「面白い度☆☆☆ 好き度☆☆☆」
人間は三種類いる。羊、狼、番犬だ。
アメリカと言ったら映画とミリタリーというだけあって、戦争映画はそれこそ星の数ほど制作されていると思うんですが、クリント・イーストウッド監督のこの最新作は、なんとまあ、あまたある戦争映画の中で『プライベート・ライアン』を抜き、過去最高の興行収入を叩き出したという。
となれば、いろんな立場や思想の人が見ているわけで、例のごとく「ヒット作&流行作あるある」の泥仕合が発生中だとか。
ライトな人は戦争万歳、愛国心万歳のヒーロー映画として、レフトな人はイラク戦争はどう考えてもバッドウォーだったのに、こともあろうに後ろからこっそり攻撃する卑怯な狙撃兵を英雄視するなんて!と論戦が起こっているらしい。
悔しいかな、ヒット作って結局、いろんな人が好きなように自分で自由に解釈できる“幅”があることが多い。つまり作り手の手を離れて、作り手が本来伝えたかったものとは違う、もしくは、それ以上の解釈をされて、受け手側に勝手にテキストを構築されていってしまう。
そう言う意味で、ロランバルトは本質をついている。『エヴァンゲリオン』然り。『風立ちぬ』然り。結局これらの作品って何が言いたいのかさっぱりわからない。さっぱりわからないから、受け手が好き勝手に誤解できる。
勿論イーストウッド監督は、そこまで難解な作品を描いちゃいない。むしろ極めてシンプルな構成の映画を作っている。でもシンプルであるが故、この伝説の狙撃兵が実在の人物で、彼が巻き込まれた事件で、たった今裁判が起きているという話題性があるが故、この映画は重層的な解釈――誤解を許してしまう。
これを私は観客主権と呼ぼう。作品が一旦発表されてしまえば、あとの問題は作り手ではなく、受け手に行ってしまう。これが、クリエイター業の表現や伝達の悲しいところでもあり、面白いところでもある。
じゃあ、私はどう解釈したかって?
『ゴルゴはつらいよ』みたいな感じだった。
つまらなくはないんだけど、イラク戦争を題材にした映画って多くて、どれも出来がいいからインフレしちゃっている感じがするんだよなあ。『ローンレンジャー』とか『ハートロッカー』とか『ゼロダークサーティ』とか『フェアゲーム』とか『グリーンゾーン』とか。
作劇としては『フューリー』とかに近くて、メタな視点を極力排除して、一人の狙撃手の苦悩や半生を一人称視点で描いている感じ。
こっちのほうが全然展開は熱くはなるんだけど、この映画別にそういう少年漫画的、西部劇的「バキューン!ヒーハー」な映画じゃないんだよね。『フューリー』同様、鑑賞後(´Д` )となるような、まあ後味はあまりよくない映画なんだ。
だから、戦争を賛美する映画だ!ってこの映画を批判するのは違うだろっていう人の意見もわかるんだけど、でも戦争賛美まではいかないにしても、悲しい戦場に送られる兵士の犠牲心や愛国心自体は、わりと肯定的に描いているから、そういうふうに取られちゃうのも仕方がないと思う。
作中で具体例を出すならば、転載狙撃兵のクリス・カイルさんのお父さんがめっちゃテキサスの保守派っぽい人で、人間は三種類いる!羊、狼、番犬だ!って、ギリシャ4元徳みたいなこと言うんだ。羊は抵抗できない人たち。狼はそんな羊を食い物にする悪者、番犬は狼から命懸けで羊を守るデューティーのある人。
ほいで、父さんは羊は育てない。狼になったら許さない。番犬になれ息子たちよ!みたいな教育をして、クリスはお父さんの期待通りに立派な国家の番犬になるんだけど、戦場から帰ってきたクリスは深刻なPTSDを患ってしまう。
家族に囲まれて安全な日常生活を送っているのに、心の中はいつも非常時モードになっちゃったクリスは、あるとき家で飼っている番犬が子どもを襲っていると勘違いして、その犬をぶん殴ろうとしてしまう。
この演出は割と意図してんだろうなあって思った。つまり「狼」と「番犬」の違いってなんなんだっていう。今まで自分のロールモデルとしてきた番犬――シープドッグ(だから犬種はちゃんとボーダーコリー)を物語後半でバッサリ否定してしまうという。
自分が今までやってきたことは、本当に番犬だったのか?敵の視点から見れば、実は自分は狼と変わらなかったんじゃないのか?
イラクのテロリストを「蛮族」と呼んで、一生懸命、命懸けで戦ったのに、そのモチベーションを紙一重で支えてくれた信念が信じられなくなってしまう。これは辛い。
だが、しかし。主人公に重い十字架を背負わせ、苦しみもがく様子をいくら描いていても、クリント・イーストウッド監督は結局クリス・カイルさんをかっこいい男に描いちゃってるんだよね。
そこで、やっぱり『スターシップ・トゥルーパーズ』的倒錯(※反戦のために描いた描写が皮肉にもかっこよく見えちゃうこと)が起こって、戦争は残酷でよくないけれど、それでも戦場で戦う男たちはかっこいい!と葛藤込みで戦争万歳な消費のされ方をされちゃっているんだろうなあって。
だから、私はなんか大絶賛まではいかなかったんだよな。ちょっと前に見た『フューリー』が衝撃的だったのは、主人公側の戦車兵たちを救いようもないクズ野郎(目玉焼きペロペロマン)として描いていたからであってね。あれは、すごいチャレンジだよなって。
一般的に第二次世界大戦って、悪の枢軸国を撃退したグッドウォーって言われているのに、結局連合国軍もみんなイカれてたんだっていう、戦争を美化する風潮を徹底的に突き放した描き方がビックリしちゃったんだ。
そう言う意味じゃ、この映画のクリスはよくあるアメリカの戦争映画のすごいかっこいい軍人さんなんだよなあって。これは、まあ、実際のクリス・カイルさんがそういうハードボイルドなかっこいい人だった以上は、もうしょうがないんだけどね。自分が戦場にいて、クリスさんみたいな狙撃手が味方にいたら頼もしいったらないもんな。
戦争(政治的な開戦などに関する問題)と戦場(で戦い苦しむ兵士)の話は分けて考えるべきだという意見もあるだろう。映画の話と現実の社会問題の議論は分けて考えるべきという人もいるだろう。
それは、それでひとつの考え方なんだが(客観的な考察ではなく利害関係者の“戦略”に近い)、私はやっぱり、こういった問題は厳密には不可分なんだと思っている。もし、創作物がリアルに何も影響を与えられないのだとしたら、そして、それを作り手が信じられないのだったら、創作のモチベーションはどこに求めればいいのだろうか。
限定効果説だ、いやいや強力効果説だ、のお馴染みの進学論争は繰り返さないけれど、それはもう、受け手の閾値によるんじゃないか。
観客は自分が見たいものがすでに心の中にあって、それに適合するように主体的かつ無意識的に、作品のコードを解釈してしまうのかもしれない。それでも適合しないものを「つまらない」と言っているのかもしれない。だから、どんなふうにも解釈できるコンテンツは強い。
ライトの人はライトに、レフトの人はレフトに、コンサバの人はコンサバに、リベラルの人はリベラルに・・・
そして、時に“たかが創作物”がその人のリアルに大きな影響を与えてしまうこともある。幸か不幸か私には、この映画の効果はかなり限定的だった。それだけ。
しかし超映画批評の人には効果はバツグンだったようだ。
日本史各論2覚え書き③
2015-02-21 14:21:14 (8 years ago)
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- 歴史
参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』
南北朝戦争の実態
南北朝戦争下では、隣り合う村の小さな紛争が、朝敵追討といった大きな戦争に発展する、いわば私戦と公戦が結びついている状態だった。
そこでは掠奪行為が繰り返され、戦場は戦争商人と結びついた“稼ぎ場”になっていた。実際、楠木正成の軍隊はそういった掠奪者の集団であり、兵士たちは戦況よりも財宝の方を優先したため、一箇所に集まろうとせず、これでは敵が反撃してきた場合手の打ちようがないと、楠木正成は嘆いている。彼らにとっては、京都への攻撃も、朝敵足利尊氏がどうとかではなく、掠奪で一財産築きたかっただけだったのだ。
この状況に対して、後醍醐天皇は三カ条の軍法を出し、戦争のどさくさに紛れた掠奪行為を禁じ、現場においても、新田義貞が「一粒でも刈り取り、民屋のひとつでも追補したものは、速やかに誅する」と掠奪の禁止を兵たちに命じたが、部下が青麦を刈り取ってしまった際には「多分敵陣と間違えて掠奪してしまったのか、あまりに腹ペコで法を忘れちゃったんだろう」と罪を許している。
このコメントに従えば味方領域では掠奪は禁止だが、敵方領域では掠奪を許可していたということになる。つまり、戦場での掠奪は当然のことだと考え、掠奪行為をコントロールすることで戦争を遂行していたのだ。
このような掠奪の主体となっていたのが野伏で、村や地域から離れて戦時掠奪を生業にしていた。
彼らは単なる盗賊ではなく、交通の要所を拠点とし、運輸や流通に関わる特殊技能集団であった。ある時は掠奪集団、ある時は傭兵、ある時は運輸業者、ある時は戦争商人と戦時下で多彩な活動をしていたらしい。
また村と深い関わりを持つ野伏も存在し、彼らは掠奪を許可されるのと引き換えに戦争に動員された近隣荘園の荘民だった。
またこのような村の武力は、掠奪を目的とするだけではなく、逆に他の集団からの掠奪を防ぐ地域防衛システムとしても使われた。
建武式目
後醍醐天皇から三種の神器(※ニセ)が光明天皇に渡された5日後、足利尊氏は建武式目という室町幕府の施政方針を打ち出す。
建武式目は全体で二つの部分に分けられ、前半部では幕府の所在地を鎌倉と京都のどちらに置くかという問題が述べられるが、結論は明確に記されていない。
これは鎌倉で武家政治の理想を求める直義と(鎌倉は武士にとっては本来、“吉”な土地で、北条氏が鎌倉で滅んだのは、悪い政治を行ったからだと考えた)、畿内勢力に配慮して京都を考えていた尊氏の間に見解の相違があったためだと言われる。
後半部では政策方針が述べられていて、聖徳太子の十七条憲法を意識しており、全十七カ条からなる。
1条:倹約の奨励とバサラの禁止
2条:集まって飲んだりギャンブルの禁止
3条:狼藉対応策
4条:市中における戦時下の住宅利用(差し押さえ)の禁止
5条:戦時没収された市中の空き地の返還
6条:無尽銭・土倉(どちらも金融業)の奨励
7条:守護職は政務能力のある人を選ぼう
8条:権力者、女性、お坊さんの口出しを受けちゃダメ
9条:公務員は怠けちゃダメ
10条:賄賂の禁止
11条:進物(贈り物)の禁止
12条:部下の選び方は慎重に
13条:礼節の奨励
14条:良いことをしたら褒め、悪いことをしたら戒めてあげよう
15条:貧しい人の訴訟を聞き入れる
16条:強訴に訴えがちな寺社の訴訟に対する適切な対応
17条:裁判の日にち、時刻はあらかじめ決めること
この法令は、公家・武家両方の法律に詳しい法律解釈の専門家、是円(中原章賢)ら、政策立案と実務運営のプロフェッショナル集団を結成させて作ったものだが、慌ただしく出されたので、室町幕府の基本方針としては不十分であり、幕府の基本法は御成敗式目が鎌倉時代から引き続き使われることになった。
二頭政治
室町初期の幕府政治は尊氏と直義が二人で政務を分担しながら政治を行う体制だった。
文書も二人の名で発行されたため、当時の人は「ダブル将軍」と認識していた。
兄の尊氏は、恩賞の授与や守護職の補任などの武士に対する主従制的な支配権、軍事指揮権を掌握し、弟の直義は民事裁判権などの一般的な行政権を担当していた。
なぜ、一人がこれらの権限を一体化させて掌握せず、このように兄弟で権限を分担させたのかという点については、南北朝期の武士の家では兄弟惣領という長男と次男が連帯して惣領権(跡取りの権利)を共有し、分業しながら家の運営を行っていたからだとされている。この兄弟惣領は、一族の合意に基づいて推薦された家督を中心に結集した家督制へと移行していく。
このような二頭政治は、お互いが協力している時は公正な政治が行われるが、両者が対立したり、どちらかがこの体制をやめようとすれば、その対立は政治過程に大きな影響を及ぼし深刻化してしまう。
実際、足利兄弟も、武士の権限をより拡大させ、新しい武家政権を作ろうとする革新派――尊氏&高師直(足利家の執事→バトラーではなく将軍を補佐する行政機関の最高官職)と、鎌倉幕府の体制を引き継いで、専制的な徳治政治を行おうとする保守派――直義の間で政権争いが起きてしまう。
さらに直義の養子で、尊氏の実子、足利直冬も参戦し、三つ巴の戦いに発展(観応の擾乱)。
それぞれの勢力が旗色が悪くなると南朝に降参して味方を増やそうとしたため、政局は大混乱になる(擾乱とは秩序を乱して騒ぐこと)。
観応の擾乱
二頭政治の崩壊は、まず、保守派の足利直義が、革新派の高師直の執事職をクビにすることから始まった。高師直は優秀な執事かつ百戦錬磨の軍人であったが、戦争を早急に集結させ、旧来的な秩序を目指す直義と(直義の政治は安達泰盛の弘安徳政に似ていた)、戦争を継続させ、そこから新たな秩序を作ろうとする高師直では、方向性に大きな相違があった。
これを受けて、高師直は軍事クーデターを起こし、京都を占領、直義の側近の上杉重能を殺す。これに身の危険を感じた直義は、尊氏の屋敷に逃げ込む。
尊氏と師直のあいだで交渉が行われ、直義は出家して引退することになった。自分の地位は尊氏の息子で、鎌倉公方(関東地方の政務大臣的役職)の足利義詮(あしかがよしあきら)に譲ったが、しばらくして直義の反撃が始まる。
京都を出た直義は南朝に降参し、味方を増やすという奇策に打って出る。これにより、師直に勝利した直義は尊氏と講和。師直は直義派の上杉能憲(上杉重能の養子)に殺される。
ちなみに、このエピソードは『忠臣蔵』の設定そのまま歌舞伎の演目になっていて(仮名手本忠臣蔵)、仇討ちされちゃう悪役の吉良上野介は高師直に置き換えられている。まさに『忠臣蔵 太平記ver.』と言えよう。
さて、これで終わりと思いきや、今度は尊氏と直義のあいだで兄弟喧嘩が起こり、直義は再び京都から出て軍隊を組織する。すると、今度は尊氏が南朝に降参して、東海道や鎌倉で直義軍を退け、撃破(正平の一統)。
さてさて、これでほんとに終わり…と思いきや今度は、九州で尊氏の名前を利用して急成長した足利直冬が幕府に弓を引き、尊氏と講和したはずの南朝も「尊氏が戦争で留守のあいだに…」と京都に侵攻、尊氏と新たな二頭政治を担っていた足利義詮を追い出してしまう。
弟直義を倒した尊氏は、もう南朝の後ろ盾なんていらねえ、むしろ戦う意義ができてラッキーとばかりに南朝と戦い、京都を奪還。北朝を復活させた。
終わってみると、直義は急死(毒殺?)、直冬は行方不明、結局のところ尊氏が漁夫の利を得たわけだが、この争乱は武士だけではなく、公家や民衆も巻き込み、農民では惣を基盤とした農民の成長、天皇や公家の権威失墜による荘園公領制の崩壊をもたらすことになる。
尊氏と直義
学校の歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の肖像。あれは足利直義のものであるらしい。直義は高潔で生真面目、意志の強い性格で、穏和で人懐こく、優柔不断かつ思慮深い兄の尊氏とは正反対のキャラクターだった。
あるとき尊氏が「国を治めるからにはもっと重々しく振舞わないといけないなあ」と言ったところ、直義は「私は逆に自分の身を軽く振舞って、侍たちとの距離を縮めたいし、人々にも慕われたい」と言ったらしい。弟は、なかなか頭でっかちの優等生タイプだった。
また、尊氏は支援者にたくさんの贈答品を送ったのに対し(田中角栄みたいだ!)、直義はそういった慣習そのものが嫌いだった(三木武夫みたいだ!)。
後醍醐天皇という共通の相手と戦った時はあんなに仲良かったのに…理想は平和だが歴史は残酷だ。
南北朝時代の文化①バサラ
鎌倉時代の戦乱の物語『太平記』には従来の権威を気にせず自由気ままに傍若無人な振る舞いをする武士の姿が描かれる。
彼らは「バサラ」と呼ばれ、サンスクリット語の「バアジャラ(魔や鬼を打ち砕く力)」から派生し、日本では「派手」「贅沢」「遠慮しない」「放埒」という意味で使われるようになった。バサラはこの時代の流行であり、彼らは鉛でできた大きな刀を目立つように腰に差し、派手な奥義を見せびらかしながら、奇異なデザインの服や装身具を身に付け京都市中を闊歩した。
このバサラのファッションの中心にいたのが有力武士に仕え雑務を行った小者と武士の間にあたる中間(ちゅうげん)で、悪党や野伏が傭兵になったようなものであった。
幕府はバサラに対して分不相応な贅沢を厳しく取り締まるためバサラ禁止令を出したが、これには傭兵である彼らの自由な活動を抑止し、京都の治安維持を図る目的があった。とはいえ、当時の人々はバサラを支持し、彼らは新しい文化創造のニューカマーとして一般的に受け入れられるようになっていた。
南北朝時代の文化②寄合
バサラと同時にこの時代の文化を象徴するのが寄合で、人々は日々の鬱憤を晴らすため昼夜問わず舞い歌い、酒宴や茶会を開いていた。
バサラが主催するそれは特に派手で贅沢であり、幕府はこれも禁じた。その狙いは単なる倹約奨励だけではなく、寄合が政権転覆を目論む反体制派の密謀を行う場でもあったからである。実際、後醍醐天皇は豪勢な寄合の席で、鎌倉幕府倒幕の計画を練っていたのである。
寄合の文化として流行ったのが連歌であり、これはもともと平安時代に公家のあいだで嗜まれた上の句と下の句を別々の人間が対応して読む、高度に洗練された遊びであったが、この時代の寄合では貴賎、貧富、教養を問わず誰でも参加できる、京都風鎌倉風なんでもアリのゲームになった。そこでは誰もが歌の優劣を判断し差別や秩序のない自由な世界があった。
