幕が上がる

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆」

 こんなレベル目指してたんだね、みんな。

 弱小演劇部が、元天才演劇部員だった美術の先生の指導のもと全国制覇(っていうのか?)を目指す映画。本日公開だったらしく、ほぼ半額で見れた。
 設定からして、『タイピスト!』を彷彿とさせるスポ根ものの文化部版というか。つまり所さんの笑ってこらえて一億分の富士ヶ丘高校演劇部みたいな話だろ?と思って、出かける前に「絶対所さんの笑ってこらえてみたいな映画だった」って見たあと呟くよな~ってツイートしてたんだけど、ところがどすこい、めっちゃ身につまされる映画でした。『アオイホノオ』と『塀の中の中学校』を足したようなインパクト。ムロツヨシ出るしな。
 一般的にはももいろクローバーの初主演映画ってことで、アイドル映画的な認知のされ方をされているんだけど、一部のファンが見るだけじゃもったいないクオリティではある。
 ももいろクローバーっつっても私『ドラゴンクライシス!』と『モーレツ宇宙海賊』のうた歌った人達くらいしか知らなくて、誰がどれだか、そもそもクローバーが何人いるかすらわからなかった。結局五人組?ユッコとガルルと部長はなんとか判別。ふ・・・二人足りない・・・転入生の子か。

 ほいで、私はあんまり邦画を観ないんだけど、ノラネコさんにクリエイター気質の人と教育に携わる人は見ろって言われて、どっちも該当しちゃった以上見てしまったんだが、これアイドルマスターの映画がやりたかったことをめちゃくちゃ上手に実写でやった感じなんだよね。
 アイドルマスターのファン、ももいろクローバーのファンへのサービスシーンは、まあ私どっちもニュートラルだから、別にいらないんだけど(鍋焼きうどん出てくる謎のシーンとか)、そういうシーンを抜いて、脚本の完成度がどっちが高いかって言ったら断然こっち。
 アイマス映画での「キラキラしてない」が、こちらの『幕が上がる』では「光」になっているだけで伝えたいことは驚くほど一緒。ちょっと小太りな後輩の子が中盤スランプに陥るのも一緒。
 しかし、この映画にあってアイマスになかったのは「不安」だな。アイマスはマーチャンダイジング上、ガチな不安は構築できないもんな。
 十代の青春ってなにが特徴かって言えば、将来自分が一体どんな方向に進むかわからない、まだ何者でないがゆえの不安だよね。何者でもないっていうのは辛いっちゃ辛いんだけど、裏を返せば、何にでもなれる可能性も残されていると言えるから、十代を華麗に通過した大人は「きゅん」ってなるんだろうけど。
 まあ、これも過去の美化にすぎないとは思うけどね。現実は、十代だろうが、いくつだろうが、選択の余地なんてそんなにないって私は思うんだけどね。ねえよ、無限の可能性なんかって。人間なるようにしかならないよって。おさまるところにちゃんとおさまるよって。
 ただ、そういった自分の能力に対しての残酷な判決が先送りされているがゆえに、十代は悩み葛藤し、時に調子に乗る、と。
 これは、なにも意地悪でそう言っているんじゃなくて、さ。それはそれで人生楽しいよっていう。知らぬがパラダイスっていうのあるじゃん。将来どうなるかなんて、いくつになっても実はよくわからないし、だからこそ突き詰めれば死ぬまで不安なんだけど、だからこそ終わりじゃないと。
 十代が過ぎたくらいで「自分の人生はもう決まった」ってウジウジいうこともなかろうて。今とそんな変わんねえよって。まあ、十代は今後の人生をどう生きていくかのベースになるから、そう言う意味では悔いのない学生生活を送ったほうがいいかもね。じゃないと「学生時代に戻りたい」と過去を美化する大人になっちゃうぞって。

 仮にそこにたどり着いても、そこは“どこでもないどこか”なんだよ。

 そういや、ずいぶん前に、専門学校かなんかで映像教えている(詳しくは知らない)ノラネコさんと、クリエイターを目指す学生をどう教育するかやり取りしたことがあったんだよ。
 ノラネコさんいわく、義務教育の美術とかじゃなくて、専門的な学校でも、表現したいものがないのに表現者を目指す人が割といるんだって。つまり、映画やアニメを見るのが好きなだけなのに、自分がクリエイターだと錯覚しちゃっている人がいる、と。まあ、漫画研究部とかでたくさんいる「読む専」ってタイプなんだろうけれど。漫研だけど漫画の原稿は描かないっていう。
 で、こういう人たちは、課題は真面目に作ってくれるらしいんだが(まあ自分から通っているから当たり前か)、自由に作っていいよって言っても何もアイディアが出てこないんだって。
 これは、図工や美術の授業でも度々取りざたされる自由に作れって言ってもどうやりゃいいんだコノヤロー問題なんだけど、カリキュラム上ある程度強制されて美術を受けている中学生ならともかく、ノラネコさんはある種プロのクリエイターの卵を育てる立場だから、このタイプどうしてんだろうなあって思って、自分に描きたいものがないことを素直に認められない人に対してはそっと引導を渡しているんですか?って尋ねたんだよ。
 そしたら、そうじゃなくて、映画って集団で作るものだからそれこそいろんな仕事があるじゃん。つまりみんながみんな「作家」である必要はないわけで、でも映画業界をあまり知らないと「映画を仕事にする=映画監督になる」くらいしか思いつかない。これが悲劇なんだ、と。
 映画監督にはなれなくても、映画に携われることは他にもたくさんあるよ、といろいろな可能性を紹介してあげるのが、クリエイター学校の先生の仕事なんだみたいなこと言われて、なるほどなあ、と。

 さて、この映画には二人の先生が出てくるんだ(作劇上重要な先生は実は三人だけど)。一人がムロツヨシ先生で、この先生はもともと理科の先生で、正直演劇のことなんてさっぱりわからないけれど、文化部の顧問って運動部に比べてゆるくて楽かなくらいのノリでやっている、かなりリアルなタイプの顧問。当然、部員からは軽く侮辱の憂き目にあっている。
 部員たちに偉そうに演劇を教えれるほど詳しくないから、とりあえず「芸術は自由だ。好きなようになりなさい」とそれらしいことを言って部員の周りをウロウロしているだけなんだけど、意外なのはノラネコさんは教育者としてムロツヨシタイプなんだってこと。あんな待遇を学生から受けているのだろうか(^_^;)
 でも、勘弁して欲しいよね。演劇部のある学校には必ず演劇を専門とする教員がいるとは限らないからね。だから、学校の部活ってその競技の素人が顧問を受け持つ悲劇が度々繰り返されていて、部活動は外部の専門家に任せてもいいんじゃないかって話も最近あるんだけど。
 だから、若い男の先生ってだけで「よし!運動部!」って白羽の矢が刺さる場合があるので、私も近い将来アメフト部顧問とかやっているかもしれません。そんときは木村くん(※現役のアメフト選手の友達)に泣きつきます。でも、これも不思議だよな。教える方も教わる方も悲劇だと思うぜ。部活って指導者が変わるとぜんっぜん違うらしいからね。
 
