指す。しかし議院内閣制が制度化されたわけではないのに注意。

第1次若槻礼次郎内閣
1926年。加藤高明の病死を受けて、憲政会の若槻礼次郎が総理になる。
憲政会はその後、立憲民政党と名前が変わり、立憲政友会と立憲民政党は昭和初期の二大保守政党となった。

インテリの増加
日露戦争後の時点で日本の就学率は97%に達し、ほとんどの国民は文字を読み書きできるようになっていた。第一次世界大戦後には旧制中学校の生徒数や、高等教育機関も増加、これに伴い都市部を中心に高学歴者、インテリが現れた。
彼らは給与生活者、いわゆるサラリーマンとなった。
また女性の社会進出も進み、1924年にはバスガールという女性車掌が誕生、他にも電話交換手、市電、タイピスト、ウエイトレスなどの仕事を行った。

大衆文化
男性から洋服が普及し始める(サラリーマンの背広)。また銀座ではアメリカのシネモードスタイルを真似たモダンガールが見られた。
食文化ではトンカツやカレーライスなどの洋食が普及した。あと食文化かわからないけどグリコやカルピスも登場した。
他にも松竹や日活といった国産の映画や、宝塚少女歌劇団などもできた。

丸ビルと東京駅
丸の内などの都心では鉄筋コンクリートのビルが建てられるようになった。
また赤レンガ作りの東京駅もこの頃(1914年)にできた。最近Suicaで珍騒動が起きたけど、あの駅舎のデザインは大正時代の東京駅の復元である。

文化住宅
和洋折衷様式の住宅のこと。とりあえず最新のものには「文化」と付ける風潮があったらしい。文化鍋とか文化包丁とか。

セーラー服
今やJKの定番だが、これが女学生の制服に採用されたのも大正時代(9年)から。
男子学生が陸軍の制服である詰襟を着ていたので、なら女子学生は海軍でいいやってことになった。

マスメディア
1925年に東京、大阪、名古屋でラジオ放送が開始。
1926年にはNHKが設立。
新聞では『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』が100万部の発行部数を叩き出した。

雑誌
『東洋経済新報』:経済の週刊誌。普通選挙法を主張。主幹はなんと石橋湛山。
『中央公論』:社会評論や思想、文芸を扱う総合月刊誌。
『改造』:社会改造を求め、民本主義や社会主義の論文が掲載された。
『キング』:講談社が出したオールジャンルの大衆娯楽雑誌。発行部数で100万部を突破。
『赤い鳥』:鈴木三重吉の児童雑誌。

マルクス主義
河上肇:『貧乏物語』
野呂栄太郎:『日本資本主義発達史講座』
森戸辰男:東大の助教授。ロシアのアナーキストを研究して休職させられた。

自然科学
野口英世:医学者。スピロヘーターや黄熱病の研究。
本多光太郎:物理学者。KS磁石鋼の発明。KSとは支援者の住友吉左衛門の頭文字。
磁石鋼とは強い磁性を持った特殊な鋼。

人文科学
西田幾多郎:『善の研究』を発表。純粋経験。
柳田国男:『遠野物語』を発表。民俗学を確立。

白樺派の小説
雑誌『白樺』を中心に発表された、都会的かつ西洋的な作品。
有島武郎:『或る女』『カインの末裔』
志賀直哉:『暗夜行路』
武者小路実篤:『人間万歳』

耽美派の小説
美を追い求める享楽的な作品。
永井荷風:『腕比べ』
谷崎潤一郎:『痴人の愛』

新思潮派の小説
夏目漱石の門下が『新思潮』に発表した、理知的で技巧的な作品。
芥川龍之介:『羅生門』『鼻』
菊池寛:『父帰る』『恩讐の彼方に』

新感覚派の小説
既成の精神主義的伝統を否定した作品。
川端康成:『伊豆の踊り子』『雪国』
横光利一:『日輪』

プロレタリア文学
階級闘争の理論に基づく作品。
小林多喜二:『蟹工船』なぜか最近ベストセラーになった。共産主義思想を喧伝するとして掲載誌が発売禁止になったことがある。
徳永直(とくながすなお):『太陽のない街』

大衆文学
江戸川乱歩:探偵小説。
吉川英治:『宮本武蔵』

西洋絵画
安井曾太郎:『金蓉』。驚異的なデッサン力で写実的な人物画を数多く描いた。
梅原竜三郎:『紫禁城』。ルノワールの指導を受けたが、色使いはフォービスムっぽい。
岸田劉生:『麗子微笑』。東洋のモナリザ。夢に出てくる。

明治時代覚え書き③

明治時代後期
近代化を果たした日本は、日清戦争と日露戦争という本格的な対外戦争を始める。
ほとんどの国民は戦争に賛成したようだが、軍事費捻出のための増税策や、国家主義に批判的な社会主義者に対する思想の弾圧などが実施されると、一連のミリタリズムに疑問を持つ人々も増えていった。
しかし、これらの戦争によってアジアの小国だった日本が列強国の仲間入りをしたことは確かで、日清戦争時の全権大使の陸奥宗光は領事裁判権を撤廃、日露戦争時の全権大使の小村寿太郎は関税自主権を回復し、幕末の古傷である不平等条約はとうとう改正された。
・・・いや~歴史にドキリは勉強になるなあ。

甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年。朝鮮の農民が減税と日本排斥を訴えて起こした反乱。
この反乱の鎮圧を朝鮮政府(閔氏政権)から要請された清は、天津条約で約束したとおり、日本に通知してから朝鮮に兵を挙げた。
議会運営に苦しむ日本(第2次伊藤内閣)も、戦争が起これば国もまとまるだろうと、日本人居留地の保護という建前で朝鮮に兵を送り込んだが、農民軍はすぐに朝鮮政府と和解。
日本軍が朝鮮に到着した時には、すでに戦争は終わっていた。
ちなみに東学とは排外主義を掲げる民族宗教のことで、この宗教の信者が朝鮮の農民軍を率いたことから東学党の乱という。

日英通商航海条約
1894年。外務大臣の陸奥宗光が締結。
日本軍の朝鮮駐留に対するイギリスの支持を取り付けた。
またついに領事裁判権の撤廃も実現した。

大院君
陸奥宗光は清に対して、日本と共同で朝鮮政府を変革しようと持ちかけたが、これを断られ絶縁状を突きつけられた。
そのため日本軍は漢城に進軍し、閔氏を倒すと、日本のために壬午軍乱を起こしてくれた大院君に政権を握らせ、清を追い払うように仕向けた。

日清戦争
1894年8月。
朝鮮政府の要請という大義名分を得た日本は、清国へ宣戦布告した。
日清戦争が始まると、政党の政権批判は止み、議会は戦争関連の予算案や法案を全て承認した。
豊島沖海戦の勝利や、遼東半島や威海衛(いかいえい。清の北洋艦隊の基地)占領など、戦局は日本軍の圧倒的有利だった。
こうして日清戦争に勝利した日本軍は清軍を朝鮮から追い出した。

下関条約
1895年。伊藤博文と陸奥宗光が、清の李鴻章と結ぶ。
その内容は以下の四つ。
①清が朝鮮の独立を認めること。
②遼東半島と台湾と澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に割譲。
③2億両(約3億円)の賠償金の支払い。
④新たな港(沙市、重慶、蘇州、杭州)を開くこと。

この時に得た多額の賠償金によって、日本には再び企業勃興ブームが起こり、資本主義が本格的に確立した。

三国干渉
東アジアに南下したかったロシアは、フランスとドイツを誘って、日本が得た遼東半島を清に返せと圧力をかけた。
この三国に勝てるほどの軍事力がなかった日本は、清からの3000両の支払いと引き換えに遼東半島を手放した。
これにより日本の対露感情は悪化、軍事力の強化が課題になった。
伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣として入閣させ、自由党の協力で軍事拡張の予算案を議会で通した。
また、そのあとの第2次松方内閣も、立憲改進党から結党し、衆議院の3分の1を占めていた進歩党と手を組み(党首の大隈重信を外務大臣に入閣)、軍事力強化をさらに進めた。
しかし軍事拡張のための増税を試みると進歩党が猛反発。その背景には賃金労働者による労働運動の高まりがあった。
このため進歩党党首の大隈重信が辞任、松方内閣は今度は自由党と連携しようとしたが、結局うまくいかずに1897年に総辞職した。

