教育哲学覚え書き

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。そして元旦さっそく勉強をしている私。エライ!というか、今年の冬休みって今日しか休みがないんですよ。だから勉強できるときにやっておかないと。私エラいぞ(二回目)。
 というか宿敵の日本史が年末に攻略できたことで、今ちょっと向上心がモリモリなのかもしれない。去年の今頃は脳のキャパシティがオーバーして参考書放り投げてたけどね(^_^;)・・・あれはオレじゃねえ!

参考文献:小沢周三、小沢滋子、影山昇、今井重孝著『教育思想史』

ソクラテスの対話法
紀元前5世紀頃登場したソフィストと呼ばれる職業教師は、オリエント文化と交流が深い新しい植民都市の出身者が多かったため、伝統的なギリシャの慣習にとらわれることなく、既存の価値観を相対化した。彼らはアメリカのセレブ御用達の弁護士のように、何が正しいか正しくないかは置いておいて、訴訟に勝利するための法廷での振る舞い方、弁論術を有料で教えていた。
当時活躍したアリストファネスは古き良きアテナイを愛する作家であり、自身が書いた喜劇『雲』において、ソフィストによるラディカルな教育論や相対主義の功罪を描いた。この劇においてソフィストと共に痛烈にカリカチュアされたのがソクラテスである。作中ソクラテスは若者を堕落させる利口ぶった破壊的哲学者として描かれ、まるでソフィストの代表格としての扱いであったが、実際のソクラテスはむしろソフィストの相対主義を批判し、人間がよりよく生きる普遍的な原理を追求していた本質主義者だった。とはいえ、アリストファネスから見れば、どちらも皮肉(エイロネイア)を用いる、口が達者な憎たらしいインテリに見えたのかもしれない。
ソクラテスは相対主義と、それに伴う道徳の軽視(=エゴイズム)がはびこった当時の国家を改善するためには、若者を教育し直さなければならないと考えていた。
当時のソフィストの言い分は以下のようなものである。

法律→多数者が勝手に取り決めた。パターナリズム。
国家の秩序→勝手な拘束。パターナリズム。
道徳→政治教育による洗脳。パターナリズム。
神々の信仰→自由な活動を規制するためのオカルト。パターナリズム。

ポストモダニストやリバタリアン(とそれを誤解したツイッタラー)が主張しそうなことはこの当時のソフィストによってだいたい論理展開されていたといえよう。例えば、哲学者プロタゴラスは「人間こそが万物の尺度」だという有名な言葉を残している。
ペロポネソス戦争によって、これまで普遍的なものであると信じられていたアテナイの伝統的価値が揺らぎ、主観は客観に勝り、何が善く、何が美しく、何が正しいのかは個々人の自我が恣意的に決めているに過ぎないとうそぶくソフィスト。そんな彼らの鼻をあかしたのがソクラテスだった。
倫理的義務や行為は、個人的な好み(ドクサ)に由来はせず、精神の本質である正しい知(エピステーメー)に由来するとしたソクラテスは、「ソクラテスより賢い人間はいない」というデルフォイの神託を確かめるために、名だたる賢者、政治家、芸術家を訪ねた。ソクラテスはその際、自分の主張はせず、ひたすら聞き役に回り、相手の論の矛盾点を指摘した。これを対話法という。対話法は産婆術が得意だった母親を持つソクラテスが、自分は賢者ではないけれど助産師のように他の人が知を生み出すサポートくらいはできるのではないか、と考えていたことに由来する。
さて、この対話法の結果は散々なものだった。世間で賢者とされる人々は自分自身を頭がいいと思い込み、自分が専門とする領域の知識は豊富でも、人生における哲学的命題(善美の問題)については何も知らなかったのだ。彼らに決定的に欠けていたものは「自分が無知であることを知る」というメタ的な自己認識(…と謙虚さ)である。
そしてこの「無知の知」をソクラテスは誰より心得ていた。これによりソクラテスは当時のどんなインテリよりも賢かったことが証明されたのである。
しかし魂(プシュケー)に徳を備えることが人間の卓越性であると考えたり、知性を持つ有徳者ではなく、クジで代表者を決めてしまう当時のアテナイの民主政治を批判したソクラテスは、アリストファネスのような誤解も含めて若者に危険な思想を流布していると捉えられ、最終的には処刑されてしまう。退廃したアテナイ市民の周りをうるさく飛び回り、その無知に対して警鐘を鳴らした「アブ」の死であった。

プラトンの教育思想
プラトンはイデア論で有名な古代ギリシャの哲学者で、師匠のソクラテス同様、普遍的な真実の知であるエピステーメーが存在すると考えた。しかし人間はイデア(永遠不変の本質)の虚像にすぎない現象界に住んでおり、理性でイデアを捉えエピステーメーを獲得しなければならない上、それができる人間は限られている。
プラトンは人間の魂の性質を理性をもつ魂(支配者階級)・気概を持つ魂(防衛者階級)・欲望を持つ魂(生産者階級)の三つに分けた(三分説)。これに対応する徳はそれぞれ知恵・勇気・節制であり、全ての人が自分の天分を守ると正義の徳が成立する。この知恵・勇気・節制・正義をギリシャ4元徳と言う。
プラトンは知恵の徳を持つ理性的な人間が王にふさわしいとし、理想国家の実現には、哲学者を王にするか、王を哲学者にするべきだと考えた(哲人政治)。そのための教育メソッドが『国家』に記述されている。

17、8~20歳までは音楽と体操
20~30歳までは算術、幾何学、天文学、音調学
30~35歳までは弁証法を学ぶことで善のイデアを認識できるようにする。
この教育を受けた人が35~50歳までのあいだ実務を修練して哲人王として国家を統治する。

これは良い王を育てるための教育であり、近代の公教育とは意味合いが異なる(帝王学に近い)。だが哲人王にふさわしい人物を見つけ、その人の素質にふさわしい教育を順序だてて行うという意味では、カリキュラム論の先駆けであるともいえる。

モンテーニュの『エセー』で示される教育観
モンテーニュはルネサンスの人文主義者。
遊びを通した自由な教育や、子どもの特性に合わせた教材の選択や支援、そして、それを行なう教師の資質や専門的能力を重視したエラスムスの教育法を学んだ両親によって育てられた。
モンテーニュは子育てを親が行うとどんなに賢い親でも甘やかしすぎてしまうので、他人(=教師)に任せるべきだと考えた。そして、子どもにどんな教師を付けるかによって教育の成果は決まると、教師の役割と、その選択の重要性を主張した。
教師の選択基準について、モンテーニュは、その教師がどれだけたくさんの知識を知っているのかよりも、人格や判断力を重視すべきだと考え、古代ギリシャの知徳合一を評価した(主知主義的な詰め込み教育を否定したと言える)。
教育の最終的な目標を徳のある人格の涵養であるとしたモンテーニュが特に重視した学術分野は歴史と哲学である。歴史は年号を丸暗記するのではなく、過去の人物や出来事を追体験し、自分の判断力の育成に活かすことを、哲学は小難しいことをしかめっ面で考えるのではなく、頭を柔らかくして楽しんで学び、それを自分の人生の生き方に具体的に役立てることを主張している。実学的なのだ。
さらに徳の涵養については大人、子ども、愚鈍、利発関係なく、快楽を育むものであり、それを養うのは努力ではなく節制であるとした。
また、教育とは、教科書だけではなく、あらゆる事物や経験を通して行うことができるとし、強制や体罰に訴えず子どもの自主性を重んじるべきだと考えた。これはルソーの教育論に影響を与えている(間違った行動も子どもの自由にさせ、その結果自業自得で苦しませることで、それがいけないことだと子ども自身に気づかせる手法など)。
ほかにも、モンテーニュは旅行の教育的意義(異文化体験)を説いている。

