『自然を名づける なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』②

 この前の続き。

第6章赤ちゃんと脳に損傷を負った人々の環世界
 環世界センスがないと、人間は客体、外部の世界に“イカリ”を下ろすこともままならないという話。
 だからこそ、生まれたばかりの赤ちゃんも、猛烈な勢いで動物の名前を覚え分類学者の修行をする。もはや、これは本能といっても差し支えないくらいに。

 幼子はなぜ、ほんの数種類のイヌを見ただけで、どうやってチワワからグレートピレニーズまでが含まれる「イヌ」のカテゴリーを――ときには完璧に――把握するのだろう。なぜ、ネコ、テーブル、這っている人といった他の四つ足のものを、イヌと誤認しないのだろう。大人が「イヌ」と言って指さしたとき、それが意味するのがイヌの立てる音や、イヌの体の一部、あるいはイヌがいる場所のことだとなぜ誤解しないのだろう。同じく毛で覆われた、人間に馴れている四つ足の雄牛がイヌではないと、なぜわかるのだろう。そしてなぜ、そのイヌが足をすべて失っていたとしても、尾を短く切られていても、イヌだとわかるのだろう(194ページ)。

 これ(ほんの一部の事例から全体的な把握をしてしまう)って考えてみればすごい不思議で、ノーム・チョムスキーはこれをプラトンのジレンマと呼んだ。抜群のネーミングセンスである。確かにプラトンのイデア論はこの問題に関する彼なりのアンサーである。

 さて、そんな不思議な能力を持つ赤ちゃんが、さらに成長していくと、お馴染みの“恐竜期”や“ポケモン期”を通過する。
 よく、恐竜オタクでもミリタリーオタクでも、それが好きだって言う割には、恐竜や武器の名前やスペックを丸暗記しているだけで、それらに関係する知識(ミリタリーなら歴史、地政学、政治、経済、社会学、心理学、統計学、物理学など)を総合的に深めようとはしないよなって思ってたんだけど、それはとどのつまり、自分が好きなものを、分類し、命名し、規則どおりに並べることそれ自体が好きなんだっていう。

 恐竜に夢中になっている子どもを見れば誰でもわかるように、子どもたちは、恐竜に対して包括的な関心を寄せるわけではない。彼らが興味を持っているのは、恐竜の形態、行動、名前であり、彼らはその知識によって恐竜の種や属を見分け、分類しようとしているのだ。もし、エリック(※著者の子ども)が、狩猟採集民の世界に生まれていれば、そうした部族の子どもたちと同様に、村の周囲の動植物を分類・命名することを学び、絶滅した巨大な爬虫類に目を向けることはなかっただろう。だが、彼はアメリカの都市部に生まれ育ち、そうした環境にいる子どもの常で、自ら環世界に並べる生物として、おもちゃや絵として頻繁に登場する多種多様な生物、恐竜に焦点を合わせたのだ。

 日本の任天堂が作った仮想生物「ポケットモンスター」は、ボールごとポケットに入れて持ち運びできる小さな生物という設定になっている。映画、フィギュア、ぬいぐるみ、カードなど、ポケモン製品の幅広さには驚かされる。だが、わたしが最も驚いたのは、ほとんどすべての製品が、ポケモンを認識し、分類・命名するのに役立つようにつくられていることだった(190ページ)。

 最近、イギリスで行われた、学童を対象とする研究によると、平均的な八歳児はポケモンをとてもよく識別しており、そのおよそ八〇パーセントを識別できた。しかし、その子どもたちは、イギリスで一般的に見られる生物のことはあまりよく知らず、アナグマ、オークの木、野ウサギの写真を見せても答えられないことが多かった(191ページ)。


 さて、脳に損傷を受けた患者の症例から、どうやら環世界センスは側頭葉にあるらしいことは、ほぼ確定なようなんだけど、興味深いのは、ある患者さんは“生物だけ”分類がさっぱりできず(無生物は区別できる。生物カテゴリー特異性呼称障害と言う)、またある患者さんは“無生物だけ”さっぱり分類ができない(生物は区別できる)ということ。
 どっちも分類という意味では同じなのに、なんで生物か生物じゃないかでここまでくっきり分かれるんだ?って話になるんだけど、どうもこの両者は、分類をする上での“基準”が異なるらしい。
 私たちは、生物は外見、無生物は機能で区別しており、さらに生物の分類は、側頭葉の上側頭溝と側部紡錘状回、無生物の分類は、側頭葉の中側頭回と中央紡錘状回と、両者によって脳の活動する部位も異なっていることも分かっている(が、それ以上のことは未だに研究なう)。

第7章ウォグの遺産
 ウォグとは著者が仮定した、動植物に興味関心がある人間の祖先(類人猿)の名前。ウォグは自然を観察し、生き物を分類することが大好きで、生き物なんか興味ねえよていう類人猿のコブよりも多くの子孫を残すことができた。
 なぜならば、生物を分類して見分けるというのは、とどのつまり、それが食えるか食えないか、食われるか(危険な動物か)食われないか(安全な動物か)という、自然界でサバイバルするうえではとっても重要な判断能力だったからである。
 そして、このような環世界センスはなにもヒトに限ったものではない。ダイアナザル、ベルベットモンキー、アメリカコガラ・・・それどころかアメーバもやっているらしく(彼は単細胞の分類学者である)、そうなってくると、この「ウォグの遺産」は生物誕生の時から受け継がれてきた、すべての生物の生存にとってなくてはならないものだということになってくる。

第8章数値による分類
 生物の分類に数理的な統計学を持ち込んだパイオニア、ロバート・ソーカルの話。
 某超人のごとく、カンザス州にやってきたソーカルは生物に関する知識も、(デビット・ハルに言わせれば)複雑な関係性の中にパターンを認知する直感的能力(すなわちIQ)もなかった。 しかし、そんな門外漢だからこそ、ものさしと鉛筆、パンチカード(コンピュータ)さえあれば、旧来的な直感だよりの手法よりも、合理的かつ正確な分類ができると、分類学者たちにうそぶくことができたのだ。こうしてビール6缶パックを賭けた彼の戦いが始まった。
 同じ頃、ロンドンではピーター・スニースという若い医者が、「クロモバクテリウム」というマレーシアの病原菌を分類、教科書の分類では鞭毛の形(太いのと細いのの2タイプがある)で見分けましょうとか書いてあるのだが、実際に調べてみたところ、同じ細菌でも鞭毛のタイプが相互に素早く変わってしまうことがわかった。

 言ってみれば、細菌のそのときの気分によって分類しているも同然の頼りなさだった(227ページ)。

 なんだよこれ、しっかりしろよ細菌学者って感じだが、スニースは大人でいや!細菌が悪い!こいつらは他の生物と比べて、分類に役立つこれといった特性の差がねえ!と細菌の方に八つ当たりしてみた。

 細菌は人間の持つ環世界センスを容易に呼び起こさない種類の生物なのだ(228ページ)。

 この手の環世界センス(直感)に頼れない生物の分類をどうやったもんだろう。そう思った細菌学者は、とりあえず手当たり次第に特性を選んで、好き放題に分類をしてしまった。これはヤバイ。

 スニースにとって必要だったのはカンザスへの航空券だった。(略)ソーカルはすでにその問題を解いていたからである(229ページ)。

 ソーカルは、ハチの形質を数値コード化して(ここまでは実は従来の分類学者と変わらない)、それらの特性を直感ではなく、数式に当てはめて、近縁関係を並べていった(幸か不幸かソーカルにはハチに関する興味も知識もなかったので直感の働かせようがなかった)。
 全97種の計122形質、11834個の数値は“すべて同列に扱われ”、共通点の数だけ単純にカウントすることで作られた系統樹は、ハチの専門家(上司のミチナー教授)が知識と直感を駆使して作った樹形図とよく似ていたが、若干異なる部分もあった。
 これこそが数量分類学の誕生だった。環世界センスなしでも分類は(直感よりも正確に)出来たのである。