貨幣法
1897年。総理大臣兼大蔵大臣だった松方首相が制定。
貿易の発展と貨幣価値を安定させるため、銀本位制ではなく国際基準の金本位制に変更した。金本位制に必要な準備金は、下関条約の賠償金があてがわれた。

労働組合期成会
高野房太郎や片山潜が1897年に結成。
彼らの指導のもとに鉄鋼組合や日本鉄道矯正会といった労働組合が組織された。
この年には全国で40件あまりのストライキが起きている。

憲政党
第3次伊藤内閣の軍事増税に反対するために、自由党と進歩党が合体して出来た。憲政党は衆議院の絶対多数となり、第3次伊藤内閣は退陣した。

第1次大隈内閣
憲政党党首の大隈重信が首相に就任。
これが日本初の政党内閣である。
外務大臣に大隈重信(首相と兼任)、内務大臣に板垣退助が就いたため、隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれた。
しかし内閣発足してすぐに憲政党が内部対立、演説中の失言(共和演説事件)で辞任に追い込まれた文部大臣(尾崎行雄)の後任人事をめぐる争いが決定的となり、憲政党はあっけなく分裂した。
これにより第1次大隈内閣はたった4ヶ月で退陣した。

第2次山県有朋内閣
松下村塾で学び、幕末期~明治初期には奇兵隊を率いた生粋の軍人で「国軍の父」と呼ばれる。日本の軍国主義を作った張本人として評価が低かったが、外交、安全保障、大陸政策などには慎重派であり、軍人ならではのリアリストだった。
自分の命は、なにか重要なことに使いたいと考えていたため、万が一に備えてふぐすら食べなかった。
山県有朋は軍部、官僚、貴族院に太いパイプを持っていたため、憲政党から協力を取り付け、以下の四つの政策を行った。

山県有朋内閣の政策①文官任用令の改正
高級官僚になるための任用資格規定を作った。
これにより専門官僚としての知識や経験がない政党員は高級官僚になれなくなった。
テクノクラート。

山県有朋内閣の政策②文官分限令と文官懲戒令の制定
国務大臣以外の官僚の身分を保障するもので、政党は官僚に影響を与えられなくなった。

山県有朋内閣の政策③軍部大臣現役武官制
現役の大将、もしくは中将でないと陸海軍の大臣にはなれない制度。
シビリアンコントロールの逆。

山県有朋内閣の政策④治安警察法
1900年。労働運動、農民運動、社会主義運動を弾圧するための法律。
民衆の声を反映させようとする政党の影響力を抑えるものだった。

立憲政友会
山県内閣の政策は、そのどれもが政党弾圧的な側面があったため、憲政党は山県有朋ではなく伊藤博文に接近した。
一方の伊藤博文も政党の重要性を考え新党の発足の準備を進めていたため、両者の利害は一致し、伊藤博文を党首とする新しい政党、立憲政友会ができた。
その後、強引だった山県内閣が総辞職すると、第4次伊藤内閣が発足するが、発足まもない立憲政友会が母体だったため力が弱く、提案した増税案の否決が相次ぎ、約7ヶ月で総辞職した。

第1次桂太郎内閣
1901年発足。桂太郎は戊辰戦争で戦った軍人で、山県有朋の後継者的な人物だった。
この頃から、日本を取り巻く国際情勢が悪化したため、桂太郎は日露戦争が終わるまで政権を維持し続けた。
ニコニコしながら相手の背中をポンと押して人の心をつかむのでニコポン宰相とも呼ばれる。
西園寺公望と安定した政治を行なったのも、軍人らしからぬ彼の人柄によるものだったのかもしれない。

八幡製鉄所
1901年操業。国内最大の筑豊炭田の近くに政府が作った官営製鉄所。
のちの日露戦争時に鉄の需要が増えたためコークス炉を導入してからは大活躍することになる。鉄鋼の国内シェアの8割を占めた。

西園寺公望
立憲政友会総裁。伊藤博文からバトンタッチされた。
フランス留学経験のある公家で、自由主義や立憲政治の重要性を理解していた彼は、巨大化する軍部の力を抑えようと尽力することになる。

元老
天皇の補佐役。伊藤博文も山県有朋も政界の第一線から退いたが、元老として首相の選任権は握り続けた。特に山県有朋は「元老中の元老」と呼ばれた。

中国分割
清は「眠れる獅子」と呼ばれていたが、日本ごときに負けちゃうんじゃ実は大したことないんじゃないか、と考えた列強国は次々に中国に領土を築いた。
アメリカの国務長官のジョン=ヘイは門戸開放、機会均等、領土保全の3原則を列強に呼びかけ、この原則のもとに各国は中国を分割していった。
パイ(清)をイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本が切り分ける風刺画は有名。

義和団の乱
義和団は清の宗教団体。「扶清滅洋」(清を助けて列強国を追い出そう)のスローガンのもと、民衆とともに反乱を起こし、北京の公使を包囲した。

北清事変
義和団事件に乗じて清政府が列強国に宣戦布告をしたこと。
これを受けて列強国は連合軍を組織し、日本も1900年にこれに参加し清に軍隊を送った。
連合軍は北京から義和団を追い出し、清を降伏させ北京議定書を結んだ。

北京議定書
清は多額の賠償金を列強国に支払うことになった。
また北京の公使館周辺は治外法権となり、公使館守備隊が駐留することになった。

大韓帝国
1887年に建国。ロシアが朝鮮に大院君政権を倒させて作った親露的な国家。
ロシアは北清事変の際に満州へも進出していたので、日本のロシアに対する危機感はさらに高まった。

満漢交換論
ロシアとの付き合いをこれからどうするかについては、大きく二つの立場があった。
一つが平和的共存、もう一つが徹底対決だった。
伊藤博文は前者の立場で、満州の権益をロシアに譲る代わりに、日本が持つ韓国の権益はロシアに認めてもらおうという提案をした。これを対露協商論と言う。
しかし桂内閣は対露強硬論を取り、イギリスに接近した。

日英同盟協約
1902年。
清と韓国における日英両国の権益を互いに了承し、同盟国が戦争になった場合は、他方の同盟国は中立を守り、さらに第三国が他国側に参戦した場合には、同盟国側に参戦することを決めた。
こうしてイギリスを味方につけた日本は、ロシアに対して満州から撤退するように求めたが、ロシアはこれを無視、日本はロシアと交渉を続けながら戦争の準備を進めた。

非戦論
キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水、片山潜が主張。
しかし世論は1903年に結成された対露同志会や、戸水寛人(とみずひろんど)ら帝国大学教授、また『国民新聞』を主宰したジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみそほう)主戦論に影響され、開戦はやむおえない雰囲気になった。

日露戦争
1904年。日本はイギリスとアメリカに公債を買ってもらい、莫大な戦費を調達した。
対するロシアは革命運動が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世は、日本と戦争をしている場合じゃなくなっていた。これには陸軍きってのロシア通の田中義一の裏工作があった。
日露戦争は、機関銃や速射砲(無煙火薬を使ったため大砲の中のススを掃除する必要がなく早く撃てる)などの新兵器が導入された本格的な近代戦だった。
また政府が民間の重工業を奨励したため、鉄鋼業や造船や旋盤技術は世界基準に追いついた。

日韓議定書
韓国政府に対して日本軍に便宜を図らせた。

第1次日韓協約
1904年。韓国政府内に日本が推薦した財政と外交の顧問を置くことを認めさせた。

日本海海戦
1905年5月。
東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
東郷平八郎はブシドウを感じるということで欧米の人気が高い人物。