ルソーの教育論
ルソーはフランスの啓蒙思想家。近代教育思想の始祖、子どもの発見者といわれる。
当時のヨーロッパでは「子ども」という概念は実はなかった。子どもは「小さい大人」とみなされ大人と子どもは区別されていなかったのだ。ルソーは子どもが大人とは異なる独特の存在であることに着目し、その発達的特性を踏まえた教育メソッドを『エミール』において表したのである。
さて、ルソーは人間の理性を礼賛したほかの啓蒙思想家とは異なり、文明を否定的に捉える特徴がある。つまり人々の不平等の起源は文明(私有財産制など)であり、人間は理性によって人間になるのではなく、心情によって人間になると主張した。
ルソーの提唱した教育は「自然」「人間(他者の働きかけ)」「事物(物質的環境)」の三つの要素から成り立つ。この中で人間の力でどうにもならないものは自然であり、この3つの要素を調和させるためには、自然に人間と事物を合わせるしかないと考えた。
ルソーは、文明と離れた自然の状態によって育てられた人間は、人間本来の姿を持ち、自分自身の価値が自己の内部に存在するが、その対極である社会人の価値は、社会との関係という外部基準によって決まるものであるとした。
ルソーは「教育とは機械ではなく人間を作るものである」という有名な言葉を残しているが、ここでいう「人間」とは「もっぱら自分のためだけに教育された人間」を言う。これは自分自身さえよければいいという利己的な人間ではなく、人間として生活することができる能力を持った存在を指す。つまり肉体的にも精神的にも自立した存在を理想としている。この生きる力は、本来自分自身の内部にあるものであり、これを自然と呼んだ。
自然が人間の中で発達するには、

感性的判断(幼少年期)
悟性的判断(少年期後期)
理性的判断(青年期)


の3つの段階を経る。
幼少年期では子どもを自然に触れさせ、他人の手助けなしに必要なことをやらせるべきだとする。これにより子ども自身が自力で出来る範囲を知り、それに合わせて自分の欲望を抑制することができるようになる。
少年期後期では、学問を愛する趣味を与え、それが最も高まった時に学問を学ぶ方法を教える。この時期はひとつの対象に意識を持続的に向けられるように慣らす時期であり、子どもに学問を強制せず、子どもの欲求に基づいて学べるように配慮する。
これは子どもの理性に権威に服従する癖をつけさせないと同時に、自由な発想で規則性を発見したり、観念を整理したり、道具を工夫して使えるようにさせるために大変重要なことである。
教育とは大人が子どもに何かを詰め込むことではなく、子どもを援助し付き従うものなのである(消極教育)。教師は子どもが望むものを手の届くところに置いて、その欲望を生じさせ、それを満たす手段を提供させるだけでよく、学習の主体は子どもなのである。
青年期では自分以外の他者との関係を通じて自己を研究することが課題となる。これが人間の生涯の仕事でもあり、社会秩序の中で調和を保ちながら生きていくことを学ばなければならない。しかし情念を整備するのは人間ではなく自然であるとし、自然の中で人間は己の弱さを知り、その弱さが人間を社会的にするのである。

ヘルバルトの教育論
19世紀に教育学を科学的に体系化した人物として知られる。
教育学は教育者にとって必要な科学であるが、教育者は、相手に伝達するために必要な科学知識を持っていなければならないとし、教育が単に経験や慣習だけで行われてはいけないと考えた。
モンテーニュは教師の資質について知識よりも人格や判断力を重視したが、主著である『一般教育学』で「教授のない教育など存在しない」と論じたヘルバルトは、知識を再評価したと言える。
実際ヘルバルトは、子どもの自主性を重視したモンテーニュやルソーの教育観について批判を行っている。子どもを自然に任せるのではなく、教師の適切な手だてによって子どもの興味を引き出すことが重要なのだと考えたのだ。
ヘルバルトは、教育の目的(品格の陶冶)を実践哲学、手段を心理学に依拠した上で、「専心」(一つの対象に没頭すること)と「致思」(専心で得た知識を結合させること)の二つの概念からなる4段階教授法(明瞭、連合、系統、方法)という科学的なメソッドを組み立てた。

「明瞭」学習内容を限定化することで目当てを明確化する段階
「連合」明確化された学習内容を別の知識と調整する段階
「系統」連合で学習した知識を系統化する段階
「方法」系統化された知識を応用する段階


ヘルバルトのメソッドはツィラーやラインによって継承及び発展するが(5段階教授法になる)、後にディーイらに主知主義と批判される。

デューイの教育論
デューイはアメリカ生まれの哲学であるプラグマティズムを唱えた教育学者。
知識とは環境に適応するための道具なのだと主張(道具主義)。
知識とは常に修正を繰り返す仮説であり、普遍的な真理は存在しないというデューイの主張はダーウィニズムの影響を受けている。
倫理もその時の状況において道具として役に立つかどうかが重要だとした。
このような考え方は問題解決学習(子どもの自発性を重視する児童中心主義)としてアメリカの教育に大きな影響を与えた。
デューイの教育論はしばしば児童中心主義の側面のみが強調されるが、実際には子どもの4つの衝動(社会的衝動、製作の本能、探求の本能、表現的衝動)を前提とした教育者の指導の重要性も指摘している。その上でデューイは子どもの性格と無関係に学問の体系を押し付けても教育的な効果は少なく、子どもが抱く興味や衝撃を前提にして指導を行う重要性を説いた。
さらにデューイは「子どもは為すことによって学ぶ」と、木工、金工、裁縫、料理といった生活に役立つ作業によって社会的な意味を理解させるという学習法も提示している。

