生物学概説覚え書き③

 何年も前にまとめたんだけど、なんとなく発表する機会がなかった生命の起源についての話が、なんとこのたび生物学概論の試験範囲なので、満をじして公開!
 こんな感じのネタが実はいくつかある。ポスターと印刷の歴史とか。

参考文献:宇佐美正一郎著『どこまで描ける生物進化』

生命の起源
原始地球(冥王代)では、毎日メテオの魔法が発動しているようなもんであり、ブルース・ウィリスが何人いたって対処のしようがなかったことは言うまでもない。
では、生命が存在しなかった原始地球にいつ、どのように生命が住みつき始め、「オレたちの宇宙船地球号」とうそぶくようになったのだろうか?

ちなみに生物の定義は①独立性(自分と外界を隔てる)、②代謝(自分でエネルギーを作る)、③自己複製(自分の情報を残す)なので、これに対応する細胞膜、タンパク質(その材料のアミノ酸)、核酸が作られなければならない。
これポイントね。

自然発生説
生命の誕生の仕組みについては、古代から様々な議論、研究がなされてきた。そして古代ギリシャの解答は、なんともメルヘンチックなものであった。
古代ギリシャでは人間はともかく、人間より劣っている畜生どもは、無生物から生まれると考えていた。これを自然発生説という。
例えば、朝露からホタルが、木から鳥が、川の泥からネズミが、水たまりからカやハエが、木材からイモ虫が、沼の泥からウナギが、ウンコから甲虫が生まれると考えていた。
んな馬鹿なと思うかもしれないが、この考えは17世紀まで続いていて、ベルギーのヘルモントという学者は、洋服のシャツと小麦からネズミを作り出す実験を行い、成功したと報告している。
しかし17世紀イタリアの学者レーディが「ハエって本当に自然発生するのかよ」と実験をしっかりやってみると、そんなことは全て誤りであることがバッサリ判明し、メルヘンチックな自然発生説は終息した。一時的にだが。

帰ってきた自然発生説
17世紀に入って「ハエはハエの親から、鳥は鳥の親から生まれる」と、自然発生説は嘘っぱちな説ということが分かった。
「鳥がなる木」についても、鳥が木にとまっているところをなんか勘違いしちゃったんだろうということになった。
ヘルモントの実験も・・・まあ、この人の部屋がネズミが出るほど汚かったんだろう。
ただこの自然発生説は思わぬ復活を遂げる。
17世紀に発明された顕微鏡によって、オランダのレーウェンフックが肉眼では見えないほどちっちゃい生物、微生物を発見したのである。
これまで知られていなかった微生物の世界は、自然発生説が適用できる新たな世界だと、自然発生論支持者は考え「目に見える鳥やネズミは親から生まれるが、目に見えない微生物は自然発生する」と、自然発生説がヴァージョンアップして帰ってきたのだ。
あのモナド論で有名なライプニッツも、微生物は無生物から生まれると、この説を支持していたという。

ニーダムVSスパランツァーニ
生物の教科書にも載っている有名な実験にニーダム(18世紀のイギリスの学者)の実験というものがある。
微生物を一度殺すために加熱処理した肉汁を、密閉した容器に入れて何日間か放置しておくと、微生物が湧いていた、という内容のものだ。
この実験は微生物版自然発生説の有力な証拠としてもてはやされたが、イタリアの生理学者スパランツァーニによって「肉汁の加熱が不十分で微生物が生き残ってたんじゃねえ?」と反論された。
スパランツァーニの反論に、ニーダムは「お前がやった追試は、物質の生命力が破壊されちゃったから微生物が生まれてきてくれなかったんだ」と「物質の生命力?」という、よく分からない謎の新設定を登場させて応戦した。
この論争の決着はフランスのプーシェによって、なんと自然発生説の勝利という形でついてしまう。
プーシェは沸騰した水の入ったフラスコに、100度に加熱した枯草と、酸素を入れて、微生物(菌)を発生させてしまった。
この実験により、「生き物の自然発生は、有機物が酸素と交わることで行われる」という結論をプーシェは導き出した。
プーシェの実験は、強熱処理した無生物から生物が生まれたので、生物が場合によっては無生物から発生しることもあり得る、ということが一応実験で証明されたのだ。
しかし彼らはまだ知らなかった。100℃の熱でも平気な生物がいることを…

パスツール
生物学に疎い人でもルイ・パスツール(1822~1895)の名前だけは知っていると思う。
パスツールは、母国フランスでは国葬が執り行われたほどの天才的化学者で、微生物版自然発生説をオリジナリティあふれる実験で、ばっさり切り捨てた功績を持つ。
彼は「それが微生物であっても、無生物から自然発生する事はない」と考えた。
パスツールは、アルコール発酵が酵母菌(微生物)の呼吸によって起きていることを突き止め、フランスの葡萄酒産業に大きく貢献もしているのだが、その研究において「このような微生物はどっからやってきているんだろう?」と、自然発生説の研究を始める。
パスツールは、プーシェの「生物は有機物と酸素が接触した時発生する」という説を実験によって反証してみせた。
まず砂糖水と酵母のしぼり汁(アンモニウム塩、リン酸塩炭酸カルシウムなど)でできた「培地」を作って一日置くと、その液が濁って微生物が現れたことから、このような有機物が含まれない培地でも生物は発生することを証明し、「有機物+酸素=生物」のプーシェの説を覆した。
またこの培地を空気に接触させなかったり、熱処理を施した空気に接触させた場合には生物は発生しないことから、パスツールは「これは培地がどうこうじゃなくて、空気に何か生物が発生する原因があるな」と考えて、生物発生の原因が空気中をふわふわ漂っている微生物によるものであると、有名な変な形のフラスコの実験で証明したのだ。

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でもやっぱり自然発生説
天才パスツールの会心の一撃によって、微生物版自然発生説は見事に退治された。
パスツールは「微生物であっても生物は無生物から自然発生しない」ことを証明した。どんなちっぽけな生物にでも親がいて、子をうむ。そんな命のリレーがある。
しかし、これが地球上に出現した最初の生命は何から生まれた?という話になると、パスツールはその問題を棚上げしてしまった。「そんな哲学的な話、科学が相手にするべきことじゃないっす」と。
パスツールが行なった自然発生説の否定は、じゃあ、生物はどんなに過去の世代にさかのぼっても永遠に親が存在し続けるのか??という新たな問題を生んでしまった。
繰り返すが、原始地球は生物が住めるような状態ではなかった。「なら地球の生命は宇宙からやってきたんじゃない?」という「地球生命移民説」を唱える人もいるが、これはこの哲学的な問いに対する答えの先延ばし戦略でしかない。
「その宇宙からやってきた生命は、何から生まれた?」という同じ問いが発生してしまうからだ。
宇宙の歴史にしろ、実は最初の最初は一回だけ奇跡があったとするのが現在の科学の考え方だ。宇宙は約150億年前、無の世界から誕生した。そして地球の生命も最初の最初は無生物から生まれたと考えられている。
そう、自然発生説は現在の生物学においても完全否定されておらず、最初の生命誕生の際には特例として使用が認められているのである。

