国文学覚え書き②

 こんばんは。第二弾は江戸時代の俳人、松尾芭蕉の『奥の細道』です。この人は東京から出発して北関東へ行って、東北、北陸、最終的に名古屋まで旅して回ったんだけど、その歩く速さがかなり速いので、ジャパニーズ・ニンジャだったんじゃないかという説もある。
 前回の『平家物語』と異なり、俳句コーナーはあるものの、とどのつまり旅行記なので、写実的(淡々と視覚的情報を記述する)で読みやすい。ということで、今回は超訳ヴァージョンは必要なしということで、よしなにお願い申し上げそうろう。

『奥の細道』


月日は永遠に(終わることのない旅をする)旅人(のようなもの)であって(by李白)、行く年来る年もまた旅人である。
船頭として船上で生涯を過ごす人や、馬子として馬のくつわを引いて老いるのを迎える人は、日常そのものが旅であって、言ってみれば旅を住処としているのだ。
私がリスペクトする李白、杜甫、西行といった昔の人も、多くが旅をしながら亡くなっている。

というわけで、私もいつの頃からか、ちぎれ雲が風に誘われて行くように、さまよい歩きたいという思いがやまず、海岸をさすらい歩き、去年の秋に、隅田川のほとりの古びた家に、旅から戻り、留守中にできた蜘蛛の巣をはらいのけて住んでいるうちに、また次第に年も暮れて、春の霞の空を見ると、いざ白河の関を越えん、と、人の心をそそのかす“そぞろ神”が憑いて心を狂わせ、さらに道祖神(旅を守ってくれる神様)も私を旅に招いているような気がして、取るものも手につかず、ももひきの破れを繕って、笠の緒を付け替えて、三里(膝のつぼ)に灸を据えるとすぐに、松島の月が最初に気にかかったので、住んでいた家(芭蕉庵=草庵)は人に譲って、杉風元雅さん(松尾芭蕉のパトロン)の別荘にうつった。

草の戸も 住みかはる代ぞ 雛の家
(訳:わたし一人が住んでいた草庵も住人が替わります。次に住む家族には娘がいるそうで、雛人形などが飾られるのでしょう)

以上の表八句(百韻連句の冒頭の八句)を草庵の柱に掛けておくので、よかったら見てね。

旅立ち
三月下旬の二十七日、夜明けの空はぼんやりとかすみ、月は有明けの月で光はなくなっているので、富士の峰はかすかにしか見えず、上野や谷中の桜の梢を再びいつ見られるのかと思うと、ちょっとさみしい。

親しい人たちはみんな、前の晩から集まってくれて(今朝は一緒に)舟に乗って見送ってくれる。
千住というところで舟をおりると、三千里(1万2000km)もあろうかという旅にこれから出発するのかという思いで感極まり、幻のようにはかないこの世の分かれ道に離別の涙を流す。

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪
(訳:春という季節の別れを思い、鳥は鳴き、魚の目には涙が浮かんでいるかのように私には思えてならないのだ)

これを、旅で使う携帯用筆記用具の書き始めとしたが、やはり足が進まない。私たちを見送りに来てくれた人たちは、途中まで一緒に並んで、(私たちの)後姿が見えるまで、ずっと見送ってくれているに違いない。

白河の関
心もとない日々が続いたが、白河の関(福島と栃木の県境にある8世紀の砦)にさしかかると、ようやく旅の実感が湧いてきた。

平兼盛は「いかで都へ(この感動を都へ伝えたい!)」と、便りを求めたのも、もっともである。

中でも、この白河の関は東国三関の一つで、風流を愛する人々の心をとらえてきた。

(能因法師の「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白川の関」という歌を思うと)今の季節は初夏だが、秋風が耳奥で響くように感じる。
また(源頼政の「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉散りしく白河の関」を思うと)今は青葉の梢に(美しい紅葉が想像されて)、いっそう趣深く感じられる。

白い卯の花に、茨の白い花が咲きそえられて、雪にも勝る心地である。
昔の人は冠と衣装を着替えてこの関を越えたと、藤原清輔は書き残している。

卯の花を かざしに関の 晴着かな by曾良
(訳:私たちは卯の花を冠代わりにして、白河の関を越える晴れ着としよう)

平泉
(奥州藤原氏)三代の栄華も一眠りの夢のようにして(消え失せ)、(藤原氏の政庁の)大門の跡は一里(約4km)ほどこちら側にある。(3代目)秀衡(の居館)の跡は、田や原っぱになっていて、金鶏山(秀衡が平泉鎮護のために築いた小山)だけが(昔の)形を残しているのみだ。

まずは高館(源義経の居館跡)に登ると、(眼下の)北上川は南部から流れてくる大河である(ことが分かる)。
(北上川の支流の)衣川は、和泉の城を取り囲むように流れ、高館の下で大河(北上川)に合流する。

泰衡(秀衡の息子)らの旧跡は、衣が関を隔てて、南部地方(盛岡市一帯)からの入り口を厳重に警備し、夷(の侵入)を防いだのだろう。
そうであっても、(義経は)忠臣を選りすぐってこの城に立てこもり、一時的に功名を立てたが(敗北し、そこも)今や草むらとなっている。

国破れて山河あり、城春にして草青みたり
(訳:国が滅びても山河は昔のままで、城跡も春になると草が青々と茂っている※杜甫の漢詩の引用)

と笠を敷いて(腰を下し)、時が移るまで涙を流したのであった。

夏草や 兵どもが 夢の跡 by松尾
(訳:生い茂った夏の草むらを見ていると、かつてこの地で夢のために命を張って戦った武士たちが、ただただ儚く切ない)

卯の花に 兼房見ゆる 白毛かな by曽良(旅に同行した松尾芭蕉の弟子)
(訳:白い卯の花に、義経の老臣兼房の白髪を連想してしまう)

かねてから、話を聞いて驚いていた二堂(中尊寺金色堂=光堂と経堂)が開かれていたので行ってみた。
経堂には三将(藤原清衡、基衡、秀衡)の像を残していて、光堂には(その)三代の棺を納め、三尊(阿弥陀三尊。阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の3体)の仏像を安置している。
七宝はなくなり、珠で飾られた扉は風雨で破れ、金の柱は霜・雪によって朽ちて、もう少しで荒れ果ててただの草むらになるところを、(光堂の)四方を新しく囲んで、(屋根)瓦を覆って雨風をしのぐ(ように保護している)。
(こうして)しばらくは千年の昔のかたみとなっているのである。

五月雨の 降り残してや 光堂
(訳:あたり一面が雨で朽ち果てている中で、この光堂だけは輝いている。まるで五月雨が光堂を避けて降ったかのように)

立石寺
山形領内に、立石寺という山寺がある。
慈覚大師が開いた寺で、ことさら清らかで静かな土地である。
一見したほうが良いと、人々が勧めるので、尾花沢より引き返した。その道のりは七里(28km)ほどである。