桂・タフト協定
1905年7月。
桂太郎とアメリカのウィリアム・タフト陸軍長官(後に大統領になる)との協定。
アメリカのフィリピンの支配を日本が認める代わりに、日本の韓国に対する指導権を認めさせた。
同じ年には日英同盟を改定しイギリスとも似たような協定(イギリスのインド支配を認める代わりに、日本の韓国保護国化を認めさせた)を結んでいる。

ポーツマス条約
1905年9月。全権大使は小村寿太郎。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で結ばれた。
ポーツマスとはワシントンの近くの軍港。
その内容は以下の四つ。
①ロシアは日本による韓国の指導権と監督権を認める。
②清から日本へ旅順・大連(遼東半島南端)と南満州鉄道を譲渡すること。
③南樺太とその付属諸島を譲渡すること。
③沿岸州とカムチャッカにおける日本の漁業権を認めること。

しかし、賠償金が取れなかったために国民が反発、日比谷焼き討ち事件などの暴動が各地で起きた。

韓国統監府
韓国から外交権を奪い、ソウルに置いた。
初代総監は伊藤博文で、彼が韓国の外交を司った。

桂園体制
1901~1913年までの期間は桂太郎内閣と西園寺公望内閣が交互に政権を担当した。
1906年にできた第1次西園寺内閣は迅速な軍事輸送を可能にするために鉄道国有法を定めて、民間の鉄道のほとんどを国有化した。
立憲政友会を母体とする西園寺内閣は桂内閣に比べて穏健だった。社会主義に対しても寛容な姿勢を見せたため、日露戦争中に下火になっていた社会主義運動は再燃した。

関東都督府
関東州を統括する機関。関東州とは日本の関東地方のことではなく、日露戦争で日本が手に入れた旅順や大連を含む遼東半島南端のエリアのこと。

南満州鉄道株式会社
大連に設置。半官半民の会社。鉄道沿線の炭鉱も経営した。
このような満洲の権益は国際社会の批判にあったが、日本政府は日英同盟と日露協約によってこれを押さえ込んだ。

ハーグ密使事件
1907年。韓国の皇帝である高宗が、ハーグで開かれた第2回平和会議に密使を送り、日本の支配に対する不満を訴えた事件。列国はこの密使を無視した。
日本は高宗を退位させ、第3次日韓協約で韓国の内政権を握り、韓国軍を解散させた。

日本社会党
片山潜の日本社会党と、西山光次郎の日本平民党が合体してできた。
もともと西園寺内閣は社会主義に寛容だったが、山県有朋など官僚勢力の非難があがり、結局解散させられた。

赤旗事件
1908年。社会主義者が赤旗を振って逮捕された。
天皇制すら反対する社会主義者に明治天皇は不快感を示し、第1次西園寺内閣は総辞職した。

戊申詔書(ぼしんしょうしょ)
第2次桂内閣が発布。国民の教化(世論の引き締め)を図った。
その背景には国家主義を疑問視する風潮があった。

地方改良運動
行政単位を新しい町村に再編し、内務省の町村に対する影響力を高めた。

帝国在郷軍人会
1910年に設立。町村ごとに存在した在郷軍人会をまとめた。

大逆事件
1910年。幸徳秋水らが天皇暗殺を計画、これを受けて政府は社会主義者や無政府主義者に大弾圧を加えたが、その大半は天皇暗殺計画に無関係だった。
以降、社会主義運動は第一次世界大戦まで再興せず冬の時代と呼ばれた。

特別高等課
思想の取締りの中枢で、大逆事件を受けて警視庁内に設置された。略して特高。

工場法
1911年。日本初の労働者保護法。
このように第2次桂内閣は、社会主義者を弾圧する一方、労働者への配慮も行った。
ビスマルク体制のアメとムチと似ている。

義兵運動
第2次桂内閣の頃に韓国で起こった植民地化の抵抗運動。
第3次日韓協約で解散させられた韓国軍の元兵士が参入し本格化した。
桂内閣は軍隊を増派して鎮圧に乗り出したが、その最中の1909年に、初代韓国統監の伊藤博文が韓国の運動家である安重根に駅で射殺されてしまった。
ちなみに安重根は韓国では英雄視されており(記念館があるほど)、日中韓が協力して西洋と戦おうという汎アジア主義を掲げていた彼は、日本でも右翼勢力を中心に賞賛の声があったと言う。実際、安重根は日本の天皇を敬愛し、旅順の日本人とも仲が良かったのだが、根も葉もない陰謀論(伊藤博文が孝明天皇を暗殺した)を間に受けて、韓国併合反対派の伊藤博文を殺してしまったことは、彼にとって最大のミスだったと言えよう。

韓国併合
1910年。伊藤博文暗殺をきっかけに、韓国に併合条約を強要し韓国を植民地化した。
さらに漢城を京城と改称し、統治機関の朝鮮総督府を設置した。
初代総督は、3代目韓国統監の寺内正毅が引き継いだ。

日米通商航海条約
1911年に小村寿太郎が締結。条約改正の最大の悲願、関税自主権が回復した。
これにより日本は欧米諸国と対等な立場を獲得した。

国家主義
対外膨張主義。日露戦争勝利後に主流の思想となった。
日本の大陸進出を肯定した高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の日本主義など。
キリスト教徒や社会主義者はこれに反対したが少数派であり、逆に圧迫された。
その後日露戦争で日本が列強国の一員になると、国家論よりも地方の利益や自分の人生のほうが深刻な悩みだと、国家主義は疑問視されるようになる。

帝国大学
1886年の帝国大学令によって作られた国立大学。
東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、京城大学(※現ソウル大学)、台北大学、大阪大学、名古屋大学。

ロマン主義文学
与謝野晶子が活躍した雑誌『明星』が中心となった。
樋口一葉:『たけくらべ』『にごりえ』
泉鏡花:『高野聖』
島崎藤村:『若菜集』詩歌。

自然主義文学
フランスやロシアの影響を受ける。
人間社会の暗い現実をありのままに描く。
国木田独歩:『武蔵野』
田山花袋(たやまかたい):『蒲団』
島崎藤村:また出た。『破戒』
石川啄木:『一握の砂』『悲しき玩具』詩歌。

夏目漱石
現代文学は全てこの人の影響を受けているといってもいいほどの言わずもがなの大作家。
自然主義とは別に人間の内面を社会や国家のあり方になぞらえた。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』『こころ』『三四郎』
読んだことあるけど、私にはむつかしくて(特に『草枕』)よくわからなかった。
村上春樹とかも何がいいんだかわからないしな。

岡倉天心
1898年に日本美術院を創設。
彼が設立した東京美術学校は伝統美術を重視したが1896年には西洋画科も新設された。
文部省も伝統美術と西洋美術の共演を図ろうと1907年に文部省美術展覧会を創設している。

黒田清輝
フランスの印象派の画風を学んだ洋画家。西洋美術団体の白馬会を創立した。

高村光雲
『老猿』で有名な彫刻家。
フランスでロダンに学んだ彫刻家の荻原守衛(おぎわらもりえ)と対立したが、やがて共存した。

新劇
日露戦争後に西洋の近代劇が翻訳されて上演されるようになった。
坪内逍遥の文芸協会や、小山内薫の自由劇場など。

明治時代覚え書き②

明治時代中期
征韓論を主張し、政府から下野した多くの士族は、軍事的な反乱を起こす。
しかし士族の中には、言論の力で民主主義国家設立を訴える者もいた。
憲法の制定、国会の開設、産業革命、国家主義・・・アジアの列強国になるための基礎は、この時期に固まったと言って良い。
生活様式では日本風と西洋風が混じり合い、大都市では鉄道馬車(レールを走るタイプの馬車)や電灯が普及したが、農村での生活はさほど代わり映えはしなかった。

不平士族
征韓論の背景には、版籍奉還で失職した上に、徴兵令によって軍人としても存在価値がなくなってしまった士族の不満があった。
つまり、このような不平士族を朝鮮征服の兵力として利用しようとしたのだ。
征韓論争によって政府から離れた者の中には、西郷隆盛のように士族反乱を起こすものと、板垣退助のように自由民権運動を起こすものがいた。