化学進化説
生命が住めたもんじゃない、できたての地球にいきなり生命が「やあ!」って現れたのではなく、まずは無機物から生命の材料(有機物)が作られて、それから生命が出来たんじゃないか?という説を「化学進化説」という。
ちなみに有機物の化学反応は、水(溶媒)がとても重要なので、最初の生命の誕生は水のあるところ、すなわち海で誕生したというのが定説だ。
しかも海は、ちょうど生化学者が実験でフラスコを振るように、月の引力でゆられている(遠くにいる太陽もちょっと海を振ってくれている)。これを潮汐(ちょうせき)と言う。
生命が誕生する前に地球上には有機物が存在していた、という最初の生命誕生の過程を段階的に考えたのがロシアのアレキサンダー・オパーリンである。
オパーリンはとりあえず生物は、その定義①の「独立性」をクリアして誕生したと考えた。
つまり、白い紙に鉛筆で輪郭線をひいて初めて絵が出来るように、まずは生命と外界を隔てる「細胞膜」を作ることを最優先事項と考えた。
オパーリンは水に、細胞膜の材料(リン脂質とタンパク質)を混ぜ合わせて、コアセルベートという小さな球体を作り、最初の生命は大体こんな感じだったんじゃない?とした。
当然この状態では、生物とは言えないが(ただの分子だよね)、まずは「内と外」が膜によって生まれれば、その膜の内部に化合物が閉じ込められて、さまざまな化学反応を引き起こしやすくなるだろう、そう主張したのである。
ただし、現在の細胞膜を構成するリン脂質は、触媒無しで自然に作られるとは考え難く、「もうちょっと簡単なタンパク質だけの膜が最初に作られたんじゃないか」という説(タンパク質の膜でも、親水基と疎水基はできる)や、「細胞膜で内と外をくくらなくても黄鉄鉱(パイライト)という鉱物が、分子を引き寄せ、濃縮させて、有機物を作った可能性もある」という、細胞膜じゃなく、鉱物によって化学反応が活性化するというルート(ヴェヒタースホイザーの説)も考えられている。

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生命が誕生した国
有機物は燃やす(酸素がくっつく)と、水(酸素+水素の化合物)と二酸化炭素(酸素+炭素の化合物)が出来るから、主に酸素と水素と炭素でできているということが分かる。
生物の体を作る細胞も然りで、その材料を元素ごとに調べると、第一位酸素、第二位炭素、そして第三位に水素と窒素が続く。次点で硫黄やリンもいる。
今回は第二位の「炭素」に注目して、最初の生命第一号を考えてみる。
グリーンランドにある今から38億年前の地層から、溶岩が冷えて固まってできた岩石が見つかっている。
より古い岩石が見つからないという事は、地球がまだまだ毎日アルマゲドンで、岩石が固まるほど冷めてはなかったという事である。
この38億年前の地層に、炭素が濃縮されたと思われる、黒い部分が残されている。炭素と一口に言うが実は小泉総理が「人生いろいろ、会社もいろいろ、炭素もいろいろなんです!」と国会で弁明したように(嘘ばっか言ってます)、炭素にも何種類かあって、この炭素の兄弟たちを同位体と呼ぶ。
炭素12(数字は重さだと思ってね)は炭素の基本形で、炭素全体の99%を占める多数派だ。
炭素13は、炭素全体の1%しかないレアな種類で、磁性を持つことからMRIのような磁石を利用した医療器具で活躍している。
さらに、炭素全体の1兆分の1しかない超レアな炭素が炭素14で、こいつは放射能を撒き散らしながら5730年に一回その半分が窒素に変化するという「おいおい!中学校で習ったこと(原子は絶対に他の種類の原子に変化しない)と違うよ!」という性質があり、この性質を利用(岩石や化石に含まれる炭素14と窒素の割合を測定)して地層の古さを計っている。
さて、ここで取り上げるのはオーソドックスな炭素12です。
生物が生命活動をはじめると、炭素13よりも、炭素12の方がより早く取り込まれるという。
グリーンランドの岩石の黒い部分は、この炭素12が濃縮されており「その犯人は生物に違いない。よって、この時代には生命が存在し、せっせと炭素を取り込んでいたのではないか?」という説が1999年にミニック・ロージングによって報告されている(参考文献:『Newton別冊「生命」とは何か いかに進化してきたのか』)。
この説が正しいならば、生命第一号はグリーンランド産と言う事になる。おめでとう!

ミラー
「無機物→単純な有機物(アミノ酸など)→複雑な有機物(タンパク質など)→最初の生命」というように段階的に最初の生物が地球に誕生したという、オパーリンの「化学進化説」は1924年の発表当初あまり受けが良くなかった。
それは「アミノ酸は生物のみが作れるものであり、無生物から自然にはできない」という考えが主流だったからだ。 しかしオパーリンにとって強力な味方が現れる。その人こそかの有名なスタンレー・ミラー(1930~2007)だ。
ミラーは、40億年前の原始地球の大気をメタンやアンモニア、水蒸気の混合ガスと想像し、その大気に放電を繰り返す装置を作った。
つまり生命誕生時の地球をシミュレーションしたのだ。
すると放電を繰り返すうちに、なんとアミノ酸や、核酸の材料の「塩基」が生成されたのだ。  現在では、原始の大気の主成分は、ミラーが仮定したメタンやアンモニアではなく、化学反応しづらい二酸化炭素や窒素であると考えられてはいるが、単純な化合物が、複雑な化合物へと進化することが実験で実証された功績は大きい。
また反応しづらい二酸化炭素や窒素も、宇宙からの放射線「宇宙線」を当てればアミノ酸が誕生することが確認されている。
かつての大気は紫外線(赤外線に比べて化学反応を促進する影響が強い)を遮断するオゾン層なんてハイカラなものはなかったから(あれは生物が作った)、化学進化の原因を放電から宇宙線にすればいいわけで、化学進化が現在反証されたというわけではありません。

有機物宇宙起源説
アミノ酸や核酸の材料(塩基)は、原始地球の大気と宇宙線で生み出すことができることを見たが、なんとそのような生物の材料は宇宙線どころか、宇宙から地球に飛んできたという供給ラインも考えられている。
どういうことかというと、NASAなどの研究報告によると、隕石や彗星に結構複雑な有機物が含まれていて、それが地球に生命の材料を提供したというのだ。
良く考えれば、宇宙線によって化学反応が促進されるならば、宇宙に有機物が存在しても何ら問題ではないのかもしれない。
特に宇宙での有機物のメッカは、恒星(太陽や星座のように自分で燃えてる星)が生まれるゆりかご暗黒星雲だという。
宇宙生まれのアミノ酸や塩基が、隕石や彗星によって運ばれて地球と言うフラスコに入ったのかもしれない。