そして、連歌と共に寄合の文化の中心となったものが茶である。鎌倉時代には栄西によって抹茶が伝えられたが、寄合での茶は養生や学び、嗜みとは別の形で発展する。
それが闘茶であり、バサラ大名の寄合では味の違う4種類の茶を飲み比べ、正解者が景品を獲得するというギャンブルとして茶が消費されていたのである。ガキの使いでこんなのあったよね。
南北朝時代の文化③田楽と猿楽
田楽は、平安時代に成立した伝統芸能で、稲作で最も大変な田植えの際に、豊作を祈って楽器を演奏しながらリズミカルに踊りを踊ったのが起源である。
これを好んだのが鎌倉幕府最後の得宗北条高時で、京都の田楽座を鎌倉に読んで楽しんでいたという。この流行は各地に見られ、南北朝時代にも続いた。
四条橋着工セレモニーでは、大々的な田楽に観客が熱狂しすぎて将棋倒しになり100人以上の死者が出る大惨事となっている。
田楽と同時に、能につながる猿楽もこの時代に発展した。猿楽は神事の際に翁(宿神)の仮面をつけた演者が舞う芸能、翁猿楽をルーツとし田楽同様、座を持ち各地で公演をする集団もいた。
これらの座は自社の保護を受け、田楽と猿楽の座が芸を競う立会い能という催しもあった。
この勝負に勝ち上がるため大和猿楽の観阿弥は技を磨き、当時人気があったリズミカルな曲舞や、ライバルの田楽の良さも積極的に取り入れた。これが室町幕府将軍足利義満の目にとまり、猿楽は武家社会の上流文化を吸収、さらに芸を洗練させ、現在の能の原型になった。
南北朝戦争の実態
南北朝戦争下では、隣り合う村の小さな紛争が、朝敵追討といった大きな戦争に発展する、いわば私戦と公戦が結びついている状態だった。
そこでは掠奪行為が繰り返され、戦場は戦争商人と結びついた“稼ぎ場”になっていた。実際、楠木正成の軍隊はそういった掠奪者の集団であり、兵士たちは戦況よりも財宝の方を優先したため、一箇所に集まろうとせず、これでは敵が反撃してきた場合手の打ちようがないと、楠木正成は嘆いている。彼らにとっては、京都への攻撃も、朝敵足利尊氏がどうとかではなく、掠奪で一財産築きたかっただけだったのだ。
この状況に対して、後醍醐天皇は三カ条の軍法を出し、戦争のどさくさに紛れた掠奪行為を禁じ、現場においても、新田義貞が「一粒でも刈り取り、民屋のひとつでも追補したものは、速やかに誅する」と掠奪の禁止を兵たちに命じたが、部下が青麦を刈り取ってしまった際には「多分敵陣と間違えて掠奪してしまったのか、あまりに腹ペコで法を忘れちゃったんだろう」と罪を許している。
このコメントに従えば味方領域では掠奪は禁止だが、敵方領域では掠奪を許可していたということになる。つまり、戦場での掠奪は当然のことだと考え、掠奪行為をコントロールすることで戦争を遂行していたのだ。
このような掠奪の主体となっていたのが野伏で、村や地域から離れて戦時掠奪を生業にしていた。
彼らは単なる盗賊ではなく、交通の要所を拠点とし、運輸や流通に関わる特殊技能集団であった。ある時は掠奪集団、ある時は傭兵、ある時は運輸業者、ある時は戦争商人と戦時下で多彩な活動をしていたらしい。
また村と深い関わりを持つ野伏も存在し、彼らは掠奪を許可されるのと引き換えに戦争に動員された近隣荘園の荘民だった。
またこのような村の武力は、掠奪を目的とするだけではなく、逆に他の集団からの掠奪を防ぐ地域防衛システムとしても使われた。
建武式目
後醍醐天皇から三種の神器(※ニセ)が光明天皇に渡された5日後、足利尊氏は建武式目という室町幕府の施政方針を打ち出す。
建武式目は全体で二つの部分に分けられ、前半部では幕府の所在地を鎌倉と京都のどちらに置くかという問題が述べられるが、結論は明確に記されていない。
これは鎌倉で武家政治の理想を求める直義と(鎌倉は武士にとっては本来、“吉”な土地で、北条氏が鎌倉で滅んだのは、悪い政治を行ったからだと考えた)、畿内勢力に配慮して京都を考えていた尊氏の間に見解の相違があったためだと言われる。
後半部では政策方針が述べられていて、聖徳太子の十七条憲法を意識しており、全十七カ条からなる。
1条:倹約の奨励とバサラの禁止
2条:集まって飲んだりギャンブルの禁止
3条:狼藉対応策
4条:市中における戦時下の住宅利用(差し押さえ)の禁止
5条:戦時没収された市中の空き地の返還
6条:無尽銭・土倉(どちらも金融業)の奨励
7条:守護職は政務能力のある人を選ぼう
8条:権力者、女性、お坊さんの口出しを受けちゃダメ
9条:公務員は怠けちゃダメ
10条:賄賂の禁止
11条:進物(贈り物)の禁止
12条:部下の選び方は慎重に
13条:礼節の奨励
14条:良いことをしたら褒め、悪いことをしたら戒めてあげよう
15条:貧しい人の訴訟を聞き入れる
16条:強訴に訴えがちな寺社の訴訟に対する適切な対応
17条:裁判の日にち、時刻はあらかじめ決めること
この法令は、公家・武家両方の法律に詳しい法律解釈の専門家、是円(中原章賢)ら、政策立案と実務運営のプロフェッショナル集団を結成させて作ったものだが、慌ただしく出されたので、室町幕府の基本方針としては不十分であり、幕府の基本法は御成敗式目が鎌倉時代から引き続き使われることになった。
二頭政治
室町初期の幕府政治は尊氏と直義が二人で政務を分担しながら政治を行う体制だった。
文書も二人の名で発行されたため、当時の人は「ダブル将軍」と認識していた。
兄の尊氏は、恩賞の授与や守護職の補任などの武士に対する主従制的な支配権、軍事指揮権を掌握し、弟の直義は民事裁判権などの一般的な行政権を担当していた。
なぜ、一人がこれらの権限を一体化させて掌握せず、このように兄弟で権限を分担させたのかという点については、南北朝期の武士の家では兄弟惣領という長男と次男が連帯して惣領権(跡取りの権利)を共有し、分業しながら家の運営を行っていたからだとされている。この兄弟惣領は、一族の合意に基づいて推薦された家督を中心に結集した家督制へと移行していく。
このような二頭政治は、お互いが協力している時は公正な政治が行われるが、両者が対立したり、どちらかがこの体制をやめようとすれば、その対立は政治過程に大きな影響を及ぼし深刻化してしまう。
実際、足利兄弟も、武士の権限をより拡大させ、新しい武家政権を作ろうとする革新派――尊氏&高師直(足利家の執事→バトラーではなく将軍を補佐する行政機関の最高官職)と、鎌倉幕府の体制を引き継いで、専制的な徳治政治を行おうとする保守派――直義の間で政権争いが起きてしまう。
さらに直義の養子で、尊氏の実子、足利直冬も参戦し、三つ巴の戦いに発展(観応の擾乱)。
それぞれの勢力が旗色が悪くなると南朝に降参して味方を増やそうとしたため、政局は大混乱になる(擾乱とは秩序を乱して騒ぐこと)。
観応の擾乱
二頭政治の崩壊は、まず、保守派の足利直義が、革新派の高師直の執事職をクビにすることから始まった。高師直は優秀な執事かつ百戦錬磨の軍人であったが、戦争を早急に集結させ、旧来的な秩序を目指す直義と(直義の政治は安達泰盛の弘安徳政に似ていた)、戦争を継続させ、そこから新たな秩序を作ろうとする高師直では、方向性に大きな相違があった。
これを受けて、高師直は軍事クーデターを起こし、京都を占領、直義の側近の上杉重能を殺す。これに身の危険を感じた直義は、尊氏の屋敷に逃げ込む。
尊氏と師直のあいだで交渉が行われ、直義は出家して引退することになった。自分の地位は尊氏の息子で、鎌倉公方(関東地方の政務大臣的役職)の足利義詮(あしかがよしあきら)に譲ったが、しばらくして直義の反撃が始まる。
京都を出た直義は南朝に降参し、味方を増やすという奇策に打って出る。これにより、師直に勝利した直義は尊氏と講和。師直は直義派の上杉能憲(上杉重能の養子)に殺される。
ちなみに、このエピソードは『忠臣蔵』の設定そのまま歌舞伎の演目になっていて(仮名手本忠臣蔵)、仇討ちされちゃう悪役の吉良上野介は高師直に置き換えられている。まさに『忠臣蔵 太平記ver.』と言えよう。
さて、これで終わりと思いきや、今度は尊氏と直義のあいだで兄弟喧嘩が起こり、直義は再び京都から出て軍隊を組織する。すると、今度は尊氏が南朝に降参して、東海道や鎌倉で直義軍を退け、撃破(正平の一統)。
さてさて、これでほんとに終わり…と思いきや今度は、九州で尊氏の名前を利用して急成長した足利直冬が幕府に弓を引き、尊氏と講和したはずの南朝も「尊氏が戦争で留守のあいだに…」と京都に侵攻、尊氏と新たな二頭政治を担っていた足利義詮を追い出してしまう。
弟直義を倒した尊氏は、もう南朝の後ろ盾なんていらねえ、むしろ戦う意義ができてラッキーとばかりに南朝と戦い、京都を奪還。北朝を復活させた。
終わってみると、直義は急死(毒殺?)、直冬は行方不明、結局のところ尊氏が漁夫の利を得たわけだが、この争乱は武士だけではなく、公家や民衆も巻き込み、農民では惣を基盤とした農民の成長、天皇や公家の権威失墜による荘園公領制の崩壊をもたらすことになる。
尊氏と直義
学校の歴史の教科書でお馴染みの源頼朝の肖像。あれは足利直義のものであるらしい。直義は高潔で生真面目、意志の強い性格で、穏和で人懐こく、優柔不断かつ思慮深い兄の尊氏とは正反対のキャラクターだった。
あるとき尊氏が「国を治めるからにはもっと重々しく振舞わないといけないなあ」と言ったところ、直義は「私は逆に自分の身を軽く振舞って、侍たちとの距離を縮めたいし、人々にも慕われたい」と言ったらしい。弟は、なかなか頭でっかちの優等生タイプだった。
また、尊氏は支援者にたくさんの贈答品を送ったのに対し(田中角栄みたいだ!)、直義はそういった慣習そのものが嫌いだった(三木武夫みたいだ!)。
後醍醐天皇という共通の相手と戦った時はあんなに仲良かったのに…理想は平和だが歴史は残酷だ。
南北朝時代の文化①バサラ
鎌倉時代の戦乱の物語『太平記』には従来の権威を気にせず自由気ままに傍若無人な振る舞いをする武士の姿が描かれる。
彼らは「バサラ」と呼ばれ、サンスクリット語の「バアジャラ(魔や鬼を打ち砕く力)」から派生し、日本では「派手」「贅沢」「遠慮しない」「放埒」という意味で使われるようになった。バサラはこの時代の流行であり、彼らは鉛でできた大きな刀を目立つように腰に差し、派手な奥義を見せびらかしながら、奇異なデザインの服や装身具を身に付け京都市中を闊歩した。
このバサラのファッションの中心にいたのが有力武士に仕え雑務を行った小者と武士の間にあたる中間(ちゅうげん)で、悪党や野伏が傭兵になったようなものであった。
幕府はバサラに対して分不相応な贅沢を厳しく取り締まるためバサラ禁止令を出したが、これには傭兵である彼らの自由な活動を抑止し、京都の治安維持を図る目的があった。とはいえ、当時の人々はバサラを支持し、彼らは新しい文化創造のニューカマーとして一般的に受け入れられるようになっていた。
南北朝時代の文化②寄合
バサラと同時にこの時代の文化を象徴するのが寄合で、人々は日々の鬱憤を晴らすため昼夜問わず舞い歌い、酒宴や茶会を開いていた。
バサラが主催するそれは特に派手で贅沢であり、幕府はこれも禁じた。その狙いは単なる倹約奨励だけではなく、寄合が政権転覆を目論む反体制派の密謀を行う場でもあったからである。実際、後醍醐天皇は豪勢な寄合の席で、鎌倉幕府倒幕の計画を練っていたのである。
寄合の文化として流行ったのが連歌であり、これはもともと平安時代に公家のあいだで嗜まれた上の句と下の句を別々の人間が対応して読む、高度に洗練された遊びであったが、この時代の寄合では貴賎、貧富、教養を問わず誰でも参加できる、京都風鎌倉風なんでもアリのゲームになった。そこでは誰もが歌の優劣を判断し差別や秩序のない自由な世界があった。
そして、連歌と共に寄合の文化の中心となったものが茶である。鎌倉時代には栄西によって抹茶が伝えられたが、寄合での茶は養生や学び、嗜みとは別の形で発展する。
それが闘茶であり、バサラ大名の寄合では味の違う4種類の茶を飲み比べ、正解者が景品を獲得するというギャンブルとして茶が消費されていたのである。ガキの使いでこんなのあったよね。
南北朝時代の文化③田楽と猿楽
田楽は、平安時代に成立した伝統芸能で、稲作で最も大変な田植えの際に、豊作を祈って楽器を演奏しながらリズミカルに踊りを踊ったのが起源である。
これを好んだのが鎌倉幕府最後の得宗北条高時で、京都の田楽座を鎌倉に読んで楽しんでいたという。この流行は各地に見られ、南北朝時代にも続いた。
四条橋着工セレモニーでは、大々的な田楽に観客が熱狂しすぎて将棋倒しになり100人以上の死者が出る大惨事となっている。
田楽と同時に、能につながる猿楽もこの時代に発展した。猿楽は神事の際に翁(宿神)の仮面をつけた演者が舞う芸能、翁猿楽をルーツとし田楽同様、座を持ち各地で公演をする集団もいた。
これらの座は自社の保護を受け、田楽と猿楽の座が芸を競う立会い能という催しもあった。
この勝負に勝ち上がるため大和猿楽の観阿弥は技を磨き、当時人気があったリズミカルな曲舞や、ライバルの田楽の良さも積極的に取り入れた。これが室町幕府将軍足利義満の目にとまり、猿楽は武家社会の上流文化を吸収、さらに芸を洗練させ、現在の能の原型になった。
日本史各論2覚え書き②
2015-02-20 17:00:00 (8 years ago)
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参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』
箱根・竹之下合戦
得宗北条高時を自殺に追い込んで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、同じ御家人の足利尊氏を討つという噂は、義貞と尊氏の対立を表面化させ、尊氏は義貞の守護職を解任し、上杉憲房に与え、逆に義貞は越後や播磨などで足利一族の荘園を奪って家人に与えた。
新田義貞は、後醍醐政権で足利氏よりもワンランク下の扱いをされたことにいたたまれなくなって鎌倉を捨てて上京、高い位を持つ足利尊氏をライバル視していたのである。
足利尊氏の弟、足利直義は、新田義貞を討伐するために各地で軍勢を集め、尊氏は義貞討伐を後醍醐に持ちかけるが、後醍醐はこれを無視して、逆に新田義貞を大将とする尊氏追討軍の派遣を決定する。
これを知った尊氏は「私は後醍醐天皇のそばにいて、その恩を忘れたことはない。あんまりだ」と政務を弟の直義に譲って、鎌倉の浄光明寺にこもってしまう。この予想外の敵前逃亡の理由として、尊氏は躁うつ病を患っていたんじゃないかという説もあるらしい。
なんにせよ、この時期の尊氏は、後醍醐天皇と直接対決はせずに、後醍醐政権のもとで鎌倉を拠点に東国支配をさせてもらえるんじゃないかという可能性や、朝敵にされた時の戦いの困難さを考えていて、今後の路線の選択にとっても悩んでいた。
しかし事態はどんどん進み、建武二年11月、尊氏追討軍が京都を出発。対する鎌倉からは尊氏派の高師泰を大将とする軍が西へ向かい、愛知県の三河矢作川で追討軍と戦うが、敗北、その後の合戦でも負け続ける。
後醍醐天皇は、足利尊氏、直義の官位を剥奪、足利兄弟ははっきりと朝敵にされてしまった。
翌月の12月、直義軍は大軍を率いて静岡市で戦うがこれも敗北。朝敵とされた足利兄弟の軍は正統性がなく結束がもろかったため、新田義貞側に寝返る者も多かった。
直義は箱根まで軍を後退させ、高師直、高師泰の兄弟とともに堀切(尾根を仕切る堀)を掘り、最後の防衛ラインを作った。
直義の敗戦の報告を受けた尊氏は、「弟がここで死んだら、自分は生きてても仕方がない。でもこれは弟を守るためであって、決して天皇に歯向かうこと(違勅)じゃないよ」とエクスキューズをつけながらも、ついに重い腰を上げる。鎌倉を発った尊氏は、箱根の直義とは合流せず、箱根の北を迂回して神奈川県足柄市へ向かう。
全軍で箱根の堀切で戦っても苦戦は間違いない、それなら箱根山を越えて新手で参戦したほうが敵の意表をつけるんじゃないか、と考えたわけだが、新田義貞はこれを読んでいたかのように、軍隊を箱根と足柄の二手に分ける。
激しい戦いになったが、次第に尊氏軍が優勢となり、静岡県三島市の戦いで大友貞載は降参、これを尊氏は許し、大友は尊氏側で大奮戦、結果、追討軍は敗退した。
この勝利は、敵軍も自軍に取り込んでしまうという尊氏の方針と、足利兄弟の密接な連携プレー――兄尊氏の弟直義への深い信頼が勝因だった。
京都攻防戦
尊氏は逃亡した新田義貞を追って、京都へ向かう。尊氏軍は京都の東と南に布陣を敷き、宇治でついに尊氏VS義貞の直接対決となる。
宇治の攻防戦は激しく、尊氏軍はなかなか義貞軍の防衛を突破できないでいたが、西国の援軍が京の西に到着すると、それを知った義貞軍は撤退、京都を東、南、西から攻められたことで後醍醐軍からは降参者が続出、京都はパニック状態になった。後醍醐による京都の平和はたった二年半しか続かなかった。地政学的に守るのが難しい都市が京都だったのである。
後醍醐天皇は比叡山に移り、京都に入った尊氏は、ここで、持明院統の誰かを天皇につけて後醍醐とは別の朝廷を作るアイディアを思いつく。
しかし守るのが難しい京都は尊氏にとっても同じだった。新田義貞と、後醍醐から援軍を要請された奥州の北畠顕家の大規模な連合軍が東から京都へ攻め入ると、血で血を洗う悲惨な戦い(糺河原の合戦ただすかわらのかっせん)が始まり、尊氏は京都を奪い返されてしまう。
二つの重要指令
京都から西へ逃げ、兵庫県に陣を敷いた尊氏は、ここで今後の戦況に大きな影響を及ぼす二つの重要な指令を出す。