 数量分類学の降臨は単に数字だけの問題ではない。分類学者の生物界とのつきあい方や理解の姿勢が変わってしまったのだ。生きとし生ける物への没入とか感覚の饗宴はもはや分類学と関わりなくなった。いまや、分類学は器具で生き物の尻尾をつまみ上げ、突き放して観察し、レンズを通して冷徹に観察する仕事になったのだ(240ページ)。

 「分類学者はコンピューターに置き換えれば良いとおっしゃりたいのですか?」
 「違いますね。あなた程度だったらそろばんに置き換えれば十分です」(242ページ)


 しかし、この手法にも問題がなかったわけではない。これは、こしさんもよく指摘するんだけど。

 最大の難点は、数量分類学がつくる分類体系は(略)一般的な全体的類似性に基づく分類だった。数量分類学者が導いた樹形図は、最初にコンピューターに入力した数値、すなわち生物の群間に見られる全体的類似と相違の表のみを反映している。ダーウィンが求めてきたものへの回答ではなかったし、それを目指してもいなかった。つまり、数量分類学がつくった樹形図は分類学者にとっての究極目標である生物の進化的類縁関係を解明してはいなかった(244ページ)。

 その他にも(略)大きな問題があった。分類学者ならば誰もが承知しているように、ハチのもつあまたの形質の中から尾部の色彩パターンを選んでコード化するという形質の選択そのものが主観的な作業である。たとえ数値化されていたとしても、研究者が目に見える形質のどれを選び出すかによって大きくバイアスを受ける。観察が難しかったり、思いもよらなかったり、見つからなかったりという理由で、これまで分類学の解析対象になったことがない形質は山ほどあるだろう(245ページ)。


第9章よりよい分類は分子から来たる
 戦後、いよいよヘモグロビンやシトクロムCなどの分子を比較すれば生物を分けられるよという分子生物学が分類学に波乱を巻き起こした。

 分子生物学者は、分類学者に対して、生きものの外見なんか見なくていいし、むしろそうすべきだと主張し、いまや重要なのは目に見えないタンパク質とDNAなのだと面と向かって言い放った(261ページ)。

 その目に見えないタンパク質とDNAが、今まで環世界センスでは“見えていなかった”種――隠蔽種を次々に発見、見た目はそっくりなのに分子上は異なる種のサンショウウオや、サメ、ヘビ、エビ、チョウなどが次々に“発見”、挙げ句の果てには、環世界センスは「界」をまるまる見逃していたというのだ。これぞカール・ウーズが発見した古細菌、メタノコッカス・ジャナスキー!!(この学名キャッチーで覚えやすい。ジャナイ・ジムナスティクスみたくて)

 細菌と古細菌はそれぞれ大きなドメインを保有しているのに、お気に入りの生物たちが全部いっしょくたにせせこましいドメインに入れられているのを見た分類学者たちは唖然として言葉も出なかった。そんな分類体系は話にならない。肉眼では見えないちっぽけな微生物にそれほどの地位を享受するほど重要な違いがあるとはとても思えない(266ページ)。

 一九八〇年代半ばになると、分子分類学者と伝統的分類学者は正面衝突の様相を呈するようになった。その手の学会やセミナーは大入り満員で、生命の進化樹の真実は、これまでの定説どおり生物の形や大きさのような物理的性質を調べればわかるのか、それともDNAやタンパク質のような分子データを調べるかわかるのかについて、誰もが声高にときに口汚く言い合っていた(267ページ)。

 “ジェル野郎”(※DNAの塩基配列を調べる際の電気泳動法でゲルを使うから)と侮蔑されて呼ばれていた分子分類学者たちは、なじみのないサンショウウオや誰も知らない原始細菌の分類学を修正するだけにとどまらず、全生物の大分類そのものをやりたい放題に修正した。彼らは自然の秩序そのものを書き換え始めたのだ(274ページ)。

第10章魚類への挽歌
 ついに伝統的な分類学を完全に葬る分岐分類学の登場なんだけど、実はこの学問、ヴィリ・ヘニックという内気で物静かなドイツ人の昆虫学者が考えたんだけど、その後の数量分類学ブームのせいで、彼の『系統体系学理論の基本原理』(来るべき革命のバイブルとなる本である)は20年近くも無視されていたといういきさつがある。
 というのも、さすがジャーマン、彼の本はドイツ語ができる人でも難解で、そこで登場する造語――例えば「共有派形質」などが、どんなものを示す言葉かわかりづらく全然キャッチーじゃなかったのである。
 しかし、ヘニック博士と違って読みやすい本が書ける著者はさすがである。この初心者には苦痛な分岐分類学のメソッドが、284ページのポケモンみたいな可愛い珍生物のクラドグラム(進化の枝分かれ図)によって一発で分かるようになっているので、要チェキだ。

 ヘニックの規則を現実の生物と現実の分類に当てはめようとしたとたん、それが無害であるとはとうてい言えないことが明らかになった。“怒れる分岐学者”と言う前に、このいかれた新手の分類学者たちは、ナンセンスな分類を提唱しては、馬鹿げた変更を要求し始めた。彼らは論理を杓子定規に当てはめては、それから外れる人為的な分類群を追放し始めた。ガも無脊椎動物も魚類もシマウマも実在しない動物群であるという罪状で全て葬り去られた。さらに、鳥類はほんとうは恐竜だとのたまうにいたって、分岐学者のナンセンスは極まった。彼らは自らの分類こそ悟りの境地であって、それ以外のものは天罰を下すしかないと考えた(294ページ)。

 突如として恐竜は絶滅からよみがえった(301ページ)。


 こうして進化分類学VS数量分類学の戦いは、分岐学の参戦で三つ巴の泥沼となった。これにより、眠くなるほど退屈だった分類学者の会合は、TVタックル的なエンターテイメントになったという。

第11章奇妙な場所
 こうして客観的かつ合理的、そして非人間的な科学は、環世界センスという人間の先入観をとっぱらうことに成功した。
 しかし、それは同時に、生物学っていうのはなんか小難しくて専門家に任せとけばいいもんなんでしょう?というイメージも一般人に植え付け、生物や生態系に関する興味関心を著しく後退させた。別に熱帯林がなくなってどれだけの生物が滅んでも、オレたちには関係ないもんね~みたいな。
 そもそも関係があっても、その現状を正確に認識したり、具体的な対応策を講じたり、そのために運動をするなんてことは、素人には到底不可能なのである。なぜならば、プロの生物学者は環世界センスとは別の次元で研究を行なっているからである。
 そもそも思ったんだけど、環世界センスって多分グローバリズムとか、40億年近い進化の過程とか(原子力で出る放射線の半減期とかもそう)、そういうスケールのデカすぎる問題に関しては、歯が立たないんだろうな。人間が少数のコミュニティで、限定的な環境で暮らしていた時には、すごい役に立つ能力だったんだろうけど。
 じゃあ現代において環世界センスは何に役立っているのか?それはショッピングの際のブランドのロゴや、パッケージの判別である。今絶滅の危機に瀕している野生動物の分類にはあまり使っていない。
 しかし、今こそ環世界センスを使って、生物の多様性を認識しよう。だって厳密な科学を使うと、細菌、古細菌、その他の3種類しか生物いなくなっちゃうからな!

