明治時代覚え書き②

明治時代中期
征韓論を主張し、政府から下野した多くの士族は、軍事的な反乱を起こす。
しかし士族の中には、言論の力で民主主義国家設立を訴える者もいた。
憲法の制定、国会の開設、産業革命、国家主義・・・アジアの列強国になるための基礎は、この時期に固まったと言って良い。
生活様式では日本風と西洋風が混じり合い、大都市では鉄道馬車(レールを走るタイプの馬車)や電灯が普及したが、農村での生活はさほど代わり映えはしなかった。

不平士族
征韓論の背景には、版籍奉還で失職した上に、徴兵令によって軍人としても存在価値がなくなってしまった士族の不満があった。
つまり、このような不平士族を朝鮮征服の兵力として利用しようとしたのだ。
征韓論争によって政府から離れた者の中には、西郷隆盛のように士族反乱を起こすものと、板垣退助のように自由民権運動を起こすものがいた。

佐賀の乱
1874年に地元佐賀の不平士族にかつがれた元参議の江藤新平が起こす。士族反乱の先駆けになった事件。政府に鎮圧され、江藤新平は処刑された。

台湾出兵
不平士族の不満を和らげるために1874年に行った。

江華島事件
1875年。朝鮮の首都の近くの江華島で、領海を侵犯した日本の軍艦(日本の言い分では測量)を不審船だと思った朝鮮が、その軍艦に対して砲撃を開始、交戦状態になった事件。
この時の砲台は日本に焼き討ちにされてしまった。

日朝修好条規
江華島事件の翌年の1876年に結ばれる。これにより鎖国していた朝鮮が開国。
日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮に関税自主権を与えないなど、かつて自分がアメリカにやられた事をそっくりそのままやった不平等条約。
その一方で朝鮮の独立は約束された。とはいえこれも、朝鮮を清から引き離す目的があった。

廃刀令
1876年。武士の命である刀を持つことを禁止した。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)
こちらも1876年。四民平等になってからも士族が受けていた特別報酬(秩禄)を全廃した。

士族反乱
廃刀令と秩禄処分のダブルパンチにより、士族の不満はさらに高まり、熊本の敬神党の乱や福岡の秋月の乱、山口の萩の乱などの反乱が相次いだ。

農民反乱
徴兵制度や学制に反対する血税一揆や、地租改正に反対する地租改正一揆などが士族反乱と同じ頃に起きた。
しかしこのような反乱は1877年に地租の税率を3%から2.5%に下げたことで沈静化した。

西南戦争
1877年に西郷隆盛が起こした最大の士族の反乱。
半年間に及ぶ戦いの末に鎮圧された。
自分が育てた屯田兵を引き連れて西郷討伐に当たった、同郷の黒田清隆(後の内閣総理大臣)はこの戦争があまりにショックで以後、酒に酔い荒れた生活を送るようになったという。

民選議員設立の建白書
士族反乱が起きた一方、武力ではなく言論の力で自由民権運動を起こした不平士族もいた。
愛国公党を立ち上げた板垣退助や後藤象二郎は1974年に、立法上の諮問機関にあたる左院に民選議員設立の建白書を提出した。
この主な内容は、有司専制(政府官僚による専制政治)の批判と、公の議論を行うための国会の設立要求だった。

立志社設立
故郷の土佐に帰った板垣退助が、片岡健吉、植木枝盛、林有造らとともに設立。
さらに立志社を中心とした全国組織を目指し、旧愛国公党の同志を集めて大阪に愛国社も設立された。

大阪会議
1875年。内務卿の大久保利通と板垣退助、木戸孝允が大阪で行なった三者会談。
これにより明治政府は国会開設の方針を決め、漸次立憲政体樹立の勅を発表した。
これと同時に、府知事と県令で組織される地方官会議や、大審院(最高裁判所)、元老院(立法諮問機関)を設置した。

元老院
左院が廃止されてできた。1876年には憲法草案の起草が開始された。
しかし、その一方で過度な自由主義者を、讒謗律(ざんぼうりつ。名誉毀損罪のこと)や新聞紙条例によって厳しく取り締まった。

三新法
1878年。郡区町村編制法(画一的な行政区画を定める)、府県会規則(府県予算案の審議の一部を府県会に任せる)、地方税規則(複雑な諸税を地方税に統一)の三つの新しい法律のこと。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年。内務卿の大久保利通が石川県の不平士族に暗殺された。
これにより大久保利通に取り立てられ、イギリス式の議院内閣制の早期導入を主張する大隈重信と、保守派で国会開設に反対する岩倉具視やイギリスよりも君主の力が強いプロイセンの憲法を導入したい伊藤博文が対立。
新たな内務卿には伊藤博文が就任したが、政府内の対立は続いた。

国会期成同盟
1880年に愛国社の呼びかけで結成。
国会開設の請願書を、太政官や元老院に提出しようとしたが受理してもらえなかった。
さらに政府は集会条例によって自由民権運動の政治結社を規制しようとした。

開拓使官有物払い下げ事件
1881年。
北海道の開拓長官だった黒田清隆が、薩摩藩の政商の関係する関西の貿易社に、北海道の開拓使が所有していた官有物を不当に安く払い下げようとした事件。

明治十四年の政変
開拓使官有物払い下げ事件により政府は世論の厳しい批判に合い、これに関わったとして大蔵卿の大隈重信を1881年に罷免、さらに政府は国会開設の勅諭を出して、10年後の国会の解説を約束した。
政治の世界から追放された大隈重信は、かの有名な早稲田大学(東京専門学校)を作っている。

欽定憲法
国民の総意に基づいた民定憲法を、天皇がその意志で採用し、定める憲法。
つまり君主によって国民に与えられる憲法。

私擬憲法
民間で作られた憲法案。
福沢諭吉:『私擬憲法案』イギリス式議院内閣制。
植木枝盛:『東洋大日本国国憲按』抵抗権や革命権を認める急進的な内容。
立志社:『日本憲法見込案』君主権を縮小。

自由党
1881年に国会期成同盟の一部が結成。党首は板垣退助。
フランス式の共和制を主張した。
板垣退助は「庶民派」のリーダーとして農村からの支持が高かった。

立憲改進党
1882年に結成。大隈重信が党首。
イギリス式の議院内閣制を主張する。
都市の実業家や知識人からの支持が高かった。

立憲帝政党
政府側の福地源一郎が結成した保守政党。
民衆の支持が集められず、すぐに解党した。

松方財政
大隈重信に代わって大蔵卿になった松方正義は、西南戦争と国立銀行の不換紙幣大量発行による政府の財政難を何とかするため、大規模な財政改革を行った。
まず政府の支出を軍事以外はすべて緊縮。さらに増税によって不換紙幣を集め、それを処分することでインフレを食い止めようとした。

日本銀行設立
1882年、松方正義が設立。翌年には国立銀行条例を改正、銀行券の発行は日本銀行のみが行えるようにした。

銀兌換紙幣
1885年。デフレ政策によって紙幣と銀貨の価値の差がなくなると、日本銀行券を銀と交換ができる銀兌換紙幣にした。

岐阜事件
1882年。岐阜を遊説していた板垣退助が暴漢に襲われて負傷した事件。
「板垣死すとも自由は死せず」はこの時の言葉。

福島事件
1882年。自由党最初の激化事件。
県道工事によって重い負担をかけられた農民が、自由党の支援の下、警察署に押しかけ約2000人の逮捕者を出した事件。

高田事件
1883年。新潟県で、政府高官の暗殺を計画したとして自由党の党員が逮捕、処罰された事件。この時の逮捕者はほとんどが冤罪で、政府による自由民権運動の弾圧だった。

群馬事件
1884年。自由党急進派が厳しいデフレによって貧困に喘ぐ農民、漁師、博徒を率いて高利貸の家を打ち壊した事件。
このような一部の自由党員の過激な行動は、板垣退助が政府に懐柔され(政府からの洋行の提案に板垣が乗った)、自由党の足並みが乱れたことが原因だった。