一つ目がこの合戦の正当性を尊氏側も得るために、後醍醐天皇の対抗勢力、持明院統の担ぎ出しを要請したこと。京都の合戦に負けたのは尊氏らが朝敵にされたことで、人々から支持が得られなかったためだと考えたのだ。そこで鎌倉時代後期から続く朝廷内の王権の分裂を利用しようとした。
二つ目が元弘没収地返付令で、元弘の乱(鎌倉末期に後醍醐が起こしたクーデター)の際、後醍醐によって没収された北条氏の所領を鎌倉時代の状態に戻すという法令を出し、新たな味方を増やそうとした。この徳政令により、所領を失った多くの武士が尊氏のサイン(花押)を求めて集まり、尊氏がピンチの際は参戦してくれることになった。
尊氏は、兵庫県や大阪府で楠正成や新田義貞と戦うが、敗北し、2月12日には兵庫から船に乗り西の播磨室津に行くと、ここで室津の軍議という会議を開き、室町時代の守護制度の基礎となる西国の防衛と支配の基本方針を決定する。
さらに尊氏が広島に着いた時、持明院統の光厳上皇から院宣(上皇からの公式な書類)が下され、尊氏は正式に「私は朝敵ではない」と宣言することができるようになり、錦旗を掲げることを国々の大将に命じた。
多々良浜合戦
2月29日に九州の福岡県に尊氏が到着すると、尊氏側についた少弐貞経が、後醍醐側についた肥後国(熊本県)の菊池武敏に敗北し、自害したという知らせが入る。九州では既に戦争が始まっていた。
九州入りした尊氏は、宗像大社や香椎宮などの神社に陣を取り、尊氏が神に守られていることを大々的にアピール、香椎宮では神人(神社職員)が御宝としている杉の木を軍勢のシンボルとして尊氏軍に提供し、浄衣を着た見ず知らずの翁も将軍の鎧の袖に杉の葉を挿した。そのお礼に尊氏は翁に白い刀をプレゼントしたのだが、後に尊氏が「あの人誰?」と神人に尋ねると、「そんな人誰も知らない」と言うので、「神が化人を遣わしたんだ!」と解釈、軍勢は大いに奮い立ったらしい。
逆に言えばここまで凝った演出をしなければならないくらい、尊氏は追い詰められていた。『梅松論』によると尊氏軍はいろいろ合計しても1000騎あまり、対する菊池率いる追討軍は60000騎で、『太平記』では尊氏軍は半分くらいは馬にも乗れず、鎧も付けられなかったと書かれている。まともに考えて絶対勝てないが、少弐頼尚は、敵のほとんどは本来、味方として参戦するはずの者ばかりで、去就が定まらない「寝返り予備軍」、菊池自身は300騎にも達しないと冷静に分析する。
尊氏軍は、箱根・竹之下合戦を勝利に導いた尊氏、直義が交互に出撃する連携作戦を立て、まず弟の直義軍が出撃、建武三年(1336年)、3月2日、菊池軍と激突すると北風が砂塵を巻き上げ、風上の直義軍が優勢になる。
兄のためにここで犠牲になる覚悟をした直義が自分の右袖を尊氏に届けさせると、本陣を守っていた尊氏本体も出撃を開始、少弐頼尚の予想通り、合戦中には寝返りが相次ぎ大逆転、菊池軍は敗退、多々良浜合戦の決着はあっけなく付いてしまった。この戦いの結果、九州全域の武士は尊氏方についてしまっていた。
湊川合戦
多々良浜合戦で後醍醐方の菊池軍が逆転負けをすると、楠木正成は後醍醐天皇に「人々の心は既に尊氏側に傾いている。新田義貞を切り捨てて、尊氏と手打ちにしたほうがいいんじゃないか」と提案するが、却下される。その新田義貞は京都から、尊氏派の兵庫県の赤松氏を攻めるために出撃、赤松円心は義貞軍を白旗城に一ヶ月引きつけ、尊氏軍勢力拡大の時間を与えてくれる。
4月に博多を出た尊氏軍は、途中厳島神社や、尾道浄土寺に寄り道したりして(これもパフォーマンス)、ゆっくり東に進み、その道中で、中国・四国の武士も味方につけていった。
広島県の東、備後についた尊氏は、少弐頼尚のアドバイスを受け尊氏は船で海から、直義は陸から京都を攻めることにした。
対する楠木正成は、尊氏を一旦京都へ入れてから、京都を包囲するという、京都の地理的特質をついた作戦を後醍醐に提案するが、これもなぜか却下され、しかたなく正成は京都から出撃、直義軍に播磨の白旗城の包囲を解かれ後退した新田義貞と合流すると、正成・義貞は神戸市に陣を置く。
しかし、九州・中国・四国勢を集めた尊氏軍の大兵力には勝てず(正成・義貞軍は四国軍のような水軍を持っていなかった)、新田義貞は退路を断たれる前に京都へ逃走、残された楠木正成は湊川で奮戦するものの自害する。後醍醐天皇はまた比叡山に逃げ出した。
南北朝時代
再び京都に入った足利軍と、比叡山から降りて出撃する後醍醐軍のあいだで攻防戦が繰り広げられ、前回以上の戦火と略奪で京都は荒廃、両軍とも兵糧を止めるという戦略を取ったために深刻な飢餓状態となった。
後醍醐は形勢が不利になると、尊氏側と講和を持ちかける。その条件は、大覚寺統の後醍醐天皇と、持明院統の光厳天皇が和睦し、光厳天皇の弟を光明天皇として即位させ、光厳が院政を執り、その代わりに皇太子には後醍醐天皇の息子の成良を立てるというものだった。
これにより6月から光厳天皇の院政が始まり、8月に光明天皇が即位したが、この手打ちはあんなに後醍醐のために戦った新田義貞を切り捨てることにつながり、新田派は京都に帰還した後醍醐を取り囲み「聞いてないよ」と内部分裂を始めた。
10月に京都へ戻り、花山院に幽閉された後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し、約束通り息子の成良親王が皇太子に立てられる。
しかしその直後、まだ諦めてなかった後醍醐は花山院から脱出、京都の南、奈良県の吉野に入り、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だと暴露、足利討伐を全国に呼びかけた。
これにより日本に北朝と南朝という二つの王朝ができることになった。南北朝時代の開始である。
後醍醐が吉野を本拠地にした理由は、京都を南からのぞめるし、東の伊勢には北畠親房、西の河内には楠木一族がいて、味方が吉野の両翼を守ってくれるという戦略的意味があった。さらに紀伊半島の宗教勢力を味方に付け、その情報網も利用することができた。
後醍醐天皇の死
後醍醐は、京都攻防戦の際、尊氏を追い払ってくれた奥州の北畠顕家にもう一度上洛を要請するが、顕家はなかなか首を縦には降らなかった。すでに東国では、足利方と、南朝につく顕家方に分かれて戦争が始まっていたのだ。奥州の組織化を進めながらも、次第に追い詰められていた顕家は、とうとう京都への上洛を決意、鎌倉を攻略し、愛知県まで軍を進める。
足利尊氏は高師泰・師冬をリーダーとする大群を近江・美濃の国境に配置、東国足利軍も顕家を追撃した。岐阜県の青野原で顕家軍と追撃軍は対決、顕家軍は圧勝する。
この流れのまま京都に向かうと思われたが、顕家軍は、高師泰・師冬との戦闘を避けて南下して伊勢に行ってしまう。最大のチャンスを逃してしまった顕家は伊勢から、伊賀・大和、河内・和泉へ向かうが、各地での戦闘で戦力を次第に消耗させていき、とうとう和泉石津の合戦で北畠顕家は21歳の若さで戦死してしまう。
顕家は戦死直前に、後醍醐天皇に「中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣し、軍事や統治を任せるべき」「租税を三年は減免すべき」「みだりに官位を与えるべきではない」「朝令暮改をやめたほうがいい」などという意見書を出していた。この現場から出された厳しい批判を後醍醐は真摯に受け止めたという。
後醍醐の不運は更に続き、北畠顕家の死の2ヶ月後、自軍を助けようとした新田義貞までもが矢に当たって39歳で戦死。
突然2本柱を失ってしまった後醍醐は落胆するが、それでもまだ諦めず、自分の息子の義良・宗良と北畠新房(顕家の父)・顕信(顕家の弟)らの大群を奥州に派遣し、結城氏、伊達氏等の奥州の南朝勢力を合体させようと試みた。
それとともに懐良親王を征西大将軍に任命し九州に派遣(後醍醐はとにかく子どもが多かった)、顕家の意見を受け入れ北と南から反撃の狼煙をあげようとした。
しかし後醍醐の命を受けて出港した大船団は嵐に会い、義良と顕信を乗せた船は吉野に帰還、宗良の船は滋賀県の近江に漂着した。
親房の船は茨城県の常陸(ひたち)東条浦に漂着、そこに派遣された高師冬軍とのあいだで5年間にわたる合戦が繰り広げられた(常陸合戦)。
顕家の意見に基づく作戦は、戦争を地方まで拡大させ、長期的な消耗戦になっていった。
1339年、失意の中で後醍醐天皇は病で亡くなる(享年52歳)。後醍醐は死ぬ間際「骨は吉野のコケに埋めるとも、魂は常に京都を望まん」と述べ息絶えた。人々は後醍醐天皇の怨念を恐れ、足利尊氏は後醍醐の魂を鎮めるために京都に天龍寺を造営させた。
箱根・竹之下合戦
得宗北条高時を自殺に追い込んで鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、同じ御家人の足利尊氏を討つという噂は、義貞と尊氏の対立を表面化させ、尊氏は義貞の守護職を解任し、上杉憲房に与え、逆に義貞は越後や播磨などで足利一族の荘園を奪って家人に与えた。
新田義貞は、後醍醐政権で足利氏よりもワンランク下の扱いをされたことにいたたまれなくなって鎌倉を捨てて上京、高い位を持つ足利尊氏をライバル視していたのである。
足利尊氏の弟、足利直義は、新田義貞を討伐するために各地で軍勢を集め、尊氏は義貞討伐を後醍醐に持ちかけるが、後醍醐はこれを無視して、逆に新田義貞を大将とする尊氏追討軍の派遣を決定する。
これを知った尊氏は「私は後醍醐天皇のそばにいて、その恩を忘れたことはない。あんまりだ」と政務を弟の直義に譲って、鎌倉の浄光明寺にこもってしまう。この予想外の敵前逃亡の理由として、尊氏は躁うつ病を患っていたんじゃないかという説もあるらしい。
なんにせよ、この時期の尊氏は、後醍醐天皇と直接対決はせずに、後醍醐政権のもとで鎌倉を拠点に東国支配をさせてもらえるんじゃないかという可能性や、朝敵にされた時の戦いの困難さを考えていて、今後の路線の選択にとっても悩んでいた。
しかし事態はどんどん進み、建武二年11月、尊氏追討軍が京都を出発。対する鎌倉からは尊氏派の高師泰を大将とする軍が西へ向かい、愛知県の三河矢作川で追討軍と戦うが、敗北、その後の合戦でも負け続ける。
後醍醐天皇は、足利尊氏、直義の官位を剥奪、足利兄弟ははっきりと朝敵にされてしまった。
翌月の12月、直義軍は大軍を率いて静岡市で戦うがこれも敗北。朝敵とされた足利兄弟の軍は正統性がなく結束がもろかったため、新田義貞側に寝返る者も多かった。
直義は箱根まで軍を後退させ、高師直、高師泰の兄弟とともに堀切(尾根を仕切る堀)を掘り、最後の防衛ラインを作った。
直義の敗戦の報告を受けた尊氏は、「弟がここで死んだら、自分は生きてても仕方がない。でもこれは弟を守るためであって、決して天皇に歯向かうこと(違勅)じゃないよ」とエクスキューズをつけながらも、ついに重い腰を上げる。鎌倉を発った尊氏は、箱根の直義とは合流せず、箱根の北を迂回して神奈川県足柄市へ向かう。
全軍で箱根の堀切で戦っても苦戦は間違いない、それなら箱根山を越えて新手で参戦したほうが敵の意表をつけるんじゃないか、と考えたわけだが、新田義貞はこれを読んでいたかのように、軍隊を箱根と足柄の二手に分ける。
激しい戦いになったが、次第に尊氏軍が優勢となり、静岡県三島市の戦いで大友貞載は降参、これを尊氏は許し、大友は尊氏側で大奮戦、結果、追討軍は敗退した。
この勝利は、敵軍も自軍に取り込んでしまうという尊氏の方針と、足利兄弟の密接な連携プレー――兄尊氏の弟直義への深い信頼が勝因だった。
京都攻防戦
尊氏は逃亡した新田義貞を追って、京都へ向かう。尊氏軍は京都の東と南に布陣を敷き、宇治でついに尊氏VS義貞の直接対決となる。
宇治の攻防戦は激しく、尊氏軍はなかなか義貞軍の防衛を突破できないでいたが、西国の援軍が京の西に到着すると、それを知った義貞軍は撤退、京都を東、南、西から攻められたことで後醍醐軍からは降参者が続出、京都はパニック状態になった。後醍醐による京都の平和はたった二年半しか続かなかった。地政学的に守るのが難しい都市が京都だったのである。
後醍醐天皇は比叡山に移り、京都に入った尊氏は、ここで、持明院統の誰かを天皇につけて後醍醐とは別の朝廷を作るアイディアを思いつく。
しかし守るのが難しい京都は尊氏にとっても同じだった。新田義貞と、後醍醐から援軍を要請された奥州の北畠顕家の大規模な連合軍が東から京都へ攻め入ると、血で血を洗う悲惨な戦い(糺河原の合戦ただすかわらのかっせん)が始まり、尊氏は京都を奪い返されてしまう。
二つの重要指令
京都から西へ逃げ、兵庫県に陣を敷いた尊氏は、ここで今後の戦況に大きな影響を及ぼす二つの重要な指令を出す。
一つ目がこの合戦の正当性を尊氏側も得るために、後醍醐天皇の対抗勢力、持明院統の担ぎ出しを要請したこと。京都の合戦に負けたのは尊氏らが朝敵にされたことで、人々から支持が得られなかったためだと考えたのだ。そこで鎌倉時代後期から続く朝廷内の王権の分裂を利用しようとした。
二つ目が元弘没収地返付令で、元弘の乱(鎌倉末期に後醍醐が起こしたクーデター)の際、後醍醐によって没収された北条氏の所領を鎌倉時代の状態に戻すという法令を出し、新たな味方を増やそうとした。この徳政令により、所領を失った多くの武士が尊氏のサイン(花押)を求めて集まり、尊氏がピンチの際は参戦してくれることになった。
尊氏は、兵庫県や大阪府で楠正成や新田義貞と戦うが、敗北し、2月12日には兵庫から船に乗り西の播磨室津に行くと、ここで室津の軍議という会議を開き、室町時代の守護制度の基礎となる西国の防衛と支配の基本方針を決定する。
さらに尊氏が広島に着いた時、持明院統の光厳上皇から院宣(上皇からの公式な書類)が下され、尊氏は正式に「私は朝敵ではない」と宣言することができるようになり、錦旗を掲げることを国々の大将に命じた。
多々良浜合戦
2月29日に九州の福岡県に尊氏が到着すると、尊氏側についた少弐貞経が、後醍醐側についた肥後国(熊本県)の菊池武敏に敗北し、自害したという知らせが入る。九州では既に戦争が始まっていた。
九州入りした尊氏は、宗像大社や香椎宮などの神社に陣を取り、尊氏が神に守られていることを大々的にアピール、香椎宮では神人(神社職員)が御宝としている杉の木を軍勢のシンボルとして尊氏軍に提供し、浄衣を着た見ず知らずの翁も将軍の鎧の袖に杉の葉を挿した。そのお礼に尊氏は翁に白い刀をプレゼントしたのだが、後に尊氏が「あの人誰?」と神人に尋ねると、「そんな人誰も知らない」と言うので、「神が化人を遣わしたんだ!」と解釈、軍勢は大いに奮い立ったらしい。
逆に言えばここまで凝った演出をしなければならないくらい、尊氏は追い詰められていた。『梅松論』によると尊氏軍はいろいろ合計しても1000騎あまり、対する菊池率いる追討軍は60000騎で、『太平記』では尊氏軍は半分くらいは馬にも乗れず、鎧も付けられなかったと書かれている。まともに考えて絶対勝てないが、少弐頼尚は、敵のほとんどは本来、味方として参戦するはずの者ばかりで、去就が定まらない「寝返り予備軍」、菊池自身は300騎にも達しないと冷静に分析する。
尊氏軍は、箱根・竹之下合戦を勝利に導いた尊氏、直義が交互に出撃する連携作戦を立て、まず弟の直義軍が出撃、建武三年(1336年)、3月2日、菊池軍と激突すると北風が砂塵を巻き上げ、風上の直義軍が優勢になる。
兄のためにここで犠牲になる覚悟をした直義が自分の右袖を尊氏に届けさせると、本陣を守っていた尊氏本体も出撃を開始、少弐頼尚の予想通り、合戦中には寝返りが相次ぎ大逆転、菊池軍は敗退、多々良浜合戦の決着はあっけなく付いてしまった。この戦いの結果、九州全域の武士は尊氏方についてしまっていた。
湊川合戦
多々良浜合戦で後醍醐方の菊池軍が逆転負けをすると、楠木正成は後醍醐天皇に「人々の心は既に尊氏側に傾いている。新田義貞を切り捨てて、尊氏と手打ちにしたほうがいいんじゃないか」と提案するが、却下される。その新田義貞は京都から、尊氏派の兵庫県の赤松氏を攻めるために出撃、赤松円心は義貞軍を白旗城に一ヶ月引きつけ、尊氏軍勢力拡大の時間を与えてくれる。
4月に博多を出た尊氏軍は、途中厳島神社や、尾道浄土寺に寄り道したりして(これもパフォーマンス)、ゆっくり東に進み、その道中で、中国・四国の武士も味方につけていった。
広島県の東、備後についた尊氏は、少弐頼尚のアドバイスを受け尊氏は船で海から、直義は陸から京都を攻めることにした。
対する楠木正成は、尊氏を一旦京都へ入れてから、京都を包囲するという、京都の地理的特質をついた作戦を後醍醐に提案するが、これもなぜか却下され、しかたなく正成は京都から出撃、直義軍に播磨の白旗城の包囲を解かれ後退した新田義貞と合流すると、正成・義貞は神戸市に陣を置く。
しかし、九州・中国・四国勢を集めた尊氏軍の大兵力には勝てず(正成・義貞軍は四国軍のような水軍を持っていなかった)、新田義貞は退路を断たれる前に京都へ逃走、残された楠木正成は湊川で奮戦するものの自害する。後醍醐天皇はまた比叡山に逃げ出した。
南北朝時代
再び京都に入った足利軍と、比叡山から降りて出撃する後醍醐軍のあいだで攻防戦が繰り広げられ、前回以上の戦火と略奪で京都は荒廃、両軍とも兵糧を止めるという戦略を取ったために深刻な飢餓状態となった。
後醍醐は形勢が不利になると、尊氏側と講和を持ちかける。その条件は、大覚寺統の後醍醐天皇と、持明院統の光厳天皇が和睦し、光厳天皇の弟を光明天皇として即位させ、光厳が院政を執り、その代わりに皇太子には後醍醐天皇の息子の成良を立てるというものだった。
これにより6月から光厳天皇の院政が始まり、8月に光明天皇が即位したが、この手打ちはあんなに後醍醐のために戦った新田義貞を切り捨てることにつながり、新田派は京都に帰還した後醍醐を取り囲み「聞いてないよ」と内部分裂を始めた。