第12章科学の向こう側にあるもの
 分類学は、もともと科学ではなかったというまとめ。人が生きるための本能的な欲求だったんだと。
 ちなみにアリおじさんEOウィルソンは、地球上の既知の生物種180万種すべてをエンサイクロペディア(百科事典)にまとめる一大プロジェクトをやっているらしい。まさに博物学2.0!
 あと、著者がとにかく魚が好きっていうのがよ~く伝わる。・・・今度魚の本書けば?w

 ヒトの環世界センスを本気でよみがえらせようとするには、クジラを魚と認識する程度では十分でない。わたしたちはありえないほど馬鹿げた可能性をも許容しなければならない。例えば、地上を駆けまわる巨大なヒクイドリは哺乳類であるとか、ランを親指に見立てるとか、コウモリは鳥であるという分類もありえる(349ページ)。

 ・・・とうとうすごいこと言い出した著者。でもこれくらい言わせてくれよってくらい、今の分類学って窮屈なんだろうな。
 ネットでもたまに分類オタク(分類ポリスでも良い)にイライラさせられるんだけど、キャロルも三中も言ってたけど、そもそも分類なんてもんは、夜空の星を星座に区別するようなもんだからね。そこまで重箱の隅をつついて目くじら立てることないだろっていう。

 つーか分岐分類だってクジラは魚でしょ?ってね。

日本のいちばん長い日

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」

 軍をなくして、日本を残す。

 この夏の映画で一番面白い。この玉音盤騒動(宮城クーデター未遂事件)は、ずいぶん前にNHKか何かで実際の当事者の証言(まだ元気だという)をもとにした番組がやってて、その時点ですごい話だなあって思ってたんだけど、この映画では更に、鈴木総理と阿南陸軍大臣、昭和天皇をメインに重厚な人間ドラマとして完成させている。

 特に本木雅弘さんの昭和天皇が激似w名台詞の「あ、そう」もちゃんと言ってくれた!感動だ!
 昭和天皇が、学者気質の天皇というのは有名な話なんだけど、これはもう学者“気質”じゃないよ。学者だよ。博物学、歴史学問わず、とんでもない教養があることはサザエの学名の発音で一発でわかるっていう。
 そのサザエの例え話で、戦争を終わらせないでくれと直訴してきた東条英機を論破するところとかすごい面白いし、東条さんも天皇陛下は絶対だから、すぐにほこを収めちゃったり。
 ここまでインテリで人格者で無私な陛下だったら、そりゃあ神様だよ。

 で、長年侍従長をやっていた鈴木総理はこの神様の聖断という切り札を使ったが、これはとんでもない反則技だったっていうのもわかる。
 というのも、ここらへんは中学高校の社会でもあまり深くは教えないんだけど、明治憲法下でも天皇陛下は国家を総覧するだけだから、天皇の聖断をやっちゃうと戦争責任が天皇一人に行っちゃって、それは国体的にとんでもないことになるっていう。その覚悟が陛下と鈴木貫太郎にはあったと。
 あと、この時代の内閣は閣内不一致すると総辞職するしかないとか、そういう知識がないとよくわからないかもしれない。
 実際にこの映画、観客はそこそこ居たんだけど、年齢層がやっぱり高くて、今年32になる私が一番若かったっていうね。でもいいのか。シルバー世代は今や多数派だし。
 でも若い人も、こういう映画も見ればいいんだよね。というのも普通に面白いから。すごいもったいないよ。

 さて、役所広司さん演じる、阿南陸軍大臣は、今までの個人的なイメージでは戦争強硬派で、戦争を集結させたい鈴木総理のライバル的なものだと思ってたんだけど、まあこの映画でもそうなんだけど、それは立場的に仕方がなかったんだなあってよ~く分かった。
 ヒールだと思っててごめんよ阿南大臣。実際に鈴木総理もかなり過激なことをポーズで言ったしね。私の屍を越えていけ!とか。

 あれだけ部下を殺しても恨まれなかったのは、乃木将軍と阿南閣下だけです。

 でもでも、ああいう血気盛んな若者を教育しちゃったのは、やっぱりほかならぬ軍隊だし、日中戦争の前から、皇道派と統制派が対立してたりして、陸軍ってなんかガバナンスだいじょぶか?って感じだったしなあ。ちょっと指導を誤ればたちまち学級崩壊(クーデター)するクラスみたいな。

 鉛弾、金の玉をば通しかね。

 山崎努さんの鈴木貫太郎もひょうひょうとしててすごいよかった。このとぼけた演技で思い出したんだけど、『デザーテッドアイランド』の大日本帝国チームもこんな感じの、のんびりな雰囲気でさ、戦前の日本ってこんなにゆるいの?ファシズムじゃなかったの?って違和感があったんだけど。
 そのおおらかな空気の原因がやっと腑に落ちた。人生の切り札として「死」を覚悟している人たちだから、このオーラが出るんだなあって。肝の座り方が半端ないから、どんなことにも動じない。だからのんきに見えているだけっていうね。う~む、デザテのスタッフはやっぱすげえよ。

 そういえば、なんか高校の歴史のカリキュラムが変わるらしくてさ。世界史と日本史ってどっちが必修科目になるかずっと対立してたんだけど、もう合体させて。で、高校は近現代史だけにしちゃおうよっていう風になるらしい。これは“史観”が入ってくるからいろいろ厄介だとは思うのだけど。
 でも戦後70年なんだよね。70年っていうのはもはやひとつの歴史だよね。奈良時代だって80年くらいなわけで。
 そうすると911ですら生まれる前に起こっている今の学生は、歴史教師が近現代をいろいろアンタッチャブルだからってスルーしちゃうと、マジで何も知らないっていうことになっちゃうんだよね。
 若者への教育一つで国家の行く末が変わるってのは、作中の若手幕僚が「原子爆弾恐るるに足らずです!」って言ってたのでよくわかる。いやいや、この世に原爆くらい怖いモノってそうそうないぞっていう。
 その後、結局日本はあっさり鬼畜米英に懐柔されちゃったけど、日本という国、日本人という民族、皇室制度はちゃんと残っている。
 私たちの世代は未来に何を残すのだろうか。

 日本は滅びぬものか。勤勉な国民だよ、必ず復興する。

『自然を名づける なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』①

 正確だけどピンと来ない問題。

 キャロル・キサク・ヨーン(名前が面白い)著。これもこしさんから借りた。しかもこしさん研究が忙しいらしくて、この本、買って一度も読んでいない。まさに一番風呂を譲ってもらったっていうwさすがにビニールを私が開けるわけにはいかないから、幕張のつけ麺屋でビニール入刀はさせたけど。
 まあ、タイトル通り、自然界の植物や動物をどうやって学名をつけて分類するかっていう話なんだけど、これ読んでみると、分類学の本というよりは、どっちかというと心理学とか哲学の内容の本だったりする。
 それを象徴するのが本書のキーワードである環世界センスという概念。
 もともとはフォン・ユクスキュルって人のアイディアで、ハイデッガーとかにも影響を与えたらしいんだけど、どういうものかって簡単に説明すると、例えばヘビは赤外線が“見える”ので、ヒトとは異なる世界に生きているとかよく言うじゃん。あれ。
 つまり、それぞれの動物が認知する世界観のことらしい。そう言う意味で、ヒトとして生まれちゃった以上、オレたちは“ヒトの感覚器官の枠組み”でしか外界を認識できないから、どうしても制約があるんだという。
 実は、直感的な分類っていうのは、まさにそういった環世界センスの産物で、これと現代の科学的な手続きに基づく“正確”な分類っていうのは大きく乖離、むしろ衝突しているってことらしい。
 ほいで、これ分厚くて文字も小さいから、難しい専門書っていう印象を受けるけど、レベルはかなり易しくて、生物学の知識が全くない人でも楽しんで読めます。つーかスティーブン・J・グールドの科学エッセイのがずっと難しいっていうね。

第1章「存在しない魚」という奇妙な事例
 分岐分類学だと、側系統が全部崩壊しちゃって、つまり、魚類とかのグループはなくなってしまうという、割と有名な話なんだけど(魚類を認めようとすると、その子孫である両生類や爬虫類や鳥類や哺乳類も魚類ってことになってしまう。Ohボーイ)。
 どうやら聞いてみると、分岐分類学者はかなりヤなやつらしく(あとがきで三中先生も、そして別の本でも金子隆一さんも言ってた)、おめーらのせいで、一般人が生物学と距離を置くようになって生態系に興味関心を持たなくなったんだよ、どうしてくれんだ、まだ分類されてないような生き物が名前もつけられる前にどんどん絶滅してくぞ、クレーディストファッキュー!みたいな著者の心の叫び、しかと受け取った、みたいなチャプター。
 魚という分類はあります!
  
