イギリス文学史近代編。
参考文献:荒巻哲雄、岡地嶺著『英文学読本』
Milton時代(1625~60)
清教徒の時代。
トラファルガー沖でスペインの無敵艦隊を退け、北米に植民地を作り、インドに東インド外社を設立し、国威を発揚したエリザベス女王だったが、子どもがいなかったためテューダー朝は終わり、スチュアート朝になる。
ジェームズ一世と、その子のチャールズ一世は王権神授説を唱えて議会と衝突、オリヴァー・クロムウェル率いる議会軍に敗れたため、この時代は清教徒の勢力が強かった。
この時代を代表する大詩人、ジョン・ミルトンもまた清教徒であり、彼の芸術は文芸復興と宗教改革の両精神を融合させ、基督教(キリスト教)と異教を完全に調和させているところに特徴がある。
ミルトンの作家生活は三期に分けられる。
第一期(1629~38)は叙情詩の時代である。ケンブリッジ大学在学中の『キリスト降臨の朝に』に始まり、牧歌風の哀歌『リシダス』で終わる。リシダスは溺死した友人エドワード王を追悼する歌であるが、当事の宗教的堕落に対する激烈な怒号が効かれる。
第二期(1639~60)は散文の時代である。大陸旅行中に、故国の急変を知り、帰国して政界入りした。それはクロムウェル政府の週末まで続いた。
特に1641年の『スメイクティムニューアス』は、国教会派と清教徒派に宗教論争を引き起こした。ミルトンはほかにも、言論の自由についての散文『アレオパジチカ』や、『離婚論』、『教育論』なども発表している。
第三期(1660~74)は叙事詩の時代である。三度目の結婚をし、すでに失明してしまったミルトンだったが、その中で宗教文学、また英国叙事詩において最高峰と仰がれる『失楽園』12巻を執筆した。崇高なこの作品は、アダムとイヴの物語を中心に、神と悪魔の戦いを荘重な文体で書き上げている。
この時代の思想家には、主権者に絶対的権利を与えんとするトマス・ホッブスがいる。これに対し、ジェームズ・ハリントンは政治小説の『ザ・コモンウェルス・オブ・オセアナ』(洋上の共和政治)で反駁した。
劇においては、シェイクスピアなど未曾有の最盛期を迎えたエリザベス時代が過ぎ、ジェームズ一世の時代には衰微の兆候が見られたが、これは優れた劇作家が少なかった理由以外に、清教徒たちの潔癖な演劇廃止論の影響があった。これはチャールズ一世の時代にはさらに極端になり、1642年にはとうとう劇場が法律で閉鎖、王政復古まで禁止されてしまったのである。
Dryden時代(1660~1700)
王政復古~名誉革命の時代。
清教徒の厳しい倫理と武力政治に抑圧された共和制は12年で崩れ、チャールズ二世が議会に迎えられ王政復古となった。しかしチャールズ二世は民権を無視し、旧教の回復を図ったため、議会は旧教徒を官吏や議員から締め出した。この頃、王権を主張する保守党と民権を主張する自由党が生まれた。
最終的にウィリアム三世の頃に名誉革命が起き、王位相続者は新教徒に限ることを決議した。
この時代の文学は知性的で、風刺や喜劇が栄え、本質的に散文の精神が出来上がり、18世紀文学へと発展していった。
この時代を代表する作家ジョン・ドライデンは、詩、劇、批評を書いた。
ドライデンは最初はクロムウェルを称える詩を書いたが、その後チャールズ二世の時代になると王に迎合した。
『驚異の年』は、初期の傑作とされる風刺詩である。
しかしドライデンの風刺の真骨頂は、ジェームズ二世の王位継承問題を扱った政治的風刺詩の『アブサロムとアキトフェル』である。
宗教問題でもドライデンは新教から旧教へあっさり乗り換えたが、『俗人宗教』で国教会を擁護し、『牡鹿と豹』ではカトリック教会を牡鹿、国教会をヒョウなどとそれぞれ動物に見立てて宗教論争をイソップ的に風刺した。
ドライデンが詩において多用した、ヒロイック・カプレット(英雄対連。高尚な雰囲気の対句)は次のポープに代表される擬古典派の詩形となった。
また、ドライデンは近代散文の父であり、英国批評の父でもある。1668年の『劇詩論』では、テムズ川に舟を浮かべ、そこで文学について対話する内容で、ドライデンがすでにチョーサーやシェイクスピアの才能を高く評価していることがわかる。
この時代の新ジャンルとして日記文学がある。これは政治家のジョン・エヴェリンと、海軍官吏サミュエル・ピープスという二人の優れた日記から生まれた。特にピープスの日記は、暗号を駆使して自分の身辺から宮廷生活までが赤裸々に綴られている(文学として書いていたのだろうか)。
思想では、ジョン・ロックがカントの批評的経験論の先駆けとなり、ベーコンの認識論をさらに発展させた。主著の『人間悟性論』は17~18世紀のイギリス思想に大きな影響を与えた。
清教徒の時代に禁止されていた劇は、王政復古の反動で最も隆盛した。
ドライデンの作品では、チャールズ二世が好んだ悲喜劇『スカーレット・ラブ』や、悲劇『グラナダ征服』、喜劇『当世の結婚』などが代表作として挙げられる。
当時はフランス好みのチャールズ二世の影響を受けて、フランスの劇作法が流行った。
また、喜劇のほとんどが散文で書かれ、悲劇は韻文(詩など規則性のある文章のこと)で書かれた。
Pope時代(1700~50)
散文と理性の時代。
アン女王はスコットランドを併合し、英国をグレートブリテンと称した。またアメリカに13の植民地を作り、国政を振るった。
次の王ジョージ一世は、ほとんどドイツに居住していたので政治的責任は国王ではなく内閣が取るという責任内閣制が確立した。
その次のジョージ二世は、植民地政策に力を入れ、競争国フランスを圧倒した。
文壇も、この気運を反映して隆盛した。常識や良識が尊ばれ、想像力は理性の強い制約を受けたため、詩よりも散文が栄えた。この時代の詩は擬古典主義と呼ばれている。
ドライデンの死後、名実ともに詩壇の王者となったのがアレクサンダー・ポープである。ポープはドライデンに倣って、ヒロイック・カプレットを駆使して、シェイクスピアに次ぎ、ミルトンと並ぶほどの格言を作った。
ポープはホメロスの翻訳によって9000ポンドを得たため、生活が安定しパトロンから自由になった。この独立は文学史上画期的な出来事だった。ポープの作家人生は三期に分けられる。
第一期が模倣時代である。詩的であり独創的な点はほとんどない。しかしポープっぽくない真っ当な詩である『髪盗み』など傑作がある。
第二期が翻訳時代である。ホメロスの『イリアス』や『オデッセイ』をヒロイック・カプレットの形式で翻訳した。
第三期が創作時代である。ドライデンの風刺詩の伝統を受け継いで、自分の気に入らない連中を攻撃する『馬鹿者の歌』を書いた。
また書簡体詩『人間論』は宇宙は神の意思に基づいて完全であるという18世紀的思想を歌った。
ポープは仲間と共にスクリブレルス・クラブという学識の濫用を風刺するグループを作り、文学、政治、宗教、社会などを論じていた。
その中にはドライデンの弟子で『ガリヴァー旅行記』の作者のジョナサン・スイフトがいた。本作は航海記の形式をとり、第一部は小人の国リリパット、第二部は巨人の国ブロブディンナグ、第三部は空飛ぶ島ラピュタと哲学者や科学者の国バルニバービ、第四部は知能のある馬と、知能のない人間ヤフーの国フウイヌムを冒険する。これは決して子ども向けの童話ではなく、全てメタファーで人間痛罵の叫びである。
また英国小説の父と呼ばれるダニエル・デフォーは『ロビンソン・クルーソー』を発表している。これもやはり航海記で、無人島に漂着したひとりぼっちの水夫のサバイバルライフが写実的に描かれている。
しかしポープやスイフトの作品が上流階級の教養人に受けたのに対し、デフォーは新興のブルジョワ層に迎えられた。そして、その両方の層に受け入れられたのがジャーナリズムの発展によって一層一般化したエッセイだった。
Johnson時代(1750~98)
啓蒙主義の時代。
この時代最大のできごとは、1776年のイギリスからのアメリカ独立である。大陸ではヴォルテールやルソーによる啓蒙主義が盛んになり、自由・平等・博愛を唱えて1789年にフランス革命が起きた。イギリスでは産業革命が始まりつつあった。
イギリスの思想界は、前世紀末にロックが理性を重んじ、今世紀に入るとジョージ・バークリが唯心論を唱え、懐疑的実証主義者のデヴィッド・ヒュームが先人の思想体系を是正し独自の経験主義を説いた。これらの偉業はドイツのカントに引き継がれた。
ヒュームの友人のアダム=スミスは『道徳感情論』や『国富論』を著し、倫理学や経済学に大きく貢献した。
サミュエル・ジョンソン博士は英国中部のリッチフィールドの書店の子として生まれ、オックスフォード大学を貧しさのために中退した。かなり年上の未亡人と結婚し、ロンドンに上京、雑誌に教訓的な風刺詩や小説、批評を投稿して生活していた。
ジョンソンは記憶力に優れ、トークが上手で人情に厚かったので、当時の文壇の中心人物となり、その人となりは、伝記文学の最高峰ジェームス・ボスウェル作『サミュエル・ジョンソンの人生』に描かれている。
ジョンソンの文学会には、大物政治家のエドマンド・バーク、小説家は詩人のオリヴァー・ゴールドスミス、劇作家で政治家のリチャード・ブリンズリー・シェリダン、名優デヴィッド・ギャリック、歴史家エドワード・ギボン、音楽家チャールズ・バーニー、肖像画家ジョシュア・レイノルズ、経済学者アダム=スミスなど各界の一流人物が集まった。
正義と自由の闘士バークはホイッグ党の代議士で、フランス革命の非を説いた『フランス革命への反省』は大陸に大きな影響を与えた。
散文ではスイフトとデフォーのあとを受けて、教育はないがラブレターの達人サミュエル・リチャードソンと、彼のライバルで貴族出身のヘンリー・フィールディングが活躍した。
手紙書きが大好きで、それがきっかけで作家になったリチャードソンは、書簡体小説『クラリッサ・ハーロー』で、これまで王侯貴族や英雄だった恋愛小説の主人公に市井の庶民を選び、イギリス本国を越えて大陸でも広く読まれた。これはフランスの『新エロイーズ』やドイツの『若きウェルテルの悩み』などに影響を与えている。
フィールディングの代表作『ジョゼフ・アンドリュース』はイギリス版ドン・キホーテといった内容だった。また『トム・ジョーンズ』は18世紀イギリス小説の最高傑作とされている。これは捨て子のジョーンズが、金持ちに拾われて成長し、美少女ソフィアと結婚するまでを描いた写実小説である。
この時代の詩は、ロンドンと遠く離れた地方の神秘的な民間伝説や中世の物語などが歌われるようになった。民謡や歌謡の編纂も目立ち、アラン・ラムゼイはスコットランドの古歌を集めて出版し、トーマス・パーシーは古い民謡や中世の叙情詩を集めて『英国古詩集』を作った。