 空気が変わった――ヤバい。楽しい。

 んで、もう一人がかつて「演劇部の女王」とかちょっと恥ずかしい二つ名を持っていた新任の美術教師吉岡先生。配属早々生徒にググられてしまう展開は私も一緒だったんだけど、演劇部顧問のムロツヨシ先生を差し置いて、演劇部員の心をがっちし掴み、バシバシ専門的な指導で彼女らのレベルを上げていく。
 しかし、ガチで演劇の道へ行くということは、結局はローリスク&ローリターンのカタギの道から、太く短いヤクザロードへのポイント切り替えを意味する。だから吉岡先生は念を押して部員の言質を取ろうとする。私は責任取れないよ?と。で、部員の「大丈夫です。これは私たちの人生ですから」というコメントを受けた後、この人はとんでもない決断をしてしまう。
 そこらへんの急展開から、私はこの映画にやられちゃって。うわ~おっそろしい映画だなって。「芸術は麻薬」と語った北野武作品かよって。吉岡先生は裏を返せばメフィストフェレスっていう悪魔だよなあってw
 で、私はムロツヨシよりは、吉岡先生だなあって思っちゃった。実行するかどうかはわからんが、気持ちはすごいわかるよ。学生ですごい才能のある子に出会ったら触発されて「わしも若いもんには負けんわい」ってやりたくなっちゃうから(単純)。
 しかし凄いのは、あの先生初任者研修受けているんだよ(ムロツヨシをいなす為の嘘じゃなかったら)。私も2年前惜しくも落ちたから知ってるんだけど、「高校美術」という一年に一人くらいしか受からないような超難関の採用試験を受かっているのに“あの選択”はロックすぎるぜ。
 まあ実技教科って実践ができて初めて学生に「お~」って尊敬されるようなところもあるしなあ。でもそれくらいスキルあったらプロも射程に入っちゃうんだよな。そのジレンマね。

 つまりさ、ここに呪いの構造があってさ。プロになれなかった芸術家は、自分より若くて才能のある子達を育てる側に行くしかないらしいんだ。美大生に聞いたところ、この業界はそういう構造らしいんだよ。
 東京芸大なんて学歴としちゃすごいけど、そこからプロの作家になれる人なんてひと握りだし、そういうプロも作品だけじゃ食ってけないから芸大に行くための予備校を経営したりして、んで、その予備校で泣きながら石膏像を描いた夢とガッツある学生が芸大に受かって、でもやっぱりほとんどの芸大生が挫折して、また将来の挫折予備軍の学生たちの指導に回るという、円環の理(懐かしいな、これ)。
 私なんかは学校で美術教えているとは言え、専門のクリエイターを育てているわけじゃないからまだ罪悪感はないんだけど、あ~でもどうなんだろう。私もA級戦犯なのかなあ。
 でもさ、言い訳するわけじゃないんだけどさ。高校3年間演劇に夢中になるくらい、人生長いし別によくね?とも思うな。演劇や芸術表現系の道は確かに生涯年収激減するルートかもしれんが、この前の映画みたいに地獄の戦場に送り込まれるわけじゃねえし。
 ちょっと大学受験失敗して一浪するくらいじゃん。普通に大学受験するよりは、普通じゃないルートを勢い任せに選んでも、まだ取り返せるのが若者のいいところな気もする。
 実際私なんて、あれだぜ。高校時代、生徒会と漫画描くことしかやってなかったからね(あとデザーテッドアイランド)。大学受験も受験日忘れていかなかったという前代未聞の失敗をして浪人しちゃったけど、今もなんとか生きているし、楽しいし。
 逆に部員と全国とか目指せて羨ましいよって。漫画って個人競技だからさ、割と孤独だったぜ。紙とインクだけがと~もだ~ちさ~♪

 まあ、グダグダになっちゃったけど、アレだ。ムロツヨシよりは吉岡とはいえ、私は受験日が同じだった日本大学芸術学部脚本科よりも群馬大学教育学部を選択した人間だからな。
 これがもし、日大に進んでいたら、吉岡ルートだったかもしれないけど、どんな職業も結局尊いからね。十代の頃すごいキラキラしてる専門職だと思っていた漫画家や学者も、大人になればただの職業の一つって相対化されてしまったのが切ないよ(ツイッターのせいだ)。
 逆に超身近だった学校の先生がこんなに専門的な仕事だっていうのもわからなかった。歳はとるものである。とりあえず美術部の指導気を付けよう。

 どうやっても宇宙の果てにはたどり着けない。けれど切符だけは持っている。

アメリカン・スナイパー

 「面白い度☆☆☆ 好き度☆☆☆」

 人間は三種類いる。羊、狼、番犬だ。

 アメリカと言ったら映画とミリタリーというだけあって、戦争映画はそれこそ星の数ほど制作されていると思うんですが、クリント・イーストウッド監督のこの最新作は、なんとまあ、あまたある戦争映画の中で『プライベート・ライアン』を抜き、過去最高の興行収入を叩き出したという。
 となれば、いろんな立場や思想の人が見ているわけで、例のごとく「ヒット作&流行作あるある」の泥仕合が発生中だとか。
 ライトな人は戦争万歳、愛国心万歳のヒーロー映画として、レフトな人はイラク戦争はどう考えてもバッドウォーだったのに、こともあろうに後ろからこっそり攻撃する卑怯な狙撃兵を英雄視するなんて!と論戦が起こっているらしい。
 悔しいかな、ヒット作って結局、いろんな人が好きなように自分で自由に解釈できる“幅”があることが多い。つまり作り手の手を離れて、作り手が本来伝えたかったものとは違う、もしくは、それ以上の解釈をされて、受け手側に勝手にテキストを構築されていってしまう。
 そう言う意味で、ロランバルトは本質をついている。『エヴァンゲリオン』然り。『風立ちぬ』然り。結局これらの作品って何が言いたいのかさっぱりわからない。さっぱりわからないから、受け手が好き勝手に誤解できる。
 勿論イーストウッド監督は、そこまで難解な作品を描いちゃいない。むしろ極めてシンプルな構成の映画を作っている。でもシンプルであるが故、この伝説の狙撃兵が実在の人物で、彼が巻き込まれた事件で、たった今裁判が起きているという話題性があるが故、この映画は重層的な解釈――誤解を許してしまう。
 これを私は観客主権と呼ぼう。作品が一旦発表されてしまえば、あとの問題は作り手ではなく、受け手に行ってしまう。これが、クリエイター業の表現や伝達の悲しいところでもあり、面白いところでもある。
 じゃあ、私はどう解釈したかって? 

 『ゴルゴはつらいよ』みたいな感じだった。

 つまらなくはないんだけど、イラク戦争を題材にした映画って多くて、どれも出来がいいからインフレしちゃっている感じがするんだよなあ。『ローンレンジャー』とか『ハートロッカー』とか『ゼロダークサーティ』とか『フェアゲーム』とか『グリーンゾーン』とか。
 作劇としては『フューリー』とかに近くて、メタな視点を極力排除して、一人の狙撃手の苦悩や半生を一人称視点で描いている感じ。
 こっちのほうが全然展開は熱くはなるんだけど、この映画別にそういう少年漫画的、西部劇的「バキューン!ヒーハー」な映画じゃないんだよね。『フューリー』同様、鑑賞後(´Д` )となるような、まあ後味はあまりよくない映画なんだ。
 だから、戦争を賛美する映画だ!ってこの映画を批判するのは違うだろっていう人の意見もわかるんだけど、でも戦争賛美まではいかないにしても、悲しい戦場に送られる兵士の犠牲心や愛国心自体は、わりと肯定的に描いているから、そういうふうに取られちゃうのも仕方がないと思う。
 
