日本の学校教育には出力の段階が抜けている

 私も塾で何年も働いていて、「なんか勉強のできる子には共通する“何か”があるな」とは思っていたのですが、勉強で学ばなければいけない知識を「情報」と考えたときに、私なりの本質が見えてきたのでまとめます。
 「勉強やだなあ」と苦手意識を持つ子の気持ちは、私もとぉって分かるので、いいんですよ。勉強なんてやらずに遊んでいても死にはしません。私もまじめに勉強したという記憶が本当にありません。マジです。だって生活に役に立たない雑学ばっかりだもん。学校が授業で教えることって。
 
 で、ですね。この前理科を教えていた子がなんと理科で校内一位をとったんです。それを「俺の手柄だ!」と言いたいわけではないんです。その子が元々賢いんです。私がどれほど関係しているかは分かりません。つまり塾が塾生の合格率をあげたいならまずは、はなから賢い子を入塾させればいいわけで。

 で、その勉強のできる子って、とにかくいろいろ理科について私に高度な質問をぶつけてくるんですよ。生物関係ならだいたいは答えられるのですけど、気象や物理学は結構苦しくて「オレにもそこは分からない。ごめん」と正直に白旗上げるのですが(ペルチェ素子のように次週までに調べたりする)、これがどういうことかというと、人間と言うのは一方的に情報を受け取るだけでは知識として定着しないということなんです。
 西部邁さんも、リチャード・ドーキンスも言うように、人間とは社会的動物。他者との関わり合いで生きているだけの情報の総体。もしくはミームを運ぶ情報の媒介者なわけです。

 では、どうやって学校は本当の知識を子どもたちに授けられるのか?それは簡単なことで、生徒にも教壇に立ってもらえばいい。まあこれは極端な例えばなしですが、でも私は実際中学校の頃立たせてもらったんですよ。「これはお前の方が詳しいだろ」と先生に進化論や地球の歴史の授業をさせてもらったんですが、人間は他者に伝達する、つまり具体的に活用する知識じゃなければ覚えようとしないし忘れるんですよ。

 だから日本の学校教育って「先生→生徒」の一方通行じゃないですか。班を作って調べ物学習やって発表させたって、先生はこういう学習を期待しているんだろうな・・・と生徒の方は結構気付くもんです。そしてしらけちゃうわけです。
 問題は「授業のスムーズの進行」という教師の都合だけで子どもに強制する「先生が生徒に叩き込みたい解答」をあらかじめ用意しているという「出来レース」があるということ。
 そんな学習やってて面白いわけないじゃないですか。この世に本質と言う解答なんてないわけですよ。だからこそ楽しいし、だからこそ不安で怖いから自発的に哲学するわけです。
 つまり「先生や教科書の意見は絶対に正しい」とするのは小学校で終わりにして、もう生徒が自由に考えて「先生オレはそれ違うと思います」と先生をねじ伏せてもいいんだ。

 全ての中学生にそんな高度なことはできないよ、と思うかもしれません。でも授業で感じた感想くらいは言えるはず。「オームの法則は俺には合わない。だいたい電気は目に見えないのになんでこんな事が分かるんだ」でもいいんです。
 そしてそういった感想を生徒同士で意見交換させて、もっといえば誰がオームの法則を一番わかりやすく説明できるか班ごとに授業をさせてもいいんです!つーか私は教育実習でこれがやりたかった!(実は近いことは中学校の美術の授業でやったんですけど)
 勉強は、先生じゃなくて生徒自身が学ぶことなんだから生徒同士で学べ。「生徒が生徒の先生」であるわけで、つまり生徒に「情報のアウトプットの機会」をもっと増やしてやってもいいんじゃないかな、と思うのです(欧米では似たような制度「オーナーシステム」があるし、黒柳徹子さんの通っていた「ともえ学園」はこれに近い。くわしくは伝説の名著『窓ぎわのトットちゃん』を!)。

 そんなこといちいちやってたら教科書が終らないかもしれません。でもいいじゃないですか。終らなくても。今の教科書ってフルカラーで読みやすいから、賢い子が勝手に読んで理解してできない子に教えてやればいい。人間って不思議なもので、他人に教えるために勉強するほうが案外頭に入ったりする。
 教師は結局それを見守ることくらいしかできないんじゃないのか。それだと「教師不用論」がでてきちゃうから今もなお一方的な授業をやっているのでは?
 でも「オレの学説は違う!」「なにを!」と、生徒同士がけんかした時教室の秩序を守る管理人として教師は必要なわけです。
 教師がなかなか生徒に心を開いてもらえないのは、教師が「生徒と知を共有し親密になるべき味方」であると同時に「学校という体制を守るため生徒の権利を時に制限する敵」という矛盾を抱えた二重の存在だからです。
 やくざにとっていくらその警察官が優しいいい人だって、所詮奴らは国家権力者。組の大切な情報なんて教えてくれるはずないじゃないですか。