日はまだ暮れていない。
山のふもとの宿坊(参詣者の宿泊施設)にチェックインしてから、山上にある堂に登る。
岩に巌が重なって山となり、松や檜の常緑高木は年をとり、土や石も古くなめらかな苔が覆っていて、岩の上に建てられた僧侶たちの住居の扉は閉じられていて、物音は聞こえない。
切り立った崖をめぐり、岩をはうようにして進み、仏閣を拝み、すばらしい景色はひっそりと静まりかえっていて、心が澄んでいくことのみ感じられる。

閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声
(訳:静寂の中、ただ聞こえるセミの鳴き声は、まるで岩に染み入るようである)

 あ、そうだ。話変わるけど、『怪盗グルーのミニオン大脱走』鑑賞。どんどん『アイス・エイジ』シリーズっぽくなってきたなw今後もコンスタントに作られそう。これだけキャラが増えて盛り沢山だとたいてい破綻するんだけど、紙一重でストーリーをまとめているのがすごい力技。
 ミニオンたちの活躍は原点回帰ということで少なめ。ちゃんとグルーの話になってます。日本版はもう、劇場版ドラえもん的に「ミニオン」ってつけるって決めたっぽいけど、あくまでも奴らは名も無き脇役に過ぎぬ・・・あるけど。

 今回のメインテーマは、過去の栄光にしがみつく松山ケンイチと、(昔のように悪党に戻れよとそそのかす双子の兄弟に出会っても)過去を振り返らない鶴瓶師匠の対比ってことなんだろうな。つーかグルー、大人になりすぎだろ。なんていう安心感w
 だから悪党の下で働きたいミニオンたちに関してああいうふうに落としどころ付けるのうまいし、同じようなアルゴリズム(悪党がやりたい)で動くネファリオ博士を、ああしちゃうのも思い切ったなあ。セリフなしかよ!
 ほいで、今までの博士がやっていた救援ポジションに奥さんが来たと。さりげなくグルーの左手の薬指にリングがついているのがとてもいい。あと自分が好きなキャラグルーのママもセリフ付きで再登場。嬉しい。

 芦田愛菜ちゃんは声変わり。次女より大人っぽい声を出す三女になっちまったぜ。「バイバイ、ろくおんせい」が懐かしいものよ。同じ子役キャラのエヴィル・ブラットについて思うところはあったのだろうか。
 声でいうなら、グルーの声は本家だとスティーブ・カレルって人がやってるんだけど、この人の声質は笑福亭鶴瓶さんよか浜田雅功さんに似ている。同じ関西弁キャラだし。でもCGアニメ映画のビッグタイトルである『シュレック』やっちゃってるからなあ。ハマタは。
 相変わらず中島美嘉さんは本家と声が一緒でうまい。一作目ではグルーがぎこちなくパパになる過程を描いたけど、三作目はママできたかという。
 そういやルーシーは家族とは死別でもしてるのかな。結婚式でもサイラス・ラムズボトムさんしか来なかったし。だとしたら、本作の悪戦苦闘は泣けるところがあるよな。

 たまにはいけませんって言ってもいいんだよ。

国文学覚え書き①

 ついにやってきた、夏休み国語大作戦!

 ・・・一年あっという間だなあ。
 てことで、手始めに古典から攻略中です。今回は『平家物語』の現代語訳なんだけどさ、あらためて思うのは、古典の現代語訳って現代語じゃねーよな。
 とりあえずなんとか現代人が意味を読みとれるくらいに古典の文法を直訳しているだけで、まあ原文を尊重しているっていうのもあるんだろうけど、こんな言い回ししねーよとか、いとおかしくねーよとか、すごい読みにくい。文章ってやっぱり読みやすさが命じゃん。
 しかも、古典で読む文章って学術的な記録文章というよりは、とどのつまり娯楽作品なわけで、文法どうこうよりも、その作品の核となる面白さをまず味わわせたほうがいいんじゃないかっていう。なんで、いきなりつまらねー“作業”をやらせるんだっていうね。
 だから、今回は原文のニュアンスを尊重し、だいたい文法通りに翻訳した、いわゆる「現代語訳」と、読みやすさを重視した「超訳」の2ヴァージョンでお楽しみいただきたく存じ候う。

『平家物語 木曾の最期』
これまでのあらすじ
平安時代末期の覇者である平氏を都から撃退した武闘派サムライ源義仲(故郷から木曽義仲と呼ばれる)であったが、彼らの軍隊はお行儀が悪く、都の人に迷惑をかけてしまっていた。
源平合戦の黒幕――後白河法皇は、お前はもう用済みだと言わんばかりに、源氏の総大将源頼朝に義仲を消せと命じる。
こうして都に範頼、義経などの鎌倉軍が侵攻(宇治川の戦い)、義仲の愛人の巴御前(※つよい)など濃いキャラクターの活躍もあり木曽軍は奮戦したが、結局は多勢に無勢ということで木曽義仲は敗走。義仲の運命やいかに――!?

現代語訳ver.
 木曾左馬頭(さまのかみ)のその日の格好は、赤い錦の直垂(ひたたれ)に唐綾威(からあやをどし)の鎧を着て、鍬形(くわがた=兜の飾り)を打ち付けた兜の緒をしめて、立派な装飾のされた太刀をさして、石打ちの矢(猛禽類の尾羽で作った矢のこと)の、その日の戦いで射て少し残っているものを頭よりも高く背負って、滋籐の弓(黒漆を塗り藤を巻き付けた弓)を持って、世に名高い木曾の鬼葦毛という、非常に太くたくましい馬に、金をあしらった鞍を置いて乗っていた。

 あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗るには、
「昔聞いたことがあるであろう(昔聞きけむ)、木曾の冠者(自分のこと)を、今は見ているであろう(今は見るらむ)、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲だ。(お前は)甲斐の一条次郎と聞く。お互いに(打ち合うには)いい敵だ。この義仲を討ち取って、源頼朝(兵衛佐)に見せるがよい。」
と叫んで、駆ける。

 一条次郎は、
「今名乗ったのが大将軍だ。者ども、討ち逃がすなよ。取り逃がすな若党、討ち殺せ」
と言って、大勢で取り囲んで、我こそが討ち取るといって進撃して行った。

 木曾義仲勢は300騎あまり、6000騎の(一条次郎勢の)中を縦に、横に、四方八方に、十文字に駆けて、(彼らの)後ろに出たところ、(味方の軍勢は)50騎ほどになっていた。
 そこを突破していくと、土肥の次郎実平の軍勢2000騎が支えている。そこも突破していくと、あそこでは4~500騎、ここでは2~300騎、140~50騎、100騎と、突破してくうちに、(味方はたった)主従5騎になってしまった。5騎になっても、巴は討たれなかった。