 作中で具体例を出すならば、転載狙撃兵のクリス・カイルさんのお父さんがめっちゃテキサスの保守派っぽい人で、人間は三種類いる!羊、狼、番犬だ!って、ギリシャ4元徳みたいなこと言うんだ。羊は抵抗できない人たち。狼はそんな羊を食い物にする悪者、番犬は狼から命懸けで羊を守るデューティーのある人。
 ほいで、父さんは羊は育てない。狼になったら許さない。番犬になれ息子たちよ!みたいな教育をして、クリスはお父さんの期待通りに立派な国家の番犬になるんだけど、戦場から帰ってきたクリスは深刻なPTSDを患ってしまう。
 家族に囲まれて安全な日常生活を送っているのに、心の中はいつも非常時モードになっちゃったクリスは、あるとき家で飼っている番犬が子どもを襲っていると勘違いして、その犬をぶん殴ろうとしてしまう。
 この演出は割と意図してんだろうなあって思った。つまり「狼」と「番犬」の違いってなんなんだっていう。今まで自分のロールモデルとしてきた番犬――シープドッグ(だから犬種はちゃんとボーダーコリー)を物語後半でバッサリ否定してしまうという。
 自分が今までやってきたことは、本当に番犬だったのか?敵の視点から見れば、実は自分は狼と変わらなかったんじゃないのか?
 イラクのテロリストを「蛮族」と呼んで、一生懸命、命懸けで戦ったのに、そのモチベーションを紙一重で支えてくれた信念が信じられなくなってしまう。これは辛い。

 だが、しかし。主人公に重い十字架を背負わせ、苦しみもがく様子をいくら描いていても、クリント・イーストウッド監督は結局クリス・カイルさんをかっこいい男に描いちゃってるんだよね。
 そこで、やっぱり『スターシップ・トゥルーパーズ』的倒錯(※反戦のために描いた描写が皮肉にもかっこよく見えちゃうこと)が起こって、戦争は残酷でよくないけれど、それでも戦場で戦う男たちはかっこいい!と葛藤込みで戦争万歳な消費のされ方をされちゃっているんだろうなあって。
 だから、私はなんか大絶賛まではいかなかったんだよな。ちょっと前に見た『フューリー』が衝撃的だったのは、主人公側の戦車兵たちを救いようもないクズ野郎(目玉焼きペロペロマン)として描いていたからであってね。あれは、すごいチャレンジだよなって。
 一般的に第二次世界大戦って、悪の枢軸国を撃退したグッドウォーって言われているのに、結局連合国軍もみんなイカれてたんだっていう、戦争を美化する風潮を徹底的に突き放した描き方がビックリしちゃったんだ。
 そう言う意味じゃ、この映画のクリスはよくあるアメリカの戦争映画のすごいかっこいい軍人さんなんだよなあって。これは、まあ、実際のクリス・カイルさんがそういうハードボイルドなかっこいい人だった以上は、もうしょうがないんだけどね。自分が戦場にいて、クリスさんみたいな狙撃手が味方にいたら頼もしいったらないもんな。

 戦争(政治的な開戦などに関する問題)と戦場(で戦い苦しむ兵士)の話は分けて考えるべきだという意見もあるだろう。映画の話と現実の社会問題の議論は分けて考えるべきという人もいるだろう。
 それは、それでひとつの考え方なんだが(客観的な考察ではなく利害関係者の“戦略”に近い)、私はやっぱり、こういった問題は厳密には不可分なんだと思っている。もし、創作物がリアルに何も影響を与えられないのだとしたら、そして、それを作り手が信じられないのだったら、創作のモチベーションはどこに求めればいいのだろうか。
 限定効果説だ、いやいや強力効果説だ、のお馴染みの進学論争は繰り返さないけれど、それはもう、受け手の閾値によるんじゃないか。
 観客は自分が見たいものがすでに心の中にあって、それに適合するように主体的かつ無意識的に、作品のコードを解釈してしまうのかもしれない。それでも適合しないものを「つまらない」と言っているのかもしれない。だから、どんなふうにも解釈できるコンテンツは強い。
 ライトの人はライトに、レフトの人はレフトに、コンサバの人はコンサバに、リベラルの人はリベラルに・・・
 そして、時に“たかが創作物”がその人のリアルに大きな影響を与えてしまうこともある。幸か不幸か私には、この映画の効果はかなり限定的だった。それだけ。

 しかし超映画批評の人には効果はバツグンだったようだ。

日本史各論2覚え書き③

参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』

南北朝戦争の実態
南北朝戦争下では、隣り合う村の小さな紛争が、朝敵追討といった大きな戦争に発展する、いわば私戦と公戦が結びついている状態だった。
そこでは掠奪行為が繰り返され、戦場は戦争商人と結びついた“稼ぎ場”になっていた。実際、楠木正成の軍隊はそういった掠奪者の集団であり、兵士たちは戦況よりも財宝の方を優先したため、一箇所に集まろうとせず、これでは敵が反撃してきた場合手の打ちようがないと、楠木正成は嘆いている。彼らにとっては、京都への攻撃も、朝敵足利尊氏がどうとかではなく、掠奪で一財産築きたかっただけだったのだ。
この状況に対して、後醍醐天皇は三カ条の軍法を出し、戦争のどさくさに紛れた掠奪行為を禁じ、現場においても、新田義貞が「一粒でも刈り取り、民屋のひとつでも追補したものは、速やかに誅する」と掠奪の禁止を兵たちに命じたが、部下が青麦を刈り取ってしまった際には「多分敵陣と間違えて掠奪してしまったのか、あまりに腹ペコで法を忘れちゃったんだろう」と罪を許している。
このコメントに従えば味方領域では掠奪は禁止だが、敵方領域では掠奪を許可していたということになる。つまり、戦場での掠奪は当然のことだと考え、掠奪行為をコントロールすることで戦争を遂行していたのだ。
このような掠奪の主体となっていたのが野伏で、村や地域から離れて戦時掠奪を生業にしていた。
彼らは単なる盗賊ではなく、交通の要所を拠点とし、運輸や流通に関わる特殊技能集団であった。ある時は掠奪集団、ある時は傭兵、ある時は運輸業者、ある時は戦争商人と戦時下で多彩な活動をしていたらしい。
また村と深い関わりを持つ野伏も存在し、彼らは掠奪を許可されるのと引き換えに戦争に動員された近隣荘園の荘民だった。
またこのような村の武力は、掠奪を目的とするだけではなく、逆に他の集団からの掠奪を防ぐ地域防衛システムとしても使われた。

建武式目
後醍醐天皇から三種の神器(※ニセ)が光明天皇に渡された5日後、足利尊氏は建武式目という室町幕府の施政方針を打ち出す。
建武式目は全体で二つの部分に分けられ、前半部では幕府の所在地を鎌倉と京都のどちらに置くかという問題が述べられるが、結論は明確に記されていない。
これは鎌倉で武家政治の理想を求める直義と(鎌倉は武士にとっては本来、“吉”な土地で、北条氏が鎌倉で滅んだのは、悪い政治を行ったからだと考えた)、畿内勢力に配慮して京都を考えていた尊氏の間に見解の相違があったためだと言われる。
後半部では政策方針が述べられていて、聖徳太子の十七条憲法を意識しており、全十七カ条からなる。