加波山事件(かばさんじけん)
1884年。若い民権家が栃木県令を暗殺しようとした事件。
この直後、自由党は解散した。

秩父事件
1884年。困民党を名乗る貧困農民が、負債の減免を求めて警察署、役所、高利貸を襲撃し、軍隊まで出動した事件。
こういった一連の事件の全てが自由党によるものではなかったが、自由党は支持者の信用を失っていった。

海坊主退治キャンペーン
海坊主とは三菱の岩崎弥太郎のこと。
自由党の機関紙の自由新聞によるキャンペーンで、立憲改進党が三菱から資金提供を受けていると暴露した。これにより大隈重信は離党、立憲改進党も事実上の解党になった。

大阪事件
1885年。元自由党員による朝鮮政府転覆計画が発覚した事件。
過激行動と弾圧の繰り返しで、自由民権運動は次第に勢いがなくなっていった。

大同団結
国会開設が3年後になると、自由民権運動は再び盛り上がり、後藤象二郎は自由党と立憲改進党の確執を忘れて団結しようと呼びかけた。

三大事件建白運動
片岡健吉が井上薫外務大臣の不平等条約改正交渉を失敗と批判、元老院に三大事件(外交失策の挽回、地租改正、言論集会の自由)の建白書を提出した。
これをきっかけに三大事件への陳情が各政府機関に殺到、政府は危険思想の持ち主(と思われる人)を皇居から12キロ以内から締め出すという保安条例によって三大事件建白運動の運動家を東京から締め出したが、この運動は東北地方を中心に継続、旧民権派の再結集が進んだ。

憲法調査
1882年にヨーロッパに来訪した伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから君主の権限が強いドイツ流の憲法理論を学んだ。翌年帰国。

華族令
1884年。公家や大名などでなくても国家に功績を残した人は華族として認められる(=世襲の爵位が与えられる)法令。
貴族院(上院)の基礎を作るために作られた。

内閣制度
1885年。太政官制に代わって制定。
内閣は天皇の輔弼機関であり、各省庁は天皇に対して助言を行うとともに、天皇の行為に対してはその責任を負う。
ちなみに現在の内閣は国会に対して責任を負う(議院内閣制)。
内閣の首班となるのが総理大臣で、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。

憲法草案の作成
1886年。作成者は伊藤博文、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、総理秘書官で日本法律学校(日本大学)初代校長の金子堅太郎など。顧問はドイツの法学者ロエスエル。彼は商法の草案作りにも関わった。

枢密院
1888年設置。天皇の諮問機関。
憲法草案の審議が天皇臨席の上で行われた。

市制・町村制
1888年。山県有朋らがドイツのモッセを顧問にして作った地方自治制度。
1890年には府県制・郡制もできた。

大日本帝国憲法発布
天皇が制定し、それを黒田清隆総理大臣に授ける形で1889年2月11日に発布。
天皇と内閣に強い権限があったことが特徴。
ドイツの憲法を参考にしたため、天皇の権限が非常に強く、官僚の任免権、国防の方針の決定権、軍の統帥権、条約締結権などは全て天皇にあった。
このような国会が関与できない天皇の権限を天皇大権という。
特に軍の統帥権は内閣からも独立し、天皇直属の権利とされた。

帝国議会
明治憲法下における国会。
貴族院と衆議院の二院制で、両議院は対等の権限があった。
貴族院は、皇族や華族、多額納税者銀、内閣の推薦で天皇に任命される勅撰議員など非公選の議員によって構成され、政党議員はいなかった。
内閣の予算案や法案は帝国議会を通さなければならないため、政党の力は強まっていった。

臣民
明治憲法下における国民。
所有権の不可侵、信教、言論、出版、集会、結社の自由を法律の制限付きで認められた(法律の留保)。また帝国議会を通して国政に参加する権利も認められた。

衆議院議員選挙法
大日本帝国憲法と同時に公布。
選挙人は満25歳以上。被選挙人は満30歳以上で、直接国税(地租と所得税)15円以上納入した(全人口の1%しかいない)男子に限る制限選挙。
議員出馬のための納税制限は、その後10円以上→3円以上と引き下げられ、1925年に撤廃された。

皇室典範
大日本帝国憲法とともに制定(公布はされなかった)。
皇室に関する基本的な法典。欽定の最高法規で国会が関与することはできなかった。

民法典論争
民法は「日本近代法の父」と呼ばれるフランスの法学者ボアソナードが起草し、1890年に発表されたが、フランス流の自然法思想が日本の保守的な伝統にそぐわないとして、その施行は無期限延期された。
とはいえ、ナポレオン法典をそのまま日本に導入すべきとは考えていなかったボアソナードは、日本の慣習法と折り合いをつけ、また民法の他にも、刑法や治罪法など国内法の整備に積極的に取り組み、不平等条約の改正に大きく貢献をした(日本は民法がないことを理由に治外法権を正当化させられていた)。

第1回衆議院議員総選挙
1890年。大勝したのは自由党が再結集して出来た立憲自由党や立憲改進党。
立憲自由党は翌年党名を再び自由党に改めた。
自由党などの反政府系政党は民党と呼ばれた(政府系の政党は吏党)。

第1回帝国議会
1890年11月25日。
衆議院の過半数を占めていた民党は、行政費を削減し人民の税負担を減らせと、政府予算案を激しく批判した。

超然内閣
黒田清隆が発表した、内閣は政党のあり方に左右されないという立場。
しかし時の山県有朋内閣は、過半数を占める民党の意見を無視できず、その後の第一次松方内閣も軍艦建造費の予算案を通そうとして民党の激しい攻撃にあっている。

第2回衆議院議員総選挙
松方内閣の内務大臣だった品川弥二郎は、民党候補者の当選を阻もうと、選挙干渉を行ったが、結果はやっぱり民党の圧勝だった。これにより松方内閣は退陣した。

元勲内閣
第2次伊藤内閣のこと。明治維新で功績を残した薩摩藩や長州藩の実力者たちがオールスターで入閣したためこう呼ばれている。しかしやっぱり、民党の勢いを止められなかった。
このため伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光を使って自由党に接近、切り崩しを図った。
これが成功し、政府と自由党のあいだに連帯が生まれた。
また伊藤博文は天皇の権限に頼り、議会に政府への協力を呼びかけさせた。これにより海軍の軍備拡張に成功した。
しかし、政府に擦り寄った自由党に反発した立憲改進党は、逆に吏党の国民協会などと同盟を結び、第5、第6回帝国議会では過半数を取ったため、伊藤博文はその後も厳しい内閣運営を強いられた。

企業勃興
1886~89年までの会社設立ブームのこと。
デフレ不況(松方財政)だった頃に、土地を安く買い叩いて大儲けした豪農や豪商によって、全国の会社資本は増加、金融機関の資金は不足するようになったが、1889年に凶作が起こると企業勃興は終わった(1890年不況)。
企業勃興で生まれた会社は、機械技術の導入で大量生産を図り、産業革命の原動力になった。

紡績業
綿花から繊維を取り出し綿糸を作る産業のこと。
幕末~1870年代までは、関税自主権が認められなかったために、外国の安い綿織物が大量に輸入され、国内の綿織物業は不振だったが、その後業者は外国から安い綿糸を大量に購入し、ジョン・ケイの飛び杼の原理を手織り端の技術に組み込むことで、生産量を上げた。
これにより綿織物を安く大量に生産できるようになり、綿織物業は復興、綿糸の国内需要も高まり、1882年には大阪紡績工場が設立した。

大阪紡績工場
「日本資本主義の父」とも呼ばれる実業家の渋沢栄一が設立。
イギリスから輸入した紡績機械を蒸気機関で動かし(それまでは水力が主流)、安価な綿糸の大量生産に成功する。
これにならった大阪の豪農や豪商たちが、企業勃興時に次々に紡績会社を設立したことで、1890年には、国内で生産された綿糸の量が、輸入綿糸の量を超えるまでになった。
ちなみに渋沢栄一は、みずほ銀行や東京証券取引所、また、王子製紙、帝国ホテル、東京海上火災保険、キリンビール、サッポロビール、東京慈恵会、日本赤十字社、理化学研究所なども設立している。
彼は私利私欲よりも公益を優先させたため、同時代の他の実業家と異なり財閥を作っていない。
幕臣時代には、パリ万博に行ったり、エジソンに会ったりもしている。