10月に京都へ戻り、花山院に幽閉された後醍醐は光明天皇に三種の神器を渡し、約束通り息子の成良親王が皇太子に立てられる。
しかしその直後、まだ諦めてなかった後醍醐は花山院から脱出、京都の南、奈良県の吉野に入り、光明天皇に渡した三種の神器は偽物だと暴露、足利討伐を全国に呼びかけた。
これにより日本に北朝と南朝という二つの王朝ができることになった。南北朝時代の開始である。
後醍醐が吉野を本拠地にした理由は、京都を南からのぞめるし、東の伊勢には北畠親房、西の河内には楠木一族がいて、味方が吉野の両翼を守ってくれるという戦略的意味があった。さらに紀伊半島の宗教勢力を味方に付け、その情報網も利用することができた。
後醍醐天皇の死
後醍醐は、京都攻防戦の際、尊氏を追い払ってくれた奥州の北畠顕家にもう一度上洛を要請するが、顕家はなかなか首を縦には降らなかった。すでに東国では、足利方と、南朝につく顕家方に分かれて戦争が始まっていたのだ。奥州の組織化を進めながらも、次第に追い詰められていた顕家は、とうとう京都への上洛を決意、鎌倉を攻略し、愛知県まで軍を進める。
足利尊氏は高師泰・師冬をリーダーとする大群を近江・美濃の国境に配置、東国足利軍も顕家を追撃した。岐阜県の青野原で顕家軍と追撃軍は対決、顕家軍は圧勝する。
この流れのまま京都に向かうと思われたが、顕家軍は、高師泰・師冬との戦闘を避けて南下して伊勢に行ってしまう。最大のチャンスを逃してしまった顕家は伊勢から、伊賀・大和、河内・和泉へ向かうが、各地での戦闘で戦力を次第に消耗させていき、とうとう和泉石津の合戦で北畠顕家は21歳の若さで戦死してしまう。
顕家は戦死直前に、後醍醐天皇に「中央集権をやめて地方に軍事指揮官を派遣し、軍事や統治を任せるべき」「租税を三年は減免すべき」「みだりに官位を与えるべきではない」「朝令暮改をやめたほうがいい」などという意見書を出していた。この現場から出された厳しい批判を後醍醐は真摯に受け止めたという。
後醍醐の不運は更に続き、北畠顕家の死の2ヶ月後、自軍を助けようとした新田義貞までもが矢に当たって39歳で戦死。
突然2本柱を失ってしまった後醍醐は落胆するが、それでもまだ諦めず、自分の息子の義良・宗良と北畠新房(顕家の父)・顕信(顕家の弟)らの大群を奥州に派遣し、結城氏、伊達氏等の奥州の南朝勢力を合体させようと試みた。
それとともに懐良親王を征西大将軍に任命し九州に派遣(後醍醐はとにかく子どもが多かった)、顕家の意見を受け入れ北と南から反撃の狼煙をあげようとした。
しかし後醍醐の命を受けて出港した大船団は嵐に会い、義良と顕信を乗せた船は吉野に帰還、宗良の船は滋賀県の近江に漂着した。
親房の船は茨城県の常陸(ひたち)東条浦に漂着、そこに派遣された高師冬軍とのあいだで5年間にわたる合戦が繰り広げられた(常陸合戦)。
顕家の意見に基づく作戦は、戦争を地方まで拡大させ、長期的な消耗戦になっていった。
1339年、失意の中で後醍醐天皇は病で亡くなる(享年52歳)。後醍醐は死ぬ間際「骨は吉野のコケに埋めるとも、魂は常に京都を望まん」と述べ息絶えた。人々は後醍醐天皇の怨念を恐れ、足利尊氏は後醍醐の魂を鎮めるために京都に天龍寺を造営させた。
日本史各論2覚え書き①
2015-02-19 00:22:03 (8 years ago)
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カテゴリタグ:
- 歴史
参考文献:小林一岳著『元寇と南北朝の動乱』
徳治政治
徳政とは人々を安心させる徳のある王による政治のことであり、本来は古代中国思想の天人相関説と易姓革命説によって導き出された政治思想であった。
天人相関説(災異説)とは天と地上に生きる人には関係があるという考え方で、天に意思(天命)があると考えた孔子の思想に始まり、前漢の儒学者董仲舒(とうちゅうじょ)によって完成する。
天人相関説は地震や彗星の出現などの天変地異は君主の不徳に原因があるという説で、君主が過ちを起こすと天は小さな災いである災を起こし、さらにそれを無視すると大きな禍である異を起こすと考えられたため、君主は仁政(思いやりのある政治)を行わなければならないとされた。
易姓革命説とは「姓を易(か)え命を革む」という意味で、不徳の政治を行った王朝はそれ故に滅び、新たな王朝(姓が異なる天子)が育つという思想である。
この思想は孔子の段階では認められず、君主の悪徳が王家を滅ぼすという戦国時代の墨子を経て、天の意志は民の目、民の徳によって示されると考えた同時代の孟子によって完成する。したがって易姓革命説は君主権力を相対化する民本主義思想といえるものであった。
武家徳政と元寇
日本において徳政は、奈良時代以降、社会的・経済的弱者を救済するような善政を指したが、その徳政は中国のように王統そのものをドラスティックに変革するようなものではなく、中身を骨抜きにされたようなものだった。日本の徳政として平安期に王権による公家新制が挙げられる。
これは荘園整理令や禁酒令、殺生禁断令など多様な内容を含んだが、鎌倉幕府成立後は幕府も徳政を行うようになった(武家徳政)。
中世における徳政で最も重要なものは、裁判制度の整備(訴訟興行)と、仏神に対する保護(仏神事興行=寺社領荘園の保護)だった。
この仏神事興行がモンゴル戦争において大きな問題に発展する。モンゴルとの戦争では国家的に大規模な祈祷が行われ、二度の元寇でモンゴル軍を撃退した暴風雨は「神風」として人々に強く捉えられた。そのためモンゴルを撃退した仏神は当然武士に恩賞を要求、これは各地の寺社勢力にとっては自らの権益を復活・拡大する絶好の機会であった。
文永の役以降、祈祷命令は朝廷に代わり幕府が出していたので、寺社の恩賞要求は幕府へ向かい、各地の大寺社による恩賞要求が相次いだ。
安達泰盛の弘安徳政
北条得宗家と密接な繋がりが有り人格者として知られる安達泰盛は、この問題を含めたモンゴル戦争の戦後処理の責任者だった。泰盛は弘安7年から政治改革を矢継ぎ早に行い(弘安徳政)、その一環として神領興行法を実施、一般の人々が購入した九州の主要な神社の領地についての返還を求めた。
この法律は同時に伊勢神宮の神領についても出され、各地の神社にとって失われた所領を返してくれる法律と認識された。
この発令はどの神社が返還の対象となるのかという神社間の相互対立を巻き起こすと共に、社地を所有していた御家人や一般人にも大きな影響を与え、実際の支配から排除された集団から悪党が出現していくきかっけとなった。
得宗専制政治
得宗とは執権北条氏の家系を指すが、そもそもの由来は北条義時の死後に贈った称号「徳宗」であり、徳のある人物という意味である。よって得宗とは徳政を行う政治的主体としての意味を持っていた。
しかし執権政治が執権を中心にした評定衆の合議制で、御家人の力が強かったのに対し、得宗政治では、執権は北条家の家督(得宗)に限定、御内人(北条家に仕える武士)を中心にした寄合衆が、非公式に少数で政治を行っていた。
鎌倉幕府は将軍独裁政治→執権政治→徳宗専制政治の3段階に分けられるが、得宗専制時代の始まりは弘安徳政の開始からと見るか、終焉からと見るかは意見が分かれている。
なんにせよ将軍権力を強化した泰盛の急進的な改革は、幕府内部に対立をもたらし結局失敗に終わるが、保守的な反対勢力であった得宗御内人たちも、得宗を中心とする強力な幕府を作ろうとする上では共通点があった。
基本的には、御内人よりも御家人の方が、将軍との関係から言えば直接的な主従関係を持つが、得宗の権力が強化されるとともに幕府内での御内人の勢力も増大した。
御内人は、全国の北条氏領を管理していたため大きな経済力を持ち、御家人たちを統制し、鎌倉の警察を担当する侍所のリーダーも御内人が就任するようになっていた。
有力御内人の中で強力な権力を持っていたのが平頼綱で、安達泰盛の最大の対抗勢力だった。
弘安8年、頼綱は泰盛の息子が将軍位を狙ったとして兵を挙げ、泰盛派を滅ぼした(霜月騒動)。その後、頼綱は幕政の中心に座り、弘安徳政(特に神領興行法)を軌道修正した。
その後、永仁元年に鎌倉で大地震が起こると、成長して自立した得宗北条貞時は頼綱を倒し、貞時自身による得宗専制の時代が始まった。
貞時は裁判の最終決定を自分の直裁とする専制的な体制を作り出し、本来神仏を対象にした徳政令を人の所領にまで拡大、生活の苦しい御家人を一方的に擁護した、永仁の徳政令を発布。非御家人が買い取った御家人の土地は、たとえ何年前の契約でも無償で変換しなければならず(御家人どうしの場合は20年未満の場合に限り無償返還)、借金に関する訴訟は、これを一切受け付けないという、このめちゃくちゃな法律は、かえって御家人の生活を苦しめ(誰も御家人に金を貸す者がいなくなった)、名主百姓も巻き込む暴力的な紛争にまで発展してしまう。
建武新政
鎌倉時代中期の朝廷では皇位継承や既得権益の相続をめぐって持明院統と大覚寺統が激しく対立をしていた。
幕府はこの対立を調停しようと、朝廷の後継者選びに介入するようになったが、幕府内部でも永仁の徳政令による社会的混乱から徳宗専制に対する御家人の反発が強まり、朝廷や幕府に従わない悪党も出現、幕府の力は衰えた。
大覚寺統の後醍醐天皇は、引退した天皇による院政をやめさせ、摂政や関白、征夷大将軍もいらない、天皇自らが政治を行う天皇親政を目指し倒幕を図ったが、失敗し隠岐の島に流される。
しかし、後醍醐の息子、護良(もりなが)が、全国の倒幕派の武士にクーデターを呼びかけたことで、大阪の悪党楠木正成が挙兵。これを鎮圧に当たるはずだった御家人足利尊氏も幕府を裏切り六波羅探題を襲撃、同じく御家人の新田義貞は鎌倉を攻め、1333年鎌倉幕府は滅んだ。
隠岐を脱出していた後醍醐はさっそく、平安時代を手本とした天皇親政を理想とする建武新政を始めた。建武新政は鎌倉後期の公武徳政の延長線上にあったが、戦争の直後だったため鎌倉後期のそれよりもはるかに切実で緊張した内容であった。
まずは司法制度改革である。所領問題解決のため、後醍醐政権によって新設された雑訴決断所は、寺社ではなく、主に武士の訴えを担当したが、新たな裁判制度と判決(牒)は旧来の判決(論旨)とどちらが有効なのかという正当性の問題を生んだ。
また、後醍醐政権はこれまで家柄によって役職が独占されていた中央官制の改革にも乗り出す。後醍醐は強い人事権によって家柄にとらわれない新たな人材を任命し、役職と家を切り離そうとした。さらに官職と官位の対応関係も切り離し(上級貴族を従来より下のポストに就けるなど)、各執行機関を後醍醐が個別に直接掌握できるようにした。
これらの改革は極めてラディカルで(中国の君主独裁制っぽい)、人事をめぐって朝廷内部に大きな不満を読んでしまう。
後醍醐は徳政令も出したが、鎌倉後期の永仁徳政令と比較し、その救済対象が武士から庶民に拡大され、地域社会にも適用された点で異なった。この政策は15世紀からの徳政一揆へとつながっていった。
また、大内裏造営のための新たな財源として全国の地頭武士に課した税制は、新たな火種を地域社会にもたらし、飢餓や戦争で疲弊した人々をさらに苦しめることになってしまった。先にすべきは荒廃した京都の復興と被災した人々の救済だったのだ。
農民や、荘官、悪党、武士、公家と多くの階層の期待を背負った後醍醐による政権交代は、その期待に応えることができなかったのである。
建武政権の崩壊
旧来の既得権に大胆にメスを入れた後醍醐天皇の改革は、政権内部に激しい対立を巻き起こす。
まず表面化したのが、政権内部で権力を拡大させつつある足利尊氏と、自らの軍によって実権を握ろうとしたが、それを否定された(征夷大将軍を解任された)護良の対立である。
与えられたポストに納得がいかなかった護良は足利尊氏に不満をぶつけ、建武元年(1334年)6月、護良による尊氏打倒の噂が京都中に流れた。
尊氏は兵を集めて自宅の警護を固め、護良の父である後醍醐に責任を問いただすが、後醍醐は息子の勝手な行動だと弁明、クーデターを未遂した護良は捕縛された。
護良の容疑は、後醍醐天皇の帝位を奪おうと謀反を企てたというものだったが、この背景にはほかならぬ後醍醐天皇自身がいて、後醍醐が勢力を拡大する尊氏に対抗するために護良をけしかけたのではないかという疑惑もあった。つまり、後醍醐は息子の護良をバックアップしながら、自分の立場が悪くなると、その息子を切り捨ててしまったのである。結局、護良は宿敵尊氏のもとに預けられ、その身柄は鎌倉に護送された。
この事件によって、尊氏は最大のライバルを退け、後醍醐に対しても優位性を得ることができた。
後醍醐政権発足後、各地で中小規模の反乱が起きていた。いずれも鎌倉時代後期に北条氏が守護職を持っていた国で起こり、北条一族や北条派の反乱であった。
さらに、建武二年には大規模な反乱計画が暴露される。承久の乱以降、幕府、北条氏と強い結び付きを持っていた西園寺公宗(さいおんじきんむね)による後醍醐天皇暗殺計画である。
後醍醐政権発足後、冷遇されていた公宗は、最後の得宗北条高時の弟、北条時興と、持明院統の後伏見上皇を担ぎ出して反乱を企てるが、公宗の弟の密告によって失敗。
しかし、旧北条氏勢力と、一部の公家が手を組み後醍醐政権に反旗をひるがえした、この大事件は、後醍醐政権の崩壊と、その後の約60年にわたる南北朝戦争につながるきっかけとなった。
中先代の乱
西園寺公宗の反乱は、全国で同時に実行されるはずであったが、蜂起前に反乱計画が発覚してしまったため、信濃(長野県)で反乱を起こす予定だった北条高時の息子、北条時行は仕方がないので単独で蜂起した。これが中先代の乱である。この反乱から南北朝戦争の火蓋は切って落とされた。
時行軍は信濃から鎌倉を目指し、足利軍を次々に撃破。ついに足利尊氏の弟の足利直義が鎌倉から出撃し、東京都町田市で時行軍と戦うが大敗、鎌倉に戻ってきた。
直義は、鎌倉に監禁中の前征夷大将軍(すぐクビになったけど)護良親王と、北条時行がタッグを組むことを恐れ(鎌倉幕府を復活させちゃう可能性があったから)、護良親王を殺害すると、さらに西の愛知県へ進み、京都にいる兄、足利尊氏に援軍を要請する。
尊氏は弟を助けるために、後醍醐天皇に鎌倉へ向かう許可と、征夷大将軍への任官を申請したが、断られ、結局後醍醐の許可のないまま京都を出発する。
この時、尊氏に喜んで従った人々は数え切れないほどだったという。後醍醐天皇は、それが気に入らなかったのか、尊氏ではなく、自分の息子の成良親王を征夷大将軍に任命。後醍醐と尊氏の仲はさらに険悪なものになった。
三河(愛知県岡崎市、安土市辺り)で弟直義と合流した尊氏は、静岡県遠江国(とおとうみのくに)橋本・佐夜中山、神奈川県箱根、山梨県相模川など17箇所の戦いに勝ち、鎌倉を奪還。時行は逃亡し、彼の反乱に参戦した諏訪頼重は自害した。結局、時行の鎌倉占領は一ヶ月にも満たなかった。
中先代の乱で勝利した足利尊氏は鎌倉に居を構えて、戦いに協力してくれた人たちに勝手に恩賞を与え始めた。後醍醐天皇は尊氏の功績を認め、尊氏を昇進させると共に(従二位)、鎌倉に使いを出し、「恩賞とかは京都でやるから戻っておいで」と尊氏を呼び戻そうとしたが、尊氏はそれを断り鎌倉で恩賞を与え続けた。
尊氏は征夷大将軍を名乗り、後醍醐とは独自に主従関係を行使し始めたのである。これは明らかに源頼朝を意識していた。
徳治政治
徳政とは人々を安心させる徳のある王による政治のことであり、本来は古代中国思想の天人相関説と易姓革命説によって導き出された政治思想であった。
天人相関説(災異説)とは天と地上に生きる人には関係があるという考え方で、天に意思(天命)があると考えた孔子の思想に始まり、前漢の儒学者董仲舒(とうちゅうじょ)によって完成する。
天人相関説は地震や彗星の出現などの天変地異は君主の不徳に原因があるという説で、君主が過ちを起こすと天は小さな災いである災を起こし、さらにそれを無視すると大きな禍である異を起こすと考えられたため、君主は仁政(思いやりのある政治)を行わなければならないとされた。
易姓革命説とは「姓を易(か)え命を革む」という意味で、不徳の政治を行った王朝はそれ故に滅び、新たな王朝(姓が異なる天子)が育つという思想である。
この思想は孔子の段階では認められず、君主の悪徳が王家を滅ぼすという戦国時代の墨子を経て、天の意志は民の目、民の徳によって示されると考えた同時代の孟子によって完成する。したがって易姓革命説は君主権力を相対化する民本主義思想といえるものであった。
武家徳政と元寇
日本において徳政は、奈良時代以降、社会的・経済的弱者を救済するような善政を指したが、その徳政は中国のように王統そのものをドラスティックに変革するようなものではなく、中身を骨抜きにされたようなものだった。日本の徳政として平安期に王権による公家新制が挙げられる。
これは荘園整理令や禁酒令、殺生禁断令など多様な内容を含んだが、鎌倉幕府成立後は幕府も徳政を行うようになった(武家徳政)。
中世における徳政で最も重要なものは、裁判制度の整備(訴訟興行)と、仏神に対する保護(仏神事興行=寺社領荘園の保護)だった。
この仏神事興行がモンゴル戦争において大きな問題に発展する。モンゴルとの戦争では国家的に大規模な祈祷が行われ、二度の元寇でモンゴル軍を撃退した暴風雨は「神風」として人々に強く捉えられた。そのためモンゴルを撃退した仏神は当然武士に恩賞を要求、これは各地の寺社勢力にとっては自らの権益を復活・拡大する絶好の機会であった。
文永の役以降、祈祷命令は朝廷に代わり幕府が出していたので、寺社の恩賞要求は幕府へ向かい、各地の大寺社による恩賞要求が相次いだ。
安達泰盛の弘安徳政