福沢諭吉の教育観
福沢諭吉は明治時代の武士であり、『学問のすすめ』というベストセラーを世にだした教育者でもある。この本の初編で、世の中の身分の違いや不平等は学問のあるなしによって生まれるとし、生まれた時は皆平等であり、さらに明治時代からは、誰でも学ぶ機会が等しく与えられるのだから、誰もが学問を収めなければならないと啓蒙した。
ここでいう学問とは専門的で難しいことをたくさん覚えるといったことではなく、手紙の書き方や帳簿のつけ方、計算の仕方といった普通の生活に役に立つ学問、つまり実学である。
明治時代からは生まれや身分によって社会的地位が決まるのではなく、その人の人間性や才能によって社会的地位が決まる。つまり社会的地位が高い人が尊いのは、その人自身が尊いのではなく、国家のために尊い仕事をしているからである。なにも学ばず、働かず、行動をしない恥知らずな人々が増えると、当然社会の治安は悪くなる。そうすると社会秩序のために政府は規則を締め付けなければいけない。国家をよりよくするためにも、全ての人が学問を修めることを奨励したのである。
その意味で福沢諭吉は機会の平等は評価するものの、結果の平等は本人の学習次第であると実力主義を認めている。一身独立して一国は独立する。この主張に、強い主体性を持った国民が国家をよりよくしていくという近代西洋の政治哲学の影響が見て取れる。

ゴーン・ガール

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆」

 彼女を怒らせるな。

 今日で仕事納めってことで、仕事帰りに『ゴーン・ガール』を鑑賞!除夜の鐘がゴーンゴーンゴーンガール…みたいな、SGA屋伍一さんですら脱力するであろうしょうもないネタのために、あえてこの日に観に行ったんだけど、そんな野郎は私以外におじさん一人だけ。そして、あまりの内容にいたたまれなくなったのか開始30分ほどでおじさん帰っちゃったから『ポリスストーリーレジェンド』以来の劇場貸切でした。
 デーブ・スペクターさんが「とくダネ!」か「ワイドスクランブル」か「ミヤネ屋」で紹介しそうなくだらねー海外ゴシップ映画かと思いきや、人間のアイデンティティの本質に迫るとても深い映画なのだ!

 とりあえずヤンデレと言われるシチュエーションが好きな人、ジェンダー問題について一席ぶつのが好きな人は必ず見なさい。ルソーは主著『エミール』で「自然人」の対立概念である「社会人」のアイデンティティを、自己のあるがまま全てではなく、社会との関係いかんによって決まる危ういものだと定義した。
 また、サルトルは「自由」とは、自分で自分のあり方を選択した結果を自己責任で引き受ける「義務」を伴うものだと考え、「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残している。結婚はそう言う意味で一夫一婦制という社会制度やそれに伴う男女関係を主体的に選択したとも言える。
 結婚が妻と夫がお互いに依存し合い、相手に自分を合わせて妥協するものであるならば、それは必ずしも幸福なことなんだろうかっていう。
 多分ね、この夫婦は子どもを作るのが遅かったんだと思う。だからこそのあのラストなんだよね。子どもがいれば親としてのデューティーも出てくるだろうよ。

 しかし女性と男性ってやっぱり決定的な隔たりがあるように思えてならない。ああいう「男性への依存」は近代のロマン主義の刷り込みでなっちゃったのか、もともとの生物的な性質なのかわからん。なんでそこまで異性の恋愛に没頭しちゃうんだろう。現実的であるとも言えるんだけど。
 だって男なんてもうどうしょうもないじゃん。それなのに結局「妻」という社会的役割にまるで吸い込まれるように戻ってきてしまう。そもそもセックスじゃなくてジェンダーは女性という社会的役割を指すわけで、やっぱり女性であるだけで、相当ストレスが辛いんだろうなあ。
 恋人がオタクだったら漫画を読み、スポーツマンだったらチアリーダーみたいな、ようは男にとって都合のいい女がいい女だからと悟った上で、それでも男に合わせてしまうっていう。
 少年漫画に対してすら、女性への抑圧を見て取る人もいるらしいしね。まあ少年漫画ってジェンダーあるに決まってるけど。少年漫画って「男の子向け」ってことだからな。
 でも結局、エイミーが嫌っていた「猿回しの猿のように夫を意のままに操る妻」という、かかあ天下構造になったわけで、だからこそジェンダー問題に興味がある人はぜひ鑑賞して感想を聞いてみたいんだよね。あれで満足するのか、そうじゃないのか。

 どうでもいいけれど、私は個人的に浮気夫ニックの双子の妹のマーゴちゃんがすごい好きだった。メガネっ娘だし。怪盗グルーのマーゴちゃんの大ファンだけにマーゴにハズレなし(まだ二例)!「下着を脱いだかも自分でわからない女なの?ファック!」という名言も素晴らしい。つーかこの兄弟ファックファック言い過ぎw
 こういう映画を見てても「推しメン」を見出してしまうところが男ってホントバカだと思うよね。作中男はいつもバカ扱いという名言が出てくるが、まさにおっしゃるとおりよ。
 女の子からの告白を承認したり、好きな人と一緒になるということが、ある種の社会的義務だということが抜けてんだ。これは人事じゃないんだけどね。だからそこまで恋愛ゲームは描いて全国の青少年に啓蒙しなきゃいけないよ。ほんとほんと。オタクってすぐ「嫁」を取り替えるじゃん。お前ぶっ殺されるぞって。

 そんな嫁エミリーが怖いという以上に…なんか、すごい哀しい。とにかく哀しい。人間である以上どんな人にも、どこかしらの欠陥はあるにしろ、エミリーはその欠落したピースが一般的な人のそれよりも多いんだよな。それは彼女のアイデンティティが他者…つーか作家の母親によって幼少期にすでに“完全に”担保されてしまった事。
 「完璧なエミリー」というチートキャラ的なラベルをがっちりお母さんに貼られてしまったもんだから、ありのままの自分でいられない。人間の本質っていうのはそういうもんだと思っている。「これが結婚よ」って。

 結婚はありのままじゃいられないのよって。

 人間というのは、多かれ少なかれ他者や社会とコミットして生きていく以上、エミリーの説はまこと正しいんだけど、それでも、すごい切ない。一見華やかなんだけどそれは虚飾で、すごい殺伐としていてニヒルな人間観。でもそのリアルじゃ生きていけない。
 ツイッターでも皮肉なのかしらねーけど、みんなの建前や了解事項、「それは触れないでおこうよ」ってやっているサンクチュアリを、いや本当はこうだからwって言ってる人いるけれど、それをやるのは子どもであってさ。そんなもん大人はみんな了解した上で生きてんだよっていうね。
 この社会が弱肉強食なのは当たり前じゃねえかって。それを今更指摘してお前になんのメリットがあるんだって話なんだよね。そうやって指摘するなら、お前はその生存競争に勝たなきゃいけないんじゃないか。勝負に参加する勇気もなく、ガヤから人と人との助け合いを冷笑しているっていうのは、結局こういうタイプの人も、リアリズムだけじゃ生きていけないからだろう。
 この世界のリアルを受け入れられるほど人間は強くない。承認欲求というロマンスが欲しい。だからあんな手の込んだ壮大なかくれんぼをしちゃうw私を見て。私はここにいるよって。

 教育学ではこういうのジョン・ボウルヴィのアタッチメント論って言うんだけれど、幼少期に周囲の大人(たいていは親)に“無条件で自分の存在を肯定”されなければ、その人は、自己や他者の存在を受け入れることが困難になるという。
 私なんかはそう言う意味ですっごい幸せな部類だと自分でも思う。マイペースなタイプだからあまり自分を他人や社会に無理して合わせた経験がない。自然体の自分を受け入れてくれそうなところにするするするって入っていっちゃうw
 これも子どもの頃、学校の先生とかに「しょうがねえか、田代だし」と、いい感じにラベル貼りを諦められたことが大きいと思う。「いいよ、お前はその路線で」って。それがありがたかった。教育とは矯正じゃないからね。放任じゃないか!って怒る人も今はいそうだけど、ルソー読んでみなよ。消極教育っていうのもあるんだぜ。
 でも、悲しいことに、エミリーは生まれた時から常に“条件付き”で愛されてきた。だからあの結末も、別のペルソナに取り替えただけで彼女の本質的な悲しさが何ら解消されていないから、カタルシスがないしゾッとしてしまう。
 『アナと雪の女王』が女性にあれだけ支持されたのも、きっと松たか子のレリゴーだけじゃないんだろう。

 何を考えている?どう感じている?