佐賀の乱
1874年に地元佐賀の不平士族にかつがれた元参議の江藤新平が起こす。士族反乱の先駆けになった事件。政府に鎮圧され、江藤新平は処刑された。

台湾出兵
不平士族の不満を和らげるために1874年に行った。

江華島事件
1875年。朝鮮の首都の近くの江華島で、領海を侵犯した日本の軍艦(日本の言い分では測量)を不審船だと思った朝鮮が、その軍艦に対して砲撃を開始、交戦状態になった事件。
この時の砲台は日本に焼き討ちにされてしまった。

日朝修好条規
江華島事件の翌年の1876年に結ばれる。これにより鎖国していた朝鮮が開国。
日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮に関税自主権を与えないなど、かつて自分がアメリカにやられた事をそっくりそのままやった不平等条約。
その一方で朝鮮の独立は約束された。とはいえこれも、朝鮮を清から引き離す目的があった。

廃刀令
1876年。武士の命である刀を持つことを禁止した。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)
こちらも1876年。四民平等になってからも士族が受けていた特別報酬(秩禄)を全廃した。

士族反乱
廃刀令と秩禄処分のダブルパンチにより、士族の不満はさらに高まり、熊本の敬神党の乱や福岡の秋月の乱、山口の萩の乱などの反乱が相次いだ。

農民反乱
徴兵制度や学制に反対する血税一揆や、地租改正に反対する地租改正一揆などが士族反乱と同じ頃に起きた。
しかしこのような反乱は1877年に地租の税率を3%から2.5%に下げたことで沈静化した。

西南戦争
1877年に西郷隆盛が起こした最大の士族の反乱。
半年間に及ぶ戦いの末に鎮圧された。
自分が育てた屯田兵を引き連れて西郷討伐に当たった、同郷の黒田清隆(後の内閣総理大臣)はこの戦争があまりにショックで以後、酒に酔い荒れた生活を送るようになったという。

民選議員設立の建白書
士族反乱が起きた一方、武力ではなく言論の力で自由民権運動を起こした不平士族もいた。
愛国公党を立ち上げた板垣退助や後藤象二郎は1974年に、立法上の諮問機関にあたる左院に民選議員設立の建白書を提出した。
この主な内容は、有司専制(政府官僚による専制政治)の批判と、公の議論を行うための国会の設立要求だった。

立志社設立
故郷の土佐に帰った板垣退助が、片岡健吉、植木枝盛、林有造らとともに設立。
さらに立志社を中心とした全国組織を目指し、旧愛国公党の同志を集めて大阪に愛国社も設立された。

大阪会議
1875年。内務卿の大久保利通と板垣退助、木戸孝允が大阪で行なった三者会談。
これにより明治政府は国会開設の方針を決め、漸次立憲政体樹立の勅を発表した。
これと同時に、府知事と県令で組織される地方官会議や、大審院(最高裁判所)、元老院(立法諮問機関)を設置した。

元老院
左院が廃止されてできた。1876年には憲法草案の起草が開始された。
しかし、その一方で過度な自由主義者を、讒謗律(ざんぼうりつ。名誉毀損罪のこと)や新聞紙条例によって厳しく取り締まった。

三新法
1878年。郡区町村編制法(画一的な行政区画を定める)、府県会規則(府県予算案の審議の一部を府県会に任せる)、地方税規則(複雑な諸税を地方税に統一)の三つの新しい法律のこと。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年。内務卿の大久保利通が石川県の不平士族に暗殺された。
これにより大久保利通に取り立てられ、イギリス式の議院内閣制の早期導入を主張する大隈重信と、保守派で国会開設に反対する岩倉具視やイギリスよりも君主の力が強いプロイセンの憲法を導入したい伊藤博文が対立。
新たな内務卿には伊藤博文が就任したが、政府内の対立は続いた。

国会期成同盟
1880年に愛国社の呼びかけで結成。
国会開設の請願書を、太政官や元老院に提出しようとしたが受理してもらえなかった。
さらに政府は集会条例によって自由民権運動の政治結社を規制しようとした。

開拓使官有物払い下げ事件
1881年。
北海道の開拓長官だった黒田清隆が、薩摩藩の政商の関係する関西の貿易社に、北海道の開拓使が所有していた官有物を不当に安く払い下げようとした事件。

明治十四年の政変
開拓使官有物払い下げ事件により政府は世論の厳しい批判に合い、これに関わったとして大蔵卿の大隈重信を1881年に罷免、さらに政府は国会開設の勅諭を出して、10年後の国会の解説を約束した。
政治の世界から追放された大隈重信は、かの有名な早稲田大学(東京専門学校)を作っている。

欽定憲法
国民の総意に基づいた民定憲法を、天皇がその意志で採用し、定める憲法。
つまり君主によって国民に与えられる憲法。

私擬憲法
民間で作られた憲法案。
福沢諭吉:『私擬憲法案』イギリス式議院内閣制。
植木枝盛:『東洋大日本国国憲按』抵抗権や革命権を認める急進的な内容。
立志社:『日本憲法見込案』君主権を縮小。

自由党
1881年に国会期成同盟の一部が結成。党首は板垣退助。
フランス式の共和制を主張した。
板垣退助は「庶民派」のリーダーとして農村からの支持が高かった。

立憲改進党
1882年に結成。大隈重信が党首。
イギリス式の議院内閣制を主張する。
都市の実業家や知識人からの支持が高かった。

立憲帝政党
政府側の福地源一郎が結成した保守政党。
民衆の支持が集められず、すぐに解党した。

松方財政
大隈重信に代わって大蔵卿になった松方正義は、西南戦争と国立銀行の不換紙幣大量発行による政府の財政難を何とかするため、大規模な財政改革を行った。
まず政府の支出を軍事以外はすべて緊縮。さらに増税によって不換紙幣を集め、それを処分することでインフレを食い止めようとした。

日本銀行設立
1882年、松方正義が設立。翌年には国立銀行条例を改正、銀行券の発行は日本銀行のみが行えるようにした。

銀兌換紙幣
1885年。デフレ政策によって紙幣と銀貨の価値の差がなくなると、日本銀行券を銀と交換ができる銀兌換紙幣にした。

岐阜事件
1882年。岐阜を遊説していた板垣退助が暴漢に襲われて負傷した事件。
「板垣死すとも自由は死せず」はこの時の言葉。

福島事件
1882年。自由党最初の激化事件。
県道工事によって重い負担をかけられた農民が、自由党の支援の下、警察署に押しかけ約2000人の逮捕者を出した事件。

高田事件
1883年。新潟県で、政府高官の暗殺を計画したとして自由党の党員が逮捕、処罰された事件。この時の逮捕者はほとんどが冤罪で、政府による自由民権運動の弾圧だった。

群馬事件
1884年。自由党急進派が厳しいデフレによって貧困に喘ぐ農民、漁師、博徒を率いて高利貸の家を打ち壊した事件。
このような一部の自由党員の過激な行動は、板垣退助が政府に懐柔され(政府からの洋行の提案に板垣が乗った)、自由党の足並みが乱れたことが原因だった。

加波山事件(かばさんじけん)
1884年。若い民権家が栃木県令を暗殺しようとした事件。
この直後、自由党は解散した。

秩父事件
1884年。困民党を名乗る貧困農民が、負債の減免を求めて警察署、役所、高利貸を襲撃し、軍隊まで出動した事件。
こういった一連の事件の全てが自由党によるものではなかったが、自由党は支持者の信用を失っていった。

海坊主退治キャンペーン
海坊主とは三菱の岩崎弥太郎のこと。
自由党の機関紙の自由新聞によるキャンペーンで、立憲改進党が三菱から資金提供を受けていると暴露した。これにより大隈重信は離党、立憲改進党も事実上の解党になった。