製糸業
こちらはカイコの繭から生糸を作る産業のこと。
生糸は幕末以来、日本で最大の輸出品だった。
これまでは木製の歯車を手で回して糸を巻き取っていたが(座繰り製糸。ガンジーシステム)、外国製の繰糸器が導入され、器械製糸が主流になった。農村ではカイコの養殖も盛んになった。

日本鉄道会社
1881年に華族が主体となって設立した民間の鉄道会社。
これも企業勃興の時期に次々に設立されている。

財閥の誕生
1884年から政府が軍事工場と鉄道以外の官営事業を民間に払い下げると、これを買い取った民間企業は莫大な利益を上げて財閥となった。
三井、三菱、古河などの政商は、優良鉱山を政府から買い取り、巻上機などを使うことで石炭や銅の生産と輸出を増やした。
また北九州の筑豊炭田では排水用ポンプが導入され開発が進んだ。
三井財閥:江戸時代の両替商、三井家の財閥。日本初の私立銀行を設立。
三菱財閥:土佐藩の通商、岩崎弥太郎が設立。海運業を独占支配。
安田財閥:安田善次郎が明治時代に創業した安田銀行をもとに創始。

不平等条約改正
岩倉使節団(1871~73年)から続く不平等条約撤廃のための外交努力。
寺島宗則→井上薫→大隈重信→青木周蔵→榎本武揚→陸奥宗光→小村寿太郎という流れでやっと改正されるが、これは日米修好通商条約からなんと53年という長い道のりだった。

寺島宗則
1878年。アメリカに対し関税自主権の回復に絞って交渉を持ちかけ、ほぼ成功したけたが、イギリスやドイツの反対によって惜しくも失敗した。
また同じ時期に日本にアヘンを持ち込んだイギリス人が治外法権で無罪になるアヘン密輸事件が起き、関税自主権よりもまずは領事裁判権撤廃が先だろ、と世論の声が上がった。

井上薫
1882年。領事裁判権の撤廃をメインに交渉を進めた。
寺島外務卿の失敗を生かして、欧米各国の代表者を集め改正に向けた予備会議を開き、1883年には日比谷に鹿鳴館を建て欧米の要人を接待した。
井上薫は1886年に入ると正式に改正交渉を始め、領事裁判権の原則撤廃を欧米諸国にだいたい認めさせたが、この改正案には、外国人を日本で裁く場合その判事には外国人を半数以上付けることや、外国人の行動範囲を居住地から全国に広げるなどの交換条件があったため、政府内外から批判が続出した。
同じ時期に三大事件建白運動が起こり、鹿鳴館外交も極端な欧化主義だと批判、こうして井上薫は辞任に追い込まれた。
ちなみに初代内閣総理大臣の伊藤博文とは同郷の親友でドスケベコンビだった。

大隈重信
明治十三年の政変で下野し、東京で専門学校(早稲田大学)を開いていたが、井上薫が辞任すると、彼に代わって外務大臣に抜擢された。
大隈重信は、不平等条約の改正内容を極秘にして、改正に好意的な国から個別に交渉を始め、アメリカ、ロシア、イギリスから条約改正の調印を受けることに成功する。
しかし1889年、この条約改正案にも、大審院の裁判の判事には外国人を任用するという日本にとって不利な条件がついていることが『ロンドン・タイムズ』に暴露され、右翼の青年の来島恒喜(くるしまつねき)から爆弾で右脚を吹き飛ばされた大隈重信は、外務大臣を辞任した。
大隈重信は、この事件を起こした来島恒喜について「全然憎んでいない。若い奴はこれくらいの元気がなくちゃ」と語ったという。

青木周蔵
大隈重信に代わって外務大臣に就任。
彼は交渉相手を最大の難関だったイギリス一国に絞った。
しかしこの時のイギリスはロシアの南下政策を警戒し、清に利権を持つイギリスは日本との協力体制を築こうとしていた。
これによりイギリスは日本に対等条約を持ちかけ、無条件での条約改正交渉はほぼ合意にこぎつけていた。

大津事件
1891年。青木周蔵の交渉がまもなく締結しようとした時、滋賀県の巡査の津田三蔵が来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)に切りつけた傷害事件が発生。
津田巡査は、政府の圧力に屈せず司法権の独立を守った児島惟謙によって死刑を免れたが、大きな外交問題となり、この責任を取って青木周蔵は辞職した。

榎本武揚
青木周蔵に代わって外務大臣に就任。
青木案に沿って交渉を進めようとしたが、国内の世論が「それよりも諸法典の編纂を優先しろ」となったため、結局交渉は進まなかった。

壬午軍乱(じんごぐんらん)
1882年、日本よりも清との関係を重視しようという親清派の大院君(テウォングン)を支持する軍隊が、親日派の閔(ミン)氏一族に反対して、漢城で反乱を起こし、この反乱に呼応した民衆たちが日本公使館を取り囲んだ事件。
この反乱は結局失敗に終わったが、親日派だった閔氏は日本ではなく清に依存することにした。

甲申事変(こうしんじへん)
日本と接近して朝鮮を近代化させようと考えていた、独立党の金玉均(キムオクキュン)ら親日改革派は、清仏戦争(1884年)で清が負けたのを見計らって、日本公使館の支援のもとでクーデターを起こした。しかし清の支援によって、このクーデターも鎮圧されてしまった。

天津条約
1885年。全権大使の伊藤博文が、清国全権の李鴻章(りこうしょう)と悪化した日清関係を修復すべく結んだ条約。
日清両国が朝鮮から撤兵すること、日本が軍事教官を朝鮮に派遣しないこと、今後朝鮮に出兵するときはあらかじめお互いに通告し合うことが約束された。
しかし壬午軍乱と甲申事変によって、朝鮮に対する日本の影響力は低下し、清の影響力は増大した。そのため、日本国内では清と朝鮮に対する感情が悪化し、どっちもまとめて武力制圧すべきだという世論が強まった。

樺太・千島交換条約
1875年。日本(駐露公使榎本武揚)とロシアが樺太と千島列島を交換した。
これにより樺太はロシア領、千島列島は日本領になった。

小笠原諸島
東京の南の果てにある島々。
1876年に日本の領土だということが国際社会によって確定。
内務省の管轄になった。

脱亜論
福沢諭吉が提唱。日本はアジアから脱却して欧米に肩を並べる列強国になり、植民地を獲得していくべきだと考えた。
しかし、まずもって国民の幸福を主張する平均的欧化主義や近代的民族主義論者は、こういった日本の大陸進出には慎重だった。

島地黙雷(しまじもくらい)
政府の神道国教化に反対した浄土真宗の僧侶。神仏分離や信仰の自由を主張し、廃仏毀釈で打撃を受けた仏教の独立を勝ち取った。

キリスト教徒の知識人
札幌農学校のクラークなどの影響で増加する。
内村鑑三や新渡戸稲造など。

教育令
1879年公布。地方の実情を無視した画一的で強制的な学制を緩和、自由主義的にした。

学校令
1886年。森有礼文部大臣の下、公布。
帝国大学、師範学校、中学校、小学校と近代的な学校の体系が確立された。

教育勅語
1890年。学校教育の基本が忠君愛国とされた。

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
評論家。1885年に発表された『小説神髄』において、西洋の文芸理論に基づいて人間の内面や世相を客観的かつ写実的に描くべきだと主張。
戯作や勧善懲悪は否定された。この主張を取り入れた作家として、『浮雲』の二葉亭四迷、『五重塔』の幸田露伴がいる。