第2章若き預言者
 つーか、若き預言者って誰のことだ!?それはオレだ!!お前は・・・!そうリンネ将軍だ!!ババーン!・・・というわけでリンネの業績と人となりの話。
 リンネって実は、すごい傲慢なうぬぼれ屋で、友達にしたら、そのナルシストぶりにぶっ飛ばしたくなりそうだけど、それがチャラになってお釣りがくるくらいのことをやってのけたんだよっていう。
 リンネの時代はまさに博物学の大航海時代で、世界中から様々な植物や動物の標本が集められてさ、いよいよそれをすべて分類するには、かなり使い勝手がいい簡潔な分類体系が必要になってきて、そこでメシア的に現れたのがジェネラルリンネだったってわけ。
 彼が28の時に発表した『生物の体系』の分類一覧表は、まさに生物の分類における世界地図のように崇め奉られ、プロ・アマチュア問わず、全世界の標本収集家(博物学者)のバイブルとなったらしい(でも同人誌並に薄い本だった)。

 というかさっきから、将軍ってなんやねん、マッドマックスか!って感じなんだけど、リンネっていうのは生粋の植物バカで、植物で軍隊作ったらこのオレが最強、よって将軍みたいなノリで将軍を自称していたらしい(自分を批判する植物学者はその軍隊ヒエラルキーの末端においていたことは言うまでもない)。

 ちなみにリンネ、学生時代は医学部に進学したんだけど、とにかく貧しくて、穴のあいたボロボロのかっこうで借金背負ってフラフラしてたら、セルシウス温度のセルシウス・・・のおじさんに拾われて、そのあしながおじさんに分類学についての神がかった才能を見出され(シナモンの葉っぱを見ただけで月桂樹の仲間だと推理して当てた)、シンデレラガールズ的に国の英雄になるっていうね。
 まさに赤塚不二夫とタモさんに通じる感動物語である。でもムカつく。

第3章フジツボの奇跡
 タイトルが爆笑。
 これダーウィンの話ね。その衝撃的な内容のため、発表したら絶対大炎上間違いなしだった『種の起源』。ダーウィンは悩んでいた・・・

 ダーウィン「やべ~な、叩かれたくね~な、どうしよう、でも進化って絶対起きてるしな~どうすればいいべ、そうだ、友達のフッカーにメールすんべ。
 よう、フッカーどうしたらいい?え?生物学に喧嘩売る以上は、お前もなんでもいいから好きな生物を研究して、その上で進化論を提唱したほうがいいだって?あ、そうか、専門家って門外漢に偉そうなこと言われるとブチギレるもんな。わかった、じゃあある種のポーズとして、なんか生物研究するわ。
 う~ん、でもオレ博物学者だから、標本収集するのは得意だけど、生物の分類はオーウェンとかに任せっきりだったからなあ・・・やったことねえし、めんどくせえぞ。
 あ、そうだ、このちっぽけなフジツボを分類するんがいいや。これは楽そうだし、一年もあれば分類できるべ。」

 フジツボはダーウィンを苦しめ、予想外の知的葛藤を経験させた(73ページ)。

 というわけで、気軽に始めたフジツボの研究だったが、やがて泥沼化し、ダーウィンVSフジツボの戦いは8年もかかってしまった。
 ダーウィンの子どもが友達の家に行ったら「それで、君のパパはどこでフジツボを見てるの?」と言ったくらいである。
 なんでこんなことになったのか、実はダーウィンはフジツボの個体差に当たるような差異を厳密に観察しすぎて、どの個体とどの個体が別の種類で、どの個体とどの個体が同じ種類なのか、なにがなんだかわからなくなってしまったのであった。
 ダーウィンは、一体どこでグループの境界を区切ればいいんだよ~もうフジツボやだよ~怖いよ~オレが何したってんだよ~とノイローゼになったらしいが、結局この個体間のわずかな差異こそが個体変異、つまり進化の結果を証明することにつながった。

第4章底の底には何が見えるか
 生物の分類の何が難しいかって、どこからどこまでを同じ種にして、どっからを別種にするか、その境界が曖昧だということは、ダーウィンVSフジツボでお分かりいただけたと思う。これを馴染み深い炭酸飲料水の分類で置き換えてみると・・・

 「ちょっと待って。シエラ・ミストとセブンアップ、スプライトはどれもほとんど同じ味だけど、フレスカの味はずいぶん違うよ。フレスカだけ別にして、全部で五グループにすべきじゃないかな」(※こんな感じで決めていたらしい)

 だから、種のカウントなんて研究者によってまったく違っていて、私はこういうのって学会でコンセンサスが取れているルールがあるとずっと思ってたんだけど、それどころか、研究者の個人の独断と偏見で決めていたっていうね。
 つまり“なんとなく”っていう。これのどこが科学だ!って批判されちゃうのはわかる。根拠ねえのかよ!ってw

 当時、分類学者は、対象をできるだけ細くしようとする細分主義者(スプリッター)と、できるだけおおまかに分類しようとする統合主義者(ランバー)に分かれつつあった。そしてどちらのグループも、分類学をだめにしているのは相手のグループだと考えていたのだ(106ページ)。

 この地獄の戦いは、すっごいわかる。恐竜の属名もできるだけまとめて減らそうっていう人いるしね。ナノティラヌスはティラノサウルスだろ、とか。ドラコレクスはパキケファロサウルスだろ、とか。
 自分が中学生の頃は恐竜の種類って300くらいだったんだけど、今はおそらく二倍以上に増えてるんじゃないか。少なくとも恐竜に関してはスプリッターの勝利だな。

 それでも分類学者の中には、もうちょい科学的な手続きで種を決めていこうよという改革派もいた。
 そのひとつのアイディアが、コモンガーデン実験、略してCG実験。植物の差異と生育環境の相関を調べる実験である。寒い気候と熱帯気候の植物を同一環境(コモンガーデン)で飼育して、二つが同じように生育すれば、その差異は生育環境によるものであり、じゃあ同種、みたいな感じ。
 しかし、こういうアイディアも、保守的な体質の分類学の根本的な変革には繋がらなかった。

 さらに、ダーウィンのせいで、ただでさえ研究者の根拠のない主観や感覚で決めていた分類学が更に根底から揺らいでしまう。
 なにしろ「種」という枠組みが、時間が経つと変わってしまう(進化する)って言うんだから、種を定義するのは本質的に不可能ということになる。