Wordsworth時代(1798~1830)
ロマン主義の時代。
産業革命の結果、都市化が進み、人口が増大し、食糧問題や移民問題も発生した。
資本主義の確立は、中産階級の勢力が増した。科学の研究も進んだが、アダム=スミス以後、功利主義のミルや、人口論のマルサス、資本主義経済学のリカードなど経済学に多くの業績が出た。
またフランス革命を批判したバークを鋭く反駁したトマス・ペインは『人権論』『理性の時代』などを執筆し、フランス革命を擁護、イギリス急進派の中心となった。
19世紀前半は18世紀に反抗した時代で、理性に代わって、想像と感情が重んじられた。文芸復興期にも重ねられる、このロマン主義時代はウィリアム・ワーズワーズとサミュエル・テイラー・コールリッジの合作詩集『叙情民謡集』の出版から始まった。
ロマン主義の特徴は、自然愛好、中世趣味、超自然主義、異国情緒、革命精神、ギリシャ精神などが挙げられる。
ワーズワースの仲間たちはイギリスとスコットランドの国境地方の湖畔に住んでいたので、湖畔詩人と言われる。
ワーズワースは若い頃フランス革命に共鳴したが、やがて保守的になった。コールリッジとの友情の結晶『叙情民謡集』は、コールリッジの中世、異国趣味、超自然の神秘に満ちた長編『老水夫の歌』から始まる。続いてワーズワースの『ウィーアーセブン』『イディオット・ボーイ』など新奇なバラードがあって最後に自然と人間との神秘的な関係を歌った『ティンタン寺院の詩』で終わっている。
コールリッジは、中世趣味の物語詩『クリスタベル』、騎士の悲哀を歌った『愛』、フランス革命の幻滅を歌った『フランスの詩』、自身の詩的想像力の衰えを嘆いた『落胆』などを書いた。彼の詩の世界はロマン情緒の精華であり、この境地を開いた詩人は、ほかにはスペンサーとキーツだけである。
ウォルター・スコット卿は、エジンバラ生まれの詩人で『スコットランド国境の歌』で国境地方の民謡を集大成し、『最後の吟遊詩人の歌』『マーミオン』『湖上の美人』などの傑作は、中世的な雰囲気の中に面白く筋が発展しており、その舞台を一目見ようとスコットランドの山野に旅行者が押しかけたほどだった。しかし、その人気もバイロンの登場により衰えたので、小説に転向したが、これまた大ヒット作家になった。
ジョージ・ゴードン・バイロン卿の詩は、スコットの小説とともに大陸で最も読まれた。彼は最初ポープ流の風刺詩『イギリス詩人とスコットランド批評家』を出した数年後、ポルトガル、スペイン、ギリシャ各地を旅行して、異国情緒の詩『チャイルド・ハロルドの巡歴』を書き、英国社交界の花形となった。しかし女性問題でイギリスから大陸に渡り、作家活動を続けた。バイロンは情熱と自由と力の詩人で、推敲せず一気呵成に作品を作り上げるため、ときに詩が散漫になるのが欠点とされる。
ちなみに『かの女(ひと)は美に包まれて歩む』は『いまを生きる』で引用されている。
また、バイロンは、『無神論の必要』を出版してオックスフォード大学を追放された叙情詩の名手パーシー・シェリーとともに因習道徳に反抗したため、悪魔派詩人とも呼ばれる。シェリーは愛と革命の詩人であり、愛する海で溺死した。
シェリーよりも若くして病気でこの世を去ったジョン・キーツは美と青春の詩人である。キーツはロンドンの貸馬車屋の長男で、教育はあまり高くなく、一時は外科医の見習いになったこともあったが、熱心に詩を創作し、ハントやハズリットと知り合い、本格的に詩人として生きる決意をした。先輩詩人ではスペンサーやミルトン、シェイクスピアを尊敬し、同時代ではワーズワースの強い影響を受けた。
この時期の詩壇の層の厚さは驚異的だったが、散文では小説、批評、随筆などの活躍が目立った。小説では前述のスコットや、『高慢と偏見』『エマ』『説得』などで知られる女流作家のジェーン・オースティンがいる。中産階級のごく平凡な日常生活を女性らしい微妙な感情で描いたオースティンはロマン主義よりは自然主義に近い作風を残した。
劇においては上演や批評は盛んだったが、創作は極めて低調だった。
英米文学2覚え書き①
2017-05-05 19:24:39 (7 years ago)
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- 文学
案の定、連休恒例の体調不良ですが、なんとか勉強してます。前回の英米文学がアメリカ文学で、今回はイギリス文学。学習内容がかなり異文化理解とかぶる(理解が深まる)。
ちなみに今回のテキストは、その時代を代表する作家によって時代分けがされている。ちょっとMYSTっぽくてかっこいい。
参考文献:荒巻哲雄、岡地嶺著『英文学読本』
Beowulf時代(1066年以前)
古英語の時代。
ブリテン島に住む最古の民族はケルト民族の一部であるブリトン人で、彼らは紀元前からブリテン島に住んでいたが、紀元前55年にローマのシーザーに征服されて以来、ローマ文化やキリスト教の影響を受けた。
5世紀の初め頃、ローマがブリテン島から撤収したことに乗じて、今度はデンマークからドイツ北方に住んでいたアングロサクソン人のゲルマン民族が侵入し、先住民を追い払った。「アングロ人の土地」という意味のイングランドとはこの時(449年頃)名付けられた。
やがてアングロ人は、ノーサンブリア、イーストアングリア、メルシャの三王国を、サクソン人はエセックス、サセックス、ウェセックスの三王国を、そしてジュート人はケントの一王国を樹立し、7王国時代となった(厳密にはもっとあったらしいがキリがいいということで)。
その時の国語は、低地ドイツ語系でこれを古英語という。古英語の時代はノルマン征服がおこった1066年までであるが、西洋史では5世紀のゲルマン民族大移動から14世紀までを中世としているので、学者によっては中世前期とも言われる。
『ベオウルフ』とは、スウェーデンの勇者ベオウルフが巨人や火を吐くドラゴンと戦うゲルマン民族の英雄叙事詩で、7・8世紀に書かれたファンタジーのパイオニア的作品である。
この時代の文学で最も古いのはWidsith『遠く旅せる者』で、5・6世紀には伝誦(口から口へ伝わること)されていた。これは吟遊詩人(グリーマン)が旅行中に見聞した事柄を歌ったものである。
他にも挽歌(エレジー)の『旅人』や『海行く人』、キリスト宗教詩でカドマン作とされる『創世記』(ジェネシス)、『出エジプト記』(エクソダス)、『キリストとサタン』などが挙げられる。さらに『謎』は短詩を集めたもので、人事や自然現象の寓意詩であり、『モールドンの戦い』は歴史上の戦争の詩である。
古英語で書かれたこれらの詩の特徴は、それぞれの行に4つの強勢(ストレス)があり、その中央に区切りがあって、しかも4つの音節のうち、2、3つは必ず頭韻(オルタレーション)を踏み、脚韻(フットライム)は踏まない点である。
散文では、ウェセックスのアルフレッド大王は『アングロサクソン年代記』を編纂した。
文教に理解がある大王は、スペインの僧侶オロシウスの『歴史と地理』、ローマの哲学者ボエティウスの『哲学の慰め』、イングランドの僧侶ベーダの『英国教会史』などを翻訳した。
Chaucer時代(1066~1500)
中世英語の時代。
アングロサクソン王ハロルドはヘイスティングスの戦いでノルマンディーのウィリアム征服王に敗北、これにより英国は大陸と交流が盛んになり、中世特有の封建制度が発達、カトリック教国になった。
フランスやラテンの文化はかつてのアングロサクソンのそれを衰退させたが、言語に関してはアングロサクソン語がフランス語を征服しミドルイングリッシュ、中世英語ができた。
ノルマン王朝は直系の王が絶えたので、フランスからヘンリー二世を迎え、イギリス王がフランスの支配もすることになった。これが百年戦争や薔薇戦争につながることになる。
また、この時代は十字軍の聖地奪還、国王の暴政、聖職者の腐敗なども起きたが、産業は徐々に発達し近代社会へ推移していく。
イギリスの文学が注目されるのは、中世後期からであるが、この時代の文学は古代英語の詩の伝統が残っている西部と、フランス文化の影響が強い東南部に現れた。
西部の詩人には、身分の低い聖職者だったウィリアム・ラングランドがいる。『農夫ピアズの幻』は、二部作で、一部では教会や僧侶の腐敗や上流社会の悪徳を痛烈に批判して労働の神聖を説き、二部では七つの大罪を寓意化して真理の探求を説いた夢物語である。
もうひとりの詩人は、技巧の完全さからアーサー王物語の中でも最も優れたものであるとされる『ガウェイン卿と緑の騎士』を書いたが名前は不明である。
東南部では、教養が高くラテン語、フランス語、英語などで『恋人の告白』(恋に起こりがちの失敗談を教える内容)などの詩を書いたジョン・ガワーと、その友人で後に「英詩の父」と呼ばれるジェフリー・チョーサーがいる。
チョーサーはロンドンの酒商人の子で、市井と宮廷、平和と戦争、実務と外交などあらゆる知識を持っていた。彼の作家人生は三つの時期に分けられ、フランス中世の詩を翻訳したフランス期、外交官としてイタリアに行きボッカチオなどの模倣をしたイタリア期、作家として円熟し、中世・近世を通じて最大の傑作『カンタベリー物語』(カンタベリーは巡礼地で、リチャード二世治下の社会を様々な立場の平民の生活から描いた作品)を作ったイギリス期がある。
Shakespeare時代(1500~1625)
文芸復興期。
イタリアで始まったルネサンスがイギリスに及んだのは16世紀になってからだった。
中世の暗黒時代の原因だった宗教勢力は十字軍の失敗で権威が失墜し、それにルネサンスにおけるギリシャ、ラテンの古典の研究、科学の発達、新世界の発見などが追い撃ちをかけた。
16世紀のイギリスは、百年戦争に続く薔薇戦争によって、封建諸侯の勢力が衰退、新興の中産階級の強い支持により絶対王政が確立した時代で、代表的作家はウィリアム・シェイクスピアとエドマンド・スペンサーである。
大陸の新しい思想をイギリスに伝えた詩人には、トーマス・ワイアット卿と、サリー伯爵ヘンリー・ハワードがいる。彼らはイタリアから14行詩という新しい形式を移入して、叙情詩のジャンルを開拓した。彼らの遺稿はのちにエリザベス朝の叙情詩に大きな影響を与えた。
またサリー伯爵は無韻詩(ブランク・バース)という新詩型も試みて叙事詩や劇詩の詩形の先駆者となった。
詩人の詩人と呼ばれるエドマンド・スペンサーはロンドンの仕立て屋に生まれ、処女詩集『牧人の暦』はギリシャやラテン詩人の伝統的な牧歌の形式で好評を博した。