『文学界』
1893年創刊。
啓蒙主義や合理主義に反発し、人間の個性や感情を重視したロマン主義の作家の文芸雑誌。

『舞姫』
森鴎外が『国民の友』に掲載。ロマン主義的な短編小説。
ベルリンに留学した主人公が、エリスという美少女に出会い同棲したが、ロシアに転職することになり、これを知ったエリスが発狂してしまうという話。
・・・すまん、よく知らん(^_^;)

東京美術学校
現在の東京芸術大学。1887年設立。
西洋美術を排除した学校で、校長は岡倉天心、第一回の卒業生には横山大観がいる。
アメリカから教授として招かれたフェノロサは、日本の伝統美術を大いに称え、一方の西洋絵画を有害文化だと考えた。

『収穫』
浅井忠(あさいちゅう)の作品。バルビゾン派のミレーを思わせるような西洋絵画。彼が中心になり1889年には明治美術会が結成された。

団菊左時代
1890年代に大人気だった、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次の3人の歌舞伎役者にちなむ。

壮士芝居(新派劇)
自由民権思想を普及させるための劇。壮士とは自由民権運動の活動家のこと。
1888年に角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民の支援を受けて大阪で旗揚げした。
1891年には、川上音二郎が政府や社会を愉快に風刺するオッペケペー節を流行させた。

明治時代覚え書き①

明治時代の概要(1868年~1912年)
一人の天皇につきひとつの元号になったので、期間としてはそこまで長くはないんだけど、近現代史ってことで、文明開化から日清・日露戦争まで盛りだくさん。
西洋型の近代国家となった日本は、国際社会と積極的に関わるようになり、世界史と日本史は合流していく。

明治時代前期
王政復古の大号令に納得がいっていない旧幕府軍との戦争によって明治時代は始まった。新政府は戊辰戦争を繰り広げながらも着々と明治時代のアウトライン(天皇親政、身分制度緩和、近代的な議会政治など)を描き、戦争が終わると破竹の勢いで近代化を実現させるが、幕末に結ばれた不平等条約によって関税自主権がなかったため、国内産業が苦戦、全体的に経済活動はあまり活発化しなかった。

小御所会議(こごしょかいぎ)
1897年12月9日、王政復古の大号令が出された日に行われた、公武合体派と倒幕派の会議。徳川慶喜の内大臣の辞退と、徳川家の領地の半分を朝廷に納めることが決まった。

戊辰戦争
しかし新政府の決定に納得しなかった旧幕府派は、薩摩藩の挑発に乗り新政府との対決姿勢を表明、旧幕府軍を組織した。これにより小御所会議の決定に一度は従った徳川慶喜も、旧幕府軍を支持することになった(自分が担ぎ上げられているわけだし)。
戊辰戦争は1年半も続いた。

鳥羽・伏見の戦い
1868年1月に京都の鳥羽と伏見で起こった1万5000人の旧幕府軍と5000人の新政府軍(官軍)の戦い。
人数的には劣っていた官軍が近代兵器を駆使して官軍が勝利したと言われるが、実際には武器の性能よりは、官軍の指揮系統や士気の高さが勝利につながったと言われている。
なんにせよ敗れた旧幕府軍と慶喜は江戸に逃亡した。

江戸無血開城
官軍の最高実力者の西郷隆盛は、慶喜を追って江戸を総攻撃しようとしたが、旧幕府軍陸軍総裁になっていた勝海舟との和平交渉に応じ、1868年4月に江戸城は無血開城、新政府の占領下になった。篤姫でそんなことやってたな。
ちなみにこれを不服とする旧幕臣(彰義隊)は上野で抵抗。アームストロング砲を撃ち込まれている。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
江戸城は新政府の手に落ちたが、地方では依然旧幕府派の抵抗が続き、会津藩などの東北や北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成した。
しかし官軍によって9月に会津若松城は陥落、東北諸藩の抵抗勢力は撃破された。
八重の桜でそんなことやってたな。

五稜郭の戦い
旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は函館の五稜郭に立てこもったが、のちの総理大臣になる黒田清隆の腹を割った交渉などにより1869年の5月に榎本武揚も降伏。こうして戊辰戦争は終結し、全国は統一された。
ちなみに五稜郭とは大砲がいろんな角度へ撃てるように星型になった要塞。

新政府の政策
戊辰戦争中に新政府は9つの政策を実行した。

新政府の政策①諸外国への政権交代宣言
新政府が天皇中心の政権であることを海外に宣言。

新政府の政策②五箇条の御誓文の公布
新政府の基本方針。
1条:各地で広く会議を開き公開された会議で重要事項は決定されます。
2条:国民が一丸となって経済を振興しよう。
3条:身分に関わらず誰もが志を抱き、それを達成できるようにしよう。
4条:旧来の慣習はやめて、国際法に基づこう。
5条:新しい知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎を作ろう。

由利公正(ゆりきみまさ)が原案を作成、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と木戸孝允が加筆・修正。

新政府の政策③五榜の掲示の公布
国民が守らなければいけない儒教的道徳を示している(一札)。
また民衆の徒党や強訴(二札)、キリスト教(三札)、外国人への暴行(四札)も禁止された。最後は犯罪者が逃亡することを禁止している(五札)。

新政府の政策④政体書の公布
政府の組織を示したもの。国家権力を太政官という中央政府(機関であって役職ではない)に集め、アメリカ合衆国憲法の三権分立制も導入された。
立法機関は議政官で上局と下局で構成。
行政機関は行政官。
司法機関は刑法官。

これらは全て太政官に含まれる。

新政府の政策⑤東京への改名
江戸から東京に名前が変更され、首都は東京に。天皇の皇居は江戸城になった。

新政府の政策⑥一世一元の制の採用
天皇一代につき元号も一つということになった。

新政府の政策⑦府県設置
没収した旧幕府領のうち重要なものは「府」、その他は「県」とされた。
よって、この段階では藩地は府県にはなっておらず、藩の統治権は藩主が握り続けていた。

新政府の政策⑧版籍奉還
各藩の藩主が、領地(藩図)と領民(戸籍)を天皇に返還した。
まず薩長土肥が明治政府の求めに応じて先立って版籍を奉還、その他の藩もこれに倣った。
藩主は知藩事と言う地方長官に命じられ、石高に応じて家禄が与えられた。
徴税権と軍事権は知藩事が掌握していた。

新政府の政策⑨四民平等
藩主や公家は華族に、旧幕臣や旧藩士は士族になった。
農工商の人は平民になり、華族や士族と結婚したり、自分の好きな職業に就くことができるようになった。
しかし、えた・非人出身者の戸籍は「新平民」と分けて記載され、実質的な差別は依然として残ってしまった。

壬申戸籍
1871年に制定された戸籍法によって、その翌年作られた日本初の全国的かつ近代的な戸籍。

廃藩置県
明治政府の財源は、旧幕府直轄領(府県)からの徴税のみだったため、明治政府は財政難となり、府民の住民からの厳しい税の取立ては、各地で一揆を頻発させてしまった。
そこで明治政府は1871年に廃藩置県を断行、そのための軍事力として薩摩・長州・土佐から兵士を募集し御親兵(ごしんへい)を組織した。
明治政府は、藩制度を全廃し、全ての藩を府県にすることで政府の統治下におき、新たに増えた府県から財源を確保することができるようにした。
これにより藩主は知藩事を罷免され東京に移住、その代わりに中央から府知事や県令が府県に派遣され、地方行政にあたることになった。

中央官制
祭政一致と天皇親政の考えのもと、1868年(戊辰戦争中)に作られた太政官制を改正。
太政官の上に神祇官をおいた。
太政官は正院、左院(元老院。立法上の諮問機関)、右院(行政上の諮問機関)の三院制となり、正院の中に大蔵省、兵部省、外務省、文部省、工部省、開拓使などの各省を入れた。

富国強兵
経済を発展させて国家の軍事力を増強させる考え方。

殖産興業
国家を近代的にするための産業育成策。工部省が指導し、軍事は兵部省が担当した。
兵部省は1872年に陸軍省と海軍省に分かれている。
ちなみに陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルに作られたという。