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熱水噴出孔
そのほとんどが水でできている生命は、「海」と言う水の入ったフラスコの中で生まれた。
物質の運搬、タンパク質をいい感じに溶かして化学反応の円滑化、比熱が大きい(温まりにくく、冷めにくい)ことによる急激な温度変化の防止と、使い勝手のいい媒体である水がなければ、生命は当然生きていけない。
だから、有機物は宇宙からも来てても、生命のふるさとは水のある海であることは疑いようもない。
しかし海は広いな大きいな。
海のどこで生物が誕生したかと言えば、これまた「母なる海」と言う一般的なイメージとは程遠い熱水噴出孔(ブラックスモーカー)と言う究極的に過酷な場所である。
熱水噴出孔とは、地球の熱(地熱)によって超高温に温められた熱水が海底から噴出している煙突である。
この海底の煙突はチムニーと呼ばれ、高さ数10メートルに及ぶものもある。
ぱっとみ地獄絵図のような熱水噴出孔だが、こんな高熱の場所でも、けっこう平気で生きているモノ好きな生物(ジャイアントチューブワーム、コシオリエビ)もいる。
それもそのはず、考えようによってはここは生物のオアシスなのだ。
まずと言うエネルギー源があるし、熱水にはアミノ酸などの有機物の材料(メタンやアンモニア)が含まれている。
さらにここには鉄やマンガンと言った金属鉱床があり、ハイテク機器には欠かせない高価なレアメタルだってある。深すぎて(水深2500メートル)持ってこれないけど。
これらの金属イオンは、化学反応を促進する触媒として働いてくれる。
さらに水深3000メートル以上深い所の熱水噴出孔では、熱水の温度は400度になり超臨界状態になる。
小学校などで「水は100度で、気体の水蒸気になります」と教わったが、実はそれは1気圧の場合の話で、圧力が低いと水は100度以下で沸騰し(だから富士山で米を炊くと失敗しちゃう)、逆に圧力が高いと100度以上でも沸騰しない。
超臨界状態の熱水を噴射する熱水噴出孔は、ななななんと気圧換算で218気圧、熱水の温度は374度以上である。
超臨界状態の水は、もはや普通の水とは一味違った性質(液体でも気体でもない)をもち、イオン化傾向の最後尾にいる腐食に強い銀、白金、金をも酸化させてしまったり、水の分際で油と混じったりする恐るべきリーサルウェポンだ。
超臨界状態の水は、水を加えて化合物を分解する加水分解もするが、逆に、水を奪ってくっつける脱水縮合もやっちゃうらしいことが、近年の研究でわかりつつあるらしい(「海洋研究開発機構 横浜研究所 (2006年)」)。
「それがなんだ」と思うかもしれないが、実はアミノ酸同士がつながるペプチド結合は、この脱水縮合という結合パターンで、ぶっちゃけこれは水の中では非常に難しい。というか無理。
でも超臨界状態の水では、アミノ酸がくっつくことが実験で報告されている。その点においても熱水噴出孔が、生命のおふくろである可能性は高いのだ。

RNAワールド
ここまでの話をまとめると、最初はアミノ酸や塩基などの低分子有機物だけがあったんだけど、熱などのエネルギーにより、そっから、RNA、DNA、タンパク質などの高分子有機物が作られたという流れになるが、じゃあRNA、DNA、タンパク質のうち一体どれが一番最初にできたんだっていう話にもなる。
RNAは所詮コピーで、原版のDNAあってのものだし、DNAもなんだかんだでタンパク質を組み立てる設計図にすぎないから、肝心のタンパク質がないとどうにもならない(そもそもRNAもDNAも酵素がないと作れない)、タンパク質も触媒作用とか色々すごいけど、その設計図であるDNAがなければ合成できない。
こうなると、どれかがひとつあってもどうにもならない感がすごいが、最近ではRNAが一番最初に出現したんじゃないかというRNAワールド説がもてはやされている。
その理由は、リボザイムというタンパク質的な触媒作用があるRNAが発見されたからである。
つまり最初はこのリボザイムが遺伝情報と酵素作用の両方をやっていたんだけど、その後、遺伝情報の記録の方はDNAに、酵素作用の方はタンパク質に譲っちゃって、自分はただのコピーでいいっすと、一線から身を引いちゃったのだと考えられている。

連続共生説
真核細胞とは、核と細胞質が明確に分かれていて、動物や植物、菌類、原生生物など、原核生物を除くほとんどの生物が持つ細胞で、最も古い真核細胞の化石は、21億年前の地層から発掘された。
真核細胞っていうのは、細胞質にミトコンドリアとか葉緑体とか様々な細胞小器官を持っているため、原核細胞に比べてずっと構造が複雑で、これが一度に出来上がったと考えるのは難しい。
そこでマーギュリスは、真核細胞はもともとは原核細胞で、彼が海を遊泳する別の原核細胞を飲み込んじゃって、合体したんじゃないのかしら?(この人女の人)と考えた。
つまり今では細胞小器官に成り下がっているミトコンドリアも葉緑体も、もともとはそれぞれ別の独立した生物で、そのためこいつらは体細胞とは異なる独自の遺伝情報を持っているというわけ。
この説の根拠はもう一つあって、ミトコンドリアや葉緑体には二重の膜がある。なんで膜が二つもあるんだ、いらねえだろって言うと、ひとつはミトコンドリアたちの膜で、もうひとつは彼らを取り込んだ細胞の膜って考えれば腑に落ちる。
おそらく、ミトコンドリアは原始的な好気性細菌、葉緑体は原始的なシアノバクテリアで、自分の遺伝情報を中央(現在の核につながる部分)に集めた細胞に、サラリーマン金太郎的に吸収合併され、現在の形の真核細胞になったと思われる(読んだことないけど)。

板倉聖宣名言集

 昨日は板倉聖宣さんのテーゼは身も蓋もなさすぎ、とか言ってたけど、ごめん。

 やっぱこういう勢い任せの大胆な発言好きだわ。

 ということで、個人的にシビレた板倉発言をここにランキング形式で紹介します。

第7位
 学校では一般的法則性を教えるんだから「法則性を信じなさい」という形でいくんだけれども、世の中のものはみな法則性があるとはかぎりません。対象によって、あったりなかったりするわけです。(『科学と教育 科教育学を科学にするための理論・組織』138ページ)

 板倉さんがアメリカの哲学者っぽいのがわかる発言。

第6位
 科学的な考えというのは、無限に多くのものについて片端から(略)調べるのではなしに、系統的に筋を立てて、道を立てて考えて実験するということです。(123ページ)

 これはサイモンの満足モデルそのものである。

第5位
 学問をやってきた人たちは昔から手弁当で、道楽としてやってきたわけです。「月給をくれるから科学研究をやる」というようになったのは1900年代に入ってからのことです。「月給をくれないのに、時としては命が保障されないのにやる」、科学というのはそれほど人を夢中にさせるものなのです。