日本史概説覚え書き②

 ななななんと年末最後にすごい嬉しいことが起きて、超難関の日本史概説の試験が受かったんだよ!いや~一度は完全に諦めていて放送大学に転校まで考えていたんだけど、世の中希望を捨てちゃいけないね。
 で、本当この単位は厳しかったから、去年からいろいろ勉強して文章にまとめたんだよ。日本の歴史って言っても長くて、どこが試験に出題されるかさっぱりわからなかったからね。ほいで、せっかくまとめたんだったらブログに置いておこうと思って。そういうこと。

戦国時代の変動
室町幕府の8代将軍である足利義政は、頻発する一揆や飢饉に何ら有効な手が打てず趣味に没頭し、その上、増税や徳政令を無計画に実行し経済を混乱させた。足利義政には子どもができなかったため、弟の義視を養子にし後継者にする約束をしたが、その翌年、義政の妻、富子が妊娠したため、我が子を後継者にしたい富子と義視のあいだで後継者争いが始まった。
またこの時代には財産を後継者一人に単独相続させるようになったため守護大名の家督争いも激化、管領の細川氏が義視(東軍)に、侍所の長官=四識の山名氏が富子の息子義尚(西軍)にそれぞれ加わって、幕府・大名を二分する応仁の乱が始まった。この戦乱は全国に広まり、細川勝元、山名宗全が病死したあとも収まらず1467~77年の十年間も続いた。これにより京都は焼け野原、幕府や将軍の権威は失墜し、下剋上の風潮が盛り上がり戦国時代が幕を開けた。だが最近では、山城守護職をめぐる畠山氏の内部対立が応仁の乱の直接的原因であると言われている。
長期化した戦乱の世は、兵士の不足を招き、その補給を京都近郊の没落農民や浮浪者に求めた。彼らは元々浮浪者なので忠誠心は低く、いつ暴徒化するかもわからない無秩序な集団であったが、戦国時代では大きく活躍し、その地位を向上させていった。この新しいタイプの兵士が足軽である。

さて応仁の乱の後、室町幕府は山城一国しか支配できなくなり、地方では守護大名が家臣(守護代・国人)の下剋上にあい、そのほとんどが没落していった。下克上を退け守護大名からそのまま戦国大名へと移行した大名は駿河(静岡県)の今川、甲斐(山梨県)の武田、豊後(大分県)の大友、薩摩の島津などごくわずかだった。
尾張(愛知県)の織田や越前(福井県)の朝倉氏は管領の斯波氏の守護代からのし上がった戦国大名で、美濃(岐阜県)の斎藤氏はもともと油商人だった。戦国大名は地侍(農民の自治組織である惣の構成員で土着した下級武士)を家臣に組み込み有力家臣に彼らを監督させた。これを寄親・寄子制という。それと同時に地侍には年貢収入を一度現金に換算、その額に見合った軍役を課す貫高制を行なった。
また戦国大名は、自分の領国内に通用する分国法(壁書)を独自に作り、家臣団をまとめ上げた。分国法は喧嘩両成敗や結婚の許可制、罰則の連座制など厳しいものだった。さらに土地台帳を領主に提出させる差し出し検地や、治水、新田、鉱山や城下町の開発などといった富国強兵も行われた。

15世紀半ばから16世紀初めの大航海時代にはポルトガルが植民地を求めて海外に積極的に進出した。ポルトガルは日本にも来航し種子島に鉄砲を伝えた。鉄砲は国内でも生産されるようになり、戦国時代の戦に大きな影響を与えた。さらに鉄砲と並んで戦国時代に影響を与えたものが木綿で、当初は中国や朝鮮から輸入していたが、一六世紀以降国内でも生産されるようになり、兵士の服や帆船のマスト、火縄銃の縄などに用いられた。これにより中世の苧や麻が主流の時代は終わった。ちなみに織田信長は秀吉のことを木綿みたいなやつと呼んでいた。それくらい当時、木綿は重宝されていたのだ。
西洋との交流は日本にキリスト教も伝来させた。織田信長は敵対する仏教勢力(浄土真宗=一向宗。特に石山本願寺)に対抗するため、キリスト教の国内での布教を許可したが、キリスト教を受け入れるということは同時に南蛮貿易による利潤がセットで付いてくるということでもあり、それを目当てにキリシタンになる大名もいた。当初はキリスト教を認めていた豊臣秀吉が、九州平定の際バテレン追放令を出したものの、ポルトガル船舶の入港までは禁じなかったのはそのためである。

戦国時代の騒乱は織田信長によって収束へ向かい、その後を継いだ豊臣秀吉によって全国統一がなされた。その後、朝鮮出兵の際自軍の兵を温存させた徳川家康が、秀吉の側近石田三成を破り、征夷大将軍となって江戸幕府を開くことになる。
そして豊臣家の影響力を弱めるために、寺社の改修工事を命じた上、その時再興された方広寺の鐘の文字に言いがかりをつけ豊臣氏を攻撃(大阪の役)、二度目の大阪夏の陣で滅ぼしてしまった。これによって長き戦乱の世は幕を閉じ、天下泰平の世となった。

江戸時代の特徴

①封建制度
鎌倉時代から続いた封建制度を江戸時代も採用しているが、その内容は鎌倉時代や、室町時代とは大きく異なった。
鎌倉時代や室町時代の封建領主は各自に軍事力と司法権を保持していたが、江戸時代に入ると、領主が保持していた軍事力は幕府に引き渡され、それぞれの藩は幕府の管理下に入ることになった(幕藩体制)。三代将軍家光の時代には幕府は各藩の取り潰し権を獲得しており、幕府の方針に大名は従うしかなかった。幕府は宗教勢力や宮中も統治し体制を磐石のものとしている(寺請制度や禁中公家諸法度)。
とはいえ、各藩の財政政策については、幕府はそれぞれの大名の経営方針に任せていた(この点においては地方分権的であり、中国などの中央集権国家とは異なる)。つまり各藩は独自に採算をとり自立しなければならなかったのである。
さらに参勤交代性などで自分の領地と切り離された江戸の武士は封建的領主の定義にはもはや当てはまらないのではないだろうか?という指摘もある(尾藤正英著『江戸時代とはなにか―日本史上の近世と近代』)。
むしろ江戸時代の統治機構は、王と諸侯の緩やかな主従関係ではなく、そのあとの絶対王政に近いものなのではないのか、だからこそ明治維新での政治システムの中央集権化にスムーズに移行できたのではないか、というわけである。