 木曾殿が
「お前は、さっさと、女なのだから、どこへでも逃げろ。私は討ち死にしようと思うのだ。もし人の手にかかって自害をせずに死んだならば、木曾殿は最期の戦いに女をお連れになっていたなどと言われるのは、残念である。」
とおっしゃっても、逃げようとしなかったのだが、あまりにも(木曾殿から)強く言われるので、巴は
「見事な敵がいないでしょうか。私の最期の戦いをご覧に入れたい。」
と、控えていたところに、武蔵国に聞こえる力持ち(大力)、御田八郎師重が、30騎ばかりで現れた。

 巴は、その軍勢の中に駆け入り、御田八郎に(自分の馬を)押し並べると、(御田八郎を)むんずとつかんで馬から引き落とし、自分が乗る馬の鞍の前部(前輪)に押し付けて動けないようにし、首をねじ切って捨ててしまった。
 その後、身に付けていた武具を脱ぎ捨てて、東国の方へと落ち延びていった。義仲の家来の手塚光盛(手塚太郎)は討ち死にし、手塚盛重(手塚別当)も敗走した。

 今井の四郎と木曾殿の主従二騎になって、おっしゃったことは
「日頃は何とも思わない鎧が今日は重くなったぞ」

 今井四郎(※家来なので「候ふ」を連発する)が申したことは
「御身もまだ疲れてはいません。馬も弱ってはいません。何によってひとつの大鎧を重く感じることがありましょう。それは味方に軍勢がいないので臆病になってそう思うのでしょう。兼平一人がお仕えしているだけでもほかの武者千騎分だと思ってください。
矢が7つ8つありますので、しばらく防ぎ矢(敵の攻撃を防ぐために射る矢)をいたしましょう。あそこに見えますのは粟津の松原と申します。あの松の中でご自害なさいませ。」
と、言って打って出る途中で、また新手の武者が50騎ほど現れた。

「殿はあの松原へお入りくだされ、兼平はこの敵を防ぎましょう。」
と、申したところ、木曾殿がおっしゃったことは
「義仲は都でいかようにもなるところであったが、ここまで逃れて来たのは、お前と同じ場所で死のうと思うためである。別々の場所で撃たれるよりも同じ場所で討ち死にしよう。」
と言って馬の鼻を並べて駆けようとなさると、今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取り付いて申したことは
「弓取り(武士)は、長年にわたってどのような高名がございましても、最期の時に不覚を取れば長い傷でございます。御身は疲れてらっしゃいます。後続の軍勢はございません。
敵に押し隔てられ、どうでもいい(人の)郎党に組み落とされなさって、お討たれになられたら、あんなにまで日本中で評判が高かった木曾殿を、誰それの郎党が討ち取ったなどと申されることは口惜しゅうございます。ただあの松原にお入りくだされ。」
と申したので、木曾殿は
「それでは」
と、言って栗津の松原にお駆けになさる。

 今井四郎は、たった一騎で50騎ばかりの中へ駆け入り、あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声を上げて名乗ったことは、
「日頃噂にも聞いていたであろう、今はその目でご覧あれ。木曾殿の乳母子、今井四郎兼平、今年33歳になる。そういう者がいるとは源頼朝(鎌倉殿)までもご存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ。」
と言って、撃ち残した8本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射る。生死は分からないが、即座に敵8騎を撃ち落とす。

 その後、刀を抜いてあちらに対峙し、こちらに対峙し、斬って回ったが顔を合わせる者はいない。敵の武器などを多く奪い取った(分捕り)。
 ただ「射取れや」といって中に包囲し、雨の降るように射たけれども、鎧が良いので裏へ貫通せず、鎧の隙間を射ないと痛手も負わない。

 木曾殿は、たった一騎で粟津の松原に駆けられたが、正月21日の夕方なので、薄氷が張っており、深田があるともしらずに馬をざっと乗り入れたので、馬の頭も見えなくなった。あぶみで馬の両ばらをにつけた泥よけ(あふる)を蹴っても蹴っても(あふれどもあふれども)、鞭で打っても打っても動かない。

 今井の行方がわからないので、空を見上げられた甲の内側を、三浦の石田の二郎為久が追いかけてきて、弓を十分に引き絞っていきなり射た。深手なので甲の正面を馬の頭に当ててうつぶされたところに、石田の郎党二人が加勢してきて、ついに木曽殿の首をとってしまった。

 太刀の先に貫き、高く差し上げ大声を上げて
「この頃、日本国にその名を轟かせなさった木曾殿を三浦の石田の二郎為久がお討ち申したぞ」
と名乗ったので、今井四郎は戦っていたがこれを聞き、
「今は誰をかばうために戦いをするべきであろうか。これをご覧あれ。東国の方々。日本一の剛の者が自害する手本を。」
と言って、太刀の先を口に含み馬から逆さまに飛び落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦はなくなったのである。

超訳ver.
その日の木曽義仲は、赤い服とチャイナスタイルの鎧を着て、角のついた兜をかぶり、立派に装飾された太刀をさし、戦いで余った矢を背負い、黒い弓を持ち、そして有名な“木曾の鬼葦毛”という、非常に太くたくましい馬に、金をあしらった鞍を置いて乗っていた。

義仲は、あぶみを踏ん張って立ち上がり
「昔聞いたことがあるだろう、木曽のルーキーと呼ばれた男を!今見ているこの私こそが、その源義仲だ!
お前は山梨県の一条次郎と聞く。互いに戦うにはいい敵だ。この義仲を討ち取って、源頼朝への土産にするいい。」
と、叫んで敵に駆けていった。

一方の一条次郎が
「今名乗ったのが相手のボスだ。野郎ども、討ち逃がすなよ。ぶち殺せ!」
と言うと、一条の軍勢は大勢で義仲を取り囲み、我こそが討ち取ると次々に義仲に挑んでいった。

木曽義仲の軍勢は300騎あまり、対する一条の軍勢は6000騎である。その中を縦横無尽に駆けて、軍勢の後ろまで出たところ、味方の軍勢は、300騎から50騎ほどにまで減っていた。

一条の軍勢の後ろには、伊豆の次郎実平という武士の軍勢2000騎が守りを固めていたが、そこも突破していくと、その次には4~500騎が待ち構え、その次には2~300騎、140~50騎、100騎と・・・キリがなくそれらの軍勢を突破してくうちに、結局味方は主従5騎になってしまった。

ちなみに5騎になっても、義仲の愛人の巴は討たれなかった。
義仲は 「お前は女なのだから、どこへでも逃げろ。オレは討ち死にする。その時、もしお前がいたら、木曽は最期の戦いに女を連れてたらしいよ、と死後みんなにからかわれてしまう、それはちょっとやだ。
と、巴を逃がそうとしたが、巴は逃げようとはしなかった。