藩閥政府
政府の要職(正院参議や、各省の卿など)に薩長土肥の若い実力者がついた体制のこと。
薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆
長州藩:木戸孝允、井上薫、山県有朋
土佐藩:板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行
肥前藩:大隈重信、副島種臣、江藤新平

岩倉使節団
1871年末、不平等条約撤廃と欧米視察のために派遣。
メンバーは岩倉具視(特命全権大使)、木戸孝允(副使)、大久保利通、伊藤博文、山口芳尚ら約50名。また津田梅子など40人の留学生も同行した。
不平等条約の改正自体は失敗に終わったが、欧米諸国の政治や産業を詳細に視察したことで、今後の明治政府の運営に大きな影響を与えることになった。

留守政府
岩倉使節団が帰国する1873年9月まで、留守を預かった政府のことで、西郷隆盛らが中心となって内政を行った。

留守政府の政策①学制の実施
1872年。
フランスの学校制度に基づき、文部省主導のもと、男女が等しく学ぶ国民皆学教育や小学校教育を実施した。

留守政府の政策②徴兵制の実施
騎兵隊の大村益次郎は農民主体の軍隊の方が武士の軍隊よりも強いという点に目をつけて、国民皆兵を唱えた。
これを受けて、1872年に山県有朋が徴兵告諭を発表、1873年には徴兵令が公布。
満20歳以上のすべての男子の兵籍編入が原則だったが、役人や官立学校の卒業生といった支配階級は除外された上に、お金(約700万円)さえ収めればどんな人でも兵役が免除されたので、8割以上の人が徴兵をまぬがれ、結局兵役に就いたのは農村の次男以下がほとんどだった。

留守政府の政策③地租改正条例
1873年。不安定な収穫高ではなく地価を基準に課税することにした。
また税は物税ではなく金納で、地券所有者を納税者とした。
地券とは地主の土地所有を証明する権利証。
しかしその厳しさは、江戸時代の年貢と変わらず、その上大切な働き手の子どもを学校や軍隊に取られたので、全国の農民は反対一揆を起こした。

明治時代前期の産業
電線:1869年に東京~横浜間に初めて敷かれ、その5年後には北海道と長崎が結ばれた。
北海道開拓:開拓使が主導し、アメリカ型の大農場や畜産技術が広められた。
屯田兵制度:1874年。失業した士族を北海道に派遣。開拓と対ロシア防衛が目的。
札幌農学校:1876年。アメリカの教育者クラークを北海道に招き開校。
新貨条例:1871年。金本位制に基づき円、銭、厘を単位とする新しい貨幣ができた。
政府紙幣:金や銀と交換できない不換紙幣だった。
郵便制度:前島密によって1871年に発足。飛脚に取って代わった。料金は全国一律。
鉄道:1872年に新橋~横浜の間に初めて敷かれた。
官営事業:工部省は鉱山、炭鉱、造船所など旧幕府から事業の経営を引き継いだ。
富岡製糸場:官営模範工場の先駆け。主力の輸出品だった生糸の生産拡大を狙った。
政商:岩崎弥太郎の三菱に政府は特権を与えた(有事の際に輸送を行わせるため)。

日清修好条規
1871年。日本が外国と結んだ初の対等条約。開港と領事裁判権が両国の間で承認されたが、日本に有利な不平等条約を結べばよかったのにと不満を持つ日本人もいた。

琉球漂流民殺害事件
台湾で琉球の漂流民54人が殺された事件。
当時台湾は清の領土だとされていたため、日本は清に賠償請求をしたが、清はまず琉球はそもそも清の属国だし(名目上として日本もこれを認めていた)、台湾は清の法的拘束力の外にあるとして賠償を拒んだ。
これに対抗して日本は強硬手段として1872年に琉球藩を置いたが(琉球処分)、清はこれを認めなかったため両国の関係はギクシャクした。ちなみに琉球藩の王は尚泰(しょうたい)。

征韓論争
鎖国政策を取り明治政府と国交を結ぶことを拒んだ朝鮮に対して、留守政府首脳の西郷隆盛や板垣退助は武力で朝鮮を屈服させる征韓論を唱えた。
朝鮮は、江戸時代の頃に窓口になっていた宗氏を廃し、宗氏と結んだ条約を一方的に破棄した明治政府に不信感があったらしい。
その後、征韓論は帰国した岩倉使節団に「いや、まずは国内の政治システムを整えたほうがいい」と拒否されたことで(内治優先論)、政府を揺るがす大論争に発展した。
結局、征韓論を主張した参議、軍人、官僚など約600人が辞職。これを明治6年の政変という。
これをきっかけに大きな権限を持つ内務省が設置され、それを統括し政府の最高権限を持つ内務卿には大久保利通が就任した。

明治時代前期の文化
儒教や神道の考えが廃れ、欧米的な自由主義や個人主事が流行った。
人間は生まれながらに自由で平等で幸福を追求する権利があるという天賦人権説はそれを象徴とするものだった。
1872年には太陽暦が導入、1日は24時間になり、日曜日は休日になった。
洋服、ざんぎり頭、レンガ造りの建物、ガス灯、牛鍋やポークカレーライスなどの洋食などは文明開化の象徴だった。その反面、これまでの日本の文化はあっさり捨てられてしまったが、錦絵や歌舞伎など一部の文化は、文明開化の時期にも流行をした。

大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)
1870年。寺社制度や祝祭日を制定。

神仏分離令
1868年。神仏習合を否定し、仏像を破壊する廃仏毀釈が全国で行われた(沖縄は例外)。

禁止の高札(こうさつ)の撤廃
1873年。浦上信徒弾圧事件(1868年)などに対する欧米諸国の抗議によってキリスト教は黙認されるようになった。

ジャーナリズム
1869年に本木昌造が導入した鉛製の活字鋳造によって、日本初の日刊新聞である『横浜毎日新聞』など、様々な印刷物が出版された。
福沢諭吉らの明六社は『名六雑誌』を刊行し、近代的な西洋思想を普及させた。

ブロントサウルス復活!

 まずは何も言わずに、本日アップロードされたこの論文を読んで欲しい。
 英語が弱いので定かではないが、(おそらく)全てのカミナリ竜の解剖学的特徴を歯から尻尾の先まで色分けグラフ化している(表4)。
 そして、アパトサウルス属に含まれる種(もしくは標本)がまさかこんなに多いんだ、ということに気づくだろう。あれもアパト、これもアパトでメガロサウルス並みによくわからない集団になってしまっていたらしい。
 そこで、ちょっとアパトサウルスってことになっている恐竜をもうちょい厳密に分析してみようよってなったところ、アパトサウルス・エクセルサスがアパトサウルスじゃなくて、別の属(つまりブロントサウルス)として独立することになったのだ!それもディプロドクス科としてではない!
 