 確かに昔の科学者は楽しそう。ちなみにイギリスの貴族院議員は名誉職でギャラをもらってない。でもやるんだよな。

第4位
 一般的法則性を見つけることは、私たちでもできます。しかし、「この子はお母さんがいない」とか、「昨日どういう事件があった」とかは、私たちには全然わからないわけでしょ。ところが、そのことと今日の授業とが関わりあったりするわけです。そういうことは現物の先生にしかできないでしょ。

 こういうことが考えられるような教育学者ってなかなかいなかったりする。

第3位
 ある意味では、「科学というのは真理だから押し付けてもいい」という考えがある。ところが私たちは、「実験で決着できることは、何も言わなくてもいい、実験が間違っているとは言わせない。実験するまではいくら間違って考えてもいい、間違えた方がいい」というのです。(183ページ)

 いよいよベスト3。科学に詳しいと思い込んでいる人がつい陥りがちな考えである。

第2位
 本なんかでも、初版と再版と三版とどれがいいかというと、初版がいいんです。(略)「名著」と言われるものって、一種の迫力があります。迫力があるというのは、思想が読み取れるからでしょ。事実を読み取らせる本は後のほうがいいですが、その人の思想を読むとすれば、正しいことだけではなく、間違ったところ、間違え方が重要になります。「この人は何を考えているか」ですね。ある考えにとらわれるから勇み足をするわけです。その間違いを起こしたことからみて、この人はなんとこの考えを気に入っていたか、この考え方を大事にしていたかわかるわけです。(186ページ)

 これ、目からウロコだったw

第1位
 だから授業参観というのは、授業を見た人が「あそこを直したほうがいい」「ここをよくしたほうがいい」ということをよく言いますが、私はそれにはほとんど否定的です。それは授業参観だけでなくて、あらゆる人間的行為について、後から「ああしたらよかった」「こうしたらよかった」ということはほとんど意味がないということです。ですから私は、「あなたの言うようにこうすればよかったということがあったのは確かだ。しかし、あなたがもしこの反省のような自己批判に従って授業をやったら、この授業よりずっと悪くなるのは確実だ」などというのです。(185ページ)

 この前退職しちゃった塾が、とにかく授業反省会(ダメ出し)が大好きな塾で、事前練習通りに授業を進めないといけなかったんだよ。それこそ一字一句。
 ほいで、だんだん私も、どうやったら上層部にダメ出しされないかが優先されちゃって、肝心の授業を受ける子どもたちのことを見れてなかったな、ってすっごい反省してさ。
 そう言う意味で、板倉さんのこの発言はすごい溜飲が下がったよ。もちろん自分の至らない点は素直に反省すべきだけど、あまりにダメ出しばっかりだと、こっちも前向きに考えられなくなっちゃう。
 これは自分が今後子どもに接する際にも、肝に銘じ無ければいけないことだと思う。ダメ出しを1つするなら、良いところを3つは見つけないといけない。

理科教育法覚え書き②

参考文献:板倉聖宣著『科学と教育 科教育学を科学にするための理論・組織』

授業プラン《電気を通すもの・通さないもの》
 《電気を通すもの・通さないもの》は、金ピカや銀ピカの光沢のあるもの(金属)は、すべて電気を通す性質があるということを生徒に学習させるために、身近な一円玉から、日常的にはあまり見ない方鉛鉱や黄鉄鉱まで、電気がつくかどうかを、ひとつずつ予想を立てながら、実際に実験していく授業プランであるが、仮説実験授業自体で考えれば、生徒に学ばせたいのは、実験のドキドキ感や、知的好奇心、科学的な物の見方そのものであると言える。
 つまり、教科書に書かれている正解の確認作業ではないので、原理的に生徒が授業のイニシアティブを握るしかなく(あらかじめ予想を立てて目的意識を持って実験に参加する)、だからこそ楽しいのである。

 このような仮説実験授業のポイントには以下が挙げられる。

①取り上げられる問題が、小学校や中学校でやっていないようなもので、しかも大人にとってもかなり難しいということ。
これは、あらかじめ正解を知っている人が退屈しないし、勉強ができる人と苦手な人の差がなくなり、同じ土俵で授業に参加できる(つまり予習や復習が意味をなさない)。

②その問題について学校で全然教わっていないとは言え、考え方の筋道が全くないわけではないということ(電気や電池自体の断片的な情報はなんとなく持っている)。
これにより、誰しもが問題の予想を選ぶことができる。

③問題の予想をする際には、あくまで「事実」(電気がつくかつかないか)のみを取り上げ、仮説を出し合うわけではないこと。
これにより、問題の論点が明確化し、次の実験へテンポよく進むことができる(仮説を考えるのは高度であるため)。

④予想が合っているかどうか確認するための実験そのものの手順は非常に簡単で、専門的な技術を必要としないこと。
これにより誰もが気軽に授業を行える。

 総じて、実験に参加する敷居をできるだけ下げているものの、予想を立てる内容自体は意外に高度であることがわかる。そのため、生徒は実験結果の展開が読めず(予測できない)、ワクワクしながら授業に参加できる。
 このような仮説実験授業が生徒にとって魅力的な理由は、仮説実験授業が、一般的な学校の情報詰め込み型の授業や成績とは異なる、生徒の主体的でクリエイティブな物の見方を尊重しているからだろう。

「易しい問題から難しい問題の順に教えるのがよい」は正しいか
 著者の板倉聖宣は、「易しい方から難しい方に行け」と言っても、ほんの僅かな難易度の差しかない問題がずっと続いたり、反対に難易度の差がありすぎるのは授業としてはあまりよくなく、結局は程度の問題であると述べている。
 その上で、2つか3つの選択肢のある質問をしたら、だいたい同じくらいに各選択肢を選ぶ人数が分散する方が、子どもは挙手がしやすいと主張している。
 易しい問題は、1つの予想に偏る上に多数派が正解してしまうので、少数派の不正解者が自信をなくし、次の問題で積極的に挙手をしなくなってしまう。
 したがって、1つの予想に偏ってしまう問題を行わざるを得ない場合は、多数派が間違ってしまうような難しい問題の方が望ましいというわけである。

 もっと言えば、易しい問題から難しい問題の順序で授業をすすめると、いつも不正解な人が決まってしまい恥をかかされ、正解者の方も当たりっぱなしで、バカバカしい問題をやらされ続けているということになり、お互いあまりいい気分にならない。
 これが難しい方からやると、少数派の正解者は、大多数の人が外れた問題に正解したのでいい気分になるし、外れた人もほかのたくさんの人も外れているので別に恥ではないと考える(つまり不正解者の学習意欲が低下しない)。

 このように板倉は、授業を行なう教師ではなく、授業を受ける子どもの立場に立って、授業の組み立てを考えている。
 この視点は、授業が教師と生徒の信頼関係で成り立つというような、教育的な意味でも重要だが、板倉がこの視点を重視するには、もう一つ大きな理由があると思われる。
 それは板倉が、科学的な認識について「他人との関係において認識する」ことが一つの筋だと主張し(『科学と教育』144ページ)、科学理論は社会的な同意(コンセンサス)によって客観的に担保されると考えているからである。

 それゆえに科学の教育は、多人数が参加する「授業」でなければならず、そのために参加者が尻込みせず積極的に授業に参加できる雰囲気作りが必要だというわけだ。
 私は、この主張は、理科の授業にとどまらず、現代の民主主義社会にとっても(民主主義が少数派の意見を反映しにくいシステムであるがゆえに)、非常に大切なことだと思った。
 板倉も著書でこのように述べている。

 少数派であっても自分の意見を貫徹する方法は二つあります。封建的なやり方は、自分が天下の王様になることです。しかし民主主義社会では、少数派でありながら自分の意見を貫徹する方法がまだあるわけです。それは、「科学の方法」です。そういう「少数派が勝つ方法を学ぶ」ということの含みもあって、私はどうしても集団教育でやりたいわけです。(145ページ)

授業プラン《光と虫めがね》
授業プラン《光と虫めがね》の流れは以下の通りである。

質問1:あなたの家に家に虫めがねはありますか?