しかしあまりにも義仲がしつこく言うので、巴は
「では、骨のある敵はいないかしら。私の最後の戦いを見せてあげるのに。」
と鼻息荒くスタンバッていた。

すると埼玉県で有名な力持ち、御田八郎師重というわかりやすい噛ませ犬キャラが、30騎ばかりで現れた。

巴はその軍勢の中に駆け入り、御田八郎に自分の馬を並走させると、八郎をむんずとつかんで馬から引きずり落とし、自分が乗る馬の鞍に押し付けて動けないようにすると、八郎の首をねじ切って捨ててしまった。超つええ。

その後、巴は身に付けていた装備を脱ぎ捨て、東の国の方へと落ち延びていった。
また、義仲の家来の手塚光盛(手塚太郎)は討ち死にし、手塚盛重(手塚別当)も敗走した。こうして5人だった義仲の仲間たちは、ついに2人だけになってしまった。

すると義仲が「日頃は何とも思わない鎧が今日は重く感じる」と弱音を吐いたので、家来の今井四郎は、こう言った。

「あなたはまだ疲れてはいません。馬も弱ってはいません。では、なぜ鎧が重く感じるのか、それは味方がいなくなってビビっているからです。(※ズバズバ言う四郎)
ですが、ご安心を。兼平一人がお仕えしているだけでも、一般的な武者千騎分(当社比)だと思ってください。
矢がまだ7、8本ありますので、しばらく敵の攻撃を防げます。
あそこに見えるのは粟津の松原という場所です。敵にやられちゃう前に、あの松の中でカッコよくご自害なさいませ。」

その時、新手の武者が50騎ほど現れた。

「殿はあの松原へお入りくだされ、兼平はこの敵を防ぎましょう。」
と今井が言うと、義仲は
「私は都でどうなるとも知れないところであったが、ここまで逃れて来たのは、お前と同じ場所で死のうと思ったからである。
別々の場所で討たれるよりも、同じ場所で討ち死にしよう。」
と言って、自分の馬を今井の馬に並べて駆けようした。

だが、今井四郎は馬から飛び降り、義仲の馬の前に立って
「武士は、生前にどんなに高い人気があっても、最期に不覚をヘタをこけば面目丸つぶれでございます。
義仲様はやっぱり疲れています。幸い、後続の軍勢はございません。
わたくしは“木曽義仲っていたじゃん。あいつさ、結局よくわからないモブキャラに討たれたんだってさ”なんて後世で言われるのは、悔しいのです。なので、ただあの松原に行ってください。」
と食い下がるので、

義仲は
「じゃ、そんなに言うなら」
と、栗津の松原へ駆けていった。

こうして、今井四郎はたった一騎で、50騎ばかりの中へ駆け入ると、あぶみを踏ん張って立ち上がり、大声で名乗りを上げた。

「日頃、噂にも聞いていたであろう、今はその目でご覧あれ。木曽殿の乳母子、今井四郎兼平!おかげさまで今年33歳にならせていただきました。(※意外とこっちのほうがニュアンスが近い気がする)
そういう名の男がいることは、あの源頼朝も知っているであろう。ならば、この兼平を討って私の首を頼朝に見せてみよ!」

こうして戦闘モードに突入した今井は、撃ち残した8本の矢を、矢継ぎ早に放った。すると、全ての矢がスナイプショットし、即座に敵8騎を撃ち落としてしまった(生死は不明)。ジェレミー・レナーか。

矢が全て尽きたため、今度は刀を抜いてあちらこちらに斬って回ったが、今井の相手になる者はいなかったので、敵の武器などを多く奪い取ることができた。

敵は「ぶち殺せ~!」と、今井に向けて雨の降るように矢を放った。しかし、今井の着ている鎧のクオリティが良かったために、矢は貫通せず、また鎧の隙間でないと痛手も負わなかった。

一方の義仲も、たった一騎で粟津の松原に駆けたのだが、その日は冬の夕暮れどきで、地面に薄い氷が張っており、彼は、深い田んぼがあるとも知らずに、そこに馬を乗り入れてしまったので、ズブズブと沈んでいき、結局馬の頭も見えなくなった。
これはやばいと、あぶみで馬の両ばらを蹴っても、鞭で打っても、うんともすんとも動かない。

ふと心細くなった義仲は、今井の行方を探そうと振り返った。――これが義仲の命取りとなった。
三浦の石田の・・・なんちゃらという男が現れて、空を見上げ、隙を作った義仲の頭を矢で射抜いてしまった。
これが致命傷となり、馬の上でうつぶせになったところを、石田の仲間二人が加勢して、あっさり義仲の首をとってしまった。

石田は、義仲の首を刀の先に突き刺し、それを高く差し上げると
「最近、日本で話題沸騰だった木曽義仲を、この三浦の石田の二郎為久が獲ったど~!
と叫んだので、交戦中だった今井は
「もう戦う意味がなくなってしまった。それではみなさん、最後に武士が自害する手本をお見せしましょう。」
と言って、刀の先を口に入れて、馬から逆さまに飛び降り、自分で自分を貫ぬいて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わったのである。

解説
『平家物語』は13世紀前半に作られた軍記物語で、作者は不詳。日本中をまわった琵琶法師によって文字の読めない庶民に弾き語られたことで有名である。
この世のすべてのものはいつかは滅びて無くなってしまう(諸行無常)という仏教的な教訓から始まる寓話だが、平安時代末期に栄華を誇った源氏のライバル平氏を悪逆の限りを尽くす暴君として描き(むしゃくしゃして奈良の大仏を焼くなど)、その滅亡をある種の因果応報とする点においては、中国の儒教思想の影響も読みとることができる。
庶民の間で受け入れられたのは、こういった分かりやすい勧善懲悪のストーリー(正義の源氏VS悪の平氏)によるところが大きいだろう(とどのつまりスター・ウォーズ)。
さて、『木曾の最期』では、平家を都から追い出し華々しい活躍をした木曾義仲が、源頼朝の軍勢に討ち取られてしまういきさつを描いたもので、朝日の将軍ともてはやされた義仲が、自らのミスであっけなく殺され、逆に義仲の護衛が武士として見事な死に様(自決)を見せるという対照的な結末が印象に残るチャプターである。
そこに漂うのは北野武映画的なニヒルなペーソスに他ならないが、都を占拠した“悲劇の武将”木曾義仲の態度は、やはり“おごれる人”であり、その死亡フラグは読者に約束されているのである(実際には木曾義仲の都での乱暴狼藉は『平家物語』の創作らしい)。