 ディプロドクス上科、ブロントサウルス科、ブロントサウルス属!(´;ω;`)

 アラン・グラント博士じゃないけど、「子どもの頃一番好きだった恐竜だよ~まさか復活するなんてね~」って感じだ(あいつはトリケラトプスだったけど)。
 しかしトロサウルス騒動のように二転三転するこの世界、この論文を書いた人も「同じ種というのは異なる種よりも共通する特徴を多く持っていなければならない。そういった意味で、アパトサウルスとブロントサウルスが別の種であることは明白だった。でも、うそだろ~って思ってもう一回確認したんだけど、やっぱりブロントはアパトと違ってました」みたいなことをインタビューで言っている。パチンコじゃないが、なかなかの激アツであることは確かである。
 しかし自分が幼稚園の時に出会い、小学校高学年くらいには名称変更の憂き目にあっていたブロントサウルスが・・・長生きはするもんじゃわい。

 ちなみに、この論文、カミナリ竜の解剖学的なデータベースとしてかなりの超大作で、カアテドクスという種類の頭骨が保存状態がいいのか大活躍したり、シュノサウルスの頭骨の吻部がアパトサウルスのように丸く幅が広くなく、尖ってるなど、なかなか参考資料としても面白い。
 なによりアパトサウルスとされていた2種(アパトサウルス・ミニマスとグランディス)なんてディプロドクスどころかマクロナリアになっちゃってるぜ!大変動だ。
 丹波竜以降、恐竜の絵を封印し、大学の単位取得に勤しんでいた私だったが、ブロントサウルス復活となっては話は別。
 明治時代覚え書きの原稿を放り投げて、学生時代に描いたアパトサウルスのイラストを描き直してしまいましたとさ。

 つーことで、本日は「別種じゃね?」とあなたが物言いつけたから、4月7日はブロント記念日ということで、よろしく。

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆ クリストファー☆☆☆☆☆」

 ドイツ軍は愛ゆえに戦争に負けたぞ。

 本作は『ビューティフル・マインド』のジョン・ナッシュ、『ソーシャル・ネットワーク』のマーク・ザッカーバーグに続く、人の感情の機微や空気が読めない、理系バカの哀愁を描いた映画である(人ごととは思えねえ!)。
 
 題名のイミテーション・ゲームとは、いくつかの質問をすることで、相手が本当の人間か、それとも人間のふりをしたマシンかを判断するテストのことで、もしこのテストで人間と判定された相手がイミテーション、つまり人工知能だった場合は、そのマシンは人間の思考を持つことになる。
 本によっては考案者の名前からチューリングテストとも呼ばれてるんだけど、私はこのテストの具体的な内容はよく知らないんだけどさ、これって言ってみればあれだよね。『ブレード・ランナー』の取り調べだよね。

 もっと言えば、こんなもんSNSで毎日みんなやってるよね。すごい時代になっちまったよなw
 だいたいツイッターなんかはリアルで会ったこともない人と会話しているわけで、相手がただのbotの可能性だってあるし、実際どう考えてもbotのアカウントに熱心にリプライ送っている人もいるもんな。
 あれは謎だよな。もしかしてbotがbotとやり取りしている可能性もあるわけで、そうなるともう誰が人間なのか、もしかしたら引きこもってネットしかやってない人にとってみれば、フォロワー全員botというオリエント急行殺人事件的な展開もありうるわけだ。

 ここまで来ると、リアルで会っている人間だってもしかしたら中身は新聞紙詰まっているハリボテかもしれんぞという、哲学的ゾンビ問題になっちゃうんだけど、とりあえず今んとこ人間とマシンの区別がつかないようなことはない・・・って思ったらこないだチューリングテストで、人間認定されたマシンができちゃったらしく、まあそいつだって見た目はコンピューターなんだろうが、こいつとディスプレイ越しで交流したらもう人間と区別がつかないわけで、いよいよ恋愛シミュレーションゲームはさらなる輝きの向こう側へ行くぜっていう。

 ・・・すまん、それくらいしか思いつかなかった!(SFを書いているとは思えない貧困な想像力)

 ほかに何かあるかな・・・ああ、オレオレ詐欺プログラムとかが開発されて、全国のおじいちゃんおばあちゃんに一斉送信されそうだな。もう詐欺組織は電話かける必要もねえぜって。
 そうなると保険会社とかのCMに出てくる「お客様の声がうんたら・・・」的なオペレーターのお姉さんもみんな失業しそうだな。こええな。第二のラッダイド運動始まりそうだな。

 まあ、でもさ、人間も結局は人工知能と同じ条件(=自然法則)で動いている以上、どっちもコンピューターみたいなもんっていうのはあるんだけど、人間の脳がマシンのそれよりも特に優れている点は、曖昧なことをなあなあで流しちゃう点だよね。
 つまり、物事にプライオリティをつけて、わからないものや考えても仕方のないものはとりあえずペンディングしちゃうという。ここが、そんじょそこらのコンピューター共とは違うところだよ。
 まあ人間の脳とコンピューターじゃ求められている用途も違うっていうのもあるんだろうけど。人間は、なんだかんだいって、やっぱり自然界で暮らす動物なわけで、食物連鎖や自然淘汰に勝ち残る必要があるけれど、コンピューターの仕事って基本的に計算だからな。3回に1回足し算を間違う電卓とか、絶対売れないもんな。

 これがもし、コンピューター的な知性がサバンナで暮らしたら、すぐにライオンに捕まって食べられちゃうだろう。
 コンピューターってやつは変なところ愚かで、行動の選択をする際に、考えられるすべての選択肢をしらみつぶしにリストアップして、そのあとに最も適切な選択肢をそっから選ぶんだけど、向こうからやってくるライオンをどう対処するかというパターンなんてそれこそ無限にあるわけで、リストアップしている最中にガブリッてやられて終わりだぜっていう。
 だいたいライオンの対処なんて「たたかう」「にげる」「ぼうぎょ」くらいにしぼり込める筈なのに、コンピューターはバカだから「三角測量でライオンとの距離を計算する」とか、どうでもいい行動も選択肢の中に入れて吟味しちゃうんだ。

 こういう系の問題を、NP完全問題とかフレーム問題とかって言うんだけど、この映画に出てくるナチスドイツの暗号(エニグマ)解読機「クリストファー」くんも、10人の天才が毎日計算しても2000万年かかる演算を一生懸命続けていて、当然そんなアプローチじゃ計算が終わるはずもなく、パトロンの軍人に「ボッシュートです」とか言われちゃうんだけど、これはそもそも問題の解き方のアプローチが違っていたわけだ。
 
 よく出来た映画ってなによりメタファーの使い方がうまいんだ。『ショーシャンクの空に』とか『WALL・E』とかさ。因数分解的というか、重層的というか。メタファーを使ってそれぞれの要素を完結にひとまとめにすることで、伝えたいテーマが見ている人に明確に届くんだよ。
 この映画もまさにそうで、アラン・チューリングというマシン的な思考を持つ人間が、人間的思考を持つマシンを創ることで、彼にとっては暗号同然の対人コミュニケーションと格闘する話なんだよね。

 吃音症の数学者といえば、やっぱり『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルが出てくるけれど、それ以上に彼のキャラクターを象徴するのはアスペルガー症候群だろう(あと同性愛なんだけど、この問題はここでは割愛します)。
 アスペルガー症候群っていうのは本によって若干定義が異なるんだけど、知的障害を伴わないタイプの自閉症で、社会性、コミュニケーション、想像力に難がある場合が多い。
 こういう問題って、社会で生きる以上、多かれ少なかれどんな人も苦労はすると思うだけど(スペクトラム障害っていうくらいだから診断も難しい)、その程度がちょっと甚だしく、曖昧だったり婉曲的な表現や、言葉の裏にある相手の感情を読み取れなかったり、「あなたブスですね」的なバカ正直なことを言って集団で孤立したり、常人には理解できないような独自のルールに沿って行動したり、同じパターンを繰り返したり、興味のあることに関してはものすごく没頭するんだけど、その興味の対象がすごい狭いとか、難しい言葉を使うんだけど実は大して理解してないとか、まあ、総じて作らなくてもいいトラブルを周囲に作ってしまうところが特徴で、チューリング博士は見事にこれに当てはまる。
 
 学校で人気者だったろ?
 気難しい態度が許されるのは本物の天才だけだぞ。


 このような皮肉を同僚に言われちゃうのも、アスペルガー症候群に重度な知的な遅れがなく、言葉のやりとり自体は普通にできるためである。
 しかし『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグは、ホントただのムカつくやつに見えて、それはそれで面白かったけど、この映画のチューリング博士はなんか、分からないなりになんとか人を理解しようと頑張っている感じがして、すごいけなげで愛らしい。
 そもそも本当に論理的に考えるならば、不必要な人間関係のトラブルは作らないはずだからね。チューリング博士なりにそれ自体は理解してた感じがする。
 でも、そのためのアプローチがどうしてもイメージできなくて、フィアンセのアイディアに素直に従ったんじゃないかな。あのリンゴのシーンは本当、萌えました。高倉健さんの「不器用ですから」に匹敵する、なんか、こう、切ない・・・
 まあ、それで、同僚に「あ、この人別に悪意があって胸が張り裂けそうなこと言ってるんじゃないんだ」って理解されて、チューリング自身もなんとなく人間の思いやりとか愛情における傾向みたいなのを論理的に理解できるようになって、ついにエニグマ攻略の糸口を見つけるという。ここら辺の展開がすごい上手。