この業績によりアイルランド総督の秘書に採用され、そこで最大の傑作『フェアリーの女王』を創作を始める。この作品は、ルネサンスと宗教改革に代表される近代的精神を、中世の騎士道物語の中に歌い上げたイギリス最大の寓意詩である。
イギリス・ルネサンス期の散文では、トマス・モアの『ユートピア』が挙げられる。またウィリアム・ティンダルは直接ギリシャ語から新約聖書を英訳し、欽定英訳聖書の基礎を作った。モアは旧教の、ティンダルは新教の殉教者である。
小説はこの時代十分に成長していないが、ジョン・リリーの『ユーフィーズ』が最初の小説とされる。これはユーフィズムという文体を流行らせたが、フィリップ・シドニー卿の牧歌的ロマンス『アルカディア』によって打破された。
この時代生まれた新しい分野には随筆がある。フランシス・ベーコンは健全な常識と簡潔な文体でエッセイを書き、英国随筆の父と呼ばれている。
聖書物語や聖人伝を扱った教会での宗教劇は、すでに中世から行われていたが、ますます盛んになり、善と悪を扱う道徳劇や幕間狂言(まくあいきょうげん。社会や風俗を描く)として発展した。トマス・モアの友人、ジョン・ヘイウッドの書いた多くの滑稽狂言は、英国喜劇の走りとなった。さらにラテン喜劇の影響を受けてニコラス・ウダールが初めて純粋喜劇の『ラルフ・ロイスター・ドイスター』を書いた。
悲劇の発達は喜劇よりもやや遅れ、サックヴィルとノートンの『ゴーボダック王』はラテンの悲劇作家セネカを手本にして書かれた。
シェイクスピア以前の劇作家で優れた作家がクリストファー・マーロウで、彼は心からのルネサンス人で、無限の征服欲を描いた『タンバレイン大王』、無限の知識欲を描いた『フォースタス博士の痛ましい歴史』、無限の財産欲を描いた『マルタ島のユダヤ人』などを執筆した。『マルタ島のユダヤ人』はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる冷徹な高利貸シャイロックの着想となった。
彼は無韻詩を巧みに使ったが、決闘で29歳の若さで死んでしまった。
彼のような優れた劇作家は、ケンブリッジもしくはオックスフォード出身だったのでユニバーシティ・ウィッツ(大学での才人)と呼ばれている。
英国最大の詩人であり、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテとともに世界四大詩人の一人とされるシェイクスピアは、エイヴォン州のストラットフォードという田舎に生まれた。彼は大学出の才人と違って教育はほとんどされてなかった。
ロンドンに単身上京して劇場で働き、他人の作品を修正しているうちに自身も創作するようになった。その後劇場経営も兼業し、大きな財産を作り、引退して故郷に帰った。20年間の作家活動において、詩7篇、劇37篇を発表した。
シェイクスピアの作品は通常、史劇、喜劇、悲劇の三つに分けられるが、悲劇の中に喜劇の要素があったり、史劇には悲劇の要素が大部分を占めている。
シェイクスピアは古典劇(三一致の法則)の条件を無視したため、古典主義時代には顧みられなかったが、ロマン主義の勃興とともに再発見された(古典劇は同じ日、同じ場所、同じ筋という縛りがあった)。
シェイクスピアの創作生活は四期に分けられる。
第一期の修行時代(1590~95)では、『ヘンリー六世』『じゃじゃ馬馴らし』『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』など、主に史劇や喜劇を描き、情熱的で華麗な文体が特徴である。
第二期(1596~1600)では、現実の人生を広く深く観察した時代で、作品は『ヴェニスの商人』『から騒ぎ』と、第一期同様、史劇と喜劇を描いた。
第三期(1601~08)では『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四大悲劇を執筆し、文体はすっかり枯れている。
第四期(1609~11)は、暗い悲劇から『テンペスト』などの清澄なロマンスに移った時代である。
ちなみに今回のテキストは、その時代を代表する作家によって時代分けがされている。ちょっとMYSTっぽくてかっこいい。
参考文献:荒巻哲雄、岡地嶺著『英文学読本』
Beowulf時代(1066年以前)
古英語の時代。
ブリテン島に住む最古の民族はケルト民族の一部であるブリトン人で、彼らは紀元前からブリテン島に住んでいたが、紀元前55年にローマのシーザーに征服されて以来、ローマ文化やキリスト教の影響を受けた。
5世紀の初め頃、ローマがブリテン島から撤収したことに乗じて、今度はデンマークからドイツ北方に住んでいたアングロサクソン人のゲルマン民族が侵入し、先住民を追い払った。「アングロ人の土地」という意味のイングランドとはこの時(449年頃)名付けられた。
やがてアングロ人は、ノーサンブリア、イーストアングリア、メルシャの三王国を、サクソン人はエセックス、サセックス、ウェセックスの三王国を、そしてジュート人はケントの一王国を樹立し、7王国時代となった(厳密にはもっとあったらしいがキリがいいということで)。
その時の国語は、低地ドイツ語系でこれを古英語という。古英語の時代はノルマン征服がおこった1066年までであるが、西洋史では5世紀のゲルマン民族大移動から14世紀までを中世としているので、学者によっては中世前期とも言われる。
『ベオウルフ』とは、スウェーデンの勇者ベオウルフが巨人や火を吐くドラゴンと戦うゲルマン民族の英雄叙事詩で、7・8世紀に書かれたファンタジーのパイオニア的作品である。
この時代の文学で最も古いのはWidsith『遠く旅せる者』で、5・6世紀には伝誦(口から口へ伝わること)されていた。これは吟遊詩人(グリーマン)が旅行中に見聞した事柄を歌ったものである。
他にも挽歌(エレジー)の『旅人』や『海行く人』、キリスト宗教詩でカドマン作とされる『創世記』(ジェネシス)、『出エジプト記』(エクソダス)、『キリストとサタン』などが挙げられる。さらに『謎』は短詩を集めたもので、人事や自然現象の寓意詩であり、『モールドンの戦い』は歴史上の戦争の詩である。
古英語で書かれたこれらの詩の特徴は、それぞれの行に4つの強勢(ストレス)があり、その中央に区切りがあって、しかも4つの音節のうち、2、3つは必ず頭韻(オルタレーション)を踏み、脚韻(フットライム)は踏まない点である。
散文では、ウェセックスのアルフレッド大王は『アングロサクソン年代記』を編纂した。
文教に理解がある大王は、スペインの僧侶オロシウスの『歴史と地理』、ローマの哲学者ボエティウスの『哲学の慰め』、イングランドの僧侶ベーダの『英国教会史』などを翻訳した。
Chaucer時代(1066~1500)
中世英語の時代。
アングロサクソン王ハロルドはヘイスティングスの戦いでノルマンディーのウィリアム征服王に敗北、これにより英国は大陸と交流が盛んになり、中世特有の封建制度が発達、カトリック教国になった。
フランスやラテンの文化はかつてのアングロサクソンのそれを衰退させたが、言語に関してはアングロサクソン語がフランス語を征服しミドルイングリッシュ、中世英語ができた。
ノルマン王朝は直系の王が絶えたので、フランスからヘンリー二世を迎え、イギリス王がフランスの支配もすることになった。これが百年戦争や薔薇戦争につながることになる。
また、この時代は十字軍の聖地奪還、国王の暴政、聖職者の腐敗なども起きたが、産業は徐々に発達し近代社会へ推移していく。
イギリスの文学が注目されるのは、中世後期からであるが、この時代の文学は古代英語の詩の伝統が残っている西部と、フランス文化の影響が強い東南部に現れた。
西部の詩人には、身分の低い聖職者だったウィリアム・ラングランドがいる。『農夫ピアズの幻』は、二部作で、一部では教会や僧侶の腐敗や上流社会の悪徳を痛烈に批判して労働の神聖を説き、二部では七つの大罪を寓意化して真理の探求を説いた夢物語である。
もうひとりの詩人は、技巧の完全さからアーサー王物語の中でも最も優れたものであるとされる『ガウェイン卿と緑の騎士』を書いたが名前は不明である。
東南部では、教養が高くラテン語、フランス語、英語などで『恋人の告白』(恋に起こりがちの失敗談を教える内容)などの詩を書いたジョン・ガワーと、その友人で後に「英詩の父」と呼ばれるジェフリー・チョーサーがいる。
チョーサーはロンドンの酒商人の子で、市井と宮廷、平和と戦争、実務と外交などあらゆる知識を持っていた。彼の作家人生は三つの時期に分けられ、フランス中世の詩を翻訳したフランス期、外交官としてイタリアに行きボッカチオなどの模倣をしたイタリア期、作家として円熟し、中世・近世を通じて最大の傑作『カンタベリー物語』(カンタベリーは巡礼地で、リチャード二世治下の社会を様々な立場の平民の生活から描いた作品)を作ったイギリス期がある。
Shakespeare時代(1500~1625)
文芸復興期。
イタリアで始まったルネサンスがイギリスに及んだのは16世紀になってからだった。
中世の暗黒時代の原因だった宗教勢力は十字軍の失敗で権威が失墜し、それにルネサンスにおけるギリシャ、ラテンの古典の研究、科学の発達、新世界の発見などが追い撃ちをかけた。
16世紀のイギリスは、百年戦争に続く薔薇戦争によって、封建諸侯の勢力が衰退、新興の中産階級の強い支持により絶対王政が確立した時代で、代表的作家はウィリアム・シェイクスピアとエドマンド・スペンサーである。
大陸の新しい思想をイギリスに伝えた詩人には、トーマス・ワイアット卿と、サリー伯爵ヘンリー・ハワードがいる。彼らはイタリアから14行詩という新しい形式を移入して、叙情詩のジャンルを開拓した。彼らの遺稿はのちにエリザベス朝の叙情詩に大きな影響を与えた。
またサリー伯爵は無韻詩(ブランク・バース)という新詩型も試みて叙事詩や劇詩の詩形の先駆者となった。
詩人の詩人と呼ばれるエドマンド・スペンサーはロンドンの仕立て屋に生まれ、処女詩集『牧人の暦』はギリシャやラテン詩人の伝統的な牧歌の形式で好評を博した。
この業績によりアイルランド総督の秘書に採用され、そこで最大の傑作『フェアリーの女王』を創作を始める。この作品は、ルネサンスと宗教改革に代表される近代的精神を、中世の騎士道物語の中に歌い上げたイギリス最大の寓意詩である。
イギリス・ルネサンス期の散文では、トマス・モアの『ユートピア』が挙げられる。またウィリアム・ティンダルは直接ギリシャ語から新約聖書を英訳し、欽定英訳聖書の基礎を作った。モアは旧教の、ティンダルは新教の殉教者である。