カーズ/クロスロード

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 君にチャンスをあげられる最後のチャンスなんだ。
 
 ピクサー作品の中で最もハマったシリーズ。一作目を見て衝撃を受け、あの同じところくるくる回るレースは何なんだ!?ってことでノラネコさんにストックカーレースって教えてもらった時から、早7年くらい。
 ほいで、その7年前と全く同じ舞台、キャラクター(特に2で欠番した赤坂さんのボブ・カトラス、あの悪徳ヒゲ牧場チック・ヒクス、前作いいタイミング引退できたキングことストリップ・ウェザース、企業家の良心テックス社長、そしてドッグ・ハドソン!)が帰ってきてるんだから、まずそこで泣く。
 もちろん2も好きで、つーか回数としては2の方がたくさん見てるんだけど、2はさ、映画のジャンルが違うじゃんwあれ、思い切ったよなって思ったけど。
 確かに、1やってすぐに、この3の内容はやれないよなっていう。ある程度年数が経ったほうが胸に来るだろっていう。あ、これ、去年も『ファインディング・ドリー』でも書いたな。フラッシュバック効果っていうか。マーベルじゃないけど、結構意図的な長期計画があるっぽいよね、ピクサー。

 ということで、1で泣いた人には感涙の出来。結末なんとなく最初の方で分かっちゃったけど(でも泣く)。ほろにがいビターな感じは『モンスターズ・ユニバーシティ』と通底するものがある。あちらもある種のスポーツものだったしな。
 スポーツの世界って、どうやってもフィジカル的な限界があって、さらに、せつないことに科学、技術的な側面もあってさ。実際大学生の頃に体育学の教授に教わったけど、東京オリンピックでのメダリストの体操の演技っていまでは中学生でもできるらしいしね。オリンピック目指してる中学生じゃないよ。普通の学校で普通の中学生にやらせてできるんだって。そういう現実をやるんだよな。ピクサーって。

 お友達がまた減ったな。

 冒頭がいいよ、とにかくこの映画。すごい満ち足りたレース人生が脅かされるあの感じ。曲も前作みたいなロックとかじゃなくて、格式高いクラシック使ってたり。うまいよね。オペラなんだよね。シェイクスピア四大悲劇なんだよね。
 もう、こうなるとフィジカルだけの話じゃなくてさ、生まれた時代がどうこうになってくるっていう。それを車というメタファーでやっているという。どうやっても新しく開発された自動車の方が性能いいもんなっていう。
 そこがスポーツの残酷さだよ。そのうち理科の授業で進化をやるんだけどさ、進化というのは、昔の恐竜とかが劣っていて、現代の人類が優れているとかそういうもんじゃありませんよ~とかいうんだけどさ。いや、恐竜のほうが人類よりも劣っているんだよ。スポーツっていうのはそういうものなんだよ。同じ土俵、同じルールでフェアに戦う以上、相対主義に逃げられないんだよ。

 それでも、なんつーか成績だけが全てじゃないというか。それは一作目から意表をついた結末でやってるんだけど、そのあとモンスター大学があって、それでこれっていう。
 クーベルタンじゃないけど。広義の意味での参加というか。形は変われどスポーツに携わることはできるよっていう。メンター、教師としての人生の面白さというか。
 だからといって、じゃあ参加さえすれば満たされるのか?んなわけねーだろ的な、やりきれない心のシャウトもあって、ちょっとこの映画計り知れない。

 俺はまだ走れたのにチャンスを与えられなかった。
 はじめからトレーナーになるのが夢だと思ってた?

 でも、やっぱり自分が勝つことだけがスポーツの楽しさじゃないよ。それだけじゃ人生はさみしいよっていう。若い世代に、自分の知恵や経験、立場を活かして、適切にチャンスを与えてあげるのだって幸福なことだろうっていう。今まで与えられてきた分を今度は与える側になるのも楽しいよっていう。
 教え授けるっていう楽しさってあるからな。あれ、意外と面白いぞって思っちゃったんだろうね。そのチャンスをクルーズも与えてくれたんだろうね。かつてのマックイーンのように。
 そういやさ、最近NHKやテレビ東京がやたら人工知能押しでさ、AI教師とかAI投資とかやってて、ふざけんじゃねーよって感じなんだけど。
 あれってひとつはAI共のせいで自分の仕事奪われかねないっていう、産業革命の頃にラッダイト運動やった人的な反発もありそうなんだけど、でも冷静に考えてみると、別にAIごときに自分が負けるという恐怖心はないんだよね。

 辞めるタイミングは若者が教えてくれる。

 これは作中のセリフだけど、AIには教えられたくねえよっていう。で、この映画も統計学とか数学とか出てきて、もう圧倒的にマックイーンはもう勝てないよってアナライズしててさ、すごいのは、『ハドソン川の奇跡』みたいにそういう合理的で冷酷な数字に一矢・・・報いないっていう、本当に勝てなかったってとこで話を終わしちゃうピクサーなんだけどw子どもアニメでそれやるかっていう。まあ、思い返せば子どもアニメに本格的にコンピュータ持ち込んだ理系集団なんだけどね、この人たち。
 でも、マックイーンにそういう合理的な世界の次世代トレーニングをさせずに、レジェンドって言われる古い世代のコミュニティの方に行かせたっていうのは示唆的だよ。
 つまりさ、いくらAI教師が正しくてもさ、こいつらはメンターたる条件が欠けてるんだよな。つまり、そいつ自身が人生の中で何をなしたか、何を積み上げたかっていうのが、教える内容よりずっと大切なんじゃないかってことなんかなって。

 そうね。先生もよかったのよ。

 そう考えれば、AIには人生の履歴がないんだよ。いやバージョンとかあるのかもしれないけど、そうなるとさ、そのAIを改良しているエンジニアのおじさんこそがメンターの素質があるわけで、やっぱり人を教え導くのは人間なんだよね。生き様に人は惹かれるんだよ。
 だから、この映画見て、AI全然怖くねーよっていう。あいつら生き物じゃねーし。生き様ねーしっていう。
 所詮はツールであって、AIによって世界に変革が起きるとかうそぶいているのは、自動車やインターネットやiPhoneが出た時でも、世界は変わるとか言っているいつもの人たちなんだよね。そういう風に大げさに言ったほうが販促になるからな。そんな簡単に世界は変わりません。

 人生に近道はないのよ。マックイーンさん。

政治学覚え書き⑯(国際連合)

 あの政治学覚え書きが二年ぶりにまさかの復活。なんか国連がすっぽり抜けていて(覚え書き⑫に入っていると思い込んでいた)、改めてここにアップしておきました。
 しかし、なんか最近は政治的な話題に興味なくしちゃって、なんというか政治の場にさらに知性がなくなっちゃった感じがするよね。
 在りし日のパキPさんがよく言ってた最終的には殴り合いっていうのを、本当にニュースで噛み締めてんなあっていうwまあプロデューサーも比喩として言ってるんだろうけど、やっぱどんな種類のステートメントでも(それこそ暴力反対でも)政治的な戦いに勝つにはイデオロギーにするしかないからね。