 そう、人間の思考はコンピューターのそれとは大きく違う。そして毎日エニグマの設定を更新しているのはドイツ兵――ほかならぬ人間だったのだ。
 チューリング博士は気づいた。ライオンに襲われる際に「測量をする」みたいな選択肢を選ぶバカはいない。そういう、どう考えてもいらない選択肢は初めから除外すればいいんじゃないか?と。
 これは分枝限定法と現在では言われているんだけど、チューリング博士は人間の思考を理解することで、難攻不落のマシンを攻略したわけだ。
 実際人工知能の研究は、ファジー理論に代表されるように人間の思考のある種おおざっぱな点を導入することで、飛躍的に進歩している。これを人工知能のO型化と呼ぼう。
 私なんかも血液型がO型だから、ネットでのやりとりで「そんなロジックで考えても絶対答えが出ない問題を、こんなところで議論しなくてもいいやん」とか思ってたんだけど、実はああいうやり取りをする人って、ネットプロレスや不毛な言葉遊びをしたいんじゃなくて、もっと切実に、机上の空論どころかむしろ地に足着いた問題として本気で悩んでいるのかなって思った。
 なら、私も論理的な思考には自信があるから答えを教えるよ。

 答えがないものとして、とりあえずスルーするのが答えだよ。

 なんかマロさんが仏教に詳しくて、宇宙がどうとか政治がどうとかマクロなことばっか批判してた弟子マールンキャプッタに、ガウタマの兄貴が「んなこと考える前に身近な人に手を差し伸べろよ」って一蹴した話があるんだって(毒矢のたとえ)。
 つまり、お前の職業が自然科学者や哲学者、政治家ならともかく、身近な人間関係で悩んでいるのなら、まずもって考えることはそういうことじゃないだろって話だろう。
 君が悩んでいるエニグマの答えは、そのアプローチでは絶対に解決できない。だから、この世の中には論理では答えが出ない問題があることを受け入れようよ。論理的に。ダメ?

江戸時代覚え書き④

江戸時代末期
いわゆる幕末。
開国か攘夷かで、幕府と朝廷が内部分裂。
薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件によって、攘夷が不可能であることを知った薩摩と長州は、とりあえず幕府から倒してしまおうと朝廷やイギリスに接近、幕府の方もフランスと手を組み対抗したが、相次ぐ将軍の死で弱体化著しかった幕府は、とうとう政権を朝廷に返還、それどころか薩長が繰り出した王政復古の大号令で幕府という存在すら廃止されてしまう。
つまり現代に置き換えれば、民主党が自民党に政権を返したのが大政奉還ならば、下野した民主党を野党としても存在させないのが王政復古の大号令ということになる(多分)。
ここら辺の時代はファンがたくさんいる上に、私は『竜馬におまかせ!』の知識しかないので、かなり適当。

薪水給与令(しんすいきゅうよれい)
産業革命によって新たな国外市場を求めた欧米列強国は、アジア各国を次々に植民地化、イギリスがアヘン戦争で清を破り南京条約で開国させたことを知った日本は、異国船打ち払い令を緩和、1842年の薪水給与令で外国船を撃退せずに薪と水を与えて帰ってもらうようにした。

ジェームズ・ビッドル
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1846年に日本に来航。
清米貿易船や捕鯨船の寄港地として日本の港を使わせて欲しいと要求したが、幕府は拒否し、ビッドルはそのまま帰っていった。

徳川家定
13代将軍。篤姫の旦那さんで有名。
彼が将軍に就いた1853年にペリーが来航している。
もともと体が弱く35歳で病死。ちなみに特技はお菓子作りだった。

マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1853年に軍艦4隻を率いて日本に来航。
フィルモア大統領の国書を提出し、開国しろと日本に強い圧力をかけた。
日本はとりあえず国書を受け取り、回答は翌年すると保留しペリーを帰らせた。

阿部正弘
当時わずか26歳で幕政を主導していた老中首座で、ペリーの要求についての意見を幕臣だけでなく、朝廷や大名、さらに庶民にまで広く求めた。
これにより幕府の権威は大きく落ち、後に倒幕運動をはじめる幕末の志士たちにも大きな影響を与えたが、もはや幕府の体制は硬直化しすぎており、それどころじゃなかった。
そこで阿部正弘は、前水戸藩主で徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)を幕政に参加させるなど大胆な人事を断行、江戸湾に砲台を設置し、大船建造を解禁するなどの安政の改革を行った。

日米和親条約
1854年、ペリーは約束通り日本の回答を聞きに再び来航。
しかも今度は軍艦を7隻に増やしてやってきた。
幕府はペリーの圧力に屈し、アメリカ船への燃料や食料の提供、漂流民の救助や引渡し、伊豆半島の下田と、函館の開港などが盛り込まれた日米和親条約を結ぶ。
特に第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというもので、日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。
その後、幕府は同じ内容の条約をイギリス、ロシア、オランダと締結した。
ちなみにロシアとは択捉島とそれより南のエリアは日本の領土であること、樺太は両方の国のものとして国境を定めないことなどを確認している。

タウンゼント・ハリス
1856年に来日したアメリカ総領事。
ハリスは幕府の通称条約の締結を求め、これを受けた老中首座の堀田正睦(ほったまさよし)は朝廷に勅許(許可)を申請したが、当時の孝明天皇はこれを拒否。
江戸時代に天皇が幕府からの勅許を拒否したことは一度もなく、当然通商条約は締結できると見越していた堀田正睦は失脚、幕政の主導権は滋賀県東北部の彦根藩主の大老井伊直弼に移った。

井伊直弼
44歳で臨時職の大老に抜擢。
自分の意見をはっきりと言う性格で、当初は開国に反対していたが、やはり合理的に考えて西洋列強国に軍事力では勝てない。なら開国をして海外の進んだ技術を受け入れたほうがいいと、考えを改めた。
問題は通商条約を受け入れるとして、どのタイミングで締結するかになったが、堀田政権の側近の岩瀬忠震(いわせただなり)が1858年にさっそく日米修好通商条約を結んでしまう。
この条約はハッキリ言って日本にとって最悪の条件の不平等条約で、そのために孝明天皇や尊王攘夷論者の怒りを買った井伊直弼は、国内で内乱が起きないように安政の大獄という恐怖政治を始めたが、1860年の桜田門外の変で水戸脱藩の志士に暗殺されてしまう。

日米修好通商条約
おもに5つの内容を持っていた。
①函館に加え、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港と江戸、大阪の開市。
②関税などを廃した自由貿易であること。
③開港地に居留地を作り、一般外国人の国内旅行を禁止させること。
④領事裁判権を認めること。
⑤日本に関税自主権は認められない。
②と⑤が矛盾していて、極めてアンフェアなんだけど、長らく鎖国していた日本には国際法の理解に遅れがあり、こういう詐欺まがいの交渉に丸め込まれてしまった。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。

アロー号事件
日本が不平等条約にサインせざるを得なかったもう一つの理由がこれで、イギリスの船を海賊船と間違って臨検しちゃった清がイギリスとフランスの軍事制圧を受け、不平等条約(天津条約)を押し付けられた事件。
アメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約を結んだら、アメリカがイギリスとフランスから日本を守ってやるという日米安保的な条件を持ちかけ、清の二の舞にはなりたくなかった日本はこれにやむなく従ったのである。