小説はこの時代十分に成長していないが、ジョン・リリーの『ユーフィーズ』が最初の小説とされる。これはユーフィズムという文体を流行らせたが、フィリップ・シドニー卿の牧歌的ロマンス『アルカディア』によって打破された。
この時代生まれた新しい分野には随筆がある。フランシス・ベーコンは健全な常識と簡潔な文体でエッセイを書き、英国随筆の父と呼ばれている。
聖書物語や聖人伝を扱った教会での宗教劇は、すでに中世から行われていたが、ますます盛んになり、善と悪を扱う道徳劇や幕間狂言(まくあいきょうげん。社会や風俗を描く)として発展した。トマス・モアの友人、ジョン・ヘイウッドの書いた多くの滑稽狂言は、英国喜劇の走りとなった。さらにラテン喜劇の影響を受けてニコラス・ウダールが初めて純粋喜劇の『ラルフ・ロイスター・ドイスター』を書いた。
悲劇の発達は喜劇よりもやや遅れ、サックヴィルとノートンの『ゴーボダック王』はラテンの悲劇作家セネカを手本にして書かれた。
シェイクスピア以前の劇作家で優れた作家がクリストファー・マーロウで、彼は心からのルネサンス人で、無限の征服欲を描いた『タンバレイン大王』、無限の知識欲を描いた『フォースタス博士の痛ましい歴史』、無限の財産欲を描いた『マルタ島のユダヤ人』などを執筆した。『マルタ島のユダヤ人』はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる冷徹な高利貸シャイロックの着想となった。
彼は無韻詩を巧みに使ったが、決闘で29歳の若さで死んでしまった。
彼のような優れた劇作家は、ケンブリッジもしくはオックスフォード出身だったのでユニバーシティ・ウィッツ(大学での才人)と呼ばれている。
英国最大の詩人であり、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテとともに世界四大詩人の一人とされるシェイクスピアは、エイヴォン州のストラットフォードという田舎に生まれた。彼は大学出の才人と違って教育はほとんどされてなかった。
ロンドンに単身上京して劇場で働き、他人の作品を修正しているうちに自身も創作するようになった。その後劇場経営も兼業し、大きな財産を作り、引退して故郷に帰った。20年間の作家活動において、詩7篇、劇37篇を発表した。
シェイクスピアの作品は通常、史劇、喜劇、悲劇の三つに分けられるが、悲劇の中に喜劇の要素があったり、史劇には悲劇の要素が大部分を占めている。
シェイクスピアは古典劇(三一致の法則)の条件を無視したため、古典主義時代には顧みられなかったが、ロマン主義の勃興とともに再発見された(古典劇は同じ日、同じ場所、同じ筋という縛りがあった)。
シェイクスピアの創作生活は四期に分けられる。
第一期の修行時代(1590~95)では、『ヘンリー六世』『じゃじゃ馬馴らし』『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』など、主に史劇や喜劇を描き、情熱的で華麗な文体が特徴である。
第二期(1596~1600)では、現実の人生を広く深く観察した時代で、作品は『ヴェニスの商人』『から騒ぎ』と、第一期同様、史劇と喜劇を描いた。
第三期(1601~08)では『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四大悲劇を執筆し、文体はすっかり枯れている。
第四期(1609~11)は、暗い悲劇から『テンペスト』などの清澄なロマンスに移った時代である。
モアナと伝説の海
2017-05-05 18:31:22 (7 years ago)
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カテゴリタグ:
- 映画
「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」
何もかも人間のためだったのね。愛されたかったから。
今更ながら鑑賞。冒頭部は、あ~はいはい、毎度お馴染みの自分自身の夢を追って上京する、トライエブリシング系ね、って鼻ほじってたんだけど、中盤からなんともはや。
そもそもプリンセスものなんかじゃなくメチャメチャアドベンチャー超大作だった。『ウォーターワールド』、『怪盗グルーのミニオン危機一発』、『マッドマックス怒りのデスロード』を足したようなアクションシーンは、けっこう血湧き肉躍る。
あと、こういう映画って、宇宙が舞台のやつもそうだけど、本来は広大な海や宇宙が狭く見えるっていうのがあるんだけど、この映画はちゃんと海の広さを感じられるのが上手い。※『スター・トレック ビヨンド』は狭かった(^_^;)
しかしよ、ここまで来ると、ディズニーもウーマンリブとかのレベルじゃなくて、セーラームーンとかプリキュアだよな。戦闘少女系の作品だよね。
だから、一般受けがアナ雪などに比べて今ひとつだったのかね。アナ雪でもかなり危うかったロマンス要素、とうとうゼロだもんな。こういうの観たくて劇場来ているんじゃねえよっていうw
普通に、選ばれし者の英雄譚やってんだよね。南洋の神様マウイの描き方はいろいろ物議をかもしたらしいけど、ああいう動機っていうのはプリミティブに心を打つよ。こんな子いたいた、みたいな。
純粋に愛や正義だ!って普遍的モットーで戦う正義の味方にはもうリアリティを感じられない世の中になっちゃったんじゃないか。純粋にやりすぎて飽きちゃったというだけかもしれないけど。冷戦も終わったしなあ。
というか、日本では受けが悪そうというか、下品って思われちゃいそうだけれど、名声を得たいっていう動機で社会に貢献するのって別に悪かないと思うんだけどね。
あれなのかな。そういう動機で慈善事業はじめるやつって、たいてい、いざやってみると意外と大変で、ほいですぐにめんどくさくなって、結局、事態をこんがらせるだけこんがらせて、放り出しがちって思われてんのかな。おのれ民主党みたいな。
実際、この映画の神様もそんなヘタレ的なところあったしな。でも神様ですらああなら、オレらは別に聖人じゃないんだから、もっと気軽にエゴで親切やってもいいと思うけどね。
というか、私はヘタレの哀愁に弱いんだよな。こういう“勘違い系ヘタレ”は基本的にポジティブだから、哀愁の振れ幅が大きくていけねえや(´;ω;`)
だから個人的には、この作品すごい面白かったんだけど、これがディズニープリンセスの基本路線にはならなそうだし、すべきじゃないと思う(※オタクくさくなるから)。4年に1度くらいの変化球って感じでいいんじゃないか。
それともディズニーもマーベルとか買収して、男の子路線に大々的にニーズを変えようとしてんのかな。『ズートピア』も妙にアメコミっぽかったもんな。『アストロ・シティ』みたいな。
しかし南洋の部族の人らの神話をメチャメチャ取材したんだろうな~って感動。昔の人の想像力はすごいよね。
そういや、この前、理科の地学分野(造山運動)の授業で、みんな大陸や島って海の上に浮いていると思ってて、軽く衝撃を受けてさ、だから大陸移動説は学校の知識で知っているけど、そのメカニズムがひょうたん島だったという(^_^;)
それなら、ヨーヨー釣りの要領で、釣り針で神様が島をヒョイっと釣り上げてもつじつまが合うよな。
海の向こうの世界や宇宙の果てといった未知なものに対する理解を、自由な想像力を駆使して漸進させていくっていうのは、神話に限らず科学の本質かもしれないよね。人類の知識を積み上げていったのは知識じゃないんだよ。
海を渡る達人ならもういるじゃないか。
何もかも人間のためだったのね。愛されたかったから。
今更ながら鑑賞。冒頭部は、あ~はいはい、毎度お馴染みの自分自身の夢を追って上京する、トライエブリシング系ね、って鼻ほじってたんだけど、中盤からなんともはや。
そもそもプリンセスものなんかじゃなくメチャメチャアドベンチャー超大作だった。『ウォーターワールド』、『怪盗グルーのミニオン危機一発』、『マッドマックス怒りのデスロード』を足したようなアクションシーンは、けっこう血湧き肉躍る。
あと、こういう映画って、宇宙が舞台のやつもそうだけど、本来は広大な海や宇宙が狭く見えるっていうのがあるんだけど、この映画はちゃんと海の広さを感じられるのが上手い。※『スター・トレック ビヨンド』は狭かった(^_^;)
しかしよ、ここまで来ると、ディズニーもウーマンリブとかのレベルじゃなくて、セーラームーンとかプリキュアだよな。戦闘少女系の作品だよね。
だから、一般受けがアナ雪などに比べて今ひとつだったのかね。アナ雪でもかなり危うかったロマンス要素、とうとうゼロだもんな。こういうの観たくて劇場来ているんじゃねえよっていうw
普通に、選ばれし者の英雄譚やってんだよね。南洋の神様マウイの描き方はいろいろ物議をかもしたらしいけど、ああいう動機っていうのはプリミティブに心を打つよ。こんな子いたいた、みたいな。
純粋に愛や正義だ!って普遍的モットーで戦う正義の味方にはもうリアリティを感じられない世の中になっちゃったんじゃないか。純粋にやりすぎて飽きちゃったというだけかもしれないけど。冷戦も終わったしなあ。
というか、日本では受けが悪そうというか、下品って思われちゃいそうだけれど、名声を得たいっていう動機で社会に貢献するのって別に悪かないと思うんだけどね。
あれなのかな。そういう動機で慈善事業はじめるやつって、たいてい、いざやってみると意外と大変で、ほいですぐにめんどくさくなって、結局、事態をこんがらせるだけこんがらせて、放り出しがちって思われてんのかな。おのれ民主党みたいな。
実際、この映画の神様もそんなヘタレ的なところあったしな。でも神様ですらああなら、オレらは別に聖人じゃないんだから、もっと気軽にエゴで親切やってもいいと思うけどね。
というか、私はヘタレの哀愁に弱いんだよな。こういう“勘違い系ヘタレ”は基本的にポジティブだから、哀愁の振れ幅が大きくていけねえや(´;ω;`)
だから個人的には、この作品すごい面白かったんだけど、これがディズニープリンセスの基本路線にはならなそうだし、すべきじゃないと思う(※オタクくさくなるから)。4年に1度くらいの変化球って感じでいいんじゃないか。
それともディズニーもマーベルとか買収して、男の子路線に大々的にニーズを変えようとしてんのかな。『ズートピア』も妙にアメコミっぽかったもんな。『アストロ・シティ』みたいな。
しかし南洋の部族の人らの神話をメチャメチャ取材したんだろうな~って感動。昔の人の想像力はすごいよね。