作業1:虫めがねで新聞紙を燃やしてみる。
①太陽の光がよく当たるところに白い紙を置いて、その上に虫めがねの影を丸く映す。すると虫めがねと紙の離れ方によって、いろんな形の影ができる。
これは虫めがねのレンズが光の進む方向を曲げるため。
②これをふまえて、虫めがねと紙の距離を調節し、レンズを通り抜けた光が全部一ヶ所の小さな点に集まるようにすると、ほかのところが暗くなった分だけ、点の中の光がうんと光る。これは進む方向が変わった光が一点に集中しているからである。

作業2:次の質問についてみんなで話し合ってからもう一度新聞紙を燃やしてみましょう。
①どのようにやったらうまくもえますか。どのようにしたらうまくいきませんか。
②新聞紙と虫めがねは、どのくらいはなしたらうまくいきましたか。その距離は、虫めがねによってちがうことがありますか。
③新聞紙の黒く印刷されていないところでももやすことができましたか。(紙を燃やすこと自体が目的なら白い紙ではやらないが、科学的な認識が目的なら白いところと黒いところで燃え方がどれくらい違うのかは重要である)

[新しい科学の言葉]焦点と焦点距離:光がレンズで屈折していることを確認するため、線香から出る煙を使って光の道筋を可視化する。
この時、光が一ヶ所に集まる点を焦点という。レンズと焦点の距離はレンズによって決まっており、これを焦点距離という。

作業3:クラスにある虫めがねの焦点距離を、みんなではかってみましょう。

太陽の光を集めてものをもやす話:太陽の光を集められるのは虫めがねだけでなく、丸いガラスや水晶の玉でも可能である。丸いフラスコに水を入れたものでも、黒い紙を燃やすことができる(水から火を起こす)。
火を起こすことに苦労した昔の人は、ものをこすり合わせなくても太陽から簡単に火を起こせるなんて素晴らしいと、火を大切にした(聖火)。
ラボアジエの火付けレンズによるダイアモンドの燃焼実験や、丸い金魚鉢による火災などの紹介。
ガスの燃焼は数百℃だが、太陽光を集めると2000~3000℃にもなる。つまり遊びのようだが軽視できない科学の実験である。

問題1:①虫めがねで夜の明るい月の光を集めて新聞紙をもやすことができるでしょうか。
②白い紙の上に月の光を集めたら、太陽光と同じように丸い形になるでしょうか。月の形になるでしょうか(答え:月の形になる)。
問題2:暗い部屋で電灯をつけ、その光を虫めがねで白い紙の上に集められるでしょうか。
問題3:明るい外の景色の光を虫めがねで、部屋の中の紙の上に集めることができるでしょうか(答え:できる。しかも景色の光が映る)。

作業4:虫めがねでカメラを作る。

問題4:レンズの代わりに小さな穴を開けただけでも明るい外の景色は映るでしょうか。

カメラの生い立ちの話:900年前のイブン・アル・ハイサムの人間の目の構造と光に関する研究を紹介。暗い部屋に小さい穴を開けるピンホールカメラ(カメラ・オブスキュラ)はこの人が考えて、それがヨーロッパに波及した。
レンズ付きのカメラは1550年にイタリアの数学者カルダーノが発明、しぼりは1568年にイタリアのバルバロが初めて取り付けた。
ピントが合わせられるカメラは1657年にドイツのカスパル・ショットが発明した。

目の仕組みの話:カメラと目の構造はとてもよく似ている。

研究問題1:ロウソクや豆電球の光も虫めがねで集められるでしょうか。
①レンズをロウソクから壁の方にだんだん離していったらどういう像ができますか。
②レンズを壁の方からロウソクにだんだん近づけていったらどういう像ができますか。

幻灯機(プロジェクター)の仕組みの話

科学とは何か
 近代科学が生まれた頃(16~17世紀)には「迷信」と「スコラ学(神学)」と「科学」が三つ巴になっていた。スコラ学は迷信と対決していたので、迷信ではなく列記とした学問ある。ではスコラ学と科学は何が違うのだろうか。
 よく、事実に重きを置くのが科学だと言われることもあるが、スコラ学や迷信は本当に事実を大事にしないのだろうか。考えてみれば、基本的に人が信じるようなことは、どれも事実に基づいている(超能力によるスプーン曲げなど)。では、科学と、スコラ学、迷信を隔てるものは何か。
 実は、科学とは事実に重きを置くのではなく(むしろ迷信の方が“事実”を重視する)、仮説と実験に重きを置くのである。
 迷信は、個別的かつ特殊な事実を重視して、そこから一点突破を試みるが、科学は事実の再現性を重視し、そこから普遍的な規則性を見つけていく。
 例えば「磁石は鉄を引きつける」という事実があったとき、スコラ学は、磁石に関する事実を(「磁石はダイアモンドも引きつける」「ニンニクは磁力を弱める」などといった俗説を含め)、どんなものでもかき集め、ひとつの学問として構成していく。
 対する科学は、それら“事実”をひとつずつ検証し、その際に、実験などで客観的に再現できないことは、本当かどうかを判断しない(科学として扱わない)。
 つまり、「再現できないから嘘だと言われても、自分は確かにニンニクで磁力を弱めたんだ」、という人がいても、科学は再現できるものだけを事実と定義しているので、そもそも迷信やスコラ学とは、基本的な原則が違うのである。

理科教育法覚え書き①

 主に板倉聖宣を学ぶ単位。

 しかし歳をとると思考の嗜好も変わるんだな~、若い頃はこういう竹を割ったような主張が好きで、衒学的なこと言う奴をこのオレに分かるように説明できないこいつがバカとかボロクソに言ってたんだけどさ、まあ衒学的なのは今も大嫌いなんだけど、そのさ、自分を賢く見せようとしてわざと難しい言葉を使うんじゃなくてさ、まだ言語化されていないような新しい概念とか思想をなんとか一生懸命ひねり出そうとしたうえでのよくわからなさっていうのも世の中にはあるじゃん。
 で、そういう、綾みたいなものがある思想の方が、最近は「え?どういうことだろう??」って知的好奇心が刺激されて、心に残ったり、好きだったりする。
 言い切られちゃうとこっちはさ、ちげーよよくぞ言った!しかないじゃん。ツイッターの発言なんかはそんなんばっかなんだけどさ。
 やっぱりさ、世の中にはよくわからないとか保留っていうのも大事だよなって。そっちの方が世界は豊かなんじゃないかってね。