1条:倹約の奨励とバサラの禁止
2条:集まって飲んだりギャンブルの禁止
3条:狼藉対応策
4条:市中における戦時下の住宅利用(差し押さえ)の禁止
5条:戦時没収された市中の空き地の返還
6条:無尽銭・土倉(どちらも金融業)の奨励
7条:守護職は政務能力のある人を選ぼう
8条:権力者、女性、お坊さんの口出しを受けちゃダメ
9条:公務員は怠けちゃダメ
10条:賄賂の禁止
11条:進物(贈り物)の禁止
12条:部下の選び方は慎重に
13条:礼節の奨励
14条:良いことをしたら褒め、悪いことをしたら戒めてあげよう
15条:貧しい人の訴訟を聞き入れる
16条:強訴に訴えがちな寺社の訴訟に対する適切な対応
17条:裁判の日にち、時刻はあらかじめ決めること

この法令は、公家・武家両方の法律に詳しい法律解釈の専門家、是円(中原章賢)ら、政策立案と実務運営のプロフェッショナル集団を結成させて作ったものだが、慌ただしく出されたので、室町幕府の基本方針としては不十分であり、幕府の基本法は御成敗式目が鎌倉時代から引き続き使われることになった。

二頭政治
室町初期の幕府政治は尊氏と直義が二人で政務を分担しながら政治を行う体制だった。
文書も二人の名で発行されたため、当時の人は「ダブル将軍」と認識していた。
兄の尊氏は、恩賞の授与や守護職の補任などの武士に対する主従制的な支配権、軍事指揮権を掌握し、弟の直義は民事裁判権などの一般的な行政権を担当していた。
なぜ、一人がこれらの権限を一体化させて掌握せず、このように兄弟で権限を分担させたのかという点については、南北朝期の武士の家では兄弟惣領という長男と次男が連帯して惣領権(跡取りの権利)を共有し、分業しながら家の運営を行っていたからだとされている。この兄弟惣領は、一族の合意に基づいて推薦された家督を中心に結集した家督制へと移行していく。
このような二頭政治は、お互いが協力している時は公正な政治が行われるが、両者が対立したり、どちらかがこの体制をやめようとすれば、その対立は政治過程に大きな影響を及ぼし深刻化してしまう。
実際、足利兄弟も、武士の権限をより拡大させ、新しい武家政権を作ろうとする革新派――尊氏&高師直(足利家の執事→バトラーではなく将軍を補佐する行政機関の最高官職)と、鎌倉幕府の体制を引き継いで、専制的な徳治政治を行おうとする保守派――直義の間で政権争いが起きてしまう。
さらに直義の養子で、尊氏の実子、足利直冬も参戦し、三つ巴の戦いに発展(観応の擾乱)。
それぞれの勢力が旗色が悪くなると南朝に降参して味方を増やそうとしたため、政局は大混乱になる(擾乱とは秩序を乱して騒ぐこと)。

観応の擾乱
二頭政治の崩壊は、まず、保守派の足利直義が、革新派の高師直の執事職をクビにすることから始まった。高師直は優秀な執事かつ百戦錬磨の軍人であったが、戦争を早急に集結させ、旧来的な秩序を目指す直義と(直義の政治は安達泰盛の弘安徳政に似ていた)、戦争を継続させ、そこから新たな秩序を作ろうとする高師直では、方向性に大きな相違があった。
これを受けて、高師直は軍事クーデターを起こし、京都を占領、直義の側近の上杉重能を殺す。これに身の危険を感じた直義は、尊氏の屋敷に逃げ込む。
尊氏と師直のあいだで交渉が行われ、直義は出家して引退することになった。自分の地位は尊氏の息子で、鎌倉公方(関東地方の政務大臣的役職)の足利義詮(あしかがよしあきら)に譲ったが、しばらくして直義の反撃が始まる。
京都を出た直義は南朝に降参し、味方を増やすという奇策に打って出る。これにより、師直に勝利した直義は尊氏と講和。師直は直義派の上杉能憲(上杉重能の養子)に殺される。
ちなみに、このエピソードは『忠臣蔵』の設定そのまま歌舞伎の演目になっていて(仮名手本忠臣蔵)、仇討ちされちゃう悪役の吉良上野介は高師直に置き換えられている。まさに『忠臣蔵 太平記ver.』と言えよう。
さて、これで終わりと思いきや、今度は尊氏と直義のあいだで兄弟喧嘩が起こり、直義は再び京都から出て軍隊を組織する。すると、今度は尊氏が南朝に降参して、東海道や鎌倉で直義軍を退け、撃破(正平の一統)。
さてさて、これでほんとに終わり…と思いきや今度は、九州で尊氏の名前を利用して急成長した足利直冬が幕府に弓を引き、尊氏と講和したはずの南朝も「尊氏が戦争で留守のあいだに…」と京都に侵攻、尊氏と新たな二頭政治を担っていた足利義詮を追い出してしまう。
弟直義を倒した尊氏は、もう南朝の後ろ盾なんていらねえ、むしろ戦う意義ができてラッキーとばかりに南朝と戦い、京都を奪還。北朝を復活させた。
終わってみると、直義は急死(毒殺?)、直冬は行方不明、結局のところ尊氏が漁夫の利を得たわけだが、この争乱は武士だけではなく、公家や民衆も巻き込み、農民では惣を基盤とした農民の成長、天皇や公家の権威失墜による荘園公領制の崩壊をもたらすことになる。

尊氏と直義
学校の歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の肖像。あれは足利直義のものであるらしい。直義は高潔で生真面目、意志の強い性格で、穏和で人懐こく、優柔不断かつ思慮深い兄の尊氏とは正反対のキャラクターだった。
あるとき尊氏が「国を治めるからにはもっと重々しく振舞わないといけないなあ」と言ったところ、直義は「私は逆に自分の身を軽く振舞って、侍たちとの距離を縮めたいし、人々にも慕われたい」と言ったらしい。弟は、なかなか頭でっかちの優等生タイプだった。
また、尊氏は支援者にたくさんの贈答品を送ったのに対し(田中角栄みたいだ!)、直義はそういった慣習そのものが嫌いだった(三木武夫みたいだ!)。
後醍醐天皇という共通の相手と戦った時はあんなに仲良かったのに…理想は平和だが歴史は残酷だ。

南北朝時代の文化①バサラ
鎌倉時代の戦乱の物語『太平記』には従来の権威を気にせず自由気ままに傍若無人な振る舞いをする武士の姿が描かれる。
彼らは「バサラ」と呼ばれ、サンスクリット語の「バアジャラ(魔や鬼を打ち砕く力)」から派生し、日本では「派手」「贅沢」「遠慮しない」「放埒」という意味で使われるようになった。バサラはこの時代の流行であり、彼らは鉛でできた大きな刀を目立つように腰に差し、派手な奥義を見せびらかしながら、奇異なデザインの服や装身具を身に付け京都市中を闊歩した。
このバサラのファッションの中心にいたのが有力武士に仕え雑務を行った小者と武士の間にあたる中間(ちゅうげん)で、悪党や野伏が傭兵になったようなものであった。
幕府はバサラに対して分不相応な贅沢を厳しく取り締まるためバサラ禁止令を出したが、これには傭兵である彼らの自由な活動を抑止し、京都の治安維持を図る目的があった。とはいえ、当時の人々はバサラを支持し、彼らは新しい文化創造のニューカマーとして一般的に受け入れられるようになっていた。