 だが、その問題に果敢に立ち向かった最後の男がいた・・・!その名は鳥類分類学者の巨匠エルンスト・マイア・・・!
 マイアはニューギニアの原住民も、西洋の科学者と同じように鳥類の種類を正確に区別しており、やっぱり種というのは普遍的な概念なんだと確信をした。
 そしてマイアは種をこのように定義した。「種とはその中で交配する、あるいは交配できる野生の個体群で、ほかの種との間で子を持つことはできない」と。いわゆる生殖隔離の概念である。
 しかし、仮に交配できても野生環境では絶対にしないとかそういう場合や、じゃあ実験室で人工授精させたとしても、それは交配ができるということになるのか、とか、もっと言えば多くの生物は有性生殖をしない!マイアの定義は、「種問題」というアポリアをさらに深めてしまったのである。

 これを受けて、マイアの同僚のシンプソンは、古生物学者を見ろ!化石なんて交配を確かめられないのに種を仕分けしてるぞ!と言い、種を「独自の進化的役割をもち、長い年月をかけて、ほかの種と交わることなく進化してきた一連の個体群」と定義、種の存在をかたくなに信じた(実際は古生物学も現生以上にコロコロ変わっているのは言うまでもない)。
 しかし、この定義においても、その個体群が「ほかの種と交わることなく進化してきた一連の個体群」であることをどうやって確認すればいいのだろうか??

 こうして、分類学者はいたずらに混沌をもたらすだけの連中と認定され、科学者から嫌われていった。ほいで、収集家の旦那に呆れる奥さんのごとく、博物館にあるよくわからねえ標本の山と一緒に、この時代遅れな研究者たちも一斉処分しちゃえ、となった。分類学者の狩猟シーズンが到来したのである!
 というわけで、博物学の時代から受け継いだ保守的な環世界センスを捨てられなかった分類学は、「種は変化し続ける」という新たな環世界センスによって皮肉にも破壊されてしまった。
 なんとも哀れな分類学者たちだが、著者はこう締めくくる。

 しかし悪いことばかりではない。当時は誰も気づいていなかったが、生物の分類に関して独自の見解を曲げようとしなかった進化分類学者は、後に、別の意味で英雄とみなされた。彼らは知らず知らずのうちに、滅びかけた信念の擁護者となっていたのだ。それは、生物世界の認識は――科学的認識とどれほどかけ離れたものであっても――正当にして重要な地位を持っているという信念である(130ページ)。

第5章バベルの塔での驚き
 バベルの塔のお話は人間の言葉をバラバラにしたが、生物の分類の仕方はバラバラにしなかったよっていう話。
 つまりレヴィ=ストロースとか構造主義の本でお馴染みの、未開の部族の思考パターンも文明人とあまり変わらず合理的だよっていうやつ。
 人間である以上、共通する普遍的な分類の傾向っていうのがあって、それをいくつか紹介している。
 でもまあ、それは後回しにして、面白いのが、その事実にたどり着くまでのフィールドで未開の部族の人を研究した人類学者、民俗学者のエピソードの数々である。・・・本当に苦労したんだなあって思う。

 調べ始めてすぐにわかったのは、民族分類の研究は途方もなく困難な仕事だということだった。この種の情報の収集には、多大な困難が伴う。一見、それは簡単なことのように思える。一本の植物、あるいは一匹の動物をつかんで、「これをあなた方は何と呼ぶのか」と現地の人に尋ね、その答えを書きとめていけばいいのだ。しかし、その分野の研究者が収集しているのは、生物の概念やカテゴリーや言葉であり、それは生物をつかんで名を尋ねるよりはるかに難しい作業なのだ。(略)多民族の生物分類法を集めるには、その分類に含まれる生物を熟知するだけでなく、その名前、詳細な描写、分類の土台となっている言語体系と概念のすべてを、正しく理解しなければならない。「この動物をあなた方は何と呼ぶのか」と尋ねて、ある答えを得たとしても、それがすべての哺乳類を指す言葉なのか、それとも小型哺乳類を指す言葉なのかはわからない(142ページ)。

 例えば、すごいキノコに詳しい部族がいたんだけど、「うちの部族はキノコに名前をつけてないっす」とか言っちゃったり、つまり“詳しすぎる”ので、文明社会からやってきたど素人に一から教えるのが超めんどくさかったからってう。
 他にも「インドリインドリ」というキツネザルの名前は、現地ガイドの人が「見てごらん見てごらん」って言ってたのを名前と勘違いしたとか、もっとひどいのは「私はこの草の名前を知らないから、おじさんに聞いてみます」とか、現地人が冗談半分でテキトーに言った「ズボンの中のうんこ」とか、ひどい学名の生き物がいろいろいるっていう。

 じゃあ、このようなやっかいな調査から、どのような分類法に関する共通点が明らかにされたのか?それが以下である。

①標準的な形から、ひときわ目立つグループを選び、それ以外は無視する。
②ヒトはいくつかの動物や植物に名前をつけずには言われない。
③よく似た生物は、家族関係に例えてしまう。
④その生物の形が連想できるような名前を付けがち。
⑤民族分類の上限は600種類まで。
⑥ウィリスのくぼみカーブ(大体の属は一属一種であることを示す曲線)に従う。


 ④は面白い実験があって、生物学ど素人の人に、魚と鳥類の学名を見せて、その学名が魚か鳥かを聞いたら、57%の確率で当てたっていうね。
 つまり“語感”って意外とモノを言っているんじゃないかっていう。
 もっと単純に、「タケテ」と「マルマ」っていう二つの名前があったとして、どっちが丸い図形の名前だと思いますか?ってやっても、だいたい「マルマ」を当てるんだって。こちらは大人の95%、二歳児でも60~80%が「マルマ」は、尖っている図形よりは丸い図形に合う名前だって思うらしい。

 ⑤も面白くて、なんかどんな部族でも、専門家でも明確に把握し覚えられる生物の種類って600なんだって(だから生き物の種数も600前後になることが多い)。
 ホントかよ~って著者が、旦那や友人に試したところ、なんか種類を列挙するのに4時間くらいかかったらしいけど、だいたい590くらいだったんだって。
 この600はギリギリ行かないって、私もすごいリアルな数字だと思う。
 で、私も実験したくなってさ、ポケモンはどうなんだってマロさんに聞いたら、ポケモンって当初は150種類くらいだったんだけど、今は800種類くらいいるんだって。これが600種類だったらよっしゃ~!だったんだけどねw
 つまり、これは人間の認識能力を超えて種を作りすぎってことになる。だからすべてのポケモンを言える奴っていないんじゃないかな。ポケモン言えるかな?って昔あったけど。言えねえよ。作りすぎだろっていう。

 ちょっとキリがないので、後半はまた機会があったら。今日は、鈴木貫太郎THEムービーを見に行きたくての。

『愛するということ』

 愛は技術だろうか。技術だとしたら、知識と努力が必要だ。

 『自由からの逃走』でお馴染みのエーリッヒ・フロムが「今回だけは特別だよ!」と執筆した愛の本。こしさんから借りた。
 フロムって社会学ですごい引用されているからフロムの全てを知ったような錯覚に陥ってたけど、実はこの人の本ちゃんと読んだことなかったんだよw
 こんなに読みやすい文章の人なのね。もっと硬派な文章の人かと思ってた。ケインズとかマルクスとかパネエからな。
 でもよくよく考えれば、あまりに難解な文章だったら、みんな理解できないから、そこまで引用されないか。キャッチーさ大事だな!
 ということで、今回は第2章の『愛の理論』までで面白かった部分を覚え書き。というか、この本、半分以上が第2章。第1章なんてたった8ページなのに!