②平和な時代が約260年続いた
①と重なるが、江戸時代の幕府の支配力は強力で内乱が発生する可能性は極めて低かった。
有力な大名であっても幕政には参加できなかったので、室町時代のように幕府が大名によって支配されることはなかったのである。また、一年おきの参勤交代によって諸大名の経済力を定期的に削減させたことも大きい。
さらに将軍家の後継者を選ぶ手順があらかじめ明確に定められていたので(御三家や大奥など)、後継者争いが起きなかったことも挙げられる。
次に外国からの脅威だが、日本は地政学的にもともと島で他国が容易に攻め入ることは陸続きの国よりも難しかったこと、また鎖国によって国内のみで経済が完結していたので、他国と積極的に関わることがなかった。

③庶民中心の文化が花開いた
江戸時代は長く平和が続き、社会が安定したので、経済活動が活発化、多様な文化や学問が発達することになった。特に支配階級ではなく、庶民階級から元禄文化や化政文化などの大衆文化(川柳、浮世絵、人形浄瑠璃、料理、旅行など)が花開いた点は江戸時代の大きな特徴である。
また戦国時代では戦の腕を磨いていた支配階級の武士も、釣りや園芸といった道楽をたしなんだり、学問を修めたりするようになった。松平定信は寛政の改革で朱子学を奨励している。文武両道のイメージはここから来ている。
また文化を嗜む上で支配階級庶民階級問わず識字率が飛躍的に向上した。藩校や寺子屋などの教育システムも発展した。

④米中心の経済システム
江戸時代は通貨のポジションを米(年貢)が担っていたため、冷害による凶作で度々財政難に陥り、食糧不足になることがあった。
18世紀には飢饉が頻発し、百姓一揆やうちこわしが増加した。幕府は重農主義から重商主義に切り替えようとしたり、質の低い貨幣を大量に発行したりと対応に追われたがうまくいかなかった。
そもそも米周りの社会には、藩の財政を安定させるために米の生産量を上げると、需給バランス的に米の価格が下がってしまうという本質的なジレンマが存在した。これにより武士階級も困窮し、商人が武士に変わって経済の主導権を握ることになり、有力商人の藩への献金が加熱した。

⑤鎖国体制
鎖国は、幕府が貿易による利益を独占するための策略であり、長崎で貿易を行う相手はオランダと中国に限定された。とはいえ、日本人の渡航禁止令は全国ではなく長崎奉行に出されたものである。
また外国との交流があった貿易港は長崎だけではなく、琉球王国と交易があった薩摩藩、朝鮮と公益があった対馬藩、蝦夷地のアイヌ民族と公益があった松前藩においても積極的な貿易が行われていた。これら3つの貿易港と長崎を合わせて「四つの口」と言う。
これらの貿易は、人的交流こそ制限されていたものの(民間貿易で国交は朝鮮を除いてなかった)物質的な取引は盛んであった。
鎖国という対外関係を一切絶った江戸時代のイメージは、ドイツ人のケンペルの著作『日本誌』を和訳する際『鎖国論』にしてしまい、その認識が江戸後期に広まったことによるものである。
なんにせよ江戸時代の長く続いた鎖国体制は、国際法の理解の遅れをもたらし幕末には欧米列強国と不平等条約を結んでしまう原因となった。

ベイマックス

 「面白い度☆☆☆ 好き度☆☆」

 ベイマックスもうだいじょうぶだよ。

 クリスマス如何お過ごしでしたか?3年前のクリスマスは漫画制作、おととしのクリスマスは『あなたが死んだら私は悲しい』が家に届き、去年のクリスマスは経済学の勉強。なんか近年ぱっとしてないので(いつもか)今年は仕事帰りに映画を観てきました。
 
 もう恒例だからネタバレじゃないよね?スタン・リーが出てくるシーンが一番面白かったw内容的にはマロさんおススメのアニメ映画『アイアンジャイアント』と『Mr.インクレディブル』を足したような感じ。特撮モノとか小さい頃ハマった人にはたまらないんだろうけど、私はまあまあだったな。『Mr.インクレディブル』も私ピクサー作品の中ではそこまでなんだよ(^_^;)
 なんでなんだろう。バイオレンス的だからかな。そう、ベイマックスって日本のCMは割と詐欺で冴えない少年と優しいロボットのほのぼのハートウォーミング映画ではない。普通のマーベル映画。
 そしてここ最近、私は普通のマーベル映画に食傷気味なんで、もう展開がほとんど予想できちゃってさ、予想できるくらいにマーベルのメソッドってしっかりしているとも言えるんだけど、もういい加減飽きちゃったよ、というか。前半過ぎたら、なんかもう、どうでもよくなっちゃって「ベイマックスもうだいじょうぶだよ」でした。
 で、なんで最近マーベル映画に乗れないんだろう?って思ったんだけど、ここんところ悪役に魅力が足りない気がする。超強い!っていうのはわかるんだけど、ただそれだけ。で、印象に残らない。キャプテンアメリカ2なんてテープになっちゃったゾラ博士は覚えているんだけど、キャップが結局どこの誰と戦っていたのはもう忘れた。ソー2もガーギャラも同じく。
 その点アベンジャーズはロキ様という濃い人がボスだったから、楽しかったんだけど。バトルものをやるなら絶対的に悪役って重要だと思うよ。

 ディズニーが手がけているから『シュガーラッシュ』くらいの面白さなのかなって思ったら『パシフィックリム』くらいだったっていう。私本当にロボットを見て奮い立つ気質じゃないんだと思う。そういう人と大きな隔たりがあるよ。
 パシリムで思い出したけれど、この映画って良くも悪くも日本のアニメや漫画のコンテキストを取り入れちゃっていて、ここら辺の評価は人によるだろうな。
 私は『アベンジャーズ』の時はキャラの立たせ方が日本っぽくてすごいなって思ったんだけど、だんだんハリウッドが日本のサブカルをリスペクトしすぎて日本のサブカル作品と変わらないもんを作ったらどうしようって思うようになってて、それは日本のサブカルがすごい好きで、アメリカとかがそれをマネするな!っていうわけじゃ全然なくて、むしろその逆。
 日本のしょうもないお決まりのコンテキストを変に取り入れすぎると、せっかくのアメリカ映画の格式が崩れちゃうよっていう心配(^_^;)私は日本よりもアメリカの作品の方が好きだから。 
 最近だと外国人が萌え風のイラストを描くようになってきてるじゃん。私は萌えが世界に認められたんだ!って喜ぶべきことじゃないと思うぜ。文化の多様性がならされちゃっているってことかもしれないから。オレたちが向こうのアメコミみたいな画風や内容ができるか?って言ったらそうでもないし。
 まあ、サンフランソーキョーがアキバとかじゃなくて上野や新橋っぽかったのは評価!アキバの電気街っぽいのは『カーズ2』のTOWKYOで一度やったしね。