 だから今教師がどちらもやっている二つの役割を分割してもいいんじゃないか、と。「クラス運営のプロ」と「生徒に学術的知識を授けるプロ」に分けて二種類の教員を別々に雇ってもいいじゃないかと。
 もっと言えばヤンキーが修学旅行先でやくざに拉致されちゃったような非常事態が起きた時に出動する「元ヤンキー先生」という役割も作ってもいいかもしれません。
 やはりヤンキーの相手はヤンキーに限ります!文化系がヤンキーを相手にしてもヤンキーの生き様が理解できないんですよ。「うるせえ!てめえにオレの何が分かる!」って。

 で、ちょっと話がそれきたので、議論をまとめます。

 勉強のできる子って一方的な形の授業でも「能動的な活動」をしているわけです。例えばただ受動的に授業を受けている子は、先生が黒板に書いたことをただそのままノートに写しているだけで、もしくはノートすら取らない。これはやってて面白いわけがない。苦痛の一時間。
 つまり脳を働かせてない。どうせこんな知識役に立たねえよと思っているから。それはそれで実は賢い選択なんだけど・・・
 それに対して勉強ができる子のノートが奇麗なのは、自分が理解しやすいように自分なりに黒板の番書の構成を変更するという「クリエイティブな活動」をして、能動的に授業を受けているのです。

 上手い先生と言うのは生徒の能動的で自由な発言を受け止められるほど器の大きい人のことを言うのかもしれない。
 私?私は生徒にも「え?なにそれ?知らない、教えて」って言っちゃうよ。それでいいじゃん。先生失格だって?なんでもかんでも教師が知っているって思っている人こそ、逆に何にも知らないんだよ・・・ってソクラテスが言ってたよ。

私なら『借りぐらしのアリエッティ』でゴキブリの生き様を描く

 私はジブリアニメって一度も映画館で見たことなくて、この「アリエッティ」もおそらく見ないと思うんです。それはストーリーの8割がブログで分かってしまうから。
 「映像(だけ)のジブリ」と言われるだけあって(?)ストーリーは今回も比較的単純で、というか『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』のように破綻していないだけまだましとかなんとか。

 あらすじは、屋敷の床下に住む絶滅危惧種「小人」のアリエッティ一家が人間のものを借りて生活しているというだけの話で、人間に見つかるとトンズラしなければいけないという、お決まりといっちゃお決まりのパターン。

 で、ここで疑問が二つ。
①なぜ小人は人間に見つかるとその家から逃げ出さなければならないのか?
②借りぐらしと言っているけど、小人たちは別れ際に今まで借りていた人間の所有物をちゃんと返してくれるのだろうか?(角砂糖とか厳しいぞw)

 で、この疑問の解答の私なりの推測がこちら。
①人間に「おいどうやら気持ち悪い生物がうちにいるぞ!」と駆除されるから逃げ出す。
②おそらく借りたものは返してくれない(映画見た人解答求む!)。

 この答えをふまえるに・・・アリエッティはゴキブリの擬人化なのではないだろうか?という結論が導き出されるわけです(おいおい!)。
 
 観に行かれた方のブログの記事を見る限り、そんなメタファーのある映画ではないようですが(そりゃそうだ)、ゴキブリの生き様を描く作品でも面白かったと思うのです。
 私はそんな話を高校生の時考えて友達に話したところ「やめれ!」と怒られましたが、実際その数年後にピクサーは害獣のネズミを主人公にしたわけですから、今は前例があるしイケるんじゃないかと(今思えばすごい映画だなレミー)。

 家に勝手に「借りぐらし」するゴキブリを私たちが気持ち悪いと思うのはなぜか?このような憎悪の感情に理由はあるのか?
 なぜゴキブリは家にいるだけでスリッパで虐殺される必要があるのか?ゴキブリに権利はないのか?
 ゴキブリの住んでいるところに勝手に家を建てたのは人間の方ではないか?しかしそんな人間の生活に適応して進化しているのもゴキブリ(人間の家に現れるタイプのゴキブリね。森林にすむ種類もいる)なのではないか?人間が滅びたら人間の生活に適応し依存していたゴキブリも被害を受けるのではないか? 
 ゴキブリを「地球に借りぐらしする人間」に変換できるように物語を構成、演出すれば、作中で描けるテーマは盛りだくさんだぜ!