大阪事件
1885年。元自由党員による朝鮮政府転覆計画が発覚した事件。
過激行動と弾圧の繰り返しで、自由民権運動は次第に勢いがなくなっていった。

大同団結
国会開設が3年後になると、自由民権運動は再び盛り上がり、後藤象二郎は自由党と立憲改進党の確執を忘れて団結しようと呼びかけた。

三大事件建白運動
片岡健吉が井上薫外務大臣の不平等条約改正交渉を失敗と批判、元老院に三大事件(外交失策の挽回、地租改正、言論集会の自由)の建白書を提出した。
これをきっかけに三大事件への陳情が各政府機関に殺到、政府は危険思想の持ち主(と思われる人)を皇居から12キロ以内から締め出すという保安条例によって三大事件建白運動の運動家を東京から締め出したが、この運動は東北地方を中心に継続、旧民権派の再結集が進んだ。

憲法調査
1882年にヨーロッパに来訪した伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから君主の権限が強いドイツ流の憲法理論を学んだ。翌年帰国。

華族令
1884年。公家や大名などでなくても国家に功績を残した人は華族として認められる(=世襲の爵位が与えられる)法令。
貴族院(上院)の基礎を作るために作られた。

内閣制度
1885年。太政官制に代わって制定。
内閣は天皇の輔弼機関であり、各省庁は天皇に対して助言を行うとともに、天皇の行為に対してはその責任を負う。
ちなみに現在の内閣は国会に対して責任を負う(議院内閣制)。
内閣の首班となるのが総理大臣で、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。

憲法草案の作成
1886年。作成者は伊藤博文、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、総理秘書官で日本法律学校(日本大学)初代校長の金子堅太郎など。顧問はドイツの法学者ロエスエル。彼は商法の草案作りにも関わった。

枢密院
1888年設置。天皇の諮問機関。
憲法草案の審議が天皇臨席の上で行われた。

市制・町村制
1888年。山県有朋らがドイツのモッセを顧問にして作った地方自治制度。
1890年には府県制・郡制もできた。

大日本帝国憲法発布
天皇が制定し、それを黒田清隆総理大臣に授ける形で1889年2月11日に発布。
天皇と内閣に強い権限があったことが特徴。
ドイツの憲法を参考にしたため、天皇の権限が非常に強く、官僚の任免権、国防の方針の決定権、軍の統帥権、条約締結権などは全て天皇にあった。
このような国会が関与できない天皇の権限を天皇大権という。
特に軍の統帥権は内閣からも独立し、天皇直属の権利とされた。

帝国議会
明治憲法下における国会。
貴族院と衆議院の二院制で、両議院は対等の権限があった。
貴族院は、皇族や華族、多額納税者銀、内閣の推薦で天皇に任命される勅撰議員など非公選の議員によって構成され、政党議員はいなかった。
内閣の予算案や法案は帝国議会を通さなければならないため、政党の力は強まっていった。

臣民
明治憲法下における国民。
所有権の不可侵、信教、言論、出版、集会、結社の自由を法律の制限付きで認められた(法律の留保)。また帝国議会を通して国政に参加する権利も認められた。

衆議院議員選挙法
大日本帝国憲法と同時に公布。
選挙人は満25歳以上。被選挙人は満30歳以上で、直接国税(地租と所得税)15円以上納入した(全人口の1%しかいない)男子に限る制限選挙。
議員出馬のための納税制限は、その後10円以上→3円以上と引き下げられ、1925年に撤廃された。

皇室典範
大日本帝国憲法とともに制定(公布はされなかった)。
皇室に関する基本的な法典。欽定の最高法規で国会が関与することはできなかった。

民法典論争
民法は「日本近代法の父」と呼ばれるフランスの法学者ボアソナードが起草し、1890年に発表されたが、フランス流の自然法思想が日本の保守的な伝統にそぐわないとして、その施行は無期限延期された。
とはいえ、ナポレオン法典をそのまま日本に導入すべきとは考えていなかったボアソナードは、日本の慣習法と折り合いをつけ、また民法の他にも、刑法や治罪法など国内法の整備に積極的に取り組み、不平等条約の改正に大きく貢献をした(日本は民法がないことを理由に治外法権を正当化させられていた)。

第1回衆議院議員総選挙
1890年。大勝したのは自由党が再結集して出来た立憲自由党や立憲改進党。
立憲自由党は翌年党名を再び自由党に改めた。
自由党などの反政府系政党は民党と呼ばれた(政府系の政党は吏党)。

第1回帝国議会
1890年11月25日。
衆議院の過半数を占めていた民党は、行政費を削減し人民の税負担を減らせと、政府予算案を激しく批判した。

超然内閣
黒田清隆が発表した、内閣は政党のあり方に左右されないという立場。
しかし時の山県有朋内閣は、過半数を占める民党の意見を無視できず、その後の第一次松方内閣も軍艦建造費の予算案を通そうとして民党の激しい攻撃にあっている。

第2回衆議院議員総選挙
松方内閣の内務大臣だった品川弥二郎は、民党候補者の当選を阻もうと、選挙干渉を行ったが、結果はやっぱり民党の圧勝だった。これにより松方内閣は退陣した。

元勲内閣
第2次伊藤内閣のこと。明治維新で功績を残した薩摩藩や長州藩の実力者たちがオールスターで入閣したためこう呼ばれている。しかしやっぱり、民党の勢いを止められなかった。
このため伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光を使って自由党に接近、切り崩しを図った。
これが成功し、政府と自由党のあいだに連帯が生まれた。
また伊藤博文は天皇の権限に頼り、議会に政府への協力を呼びかけさせた。これにより海軍の軍備拡張に成功した。
しかし、政府に擦り寄った自由党に反発した立憲改進党は、逆に吏党の国民協会などと同盟を結び、第5、第6回帝国議会では過半数を取ったため、伊藤博文はその後も厳しい内閣運営を強いられた。

企業勃興
1886~89年までの会社設立ブームのこと。
デフレ不況(松方財政)だった頃に、土地を安く買い叩いて大儲けした豪農や豪商によって、全国の会社資本は増加、金融機関の資金は不足するようになったが、1889年に凶作が起こると企業勃興は終わった(1890年不況)。
企業勃興で生まれた会社は、機械技術の導入で大量生産を図り、産業革命の原動力になった。

紡績業
綿花から繊維を取り出し綿糸を作る産業のこと。
幕末~1870年代までは、関税自主権が認められなかったために、外国の安い綿織物が大量に輸入され、国内の綿織物業は不振だったが、その後業者は外国から安い綿糸を大量に購入し、ジョン・ケイの飛び杼の原理を手織り端の技術に組み込むことで、生産量を上げた。
これにより綿織物を安く大量に生産できるようになり、綿織物業は復興、綿糸の国内需要も高まり、1882年には大阪紡績工場が設立した。

大阪紡績工場
「日本資本主義の父」とも呼ばれる実業家の渋沢栄一が設立。
イギリスから輸入した紡績機械を蒸気機関で動かし(それまでは水力が主流)、安価な綿糸の大量生産に成功する。
これにならった大阪の豪農や豪商たちが、企業勃興時に次々に紡績会社を設立したことで、1890年には、国内で生産された綿糸の量が、輸入綿糸の量を超えるまでになった。
ちなみに渋沢栄一は、みずほ銀行や東京証券取引所、また、王子製紙、帝国ホテル、東京海上火災保険、キリンビール、サッポロビール、東京慈恵会、日本赤十字社、理化学研究所なども設立している。
彼は私利私欲よりも公益を優先させたため、同時代の他の実業家と異なり財閥を作っていない。
幕臣時代には、パリ万博に行ったり、エジソンに会ったりもしている。

製糸業
こちらはカイコの繭から生糸を作る産業のこと。
生糸は幕末以来、日本で最大の輸出品だった。
これまでは木製の歯車を手で回して糸を巻き取っていたが(座繰り製糸。ガンジーシステム)、外国製の繰糸器が導入され、器械製糸が主流になった。農村ではカイコの養殖も盛んになった。