そういや、この前、理科の地学分野(造山運動)の授業で、みんな大陸や島って海の上に浮いていると思ってて、軽く衝撃を受けてさ、だから大陸移動説は学校の知識で知っているけど、そのメカニズムがひょうたん島だったという(^_^;)
それなら、ヨーヨー釣りの要領で、釣り針で神様が島をヒョイっと釣り上げてもつじつまが合うよな。
海の向こうの世界や宇宙の果てといった未知なものに対する理解を、自由な想像力を駆使して漸進させていくっていうのは、神話に限らず科学の本質かもしれないよね。人類の知識を積み上げていったのは知識じゃないんだよ。
海を渡る達人ならもういるじゃないか。
異文化理解覚え書き⑤
2017-04-30 11:38:22 (7 years ago)
19世紀が思いのほか長いので、まさかの第5弾。案の定というか、世界史の単位と内容がかぶる。この時期はグローバル化が進んでいるから、例えば日本史やってても世界史的になるんだよね。
つ~か、18~19世紀のイギリスってほんとつええな。連戦連勝じゃん。世界に先駆けて工業化したとか色々あるんだろうけど、やっぱり運もあったんだろうね。
ちなみにイギリス王朝がいろいろ出てきて、こんがらがっちゃいそうなので、登場順にここに覚え書き。
①ウェセックス朝(ゲルマン系。アングロサクソン人。アルフレッド大王など)
②デーン朝(デンマーク人。クヌートなど)
③ノルマン朝(ノルマン人。ウィリアム一世など。以降、現英国王室に続く)
④ブロア朝(フランス系。スティーブン一代限り)
⑤プランタジネット朝(中世。薔薇戦争のランカスター家とヨーク家含む)
⑥テューダー朝(エリザベス女王が有名)
⑦スチュアート朝(スコットランド系。アン女王など)
⑧ハノーヴァー朝(ヴィクトリア女王が有名。ちなみにウィンザーのドイツ読み)
⑨サックス=コバーグ=ゴータ朝(長い。ドイツ系。ヴィクトリア女王の夫アルバート公など)
⑩ウィンザー朝(現女王エリザベス二世など)
参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized
19th century foreign affairs(19世紀の外交)
18世紀後半からイギリスはその支配の領域を、インド、中国、中東、アフリカに拡大し、徐々に海外に帝国を築いていった。
その領土と貿易利益を保護、拡大するということは、イギリスがそのための戦争に巻き込まれることを意味した。
世紀の前半、外交政策は外交官によって指揮された。有名な人物として、キャニング、キャストレ、パーマストンなどがいた。
しかし1860年頃から首相が外交政策により関心を示した。自由党とトーリー党の両当事者は、帝国を守ることを目指していた。自由党党首グラッドストンは帝国主義を嫌い、保守党のディズレーリ首相の政策を批判したが、首相に就任すると彼自身も同様の政策を追求していた。
War with France(フランスとの戦争)
1789年から92年、フランス革命によって、フランスは君主制を打倒し、共和制となった。
他のヨーロッパ諸国は革命的思想の波及を恐れて、1793年にはイギリスはオーストリア、プロシア帝国とともにフランスと戦った。
1796年と1797年にはナポレオン・ボナパルト率いるフランスがオーストリアからベルギーとイタリアの一部を押収した。
ナポレオンはフランスの影響力を世界に広げることを目指していた。
彼はまずヨーロッパの残りの部分を征服し、次にインド、中東、カリブ海を征服する予定だった。
ホレーショ・ネルソン司令官率いるイギリス海軍は1799年にエジプトのナイル川におけるアブキール湾の戦いでナポレオンの東方への野望を阻止した。
1803年、ナポレオンはスイスとイタリアから離脱し、さらに1804年にフランスの皇帝になった。
彼は海軍を撃破してイギリスに侵攻する予定だったが、1805年、ネルソンはスペイン南岸のトラファルガーの海戦でフランス艦隊を倒した。
この挫折にも関わらず、ナポレオンはオーストリアとロシアに勝利し、ドイツを支配した。
1808年、ナポレオンはスペインとポルトガルを侵略し、イギリスとヨーロッパの貿易相手国を隔てようと企んだ。
しかしイギリスの支援を受けて、スペインとポルトガルは徐々にフランスを追い払った。
1812年、ナポレオンはロシアを征服することができず、1813年にはオーストリア、プロシア、ロシアがドイツで大規模な戦いで勝利した(ライプチヒの戦い)。
1814年にイギリスが侵攻し、ナポレオンは退去しエルバ島に追放された。
彼は1815年に新しい軍隊を育成したが、ウェリントン率いるイギリス、プロシア、ベルギーによってワーテルローの戦いで倒された。
こうして1815年にウィーン会議で平和が成し遂げられた。
India(インド)
1784年以降、インドはイギリス支配を拡張した多数の総督によって支配された。
多くのインド人は、社会的、宗教的慣習におけるイギリスの干渉に憤慨し、1857年にはイギリスの役人にインド人兵士が反抗した(セポイの反乱)。この反乱はインド北部と中部に広がり、最終的に1858年に鎮圧された。
同年、東インド会社は廃止され、その土地はイギリス政府に引き継がれた。
1876年、ヴィクトリア女王はインドの女帝になった。インドは彼女の代表であるヴィセロイ(王の代理の総督のこと)によって支配された。
The Eastern Question(東方問題)
オスマン帝国はトルコのムスリムによって13世紀に設立され、ヨーロッパ、アフリカ、中東の大部分をカバーするように拡張された。
しかし1680年代から、それは支配するには大きすぎると判明した。
帝国が弱まり始め、民衆が自由のために立ち上がったとき、政治的な問題が生じた。
多くのヨーロッパ諸国は、旧オスマン帝国の領土を獲得することによって、ライバル国家が権力を強化する可能性を懸念した。イギリスはトルコへのロシアの拡大を防ぐためクリミアでの戦争に巻き込まれた。
1878年、ロシアはアフガニスタンを侵略すると脅した。ロシアがそのまま隣のインドに侵攻する可能性を考え、イギリスはアフガニスタンに軍を送り、その支配下とした。
The Crimean War(クリミア戦争)
1853年、ロシアはオスマン帝国のすべてのクリスチャンを保護する権利を主張した。トルコはそれを拒否し、その後ロシアはトルコの土地を侵略した。
イギリスとフランスはロシアの影響力の拡大を恐れ、1854年9月クリミアのセバストーポリでロシアの海軍基地を包囲した。
11月には、イギリスは、アルマ、バラクラヴァ、インカーマンの三大戦争でロシアに勝利した。
とはいえ、イギリスの軍事組織は貧弱だった。
バラクラヴァでは、剣で武装したライトホース・ブリゲード(軽騎兵旅団)が命令系統のミスでロシアの砲兵の陣地に無謀にも突撃し、673人中247人が戦死した。
陸軍はクリミアで薬、食糧、布の不足など多くの苦難にあった。
タイムズ紙の報道官W・H・ラッセルのレポートは世論を呼び起こした。
ナイチンゲール率いる看護師のチームによって衛生状況が改善された。当時従軍看護師という地位は存在しなかったが、この活動が刺激となって国際赤十字がのちに設立された。
1855年、イギリスはセバストーポリを獲得し、戦争は1856年に終わった。
The Opium Wars(アヘン戦争)
18世紀には、中国は他の国との貿易を制限し、銀との輸出(主として茶、磁器、シルク)のみを行った。
しかし19世紀初頭、イギリスの商人たちは中国のトレーダーに、インドのアヘンを支払い手段として受け入れるように説得した。
イギリス政府がインドでのアヘンの貿易を禁止したため、イギリス商人はそのアヘンを他国で売却したかったのである。
中国政府は、銀での支払いの喪失に憤慨し、中毒性薬物の輸入に懸念を示した。
1839年、彼らは広東省広州市ですべてのアヘンを押収した。
するとイギリスは砲撃を行い、戦争が始まった。
1842年にイギリスが香港島を併合するという平和条約が策定されたが、緊張は続き、1857年に再び戦争が始まった。
イギリスが広東を攻撃したあと、中国は降伏し、欧州貿易の全ての港を開放することを余儀なくされた。
Egypt(エジプト)
紅海(レッド・シー)と地中海を結ぶスエズ運河は1869年にフランスとエジプトによって建設された。
1875年にイギリスはエジプトの株式を購入した。この運河はイギリスの貿易にとって大きな助けとなった。
イギリスからインドへの移動は4000マイル(1マイルは1.6キロ)も削減されたからである。
イギリスは、エジプトとその隣国スーダン(1821年以来エジプトの支配下にあった)の政治問題を懸念した。
The Sudan(スーダン)
1881年、イギリスは暴動を抑止するためにエジプトに軍隊を送った。
1883年に宗教指導者マハディが率いるエジプトの統制に対するスーダンの反乱があった。
チャールズ・ゴードン将軍率いるイギリス軍はエジプト人を避難させるために送られた。彼は首都ハルツームに部隊を展開し、反乱軍と戦った。
反政府勢力はハルツームを包囲し、ゴードン将軍を含む多くのイギリス軍が戦死した。
グラッドストンは追加の軍隊を送ったが、それはあまりにも遅かった。その結果グラッドストン首相は支持を失い、辞任しなければならなかった。
1896年、彼の後継者ソールズベリー卿は、スーダンを取り戻すために軍隊を送った。
1898年、キッチナー卿が率いるイギリス軍は、オムドゥルマンの戦いでマハディの後継者であるカリファを破り、アングロエジプト人のスーダン支配を確立した。
War and expansion in southern Africa(南アフリカの戦争と拡張)
1652年、オランダは南アフリカ最初のヨーロッパ植民地であるケープコロニーを設立した。
他のヨーロッパ人は18世紀にそこに定着し始め、緊張が高まった。
1815年にイギリスはケープコロニーを支配した。
ボーア人として知られるオランダの入植者は、これを嫌がり、1836年には多くの人々がオレンジ自由国とトランスバール共和国という2つの新しい植民地を設立した。
トランスバールのボーア人は先住民族のズールー族を脅かした。
1877年、ボーア人はトランスバールをイギリスが併合することを許した。
1879年にイギリスとズールー族のあいだでズールー戦争が始まり、ズールー族が敗北した。
ボーア人はイギリスから自分の土地を取り戻そうとし、1881年に最初のボーア戦争が起こった。これはマジュバ・ヒルの戦いでイギリスの敗北で終わった。