南北朝時代の文化②寄合
バサラと同時にこの時代の文化を象徴するのが寄合で、人々は日々の鬱憤を晴らすため昼夜問わず舞い歌い、酒宴や茶会を開いていた。
バサラが主催するそれは特に派手で贅沢であり、幕府はこれも禁じた。その狙いは単なる倹約奨励だけではなく、寄合が政権転覆を目論む反体制派の密謀を行う場でもあったからである。実際、後醍醐天皇は豪勢な寄合の席で、鎌倉幕府倒幕の計画を練っていたのである。
寄合の文化として流行ったのが連歌であり、これはもともと平安時代に公家のあいだで嗜まれた上の句と下の句を別々の人間が対応して読む、高度に洗練された遊びであったが、この時代の寄合では貴賎、貧富、教養を問わず誰でも参加できる、京都風鎌倉風なんでもアリのゲームになった。そこでは誰もが歌の優劣を判断し差別や秩序のない自由な世界があった。
そして、連歌と共に寄合の文化の中心となったものが茶である。鎌倉時代には栄西によって抹茶が伝えられたが、寄合での茶は養生や学び、嗜みとは別の形で発展する。
それが闘茶であり、バサラ大名の寄合では味の違う4種類の茶を飲み比べ、正解者が景品を獲得するというギャンブルとして茶が消費されていたのである。ガキの使いでこんなのあったよね。

南北朝時代の文化③田楽と猿楽
田楽は、平安時代に成立した伝統芸能で、稲作で最も大変な田植えの際に、豊作を祈って楽器を演奏しながらリズミカルに踊りを踊ったのが起源である。
これを好んだのが鎌倉幕府最後の得宗北条高時で、京都の田楽座を鎌倉に読んで楽しんでいたという。この流行は各地に見られ、南北朝時代にも続いた。
四条橋着工セレモニーでは、大々的な田楽に観客が熱狂しすぎて将棋倒しになり100人以上の死者が出る大惨事となっている。
田楽と同時に、能につながる猿楽もこの時代に発展した。猿楽は神事の際に翁(宿神)の仮面をつけた演者が舞う芸能、翁猿楽をルーツとし田楽同様、座を持ち各地で公演をする集団もいた。
これらの座は自社の保護を受け、田楽と猿楽の座が芸を競う立会い能という催しもあった。
この勝負に勝ち上がるため大和猿楽の観阿弥は技を磨き、当時人気があったリズミカルな曲舞や、ライバルの田楽の良さも積極的に取り入れた。これが室町幕府将軍足利義満の目にとまり、猿楽は武家社会の上流文化を吸収、さらに芸を洗練させ、現在の能の原型になった。

日本史各論2覚え書き②

参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』

箱根・竹之下合戦
得宗北条高時を自殺に追い込んで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、同じ御家人の足利尊氏を討つという噂は、義貞と尊氏の対立を表面化させ、尊氏は義貞の守護職を解任し、上杉憲房に与え、逆に義貞は越後や播磨などで足利一族の荘園を奪って家人に与えた。
新田義貞は、後醍醐政権で足利氏よりもワンランク下の扱いをされたことにいたたまれなくなって鎌倉を捨てて上京、高い位を持つ足利尊氏をライバル視していたのである。
足利尊氏の弟、足利直義は、新田義貞を討伐するために各地で軍勢を集め、尊氏は義貞討伐を後醍醐に持ちかけるが、後醍醐はこれを無視して、逆に新田義貞を大将とする尊氏追討軍の派遣を決定する。
これを知った尊氏は「私は後醍醐天皇のそばにいて、その恩を忘れたことはない。あんまりだ」と政務を弟の直義に譲って、鎌倉の浄光明寺にこもってしまう。この予想外の敵前逃亡の理由として、尊氏は躁うつ病を患っていたんじゃないかという説もあるらしい。
なんにせよ、この時期の尊氏は、後醍醐天皇と直接対決はせずに、後醍醐政権のもとで鎌倉を拠点に東国支配をさせてもらえるんじゃないかという可能性や、朝敵にされた時の戦いの困難さを考えていて、今後の路線の選択にとっても悩んでいた。
しかし事態はどんどん進み、建武二年11月、尊氏追討軍が京都を出発。対する鎌倉からは尊氏派の高師泰を大将とする軍が西へ向かい、愛知県の三河矢作川で追討軍と戦うが、敗北、その後の合戦でも負け続ける。
後醍醐天皇は、足利尊氏、直義の官位を剥奪、足利兄弟ははっきりと朝敵にされてしまった。
翌月の12月、直義軍は大軍を率いて静岡市で戦うがこれも敗北。朝敵とされた足利兄弟の軍は正統性がなく結束がもろかったため、新田義貞側に寝返る者も多かった。
直義は箱根まで軍を後退させ、高師直、高師泰の兄弟とともに堀切(尾根を仕切る堀)を掘り、最後の防衛ラインを作った。
直義の敗戦の報告を受けた尊氏は、「弟がここで死んだら、自分は生きてても仕方がない。でもこれは弟を守るためであって、決して天皇に歯向かうこと(違勅)じゃないよ」とエクスキューズをつけながらも、ついに重い腰を上げる。鎌倉を発った尊氏は、箱根の直義とは合流せず、箱根の北を迂回して神奈川県足柄市へ向かう。
全軍で箱根の堀切で戦っても苦戦は間違いない、それなら箱根山を越えて新手で参戦したほうが敵の意表をつけるんじゃないか、と考えたわけだが、新田義貞はこれを読んでいたかのように、軍隊を箱根と足柄の二手に分ける。
激しい戦いになったが、次第に尊氏軍が優勢となり、静岡県三島市の戦いで大友貞載は降参、これを尊氏は許し、大友は尊氏側で大奮戦、結果、追討軍は敗退した。
この勝利は、敵軍も自軍に取り込んでしまうという尊氏の方針と、足利兄弟の密接な連携プレー――兄尊氏の弟直義への深い信頼が勝因だった。

京都攻防戦
尊氏は逃亡した新田義貞を追って、京都へ向かう。尊氏軍は京都の東と南に布陣を敷き、宇治でついに尊氏VS義貞の直接対決となる。
宇治の攻防戦は激しく、尊氏軍はなかなか義貞軍の防衛を突破できないでいたが、西国の援軍が京の西に到着すると、それを知った義貞軍は撤退、京都を東、南、西から攻められたことで後醍醐軍からは降参者が続出、京都はパニック状態になった。後醍醐による京都の平和はたった二年半しか続かなかった。地政学的に守るのが難しい都市が京都だったのである。
後醍醐天皇は比叡山に移り、京都に入った尊氏は、ここで、持明院統の誰かを天皇につけて後醍醐とは別の朝廷を作るアイディアを思いつく。
しかし守るのが難しい京都は尊氏にとっても同じだった。新田義貞と、後醍醐から援軍を要請された奥州の北畠顕家の大規模な連合軍が東から京都へ攻め入ると、血で血を洗う悲惨な戦い(糺河原の合戦ただすかわらのかっせん)が始まり、尊氏は京都を奪い返されてしまう。