 ということで等身大アイアンジャイアントって言っとけばだいたいOKな映画でした。ラストの展開も一緒だもんな。
 最後にクリスマスでラブラブしているカップルの写真を貼り付けとくよ。

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 ※撮影後スタッフが美味しく頂きました。

日本史概説覚え書き①

 去年挫折した地雷単位、日本史概説。一応試験が受けられるっていうから、ちょっとだけお勉強。これさえ突破すれば中学校社会の教員免許が一種にレベルアップするんだよ。フシギバナになるんだよ。
 でも、とても古代から現代までなんて全部覚えられないから(オレは頭脳王じゃねえ)、もうヤマをかける!日本史は漢字が変換できないからすごいやだ。高知公民とか。バッカじゃないの?

東アジアの中での古代王権の位置づけ
日本が古墳時代の4世紀、東アジアの情勢は緊迫していた。
中国では三国志の時代のあとにできた統一王朝であるが内乱や異民族の襲撃によって滅び、五胡十六国時代という多くの小さな王朝が分立した時代を経て、北魏と宗の南北朝時代に入っていた。
このような中国の政治的混乱を背景に、朝鮮半島では半島北部に勢力を拡大した高句麗が南部の百済と新羅を服属、奈良にあった大和政権の権益(大和政権は朝鮮から鉄を輸入していた)がある伽耶にも手を伸ばそうとしてきた。

大和政権は伽耶を守るため、軍を朝鮮半島に送り百済と新羅を破り、399年には百済と手を組み再び新羅を破った。
実際、大和政権の王に、百済王が作った七支刀(枝のような形の鉄の剣)が贈られており、当時の大和政権と百済の結びつきを表している。ほかにも百済からは儒教や医学、薬学ももたらされ、私有地や奴隷をもつ豪族の統治システムは百済の影響を受けているという。

すると新羅は高句麗に援軍を要請、大和政権は再攻撃を仕掛けるが、最終的に高句麗の猛烈な反撃にあい、朝鮮半島への本格的な軍事介入を諦めることになった。
高句麗の騎馬隊に苦戦した大和政権は同様の騎馬戦術を考案することになり古墳の中には馬具が埋葬されるようになった。

朝鮮半島の混乱から、中国や朝鮮から多くの人々が日本列島に移り住むようになった。これらの人を渡来人と呼び、大和政権に須恵器(見た目は弥生土器っぽいが青灰色の硬い土器)という土器と作る技術や、漢字が伝わることになった。

大和政権は朝鮮半島南部での立場を優位にするために、中国の南朝である宗に朝貢した。具体的には、讃、珍、済、興、武という5人の王が大体10年周期で来朝し貢物をした。その中には仁徳天皇もいた説がある。
大和政権は、日本と朝鮮を征服したのは中国に貢ぎ物を送るためであるというロジックで宗の王に取り入り、高句麗から大和政権が介入されないように政治的な工作を試みた。

大和政権は次第に勢力を拡大し、大王は連合政権の主催者から、各地の豪族にかばね(地位の称号)を与えて彼らを従えるようになった(氏姓制度)。
5世紀後半頃の埼玉県の稲荷山古墳で見つかった鉄の剣には「ワカタケル大王」と彫られており、大和政権の影響力が関東地方にまで及んだことを示している。このようなものは熊本県でも見つかっている。
その後6世紀になると大和政権は地方の豪族たちを地方官に任命して中央集権的に日本各地を支配するようになった。

律令国家の特徴
律令国家とは、成分法典である律令(律は刑法、令は行政法)に基づいて中央集権的に政治を行う国家のことで、中国の隋~唐で確立し、周辺諸国に普及した。
すべての国民や土地は王のもとに平等であるという体制であり、国民には王から平等に土地が与えられる(均田制、公地公民制)。また税(租庸調制)や労役、兵役(府兵制)も平等に課せられた。
法に基づいた政治体制なので、法を遵守する官僚が大きな役割を担っていた点も特徴である。ビューロクラシー。

日本では7世紀半ばに隋との国交を結ぶために導入され、大化の改新(豪族の権力者を倒す)を経て、701年の大宝律令によって完成した。
とはいえ8世紀初頭に出来上がった日本の律令国家は、集権的な側面と社会内部に残る伝統的体制(氏姓制度的な身分制度や、律と異なるローカルルール)が矛盾を含みながらも補い合う二重の構造があった。

6世紀後半、中国を隋が統一すると、危機感を募らせた日本の厩戸王(聖徳太子)は遣隋使を送り、古墳時代以来の中国との外交を復活、侵略の危機を乗り越えようとした。
しかし隋は日本の政治が遅れているという理由で国交を結ぶことを拒否、そこで聖徳太子は日本の政治の改革に乗り出す。
能力のある者は地位や血統問わず取り立てる冠位十二階や、豪族に官僚としての心構えを説いた十七条憲法を定め、天皇中心の中央集権体制を作ろうとした。
さらに聖徳太子は、隋が高句麗との戦いを目前に他の国と敵を作りたくないタイミングを見計らって遣隋使を再び送り、隋との対等な外交関係、推古天皇が日本の皇帝であることを認めさせた。

その後隋が滅び、660年に次の中国王朝である唐と、朝鮮半島の新羅が、百済と高句麗を滅ぼすと、日本は同盟国である百済を復興するために朝鮮半島に兵を挙げるが、大敗してしまう(白村江の戦い)。
そのため律令体制の確立には、バラバラになった国内の権力を統一し、唐と新羅に対抗する意味があった。
また百済滅亡により日本に多くの百済人が渡来すると、百済の進んだ文化が日本に伝わり木の板に文字を残す行政運営などが導入されることになった。

武士の発生
飛鳥時代から導入された律令制度、公地公民制という中央集権的な体制はある種の建前で、地方での実態は有力者が土地と人を私有していた。

平安時代に入ると、中央の貴族の地方の軽視はさらに進み、自身は現地に赴かず地方の政治は代理人に任せていた。京都での優雅な暮らしを捨てたくなかったのである。
また社会的地位の高い役職を藤原氏が独占していたため、すすんで地方での政治にとりかかった貴族(貴種と言う)もいた(源氏や平氏の祖先はこれ)。彼らは中央の目の届かないところで次第に勢力を拡大させた。貴種は狩りを生業とし弓馬に優れていた。