 うわ~愛だってよ、くっさ~と冷笑する人もいるだろう。私も女子中学生に愛を語ったら、プラトンのエーロスのところで大爆笑されたことがあります。でも、ご安心を。こんな一文からこの本は始まる。

 愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するにちがいない。そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではないということである。

 よく、恋に落ちる、みたいな意味合いで「もう私のこと愛してないの?」とかいう人いるけれど、フロムによれば、愛というのは“状態”ではなく、能動的な行為である。アガペーである。
 そう言う意味で、西洋人だから当たり前なんだけど、すごいキリスト教の影響を受けているし(77ページの「愛の対象」という箇所でいきなり隣人愛が出てくる。ちなみにもちろん神への愛もかなりページを割かれて言及。人格を持つ神とかプログレ系とか、どんな段階の神を信仰しているかで、その人の成熟度がわかるという話は面白い)、カントやスピノザ、レヴィナスといった自分に厳しいタイプの哲学者にフロムもカテゴライズされるのかもしれない。
 実際、フロムの両親はラビ(ユダヤ教の律法学者)で、フロム自身も心理学者じゃなくて、もともとタルムードの学者志望だった。だからフロイトみたいに人間の心を物質的に捉えようとする理論にはちょっと抵抗があったらしい。もともと神学の人だからね。
 ちなみに第4章では愛のトレーニング方法をブートキャンプ的に紹介するんだけど、この内容はかなりカント(定言命法的)。

 たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまで二人がどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれないのだ。

 上の文章でもわかるように、フロムは付き合ってだいたい三ヶ月くらいまでのイチャコラサッサを、孤独から目を背けたいがための虚しい依存に過ぎないと論じている。
 でも、注意して呼んでいくと、フロムは社会の構造なんかにすごい強い人だから、システム的に人間がそういう「愛するよりも愛されたい」みたいな受動的なスタンス、もしくは恋人を選ぶ際にまるでスーパーで商品を選ぶかのような、経済学的な等価交換に陥ってしまうのは、ある意味仕方がないと推察しているようにも思える(第3章で言及。むしろ精神的に成熟しないほうが現代の消費社会では最も適応的である、みたいな)。
 なんにせよ、一つだけ言えるのは、孤独との戦いっていうのは、いつの世においても普遍的な課題なんだよっていう。

 確かなのは過去についてだけで、将来について確かなことといったら、死ぬということだけだ。(略)そう、人間はたえず意識している――人は一つの独立した存在であり、人生は短い。人は自分の意思とはかかわりなく生まれ、自分の意志に反して死んでゆく。(略)人間は孤独で、自然や社会の力の前では無力だ、と。こうしたことすべてのために、人間の、統一のない孤立した生活は、耐え難い牢獄と化す。この牢獄から抜け出して、外界にいるほかの人びととなんらかの形で接触しないかぎり、人は発狂してしまうだろう(23ページ)。

  ここらへん、この前アップした『イノセントガーデン』のテーマとほとんど同じで、『ミスティックアーク』だけじゃなく、お前はフロムもパクったのか!ってマロさんに突っ込まれて、佐野デザイン事務所並みの騒ぎになっちゃうけれど、すまん、これも偶然。
 私がパクったかパクってないかは置いといて、つまり、フロムは社会的な孤立こそが、人間のすべての不安の根源であり、さらに孤独な人間は全くの無力で、外界に何も働きかけることはできないと、割とバッサリ断言する。
 結局、万物の霊長とか言いながら、本能によって自然と一体化することができない悲しい動物である人間は、不可抗力的に他者や社会にコミットしていくしかない。

 人間の最も強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという願望である。この目的を全面的に失敗したら、発狂するほかない。なぜなら、完全な孤立という恐怖感を克服するには、孤立感が消えてしまうくらい徹底的に外界から引きこもるしかない。そうすれば、外界も消えてしまうからだ(25ページ)。

 よくさ、ネットとかで、あのダーウィンだってニートみたいなものだったじゃないか、ニートをバカにするな!みたいな発言があるけれど、まあ確かにダーウィンってあんまり働かなかったけどさ、絶対的に違うのは、社会に対する後ろめたさがないじゃないかってところなんだよね(あとお前ら生物学の研究なんかしてねーだろ!w)。
 だから、引きこもりやニートが、悠々自適に自信を持って有閑セレブみたいな生活をしてたら、なんかその強い“個”に惹かれるんだけど、そういう人を一人も見たことがない以上、やっぱり世間の目を気にしていたり、孤立して辛いんだろうなあって思ってしまう。
 きっと、この人らは社会にうまくコミットできたなら、社会に同調したかった人たちなんじゃないかっていう。
 私のほうが、そう言う意味じゃ天邪鬼というか、こじれてる気がするもん。多数派とか嫌いだしな。
 フロムはこういった“後ろめたさ”を旧約聖書を引用しながら、以下のように説明する。

 この神話(※アダムとイブの楽園追放のことです)の要点は次のものだろう――男と女は、自分自身を、そしておたがいを知った後、それぞれが孤立した存在であり、べつべつの性に属していることは認識しても、二人はまだ他人のままである。まだ愛しあうことを知らないからだ(アダムがイブをかばおうとせず、イブを責めることによってわが身を守ろうとしたことも、このことをよく示している)。人間が孤立した存在であることを知りつつ、まだ愛によって結ばれることがない――ここから恥が生まれるのである。罪と不安もここから生まれる(25ページ)。

 この部分って、禁欲的なヴィクトリア時代のイギリスとかだと、性道徳の単元的に読まれちゃうんだけど、フロムのこの解釈には膝を打ったね。なるほど!と。 

 しかし不思議なもんで、学問や仕事に関する知識や技術はいろいろ学ぶのに、人間が孤立しないための愛については、なんでそういうものと同一の枠組みで捉えて、努力して学んでいかないのか、いつから愛は学ぶもんじゃないドントシンクフィールみたいな風潮になっちゃってんだ、それはおかしい、多分近代に入って出てきたくだらんロマンティックラブのせいだ!恋愛結婚だぁ?昔はとりあえず社会に強制されて結婚させられて、そのあとに愛を事後的に作り上げて行ったんだカルビーこのやろう!みたいにフロムは考える(考えてねーよ)。

 さて、じゃあその孤立から逃れるために人間はどういう対応をとってきたんだろう?ってことで、フロムは以下のような手段があるよと論じる。

①興奮状態による合一体験
 ヒャッハー的なやつ。祝祭や儀式の乱痴気騒ぎがそれ。部族全員が参加してるし、祈祷師や祭司が執り行っていることなので、不安や罪悪感は感じない。
 しかし現代的な社会では、部族的な儀式はなかなかできないので、お酒や麻薬、性的な乱交をしたりする。
 これには三つの特徴がある。1.強烈。2.精神と肉体の双方に人格全体に起きる。3.長続きはしない。

②集団への同調
 ナショナリズムや信仰など。赤信号みんなで渡れば怖くない。
 ヒャッハーに比べて、穏やかで惰性的だという特徴がある。そのぶん、孤立から来る不安を癒すのには不十分だったりする。
 フロムはこの分野の研究で有名なんだよね。つまり、民主主義社会でも、ヒトラー独裁体制みたいな全体主義社会でも、結局人々は大きな集団に同調したいってのは変わらないっていう。なにも強制されなくても人間は進んで自由から逃走するよっていう。

 現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている。(略)現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する(33ページ)。