二つの重要指令
京都から西へ逃げ、兵庫県に陣を敷いた尊氏は、ここで今後の戦況に大きな影響を及ぼす二つの重要な指令を出す。
一つ目がこの合戦の正当性を尊氏側も得るために、後醍醐天皇の対抗勢力、持明院統の担ぎ出しを要請したこと。京都の合戦に負けたのは尊氏らが朝敵にされたことで、人々から支持が得られなかったためだと考えたのだ。そこで鎌倉時代後期から続く朝廷内の王権の分裂を利用しようとした。
二つ目が元弘没収地返付令で、元弘の乱(鎌倉末期に後醍醐が起こしたクーデター)の際、後醍醐によって没収された北条氏の所領を鎌倉時代の状態に戻すという法令を出し、新たな味方を増やそうとした。この徳政令により、所領を失った多くの武士が尊氏のサイン(花押)を求めて集まり、尊氏がピンチの際は参戦してくれることになった。
尊氏は、兵庫県や大阪府で楠正成や新田義貞と戦うが、敗北し、2月12日には兵庫から船に乗り西の播磨室津に行くと、ここで室津の軍議という会議を開き、室町時代の守護制度の基礎となる西国の防衛と支配の基本方針を決定する。
さらに尊氏が広島に着いた時、持明院統の光厳上皇から院宣(上皇からの公式な書類)が下され、尊氏は正式に「私は朝敵ではない」と宣言することができるようになり、錦旗を掲げることを国々の大将に命じた。

多々良浜合戦
2月29日に九州の福岡県に尊氏が到着すると、尊氏側についた少弐貞経が、後醍醐側についた肥後国(熊本県)の菊池武敏に敗北し、自害したという知らせが入る。九州では既に戦争が始まっていた。
九州入りした尊氏は、宗像大社や香椎宮などの神社に陣を取り、尊氏が神に守られていることを大々的にアピール、香椎宮では神人(神社職員)が御宝としている杉の木を軍勢のシンボルとして尊氏軍に提供し、浄衣を着た見ず知らずの翁も将軍の鎧の袖に杉の葉を挿した。そのお礼に尊氏は翁に白い刀をプレゼントしたのだが、後に尊氏が「あの人誰?」と神人に尋ねると、「そんな人誰も知らない」と言うので、「神が化人を遣わしたんだ!」と解釈、軍勢は大いに奮い立ったらしい。
逆に言えばここまで凝った演出をしなければならないくらい、尊氏は追い詰められていた。『梅松論』によると尊氏軍はいろいろ合計しても1000騎あまり、対する菊池率いる追討軍は60000騎で、『太平記』では尊氏軍は半分くらいは馬にも乗れず、鎧も付けられなかったと書かれている。まともに考えて絶対勝てないが、少弐頼尚は、敵のほとんどは本来、味方として参戦するはずの者ばかりで、去就が定まらない「寝返り予備軍」、菊池自身は300騎にも達しないと冷静に分析する。
尊氏軍は、箱根・竹之下合戦を勝利に導いた尊氏、直義が交互に出撃する連携作戦を立て、まず弟の直義軍が出撃、建武三年(1336年)、3月2日、菊池軍と激突すると北風が砂塵を巻き上げ、風上の直義軍が優勢になる。
兄のためにここで犠牲になる覚悟をした直義が自分の右袖を尊氏に届けさせると、本陣を守っていた尊氏本体も出撃を開始、少弐頼尚の予想通り、合戦中には寝返りが相次ぎ大逆転、菊池軍は敗退、多々良浜合戦の決着はあっけなく付いてしまった。この戦いの結果、九州全域の武士は尊氏方についてしまっていた。

湊川合戦
多々良浜合戦で後醍醐方の菊池軍が逆転負けをすると、楠木正成は後醍醐天皇に「人々の心は既に尊氏側に傾いている。新田義貞を切り捨てて、尊氏と手打ちにしたほうがいいんじゃないか」と提案するが、却下される。その新田義貞は京都から、尊氏派の兵庫県の赤松氏を攻めるために出撃、赤松円心は義貞軍を白旗城に一ヶ月引きつけ、尊氏軍勢力拡大の時間を与えてくれる。
4月に博多を出た尊氏軍は、途中厳島神社や、尾道浄土寺に寄り道したりして(これもパフォーマンス)、ゆっくり東に進み、その道中で、中国・四国の武士も味方につけていった。
広島県の東、備後についた尊氏は、少弐頼尚のアドバイスを受け尊氏は船で海から、直義は陸から京都を攻めることにした。
対する楠木正成は、尊氏を一旦京都へ入れてから、京都を包囲するという、京都の地理的特質をついた作戦を後醍醐に提案するが、これもなぜか却下され、しかたなく正成は京都から出撃、直義軍に播磨の白旗城の包囲を解かれ後退した新田義貞と合流すると、正成・義貞は神戸市に陣を置く。
しかし、九州・中国・四国勢を集めた尊氏軍の大兵力には勝てず(正成・義貞軍は四国軍のような水軍を持っていなかった)、新田義貞は退路を断たれる前に京都へ逃走、残された楠木正成は湊川で奮戦するものの自害する。後醍醐天皇はまた比叡山に逃げ出した。

南北朝時代
再び京都に入った足利軍と、比叡山から降りて出撃する後醍醐軍のあいだで攻防戦が繰り広げられ、前回以上の戦火と略奪で京都は荒廃、両軍とも兵糧を止めるという戦略を取ったために深刻な飢餓状態となった。
後醍醐は形勢が不利になると、尊氏側と講和を持ちかける。その条件は、大覚寺統の後醍醐天皇と、持明院統の光厳天皇が和睦し、光厳天皇の弟を光明天皇として即位させ、光厳が院政を執り、その代わりに皇太子には後醍醐天皇の息子の成良を立てるというものだった。
これにより6月から光厳天皇の院政が始まり、8月に光明天皇が即位したが、この手打ちはあんなに後醍醐のために戦った新田義貞を切り捨てることにつながり、新田派は京都に帰還した後醍醐を取り囲み「聞いてないよ」と内部分裂を始めた。
10月に京都へ戻り、花山院に幽閉された後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し、約束通り息子の成良親王が皇太子に立てられる。
しかしその直後、まだ諦めてなかった後醍醐は花山院から脱出、京都の南、奈良県の吉野に入り、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だと暴露、足利討伐を全国に呼びかけた。
これにより日本に北朝と南朝という二つの王朝ができることになった。南北朝時代の開始である。
後醍醐が吉野を本拠地にした理由は、京都を南からのぞめるし、東の伊勢には北畠親房、西の河内には楠木一族がいて、味方が吉野の両翼を守ってくれるという戦略的意味があった。さらに紀伊半島の宗教勢力を味方に付け、その情報網も利用することができた。