 ゴキブリゴキブリうるさいですが、彼らがあそこまで嫌われるのは「形がグロテスクだから」というのはあります。やっぱり。
 アリエッティは小さいながらも可愛い人間の女の子の姿をしているわけで、人間は自分とあまりに形態が異なるものには不快感を持つわけです(脚のないヘビとか)。

 でも、本当にそれだけなのか?それを実験する作品が小人がゴキブリのように人の家に出没する『借りぐらしのアリエッティ』でもいいわけです。
 つまりいくらアリエッティが可愛くても、その存在を一度知ってしまったら、やっぱり自分の知らないところで彼らが勝手に「借りぐらし」しているのは、不快に思うのではないかと。
 だってプライベートもへったくれもないじゃん!連中はゴキブリと違って小さな人間。知性があるわけで、自分が隠しておきたいすっごい個人的な秘密をどこかでこっそりのぞかれて「こいつこんな趣味があるわよ」なんて「サザエさん」のようにアリエッティ一家の夕食の話題にされてたら、気が狂うこと請け合い!
 
 つまり最初は偶然出会った小人を可愛いと思い「いつまでもうちで借り暮しをしていなよ」と快諾した少年が、だんだんどこかに潜んでいるアリエッティの目を常に意識するようになってしまい(気軽に屁もこけないし、エッチなビデオも見れない)、とうとうおかしくなって小人の駆除に向かう切ないラブストーリーでもいいわけで(おいおいおいおい!)。

 しかしゴキブリって本当に向こうの立場からしてみると、かわいそうっちゃかわいそうだよ。だって連中も私たちに不快な思いをさせたくてあんな形になっているわけじゃないんでね。
 もし彼らにアリエッティのような知性があったら殺すのもためらっちゃうんだけど、やっぱり昨日スリッパで撃破しちゃった。それでこの記事のネタ思いついたんですが。

 ちなみにアリエッティがゴキブリの話だったら「小人は滅びゆく種族なんだ」という少年のセリフは大間違いです。なにしろゴキブリは二億年以上も繁栄している種族なわけで、人間が滅んでもずっと子孫を残していくでしょう。それこそ地球が終わるまで。

 ゴキ!お前らの未来は明るいぜ!(なんだ今回の話)

誰も押さねえよ、こんなの

 今日はいろいろ書きたい記事があって・・・私は文章をタイプしながら何を書くか考えているところがあるので30分~1時間で書き終わるんですけど(推敲なし!)。

 で、今回はこの前登録した「ブログランキング」って本当にそのブログの人気を反映するのか!?って話。
 ブログランキングのランキングって、ブログランキングを運営するサイトにブログ閲覧者がバナーをクリックして移動しないとポイントが入らない。これを「INポイント」と言うそうで、つまり閲覧者の「自分のブログ→ランキングサイト」の移動によってブログの人気が上がる。
 でもこれっておかしいよ、やっぱり。人気のあるブログと言うのはランキングサイトでそのブログを見つけて「なにこれ面白そう。行ってみんべ」とブログに入ってくるわけだから、ベクトルが逆なんじゃねえかと。

 そもそも私ブログランキングやるまで、他の方のブログの「記事が面白かったらポチっと押してね」的ランキングサイトのバナーを押さないどころか、気付いてもいなかった。
 今は極力押してやる方がブロガーさんのモチベーションになるなと思ってるんだけど。記事が面白かったら特に・・・だから今からお世話になっているブログを回って押しまくってこようかな(でもカウントは一日一回か)。

 でも、このランキングのバナーや文字のリンクって気付いても押さないよ。だって面倒くさいもん。閲覧者の方は私のブログの記事に興味を持たれて来ているわけで、ブログランキングに遊びに来ているわけじゃないもん。
 そして押したらランキングサイトに飛んじゃうから、「あれ?変なところにとばされた」とエッチなバナーみたいに不快感も持つんじゃないか?
 せめてバナーを押したときに、そのブログの管理人の「クリックありがとうございます」的感謝のコメントが出ればいんだけど、そういうシステムはないし。せっかく押してくれた人も二度と押さなくなっちゃう気がする。