1884年、イギリスはトランスバールの独立を認めた。
二回目のボーア戦争(1899~1901年)のあと、トランスバール共和国とオレンジ自由国は大英帝国の一部となった。
The Scramble for Africa(アフリカの争奪)
19世紀初め、アフリカの大部分はヨーロッパには知られていなかった。
しかし1870年代には、金やダイアモンドを含む、アフリカの豊富な天然資源に対する認識が高まった。その結果、いくつかの国は植民地を確立しようとした。
1914年までアフリカの大半は、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、ポルトガルに植民地化された。そのプロセスは非常に早く、アフリカ争奪戦として知られるようになった。
つ~か、18~19世紀のイギリスってほんとつええな。連戦連勝じゃん。世界に先駆けて工業化したとか色々あるんだろうけど、やっぱり運もあったんだろうね。
ちなみにイギリス王朝がいろいろ出てきて、こんがらがっちゃいそうなので、登場順にここに覚え書き。
①ウェセックス朝(ゲルマン系。アングロサクソン人。アルフレッド大王など)
②デーン朝(デンマーク人。クヌートなど)
③ノルマン朝(ノルマン人。ウィリアム一世など。以降、現英国王室に続く)
④ブロア朝(フランス系。スティーブン一代限り)
⑤プランタジネット朝(中世。薔薇戦争のランカスター家とヨーク家含む)
⑥テューダー朝(エリザベス女王が有名)
⑦スチュアート朝(スコットランド系。アン女王など)
⑧ハノーヴァー朝(ヴィクトリア女王が有名。ちなみにウィンザーのドイツ読み)
⑨サックス=コバーグ=ゴータ朝(長い。ドイツ系。ヴィクトリア女王の夫アルバート公など)
⑩ウィンザー朝(現女王エリザベス二世など)
参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized
19th century foreign affairs(19世紀の外交)
18世紀後半からイギリスはその支配の領域を、インド、中国、中東、アフリカに拡大し、徐々に海外に帝国を築いていった。
その領土と貿易利益を保護、拡大するということは、イギリスがそのための戦争に巻き込まれることを意味した。
世紀の前半、外交政策は外交官によって指揮された。有名な人物として、キャニング、キャストレ、パーマストンなどがいた。
しかし1860年頃から首相が外交政策により関心を示した。自由党とトーリー党の両当事者は、帝国を守ることを目指していた。自由党党首グラッドストンは帝国主義を嫌い、保守党のディズレーリ首相の政策を批判したが、首相に就任すると彼自身も同様の政策を追求していた。
War with France(フランスとの戦争)
1789年から92年、フランス革命によって、フランスは君主制を打倒し、共和制となった。
他のヨーロッパ諸国は革命的思想の波及を恐れて、1793年にはイギリスはオーストリア、プロシア帝国とともにフランスと戦った。
1796年と1797年にはナポレオン・ボナパルト率いるフランスがオーストリアからベルギーとイタリアの一部を押収した。
ナポレオンはフランスの影響力を世界に広げることを目指していた。
彼はまずヨーロッパの残りの部分を征服し、次にインド、中東、カリブ海を征服する予定だった。
ホレーショ・ネルソン司令官率いるイギリス海軍は1799年にエジプトのナイル川におけるアブキール湾の戦いでナポレオンの東方への野望を阻止した。
1803年、ナポレオンはスイスとイタリアから離脱し、さらに1804年にフランスの皇帝になった。
彼は海軍を撃破してイギリスに侵攻する予定だったが、1805年、ネルソンはスペイン南岸のトラファルガーの海戦でフランス艦隊を倒した。
この挫折にも関わらず、ナポレオンはオーストリアとロシアに勝利し、ドイツを支配した。
1808年、ナポレオンはスペインとポルトガルを侵略し、イギリスとヨーロッパの貿易相手国を隔てようと企んだ。
しかしイギリスの支援を受けて、スペインとポルトガルは徐々にフランスを追い払った。
1812年、ナポレオンはロシアを征服することができず、1813年にはオーストリア、プロシア、ロシアがドイツで大規模な戦いで勝利した(ライプチヒの戦い)。
1814年にイギリスが侵攻し、ナポレオンは退去しエルバ島に追放された。
彼は1815年に新しい軍隊を育成したが、ウェリントン率いるイギリス、プロシア、ベルギーによってワーテルローの戦いで倒された。
こうして1815年にウィーン会議で平和が成し遂げられた。
India(インド)
1784年以降、インドはイギリス支配を拡張した多数の総督によって支配された。
多くのインド人は、社会的、宗教的慣習におけるイギリスの干渉に憤慨し、1857年にはイギリスの役人にインド人兵士が反抗した(セポイの反乱)。この反乱はインド北部と中部に広がり、最終的に1858年に鎮圧された。
同年、東インド会社は廃止され、その土地はイギリス政府に引き継がれた。
1876年、ヴィクトリア女王はインドの女帝になった。インドは彼女の代表であるヴィセロイ(王の代理の総督のこと)によって支配された。
The Eastern Question(東方問題)
オスマン帝国はトルコのムスリムによって13世紀に設立され、ヨーロッパ、アフリカ、中東の大部分をカバーするように拡張された。
しかし1680年代から、それは支配するには大きすぎると判明した。
帝国が弱まり始め、民衆が自由のために立ち上がったとき、政治的な問題が生じた。
多くのヨーロッパ諸国は、旧オスマン帝国の領土を獲得することによって、ライバル国家が権力を強化する可能性を懸念した。イギリスはトルコへのロシアの拡大を防ぐためクリミアでの戦争に巻き込まれた。
1878年、ロシアはアフガニスタンを侵略すると脅した。ロシアがそのまま隣のインドに侵攻する可能性を考え、イギリスはアフガニスタンに軍を送り、その支配下とした。
The Crimean War(クリミア戦争)
1853年、ロシアはオスマン帝国のすべてのクリスチャンを保護する権利を主張した。トルコはそれを拒否し、その後ロシアはトルコの土地を侵略した。
イギリスとフランスはロシアの影響力の拡大を恐れ、1854年9月クリミアのセバストーポリでロシアの海軍基地を包囲した。
11月には、イギリスは、アルマ、バラクラヴァ、インカーマンの三大戦争でロシアに勝利した。
とはいえ、イギリスの軍事組織は貧弱だった。
バラクラヴァでは、剣で武装したライトホース・ブリゲード(軽騎兵旅団)が命令系統のミスでロシアの砲兵の陣地に無謀にも突撃し、673人中247人が戦死した。
陸軍はクリミアで薬、食糧、布の不足など多くの苦難にあった。
タイムズ紙の報道官W・H・ラッセルのレポートは世論を呼び起こした。
ナイチンゲール率いる看護師のチームによって衛生状況が改善された。当時従軍看護師という地位は存在しなかったが、この活動が刺激となって国際赤十字がのちに設立された。
1855年、イギリスはセバストーポリを獲得し、戦争は1856年に終わった。
The Opium Wars(アヘン戦争)
18世紀には、中国は他の国との貿易を制限し、銀との輸出(主として茶、磁器、シルク)のみを行った。
しかし19世紀初頭、イギリスの商人たちは中国のトレーダーに、インドのアヘンを支払い手段として受け入れるように説得した。
イギリス政府がインドでのアヘンの貿易を禁止したため、イギリス商人はそのアヘンを他国で売却したかったのである。
中国政府は、銀での支払いの喪失に憤慨し、中毒性薬物の輸入に懸念を示した。
1839年、彼らは広東省広州市ですべてのアヘンを押収した。
するとイギリスは砲撃を行い、戦争が始まった。
1842年にイギリスが香港島を併合するという平和条約が策定されたが、緊張は続き、1857年に再び戦争が始まった。
イギリスが広東を攻撃したあと、中国は降伏し、欧州貿易の全ての港を開放することを余儀なくされた。
Egypt(エジプト)
紅海(レッド・シー)と地中海を結ぶスエズ運河は1869年にフランスとエジプトによって建設された。
1875年にイギリスはエジプトの株式を購入した。この運河はイギリスの貿易にとって大きな助けとなった。
イギリスからインドへの移動は4000マイル(1マイルは1.6キロ)も削減されたからである。
イギリスは、エジプトとその隣国スーダン(1821年以来エジプトの支配下にあった)の政治問題を懸念した。
The Sudan(スーダン)
1881年、イギリスは暴動を抑止するためにエジプトに軍隊を送った。
1883年に宗教指導者マハディが率いるエジプトの統制に対するスーダンの反乱があった。
チャールズ・ゴードン将軍率いるイギリス軍はエジプト人を避難させるために送られた。彼は首都ハルツームに部隊を展開し、反乱軍と戦った。
反政府勢力はハルツームを包囲し、ゴードン将軍を含む多くのイギリス軍が戦死した。
グラッドストンは追加の軍隊を送ったが、それはあまりにも遅かった。その結果グラッドストン首相は支持を失い、辞任しなければならなかった。
1896年、彼の後継者ソールズベリー卿は、スーダンを取り戻すために軍隊を送った。
1898年、キッチナー卿が率いるイギリス軍は、オムドゥルマンの戦いでマハディの後継者であるカリファを破り、アングロエジプト人のスーダン支配を確立した。
War and expansion in southern Africa(南アフリカの戦争と拡張)
1652年、オランダは南アフリカ最初のヨーロッパ植民地であるケープコロニーを設立した。
他のヨーロッパ人は18世紀にそこに定着し始め、緊張が高まった。
1815年にイギリスはケープコロニーを支配した。
ボーア人として知られるオランダの入植者は、これを嫌がり、1836年には多くの人々がオレンジ自由国とトランスバール共和国という2つの新しい植民地を設立した。
トランスバールのボーア人は先住民族のズールー族を脅かした。
1877年、ボーア人はトランスバールをイギリスが併合することを許した。
1879年にイギリスとズールー族のあいだでズールー戦争が始まり、ズールー族が敗北した。
ボーア人はイギリスから自分の土地を取り戻そうとし、1881年に最初のボーア戦争が起こった。これはマジュバ・ヒルの戦いでイギリスの敗北で終わった。
1884年、イギリスはトランスバールの独立を認めた。