日本鉄道会社
1881年に華族が主体となって設立した民間の鉄道会社。
これも企業勃興の時期に次々に設立されている。

財閥の誕生
1884年から政府が軍事工場と鉄道以外の官営事業を民間に払い下げると、これを買い取った民間企業は莫大な利益を上げて財閥となった。
三井、三菱、古河などの政商は、優良鉱山を政府から買い取り、巻上機などを使うことで石炭や銅の生産と輸出を増やした。
また北九州の筑豊炭田では排水用ポンプが導入され開発が進んだ。
三井財閥:江戸時代の両替商、三井家の財閥。日本初の私立銀行を設立。
三菱財閥:土佐藩の通商、岩崎弥太郎が設立。海運業を独占支配。
安田財閥:安田善次郎が明治時代に創業した安田銀行をもとに創始。

不平等条約改正
岩倉使節団(1871~73年)から続く不平等条約撤廃のための外交努力。
寺島宗則→井上薫→大隈重信→青木周蔵→榎本武揚→陸奥宗光→小村寿太郎という流れでやっと改正されるが、これは日米修好通商条約からなんと53年という長い道のりだった。

寺島宗則
1878年。アメリカに対し関税自主権の回復に絞って交渉を持ちかけ、ほぼ成功したけたが、イギリスやドイツの反対によって惜しくも失敗した。
また同じ時期に日本にアヘンを持ち込んだイギリス人が治外法権で無罪になるアヘン密輸事件が起き、関税自主権よりもまずは領事裁判権撤廃が先だろ、と世論の声が上がった。

井上薫
1882年。領事裁判権の撤廃をメインに交渉を進めた。
寺島外務卿の失敗を生かして、欧米各国の代表者を集め改正に向けた予備会議を開き、1883年には日比谷に鹿鳴館を建て欧米の要人を接待した。
井上薫は1886年に入ると正式に改正交渉を始め、領事裁判権の原則撤廃を欧米諸国にだいたい認めさせたが、この改正案には、外国人を日本で裁く場合その判事には外国人を半数以上付けることや、外国人の行動範囲を居住地から全国に広げるなどの交換条件があったため、政府内外から批判が続出した。
同じ時期に三大事件建白運動が起こり、鹿鳴館外交も極端な欧化主義だと批判、こうして井上薫は辞任に追い込まれた。
ちなみに初代内閣総理大臣の伊藤博文とは同郷の親友でドスケベコンビだった。

大隈重信
明治十三年の政変で下野し、東京で専門学校(早稲田大学)を開いていたが、井上薫が辞任すると、彼に代わって外務大臣に抜擢された。
大隈重信は、不平等条約の改正内容を極秘にして、改正に好意的な国から個別に交渉を始め、アメリカ、ロシア、イギリスから条約改正の調印を受けることに成功する。
しかし1889年、この条約改正案にも、大審院の裁判の判事には外国人を任用するという日本にとって不利な条件がついていることが『ロンドン・タイムズ』に暴露され、右翼の青年の来島恒喜(くるしまつねき)から爆弾で右脚を吹き飛ばされた大隈重信は、外務大臣を辞任した。
大隈重信は、この事件を起こした来島恒喜について「全然憎んでいない。若い奴はこれくらいの元気がなくちゃ」と語ったという。

青木周蔵
大隈重信に代わって外務大臣に就任。
彼は交渉相手を最大の難関だったイギリス一国に絞った。
しかしこの時のイギリスはロシアの南下政策を警戒し、清に利権を持つイギリスは日本との協力体制を築こうとしていた。
これによりイギリスは日本に対等条約を持ちかけ、無条件での条約改正交渉はほぼ合意にこぎつけていた。

大津事件
1891年。青木周蔵の交渉がまもなく締結しようとした時、滋賀県の巡査の津田三蔵が来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)に切りつけた傷害事件が発生。
津田巡査は、政府の圧力に屈せず司法権の独立を守った児島惟謙によって死刑を免れたが、大きな外交問題となり、この責任を取って青木周蔵は辞職した。

榎本武揚
青木周蔵に代わって外務大臣に就任。
青木案に沿って交渉を進めようとしたが、国内の世論が「それよりも諸法典の編纂を優先しろ」となったため、結局交渉は進まなかった。

壬午軍乱(じんごぐんらん)
1882年、日本よりも清との関係を重視しようという親清派の大院君(テウォングン)を支持する軍隊が、親日派の閔(ミン)氏一族に反対して、漢城で反乱を起こし、この反乱に呼応した民衆たちが日本公使館を取り囲んだ事件。
この反乱は結局失敗に終わったが、親日派だった閔氏は日本ではなく清に依存することにした。

甲申事変(こうしんじへん)
日本と接近して朝鮮を近代化させようと考えていた、独立党の金玉均(キムオクキュン)ら親日改革派は、清仏戦争(1884年)で清が負けたのを見計らって、日本公使館の支援のもとでクーデターを起こした。しかし清の支援によって、このクーデターも鎮圧されてしまった。

天津条約
1885年。全権大使の伊藤博文が、清国全権の李鴻章(りこうしょう)と悪化した日清関係を修復すべく結んだ条約。
日清両国が朝鮮から撤兵すること、日本が軍事教官を朝鮮に派遣しないこと、今後朝鮮に出兵するときはあらかじめお互いに通告し合うことが約束された。
しかし壬午軍乱と甲申事変によって、朝鮮に対する日本の影響力は低下し、清の影響力は増大した。そのため、日本国内では清と朝鮮に対する感情が悪化し、どっちもまとめて武力制圧すべきだという世論が強まった。

樺太・千島交換条約
1875年。日本(駐露公使榎本武揚)とロシアが樺太と千島列島を交換した。
これにより樺太はロシア領、千島列島は日本領になった。

小笠原諸島
東京の南の果てにある島々。
1876年に日本の領土だということが国際社会によって確定。
内務省の管轄になった。

脱亜論
福沢諭吉が提唱。日本はアジアから脱却して欧米に肩を並べる列強国になり、植民地を獲得していくべきだと考えた。
しかし、まずもって国民の幸福を主張する平均的欧化主義や近代的民族主義論者は、こういった日本の大陸進出には慎重だった。

島地黙雷(しまじもくらい)
政府の神道国教化に反対した浄土真宗の僧侶。神仏分離や信仰の自由を主張し、廃仏毀釈で打撃を受けた仏教の独立を勝ち取った。

キリスト教徒の知識人
札幌農学校のクラークなどの影響で増加する。
内村鑑三や新渡戸稲造など。

教育令
1879年公布。地方の実情を無視した画一的で強制的な学制を緩和、自由主義的にした。

学校令
1886年。森有礼文部大臣の下、公布。
帝国大学、師範学校、中学校、小学校と近代的な学校の体系が確立された。

教育勅語
1890年。学校教育の基本が忠君愛国とされた。

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
評論家。1885年に発表された『小説神髄』において、西洋の文芸理論に基づいて人間の内面や世相を客観的かつ写実的に描くべきだと主張。
戯作や勧善懲悪は否定された。この主張を取り入れた作家として、『浮雲』の二葉亭四迷、『五重塔』の幸田露伴がいる。

『文学界』
1893年創刊。
啓蒙主義や合理主義に反発し、人間の個性や感情を重視したロマン主義の作家の文芸雑誌。

『舞姫』
森鴎外が『国民の友』に掲載。ロマン主義的な短編小説。
ベルリンに留学した主人公が、エリスという美少女に出会い同棲したが、ロシアに転職することになり、これを知ったエリスが発狂してしまうという話。
・・・すまん、よく知らん(^_^;)

東京美術学校
現在の東京芸術大学。1887年設立。
西洋美術を排除した学校で、校長は岡倉天心、第一回の卒業生には横山大観がいる。
アメリカから教授として招かれたフェノロサは、日本の伝統美術を大いに称え、一方の西洋絵画を有害文化だと考えた。