さらに中央政府は「平和な時代に必要がない」ということで、財政難の際に軍事力を削減させてしまった。平将門の乱が起こった時の中央政府の対応もすごい遅かったという。
実際、平将門の乱は中央政府が派遣した征夷大将軍によってではなく、地方の有力豪族(開墾に励んで領地を広げた有力農民)によって鎮圧されている。
このような地方の武装集団の結束力は強く、主に関東地方(東国)に多くいたという。彼らを鎮圧するために中央政府は武力を持つ武官(貴族のSPや屋敷の警備員をしていた人)を地方に送り込むようになる。
地方に派遣された彼らの一部はそのまま地方に定住し、地方豪族と交流、彼らを従えることことで武士団になった。

彼らの力は中央の貴族にも認められるようになり、地方の反乱鎮圧の際には積極的に重用されるようになる。
つまり公的に武装を認められたわけで、その点で武士とはヤクザではなく政府公認の州兵のようなものだったと言える(武装=武士ではない)。しかし彼らが都に帰るとその地位は非常に低く、下賎な者と軽蔑されていた。
とはいえ貴族の中には白河上皇のように武士を高く評価する者もいた。上皇が政治の実権を握る体制を院政というが、武士はこの院政に乗じて上皇に取り入り(ボディガードを買って出たり高価な贈り物をした)その社会的地位を向上させていった(貴族にはもちろん嫌がられた)。

武闘派の印象がある武士だが、都で学問を修めたインテリ派もいた(平将門、貞盛など)。源義家は「勇気はあるが教養はないよね」みたいなことを言われたことが、よほど恥ずかしかったらしく、兵法を一生懸命勉強したらしい。

内乱における悪党の発生と意味
悪党とはそもそもどういう存在なのか。自分のことを自ら悪党と名乗ることはないだろうから、彼らの存在によって被害を被る立場から名付けられた名称であることは想像できる。
悪党とは一言で言えば、鎌倉時代末期に幕府や荘園領主といったエスタブリッシュメント(既存体制)に抵抗する集団である。レジスタンス的な。
そこには地頭,御家人,非御家人,名主(名田=私有地の経営を請け負った有力百姓)などが含まれる。

悪党は「人」の身分標識である烏帽子袴を着用せず(アンチおじゃる丸)、「非人」の色である柿色の服を着用していたという。
博打や強盗を繰り返す生粋のワルで、命令に従うどころか裏切り行為は日常茶飯事、発生当初は十分な武具もなく、人数は10人、20人ほどの小規模な集団だった。
しかし悪党の勢力は、やがて幕府や守護も手がつけられないほどに拡大、荘園支配(貴族支配)を脅かすようになったという。

このような鎌倉時代の荘園制度に抵抗する新たな勢力はどのように生まれたのだろうか。
ひとつの理由として鎌倉時代に農業の生産性が上がったことが挙げられる。例えば二毛作(米を収穫したあとの秋~春に麦や大豆を作ること)など農業技術の進歩により莫大な財産を蓄えた百姓は、武士や御家人から土地を買い取ったり、土地を失った武士を雇ったり、自ら武装することで、新興武士になった。
とはいえ、当時社会的地位の高い役職は、執権北条氏の家督(得宗)に仕えた御内人(みうちびと)で占められており、そこに彼らのような新興勢力が入り込む余地はなかった。

しかし、その土地の有力者である悪党を新たな荘官として任命してしまう荘園領主も存在し、さらに元寇が起こった事でこのような非御家人を幕府が傭兵として動員したこと(=御家人制度が揺らいだこと)も、悪党の勢力拡大に大きくつながったと言える。
こうして悪党の数は、新興在地領主を中心に増えていき、その経済力と軍事力も拡大、城郭や櫓を建てて鎮圧軍と戦い、鎌倉幕府の支配系統を破壊した。
新しい社会を求めて旧体制と戦った彼らは、室町時代になると国人(地侍)と呼ばれ社会的に取り込まれ、新たな地域的な封建制度である守護領国制が出来る原因となった。

秀吉政権による天下統一
1582年織田信長が本能寺の変で自害すると、中国地方で毛利氏と戦っていた羽柴秀吉は京都に引き返し、山崎の戦いで本能寺の変の首謀者である明智光秀を倒した。
これにより信長の後継者としての地位を固めた秀吉は、1583年には織田信長の家老、柴田勝家や滝川一益を退け、1584年小牧・長久手の戦い(愛知県)で織田信雄と徳川家康を屈服させた。
秀吉は大坂城を築き、公家の内紛に乗じて関白に就任(1885年)、姓は藤原となり、その権力を拡大させた。
ちなみに摂政は天皇が幼かったり、病気だったり、京都にいない時に国政を代行する役職で、最終決定権もあるが、関白の方はあくまでも天皇の補佐役でアドバイス係といった感じだった。

とはいえ1586年には太政大臣(律令制の最高役職)にもなり、ここで豊臣という姓が与えられた。関白から太政大臣という官僚のエリートコースを手堅く登った秀吉は(摂政や関白の経験者でないと太政大臣になっても名誉職扱いで実権がなかったらしい)、天皇の名を使って大名同士の争いをやめさせ、それでも争っている大名には攻撃を加えた。
九州の島津家、小田原の北条家、東北地方の伊達家などに勝利し、1590年についに天下統一を果たす。

こうしたサクセスストーリーの背景には大坂・京都・伏見・堺・長崎などの重要都市や、佐渡金山や石見銀山などの鉱山の支配によって得た経済力があった。
また秀吉は金貨としては当時世界最大級の大判を鋳造している。これは貨幣として流通していたわけではなく(持ち運び大変)、トロフィーとして使われていたらしい。

秀吉が行なった政策で有名なものが太閤検地と刀狩りである。

まず太閤検地だが、平安時代からの荘園制では税を徴収するものと納税者の関係が極めて複雑で(鎌倉時代に守護地頭などを追加しちゃったため)、それを解体し、分かりやすい制度に一元化することにした。
秀吉は、各地で農地の面積や生産性、耕作者のデータベース(検地帳)を詳細に作らせ、「一地一作人」の原則を導入、1つの土地の耕作者から直接税を納めさせることに成功した。
この改革の結果、荘園制で中抜きをしていた公家や寺社(出版業で言うならトーハンみたいな)の権益はほとんど削がれることになった。
太閤検地は、征服した領地や屈服させた大名の領地にも行われ、土地の生産力は全国一律で「石高」で表されるようになった。この石高を基準にして秀吉は各領地の仕事の負担量を決めていた(石高制)。これは江戸時代にも引き継がれ明治時代の地租改正で廃止された。

次に刀狩りである。1588年大仏を作るためという口実で、百姓たちから武器を取り上げて武力解除をさせたことに始まる。
戦国時代の合戦で歩兵として戦っていたのは農民なので、兵士と農民の境界はほとんどなく、農民が武器を所持するのはある意味当然だったのだが(実際秀吉の出自は農民)、秀吉は農民を農業に専念させるため兵農分離を試みたのである。
この刀狩りは秀吉政権の役人が直接農村に出向いて武器を取り上げたのではなく、農民に城で誓約書を書かせただけで、農民に自主的に行わせたのだという。
また徳川家康や毛利輝元といった有力大名の領国には公布されず、主に九州で行われた。
さらに刀狩りは武器であるとともに儀式的アイテムとしての意味合いが強かった刀に限定されており、鉄砲には適用されなかった(鉄砲は害獣駆除に役立つため農具扱い)。
このことから刀狩りは農民の武力解除のために行なったというよりも、農民から帯刀権を奪い、身分制度を徹底させる側面が強かったと考えられている。これは江戸時代の士農工商につながった。