二回目のボーア戦争(1899~1901年)のあと、トランスバール共和国とオレンジ自由国は大英帝国の一部となった。
The Scramble for Africa(アフリカの争奪)
19世紀初め、アフリカの大部分はヨーロッパには知られていなかった。
しかし1870年代には、金やダイアモンドを含む、アフリカの豊富な天然資源に対する認識が高まった。その結果、いくつかの国は植民地を確立しようとした。
1914年までアフリカの大半は、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、ポルトガルに植民地化された。そのプロセスは非常に早く、アフリカ争奪戦として知られるようになった。
異文化理解覚え書き④
2017-04-29 16:30:28 (7 years ago)
イギリスの歴史、おそらくラストの今回は、産業革命以降の19世紀。つーか、このゴールデンウィーク中に英語のレポートは全て片付けたいものである。
そうなれば、夏休みにコンピュータ演習のスクーリング&教員免許更新講習&英語のテスト勉強・・・とわりかし有効にスケジュールが組めるしね。
ちなみに免許更新講習の授業は、メダカの遺伝と、基礎物理学と、日中関係史にしました。これらの知識が現場でどう活きるかさっぱりわからないけど、教養っていうのは役に立つとか立たないとか、そういうもんじゃねえんだ。
自分が楽しければいいんだ。
参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized
19th century home affairs(19世紀の内政)
19世紀という時代はイギリスにとって経済と政治において大変革があった時代であった。国内は産業革命によって工業化され、海外貿易は増加していた。
世紀半ばまでには、イギリスはワークショップ・オブ・ザ・ワールド(世界の工場)として知られ、海外では巨大な帝国を築いた。
国内では労働者階級がより良い生活水準と権利を求めて議会選挙に投票したり立候補したりした。アイルランドでは特に問題が増加していた。
Political groups(政治団体)
19世紀の初めには3つの政治団体があった。ホイッグ党、トーリー党(現在の保守党)、そして急進党である。
1858年まで、すべての議員は財産所有者でなければならなかった(1911年以前は議員は無給だった)。その結果、議会は上流階級(アッパークラス)が支配した。労働者階級は投票できず、限られた政治力しか持たなかった。
ほとんどのトーリー党員、支持者は議会制を現状維持することを望んでおり、ホイッグ党員、支持者も穏やかな変化しか支持していなかった。
しかし世紀の後半に、2つの新しい政党が登場した。それがホイッグ党と急進党が合流してできた自由党と、労働組合によって結成された独立労働党である。
Social unrest(社会不安)
19世紀初期ヨーロッパとアメリカの貿易が決裂し戦争が起きた。
布貿易における機械導入の増加は労働者の失業をもたらし、賃金は低く抑えられた。その結果、暴動と市民のデモが起こった。
暴徒の要求はネッド・ラッドという男によって率いられ、ラッダイトとして知られる運動が始まった。彼らは機械を破壊したため、トーリー党政府は政治的集会や宣伝に反対する法律を通過させた。
The Corn Laws(穀物条例)
1815年の穀物条例によって治安が悪化した。イギリスの農民を助けるためにイギリスの穀物が特定の価格に達するまで、政府は穀物の輸入を禁止したのである。
したがってトウモロコシやパンといった、ほとんどの人々の主食の価格は高いままだった。
穀物条例アンチの集団は急進党下院議員のリチャード・コブデンによって率いられ、穀物条例の廃止に向けて運動をした。
これを受けてロバート・ピール率いるトーリー党は1846年に穀物条例を廃止した。
The Liberal Party(自由党)
穀物法の廃止は、トーリー党(1834年以降は保守党と呼ばれることも多い)に分裂をもたらした。その大多数はベンジャミン・ディズレーリとダービー卿に続いた。
ピール派として知られる残りの議員は、ホイッグ党や急進党と合流し1859年に自由党を結成した。
自由党は1868年から1894年までウィリアム・グラッドストンによって率いられた。
Low and order reforms(法と秩序の改革)
19世紀の早い段階で失業率が増加し、120以上の犯罪が死刑により処罰されたが、これは抑止力として機能しなかった。
組織警察は無力で、犯罪者は滅多に逮捕できなかった。
1823年にロバート・ピール内務大臣は100以上の犯罪について死刑を廃止した。彼は刑務所の混雑した不健康な状態を改善する改革を導入し、1829年にはメトロポリタン警察を設立した。
The first reform bill(初の改正法案)
選挙制度改革の需要が増加したことを受けて、改革法案が1832年にホイッグ党によって可決された。しかしそれは財産による制限選挙だったため、中産階級に対してのみ投票権は拡張されるに過ぎなかった。
その結果、さらなる選挙制度改革のために、より多くの圧力団体がキャンペーンをおこなった。
チャーター派と呼ばれる団体(議会にチャーターと呼ばれる嘆願書を出したことにちなむ)は、すべての人が議会選挙に投票し、立候補する権利を求めて運動をおこなった。
Trade unions(労働組合)
最初の労働組合は地方で組織され、雇用主との間で生活や労働条件を交渉するためのものだった。組合は暴力を奨励したため、議会は1799年~1800年にそれらを違法とした。
しかし労働組合は、急進党議員によるキャンペーンの後、1824年に合法化となった。
最初の全国組合である全国労働組合大連合(GNCTU)は、1833年に急進党議員と向上所有者のロバート・オーウェンによって設立された。
オーウェンは強力な全国労働組合が、より多くの社会改正法と工場改革法を通過するように政府に圧力をかけることができると期待した。
労働組合はしばしば野党や雇用主と会談し、雇用主はしばしば従業員の解雇をほのめかし圧力をかけた。
1834年にドーセットのトルパドルから6人の男性が地元支部をつくろうとしてオーストラリアに追放された。彼らは殉教者として知られるようになった。
GNCTUは崩壊したが、労働者たちはチャーティスト運動のような他の政治運動に移っていった。
Unions and the TUC(組合と労働組合会議)
※TUC=トレード・ユニオン・コングレス。
1850年代、個人手工業熟練労働者の小さな組合が設立された。これらはモデル・ユニオンと呼ばれていた。
各地域の連合役員が問題を話し合うために会合を開き、1868年に労働組合会議を結成した。TUCは主要政治家に影響を与える手段として活動した。
1869年、政府の報告によると、強力な労働組合は労働者の暴力を減らすように考えられた。そのため、政府は反労働組合法を緩和した。
非熟練労働者の組合は1880年代に結成された。
Electoral reform and the Labour Party(選挙制度改革と労働党)
1867年、町の全ての男性の家主が議会に投票し立候補する資格を得た。これにより100万人以上の有権者が選出された。
1884年にこれは全ての家主の男性に拡大され、1918年には21歳以上の全ての男性に拡大された。
1874年、トーマス・バートとアレクサンダー・マクドナルドは最初の労働者階級の議員となった。
1893年、独立労働党は下院議員で鉱夫のリーダーであるケア・ハーディによって設立された。
1900年に労働代表委員会が設立、それは1906年に労働党に改名された。
Factory reform(工場改革)
19世紀初頭から、改革派は工場や鉱山での貧しい賃金、長時間と不健全な状態を改善し、幼い児童の雇用を禁止するように働きかけた。世紀の終わりには、11歳という年齢制限が設定された。
労働条件を規制するための規則が定められ、工場は査察の対象となった。
Education(教育)
1833年以前、教育は国家ではなく、豊かな個人や教会が資金を調達していたが、しばしば手数料も課されていた。その結果、貧しい子どもたちはほとんど学校には通っていなかった。
しかし1833年から政府は一部の学校に助成金を与えた。
1870年には公的資金によって、貧しい子どもたちのための最初の寄宿学校(ボード・スクール)が設立された。
1881年には11歳までの教育が義務化され、1891年には自由化された。
1902年には、グラマー・スクールと呼ばれる中等学校が資金が付与されることで導入された。
Public health(公衆衛生)
ヘルスケアも徐々に改善された。1700年から1825年のあいだに、150以上の病院が設立された。これは主にリッチな後援者(ベネファクター)によって資金提供がされた。
最初の病院は非衛生的で、患者はしばしば手術後に感染やショックで亡くなった。しかし1846年にジョセフ・リスターは消毒剤の使用を開拓し、1847年にジェームズ・シンプソンは初めてクロロホルムを麻酔剤として使用した。
1853年、フローレンス・ナイチンゲールはロンドンにある聖トーマス看護病院のナースのためにヴィクトリア朝の訓練学校を開設した。
最初の公衆衛生法は1848年に可決された。
次の主要な法律は1872年と1875年にできた。それは地方自治体に健康管理者を任命させ、上下水道や衛生条件の改善を強制するものだった。
Cathorics and Ireland(カトリックとアイルランド)
1828年、アイルランドのカトリック教徒であるダニエル・オコンネルがアイルランドのクレア州の選挙で立候補し、勝利した。
しかしカトリック教徒には投票や公職が許可されなかったので、オコンネルは議席を議会に拒否された。これはアイルランドの暴動につながった。
アイルランドの内戦を恐れて1829年に議会はカトリック教徒に投票権を与えた。これはカトリック解放法として知られている。
アイルランドの大部分の土地所有者は英国人だった。先住アイリッシュは一般的に非常に貧しく、農法は成長する人口をまかなうには不十分だった。1846年から1848年の間に、主食のジャガイモが飢饉に陥り、100万人以上が死亡した。
多くの人が英国人を非難し、フェニアン(アイルランドの独立と共和国樹立を求める友愛団体)のようなグループがアイルランドの自治のために結成された。
1869年から1874年の間に、自由主義者はアイリッシュの状況を改善するためにいくつかの法案を通過させた。