 んでさ、板倉さんはさ、本当にバッサリわかりやすく言ってくれる人でさ、科学哲学なんかを始めて学ぶ人はさ、もう究極的に分かりやすいから、ネットで喧々諤々な不毛な議論してねーで、この本を一冊読めばいいだろって思うんだけどさ、この人はパラダイム・シフトを認めてなくてさ。
 あれはアメリカで流行っているからみんな使っているだけで、植民地根性が抜けないんだよなあ、って言ってて、それはそれでいいんだけど、板倉さんのこの「なんで回路をつなぐと電気が流れるんですか?」って聞かれて電気が流れるように作ってあるからですって答えちゃう、この潔さっていうか、自明なことはいちいち突っ込むんじゃねーよ的な、行動主義的な態度は、すごいアメリカ哲学っぽいよなっていうw
 あいつらって神がいるかどーかは知らねーけど、その人が神を信じて幸せなら、とりま有用なんじゃねーの?みたいなこと言うじゃん。このズバリ言うわよ感が、学生時代はすごい好きだったんだけど、今はあまりに身も蓋もなさすぎて、永遠に答えが出ない問いでも、もうちょっと深く思考しようぜよってなってんだよねw

参考文献:宮地祐司著『生物と細胞 細胞説をめぐる科学と認識』

授業プラン《生物と細胞》の第1部「生物と細胞」
 《生物と細胞》の第1部「生物と細胞」では、細胞の発見者として有名なフックの経歴や、彼が生きた時代背景をはじめとして、フックがどういういきさつでコルクから細胞を発見したのかを、子どもでもわかりやすいイラストと文書でまとめている。
 著者が第1部で主張したいことは、フックは顕微鏡を使って観察したもの(ノミやシラミなど)を手当たり次第に写生したのではなく、「ただデタラメに見るだけではなく、筋道だてて見ていったら、みんなが気がつかなかったことが見つかるかもしれない」(本書14ページ)と、観察や実験をする前に、あらかじめ仮説や予想をたててから、顕微鏡を覗いたことである。

 これは本書では仮説実験と呼ばれ、著者が重視する重要な概念になっている(いわゆるアメリカの哲学者パースが唱えたアブダクションのことだと思う)。
 さて、フックの細胞発見につながる「仮説」は、「コルクが水に浮かぶのは目に見えないほど小さな隙間がたくさんあって、それで水に浮かぶのではないか」ということだった。
 しかし「たくさんの隙間に水が入ってしまったら、逆に水に沈むのではないか。となると、なにか特別な仕組みがあるのかもしれない」という自説の確認をするために、フックはなんの変哲もないコルクに対して強い目的意識を持って観察したのである。

 こういった、観察の前にまず予想を立てて、そのあと実際に観察することによって自分が立てた予想が正しいか間違っているかを確かめるという、17世紀にフックが行ったプロセスを読者にも追体験してもらえるように、本書の構成は工夫がされている。
 例えば、本書では問題と結果のページのあいだに必ず、読者(特に複数を想定)が予想を立てられるように、いくつかの予想の選択肢が提示されている。
 脂身、髪の毛、爪、骨、さらに目の水晶体・・・これらも本当に小さな部屋の細胞で出来ているのだろうか?読者は自分が選んだ予想が本当に正しいのかを、クイズ番組のように、いや当時のフックのようにワクワクしながら検証できるというわけだ。

 私は科学者ではないが、本書を読んで強くこう思った。自然科学の研究の醍醐味はまさにこの「予想の検証」にあるのではないだろうか。
 もちろん自然科学の研究には武谷三段階理論のような帰納法もアプローチとしてあるし、科学者側の事前の予想はバイアスや見落とし(昨今では不正や改ざん)をはらむかもしれないが、著者はそういう場合にも、まずは科学者側の主体的な働きかけ(アブダクション)なしでは科学という文化は成立しないと考えている(本書5ページなど)。
 つまり、科学とは客観的で無味乾燥な学問ではなく、もっと血の通った主体的で楽しい活動なのだということを、著者は強く訴えているのである。

細胞の発見から細胞説の提唱まで170年かかった理由
 シュワンが『動物および植物の構造と成長の一致に関する顕微鏡的研究』を発表し、細胞説を提唱したのは1839年で、1665年にフックが最初に細胞を発見してから、なんと174年も経っている。自然科学の発見は漸進的なデータの積み重ねによるものであるという一般的なイメージでは、この空白の時期は説明がつかない。
 著者は科学的認識は、目的意識的な実践・実験によってのみ成立する(本書112ページ)という板倉聖宣の主張を引用した上で、シュワンは観察を行なう前に、「種や部位を問わず動物の体はすべて細胞からできており、その細胞が増えて変化することによって成長が起こる」という普遍的な仮説を立てていたと論じている。
 つまりシュワン以前にも顕微鏡で細胞を観察していた科学者はたくさんいたが、「植物の発生の原因は細胞が増えて変化することだ」という友人シュライデンとの会話をきっかけに、すべての動物の部位は細胞で出来ているに違いないと考えた上で顕微鏡を覗いた科学者は、シュワンが初めてだったと言うのである。

 それは、結局、「主体的に予想を立てた人が、その170年間に1人もいなかったからだ」という結論に、ボクとしては落ち着いたわけです。(『生物と細胞 細胞説をめぐる科学と認識』105ページ)

 目の水晶体をありのままに詳しく観察したところで、それが細胞で出来ているなんて気づくはずがありません。(同書117ページ)

 したがってシュワンは、目的意識もなく手当たり次第にいろいろな細胞を調べて、細胞説にたどり着いたのではない。
 彼には「細胞説の検証」という明確な動機があり、その上で観察を行ったからこそ、一見細胞で出来ているように見えない部位は、もっと若い状態のものを観察し、それでも分からなければ発生段階の胚にまでさかのぼって、粘り強く細胞説を検証したのである(でなければ、目の水晶体の細胞は“見れども見えず”だったに違いない)。
 以上のように科学の発見とは漸進的なものではなく、あるときをきっかけにして急進的に起きる。これをトマス・クーンはパラダイム・シフトと呼んだ。具体的にはダーウィンの進化論や量子力学の発見などがこれにあたる。
 つまり、パラダイムとは、その時代その時代に生きる人間の科学的な認識を規定する思考の枠組みのことで、著者はこのクーンの哲学を「客観的にものを認識するためには、主観の働きを活発化して実践することによって主観と客観を対決させることが決定的に重要なんだ」(本書101ページ)と板倉聖宣の文脈に沿って解釈している。