 この指摘ってラディカルフェミニズムとかの問題にもそのまま思考の補助線として使えそうだよね。さすがだよなっていう。

③創造的活動
 クリエイターは世界と一体化するって言っているけど、これは西田幾多郎の純粋経験と同じことをフロムも論じているのだと思う。クリエイティブな活動をやっているときは、もうそれだけに集中して周りが見えなくなってるからね。
 でもこれは、真にクリエイティブな活動じゃないとダメで、上から強制されるようなルーティンワークでは、仕事の対象との一体感はほとんど得られないという。確かに漫画家の人とか辛そうだ。

④愛
 共棲的結合(つまり依存し合う関係のことね)ではなく、成熟した愛とは、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力であるという。
 愛によって、人は孤立感を克服し、しかも依然として自分のままで自己の全体性は失われない。しかも、愛においては、二人が一人になり、しかも二人でありつづけるという、パラドックスもOK!どうですか、奥さん。

 愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである・愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない(43ページ)。

 意外だけど、これと全く同じセリフがつの丸先生の『モンモンモン』第3巻に出てきた。「うきょ~!」「まめまめ~」「うんこ~」「ぶっ殺す!」みたいな下品極まりないギャグマンガだったけど、実は「<愛>を知る全人類に捧げる―」漫画だったようだ。
 しかし、口で言うことは簡単だけど、いざ実践しようとするとこれはかなり厳しい。ここら辺で、もう、愛に対する甘ったるいイメージはほとんど払拭されるに違いない。
人を愛するっていうのは実は苦行なのか?フロムはこう続ける。

 与えるとはどういうことか。この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはきわめて曖昧で複雑である。いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめること」、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといった段階から抜け出してない人は、与えるという行為をそんな風に受け止めている。(略)与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる。そうした人たちに言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならないのだ(43ページ)。

 厳格なキリスト教の考え方ってこんな感じだと私は思っていた。つまり、一部の聖人君子にしか本当の愛っていうのはできなくて、だからオレたち一般庶民には無理無理って諦めたくなるんだけれどさ、そういうことじゃなくて、せめてイエスさんの1%でもいいから、そういう愛に近づけるような努力をすることこそが大事なんじゃないかみたいな、解釈をしていたんだけど、フロムはここら辺で厳格だったカントとは違った論理を展開する。

 生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味を持つ。与えることは、自分のもてる力の最も高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。(略)与えることはもらうよりも喜ばしい。それは剥ぎ取られるからではなく、与えるという行為が自分の生命力の表現だからである(44ページ)。

 この考えは、どっちかというとSNSの交流などに希望を見出しているIT起業家や、システムさえしっかり作れば、あとは割とほっといてもうまくいくという新古典学派エコノミストやリベラル派の政治家などに近い。性善説というか。
 例えば、法を破ってまで、著作権のあるアニメや音楽をネットにアップロードしちゃう人いるじゃん。あんなの自分には大してメリットないのに、なんでやるんだろう?何が楽しいんだろう?って思ってたんだけど、あれも、与えるという行為に、ある種の全能感を感じていたからなのかもしれない。
 ほいで、与えるのが楽しいなんてちょっと考えればわかるだろ、セックスがそうじゃんと、こっからエロフロムモードになるんだけど、確かに男は精液を女に与え、女は男や我が子に体を与えるんだよね。
 そう考えると、構造主義や内田のたつ兄が言う、人間っていうのは、与えるというか交換が好きなんじゃないの?っていう話にもなってきそうだけど、ここはあえて「与える」ことだけに絞って考えていこう。
 実際フロムはこんなことを言っている。

 物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである。たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんのものを所有していようと、心理学的に言えば、貧しい人である。

 貧困は人を卑屈にするが、それは貧困生活が辛いのではなくて、与える喜びが奪われるからである(45ページ)。


 さらにフロムは、与えるという行為の最も重要な部分は、モノを与えるのではなく(それだとアダムスミスの重商主義批判である)、自分自身の生命を与えることだという。
 これは別に悪魔に魂を売るとか、君は誰かのために死ねるか、みたいな話じゃなくて、自分の中に息づく、喜び、悲しみといった感情、興味や理解、知識、ユーモアなどのありとあらゆる表現のことである。
 このような意味合いで、人は自分の生命を他者に与え、他者の生命感を高めるのだという。すると他者も自分に・・・というフィードバックが繰り返される。

 愛とは愛を生む力であり、愛せないとは愛を生むことができないということである。

 で、そのあと聖書とかフロイトとかの言及(フロイトは愛を我慢できないかゆみのようなものと考えるけどそれってどうなの?)があって、ちょっと飛ぶけれど、92ページからの自己愛のところがちょっと興味深かった。
 というのも、自己愛と自己犠牲ってあちらを立たせばこちらが立たずみたいなもんで、真逆の考え方なわけじゃん。もし自己愛が尊いなら、自己犠牲は自分の命を粗末にする許されざる行為だし(たしかキリスト教は自殺はタブー)、逆に自己犠牲が尊いなら、自己愛は単なるエゴイズムと同じようなものだとみなされる可能性がある。
 つーか、そもそも、自分を愛することと他者を愛することは互いに矛盾するという考え方自体が心理学的な裏付けによって説明がつくものなの?とフロムは問う。そして、フロムは聖書を引用して、それは矛盾しないと答える。

 聖書に表現されている「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分自身の個性を尊重し、自分自身を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することとは切り離せないという考えである。自分自身を愛することと他人を愛することとは不可分の関係にあるのだ(94ページ)。

 もしある人が生産的に愛することができるとしたら、その人はその人自身も愛している。もし他人しか愛せないとしたら、その人はまったく愛することができないのである(96ページ)。


 そして自己愛=利己主義?という問題についてはこのように論じている。

 さらに、現代人の利己主義は、ほんとうに、知的・感情的・感覚的能力を備えた一個人としての自分自身にたいする関心なのか。現代人は、その社会的・経済的役割の付録になってしまったのではないか。現代の利己主義は自己愛と同じものなのか。むしろ自己愛が欠如しているために利己主義的になっているのではなかろうか(93ページ)。

 利己主義は他人にたいする純粋な関心を一切排除しているように見える。利己的な人は自分自身にしか関心がなく、何でも自分のものにしたがり、与えることには喜びを感じず、もらうことにしか喜びを感じない。(略)利己主義と自己愛とは、同じどころか、まったく正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなさすぎるのである。

『イノセントガーデン』制作裏話

 この記事はネタバレなので、本編を読んでから読むように!

 いや~まさかこの漫画を公開するとは思わなかったよ。しかも、これ9年前の作品なのな。私まだ22歳とかだよ。22歳の私は何があったんだろうな。いろいろ病んでそうだよな。
 担当編集者に見せても「女の子が可愛い」しか感想がなかったしな。オレもこんなもん読ませられたらリアクションに困るわ。
 つーか『ダブルスピーク』と同時に描けるような内容の話じゃないよね。ほんとに、この漫画だけギャグ要素が一切ないもんね。というか内容すっかり忘れてたけどテーマ的にギャグにできないよ、これ。まあ、そういうのも一回やってみたかったんだろうな。
 この時期は、一体どういうのが読者にウケるんだろうってノイローゼになっちゃって迷走期だったことは覚えている。
 今は、「この味は通だけわかればいいんだよ!」みたいな下町の口の悪い小さな寿司屋みたいなスタンスになっちゃっている気もするけど、一つだけ言えるのは、自分自身がこの作品は絶対面白いっていう信念がないと、いいものは絶対できないってことだよね。つっても最近はてっきりご無沙汰だけどさ(^_^;)