彼らはテナント経営農家の法的権利を増やそうとし、イギリス国教会をアイルランド公式の教会とした法律を廃止した。
1879年、土地改革のためにアイルランド土地同盟が結成された。アイルランドの自治体の運動はチャールズ・パーネルによって率いられた。
だが、1886年と1893年に自由党はアイルランド自治法の法案を通すことができなかった。
そうなれば、夏休みにコンピュータ演習のスクーリング&教員免許更新講習&英語のテスト勉強・・・とわりかし有効にスケジュールが組めるしね。
ちなみに免許更新講習の授業は、メダカの遺伝と、基礎物理学と、日中関係史にしました。これらの知識が現場でどう活きるかさっぱりわからないけど、教養っていうのは役に立つとか立たないとか、そういうもんじゃねえんだ。
自分が楽しければいいんだ。
参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized
19th century home affairs(19世紀の内政)
19世紀という時代はイギリスにとって経済と政治において大変革があった時代であった。国内は産業革命によって工業化され、海外貿易は増加していた。
世紀半ばまでには、イギリスはワークショップ・オブ・ザ・ワールド(世界の工場)として知られ、海外では巨大な帝国を築いた。
国内では労働者階級がより良い生活水準と権利を求めて議会選挙に投票したり立候補したりした。アイルランドでは特に問題が増加していた。
Political groups(政治団体)
19世紀の初めには3つの政治団体があった。ホイッグ党、トーリー党(現在の保守党)、そして急進党である。
1858年まで、すべての議員は財産所有者でなければならなかった(1911年以前は議員は無給だった)。その結果、議会は上流階級(アッパークラス)が支配した。労働者階級は投票できず、限られた政治力しか持たなかった。
ほとんどのトーリー党員、支持者は議会制を現状維持することを望んでおり、ホイッグ党員、支持者も穏やかな変化しか支持していなかった。
しかし世紀の後半に、2つの新しい政党が登場した。それがホイッグ党と急進党が合流してできた自由党と、労働組合によって結成された独立労働党である。
Social unrest(社会不安)
19世紀初期ヨーロッパとアメリカの貿易が決裂し戦争が起きた。
布貿易における機械導入の増加は労働者の失業をもたらし、賃金は低く抑えられた。その結果、暴動と市民のデモが起こった。
暴徒の要求はネッド・ラッドという男によって率いられ、ラッダイトとして知られる運動が始まった。彼らは機械を破壊したため、トーリー党政府は政治的集会や宣伝に反対する法律を通過させた。
The Corn Laws(穀物条例)
1815年の穀物条例によって治安が悪化した。イギリスの農民を助けるためにイギリスの穀物が特定の価格に達するまで、政府は穀物の輸入を禁止したのである。
したがってトウモロコシやパンといった、ほとんどの人々の主食の価格は高いままだった。
穀物条例アンチの集団は急進党下院議員のリチャード・コブデンによって率いられ、穀物条例の廃止に向けて運動をした。
これを受けてロバート・ピール率いるトーリー党は1846年に穀物条例を廃止した。
The Liberal Party(自由党)
穀物法の廃止は、トーリー党(1834年以降は保守党と呼ばれることも多い)に分裂をもたらした。その大多数はベンジャミン・ディズレーリとダービー卿に続いた。
ピール派として知られる残りの議員は、ホイッグ党や急進党と合流し1859年に自由党を結成した。
自由党は1868年から1894年までウィリアム・グラッドストンによって率いられた。
Low and order reforms(法と秩序の改革)
19世紀の早い段階で失業率が増加し、120以上の犯罪が死刑により処罰されたが、これは抑止力として機能しなかった。
組織警察は無力で、犯罪者は滅多に逮捕できなかった。
1823年にロバート・ピール内務大臣は100以上の犯罪について死刑を廃止した。彼は刑務所の混雑した不健康な状態を改善する改革を導入し、1829年にはメトロポリタン警察を設立した。
The first reform bill(初の改正法案)
選挙制度改革の需要が増加したことを受けて、改革法案が1832年にホイッグ党によって可決された。しかしそれは財産による制限選挙だったため、中産階級に対してのみ投票権は拡張されるに過ぎなかった。
その結果、さらなる選挙制度改革のために、より多くの圧力団体がキャンペーンをおこなった。
チャーター派と呼ばれる団体(議会にチャーターと呼ばれる嘆願書を出したことにちなむ)は、すべての人が議会選挙に投票し、立候補する権利を求めて運動をおこなった。
Trade unions(労働組合)
最初の労働組合は地方で組織され、雇用主との間で生活や労働条件を交渉するためのものだった。組合は暴力を奨励したため、議会は1799年~1800年にそれらを違法とした。
しかし労働組合は、急進党議員によるキャンペーンの後、1824年に合法化となった。
最初の全国組合である全国労働組合大連合(GNCTU)は、1833年に急進党議員と向上所有者のロバート・オーウェンによって設立された。
オーウェンは強力な全国労働組合が、より多くの社会改正法と工場改革法を通過するように政府に圧力をかけることができると期待した。
労働組合はしばしば野党や雇用主と会談し、雇用主はしばしば従業員の解雇をほのめかし圧力をかけた。
1834年にドーセットのトルパドルから6人の男性が地元支部をつくろうとしてオーストラリアに追放された。彼らは殉教者として知られるようになった。
GNCTUは崩壊したが、労働者たちはチャーティスト運動のような他の政治運動に移っていった。
Unions and the TUC(組合と労働組合会議)
※TUC=トレード・ユニオン・コングレス。
1850年代、個人手工業熟練労働者の小さな組合が設立された。これらはモデル・ユニオンと呼ばれていた。
各地域の連合役員が問題を話し合うために会合を開き、1868年に労働組合会議を結成した。TUCは主要政治家に影響を与える手段として活動した。
1869年、政府の報告によると、強力な労働組合は労働者の暴力を減らすように考えられた。そのため、政府は反労働組合法を緩和した。
非熟練労働者の組合は1880年代に結成された。
Electoral reform and the Labour Party(選挙制度改革と労働党)
1867年、町の全ての男性の家主が議会に投票し立候補する資格を得た。これにより100万人以上の有権者が選出された。
1884年にこれは全ての家主の男性に拡大され、1918年には21歳以上の全ての男性に拡大された。
1874年、トーマス・バートとアレクサンダー・マクドナルドは最初の労働者階級の議員となった。
1893年、独立労働党は下院議員で鉱夫のリーダーであるケア・ハーディによって設立された。
1900年に労働代表委員会が設立、それは1906年に労働党に改名された。
Factory reform(工場改革)
19世紀初頭から、改革派は工場や鉱山での貧しい賃金、長時間と不健全な状態を改善し、幼い児童の雇用を禁止するように働きかけた。世紀の終わりには、11歳という年齢制限が設定された。
労働条件を規制するための規則が定められ、工場は査察の対象となった。
Education(教育)
1833年以前、教育は国家ではなく、豊かな個人や教会が資金を調達していたが、しばしば手数料も課されていた。その結果、貧しい子どもたちはほとんど学校には通っていなかった。
しかし1833年から政府は一部の学校に助成金を与えた。
1870年には公的資金によって、貧しい子どもたちのための最初の寄宿学校(ボード・スクール)が設立された。
1881年には11歳までの教育が義務化され、1891年には自由化された。
1902年には、グラマー・スクールと呼ばれる中等学校が資金が付与されることで導入された。
Public health(公衆衛生)
ヘルスケアも徐々に改善された。1700年から1825年のあいだに、150以上の病院が設立された。これは主にリッチな後援者(ベネファクター)によって資金提供がされた。
最初の病院は非衛生的で、患者はしばしば手術後に感染やショックで亡くなった。しかし1846年にジョセフ・リスターは消毒剤の使用を開拓し、1847年にジェームズ・シンプソンは初めてクロロホルムを麻酔剤として使用した。
1853年、フローレンス・ナイチンゲールはロンドンにある聖トーマス看護病院のナースのためにヴィクトリア朝の訓練学校を開設した。
最初の公衆衛生法は1848年に可決された。
次の主要な法律は1872年と1875年にできた。それは地方自治体に健康管理者を任命させ、上下水道や衛生条件の改善を強制するものだった。
Cathorics and Ireland(カトリックとアイルランド)
1828年、アイルランドのカトリック教徒であるダニエル・オコンネルがアイルランドのクレア州の選挙で立候補し、勝利した。
しかしカトリック教徒には投票や公職が許可されなかったので、オコンネルは議席を議会に拒否された。これはアイルランドの暴動につながった。
アイルランドの内戦を恐れて1829年に議会はカトリック教徒に投票権を与えた。これはカトリック解放法として知られている。
アイルランドの大部分の土地所有者は英国人だった。先住アイリッシュは一般的に非常に貧しく、農法は成長する人口をまかなうには不十分だった。1846年から1848年の間に、主食のジャガイモが飢饉に陥り、100万人以上が死亡した。
多くの人が英国人を非難し、フェニアン(アイルランドの独立と共和国樹立を求める友愛団体)のようなグループがアイルランドの自治のために結成された。
1869年から1874年の間に、自由主義者はアイリッシュの状況を改善するためにいくつかの法案を通過させた。
彼らはテナント経営農家の法的権利を増やそうとし、イギリス国教会をアイルランド公式の教会とした法律を廃止した。
1879年、土地改革のためにアイルランド土地同盟が結成された。アイルランドの自治体の運動はチャールズ・パーネルによって率いられた。
だが、1886年と1893年に自由党はアイルランド自治法の法案を通すことができなかった。
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