授業プラン《生物と細胞》の第2部「細胞と生物」
 《生物と細胞》の第2部「細胞と生物」では、たった一つの細胞で生命活動をしている単細胞生物の紹介から、単細胞生物のようにヒトの細胞も環境を整えて栄養を与え続ければ生かしておけるかどうかを問題提起し、そもそも生き物が生きているというのはどういう状態を指すのか?という哲学的な思索を試みている。

 例えば、人間の体を構成する細胞一個一個は定期的に死に、3ヶ月ほどで体のすべての細胞は交換されてしまうというが、このような新陳代謝は、個体としての人の死ではない(細胞としては死んでいるが、個体としては生きている)。
 これとは逆に、ヘンリエッタ・ラックスさんの子宮がんの組織「ヒーラ細胞」は、ヘンリエッタ・ラックスさんが病気で亡くなったあとも、1951年から現在に至るまでシャーレの中で生き続けている(個体としては死んでいるが、細胞としては生きている)。
 つまり単細胞生物では「細胞の死」はすなわち「個体の死」であるが、多細胞生物において「細胞の死」と「個体の死」が一致しないというのだ。

 本書はさらに面白い例を挙げる。ヒトの体は60兆個の細胞で出来ているが、医者が「ご臨終です」と言った瞬間、その人の60兆個の細胞すべてが一斉に死ぬわけではない。となると細胞が全体の何割死ねば、個体の死と考えていいのだろうか?
 仮に「全体の半分の細胞30兆個以上が死ぬことが個体の死である」と定義するなら、29兆9999億9999万9999個と30兆個の境界はなんなのだろうか?
 まるで哲学のテセウスの船のような命題であるが、著者は個体の死は連続的に起こるものであり、ここからが個体の死という一瞬は存在しないと論じている。

 そして章の後半では、心臓や小腸、肝臓といった臓器の働きに、一個一個の細胞がどのように関わっているかを、クイズ形式で取り上げている。
 心臓の細胞は心臓と同じように細胞一個一個も伸縮しているのか、小腸の細胞は細胞一個一個がそれぞれ栄養分を吸収しているのか、肝臓の細胞は細胞一個一個が栄養分を貯蔵しているのか、などの興味深い問いが続き、これによって生徒は、細胞一個一個の働きがたくさん集まって、臓器全体の働きは成立しているということを楽しみながら学習できるようになっている。

 つまり、生命活動とは、細胞一個一個がそれぞれ仕事をしていることによって成り立っているのだ。したがって細胞を壊してしまうと、全体の働き(個体としての生)は失われてしまう。
 部分は全体を兼ねるというわけである。

いくら細胞をたくさんスケッチしても細胞説が提唱できなかった理由
 フックの「コルク細胞の発見」(1665)からシュワンの「細胞説の提唱」(1839)まで174年かかったわけだが、フックが王認学会で発表したノミやシラミなどの写生図をまとめた『ミクログラフィア』(1655)の影響で、顕微鏡を使って微小な世界を観察する人は当時もたくさんいた。イギリスの医師ネヘミア・グルーもそんな一人で、顕微鏡を使って植物の組織の緻密なスケッチを残した。

 しかしこれほどまでに細かいスケッチをもってしても、「生物はすべて細胞からできている」という細胞説の発見にたどり着くことはなかった。
 グルーは植物組織の模様の美しさや精巧さを、いかに本物そっくりにスケッチするかということに関心があり、「生物はすべて細胞が集まってできているにちがいない」という見立てをして観察に臨んだわけではなかったのである。
 実際グルーは、フックが名づけた「cell(小部屋)」という言葉を使わずに「bladder(袋)」という言葉で細胞(に当たるもの)を呼んでおり、フックの研究を直接引き継いだわけではなかった。
 またグルーが細胞を認識せずにスケッチを行っていた間接的な証拠としては、細胞と細胞の仕切りを繊維の縦糸と横糸のように描いていたことからも伺える。

 とはいえグルーの図は大変美しく、見ごたえがあり、例えばミカンの実のつぶつぶはひとつの細胞であるという俗説が誤りであることを検証できるほど、緻密なレモンの図も残されている(実のつぶつぶの中にもさらに細かいたくさんの細胞がある様子がしっかりと書かれている)。このようにグルーの図を引用し、参考書に書かれる段階で間違った説明がなされることもあった。

 いずれにせよ、「フックがコルクの細胞を発見してから、しだいに、いろいろな人が顕微鏡でいろんな生物をのぞいて、だんだん生物は細胞からできているらしいということが言われるようになった」という歴史観(本書146ページ)は誤りで、「生物はすべて細胞が集まってできているにちがいない」という予想を持って確かめようとする人が現れない限り、いくらグルーのように顕微鏡を用いて正確なスケッチを書いたところで、細胞説という科学的な認識は生まれなかったのである。

生物学概論覚え書き②

参考文献:トレシー・グリーンウッド、ケント・プライヤー、リチャード・アラン共著、後藤太一郎監訳『ワークブックで学ぶ生物学の基礎』

生物の分類の変遷
まず生物は、古代から植物と動物の二つに大きく分けて考えられてきた。
その後、近代になり生物学が博物学に吸収されると、生物は鉱物と共に、植物・動物・鉱物の3つに分類されていたが、やがて生物学が博物学から別れると、再びリンネによって植物と動物の二界説が提唱された。
これは動物ではない生物は全て植物にしてしまう考え方であった。つまり分解者である菌類や細菌類は植物として分類された。

19世紀になり顕微鏡が発明されると、レーウェンフックが微生物を発見、これにより二界説では新たな生物群を分類しきれなくなり、生物は、植物界・動物界・原生生物界の三つに分類されるようになった。これを三界説といい、1894年にヘッケルが発表した。
ちなみに原生生物界とは、ヘッケルが1866年に創設したグループで、ミドリムシのように植物とも動物ともとれるような原始的な生物など(原生生物、細菌、真菌類、単細胞藻類)が、ここに分類された。

次に出てくる五界説は、1969年にホイタッカーが提唱した説で、生物を、植物・動物・菌・原生生物・モネラの5つに分類するものである。
モネラ界とは、すべての原核生物(細胞内で核と細胞質の区別がない生物。細菌やラン藻など)が含まれるグループである。
原生生物界には、細胞内で核と細胞質の区別があり、植物、動物、菌、モネラのいずれにも属さない単細胞生物が分類された。

さて、五界説では、モネラ界と、残り4つの界を、原核細胞をもつものと真核細胞をもつものの2つに分けていたが(2ドメイン。ドメインとは界よりも大きな分類単位)、1996年に、メタノコッカス・ジャナスキーという古細菌の全DNAが解読されたことによって、生物は2つではなく、3つのドメインからなることがわかった。
この細菌は、極限環境生物であり、85℃の高温の環境に生息する。これは真核生物のみならず、ほとんどの細菌にとっても致死的な温度である。
この細菌と、細菌類、真核生物との遺伝子には共通部分がたった44%しかなかったため、2つだったドメインが3つに修正された。