『収穫』
浅井忠(あさいちゅう)の作品。バルビゾン派のミレーを思わせるような西洋絵画。彼が中心になり1889年には明治美術会が結成された。

団菊左時代
1890年代に大人気だった、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次の3人の歌舞伎役者にちなむ。

壮士芝居(新派劇)
自由民権思想を普及させるための劇。壮士とは自由民権運動の活動家のこと。
1888年に角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民の支援を受けて大阪で旗揚げした。
1891年には、川上音二郎が政府や社会を愉快に風刺するオッペケペー節を流行させた。

明治時代覚え書き①

明治時代の概要(1868年~1912年)
一人の天皇につきひとつの元号になったので、期間としてはそこまで長くはないんだけど、近現代史ってことで、文明開化から日清・日露戦争まで盛りだくさん。
西洋型の近代国家となった日本は、国際社会と積極的に関わるようになり、世界史と日本史は合流していく。

明治時代前期
王政復古の大号令に納得がいっていない旧幕府軍との戦争によって明治時代は始まった。新政府は戊辰戦争を繰り広げながらも着々と明治時代のアウトライン(天皇親政、身分制度緩和、近代的な議会政治など)を描き、戦争が終わると破竹の勢いで近代化を実現させるが、幕末に結ばれた不平等条約によって関税自主権がなかったため、国内産業が苦戦、全体的に経済活動はあまり活発化しなかった。

小御所会議(こごしょかいぎ)
1897年12月9日、王政復古の大号令が出された日に行われた、公武合体派と倒幕派の会議。徳川慶喜の内大臣の辞退と、徳川家の領地の半分を朝廷に納めることが決まった。

戊辰戦争
しかし新政府の決定に納得しなかった旧幕府派は、薩摩藩の挑発に乗り新政府との対決姿勢を表明、旧幕府軍を組織した。これにより小御所会議の決定に一度は従った徳川慶喜も、旧幕府軍を支持することになった(自分が担ぎ上げられているわけだし)。
戊辰戦争は1年半も続いた。

鳥羽・伏見の戦い
1868年1月に京都の鳥羽と伏見で起こった1万5000人の旧幕府軍と5000人の新政府軍(官軍)の戦い。
人数的には劣っていた官軍が近代兵器を駆使して官軍が勝利したと言われるが、実際には武器の性能よりは、官軍の指揮系統や士気の高さが勝利につながったと言われている。
なんにせよ敗れた旧幕府軍と慶喜は江戸に逃亡した。

江戸無血開城
官軍の最高実力者の西郷隆盛は、慶喜を追って江戸を総攻撃しようとしたが、旧幕府軍陸軍総裁になっていた勝海舟との和平交渉に応じ、1868年4月に江戸城は無血開城、新政府の占領下になった。篤姫でそんなことやってたな。
ちなみにこれを不服とする旧幕臣(彰義隊)は上野で抵抗。アームストロング砲を撃ち込まれている。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
江戸城は新政府の手に落ちたが、地方では依然旧幕府派の抵抗が続き、会津藩などの東北や北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成した。
しかし官軍によって9月に会津若松城は陥落、東北諸藩の抵抗勢力は撃破された。
八重の桜でそんなことやってたな。

五稜郭の戦い
旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は函館の五稜郭に立てこもったが、のちの総理大臣になる黒田清隆の腹を割った交渉などにより1869年の5月に榎本武揚も降伏。こうして戊辰戦争は終結し、全国は統一された。
ちなみに五稜郭とは大砲がいろんな角度へ撃てるように星型になった要塞。

新政府の政策
戊辰戦争中に新政府は9つの政策を実行した。

新政府の政策①諸外国への政権交代宣言
新政府が天皇中心の政権であることを海外に宣言。

新政府の政策②五箇条の御誓文の公布
新政府の基本方針。
1条:各地で広く会議を開き公開された会議で重要事項は決定されます。
2条:国民が一丸となって経済を振興しよう。
3条:身分に関わらず誰もが志を抱き、それを達成できるようにしよう。
4条:旧来の慣習はやめて、国際法に基づこう。
5条:新しい知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎を作ろう。

由利公正(ゆりきみまさ)が原案を作成、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と木戸孝允が加筆・修正。

新政府の政策③五榜の掲示の公布
国民が守らなければいけない儒教的道徳を示している(一札)。
また民衆の徒党や強訴(二札)、キリスト教(三札)、外国人への暴行(四札)も禁止された。最後は犯罪者が逃亡することを禁止している(五札)。

新政府の政策④政体書の公布
政府の組織を示したもの。国家権力を太政官という中央政府(機関であって役職ではない)に集め、アメリカ合衆国憲法の三権分立制も導入された。
立法機関は議政官で上局と下局で構成。
行政機関は行政官。
司法機関は刑法官。

これらは全て太政官に含まれる。

新政府の政策⑤東京への改名
江戸から東京に名前が変更され、首都は東京に。天皇の皇居は江戸城になった。

新政府の政策⑥一世一元の制の採用
天皇一代につき元号も一つということになった。

新政府の政策⑦府県設置
没収した旧幕府領のうち重要なものは「府」、その他は「県」とされた。
よって、この段階では藩地は府県にはなっておらず、藩の統治権は藩主が握り続けていた。

新政府の政策⑧版籍奉還
各藩の藩主が、領地(藩図)と領民(戸籍)を天皇に返還した。
まず薩長土肥が明治政府の求めに応じて先立って版籍を奉還、その他の藩もこれに倣った。
藩主は知藩事と言う地方長官に命じられ、石高に応じて家禄が与えられた。
徴税権と軍事権は知藩事が掌握していた。

新政府の政策⑨四民平等
藩主や公家は華族に、旧幕臣や旧藩士は士族になった。
農工商の人は平民になり、華族や士族と結婚したり、自分の好きな職業に就くことができるようになった。
しかし、えた・非人出身者の戸籍は「新平民」と分けて記載され、実質的な差別は依然として残ってしまった。

壬申戸籍
1871年に制定された戸籍法によって、その翌年作られた日本初の全国的かつ近代的な戸籍。

廃藩置県
明治政府の財源は、旧幕府直轄領(府県)からの徴税のみだったため、明治政府は財政難となり、府民の住民からの厳しい税の取立ては、各地で一揆を頻発させてしまった。
そこで明治政府は1871年に廃藩置県を断行、そのための軍事力として薩摩・長州・土佐から兵士を募集し御親兵(ごしんへい)を組織した。
明治政府は、藩制度を全廃し、全ての藩を府県にすることで政府の統治下におき、新たに増えた府県から財源を確保することができるようにした。
これにより藩主は知藩事を罷免され東京に移住、その代わりに中央から府知事や県令が府県に派遣され、地方行政にあたることになった。

中央官制
祭政一致と天皇親政の考えのもと、1868年(戊辰戦争中)に作られた太政官制を改正。
太政官の上に神祇官をおいた。
太政官は正院、左院(元老院。立法上の諮問機関)、右院(行政上の諮問機関)の三院制となり、正院の中に大蔵省、兵部省、外務省、文部省、工部省、開拓使などの各省を入れた。

富国強兵
経済を発展させて国家の軍事力を増強させる考え方。

殖産興業
国家を近代的にするための産業育成策。工部省が指導し、軍事は兵部省が担当した。
兵部省は1872年に陸軍省と海軍省に分かれている。
ちなみに陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルに作られたという。

藩閥政府
政府の要職(正院参議や、各省の卿など)に薩長土肥の若い実力者がついた体制のこと。
薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆
長州藩:木戸孝允、井上薫、山県有朋
土佐藩:板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行
肥前藩:大隈重信、副島種臣、江藤新平

岩倉使節団
1871年末、不平等条約撤廃と欧米視察のために派遣。
メンバーは岩倉具視(特命全権大使)、木戸孝允(副使)、大久保利通、伊藤博文、山口芳尚ら約50名。また津田梅子など40人の留学生も同行した。
不平等条約の改正自体は失敗に終わったが、欧米諸国の政治や産業を詳細に視察したことで、今後の明治政府の運営に大きな影響を与えることになった。