 なんでにわかにブログランキングを批判しているかと言うと、実際このブログ二重カウント禁止のカウンターつけたら、けっこうたくさん?の人が来てくれている(ありがとうございます!友達数人だと思ってた)のにブログランキングを押している人はdescf氏だけなんですよ。つまり誰も押してない。
 そりゃそうだ。こんなの押さないよ。いつも押してくれるdescf氏が言っていたけど面倒くさいもん。このランキングやる意味あるのかな?って思ってきました。でも一応そのままにしておこう。

岡田斗司夫さん『アバター』を語る

 随分前の話ですが、オタキングこと岡田斗司夫さんの映画『アバター』論が面白い。

 私は岡田さんの本は『ぼくたちの洗脳社会』(古っ!)しか読んでいないのですが、岡田さんの分析を読んでいると、評論家というのも作家と同じで、その人にしかできない個性的な切り口で作品を評論出来る人が優れた評論家なんだなあ、と思います。
 つまり分析が正しいか深いかとか言うよりも、まず面白い見方かどうかが評論家には問われるんだろうな、と。

 ・・・で岡田さんの『アバター』の分析は合っているかどうかはともかく面白い。さすが岡田さんはモノの見方がオタク的だな~と思います。こう思わせてしまう岡田さんはやはりオタキング。
 どんな事言っているかと言うと「アバターは芸術作品である。」と。岡田さん曰く文化には「芸術」と「エンターテイメント」があって、前者は「新しい価値観」を表現し、後者は「一昔前の古い価値観」を肯定するんだといいます。相変わらずこのような独特かつ分かりやすい分類は見事です(適切な分類かどうかはどうでもいいんです)。
 つまりエンターテイメントとはある種市民権を得た確立された価値観に沿って物語を落とし込んでいくから、大多数の人を楽しませることができるし、逆に前衛的な芸術作品はその作家の価値観についていけず「つまらない」と評価されてしまう可能性がある。
 岡田さん曰く芸術にも「優れた芸術」「悪い芸術」があるし、エンターテイメントにも「優れたエンタメ」「悪いエンタメ」があるから、「芸術<エンタメ」とか「芸術>エンタメ」といった優劣関係はないとのことですが、リュック・ベッソンの『アデル ファラオと復活の秘薬』が大多数の人にコケたのは確実にあの映画が良くも悪くも革新的で「芸術」だったからなんだな~と思ってしまいます。

 で、なんで大ヒットした『アバター』を岡田さんは「エンタメ」ではなく、「芸術」と分析したかと言うと、物語のオチがこれまでのハリウッド映画では考えられないほど新しかったからだといいます。
 つまり主人公は、現実の足が不自由な人間としての生きるのではなく、最終的にアバターとして生きる人生を選んでしまうから。
 これは確かにドラえもんの「気ままに夢見る機」で夢と現実を逆転させそのまま物語を終わらせてしまう(夢が現実になっておしまい!)ようなもので、冷静に考えてみればぶっとんでいるかも。
 岡田さんは現実の辛い生活から逃避してテレビゲームにハマる子が、「現実に戻って来い」というお父さん(クオリッチ大佐)の忠告虚しく、そのままテレビゲームの世界に行って現実に帰ってこなかったという秀逸な例えをしていますが、そのゲームは「マリオ」ではなく「ときめきメモリアル」だったりするのでは・・・?
 つまりゲームの中の女の子に恋をして、ゲームの世界(惑星パンドラ)から出てこない。挙句の果てに現実世界に連れ戻そうとする人間をバッタバッタとぶっ殺し、ゲームの世界から追い出してしまうんだから、本当に引きこもりのオタクの人生を肯定する素晴らしい映画!