北条得宗家と密接な繋がりが有り人格者として知られる安達泰盛は、この問題を含めたモンゴル戦争の戦後処理の責任者だった。泰盛は弘安7年から政治改革を矢継ぎ早に行い(弘安徳政)、その一環として神領興行法を実施、一般の人々が購入した九州の主要な神社の領地についての返還を求めた。
この法律は同時に伊勢神宮の神領についても出され、各地の神社にとって失われた所領を返してくれる法律と認識された。
この発令はどの神社が返還の対象となるのかという神社間の相互対立を巻き起こすと共に、社地を所有していた御家人や一般人にも大きな影響を与え、実際の支配から排除された集団から悪党が出現していくきかっけとなった。
得宗専制政治
得宗とは執権北条氏の家系を指すが、そもそもの由来は北条義時の死後に贈った称号「徳宗」であり、徳のある人物という意味である。よって得宗とは徳政を行う政治的主体としての意味を持っていた。
しかし執権政治が執権を中心にした評定衆の合議制で、御家人の力が強かったのに対し、得宗政治では、執権は北条家の家督(得宗)に限定、御内人(北条家に仕える武士)を中心にした寄合衆が、非公式に少数で政治を行っていた。
鎌倉幕府は将軍独裁政治→執権政治→徳宗専制政治の3段階に分けられるが、得宗専制時代の始まりは弘安徳政の開始からと見るか、終焉からと見るかは意見が分かれている。
なんにせよ将軍権力を強化した泰盛の急進的な改革は、幕府内部に対立をもたらし結局失敗に終わるが、保守的な反対勢力であった得宗御内人たちも、得宗を中心とする強力な幕府を作ろうとする上では共通点があった。
基本的には、御内人よりも御家人の方が、将軍との関係から言えば直接的な主従関係を持つが、得宗の権力が強化されるとともに幕府内での御内人の勢力も増大した。
御内人は、全国の北条氏領を管理していたため大きな経済力を持ち、御家人たちを統制し、鎌倉の警察を担当する侍所のリーダーも御内人が就任するようになっていた。
有力御内人の中で強力な権力を持っていたのが平頼綱で、安達泰盛の最大の対抗勢力だった。
弘安8年、頼綱は泰盛の息子が将軍位を狙ったとして兵を挙げ、泰盛派を滅ぼした(霜月騒動)。その後、頼綱は幕政の中心に座り、弘安徳政(特に神領興行法)を軌道修正した。
その後、永仁元年に鎌倉で大地震が起こると、成長して自立した得宗北条貞時は頼綱を倒し、貞時自身による得宗専制の時代が始まった。
貞時は裁判の最終決定を自分の直裁とする専制的な体制を作り出し、本来神仏を対象にした徳政令を人の所領にまで拡大、生活の苦しい御家人を一方的に擁護した、永仁の徳政令を発布。非御家人が買い取った御家人の土地は、たとえ何年前の契約でも無償で変換しなければならず(御家人どうしの場合は20年未満の場合に限り無償返還)、借金に関する訴訟は、これを一切受け付けないという、このめちゃくちゃな法律は、かえって御家人の生活を苦しめ(誰も御家人に金を貸す者がいなくなった)、名主百姓も巻き込む暴力的な紛争にまで発展してしまう。
建武新政
鎌倉時代中期の朝廷では皇位継承や既得権益の相続をめぐって持明院統と大覚寺統が激しく対立をしていた。
幕府はこの対立を調停しようと、朝廷の後継者選びに介入するようになったが、幕府内部でも永仁の徳政令による社会的混乱から徳宗専制に対する御家人の反発が強まり、朝廷や幕府に従わない悪党も出現、幕府の力は衰えた。
大覚寺統の後醍醐天皇は、引退した天皇による院政をやめさせ、摂政や関白、征夷大将軍もいらない、天皇自らが政治を行う天皇親政を目指し倒幕を図ったが、失敗し隠岐の島に流される。
しかし、後醍醐の息子、護良(もりなが)が、全国の倒幕派の武士にクーデターを呼びかけたことで、大阪の悪党楠木正成が挙兵。これを鎮圧に当たるはずだった御家人足利尊氏も幕府を裏切り六波羅探題を襲撃、同じく御家人の新田義貞は鎌倉を攻め、1333年鎌倉幕府は滅んだ。
隠岐を脱出していた後醍醐はさっそく、平安時代を手本とした天皇親政を理想とする建武新政を始めた。建武新政は鎌倉後期の公武徳政の延長線上にあったが、戦争の直後だったため鎌倉後期のそれよりもはるかに切実で緊張した内容であった。
まずは司法制度改革である。所領問題解決のため、後醍醐政権によって新設された雑訴決断所は、寺社ではなく、主に武士の訴えを担当したが、新たな裁判制度と判決(牒)は旧来の判決(論旨)とどちらが有効なのかという正当性の問題を生んだ。
また、後醍醐政権はこれまで家柄によって役職が独占されていた中央官制の改革にも乗り出す。後醍醐は強い人事権によって家柄にとらわれない新たな人材を任命し、役職と家を切り離そうとした。さらに官職と官位の対応関係も切り離し(上級貴族を従来より下のポストに就けるなど)、各執行機関を後醍醐が個別に直接掌握できるようにした。
これらの改革は極めてラディカルで(中国の君主独裁制っぽい)、人事をめぐって朝廷内部に大きな不満を読んでしまう。
後醍醐は徳政令も出したが、鎌倉後期の永仁徳政令と比較し、その救済対象が武士から庶民に拡大され、地域社会にも適用された点で異なった。この政策は15世紀からの徳政一揆へとつながっていった。
また、大内裏造営のための新たな財源として全国の地頭武士に課した税制は、新たな火種を地域社会にもたらし、飢餓や戦争で疲弊した人々をさらに苦しめることになってしまった。先にすべきは荒廃した京都の復興と被災した人々の救済だったのだ。
農民や、荘官、悪党、武士、公家と多くの階層の期待を背負った後醍醐による政権交代は、その期待に応えることができなかったのである。
建武政権の崩壊
旧来の既得権に大胆にメスを入れた後醍醐天皇の改革は、政権内部に激しい対立を巻き起こす。
まず表面化したのが、政権内部で権力を拡大させつつある足利尊氏と、自らの軍によって実権を握ろうとしたが、それを否定された(征夷大将軍を解任された)護良の対立である。
与えられたポストに納得がいかなかった護良は足利尊氏に不満をぶつけ、建武元年(1334年)6月、護良による尊氏打倒の噂が京都中に流れた。
尊氏は兵を集めて自宅の警護を固め、護良の父である後醍醐に責任を問いただすが、後醍醐は息子の勝手な行動だと弁明、クーデターを未遂した護良は捕縛された。
護良の容疑は、後醍醐天皇の帝位を奪おうと謀反を企てたというものだったが、この背景にはほかならぬ後醍醐天皇自身がいて、後醍醐が勢力を拡大する尊氏に対抗するために護良をけしかけたのではないかという疑惑もあった。つまり、後醍醐は息子の護良をバックアップしながら、自分の立場が悪くなると、その息子を切り捨ててしまったのである。結局、護良は宿敵尊氏のもとに預けられ、その身柄は鎌倉に護送された。
この事件によって、尊氏は最大のライバルを退け、後醍醐に対しても優位性を得ることができた。
後醍醐政権発足後、各地で中小規模の反乱が起きていた。いずれも鎌倉時代後期に北条氏が守護職を持っていた国で起こり、北条一族や北条派の反乱であった。
さらに、建武二年には大規模な反乱計画が暴露される。承久の乱以降、幕府、北条氏と強い結び付きを持っていた西園寺公宗(さいおんじきんむね)による後醍醐天皇暗殺計画である。
後醍醐政権発足後、冷遇されていた公宗は、最後の得宗北条高時の弟、北条時興と、持明院統の後伏見上皇を担ぎ出して反乱を企てるが、公宗の弟の密告によって失敗。
しかし、旧北条氏勢力と、一部の公家が手を組み後醍醐政権に反旗をひるがえした、この大事件は、後醍醐政権の崩壊と、その後の約60年にわたる南北朝戦争につながるきっかけとなった。
中先代の乱
西園寺公宗の反乱は、全国で同時に実行されるはずであったが、蜂起前に反乱計画が発覚してしまったため、信濃(長野県)で反乱を起こす予定だった北条高時の息子、北条時行は仕方がないので単独で蜂起した。これが中先代の乱である。この反乱から南北朝戦争の火蓋は切って落とされた。
時行軍は信濃から鎌倉を目指し、足利軍を次々に撃破。ついに足利尊氏の弟の足利直義が鎌倉から出撃し、東京都町田市で時行軍と戦うが大敗、鎌倉に戻ってきた。
直義は、鎌倉に監禁中の前征夷大将軍(すぐクビになったけど)護良親王と、北条時行がタッグを組むことを恐れ(鎌倉幕府を復活させちゃう可能性があったから)、護良親王を殺害すると、さらに西の愛知県へ進み、京都にいる兄、足利尊氏に援軍を要請する。
尊氏は弟を助けるために、後醍醐天皇に鎌倉へ向かう許可と、征夷大将軍への任官を申請したが、断られ、結局後醍醐の許可のないまま京都を出発する。
この時、尊氏に喜んで従った人々は数え切れないほどだったという。後醍醐天皇は、それが気に入らなかったのか、尊氏ではなく、自分の息子の成良親王を征夷大将軍に任命。後醍醐と尊氏の仲はさらに険悪なものになった。
三河(愛知県岡崎市、安土市辺り)で弟直義と合流した尊氏は、静岡県遠江国(とおとうみのくに)橋本・佐夜中山、神奈川県箱根、山梨県相模川など17箇所の戦いに勝ち、鎌倉を奪還。時行は逃亡し、彼の反乱に参戦した諏訪頼重は自害した。結局、時行の鎌倉占領は一ヶ月にも満たなかった。
中先代の乱で勝利した足利尊氏は鎌倉に居を構えて、戦いに協力してくれた人たちに勝手に恩賞を与え始めた。後醍醐天皇は尊氏の功績を認め、尊氏を昇進させると共に(従二位)、鎌倉に使いを出し、「恩賞とかは京都でやるから戻っておいで」と尊氏を呼び戻そうとしたが、尊氏はそれを断り鎌倉で恩賞を与え続けた。
尊氏は征夷大将軍を名乗り、後醍醐とは独自に主従関係を行使し始めたのである。これは明らかに源頼朝を意識していた。
外国史各論2(西洋史)覚え書き
2015-02-16 01:25:50 (8 years ago)
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カテゴリタグ:
- 歴史
参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』、中井義明 、佐藤専次、渋谷聡、加藤克夫、小澤 卓也 著『教養のための世界史入門』、まがいまさこ、堀洋子著『いちばんやさしい世界史の本』
古代ゲルマン社会と民族大移動
ゲルマン民族とはケルト人と言語的にも種族的にも異なる、インド=ヨーロッパ系のゲルマン語を喋る民族の総称で、寒冷化などによって現住地のスカンジナビア半島南部、デンマーク、北ドイツから南下し、紀元前200年頃には黒海に達した。
ローマとは紀元前2世紀以降接触、交易を行なったり、傭兵になったり、ローマに平和的に移住したりしていた。9年のトイトブルクの森の戦いでゲルマン民族がローマを破ると、ローマとゲルマンの境界はライン川とドナウ川になった。
この時のゲルマン民族の居住地域はゲルマニアと呼ばれ、小部族国家が50あまりあり、一人の王、もしくは数人の首長が支配していた。身分は貴族を含む自由民と奴隷に別れ、重要事項は武装能力のある成年男子の自由民からなる民会で決められた。ゲルマン民族は都市で暮らさず、鬱蒼とした森の中の沼沢池で暮らした。
彼らはケルト民族と違い、特権的な神官身分がなく宗教儀礼は年に3回行われる供儀祭であった。彼らはオーディンやトールといった人間とはかけ離れた形の神を崇め、トールにはヤギ、オーディンには人間が生贄に捧げられた。
2~4世紀にはゲルマン人の小部族国家は戦争や移動によって消滅し、それぞれの部族は離合集散を繰り返しその規模を拡大させていった。
4世紀になると、ゲルマン人は、ゴート族、ヴァンダル族、ランゴバルト人などが含まれる東ゲルマン、フランク人、ザクセン人、バイエルン人などが含まれる西ゲルマン、ノルマン人(後のバイキング)が含まれる北ゲルマンの3つに大きく分類されるようになる。
375年ロシア南部から西へ攻めてきたアジア系騎馬民族のフン族によって黒海の北にあった東ゴート族が征服されると、その西にいた西ゴート族がローマ帝国に移住を求め、ライン川を渡って大挙して押し寄せてきた。これがきっかけになり、諸ゲルマン民族が相次いでローマ帝国領内に侵入、この大移動は6世紀末までの約200年間も続いた。
西ゴート族はローマ帝国にトラキア(バルカン半島東部)への定住を認められたが、反旗を翻しギリシャやイタリア半島に侵入410年ローマ市を略奪した。西ゴート族はその後南ガリアに定住し、王国を築いたが、6世紀初めフランク族に敗れると王国をイベリア半島に移し、トレドを首都とする西ゴート王国を作った。
ヴァンダル族はカルパティア山脈やオーストリア(シュレジエン)から406年ライン川を渡りローマ帝国に侵入、イベリア半島へ進み、429年にジブラルタル海峡を渡って南下、カルタゴを占領して北アフリカと地中海を支配した。
フン族に支配されていた東ゴート族はその支配から脱し、東ローマと手を組んで西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルを493年に破ると、イタリア半島に王国を作った。この東ゴート王国はゲルマン諸王国で指導的な役割を果たした。
これら東ゲルマンが作った国家は部族的な伝統を早くに失い短命で終わったが、西ゲルマンのフランク王国は部族的伝統を維持しつつ、10世紀まで続いた。
ほとんどのゲルマン民族は、キリストを神と同一化しなかったため後に異端とされるアリウス派のキリスト教を信仰していたが、5世紀後半にフランク王国の国王クロヴィスが、カトリックに改宗したことでローマ教会と接近、後のフランス王国の基礎を築き、西ヨーロッパのカトリックの発展につながった。
封建制度
中世ヨーロッパのフランク王国には首都が存在せず、中央行政は王国各地にある王宮で行われた。地方の統治において重要な役割を果たしたのが、俗人貴族から選ばれた伯(グラーフ)と呼ばれる地方官で、彼らは王の勅令の公布、貢祖の徴収、軍隊の召集、裁判の主催など地方行政を担当した。
メロヴィング朝末期~カロリング朝にかけてフランク王国は国内で独立しかけていたバイエルン、アキテーヌ、プロヴァンスなどや、近隣のフリーゼン人、ザクセン人、さらに進入してきたイスラーム勢力に対抗するため、高速で各地を転戦できる軍事力の増強を必要とした。その結果多数の騎兵が創設され、宮宰カール・マルテルは騎兵の装備に必要な土地を家臣に恩貸地として給付した。
これはやがて慣習化し、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代には国家的制度としてフランク王国全体に普及した。家臣が主君から恩貸地を受ける代わりに、軍事的な忠誠を誓う、この制度は封建制(レーエン制)と呼ばれ、大量に創出された騎兵の家臣団は、カール大帝の時代における連年の征服戦争を可能にした。
またこの時代には古典荘園制という農業経営組織が出現した。その特徴は、領地が領主直営地と農民保有地に二分され、保有地を持つ農民が週3日直営地を耕作することで(残りの3日は自分の保有地を耕作。日曜日は安息日)、その二つの土地が有機的に結合している点である。
古典荘園制以前は、マンキピアと言う直営地で労働を義務付けられた奴隷に近い非自由民、コロニと呼ばれる領主から土地を借り受けた自由農民の2種類の農民が存在したが、カロリング王権の支配が根付く頃には、マンキピアに保有地を貸与し、コロニを領主への隷属関係に取り込むことで、マンスと呼ばれる経営単位を基準とする農奴身分に統一がされた。
つまり、奴隷的非自由人の社会的地位は上昇し、自由保有民の社会的地位は下降したのである。カール大帝はマンス制を王国全土に広め、安定した貢租と賦役労働を確保し王国の財源をより強固なものとした。
また当時の荘園は自給自足的な現物経済が主流と言われていたがイスラーム世界から銀が流入したことでディナリウス銀貨の鋳造が進み、カロリング朝の農村では貨幣経済が浸透していたようである。
新航路の発見
15世紀末以来の数世紀は大航海時代と呼ばれる。十字軍以来ヨーロッパと東方世界との接触が活発化し、ヴェネチアを中心とするイタリア商業都市の東方貿易は、大きな富と東方の知識をヨーロッパにもたらした。
イスラム世界からは実用化した羅針盤や発達した造船技術などが伝えられ、ヨーロッパの航海術は発展、また、ルネサンスの学術は地理学的な知識を提供した(トスカネリの大地球体説に基づく地図など)。
15~16世紀はオスマン帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広域を支配していたので、従来の東西貿易路はほとんど押さえられていた。そこでヨーロッパは生活必需品だったアジアの香辛料をオスマン帝国を介さず、新しい航路で調達しようと試みた。このような経済的動機の新航路の探検は中央集権化した西欧諸国の王の支援のもと行われた。彼らはアジア諸地域との貿易や植民地の獲得によって一攫千金を狙ったのだった。
新航路開拓を先駆けて始めたのはポルトガルとスペインで、ついでオランダ。その後遅れをとってフランスとイギリスが続いた。
レコンキスタ運動でいち早くイスラームを駆逐し中央集権国家となったポルトガルは、バスコ=ダ=ガマの航海を支援、彼は喜望峰を回りアフリカ経由でインドに到達する。この功績によりポルトガルはアジアに大々的に進出し、香辛料貿易で莫大な富を築いた。
カスティリャ王国とアラゴン王国が合体してできたスペインは、1492年の1月、イスラム勢力最後の拠点グラナダを陥落させレコンキスタを完了。カスティリャ女王イサベルは、このレコンキスタをさらに海外にまで展開する目的で、コロンブスの大西洋横断計画を支援する。コロンブスは当初、太西洋を横断すればインドや中国、日本に到着すると思っていたが、カリブ海の島に上陸し、これをインドと勘違いする。
この新大陸発見によって、スペインはアメリカに進出し、先住民を武力で制圧、ローマ教皇のお墨付きをもらって植民地化を試みるが、これに抗議したポルトガルとのあいだで1494年トルデリシャス条約が結ばれ、南米ブラジルはポルトガル領となった。