留守政府
岩倉使節団が帰国する1873年9月まで、留守を預かった政府のことで、西郷隆盛らが中心となって内政を行った。

留守政府の政策①学制の実施
1872年。
フランスの学校制度に基づき、文部省主導のもと、男女が等しく学ぶ国民皆学教育や小学校教育を実施した。

留守政府の政策②徴兵制の実施
騎兵隊の大村益次郎は農民主体の軍隊の方が武士の軍隊よりも強いという点に目をつけて、国民皆兵を唱えた。
これを受けて、1872年に山県有朋が徴兵告諭を発表、1873年には徴兵令が公布。
満20歳以上のすべての男子の兵籍編入が原則だったが、役人や官立学校の卒業生といった支配階級は除外された上に、お金(約700万円)さえ収めればどんな人でも兵役が免除されたので、8割以上の人が徴兵をまぬがれ、結局兵役に就いたのは農村の次男以下がほとんどだった。

留守政府の政策③地租改正条例
1873年。不安定な収穫高ではなく地価を基準に課税することにした。
また税は物税ではなく金納で、地券所有者を納税者とした。
地券とは地主の土地所有を証明する権利証。
しかしその厳しさは、江戸時代の年貢と変わらず、その上大切な働き手の子どもを学校や軍隊に取られたので、全国の農民は反対一揆を起こした。

明治時代前期の産業
電線:1869年に東京~横浜間に初めて敷かれ、その5年後には北海道と長崎が結ばれた。
北海道開拓:開拓使が主導し、アメリカ型の大農場や畜産技術が広められた。
屯田兵制度:1874年。失業した士族を北海道に派遣。開拓と対ロシア防衛が目的。
札幌農学校:1876年。アメリカの教育者クラークを北海道に招き開校。
新貨条例:1871年。金本位制に基づき円、銭、厘を単位とする新しい貨幣ができた。
政府紙幣:金や銀と交換できない不換紙幣だった。
郵便制度:前島密によって1871年に発足。飛脚に取って代わった。料金は全国一律。
鉄道:1872年に新橋~横浜の間に初めて敷かれた。
官営事業:工部省は鉱山、炭鉱、造船所など旧幕府から事業の経営を引き継いだ。
富岡製糸場:官営模範工場の先駆け。主力の輸出品だった生糸の生産拡大を狙った。
政商:岩崎弥太郎の三菱に政府は特権を与えた(有事の際に輸送を行わせるため)。

日清修好条規
1871年。日本が外国と結んだ初の対等条約。開港と領事裁判権が両国の間で承認されたが、日本に有利な不平等条約を結べばよかったのにと不満を持つ日本人もいた。

琉球漂流民殺害事件
台湾で琉球の漂流民54人が殺された事件。
当時台湾は清の領土だとされていたため、日本は清に賠償請求をしたが、清はまず琉球はそもそも清の属国だし(名目上として日本もこれを認めていた)、台湾は清の法的拘束力の外にあるとして賠償を拒んだ。
これに対抗して日本は強硬手段として1872年に琉球藩を置いたが(琉球処分)、清はこれを認めなかったため両国の関係はギクシャクした。ちなみに琉球藩の王は尚泰(しょうたい)。

征韓論争
鎖国政策を取り明治政府と国交を結ぶことを拒んだ朝鮮に対して、留守政府首脳の西郷隆盛や板垣退助は武力で朝鮮を屈服させる征韓論を唱えた。
朝鮮は、江戸時代の頃に窓口になっていた宗氏を廃し、宗氏と結んだ条約を一方的に破棄した明治政府に不信感があったらしい。
その後、征韓論は帰国した岩倉使節団に「いや、まずは国内の政治システムを整えたほうがいい」と拒否されたことで(内治優先論)、政府を揺るがす大論争に発展した。
結局、征韓論を主張した参議、軍人、官僚など約600人が辞職。これを明治6年の政変という。
これをきっかけに大きな権限を持つ内務省が設置され、それを統括し政府の最高権限を持つ内務卿には大久保利通が就任した。

明治時代前期の文化
儒教や神道の考えが廃れ、欧米的な自由主義や個人主事が流行った。
人間は生まれながらに自由で平等で幸福を追求する権利があるという天賦人権説はそれを象徴とするものだった。
1872年には太陽暦が導入、1日は24時間になり、日曜日は休日になった。
洋服、ざんぎり頭、レンガ造りの建物、ガス灯、牛鍋やポークカレーライスなどの洋食などは文明開化の象徴だった。その反面、これまでの日本の文化はあっさり捨てられてしまったが、錦絵や歌舞伎など一部の文化は、文明開化の時期にも流行をした。

大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)
1870年。寺社制度や祝祭日を制定。

神仏分離令
1868年。神仏習合を否定し、仏像を破壊する廃仏毀釈が全国で行われた(沖縄は例外)。

禁止の高札(こうさつ)の撤廃
1873年。浦上信徒弾圧事件(1868年)などに対する欧米諸国の抗議によってキリスト教は黙認されるようになった。

ジャーナリズム
1869年に本木昌造が導入した鉛製の活字鋳造によって、日本初の日刊新聞である『横浜毎日新聞』など、様々な印刷物が出版された。
福沢諭吉らの明六社は『名六雑誌』を刊行し、近代的な西洋思想を普及させた。

ブロントサウルス復活!

 まずは何も言わずに、本日アップロードされたこの論文を読んで欲しい。
 英語が弱いので定かではないが、(おそらく)全てのカミナリ竜の解剖学的特徴を歯から尻尾の先まで色分けグラフ化している(表4)。
 そして、アパトサウルス属に含まれる種(もしくは標本)がまさかこんなに多いんだ、ということに気づくだろう。あれもアパト、これもアパトでメガロサウルス並みによくわからない集団になってしまっていたらしい。
 そこで、ちょっとアパトサウルスってことになっている恐竜をもうちょい厳密に分析してみようよってなったところ、アパトサウルス・エクセルサスがアパトサウルスじゃなくて、別の属(つまりブロントサウルス)として独立することになったのだ!それもディプロドクス科としてではない!
 
 ディプロドクス上科、ブロントサウルス科、ブロントサウルス属!(´;ω;`)

 アラン・グラント博士じゃないけど、「子どもの頃一番好きだった恐竜だよ~まさか復活するなんてね~」って感じだ(あいつはトリケラトプスだったけど)。
 しかしトロサウルス騒動のように二転三転するこの世界、この論文を書いた人も「同じ種というのは異なる種よりも共通する特徴を多く持っていなければならない。そういった意味で、アパトサウルスとブロントサウルスが別の種であることは明白だった。でも、うそだろ~って思ってもう一回確認したんだけど、やっぱりブロントはアパトと違ってました」みたいなことをインタビューで言っている。パチンコじゃないが、なかなかの激アツであることは確かである。
 しかし自分が幼稚園の時に出会い、小学校高学年くらいには名称変更の憂き目にあっていたブロントサウルスが・・・長生きはするもんじゃわい。

 ちなみに、この論文、カミナリ竜の解剖学的なデータベースとしてかなりの超大作で、カアテドクスという種類の頭骨が保存状態がいいのか大活躍したり、シュノサウルスの頭骨の吻部がアパトサウルスのように丸く幅が広くなく、尖ってるなど、なかなか参考資料としても面白い。
 なによりアパトサウルスとされていた2種(アパトサウルス・ミニマスとグランディス)なんてディプロドクスどころかマクロナリアになっちゃってるぜ!大変動だ。
 丹波竜以降、恐竜の絵を封印し、大学の単位取得に勤しんでいた私だったが、ブロントサウルス復活となっては話は別。
 明治時代覚え書きの原稿を放り投げて、学生時代に描いたアパトサウルスのイラストを描き直してしまいましたとさ。

 つーことで、本日は「別種じゃね?」とあなたが物言いつけたから、4月7日はブロント記念日ということで、よろしく。
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