勝海舟
オランダから贈られた軍艦を使って長崎に作られた海軍伝習所の第一期生。
彼は幕府建造の軍艦の咸臨丸(かんりんまる)の艦長になり、1860年に外国奉行の新見正興を乗せて日米修好通商条約の批准書を交換しにアメリカへ渡った。
ちなみに子どもの頃イヌに片方のキンタマを食いちぎられて死にかけたため、ワンちゃんが大の苦手だった。

開国の経済的影響
日本に開国の揺さぶりをかけたのがアメリカだからか、開国当時の最大の貿易相手国もアメリカだという印象があるが、実はこの頃のアメリカは南北戦争(1861~65年)で大変だったため、日本と最も取引が多かったのはイギリスだった。
貿易額では横浜港が最大だった。
日本からの輸出品の8割は生糸で、その他、茶、蚕卵紙(蚕蛾の卵が産み付けられた紙)など。
日本への輸入品は毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など。
欧米列強国との貿易は日本の大幅な輸出超過ではじまり、国内の物価は上昇した。
これを受けて幕府は1860年に雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の5品は必ず江戸の問屋を経てから輸出させるという五品江戸廻送令を出し、物価抑制をはかったが、5品を扱う商人や列強国が反発したので効果は上がらなかった。
また生糸や茶とともに日本から大量の金貨も流出した。
当時の金銀の交換比率は1:15だったのに、日本の交換比率は1:5で、日本で銀を金に交換するだけでボロ儲けができたのだ。
それに対して幕府は日本の金貨の質を下げることで対抗しようとしたが、この改鋳により物価はさらに上昇、庶民の不満はさらに高まった。

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
病弱で子どもが作れなかった徳川家定の次の将軍を、一橋家の慶喜にするか、紀伊藩主の家茂にするかという問題。一橋慶喜を推薦していたのが越前藩や薩摩藩で、家茂を推薦していたのが井伊直弼ら南紀派だった。
大老に就任した井伊直弼は、強引に14代将軍を徳川家茂にしてしまい、また安政の大獄では、徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)や徳川慶喜を処罰している。
一橋家の反発を受けたのは言うまでもない。

安藤信正
朝廷、一橋家、尊皇攘夷派と様々な勢力から反感を買ってしまった井伊直弼が暗殺されると、次に老中の安藤信正が幕政に当たった。彼は朝廷と幕府の融和を図る公武合体路線を取り、徳川家茂と孝明天皇の妹の和宮親子内親王(美少女)を結婚させた。
しかしこの策略結婚は朝廷に対する冒涜だと、尊皇攘夷派の神経をさらに逆撫でしてしまい、安藤信正も1862年の坂下門外の変で水戸脱藩の志士に襲撃され大怪我を負い、老中を退いた。

徳川家茂
14代将軍。
血筋、人格(誰に対しても優しい)、武勇、全てにおいて優れたパーフェクト将軍だったが彼も21歳の若さで病死してしまう。
ちなみに大の甘党でほとんどの歯はひどい虫歯だったらしい。

文久の改革
薩摩藩主島津忠義(しまづただよし)の父、島津久光は江戸にやってきて幕政の改革を要求、これにより幕閣の人事移動、西洋式軍隊の編成、榎本武揚(えのもとたけあき)、西周(にしあまね)のオランダへの派遣、参勤交代は3年に一度、江戸にいる期間は100日に緩和された。

生麦事件
1862年。薩摩藩の武士が、江戸から帰る途中の島津久光の行列を乱したイギリス人商人ら4人を斬った事件(一人死亡)。
生麦とは事件が起きた神奈川県の村の名前。

薩英戦争
1863年。薩摩藩がイギリスに生麦事件の報復を受けた事件。
この砲撃により薩摩藩はイギリス海軍の圧倒的実力を目の当たりにし、攘夷は不可能であることを悟った。

八月十八日の政変
考えを変えた薩摩藩は、朝廷内の公武合体派の公家や会津藩とともに朝廷の実権を奪い、攘夷にこだわる長州藩と公家の三条実美を1863年に京都から追放した。

池田屋事件
1864年。新選組が京都の攘夷派を殺傷した事件。
池田屋とは京都の旅館で、中は狭かったため、新選組は刀を振り回せず、沖田総司などは刀を突いて(天然理心流の奥義の三段突きで)攘夷派を成敗した。

禁門の変(蛤御門の変)
池田屋事件をきっかけに京都に攻め込んだ長州藩を、薩摩藩や会津藩が追い返した戦い。
このあと幕府は、第1次長州征討の兵を送った。

四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
1864年。第1次長州征討のさなか、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダから下関砲台を砲撃される。これにより、とうとう長州藩も攘夷を諦めた。

改税約書
1865年。兵庫の開港を嫌がった孝明天皇に(京都と近いから)、欧米列強国がその代わりに関税の優遇措置を要求し、その勅使を孝明天皇からとることで、幕府に調印させた。
この流れを見てイギリス公使のパークスは、幕府が無力であることを見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権が日本に実現することを期待した。

薩摩藩改革派
薩英戦争をきっかけに薩摩藩は下級武士の西郷隆盛や大久保利通が実権を握るようになった。彼らはイギリスに接近、武器の輸入、留学生の派遣、洋式工場の建設などを行ない、倒幕の準備をした。

長州藩改革派
同じく長州藩でも、改革派に転向した高杉晋作や桂小五郎が、幕府に擦り寄る上層部に兵(西洋式の歩兵隊である奇兵隊など)を挙げ、長州藩の主導権を奪った。
改革派は長州藩の意向を倒幕に転換させ、イギリスに接近、維新の十傑の一人、兵学者の大村益次郎の指揮で、倒幕のための軍事力を強化させた。
一方の幕府はイギリスと対立するフランスの援助を受け、長州藩に領地の削減を要求したが、長州藩はこれをはねつけ、1865年に第2次長州征討が行われた。

薩長同盟
幕府は長州藩のライバルである薩摩藩に長州征討の協力を命じようとしたが、この時には既に土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎によって薩摩藩は長州藩と手を組んでいた。
日本初の商社(亀山社中)を作った坂本龍馬は、長州には薩摩の銃(アメリカ南北戦争で使った余り)を、薩摩には長州の米を送ることで、薩長同盟を実現させてしまったのだ。
そのため第2次長州征討に薩摩藩は参加せず、14大将軍の徳川家茂が急死すると第2次長州征討は中止された。

徳川慶喜
15代将軍。
イギリスと対立していたフランスの援助によって幕政の立て直しを図った。
公武合体路線を主張する土佐藩の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は慶喜に、天皇への政権奪還を提案、これは薩長の倒幕の決意を知った土佐藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が豊信に託したものだった。
こうして1867年の10月14日に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。これは薩長が朝廷の岩倉具視から討幕の密勅を受け取った日と同じだった。
ちなみに、四本足の動物を食べる習慣がなかった日本で積極的に肉を食べたことから「豚一将軍」と呼ばれ、文明開化の肉食ブームのきっかけを作った。
絵画やハンティングなど趣味が多く、明治に時代に入ると実業家の渋沢栄一の援助を受けて、悠々自適の生活を送った。あまり将軍に未練はなかったらしい。

王政復古の大号令
大政奉還によって薩長は幕府を倒すという大義名分を失ったが、もう今更止められず1867年12月9日に朝廷でクーデターを起こし、王政復古の大号令により天皇のもとに総裁、議定、参与の三職を起き、有力諸藩を参与とする新政権を樹立した。
これにより将軍職を始め、朝廷の摂政や関白も全て廃止、江戸幕府は滅亡した。

幕末の文化
世直し一揆:農村にも尊王思想が広まったことによる。
教派神道:民衆信仰。
ええじゃないか:1867年。東海から畿内一帯で民衆が踊り狂った。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ):幕府が設立した西洋の自然科学を教える学校。のちの東京大学。

留学生派遣
西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)榎本武揚はオランダへ。
福沢諭吉は幕府使節団としてアメリカとヨーロッパへ。
薩摩藩の森有礼、長州藩の伊藤博文や井上馨はイギリスに。
彼らは明治維新による日本の近代化に活躍。
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