ポルトガルに雇われ、ブラジル海岸を調査したアメリゴ=ヴェスプッチは、自身の著書『新世界』で新大陸の発見者とみなされたことから、彼の名が新大陸の名前となった。
実際には、コロンブスの方がアメリゴ=ヴェスプッチよりも早くアメリカには到達したのだが、当のコロンブスは自分が到達した場所はあくまでもインドだと思っており、アメリカが大陸であることを最初に指摘したのは彼だったのだ。
世界一周を初めて達成したのは、スペイン王カルロス一世の支援を受けたマゼランの探検隊だが、マゼラン自身はフィリピンに到達した際に現地の紛争に巻き込まれて死亡している。5隻の船、280人の乗員で旅立ったマゼランの探検隊だったが、祖国に帰ってくる頃には船は1隻、生き残ったものはたったの18人だった。この命懸けの冒険で地球が丸いことが実際に立証された。
アメリカ大陸のスペインの探検事業は次第に征服事業に発展、これはコンキスタドールという勇敢で残虐な男たちによって進められた。彼らはアステカ王国やインカ帝国を滅ぼし、中南米一帯を支配、重労働と殺戮、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などによって先住民を激減させると、新たな労働力として黒人奴隷を連れてきた。
メキシコ、ペルーの征服は莫大な金銀宝石をスペインにもたらし、1545年にはボリビア高地で無尽蔵の銀鉱脈が発見、インディオの強制労働によって安価に採掘された。このように16世紀末までには2万トンにものぼる大量の銀がアメリカからヨーロッパに流れたのである。しかしこの安価な銀によってヨーロッパの経済はインフレとなり、南ドイツの銀山を所有していた富豪や、地中海貿易で活躍した南ヨーロッパの商業資本の没落を早めることになった。
絶対王政
15~18世紀のヨーロッパでは、封建制度の行き詰まりによる領主の没落、十字軍失敗による超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などの諸国家間の覇権争いを通じて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力として主権国家が形成された。当時力をつけつつあった市民階級(ブルジョワ)も単独で政治を動かす力は無かったため、権力は王の一人勝ち状態で、その絶対的権力は王権神授説によって正当化、このような体制を絶対王政という。
絶対王制成立のプロセスには二つの説がある。一つ目が15世紀頃から衰退を始めた領主(貴族)たちが領内の市民や農民に対抗するためその権力を国王に集中させたという説、二つ目が没落した封建勢力と、勃興した市民階級の勢力が拮抗したので、国王がどちらにつくかで物事が決定したという説である。
絶対王政期の国王は、封建貴族より下の市民階級から人材を登用して官僚制度を作り、封建契約で従えていた軍隊に代えて、賃金で雇った常備軍を設置し、近代的な国民国家の統合を試みたが、貴族や聖職者の特権も依然として残っており、国王自らがそれらに依存することもあった。
つまり絶対王政における国王の専制政治は、見かけ上は強力なものに見えたが、現実には危ういバランスの上に立つ、過渡的な性格のものだった。そのため国王は自分の支配権は神によって与えられたという王権神授説によって、自らの統治を正当化する必要があったのである。
絶対王政では官僚制と常備軍のための莫大な財源を確保するため、重商主義という経済政策が採られた。これは金銀こそが富で、これを蓄えることが経済発展であるという考え方であった。重商主義ではとにかく貿易収支の黒字を目指すため、輸出が推進され、逆に輸入は抑制される(貿易差額主義)。この重商主義によって国内産業が保護されたので、資本主義という経済体制の誕生が早まることになった。また、各国は貴金属や商品作物の供給源を海外から確保するために競って植民地を求め、ヨーロッパ各国で重商主義戦争が勃発した。
さらに、絶対王政は治安を維持するため、物価の安定、失業対策、労働環境改善といった多くの社会政策を採用し、国民の生活に介入した。絶対王政が後の福祉国家の先駆だとする見方もあるのはこのためである。こうした政策は資本主義の発達を促進したが、それを阻害する側面も持っていた。
ピューリタン革命
テューダー朝のエリザベス1世が未婚のまま亡くなると、1603年スコットランド王のジェームズ6世がイギリスの王位に即してジェームズ1世となり、スチュアート朝を始めた。これによりイギリスとスコットランドは同君連合になったが、国家自体は別個の王国だった。
ジェームズ1世の即位直後、カルヴァン主義的なプロテスタントであるピューリタン(ピュアな人、浄化する人という意味)が次第に経済的に豊かになるとともに勢力を増やし、イギリス国教会の改革と政治への発言権を求めた。一方のカトリックはメアリ1世の時代への復帰を目指していた。
しかし外国人の王であるということから国内支持基盤がもろかったジェームズ1世は王権神授説を貫き、イギリス国教会主義を徹底、あらゆる種類の非国教徒に弾圧を加えた。
これを受けてカトリック教徒の不満分子は国王暗殺を計画するなど(火薬陰謀事件)、宗教上の対立は政治的対立と密接に結びついて問題は複雑化した。
ジェームズ1世の息子チャールズ1世の時代ではさらに専制を強化、これを受けて1628年議会は、議会の課税承認権や、脱法的な逮捕や投獄をやめさせる権利の請願を提出した。すると王は議会を解散、以後11年議会を開かず専制政治を行った。
チャールズ1世はロード=ストラッフォード体制により、国家と国教会の結びつきを強化し、国民の不評を買い、さらにカルヴァン派の強いスコットランドに国教を強制したことで反乱が勃発、戦費調達のために議会を再び開かざるを得なくなった。
しかし議会は課税を拒否し、国王を厳しく批判し合っため、3週間で議会は解散され、新たな議会を開いたが対立は深刻化、42年議員を逮捕しようとして失敗したチャールズ一世はヨークに逃げてイギリスは内乱状態になった。
この内乱は初めは王党派が有利だったが、やがて議会派で頭角を現したオリヴァー・クロムウェルがピューリタン信仰の鉄騎隊を率いてマーストン=ムーアの戦いで形成を逆転させ、ネイズビーの戦いでついに王党派を破った。
しかし内乱に勝利した議会派内部において独立派と長老派の対立が起きた。クロムウェルは、チャールズ一世と妥協を提案する長老派を議会から追放、処刑し、共和制を打ち立てた。この一連の流れがピューリタン革命と呼ばれる。
国王の処刑後、クロムウェルは新政府の中枢に立って、君主制や上院を廃止して民主化を進める一方、カトリック教徒と王党派の拠点であるアイルランドを征服し、その植民地化のきっかけを作った。
また航海法によるオランダへの中継貿易妨害によって起こった第一次英蘭戦争で海外における威信を強めた。クロムウェルは終身護国卿となって軍事的独裁権を握り、劇場などの娯楽施設を禁じるなど厳格なピューリタリズムを国民に強いたが、58年にインフルエンザをこじらせて病死、跡を継いだリチャードが無力だったため、護国卿政治は崩壊した。
アメリカ独立革命
1620年、信仰の自由を求め北アメリカに移住したイギリスのピューリタンは、過酷な環境で生き抜くためにイギリス本国以上に強い自治意識を抱くようになり、古代アテナイのような市民による直接民主制を発達させた地域もあった。
18世紀前半までには、アメリカ東海岸には13のイギリス植民地が形成され、各植民地には住民代表による議会が設置された。また黒人を中心とする奴隷制度に支えられたプランテーション農業や海上での仲介貿易も発達し、イギリスから自給自足で独立する道を歩んだ。
しかし本国イギリスは海外植民地のさらなる拡大を目論み、アメリカ13植民地に対して支配権を強化したため、自立心のある植民地人の反発を買った。本国による砂糖や紅茶などの自由な交易、印刷物の課税の強制は、植民地の反イギリス的論調を増大させ(代表なくして課税なし)、1773年にはボストン港に停泊した東インド会社の商船を植民地人が襲撃するというボストン茶会事件が起こった。
イギリスはこのような植民地人に対して自治剥奪や軍事的圧力を試みたが、植民地側は第一回大陸会議を開催、13植民地が団結して本国と対峙することを誓った。
この対立は武力衝突を生み、1775年にアメリカ独立戦争に発展、植民地側はジョージ・ワシントンを総司令官に立てイギリス軍と戦い、愛国派のスローガンのもと、ついに独立を果たした。
世界最強と言われた当時のイギリス軍を破った背景にはトマス・ペインのベストセラー『コモン=センス』や、避雷針で有名なフランクリンがこぎつけたフランスからの軍事支援があった。
1776年に出されたアメリカ独立宣言はイギリスの市民革命の影響を受けたジェファーソンたちが起草、特にロックの影響(近代自然法)が強く「自然権(私有財産所有権有り)」「信託による政府の設立(社会契約)」「革命権」などが主張されている。
アメリカの独立はアメリカ革命とも呼ばれる。植民地が本国から自分の権利を守っただけの保守的な行動で真の革命でないとする見方もあるが、アメリカの独立は本国イギリスとの闘争であると同時に、植民地人の間の闘争でもあった。イギリスに忠誠であろうとした植民地人は本国やカナダに移住し、その財産が没収されたことで、植民地の富裕階級の数は相対的に減少、また植民地には本国のような農奴や領主、貴族、特権的教会は存在しなかったことから中流階級が力を伸ばした。
アメリカ革命はイギリス革命、フランス革命とともに市民革命としてまとめられるが、貴族的な地主が主導したイギリスや、広域な階層が参加したフランスとは異なり、アメリカの革命は小農・大地主・地方弁護士などが主体となった革命であった。アメリカ革命によって初めて近代政治思想の生存権、自由権、平等権、社会契約説を基盤とする近代国家の実現が宣言され、その後の近代民主主義思想や国民主義の発展が規定された。その点においてアメリカの独立はフランス革命と並ぶ大きな世界史的意義があった。
産業革命
18世紀後半からイギリスでは、生産活動に機械や動力を導入する工場製機械工業が展開され、これにより革命的に経済や人々の生活といった社会構造が劇的に変化、劣悪な労働環境で働く労働者が激増した。
都市にはスラムが広がり、この対策に当たったトインビーは、貧困、病気、犯罪は「産業革命」の弊害と呼んだ。しかし産業革命は、生産力を高め伝統的社会の貧困を解消する一面もあり、現代型の社会が生まれるきっかけでもあった。
産業革命は農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で工業化とも呼ばれ、これまでの商人や農業経営者に代わって、工業経営者が有力な資本家になる産業資本主義の時代が到来したのである。
工場都市による大量生産は、熟練の技術を持つ職人やギルドを必要とせず、経営者は賃金の安い女性や子どもを大量に雇うことになる。職人への弟子入りがなくなったことで早婚の傾向が早まり、これが激しい人口増加の一員にもなった。
最初の産業革命がイギリスで起こった一つ目の原因は、7年戦争によってフランスを退けたイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したという対外的なものである。イギリスは本国と西アフリカ、カリブ海・北米を結ぶ三角貿易を行っていたが、その際の莫大な収益が産業革命の資金源になるとともに、アフリカへの輸出品には綿布、カリブ海からの輸入品には綿花があったため、奴隷貿易の中心マンチェスター周辺に原材料の綿花を綿布に加工する綿工業が発達したのである。
二つ目の原因が、早くから第二次囲い込みや、ノーフォーク農法(17世紀に開発された冬に家畜用の餌としてカブを栽培する農法)などの新農法の開発が進んでいたイギリスの国内事情である。
農作物の生産量が上がったことと、ジェンナーの種痘法(天然痘の予防接種)など医療が向上したことにより、18世紀中頃から人口が急増、工業化を支える労働力を提供した。
土壌の性質上、農業改良が困難だった西北部では、すでに18世紀中頃までに毛織物業を中心としたマニュファクチュア(工場製手工業)が成立し、工業生産の伝統が築かれていた。
アイルランドでは、同じ面積で小麦の4倍収穫できるジャガイモがアメリカからもたらされ、18世紀末に人口が増加(ロンドンでは「貧民の食品」と敬遠された)、1801年にアイルランドがイギリスに併合されると、職を求めて多くのアイルランド人がイギリスに流入した。
この他、禁欲と勤勉を勧めたプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や、科学革命による自然科学の発達など、知的、精神的な条件も整えられ、決まった時刻で働く近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が生み出された。
時間給の定着は、労働の時間とレジャーの時間の分離をもたらし、労働者はオフにはパブに集まって飲酒を楽しんだが、工場経営者はこのような習慣を非難し、旅行、読書、音楽といった上品な娯楽を強制、対立が起きた。
イギリスにおける産業革命は前述のとおり、綿工業の技術革新から始まる。1733年、ジョン・ケイが毛織物工業のために発明した飛び杼(織物を織るためのローラー)が、綿工業にも転用され、綿布を織る効率が上昇、このため生糸不足が起こり、これを解決するためにジェニー紡績機(ハーグリーヴスが発明)、水力紡績機などが導入。水力紡績機はやがて蒸気機関に接続され、その能率は飛躍的に向上した。
紡績部門の革新は1779年にクロンプトンによって開発されたミュール紡績機(ミュールとはウマとロバの雑種)によって一段落するが、織布部門での機械化は(カートライトの力織機などがあったがものの)、それほど急速には進まなかったので、多くの手織り工が必要とされた。彼らは労働者の参政権(普通選挙)を求めるチャーティスト運動で活動する。
この時代の経済や社会に最も大きな影響を与えたのは、重工業や交通手段の進歩である。18世紀初頭、ダービーによってコークスによる製鉄法が開発され、イギリス国内では枯渇しかけていた木炭から、豊富にある石炭へ工業料燃料が転換した。これに伴い鉄の生産量も増えて、鉄製の機械が普及した。
17世紀ニューメコンによって開発された炭坑用蒸気機関はワットによって改良、炭坑の他、紡績機にも取り付けられた。
価格の割に重い鉄や石炭を運ぶための交通手段も次々に開発され、マンチェスター周辺の運河は石炭の運搬にその力を発揮、1825年にスティーブンソンが試作した蒸気機関車は、急速に全国に普及し、19世紀後半には鉄道技術がイギリスによって重要な輸出品となる(イギリスは1825年に自国の機械の輸出を解禁)。
イギリスの産業革命は1859年前後にはほぼ完成し、1851年にはその発展の成果を海外にアピールするロンドン万国博覧会が開催された。
これはイギリスによる世界支配、パクス=ブリタニカを象徴する式典であったが、やがてドイツとアメリカが相次いで工業化を成し遂げると1870年代にはイギリスは世界の工場としての地位を失った。
ナポレオンの台頭
ナポレオンは『ゴッドファーザー』で有名なコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれ、パリの士官学校に入って軍人になると、フランス革命において王党派の反乱(1795年)を鎮圧したことが評価され1796年にイタリア軍遠征の司令官に任命される。
フランス革命(=国王の処刑)が自分たちの国にも広がるんじゃないかと警戒した周辺諸国は第1回対仏大同盟を結成していたが、ナポ率いるフランス軍はイタリア遠征においてオーストリア軍を撃破。これによりナポは一躍英雄となる(高価な戦利品を革命の混乱で貧しかった祖国にめちゃくちゃ持ち帰った)。
ナポは次に最大最強の敵イギリスを攻略するために、イギリスの植民地貿易の中継地であるエジプトをその支配下に置こうと遠征に出かけた。あと純粋に遺跡を考古学的に探検したかった(古代エジプトの象形文字解読につながったロゼッタストーンはこの時発見)。
しかしアブキール湾の戦いでイギリスに敗れた上、第2回対仏大同盟が結ばれたことを知ったナポは、エジプトに軍隊を残したままフランスへ戻り、ふがいない総裁政府を倒し1799年、自身が独裁体制を取る総統政府を樹立した。フランス革命は一応ここまでとされている。
独裁者となったナポは、1800年に現在の中央銀行であるフランス銀行を設立し、フランスの通貨を統一すると、翌年の1801年にはローマ教皇と和解、フランス革命では徹底的な政教分離を推し進めていたが、とりあえずカトリックやその他宗教を寛容に認めることにした。現在のフランスでも信者の数はローマ=カトリックが人口の8割を占め最も多いという(でもそんな熱心じゃない)。
1802年、アミアンの和約でイギリスと休戦したナポは、国民投票によって独裁者の夢終身統領になる。
そして1804年にナポレオン法典を制定する。これはフランス革命の思想を定着させるために作られたもので、私有財産の不可侵や契約の自由、家族法などが規定されている。ナポ自身も「自分がしたことで一番歴史に残ると思うのは、40回に及ぶ戦争での勝利ではなく、このナポレオン法典だ」と語っている。実際ナポレオン法典は後の民法の規範になっている。
また、この時ナポレオンはフランス皇帝に即位、これにより第一共和政が終わり第一帝政の時代になる。