 そしてその価値観が大衆に受け入れられるようになったというのだから、本当に時代は変わった・・・
 ただ映画的に主人公のジェイクはあそこまでナヴィ族の味方しちゃったんだから、もう人間の世界にどの面下げて戻っていいか分からないわけで、アバターの人生をとるしかなかったのかも。
 いや違うな。その選択ってやっぱりけっこう自己中心的(精神的に未熟なオタク的)なんだ。本当なら人間でもないアバターでもない「何物でもない自分」を引き受けて、みんなの前から去って終わるというオチも考えられたはず!バットマンやロールパンナちゃんみたいに。アウトローを選択してダークヒーローになってもいいわけで。
 それがときめきメモリアルの世界の住人として一生暮らすって言うんだから、すごいよな~・・・

 最後に岡田さんの芸術とエンターテイメントの分類は面白いけど、映画の物語ってもうひとつ・・・時代が変わってもあまり影響を受けない「普遍的なもの」っていうのもありますよね。
 時代によって価値観が変わっても、物語の背骨になる部分って時代に大きく左右されないと思う。例えば悪代官が水戸の御老公をあっさり倒しちゃったら、映画の世界は成立しないわけで。
 あまりに新しすぎる前衛的な芸術映画が評価されないのは、やはり時代の価値観がどうこうじゃなくて最低限の映画プロットの法則みたいなものから大きく逸脱しているからなんじゃないかと思います。
 生物学的に言うならば、胚の段階で背骨をいじっちゃうとその生物はうまく発生しないぞ、と。

 私はしばしば「変な漫画ばっかり描いている」と周りから言われるけど(私の短編を評価してくれているdario氏だけには「昔みたいにもっとぶっとんだ新しいものを描いてくださいよ」と言われているけど。難しいんだって兼ね合いがw)、私が新しいことをやりたがっているのは確かだと思う。あまのじゃくでみんながやっているような事したくないから。
 だから即戦力を期待する出版社になかなか受け入れられないのか!漫画ほどエンターテイメントなメディアは無いわけだし・・・でも本当は芸術的チャレンジ精神で伸びてきたメディアだとも思うんだけど。やっぱり今の漫画業界って黎明期を終えて確立しちゃったんだな(言い訳)。

教育大学院制度と教育実習について

 福井県と言えば日本で唯一の恐竜博物館があるところで恐竜のメッカとして有名ですが(一度行ってみたい!)、教員の質を向上させるために「教育大学院」というものを設置しているようです。
 これは教育学部が行う一カ月弱の教育実習だけじゃ教員養成として不十分だということで、さらに大学院で一年間みっちり実習を行うというもの。これは実習の受け入れ先がかなり大学側と長期的に連携する必要があり、正直面倒くさい。でもその面倒くさい実習にあえて取り組む福井大学と実習受け入れ校は本当に偉いと思う。それくらいしないと教員を教育できないと。

 ただ昔は現場で新人を育てる風習があったけど今は無いから・・・っていうのはどうなのかな。これはつまり現在の教育現場には新人の育成に充てるほどの時間的な余裕がなくて、昔よりも忙しくなってしまったってことなんだろうけど、少子化で受け持つ生徒の数は減っている?はずなのになんでだろう?
 教育をサービスと考える保護者(消費者)の目が厳しくなって良くも悪くもテキトーに先生が働けなくなったのかも。

 しかしなんだかんだいって授業のやり方って慣れるより慣れろって感じで現場でどんどん場数を踏めば力はついてくる気もするし・・・って人によるのかな?
 でも大学出たてで教員採用試験に受かった新任の先生も初年度は研修を受けるし、問題は教員採用試験でどんな人をとるかだと思う。
 その試験の判断材料になぜ教育実習の資料(指導案や実習録など)を用いないんだろう?(使っている県もあるかもしれないけど)
 たとえば研究授業の様子なんかは大学側はビデオで録画して保管しているわけで、高校受験の内申書のように、教員採用試験でも教育実習の授業の様子を見れば面接なんかするよりずっとその人が先生に向いているかどうか分かるよ。

 あとニュース23で言ってたけど「教育実習公害」ってのもキャスターの言うように実習生の問題じゃない。
 「年間11万人の学生が教育実習を受けながらも、結局教師として採用されるのは2万人で逃げられているんです」って、そもそも現場が年間11万人も新任教師を受け入れるキャパシティは無いわけで(教員採用試験の倍率は地方はやっぱり高い)、問題は年間11万人もの学生に教育実習をさせてしまう大学側のシステムだと思う。
 だから本気で教師になりたい人だけ教育実習を受けられるようにして、「とりあえず免許だけはもっとくか」って人には受けさせなければいい(オレか!?)。
 つまり教育学部じゃなきゃ教員になれないようにすればいい。別の学部の教員養成課程は無くしちゃえ。柔道捨てずに国会議員になったヤワラちゃんじゃないけど教師って2足のわらじをはいて出来る仕事じゃないと思う。
 それとも「下手な鉄砲数撃ちゃ当たる」のマンボウ(r選択)作戦かな??
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