後醍醐天皇の死
後醍醐は、京都攻防戦の際、尊氏を追い払ってくれた奥州の北畠顕家にもう一度上洛を要請するが、顕家はなかなか首を縦には降らなかった。すでに東国では、足利方と、南朝につく顕家方に分かれて戦争が始まっていたのだ。奥州の組織化を進めながらも、次第に追い詰められていた顕家は、とうとう京都への上洛を決意、鎌倉を攻略し、愛知県まで軍を進める。
足利尊氏は高師泰・師冬をリーダーとする大群を近江・美濃の国境に配置、東国足利軍も顕家を追撃した。岐阜県の青野原で顕家軍と追撃軍は対決、顕家軍は圧勝する。
この流れのまま京都に向かうと思われたが、顕家軍は、高師泰・師冬との戦闘を避けて南下して伊勢に行ってしまう。最大のチャンスを逃してしまった顕家は伊勢から、伊賀・大和、河内・和泉へ向かうが、各地での戦闘で戦力を次第に消耗させていき、とうとう和泉石津の合戦で北畠顕家は21歳の若さで戦死してしまう。
顕家は戦死直前に、後醍醐天皇に「中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣し、軍事や統治を任せるべき」「租税を三年は減免すべき」「みだりに官位を与えるべきではない」「朝令暮改をやめたほうがいい」などという意見書を出していた。この現場から出された厳しい批判を後醍醐は真摯に受け止めたという。
後醍醐の不運は更に続き、北畠顕家の死の2ヶ月後、自軍を助けようとした新田義貞までもが矢に当たって39歳で戦死。
突然2本柱を失ってしまった後醍醐は落胆するが、それでもまだ諦めず、自分の息子の義良・宗良と北畠新房(顕家の父)・顕信(顕家の弟)らの大群を奥州に派遣し、結城氏、伊達氏等の奥州の南朝勢力を合体させようと試みた。
それとともに懐良親王を征西大将軍に任命し九州に派遣(後醍醐はとにかく子どもが多かった)、顕家の意見を受け入れ北と南から反撃の狼煙をあげようとした。
しかし後醍醐の命を受けて出港した大船団はに会い、義良と顕信を乗せた船は吉野に帰還、宗良の船は滋賀県の近江に漂着した。
親房の船は茨城県の常陸(ひたち)東条浦に漂着、そこに派遣された高師冬軍とのあいだで5年間にわたる合戦が繰り広げられた(常陸合戦)。
顕家の意見に基づく作戦は、戦争を地方まで拡大させ、長期的な消耗戦になっていった。
1339年、失意の中で後醍醐天皇は病で亡くなる(享年52歳)。後醍醐は死ぬ間際「骨は吉野のコケに埋めるとも、魂は常に京都を望まん」と述べ息絶えた。人々は後醍醐天皇の怨念を恐れ、足利尊氏は後醍醐の魂を鎮めるために京都に天龍寺を造営させた。

日本史各論2覚え書き①

参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』

徳治政治
徳政とは人々を安心させる徳のある王による政治のことであり、本来は古代中国思想の天人相関説と易姓革命説によって導き出された政治思想であった。
天人相関説(災異説)とは天と地上に生きる人には関係があるという考え方で、天に意思(天命)があると考えた孔子の思想に始まり、前漢の儒学者董仲舒(とうちゅうじょ)によって完成する。
天人相関説は地震や彗星の出現などの天変地異は君主の不徳に原因があるという説で、君主が過ちを起こすと天は小さな災いであるを起こし、さらにそれを無視すると大きな禍であるを起こすと考えられたため、君主は仁政(思いやりのある政治)を行わなければならないとされた。
易姓革命説とは「姓を易(か)え命を革む」という意味で、不徳の政治を行った王朝はそれ故に滅び、新たな王朝(姓が異なる天子)が育つという思想である。
この思想は孔子の段階では認められず、君主の悪徳が王家を滅ぼすという戦国時代の墨子を経て、天の意志は民の目、民の徳によって示されると考えた同時代の孟子によって完成する。したがって易姓革命説は君主権力を相対化する民本主義思想といえるものであった。

武家徳政と元寇
日本において徳政は、奈良時代以降、社会的・経済的弱者を救済するような善政を指したが、その徳政は中国のように王統そのものをドラスティックに変革するようなものではなく、中身を骨抜きにされたようなものだった。日本の徳政として平安期に王権による公家新制が挙げられる。
これは荘園整理令や禁酒令、殺生禁断令など多様な内容を含んだが、鎌倉幕府成立後は幕府も徳政を行うようになった(武家徳政)。
中世における徳政で最も重要なものは、裁判制度の整備(訴訟興行)と、仏神に対する保護(仏神事興行=寺社領荘園の保護)だった。
この仏神事興行がモンゴル戦争において大きな問題に発展する。モンゴルとの戦争では国家的に大規模な祈祷が行われ、二度の元寇でモンゴル軍を撃退した暴風雨は「神風」として人々に強く捉えられた。そのためモンゴルを撃退した仏神は当然武士に恩賞を要求、これは各地の寺社勢力にとっては自らの権益を復活・拡大する絶好の機会であった。
文永の役以降、祈祷命令は朝廷に代わり幕府が出していたので、寺社の恩賞要求は幕府へ向かい、各地の大寺社による恩賞要求が相次いだ。

安達泰盛の弘安徳政
北条得宗家と密接な繋がりが有り人格者として知られる安達泰盛は、この問題を含めたモンゴル戦争の戦後処理の責任者だった。泰盛は弘安7年から政治改革を矢継ぎ早に行い(弘安徳政)、その一環として神領興行法を実施、一般の人々が購入した九州の主要な神社の領地についての返還を求めた。
この法律は同時に伊勢神宮の神領についても出され、各地の神社にとって失われた所領を返してくれる法律と認識された。
この発令はどの神社が返還の対象となるのかという神社間の相互対立を巻き起こすと共に、社地を所有していた御家人や一般人にも大きな影響を与え、実際の支配から排除された集団から悪党が出現していくきかっけとなった。

得宗専制政治
得宗とは執権北条氏の家系を指すが、そもそもの由来は北条義時の死後に贈った称号「徳宗」であり、徳のある人物という意味である。よって得宗とは徳政を行う政治的主体としての意味を持っていた。
しかし執権政治が執権を中心にした評定衆の合議制で、御家人の力が強かったのに対し、得宗政治では、執権は北条家の家督(得宗)に限定、御内人(北条家に仕える武士)を中心にした寄合衆が、非公式に少数で政治を行っていた。
鎌倉幕府は将軍独裁政治→執権政治→徳宗専制政治の3段階に分けられるが、得宗専制時代の始まりは弘安徳政の開始からと見るか、終焉からと見るかは意見が分かれている。
なんにせよ将軍権力を強化した泰盛の急進的な改革は、幕府内部に対立をもたらし結局失敗に終わるが、保守的な反対勢力であった得宗御内人たちも、得宗を中心とする強力な幕府を作ろうとする上では共通点があった。
基本的には、御内人よりも御家人の方が、将軍との関係から言えば直接的な主従関係を持つが、得宗の権力が強化されるとともに幕府内での御内人の勢力も増大した。
御内人は、全国の北条氏領を管理していたため大きな経済力を持ち、御家人たちを統制し、鎌倉の警察を担当する侍所のリーダーも御内人が就任するようになっていた。
有力御内人の中で強力な権力を持っていたのが平頼綱で、安達泰盛の最大の対抗勢力だった。
弘安8年、頼綱は泰盛の息子が将軍位を狙ったとして兵を挙げ、泰盛派を滅ぼした(霜月騒動)。その後、頼綱は幕政の中心に座り、弘安徳政(特に神領興行法)を軌道修正した。
その後、永仁元年に鎌倉で大地震が起こると、成長して自立した得宗北条貞時は頼綱を倒し、貞時自身による得宗専制の時代が始まった。
貞時は裁判の最終決定を自分の直裁とする専制的な体制を作り出し、本来神仏を対象にした徳政令を人の所領にまで拡大、生活の苦しい御家人を一方的に擁護した、永仁の徳政令を発布。非御家人が買い取った御家人の土地は、たとえ何年前の契約でも無償で変換しなければならず(御家人どうしの場合は20年未満の場合に限り無償返還)、借金に関する訴訟は、これを一切受け付けないという、このめちゃくちゃな法律は、かえって御家人の生活を苦しめ(誰も御家人に金を貸す者がいなくなった)、名主百姓も巻き込む暴力的な紛争にまで発展してしまう。