秀吉は、国際的な貿易ネットワークを構築するために、早くから大陸への出兵を表明していた。
天下統一後、朝鮮に対し日本への朝貢と明への侵攻の協力を求めた秀吉だったが、これを拒否され、1592年、秀吉は朝鮮に大軍を送り戦争を仕掛けた(文禄の役)。
現在のソウルに当たる朝鮮の都を落とした秀吉軍だったが、各地で義勇兵が抵抗し、海上では李舜臣の朝鮮水軍が日本を破り苦戦を強いられた。
さらに明からの援軍が送られると、秀吉軍は劣勢となり休戦することとなった。
しかし、明との講和交渉が決裂すると(秀吉はすごい無茶苦茶な要求をしたらしい)1597年、秀吉は朝鮮半島に再攻撃を仕掛けるが(慶長の役)、やっぱりダメで1598年には秀吉が病死。
これを受けて、徳川家康や石田三成が全軍撤退を命令、戦いは集結した。
この朝鮮出兵により、多くの百姓が動員され(戦場に物資を運んだ)、国内では農業をする人が減り、田畑は荒れていった。もちろん武将たちの関係もギクシャクし、豊臣家の没落が早まることになった。

江戸時代の対外関係
南蛮貿易が盛んになった戦国時代、フランシスコ=ザビエル、ガスパル=ヴィレラ、オルガンティーノ、ルイス=フロイスといった宣教師たちが日本にやってきた。
宗教改革で、プロテスタントに驚異を感じたカトリックが積極的に当方へ布教を行なったためである。

江戸幕府を開いた徳川家康は、そのまま外国との貿易を続け、九州の平戸に商館を設置し、新たにイギリスとオランダとも貿易を開始する。また東南アジア諸国とも積極的に貿易を行い、九州の大名に朱印状と呼ばれる貿易許可証を発行した。
一説には、江戸時代の基本的な社会制度は、豊臣秀吉の時代に石田三成が考案したものをそのまま受け継いだと言われており、江戸に入って直ちに鎖国に踏み切ったわけではない。

だが、プロテスタントの国であるイギリスとオランダが、カトリック(イエズス会など)の日本での布教は日本を植民地支配するためであると政治的な工作をし、これを受けて幕府は1612年に幕府直轄領にキリスト教の禁止令を出し、1613年にはそれを全国に広げた。1629年には踏み絵が導入されている。
1635年には渡航が禁止。これに伴い、朱印船貿易や東南アジアの日本町は終わりを迎える。

1637年にはキリスト教信者による農民一揆、島原・天草の乱が発生し、幕府は12万もの兵で鎮圧、この事件によって幕府のキリスト教への弾圧はさらに厳しくなった。その一環として行われたのが、宗門改である。

さらにポルトガルとの国交を断絶(1639年)、平戸のオランダ商館は1641年に長崎の出島に移された。これにより長崎で貿易を行う相手はオランダと中国に限定された。
この一連の鎖国への流れは、幕府が貿易による利益を独占するための策略であった。
とはいえ、日本人の渡航禁止令は全国ではなく長崎奉行に出されたものである。

また外国との交流があった貿易港は長崎だけではなく、琉球王国と交易があった薩摩藩、朝鮮と交易があった対馬藩、蝦夷地のアイヌ民族と交易があった松前藩においても積極的な貿易が行われていた。これら3つの貿易港と長崎を合わせて四つの口と言う。
これらの貿易は、人的交流こそ制限されていたものの(民間貿易で国交は朝鮮を除いてなかった)物質的な取引は盛んであった。

鎖国という対外関係を一切絶った江戸時代のイメージは、ドイツ人のケンペルの著作『日本誌』を和訳する際『鎖国論』にしてしまい、その認識が江戸後期に広まったことによるものである。

18世紀末になるとロシアやアメリカという列強国が日本にやってくるようになる。
1792年、ロシア使節ラクスマンがアリューシャン列島に漂流した三重県の漁師とともに根室に来航。ラクスマンは日本に交易を求めたが、日本は拒否し、1804年にロシア使節レザノフが長崎に来航した際もこれを拒否している。

1808年には、オランダ船のフリをしたイギリスの船が長崎に侵入するフェートン号事件が発生。これを受けて幕府は外国船打ち払い令(1825年)を出す。
しかし、1842年アヘン戦争に負けた清がイギリスに開国をさせられたことを知った日本は外国船打ち払い令を緩和せざるを得なかった。

1853年と1854年にアメリカのペリーが軍艦で来航すると、日本は開国の要求を断れず、伊豆の下田と北海道の函館を開港する日米和親条約をアメリカとの間で結ぶ。
アメリカは中国との貿易船や、北太平洋が活動する捕鯨船が立ち寄る寄港地として日本に開国を求めたという。
日米和親条約第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというものだった。
これにより日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。

さらに1856年に下田にやってきたアメリカの総領事ハリスは1858年に日米修好通商条約を結ぶことに成功する。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。
ハリスが通した1ドル銀貨1枚=一分銀3枚という超円安為替レートは、おびただしい量の金貨を国外に流出(ドルを一分銀→両→小判→ドルと両替するだけでボロ儲けできた)、日本は深刻なインフレに見舞われた。

同時に、関税自主権が日本に認められなかったことで安価な外国産の綿織物や絹織物が流入、国内産業は壊滅的な打撃を受けた。そのため1866年には一揆の件数が最多になり、外国人を追い払う攘夷思想が高まった。
このような不平等条約を幕府が結んでしまった原因としては、長く続いた鎖国体制のため、幕府の国際法の一般的な認識に乏しく、ハリスが提出してきた要求をそのまま受け入れてしまったことが挙げられる。

天皇の許可を得ないまま通商条約に調印した井伊直弼が1860年に暗殺されると(桜田門外の変)、幕府は、これまでの独裁体制を改め、徳川家茂と和宮の降嫁に象徴される公武合体路線に舵を切っていくことになる。
これは幕府に対抗できない朝廷の力を見越していた老中安藤信正が、朝廷の権威を利用して幕府の再強化を目論むものだったが、その構造に気づいた薩摩藩は倒幕運動に力を入れていく。

また四国連合艦隊下関砲撃事件で武力的な攘夷が現実的に不可能であると知った長州藩は、幕府に撮り潰されることを危惧し薩摩藩と接近する。
そして1867年、倒幕を目標に手を生んだ薩摩藩、長州藩と公家の岩倉具視の働きかけで、朝廷は王政復古の大号令を発した。これにより江戸幕府という武家政権はなくなり、天皇中心の新しい政府が樹立される運びになった。
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