こうしてウーズによって1990年に提唱された3ドメイン説は、真正細菌ドメイン・古細菌ドメイン・真核生物ドメインの3つに生物を分ける説である。

真正細菌ドメインは、古細菌ドメイン同様、明瞭な核や細胞小器官を持たない。しかし古細菌よりも穏やかな環境を好む。よく知られている病原菌や、多くの無害な細菌、シアノバクテリア(ラン藻類)が含まれる。

古細菌ドメインは、真正細菌に多くの点で似ているが、細胞壁の組成と代謝特性が大きく異なり、原始地球の環境に似た過酷な環境に生息する。硫黄、メタン、ハロゲン(塩素、フッ素など)を使って代謝をして、多くの種類は極限の温度や塩分濃度、pHに耐える。

真核生物ドメインは、核と細胞小器官がある複雑な細胞構造を持つ生物が含まれる。つまり伝統的な五界説のうち、植物、動物、菌、原生生物の4界が該当することになる。

オゾンホールの拡大とその影響
地表から17~26キロメートル上空の成層圏の上部には、オゾンの薄い層が存在する。
オゾン層は太陽からの有害な紫外線の99%を吸収し、地表に届くのを防いでいる。
オゾン層が1%減少すると、地表に届く紫外線は2%増えると言われている。

紫外線は生物のDNAを傷つけるため、これが増加すると、深刻な日焼け、皮膚がんや白内障の増加といった人間の健康に関わる問題の他に、動物の免疫系の抑制、土壌微生物の減少、植物の生育阻害、穀物収穫量の低下、森林の生産力の低下、植物プランクトンの減少、スモッグの増加、さらに地球規模の気候変動の影響になる可能性が高い。

オゾンは極めて不安定で、人間が生産したわずかなオゾン層破壊物質によってたやすく壊れてしまう。
オゾン層破壊物質には、クロロフルオロカーボンやハロン、臭化メチル、メチルクロロホルム、四塩化炭素があり、これらが成層圏まで上昇し紫外線を照射されると、反応性が高い塩素原子が放出、この遊離塩素がオゾンと反応することで、オゾンは酸素分子と一酸化塩素分子になってしまう。

オゾン層破壊は1984年に初めて取り上げられた。研究者は、南極大陸上空の成層圏上部のオゾン層が、南極の春から初夏の間に破壊されていることを発見し、オゾンホールと呼んだ。
しかしそれは「穴」というよりは、著しいオゾンの濃度低下で、オゾンの水準が50~100%の範囲で減少していた。
2000年には、南極上空のオゾンホールの規模は過去最大になり、さらにオゾン層の破壊は北極の空でも観測された。1999~2000年にかけての冬のあいだに、北極上空18000メートルのオゾン層の水準は60%減少した。

1987年にモントリオール議定書が採択されて以降、各国はオゾン層破壊物質の消費を70%削減したが、オゾン層破壊物質の段階的な削減はまだ完了しておらず、クロロフルオロカーボンの闇市場も存在している。
とはいえ、成層圏の遊離塩素の量は1999年あたりをピークに、今後1世紀以上かけて減少すると見積もられている。
2050年までには極地のオゾンホールは1975年の水準に戻るとされるが、1950年以前の水準には、さらに100~200年はかかると考えられている。

自然環境における水循環
水が集積、浄化され、地球上の限られた供給源に分配される一連の流れを水循環と言う。
雨水は、内陸部の水源に水を補給するとともに、土地を侵食し、溶存する栄養分が生態系内、生態系間を運ばれる際の主な溶媒となる。

地球全体で見ると、海からの蒸発量は、海への降水量を上回るが、これは海から蒸発した水蒸気が風によって陸上へ運ばれるためである。
一方、陸地では、地上への降水量が、地上からの蒸発量を上回る。
これは、降水量の一部が雪や氷となり閉じ込められるからであるが、ほとんどの水は地表や地下を流れて、最終的には海へたどり着く。こうして主要な水の循環は完結する。

生物、特に植物は、この水の循環に多かれ少なかれ関与しており、海上では水蒸気のほとんどは蒸発によるものだけだが、陸上での水蒸気の90%は植物の蒸散によるものである。

また、人間の活動も水循環に大きな影響を与えている。例えば、川やダム、地下からの水は水道水(生活用水)として消費され、農業、発電、工業、森林伐採や造林などの産業活動、さらに地球温暖化による、水の蒸発量と降水量の急増(水循環サイクルの加速)、氷河の融解も、水循環に大きな影響を与えている。
なにより人間は産業革命以降、人口が爆発的に増大している。これに伴う急速な都市化や開発は、森林の減少、砂漠化、生態系の破壊、土砂流出(洪水)、水不足など、深刻な環境問題を引き起こしている。

ちなみに地球上の水の97%は海水で、淡水は水全体のわずか3%、しかもその淡水の70%は北極と南極で凍っている。

参考サイト:国立環境研究所 http://www.nies.go.jp/nieskids/index.html

消化管と食餌との関係
ヒトなどの雑食動物の食事内容は多様性に富んでおり、植物をメインにたまに肉を食べる動物や、植物と肉をほぼ等しく食べている動物もいる。そのため消化管の構造も多様である。
ヒトの胃は消化管全体の20~30%を占め、ほかの雑食動物に比べると小さい。水素イオン濃度(酸性度)はpH2である。
小腸の長さは身長の10~11倍で、ほかの雑食動物よりも長い。
盲腸はあるが、あまり発達していない。
大腸の長さは比較的長い。
以上から、胃の水素イオン濃度はどちらかというと肉食動物に近く、腸の長さは植食動物に近いことがわかる。

イヌなどの肉食動物は、消化管における微生物発酵はほとんどないか、全くない。肉の消化が繊維質の多い植物(セルロース)の消化に比べて容易だからである。
イヌの胃の容量は消化管全体の60~70%で、水素イオン濃度はpH1か、それ以下。
小腸は短く体長の3~6倍ほどで幅が広い。
盲腸は未発達か、ない。
大腸は単純で短い。

ウシは、胃内細菌との共生関係に依存する反芻性植食動物である。
そのため、ウシの胃は巨大で容積が消化管全体の70%を占め、セルロースを分解する微生物のための部屋(第一胃=ルーメン)で拡張されている。
胃の部屋は複数あり、そのため食物の移動が遅くなり、消化しにくいセルロースを分解する時間が十分に確保できる。
ルーメン内の微生物は揮発性脂肪酸を生産しエネルギーを供給し、微生物自身も消化されることでルーメンにタンパク質が供給される。胃の水素イオン濃度はpH5~7。
小腸は体長の10~12倍で、盲腸は短いか中程度(これが後腸消化タイプのウサギでは非常に長い。ウシの胃の代わりを盲腸が担っているため)。
大腸の長さも中程度で、ここでの発酵はあまり重要ではない(これもウサギではとても長い)。
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