 んでさ、ここまでひどいのっていつだったかなって振り返ってみると、小泉政権の時なんだよね。つまり圧倒的な力で野党を蹴散らしちゃうような長期政権になっちゃうと、為政者にもゆるみというか奢りみたいなのが出てきて、もう国会でいちいち対話するのもめんどくせ~みたいなゴリ押しをしだすんだろうね。
 まあ内幕はもっと複雑で、安倍さんは安倍さんで人知れず苦労してたり、共謀罪法案もなんか事情があるのかもしれないけどさ。
 ほいでさ、この前プライムニュースで、安倍さん肝いりの憲法改正について討論してたんだけどさ、東大の法哲学者の井上達夫さんっているじゃん。あの人がめちゃめちゃキレッキレで知的に面白かった。久々にディベートで勝てそうもない人も見たっていうw本では存じ上げてたんだけど、あんな凄まじい人だったんだっていう。

 あ、あとあれだ。『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』やっと観た。すげ~よく出来てた(『アントマン』とタイ)。しかも『ゴーン・ガール』以来の劇場貸切で観れたんだけど、本当贅沢な経験させてもらったよ。
 情報過多とか不穏な事前情報あったけど(確かに前作はゴチャゴチャしすぎてた)、描かれるテーマがたった一つで、しかもそれがちゃんと収斂してるから、全然そんなこと感じなかった。というか、私がこの映画のあまりある小ネタの元ネタを知らないから、ほとんどスルーしててノイズにならなかったっていうのがあるんじゃないかってプロデューサー言ってたよ。
 確かに、そう言う意味では純粋にプロットの骨格だけ追えて、それはそれでよかったんじゃないかなっていう。それに私は、あまりデーターベース消費っていうのが好きじゃないんだよね。あくまでもストーリー、つまり人間ドラマを追求すべきだろっていうさ。で、山田洋次監督じゃないけど家族をテーマにするとやっぱり物語は締まるんだよね。見事!

 俺が矢を飛ばすとき頭は使っちゃいない。俺が使うのは心。

国際連合(UN)
地球上のほぼすべての国家(193カ国)が加盟する国際組織。主な非加盟国はバチカン市国。本部はニューヨーク。

主要機関は

①総会
全加盟国により構成される最高議決機関。
重要事項は3分の2以上の国の賛成、それ以外は過半数の賛成で決定されるが、法的拘束力のない勧告に限られる。
総会によって設立された期間には、国連環境計画(UNEP)や国連児童基金(UNICEF)、国連難民弁務官事務所(UNHCR)などがある。

②安全保障理事会
国際平和と安全に責任を負い、決定事項は総会とは違って法的拘束力を持つ。経済制裁だけではなく、軍事的措置も行える。
アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の常任理事国と、任期2年の持ち回りの非常任理事国で構成される。議決は9理事国以上の賛成で決まるが、重要な実質事項では常任理事国すべての賛成が必要になる(5大国一致の法則)。
そのため、常任理事国は一国でも反対すれば議決を拒否できる拒否権を持つ。
ちなみに冷戦時代はアメリカとソ連の仲が悪かったため、拒否権が乱発、安全保障理事会の機能は麻痺した。
また、安保理の常任理事国のメンバーは戦後から全く変わっておらず、国連分担金負担額2位の日本と、3位のドイツ(どちらも旧敵国条項によって未だに差別的に扱われている)や、地域大国のブラジル、インドを加える必要性も取りざたされているが、実現はしていない。

③経済社会理事会
国際協力を推進する機関。任期3年の54理事国で構成。
国連教育科学文化機関(UNESCO)、国際労働機関(ILO)、国連食糧農業機関(FAO)、世界保健機関(WHO)、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、国連開発協会(IDA)など多くの専門機関と連携する。

④信託統治理事会
独立や自治が自国だけではできない信託統治地域を保護する機関。最後の信託統治地域パラオが無事独立したため、現在任務は終了している。

⑤国際司法裁判所(ICJ)
任期9年の15人の裁判官で構成。国家を当事者とし個人は当事者にはなれない。
また強制的に裁判に出廷させる強制管轄権がないため、裁判を始めるには紛争当事国同士の同意が必要となり、紛争解決機能は不十分である(違法なことをした国が裁判に同意するはずがないから)。
96年の、核兵器の使用は国際法違反だという勧告的意見が有名。

⑥事務局
事務処理機関で、リーダーは任期5年の国連事務総長。事務総長は国連平和維持活動(PKO)の指揮権を持つ。現在は9代目でポルトガルのグテーレス事務総長。

の計6つ。

国連平和維持活動(PKO)
ピース・キープ・オペレーション。
軍人が非武装、または軽武装でおこなう停戦監視や兵力引き離しなどの活動。
冷戦時に本来の国連軍が編成できない中でオルタナティブ的に確立された。
そのため国連憲章にはPKOについての定めがないが、国連憲章第6章の紛争の平和的解決と、第7章の紛争の強制的解決の中間的な活動なので、憲章6章半の活動と呼ばれている。
冷戦が終結すると、PKOの任務はさらに拡大・多様化し、軍人による停戦監視、兵力引き離しに加え、文民による選挙監視、復興支援活動も行うようになった。このような現在の形は、多機能型・複合型PKOと呼ばれている。
国際平和に大きく貢献したことから1988年にノーベル平和賞を受賞している。

PKOは、以下の原則によっておこなわれる。

①任意原則
活動してくれる要員は、強制ではなく、加盟国の自発的意志によるものとする。

②同意原則
当事国がPKOの受け入れに同意した上でおこなわれる。

③中立原則
どちらか一方に加担せず、活動は中立を保つ。

④自衛原則
武器の使用は自衛の場合に限る。

国連軍(UNF)
国連憲章第7章に規定。安保理が決定した軍事的措置を実行する軍隊で、各国が兵力提供などの特別協定を結ぶことで結成される。
しかし大国の思惑などもあり、実際に組織されたことは一度もない。SFの地球連邦軍的存在になっている。
※朝鮮戦争(1950~53)における国連軍、湾岸戦争(1991)における多国籍軍、アフガニスタン紛争(2001)における国際治安支援部隊(ISAF)といった国連軍的なものはあったが、これは安保理の決議に基づいて各国が自発的に派遣したもので、本来の意味での国連軍ではない。

平和維持軍(PKF)
PKO実施のために派遣される軽武装の部隊。これも自衛のために武装しているだけなので国連軍とは見なされない。
2001年のPKO協力法改正により、日本の自衛隊も参加できるようになった。

平和執行部隊(PEU)
ピース・エンフォースメント・ユニット。平和強制部隊とも言う。
伝統的なPKOの原則(同意原則と自衛原則)を変更し、当事国の同意がないまま(もしくは一方の国の要請だけでも)武力行使を前提に派遣される重武装の部隊。
本来の国連軍にかなり近く、93年にソマリアに派遣されたことがあるが、現地勢力との武力衝突が拡大し、強い反発を受けて失敗した。