皇帝という地位は世襲制なので、これじゃあ民主主義じゃない、なんだったんだフランス革命ってなるんだけど、自由と平等を愛するナポはそこらへんもちゃんと心得ていて、皇帝に即位する際にもやっぱり国民投票を行っている。そして圧倒的大多数の賛成を受けて、“民主主義的に”民主主義的じゃない皇帝になってしまった。ここらへんヒトラー的。
ちなみに音楽家のベートーヴェンは最初はナポの大ファンで「ナポ」というタイトルの曲を作っていたが、調子に乗ったナポが皇帝になると、怒りのあまり楽譜の表紙を破いてタイトルを「英雄」と変更してしまった。
とはいえ、数々の国に戦争を仕掛けたナポレオンは皇帝である前に生粋の軍人だった。1804年には軍隊の携帯食料が腐らないアイディアを一般公募(賞金額12000フラン≒300万円)していて、そこでニコラ・アペールが缶詰の原型となる食料の保存方法(食料を瓶詰めしてコルクで密封)を考案している。
ナポレオン帝国とその崩壊
ナポが皇帝となったことに危機感を抱いた周辺諸国(イギリス、ロシア、オーストリアなど)は第3回対仏大同盟を結成。1805年ナポはイギリス本土に乗り込もうと艦隊を出撃させるが(トラファルガーの海戦)、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗れる。トラファルガーはフランスとイギリスを結ぶドーバー海峡・・・じゃなくて、スペインの方のジブラルタル海峡の方にある岬の名前。
しかしその二ヶ月後のアウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを撃破(アウステルリッツはチェコモラヴィア地方の町)。
ナポレオンは1806年7月ライン同盟を結んで、長いことあった神聖ローマ帝国を滅ぼしてしまう。
さらにプロイセンとロシアとで締結したティルジット条約によって、プロイセンの半分はナポに奪われてしまった。その奪ったエリアにワルシャワ大公国を作りフランスの支配下においた。これは祖国の主権回復を期待してフランスに逃れていたポーランド人の支持をうまいこと利用していたが、ナポが失脚するとたった10年弱であっさりなくなってしまった。
ナポレオンは自分の兄を南イタリアナポリとスペインの王様に、弟をオランダ王にしてイギリス、ロシアを除くヨーロッパ全土を家族経営的に支配してしまった。
自由と平等の精神(と短期間の平和)をヨーロッパ各地にもたらしたナポレオンの大帝国だったが、皮肉にもその精神によってナポレオン支配に抵抗する民族意識が高まることになった。
1808年、まずスペインで反乱が勃発、泥沼のゲリラ戦に発展し(半島戦争)、領土を取られたプロイセンも打倒フランスを目指し立ち上がった。
ちなみにロマン主義の画家のゴヤが描いた(最近では違うという説があるが)進撃の巨人みたいな絵画は、この頃のスペイン人の心情を表現していると言われる。
ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えるために大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出すが、イギリスに穀物を輸出し、イギリスから生活必需品や工業製品を輸入していたロシアが大陸封鎖令を破ったため、ナポレオンは60万もの軍勢でモスクワに遠征する。
しかしロシアはでかい上に寒いので、東に逃げながら焦土作戦を取るロシア軍を追って補給路を絶たれかけたフランス軍は散々な目にあい大失敗。
さらに1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン&オーストリア&ロシアの同盟軍に敗れると、ナポレオンは退位してエルバ島(イタリア半島とコルシカ島のあいだにある小さな島)に島流しにされる。
ナポレオンの百日天下
ナポレオンがいなくなったフランスではルイ16世の弟ルイ18世が王位についてブルボン王朝が復活した。マジでなんだったんだフランス革命。
しかしルイ18世がまた国民に人気がない王様でヨーロッパ情勢はグダグダになった。これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出、ルイ18世はフランスに侵入したナポを捕らえさせようとしたが、そのために派遣した軍もナポレオンに寝返り、ルイ18世はベルギーに国外逃亡、パリに入ったナポレオンは再び皇帝になった。
ちなみにエルバ島時代(1814年5月~15年2月)にナポレオンは最愛の前妻ジョセフィーヌを亡くしている。彼女とは子どもができず、1810年に別の女性(オーストリアハプスブルグ家のマリ=ルイーズ)と策略結婚するために多額の慰謝料(マルメゾンの宮殿含む)を支払って離婚しているが、ナポレオンは生涯彼女を愛し続けていたという。
さて、周辺諸国は、ナポレオン復活しちゃったよと第5回対仏大同盟(数え方によっては7回になる)を結成、1815年イギリスはワーテルローの戦いで敗北し投降してきたナポレオンを、今度はヨーロッパからかなり遠い南太平洋の孤島セントへレナ島に送った。
その島でナポレオンは1821年に生涯を閉じたが、死んだら死んだで、人々はやっぱりナポレオンってすごかったんじゃないかと再評価しだした。これがナポレオン伝説である。
虚栄と野心の独裁者は、善き皇帝、革命を世界に輸出した真の愛国者に姿を変え、1840年イギリスはナポレオンの遺体をパリに移すことを許し、現在ナポレオンはルイ14世が建てた廃兵院のドームに安置されている。
古代ゲルマン社会と民族大移動
ゲルマン民族とはケルト人と言語的にも種族的にも異なる、インド=ヨーロッパ系のゲルマン語を喋る民族の総称で、寒冷化などによって現住地のスカンジナビア半島南部、デンマーク、北ドイツから南下し、紀元前200年頃には黒海に達した。
ローマとは紀元前2世紀以降接触、交易を行なったり、傭兵になったり、ローマに平和的に移住したりしていた。9年のトイトブルクの森の戦いでゲルマン民族がローマを破ると、ローマとゲルマンの境界はライン川とドナウ川になった。
この時のゲルマン民族の居住地域はゲルマニアと呼ばれ、小部族国家が50あまりあり、一人の王、もしくは数人の首長が支配していた。身分は貴族を含む自由民と奴隷に別れ、重要事項は武装能力のある成年男子の自由民からなる民会で決められた。ゲルマン民族は都市で暮らさず、鬱蒼とした森の中の沼沢池で暮らした。
彼らはケルト民族と違い、特権的な神官身分がなく宗教儀礼は年に3回行われる供儀祭であった。彼らはオーディンやトールといった人間とはかけ離れた形の神を崇め、トールにはヤギ、オーディンには人間が生贄に捧げられた。
2~4世紀にはゲルマン人の小部族国家は戦争や移動によって消滅し、それぞれの部族は離合集散を繰り返しその規模を拡大させていった。
4世紀になると、ゲルマン人は、ゴート族、ヴァンダル族、ランゴバルト人などが含まれる東ゲルマン、フランク人、ザクセン人、バイエルン人などが含まれる西ゲルマン、ノルマン人(後のバイキング)が含まれる北ゲルマンの3つに大きく分類されるようになる。
375年ロシア南部から西へ攻めてきたアジア系騎馬民族のフン族によって黒海の北にあった東ゴート族が征服されると、その西にいた西ゴート族がローマ帝国に移住を求め、ライン川を渡って大挙して押し寄せてきた。これがきっかけになり、諸ゲルマン民族が相次いでローマ帝国領内に侵入、この大移動は6世紀末までの約200年間も続いた。
西ゴート族はローマ帝国にトラキア(バルカン半島東部)への定住を認められたが、反旗を翻しギリシャやイタリア半島に侵入410年ローマ市を略奪した。西ゴート族はその後南ガリアに定住し、王国を築いたが、6世紀初めフランク族に敗れると王国をイベリア半島に移し、トレドを首都とする西ゴート王国を作った。
ヴァンダル族はカルパティア山脈やオーストリア(シュレジエン)から406年ライン川を渡りローマ帝国に侵入、イベリア半島へ進み、429年にジブラルタル海峡を渡って南下、カルタゴを占領して北アフリカと地中海を支配した。
フン族に支配されていた東ゴート族はその支配から脱し、東ローマと手を組んで西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルを493年に破ると、イタリア半島に王国を作った。この東ゴート王国はゲルマン諸王国で指導的な役割を果たした。
これら東ゲルマンが作った国家は部族的な伝統を早くに失い短命で終わったが、西ゲルマンのフランク王国は部族的伝統を維持しつつ、10世紀まで続いた。
ほとんどのゲルマン民族は、キリストを神と同一化しなかったため後に異端とされるアリウス派のキリスト教を信仰していたが、5世紀後半にフランク王国の国王クロヴィスが、カトリックに改宗したことでローマ教会と接近、後のフランス王国の基礎を築き、西ヨーロッパのカトリックの発展につながった。
封建制度
中世ヨーロッパのフランク王国には首都が存在せず、中央行政は王国各地にある王宮で行われた。地方の統治において重要な役割を果たしたのが、俗人貴族から選ばれた伯(グラーフ)と呼ばれる地方官で、彼らは王の勅令の公布、貢祖の徴収、軍隊の召集、裁判の主催など地方行政を担当した。
メロヴィング朝末期~カロリング朝にかけてフランク王国は国内で独立しかけていたバイエルン、アキテーヌ、プロヴァンスなどや、近隣のフリーゼン人、ザクセン人、さらに進入してきたイスラーム勢力に対抗するため、高速で各地を転戦できる軍事力の増強を必要とした。その結果多数の騎兵が創設され、宮宰カール・マルテルは騎兵の装備に必要な土地を家臣に恩貸地として給付した。
これはやがて慣習化し、カール大帝(シャルルマーニュ)の時代には国家的制度としてフランク王国全体に普及した。家臣が主君から恩貸地を受ける代わりに、軍事的な忠誠を誓う、この制度は封建制(レーエン制)と呼ばれ、大量に創出された騎兵の家臣団は、カール大帝の時代における連年の征服戦争を可能にした。
またこの時代には古典荘園制という農業経営組織が出現した。その特徴は、領地が領主直営地と農民保有地に二分され、保有地を持つ農民が週3日直営地を耕作することで(残りの3日は自分の保有地を耕作。日曜日は安息日)、その二つの土地が有機的に結合している点である。
古典荘園制以前は、マンキピアと言う直営地で労働を義務付けられた奴隷に近い非自由民、コロニと呼ばれる領主から土地を借り受けた自由農民の2種類の農民が存在したが、カロリング王権の支配が根付く頃には、マンキピアに保有地を貸与し、コロニを領主への隷属関係に取り込むことで、マンスと呼ばれる経営単位を基準とする農奴身分に統一がされた。
つまり、奴隷的非自由人の社会的地位は上昇し、自由保有民の社会的地位は下降したのである。カール大帝はマンス制を王国全土に広め、安定した貢租と賦役労働を確保し王国の財源をより強固なものとした。
また当時の荘園は自給自足的な現物経済が主流と言われていたがイスラーム世界から銀が流入したことでディナリウス銀貨の鋳造が進み、カロリング朝の農村では貨幣経済が浸透していたようである。
新航路の発見
15世紀末以来の数世紀は大航海時代と呼ばれる。十字軍以来ヨーロッパと東方世界との接触が活発化し、ヴェネチアを中心とするイタリア商業都市の東方貿易は、大きな富と東方の知識をヨーロッパにもたらした。
イスラム世界からは実用化した羅針盤や発達した造船技術などが伝えられ、ヨーロッパの航海術は発展、また、ルネサンスの学術は地理学的な知識を提供した(トスカネリの大地球体説に基づく地図など)。
15~16世紀はオスマン帝国がアジア、アフリカ、ヨーロッパにまたがる広域を支配していたので、従来の東西貿易路はほとんど押さえられていた。そこでヨーロッパは生活必需品だったアジアの香辛料をオスマン帝国を介さず、新しい航路で調達しようと試みた。このような経済的動機の新航路の探検は中央集権化した西欧諸国の王の支援のもと行われた。彼らはアジア諸地域との貿易や植民地の獲得によって一攫千金を狙ったのだった。
新航路開拓を先駆けて始めたのはポルトガルとスペインで、ついでオランダ。その後遅れをとってフランスとイギリスが続いた。
レコンキスタ運動でいち早くイスラームを駆逐し中央集権国家となったポルトガルは、バスコ=ダ=ガマの航海を支援、彼は喜望峰を回りアフリカ経由でインドに到達する。この功績によりポルトガルはアジアに大々的に進出し、香辛料貿易で莫大な富を築いた。
カスティリャ王国とアラゴン王国が合体してできたスペインは、1492年の1月、イスラム勢力最後の拠点グラナダを陥落させレコンキスタを完了。カスティリャ女王イサベルは、このレコンキスタをさらに海外にまで展開する目的で、コロンブスの大西洋横断計画を支援する。コロンブスは当初、太西洋を横断すればインドや中国、日本に到着すると思っていたが、カリブ海の島に上陸し、これをインドと勘違いする。
この新大陸発見によって、スペインはアメリカに進出し、先住民を武力で制圧、ローマ教皇のお墨付きをもらって植民地化を試みるが、これに抗議したポルトガルとのあいだで1494年トルデリシャス条約が結ばれ、南米ブラジルはポルトガル領となった。
ポルトガルに雇われ、ブラジル海岸を調査したアメリゴ=ヴェスプッチは、自身の著書『新世界』で新大陸の発見者とみなされたことから、彼の名が新大陸の名前となった。
実際には、コロンブスの方がアメリゴ=ヴェスプッチよりも早くアメリカには到達したのだが、当のコロンブスは自分が到達した場所はあくまでもインドだと思っており、アメリカが大陸であることを最初に指摘したのは彼だったのだ。
世界一周を初めて達成したのは、スペイン王カルロス一世の支援を受けたマゼランの探検隊だが、マゼラン自身はフィリピンに到達した際に現地の紛争に巻き込まれて死亡している。5隻の船、280人の乗員で旅立ったマゼランの探検隊だったが、祖国に帰ってくる頃には船は1隻、生き残ったものはたったの18人だった。この命懸けの冒険で地球が丸いことが実際に立証された。
アメリカ大陸のスペインの探検事業は次第に征服事業に発展、これはコンキスタドールという勇敢で残虐な男たちによって進められた。彼らはアステカ王国やインカ帝国を滅ぼし、中南米一帯を支配、重労働と殺戮、ヨーロッパ人が持ち込んだ疫病などによって先住民を激減させると、新たな労働力として黒人奴隷を連れてきた。
メキシコ、ペルーの征服は莫大な金銀宝石をスペインにもたらし、1545年にはボリビア高地で無尽蔵の銀鉱脈が発見、インディオの強制労働によって安価に採掘された。このように16世紀末までには2万トンにものぼる大量の銀がアメリカからヨーロッパに流れたのである。しかしこの安価な銀によってヨーロッパの経済はインフレとなり、南ドイツの銀山を所有していた富豪や、地中海貿易で活躍した南ヨーロッパの商業資本の没落を早めることになった。
絶対王政
15~18世紀のヨーロッパでは、封建制度の行き詰まりによる領主の没落、十字軍失敗による超国家的権威としての教皇権の衰退、イタリア戦争などの諸国家間の覇権争いを通じて、各国の国内の一元的支配が強められ、内外に対する絶対的権力として主権国家が形成された。当時力をつけつつあった市民階級(ブルジョワ)も単独で政治を動かす力は無かったため、権力は王の一人勝ち状態で、その絶対的権力は王権神授説によって正当化、このような体制を絶対王政という。
絶対王制成立のプロセスには二つの説がある。一つ目が15世紀頃から衰退を始めた領主(貴族)たちが領内の市民や農民に対抗するためその権力を国王に集中させたという説、二つ目が没落した封建勢力と、勃興した市民階級の勢力が拮抗したので、国王がどちらにつくかで物事が決定したという説である。
絶対王政期の国王は、封建貴族より下の市民階級から人材を登用して官僚制度を作り、封建契約で従えていた軍隊に代えて、賃金で雇った常備軍を設置し、近代的な国民国家の統合を試みたが、貴族や聖職者の特権も依然として残っており、国王自らがそれらに依存することもあった。
つまり絶対王政における国王の専制政治は、見かけ上は強力なものに見えたが、現実には危ういバランスの上に立つ、過渡的な性格のものだった。そのため国王は自分の支配権は神によって与えられたという王権神授説によって、自らの統治を正当化する必要があったのである。
絶対王政では官僚制と常備軍のための莫大な財源を確保するため、重商主義という経済政策が採られた。これは金銀こそが富で、これを蓄えることが経済発展であるという考え方であった。重商主義ではとにかく貿易収支の黒字を目指すため、輸出が推進され、逆に輸入は抑制される(貿易差額主義)。この重商主義によって国内産業が保護されたので、資本主義という経済体制の誕生が早まることになった。また、各国は貴金属や商品作物の供給源を海外から確保するために競って植民地を求め、ヨーロッパ各国で重商主義戦争が勃発した。
さらに、絶対王政は治安を維持するため、物価の安定、失業対策、労働環境改善といった多くの社会政策を採用し、国民の生活に介入した。絶対王政が後の福祉国家の先駆だとする見方もあるのはこのためである。こうした政策は資本主義の発達を促進したが、それを阻害する側面も持っていた。
ピューリタン革命
テューダー朝のエリザベス1世が未婚のまま亡くなると、1603年スコットランド王のジェームズ6世がイギリスの王位に即してジェームズ1世となり、スチュアート朝を始めた。これによりイギリスとスコットランドは同君連合になったが、国家自体は別個の王国だった。
ジェームズ1世の即位直後、カルヴァン主義的なプロテスタントであるピューリタン(ピュアな人、浄化する人という意味)が次第に経済的に豊かになるとともに勢力を増やし、イギリス国教会の改革と政治への発言権を求めた。一方のカトリックはメアリ1世の時代への復帰を目指していた。