 さて、『イノセントガーデン』の直接的な着想は二つあって、一つ目が昔、地面がどんどんなくなっていっちゃう夢を見たってこと。この手の夢が、フロイト的にどう言う意味があるのかは知らないけどさ。
 『イッツアドリームワールド』もそうだったけど、たまに描きたい「画」が最初に浮かんで、そのシーンを描くために前後の筋書きを後付けで考えるっていうこともある。
 だから、この漫画は「画」が中心で、前半は私の漫画としては珍しくセリフがあまりない。当初はいっそサイレントでやろうと思ったくらいなんだけど、わりとキャラが高度な駆け引きをしててさ、これをセリフ無しで説明する技術が当時の私にはなかった。
 「私は声を失った」とか言ってる割にモノローグでよくしゃべるもんな、こいつ。彼女はもともと、ああなる前はおしゃべりだったんじゃねえかな。それで余計なこと言っちゃって、ひどい目にあったみたいな。

 着想の二つ目が、なんの映画か忘れちゃったけど、赤ちゃんが生まれる前のシーンでアナウンサーの福澤朗さんがさ、精子の吹替えしててさ。「それいけ~~!!」みたいな感じでみんなで卵子の方へ突っ込んでいってさ、福澤の精子(なんかエロいな)だけ卵子に取り込まれてさ「お、お、お・・・!!???ジャ・・・ジャストミ~~~~ト!!!」って受精しててさ、大爆笑だったわけよ。
 これをもうちょっと、旧約聖書風にできないものかと。ほんで、エデンの園みたいな世界観に変えてみたんだ。
 あと、あれだ。この作品の虚無的な雰囲気はMYSTに当時ハマっててさ、そういうものの影響だった気がする。トゥームレイダースもそうだよね。
 海外のゲームって独特の空気感があるんだ。簡単な言葉で言うと「さみしい」「ひとりぽっち」。そういう感じをスゴイ出したかった。
 一応この漫画には、たくさんの(モブ)キャラが出てくるんだけど、実際は、たった三人の話なので、そう言う意味じゃさみしいっちゃさみしい。
 そして、この三人って『インサイド・ヘッド』じゃないけど、どの人にもある感情だよね。

ヴィルトゥス(勇気)
今見ると、『ソニックブレイド』の隊長とデザインが激似。彼の子役時代の作品に違いない(描いた順番逆だけど)。
私は、正義って「合理」じゃなくて「感情」だと思うんだよ。だから「怒り」とかと一緒で強いエネルギーである反面、おそろしく暴力的なものなんじゃないかって。
この子なんて、まあ、子どもだからっていうのもあるけど、ほんとに深く考えず行動してるもんね。大人でこのアルゴリズムだけを選択したら絶対破滅するよね。
でも、この「向こう見ずさ」ってたまにすごい羨ましい時がある。
子どもって守るべき過去がないからかな。一歩間違えばあの世行きであろう、すごい危険な遊びとかするしね。タナトスだよね。
利他的な行動っていうのもそういう面があるんかね。というか、この子は年齢的に死というものがよくわかってないよね。まあ誰もわかってないか(^_^;)
この漫画が、深く考えると怖い内容なのはさ、救いらしい救いがひとつもないからなんだよ。東洋の哲学だとさ、四季が明確にあって自然が豊かだったからかわからないけど、円環構造で世界を考えるじゃん。生と死が廻っているみたいな。
だから、ここで自分が死んでも次の世代につながれば・・・って考えられるんだけど、西洋っていうのはアポカリプス的でさ、直線なんだよね。
作中に「エントロピー(拡散度)」ってセリフがあるけど、つまり時間の矢は一方的で、進んで戻ってこない。イノセントガーデンの出口の向こうには、また別の世界があって、次の世界に行ったら二度とこっちの世界には戻ってこれないよっていう不可逆性。
だから、この漫画の世界観は仏教じゃなくて絶対キリスト教的な方がいいなって。西洋的なテイストにしたんだよね。

セレスティス(天上の)
すぐ泣く。
みんなが落ちていっちゃう世界の中で、唯一「飛べる」というチート能力を持っているが、逆を言えば高いところまで飛べるということは、物事を俯瞰で考えられるということ。
つまり、彼女だけは世界をメタに見れるというメタファー(つまらん
精神年齢的にはヴィルトゥスが少年期なら、彼女は思春期(ちょいワルな影がある男に初恋しちゃうのもありがち)。
世の中の不愉快な面がなんとなく分かってきちゃって、子どもの頃のピュアな部分が若干よどみかけてきている時期。実際、彼女だけはルシファーみたいな黒い服を着ている。
そもそも、この物語の元凶はこいつって気もするけど(ほかの天使がトパゾスに根こそぎ殺された上にコイツも死んだので天使が絶滅した)、遅かれ早かれどのみち崩壊しちゃう世界なら、彼女の犯した罪は仕方がないって気もする。
当初のデザインでは、翼は先が黒くてコウノトリのものだった。でも、こんなん気づく奴いないか、ってことで醜い白鳥みたいにした。
そういや、最後のさ、彼女が残りの力と勇気を振り絞って少年の手を取って飛ぶシーンあるじゃん。あのシーンは星のカービィ2のクーのテーマをかけてください。

トパゾス(探求)
こいつらの年齢設定はよくわからないんだけど、少なくとも精神年齢においては彼がおそらく最年長なのではないだろうか。
ヴィルが小学生、セレスが中高生、ほいで、トパゾスが大学生くらいというか。
この人は頭が切れるし、行動力もあるんだよね。悪堕ちすると一番厄介なタイプだよ。
ヴェロキラプトルというか。
セレスティス(きっと元カノ)に世界のルールを教えられ、その現実にうじうじすることもなく、しっかりと受け入れて割り切り、そのルール内で最も合理的な選択をして、あとちょっとのところで決勝戦敗退みたいなw
この人は、天使をためらいなく殺しているから無神論者なんだろけど、最後の最後で非情になりきれなかったんだよね。すこしだけ罪悪感があって、でも人間なんてのはすべてエゴの塊だって思って、自分の罪に目を背けてたら、よくわからない正義感の強い子どもが出てきて、こいつも結局は自分のことしか考えていない・・・ってことを確かめないわけには行かなくなった。
私、久しぶりに読んで、自分が助かりたいだけなら、なにコイツは最後にネタばらししてんだ?バカじゃねーの?って思って、この部分を描きなおそうと思ったんだけど、よく考えてみると、そういう意図があるシーンだったのかって。描いた自分が忘れてるっていうね。
なんか聞いた話では、精子の中には他の精子(エッグゲッター)がうまく受精できるようにアシストするための精子がいるらしいんだよ。悲しい事実だけど、彼はそういうものだったのかもしれない。
この人は東大生なんだ。東大生ってゲームのルールを与えられると、そのルール内で最高のパフォーマンスをするじゃん。でもルールそのものをメタ的に変えるっていうのはすごい苦手なんだよね。

怪物
一応「月」ってことになるのだろうか・・・?いきなり最初のページに描かれているっていう。これも母体が舞台というメタファーなんだろうな。
とはいえ、イノセントガーデンで最初に「殺し」をしたトパゾスも怪物だといえるし、彼を殺戮に駆り立てたセレスが本当の怪物なのかもしれない。
ここら辺の「誰が本当の怪物だ?」みたいなくだりはちょっと展開が間延びするのでカットしてしまった。クライマックスは畳み掛けたかった。
ちなみに、本に描かれていた化物はホムンクルスって言って、神経系のバイアスが体のどの部分にかかっているかを示したもの。これによると口と手が繊細らしいが、これ、めちゃめちゃ怖いよね。あれは、審判の日のあとに創られる胎児のボディプランの本だったわけだ(螺旋階段はDNAのメタファー)。

 そういえば『スクールオブジェイル』にこの作品の三人がちょっとだけ描かれてます。探してみよう。

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