人権の国際化
フランクリン・ルーズベルト大統領の4つの自由がきっかけで、人権保障を一国ではなく世界規模に拡大する流れが生まれた。

世界人権宣言(1848)
国連総会で採択。すべての国が達成すべき人権の共通の基準として宣言されたが、法的な拘束力はなかった。内容は自由権、社会権、参政権。

国際人権規約(1966)
世界人権宣言の内容を具体化し、条約として法的拘束力があるようにしたもの。
A規約(社会権規約)、B規約(自由権規約)、B規約選択議定書(人権を侵害された個人が国連の規約人権委員会に申し立てられることを規定)の3つがある。またA規約、B規約もその前提として、民族自決権を規定している。
日本は、79年に一部を批准したが、A規約の3つの点(公務員のスト権、中・高教育無償化、祝祭日の給与)を留保し、B規約の選択議定書は批准しなかった。
また89年のB規約第二選択議定書(死刑廃止条約)にも批准しておらず、死刑や拷問の廃止を訴えるNGOのアムネスティ・インターナショナルは、日本は国際的な流れに反していると非難している。
ちなみに選択議定書とは、ある条約に新しい内容を追加したり、補強したりする際に作られる文書のことで、条約と同じ効力を持つ。

難民の地位に関する条約(1951)
迫害や拷問が予想される難民を本国に送り返してはいけない(安全な第三国へ送る)というノン=ルフールマンの原則が定められた。
日本は81年に批准、その翌年に出入国管理及び難民認定法を制定し、難民認定制度を発足させた。
しかし5000人の申請者に対して在留を許可された人は100人ほどと(※14年度)、日本の難民認定は非常に厳しく、認定申請者をたびたび成田空港から強制送還している。
ちなみに政治的信条があって国から逃れる人を亡命者、政治的信条が希薄な人(戦災や災害から避難した人)を難民と言うことが多いが、日本政府のいう“難民”は政治的難民、つまり亡命者に限っており、これが日本の難民受入数が今なお低い原因となっている。
とはいえ広義の難民は全世界で6000万人近くいるとされ、特に内戦が続くシリアやアフガニスタン、ソマリアで多い。

人種差別撤廃条約(1965)
日本は95年に批准し、97年に北海道旧土人保護法を廃止し、アイヌ文化振興法を施行した。08年には、アイヌ民族は北海道の先住民族だと国会で認められた。

女子差別撤廃条約(1979)
日本は85年に批准し、国籍法を改正、父親が日本人でないと日本国籍を取得できないという父系優先血統主義から、父か母のどちらかが日本人なら日本国籍が取得できるという父母両系血統主義に変更した。
また85年には、職場での男女平等を目指し、男女雇用機会均等法が、さらに99年には男女共同参画社会基本法が成立した。

子どもの権利条約(1989)
子どもの①生きる権利、②守られる権利、③育つ権利、④(コミュニティに)参加する権利を保障した条約。
さらに、子どもの買春および児童ポルノ、少年兵、権利を迫害された子どもの通報手続きなどに関する選択議定書がある。
日本は94年に批准した。

英語科教育法覚え書き③

 英語教科書に歴史あり。伊村さんの熱い語り口がかなり面白い。教科書でここまで語れる人はなかなかいないと思う。

参考文献:伊村元道著『日本の英語教育200年』

戦前のリーダー(読本)

『ウィルソン・リーダー』
明治6年に師範学校が編集し、文部省が刊行した『小学読本』の原著。アメリカでは小学生向けの国語のテキストだが慶應義塾でも採用された。
antやboy、cow、dogなど1音節でスペルが4文字までの単語がほとんどで初心者に学びやすい。しかもABC順にbat とboy、catとcowと頭韻を踏んでいる。
文字や挿絵が綺麗で、明治20年ころまで英語リーダーの代表格だったが、内容があまりに子ども向けだったり、旧約聖書を取り上げるなど宗教色が強かったりしたため、次第に使われなくなった。

『ナショナル・リーダー』
『ウィルソン・リーダー』に次いでロングセラーとなったアメリカの教科書。
明治20年~大正4年まで東京高等師範の附属中学校などで使い続けられた。
ページの半分が写実的なイラスト(※上手い)で、題材も動物や自然が多く(機械文明など登場しない)、ちびっ子向けな印象を受けるが、内容についてはV+O+原型不定詞など高校の内容まで扱っており、第1巻ですでに受動態、関係代名詞、仮定法が登場するなど、かなりハイペースな教材配列となっている(第3巻から突然難しくなる)。
さらに第5巻になるとシェイクスピア、ディケンズ、ホーソーン、トウェインなど英米文学が目白押しで、英文科の学生でも難しいレベルになっている。
幕府の留学生の外山正一(そとやままさかず)は、これは初学者向けの教科書としては採用すべきではないと批判している。

『正則文部省英語読本』
そんな外山が理想とする教科書が、彼が明治22~23年に出したこの教科書である。文部省からでているが、国定教科書ではなく、あくまでもひとつの検定教科書である。
外山は本書の目的で「Short sentences to be committed to memory(短い文の記憶)」や「very simple dialogues(とても単純な会話)」を取り上げることで生徒の切実な要求である英語で思考すること(Think in English)を成し遂げると、述べている。
この教科書の特徴は、英語を正則で学ぶためのもので訳読のためではないこと、教科書を閉じて会話するのも大事であるが機械的な暗唱は無用であること、念入りな反復練習が重視されていることである。文法の提示のペースも外国の教科書に比べるとずっとゆっくりで、長文もたった二つという、初心者に寄り添った難易度設定となっている。
しかし、当時の訳読中心の英語の授業において、口頭練習中心のこの教科書の人気は低く、面白くないという不名誉な烙印を押された。
彼が作ろうとした、読解力要請のための「リーダー(読本)」から、外国語学習のための「コース(教本)」へという流れは、現在でこそ多くの支持を得ているが、当時は日本はおろか海外でも取り入れられておらず、理解されなかったのである。

Think in English
ところが、この36年後、文部省英語教授顧問として来日したパーマーが外山の『正則文部省英語読本』を再評価することになる。
パーマーは外山の哲学をそのままに『Think in English』というタイトルの教科書を作り、これは今日の英語教科書の原型となった。
彼の教科書の編集のポイントは、中学生の精神年齢に合わせること、現在使われている英語の語彙や文体を採用すること、易から難へスムーズに配列すること、教材の範囲を偏りのない物にすること(文学だけではなく社会的、科学的な題材も取り上げる)、全体のカラーを統一することなどである。
しかし、この全5巻の教科書は、第1巻は超簡単だが、2巻になると突然難しくなり、第5巻に至っては『ナショナル・リーダー』を遙かに上回る難易度になっている。具体的にいうと、最初の1年で現在の中学校3年分の学習内容を、2年目で高校3年までの文法をすべてやってしまうというすさまじい物だった。
また、3巻よりも2巻の方が難しいなど、難易度に安定性がない。これはこの教科書が編集者の勘と経験で作られたことを物語っている。
しかし、パーマーは生徒用、教師用に贅沢なほど付属教材を用意した(Reader System)。これは現在最も完備された教師のマニュアルでも足下に及ばないレベルであった。