しかし外国人の王であるということから国内支持基盤がもろかったジェームズ1世は王権神授説を貫き、イギリス国教会主義を徹底、あらゆる種類の非国教徒に弾圧を加えた。
これを受けてカトリック教徒の不満分子は国王暗殺を計画するなど(火薬陰謀事件)、宗教上の対立は政治的対立と密接に結びついて問題は複雑化した。
ジェームズ1世の息子チャールズ1世の時代ではさらに専制を強化、これを受けて1628年議会は、議会の課税承認権や、脱法的な逮捕や投獄をやめさせる権利の請願を提出した。すると王は議会を解散、以後11年議会を開かず専制政治を行った。
チャールズ1世はロード=ストラッフォード体制により、国家と国教会の結びつきを強化し、国民の不評を買い、さらにカルヴァン派の強いスコットランドに国教を強制したことで反乱が勃発、戦費調達のために議会を再び開かざるを得なくなった。
しかし議会は課税を拒否し、国王を厳しく批判し合っため、3週間で議会は解散され、新たな議会を開いたが対立は深刻化、42年議員を逮捕しようとして失敗したチャールズ一世はヨークに逃げてイギリスは内乱状態になった。
この内乱は初めは王党派が有利だったが、やがて議会派で頭角を現したオリヴァー・クロムウェルがピューリタン信仰の鉄騎隊を率いてマーストン=ムーアの戦いで形成を逆転させ、ネイズビーの戦いでついに王党派を破った。
しかし内乱に勝利した議会派内部において独立派と長老派の対立が起きた。クロムウェルは、チャールズ一世と妥協を提案する長老派を議会から追放、処刑し、共和制を打ち立てた。この一連の流れがピューリタン革命と呼ばれる。
国王の処刑後、クロムウェルは新政府の中枢に立って、君主制や上院を廃止して民主化を進める一方、カトリック教徒と王党派の拠点であるアイルランドを征服し、その植民地化のきっかけを作った。
また航海法によるオランダへの中継貿易妨害によって起こった第一次英蘭戦争で海外における威信を強めた。クロムウェルは終身護国卿となって軍事的独裁権を握り、劇場などの娯楽施設を禁じるなど厳格なピューリタリズムを国民に強いたが、58年にインフルエンザをこじらせて病死、跡を継いだリチャードが無力だったため、護国卿政治は崩壊した。
アメリカ独立革命
1620年、信仰の自由を求め北アメリカに移住したイギリスのピューリタンは、過酷な環境で生き抜くためにイギリス本国以上に強い自治意識を抱くようになり、古代アテナイのような市民による直接民主制を発達させた地域もあった。
18世紀前半までには、アメリカ東海岸には13のイギリス植民地が形成され、各植民地には住民代表による議会が設置された。また黒人を中心とする奴隷制度に支えられたプランテーション農業や海上での仲介貿易も発達し、イギリスから自給自足で独立する道を歩んだ。
しかし本国イギリスは海外植民地のさらなる拡大を目論み、アメリカ13植民地に対して支配権を強化したため、自立心のある植民地人の反発を買った。本国による砂糖や紅茶などの自由な交易、印刷物の課税の強制は、植民地の反イギリス的論調を増大させ(代表なくして課税なし)、1773年にはボストン港に停泊した東インド会社の商船を植民地人が襲撃するというボストン茶会事件が起こった。
イギリスはこのような植民地人に対して自治剥奪や軍事的圧力を試みたが、植民地側は第一回大陸会議を開催、13植民地が団結して本国と対峙することを誓った。
この対立は武力衝突を生み、1775年にアメリカ独立戦争に発展、植民地側はジョージ・ワシントンを総司令官に立てイギリス軍と戦い、愛国派のスローガンのもと、ついに独立を果たした。
世界最強と言われた当時のイギリス軍を破った背景にはトマス・ペインのベストセラー『コモン=センス』や、避雷針で有名なフランクリンがこぎつけたフランスからの軍事支援があった。
1776年に出されたアメリカ独立宣言はイギリスの市民革命の影響を受けたジェファーソンたちが起草、特にロックの影響(近代自然法)が強く「自然権(私有財産所有権有り)」「信託による政府の設立(社会契約)」「革命権」などが主張されている。
アメリカの独立はアメリカ革命とも呼ばれる。植民地が本国から自分の権利を守っただけの保守的な行動で真の革命でないとする見方もあるが、アメリカの独立は本国イギリスとの闘争であると同時に、植民地人の間の闘争でもあった。イギリスに忠誠であろうとした植民地人は本国やカナダに移住し、その財産が没収されたことで、植民地の富裕階級の数は相対的に減少、また植民地には本国のような農奴や領主、貴族、特権的教会は存在しなかったことから中流階級が力を伸ばした。
アメリカ革命はイギリス革命、フランス革命とともに市民革命としてまとめられるが、貴族的な地主が主導したイギリスや、広域な階層が参加したフランスとは異なり、アメリカの革命は小農・大地主・地方弁護士などが主体となった革命であった。アメリカ革命によって初めて近代政治思想の生存権、自由権、平等権、社会契約説を基盤とする近代国家の実現が宣言され、その後の近代民主主義思想や国民主義の発展が規定された。その点においてアメリカの独立はフランス革命と並ぶ大きな世界史的意義があった。
産業革命
18世紀後半からイギリスでは、生産活動に機械や動力を導入する工場製機械工業が展開され、これにより革命的に経済や人々の生活といった社会構造が劇的に変化、劣悪な労働環境で働く労働者が激増した。
都市にはスラムが広がり、この対策に当たったトインビーは、貧困、病気、犯罪は「産業革命」の弊害と呼んだ。しかし産業革命は、生産力を高め伝統的社会の貧困を解消する一面もあり、現代型の社会が生まれるきっかけでもあった。
産業革命は農業社会に変わって工業社会が出現したという意味で工業化とも呼ばれ、これまでの商人や農業経営者に代わって、工業経営者が有力な資本家になる産業資本主義の時代が到来したのである。
工場都市による大量生産は、熟練の技術を持つ職人やギルドを必要とせず、経営者は賃金の安い女性や子どもを大量に雇うことになる。職人への弟子入りがなくなったことで早婚の傾向が早まり、これが激しい人口増加の一員にもなった。
最初の産業革命がイギリスで起こった一つ目の原因は、7年戦争によってフランスを退けたイギリスが世界商業の覇権を握り、広大な植民地帝国を形成したという対外的なものである。イギリスは本国と西アフリカ、カリブ海・北米を結ぶ三角貿易を行っていたが、その際の莫大な収益が産業革命の資金源になるとともに、アフリカへの輸出品には綿布、カリブ海からの輸入品には綿花があったため、奴隷貿易の中心マンチェスター周辺に原材料の綿花を綿布に加工する綿工業が発達したのである。
二つ目の原因が、早くから第二次囲い込みや、ノーフォーク農法(17世紀に開発された冬に家畜用の餌としてカブを栽培する農法)などの新農法の開発が進んでいたイギリスの国内事情である。
農作物の生産量が上がったことと、ジェンナーの種痘法(天然痘の予防接種)など医療が向上したことにより、18世紀中頃から人口が急増、工業化を支える労働力を提供した。
土壌の性質上、農業改良が困難だった西北部では、すでに18世紀中頃までに毛織物業を中心としたマニュファクチュア(工場製手工業)が成立し、工業生産の伝統が築かれていた。
アイルランドでは、同じ面積で小麦の4倍収穫できるジャガイモがアメリカからもたらされ、18世紀末に人口が増加(ロンドンでは「貧民の食品」と敬遠された)、1801年にアイルランドがイギリスに併合されると、職を求めて多くのアイルランド人がイギリスに流入した。
この他、禁欲と勤勉を勧めたプロテスタントの信仰(ピューリタニズム)や、科学革命による自然科学の発達など、知的、精神的な条件も整えられ、決まった時刻で働く近代的な労働者と、合理的な経営を行う経営者が生み出された。
時間給の定着は、労働の時間とレジャーの時間の分離をもたらし、労働者はオフにはパブに集まって飲酒を楽しんだが、工場経営者はこのような習慣を非難し、旅行、読書、音楽といった上品な娯楽を強制、対立が起きた。
イギリスにおける産業革命は前述のとおり、綿工業の技術革新から始まる。1733年、ジョン・ケイが毛織物工業のために発明した飛び杼(織物を織るためのローラー)が、綿工業にも転用され、綿布を織る効率が上昇、このため生糸不足が起こり、これを解決するためにジェニー紡績機(ハーグリーヴスが発明)、水力紡績機などが導入。水力紡績機はやがて蒸気機関に接続され、その能率は飛躍的に向上した。
紡績部門の革新は1779年にクロンプトンによって開発されたミュール紡績機(ミュールとはウマとロバの雑種)によって一段落するが、織布部門での機械化は(カートライトの力織機などがあったがものの)、それほど急速には進まなかったので、多くの手織り工が必要とされた。彼らは労働者の参政権(普通選挙)を求めるチャーティスト運動で活動する。
この時代の経済や社会に最も大きな影響を与えたのは、重工業や交通手段の進歩である。18世紀初頭、ダービーによってコークスによる製鉄法が開発され、イギリス国内では枯渇しかけていた木炭から、豊富にある石炭へ工業料燃料が転換した。これに伴い鉄の生産量も増えて、鉄製の機械が普及した。
17世紀ニューメコンによって開発された炭坑用蒸気機関はワットによって改良、炭坑の他、紡績機にも取り付けられた。
価格の割に重い鉄や石炭を運ぶための交通手段も次々に開発され、マンチェスター周辺の運河は石炭の運搬にその力を発揮、1825年にスティーブンソンが試作した蒸気機関車は、急速に全国に普及し、19世紀後半には鉄道技術がイギリスによって重要な輸出品となる(イギリスは1825年に自国の機械の輸出を解禁)。
イギリスの産業革命は1859年前後にはほぼ完成し、1851年にはその発展の成果を海外にアピールするロンドン万国博覧会が開催された。
これはイギリスによる世界支配、パクス=ブリタニカを象徴する式典であったが、やがてドイツとアメリカが相次いで工業化を成し遂げると1870年代にはイギリスは世界の工場としての地位を失った。
ナポレオンの台頭
ナポレオンは『ゴッドファーザー』で有名なコルシカ島の貧しい貴族の家に生まれ、パリの士官学校に入って軍人になると、フランス革命において王党派の反乱(1795年)を鎮圧したことが評価され1796年にイタリア軍遠征の司令官に任命される。
フランス革命(=国王の処刑)が自分たちの国にも広がるんじゃないかと警戒した周辺諸国は第1回対仏大同盟を結成していたが、ナポ率いるフランス軍はイタリア遠征においてオーストリア軍を撃破。これによりナポは一躍英雄となる(高価な戦利品を革命の混乱で貧しかった祖国にめちゃくちゃ持ち帰った)。
ナポは次に最大最強の敵イギリスを攻略するために、イギリスの植民地貿易の中継地であるエジプトをその支配下に置こうと遠征に出かけた。あと純粋に遺跡を考古学的に探検したかった(古代エジプトの象形文字解読につながったロゼッタストーンはこの時発見)。
しかしアブキール湾の戦いでイギリスに敗れた上、第2回対仏大同盟が結ばれたことを知ったナポは、エジプトに軍隊を残したままフランスへ戻り、ふがいない総裁政府を倒し1799年、自身が独裁体制を取る総統政府を樹立した。フランス革命は一応ここまでとされている。
独裁者となったナポは、1800年に現在の中央銀行であるフランス銀行を設立し、フランスの通貨を統一すると、翌年の1801年にはローマ教皇と和解、フランス革命では徹底的な政教分離を推し進めていたが、とりあえずカトリックやその他宗教を寛容に認めることにした。現在のフランスでも信者の数はローマ=カトリックが人口の8割を占め最も多いという(でもそんな熱心じゃない)。
1802年、アミアンの和約でイギリスと休戦したナポは、国民投票によって独裁者の夢終身統領になる。
そして1804年にナポレオン法典を制定する。これはフランス革命の思想を定着させるために作られたもので、私有財産の不可侵や契約の自由、家族法などが規定されている。ナポ自身も「自分がしたことで一番歴史に残ると思うのは、40回に及ぶ戦争での勝利ではなく、このナポレオン法典だ」と語っている。実際ナポレオン法典は後の民法の規範になっている。
また、この時ナポレオンはフランス皇帝に即位、これにより第一共和政が終わり第一帝政の時代になる。
皇帝という地位は世襲制なので、これじゃあ民主主義じゃない、なんだったんだフランス革命ってなるんだけど、自由と平等を愛するナポはそこらへんもちゃんと心得ていて、皇帝に即位する際にもやっぱり国民投票を行っている。そして圧倒的大多数の賛成を受けて、“民主主義的に”民主主義的じゃない皇帝になってしまった。ここらへんヒトラー的。
ちなみに音楽家のベートーヴェンは最初はナポの大ファンで「ナポ」というタイトルの曲を作っていたが、調子に乗ったナポが皇帝になると、怒りのあまり楽譜の表紙を破いてタイトルを「英雄」と変更してしまった。
とはいえ、数々の国に戦争を仕掛けたナポレオンは皇帝である前に生粋の軍人だった。1804年には軍隊の携帯食料が腐らないアイディアを一般公募(賞金額12000フラン≒300万円)していて、そこでニコラ・アペールが缶詰の原型となる食料の保存方法(食料を瓶詰めしてコルクで密封)を考案している。
ナポレオン帝国とその崩壊
ナポが皇帝となったことに危機感を抱いた周辺諸国(イギリス、ロシア、オーストリアなど)は第3回対仏大同盟を結成。1805年ナポはイギリス本土に乗り込もうと艦隊を出撃させるが(トラファルガーの海戦)、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に敗れる。トラファルガーはフランスとイギリスを結ぶドーバー海峡・・・じゃなくて、スペインの方のジブラルタル海峡の方にある岬の名前。
しかしその二ヶ月後のアウステルリッツの戦いではロシアとオーストリアを撃破(アウステルリッツはチェコモラヴィア地方の町)。
ナポレオンは1806年7月ライン同盟を結んで、長いことあった神聖ローマ帝国を滅ぼしてしまう。
さらにプロイセンとロシアとで締結したティルジット条約によって、プロイセンの半分はナポに奪われてしまった。その奪ったエリアにワルシャワ大公国を作りフランスの支配下においた。これは祖国の主権回復を期待してフランスに逃れていたポーランド人の支持をうまいこと利用していたが、ナポが失脚するとたった10年弱であっさりなくなってしまった。
ナポレオンは自分の兄を南イタリアナポリとスペインの王様に、弟をオランダ王にしてイギリス、ロシアを除くヨーロッパ全土を家族経営的に支配してしまった。
自由と平等の精神(と短期間の平和)をヨーロッパ各地にもたらしたナポレオンの大帝国だったが、皮肉にもその精神によってナポレオン支配に抵抗する民族意識が高まることになった。
1808年、まずスペインで反乱が勃発、泥沼のゲリラ戦に発展し(半島戦争)、領土を取られたプロイセンも打倒フランスを目指し立ち上がった。
ちなみにロマン主義の画家のゴヤが描いた(最近では違うという説があるが)進撃の巨人みたいな絵画は、この頃のスペイン人の心情を表現していると言われる。
ナポレオンはイギリスに経済的打撃を与えるために大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出すが、イギリスに穀物を輸出し、イギリスから生活必需品や工業製品を輸入していたロシアが大陸封鎖令を破ったため、ナポレオンは60万もの軍勢でモスクワに遠征する。
しかしロシアはでかい上に寒いので、東に逃げながら焦土作戦を取るロシア軍を追って補給路を絶たれかけたフランス軍は散々な目にあい大失敗。
さらに1813年のライプチヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン&オーストリア&ロシアの同盟軍に敗れると、ナポレオンは退位してエルバ島(イタリア半島とコルシカ島のあいだにある小さな島)に島流しにされる。
ナポレオンの百日天下
ナポレオンがいなくなったフランスではルイ16世の弟ルイ18世が王位についてブルボン王朝が復活した。マジでなんだったんだフランス革命。
しかしルイ18世がまた国民に人気がない王様でヨーロッパ情勢はグダグダになった。これを知ったナポレオンはエルバ島を脱出、ルイ18世はフランスに侵入したナポを捕らえさせようとしたが、そのために派遣した軍もナポレオンに寝返り、ルイ18世はベルギーに国外逃亡、パリに入ったナポレオンは再び皇帝になった。
ちなみにエルバ島時代(1814年5月~15年2月)にナポレオンは最愛の前妻ジョセフィーヌを亡くしている。彼女とは子どもができず、1810年に別の女性(オーストリアハプスブルグ家のマリ=ルイーズ)と策略結婚するために多額の慰謝料(マルメゾンの宮殿含む)を支払って離婚しているが、ナポレオンは生涯彼女を愛し続けていたという。
さて、周辺諸国は、ナポレオン復活しちゃったよと第5回対仏大同盟(数え方によっては7回になる)を結成、1815年イギリスはワーテルローの戦いで敗北し投降してきたナポレオンを、今度はヨーロッパからかなり遠い南太平洋の孤島セントへレナ島に送った。
その島でナポレオンは1821年に生涯を閉じたが、死んだら死んだで、人々はやっぱりナポレオンってすごかったんじゃないかと再評価しだした。これがナポレオン伝説である。
虚栄と野心の独裁者は、善き皇帝、革命を世界に輸出した真の愛国者に姿を変え、1840年イギリスはナポレオンの遺体をパリに移すことを許し、現在ナポレオンはルイ14世が建てた廃兵院のドームに安置されている。
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