建武新政
鎌倉時代中期の朝廷では皇位継承や既得権益の相続をめぐって持明院統と大覚寺統が激しく対立をしていた。
幕府はこの対立を調停しようと、朝廷の後継者選びに介入するようになったが、幕府内部でも永仁の徳政令による社会的混乱から徳宗専制に対する御家人の反発が強まり、朝廷や幕府に従わない悪党も出現、幕府の力は衰えた。
大覚寺統の後醍醐天皇は、引退した天皇による院政をやめさせ、摂政や関白、征夷大将軍もいらない、天皇自らが政治を行う天皇親政を目指し倒幕を図ったが、失敗し隠岐の島に流される。
しかし、後醍醐の息子、護良(もりなが)が、全国の倒幕派の武士にクーデターを呼びかけたことで、大阪の悪党楠木正成が挙兵。これを鎮圧に当たるはずだった御家人足利尊氏も幕府を裏切り六波羅探題を襲撃、同じく御家人の新田義貞は鎌倉を攻め、1333年鎌倉幕府は滅んだ。
隠岐を脱出していた後醍醐はさっそく、平安時代を手本とした天皇親政を理想とする建武新政を始めた。建武新政は鎌倉後期の公武徳政の延長線上にあったが、戦争の直後だったため鎌倉後期のそれよりもはるかに切実で緊張した内容であった。
まずは司法制度改革である。所領問題解決のため、後醍醐政権によって新設された雑訴決断所は、寺社ではなく、主に武士の訴えを担当したが、新たな裁判制度と判決(牒)は旧来の判決(論旨)とどちらが有効なのかという正当性の問題を生んだ。
また、後醍醐政権はこれまで家柄によって役職が独占されていた中央官制の改革にも乗り出す。後醍醐は強い人事権によって家柄にとらわれない新たな人材を任命し、役職と家を切り離そうとした。さらに官職と官位の対応関係も切り離し(上級貴族を従来より下のポストに就けるなど)、各執行機関を後醍醐が個別に直接掌握できるようにした。
これらの改革は極めてラディカルで(中国の君主独裁制っぽい)、人事をめぐって朝廷内部に大きな不満を読んでしまう。
後醍醐は徳政令も出したが、鎌倉後期の永仁徳政令と比較し、その救済対象が武士から庶民に拡大され、地域社会にも適用された点で異なった。この政策は15世紀からの徳政一揆へとつながっていった。
また、大内裏造営のための新たな財源として全国の地頭武士に課した税制は、新たな火種を地域社会にもたらし、飢餓や戦争で疲弊した人々をさらに苦しめることになってしまった。先にすべきは荒廃した京都の復興と被災した人々の救済だったのだ。
農民や、荘官、悪党、武士、公家と多くの階層の期待を背負った後醍醐による政権交代は、その期待に応えることができなかったのである。

建武政権の崩壊
旧来の既得権に大胆にメスを入れた後醍醐天皇の改革は、政権内部に激しい対立を巻き起こす。
まず表面化したのが、政権内部で権力を拡大させつつある足利尊氏と、自らの軍によって実権を握ろうとしたが、それを否定された(征夷大将軍を解任された)護良の対立である。
与えられたポストに納得がいかなかった護良は足利尊氏に不満をぶつけ、建武元年(1334年)6月、護良による尊氏打倒の噂が京都中に流れた。
尊氏は兵を集めて自宅の警護を固め、護良の父である後醍醐に責任を問いただすが、後醍醐は息子の勝手な行動だと弁明、クーデターを未遂した護良は捕縛された。
護良の容疑は、後醍醐天皇の帝位を奪おうと謀反を企てたというものだったが、この背景にはほかならぬ後醍醐天皇自身がいて、後醍醐が勢力を拡大する尊氏に対抗するために護良をけしかけたのではないかという疑惑もあった。つまり、後醍醐は息子の護良をバックアップしながら、自分の立場が悪くなると、その息子を切り捨ててしまったのである。結局、護良は宿敵尊氏のもとに預けられ、その身柄は鎌倉に護送された。
この事件によって、尊氏は最大のライバルを退け、後醍醐に対しても優位性を得ることができた。
後醍醐政権発足後、各地で中小規模の反乱が起きていた。いずれも鎌倉時代後期に北条氏が守護職を持っていた国で起こり、北条一族や北条派の反乱であった。
さらに、建武二年には大規模な反乱計画が暴露される。承久の乱以降、幕府、北条氏と強い結び付きを持っていた西園寺公宗(さいおんじきんむね)による後醍醐天皇暗殺計画である。
後醍醐政権発足後、冷遇されていた公宗は、最後の得宗北条高時の弟、北条時興と、持明院統の後伏見上皇を担ぎ出して反乱を企てるが、公宗の弟の密告によって失敗。
しかし、旧北条氏勢力と、一部の公家が手を組み後醍醐政権に反旗をひるがえした、この大事件は、後醍醐政権の崩壊と、その後の約60年にわたる南北朝戦争につながるきっかけとなった。

中先代の乱
西園寺公宗の反乱は、全国で同時に実行されるはずであったが、蜂起前に反乱計画が発覚してしまったため、信濃(長野県)で反乱を起こす予定だった北条高時の息子、北条時行は仕方がないので単独で蜂起した。これが中先代の乱である。この反乱から南北朝戦争の火蓋は切って落とされた。
時行軍は信濃から鎌倉を目指し、足利軍を次々に撃破。ついに足利尊氏の弟の足利直義が鎌倉から出撃し、東京都町田市で時行軍と戦うが大敗、鎌倉に戻ってきた。
直義は、鎌倉に監禁中の前征夷大将軍(すぐクビになったけど)護良親王と、北条時行がタッグを組むことを恐れ(鎌倉幕府を復活させちゃう可能性があったから)、護良親王を殺害すると、さらに西の愛知県へ進み、京都にいる兄、足利尊氏に援軍を要請する。
尊氏は弟を助けるために、後醍醐天皇に鎌倉へ向かう許可と、征夷大将軍への任官を申請したが、断られ、結局後醍醐の許可のないまま京都を出発する。
この時、尊氏に喜んで従った人々は数え切れないほどだったという。後醍醐天皇は、それが気に入らなかったのか、尊氏ではなく、自分の息子の成良親王を征夷大将軍に任命。後醍醐と尊氏の仲はさらに険悪なものになった。
三河(愛知県岡崎市、安土市辺り)で弟直義と合流した尊氏は、静岡県遠江国(とおとうみのくに)橋本・佐夜中山、神奈川県箱根、山梨県相模川など17箇所の戦いに勝ち、鎌倉を奪還。時行は逃亡し、彼の反乱に参戦した諏訪頼重は自害した。結局、時行の鎌倉占領は一ヶ月にも満たなかった。
中先代の乱で勝利した足利尊氏は鎌倉に居を構えて、戦いに協力してくれた人たちに勝手に恩賞を与え始めた。後醍醐天皇は尊氏の功績を認め、尊氏を昇進させると共に(従二位)、鎌倉に使いを出し、「恩賞とかは京都でやるから戻っておいで」と尊氏を呼び戻そうとしたが、尊氏はそれを断り鎌倉で恩賞を与え続けた。
尊氏は征夷大将軍を名乗り、後醍醐とは独自に主従関係を行使し始めたのである。これは明らかに源頼朝を意識していた。
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