戦中・戦後のコース(教本)

『英語』
戦中は英語教育が禁止されていたというのは大変な誤解で、戦時中でも外国語科は健在だったし、国定の英語教科書も発行されていた。
英語の検定教科書は戦前、2000種以上もあり、その中から500種程度が採用されていたが、戦争が長期化すると資源が不足するようになり、昭和15年には各科目5種類だけとなり、とうとう1種類に限られるようになった。
当時文部省から示された要望事項は以下のような内容だった。
①親英気分を醸し出す文章はダメ。
②西洋暦の乱用はダメ。
③英米の物質文明を謳歌させる文はダメ。
④英米を偉大と思わせる文はダメ。
⑤日本を侮辱している感じの文章はダメ。
⑥JapanはNipponにしなきゃダメ。
こうしてできた国定教科書『英語』は、表紙が富士山のイラストで、大東亜共栄圏(War of Greater East Asia)の地図や皇居への遙拝、日章旗、山本五十六、「we pray for our success in war.」「all Japanese boys are to become brave and strong soldiers in future.」など右翼きわまりなかったが、イギリスの食事やクリスマス、イソップ童話など欧米事情を取り上げた章もないわけではなかった。
実際、全体的に見ると軍事色のある部分は2割ほどで(そこが戦後黒塗りされた)、さらに日本人の書いた原稿をアメリカ人にネイティブチェックもさせていた。

Let’s Learn English
戦後初めての国定教科書。親しみやすいタイトルと体裁で、いかにも平和な香りがする本。
タイトルにリーダーとはないものの、かなりリーダー的で、教授法的にはむしろ戦時中よりも後退したが、登場人物の統一や、話題中心の単元構成は、のちの英語教科書に大きな影響を与えた。しかしこの教科書の寿命は3,4年だった。

Jack and Betty(開隆堂)
主人公のジャックとベティのアメリカンな会話が脚本のト書きのようになっている教科書で、生徒はこの2人になりきって台詞を読むことで英会話の練習をする。
著者の3人は皆熱心なパーマーの支持者で、訳読抜きの直接教授法で教えられるような教科書を目指したのである。

The Globe Readers(研究社)
教養派福原麟太郎による最後のリーダー。アメリカ一辺倒だったジャック・アンド・ベティ全盛の時代にイギリス色を敢然と打ち出した異色の教科書。
ハード・カバーの地味な表紙の堅牢な造本はリーダーの貫禄十分で、内容もレッスン1が「Adog. A big dog.」(+イギリスの少女がボクサー犬と向かい合っている写真)だけと、かなり硬派である。たったこれだけ(ピリオド入れても13文字)で何をどう教えたらよいか謎だが、イギリスにとってのイヌは、犬ではなくやはり“dog”であり、国によって各々違った感覚で読まなければならないことを伝えたかったらしい(イギリス人は非常にdogが好きで、ロンドンなどの公園のdogのsitは社会問題となっている)。
こんな感じでレッスン2はCountryだけ。レッスン3でやっとThis is a tree.というセンテンスが出てくる。またOne,one,oneやA cat in the sun.などの数え歌が取り上げられ、文章がリズミカルなのも特徴であった。

The Junior Crown English Course(三省堂)
福島の短大で英語を教えていたクラークによる教科書(ボーイズビーアンビシャスの人ではない)。ほとんど彼一人の書き下ろしで、良くも悪くも編集者の体臭が文章構成のすみずみまでしみわたり、最も個性的と評された。
主人公のトムとブラウン(2巻では日本人画家ヒロシ・カトーが登場)が日本を始め、インド、アフリカなど世界各地を旅行するという内容で、当時の英語教科書には珍しく西洋=アングロサクソン一辺倒ではなく、多言語・多文化主義のイデオロギー色が強いその内容は賛否両論があった。
表紙も従来の日本人の感覚にはないビビッドな派手な物で、二色刷のコミック風のイラスト、カラー写真、しっかりした装丁などデラックス感がすごかった。とりあえずデラックスボンバーでいいか。
レッスン1ではthis is a pen.から始まる謎の伝統を打ち破り、I have a book.というhave 動詞が先に登場し、当時は話題になった。
これは、be動詞は人称の変化が複雑な上、否定や疑問の作り方も例外的、またSVCよりもSVOの文型の方が日本語にもあるので親しみやすいだろうというクラークのねらいがあったが、そもそもthis is a pen.と話すシチュエーションがリアルにはまずないというのが最大の理由だった。
教師用の指導書の類(マニュアル、ガイド)も充実しており、これを教室に持っていけば予習無しで先生は授業ができた。

1970年代以降の教科書
56年に教科書調査官が設置されて検定が強化されると、63年には義務教育の教科書無償法と抱き合わせに広域採択制度が始まった。それまで学校ごとに採択を決めていた中学校の教科書が、地域ブロック単位となり、採択権が現場の教師から教育委員会に移った。
72年からは出版社1社に付き一種類の教科書しか出せなくなった。こうして小中学校の教科書の種類は激減し、戦争直前の5種選定(5種類の教科書候補から選ぶ)の時代に戻り、国定教科書に近い状況になった。
広域採択のために、県全体が同一教科書という県も13県あったこともあり、検定ではなく県定だというボヤキも聞かれた。
その上、5種あっても結局は営業力の強い3社のものが全体の8割以上を占めるという寡占状態で、「表紙さえあれば中身が白紙でも売れる」とうそぶく営業担当者もいたらしい(同人誌か)。
編集者も全国各地の様々な要望と、学習指導要領の縛りに応えようとしたため、教科書から個性が消えた。その上での熾烈な売り込み合戦は30年ちかくも続いた。
その中での勝ち組は、New Horizonの東京書籍、New Princeの開隆堂、New Crownの三省堂で(これがビッグスリー)、他にOne worldの教育出版、Total Englishの学校図書、Columbusの光村出版などの後発組がある。

21世紀の教科書
受信型から発信型へ、読む英語から話す英語という流れの中で、学習指導要領が学年指定を外し、重点を言語材料から言語活動に移し、実戦的コミュニケーション能力の養成を目標とした結果、教科書も従来の文法シラバスから場面シラバスへと移行せざるを得なくなった。学習指導要領の掲げる理想と実情との狭間に立って、それにどう対応していくかが、教科書関係者の今後の課題である。(172ページ)
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