政治学覚え書き⑮(ガバナンス)

 おそらく最後の政治学覚え書き。政治はなんらかの政策を実行しないといけないんだけど、その政策過程について政治学ではどのように研究されているのか、を。

国際レジーム
国家主権を分類したことで知られるアメリカの政治学者クラズナーの定義では「国際関係における“特定の政策領域において”国々の期待が収斂するような明示的または暗黙的な原則、規範、規則、および意思決定手続きが創出すること」とされる。
国際レジーム論では、国際制度そのものを国際協調が具現化したものとして捉え、中央集権的な統治機構がない(アナーキーな)国際関係においても国際協調は可能であると考える。
国際レジーム論には三つの論点がある。
①アナーキーな国際関係においてなぜ国際レジームが形成されるのか。
②形成された国際組織はなぜ存続、あるいは変容するのか。
③国際レジームは本当に国際協調を促進するのか。

ネオリアリズムの国際レジーム論
国際組織が現実に存在していること自体は否定しないが、国際関係における協調の可能性を低く見積もっている新現実主義(ネオリアリズム)は、覇権国が存在している時に、覇権国の選好に合致すれば国際レジームは形成され、それを覇権国が支持している限り国際レジームは存続するが、覇権国が衰退するとそれに伴って国際レジームも脆弱になるという覇権安定論を唱えている。ちなみにモーゲンソーは多極安定論を、ウォルツは二極安定論を支持している。
新現実主義は国際レジームを「公共財」と考え、その提供者は、公共財の費用を負担できる覇権国しかありえないとする。また国際レジーム自体は国家間の力関係を反映したものにすぎず、国家の行動を協調的に促進する効果は持っていないと考える。

ネオリベラルインスティテューショナリズムの国際レジーム論
これに対して新自由主義制度論(ネオリベラルインスティテューショナリズム)は覇権国の存在が必ずしも国際レジームの形成・存続に必要ないとした。
国家は共通の利益を実現するために国際レジームを形成し、その利益が続く限り国際レジームも存続すると考える。
そして国際レジームが国際協調を促進するメカニズムについては、囚人のディレンマや、コースの定理などを挙げている。
彼らは国際レジームが存在しない状況で何故国際レジームが形成されるのかという①の問いには答えていないため、覇権国家による国際レジーム形成を否定していない。

コンストラクティヴィズムの国際レジーム論
ネオリアリズムとネオリベラルインスティテューショナリズムの考え方はどれも国家を合理的な主体であることが前提になっているが、構成主義(コンストラクティヴィズム)はこの合理的選択理論を批判する。構成主義には、国家の選好には知識共同体が影響を与えているというアイディアや知識を重視する立場や、アクター間の相互作用、国際関係の間主観性を重視する立場がある。
ここら辺の問題はサイモンのところで。

グローバルガバナンス
冷戦終結後の国際社会におけるグローバル化は、一国だけでは対応出来ない規模の大きな問題(グローバルイシュー)をもたらすことになった。
これに対処するための、国際社会における各国(及び非国家的主体)の活動を制御・規制する取り決めがグローバルガバナンス(ガバナンスとは「統治」の意味)である。
国際レジーム論では、各国を従える中層集権的な政府(地球連邦みたいなやつ)は存在しないと考えるが、かと言って完全にアナーキーな状態でもない今日の世界秩序をイシュー横断的に捉える包括的な概念(国際レジーム論では貿易、環境、安全保障などの特定領域を対象とする)で、多元的かつ重層的な国際ネットワークを射程に入れる。
アメリカの国際政治学者オラン・ヤングが提唱。

グローバルガバナンス論が示した重要な課題は以下の三つ。
①特定の問題領域に特化した国際制度や組織が、複数の争点の関連によって提示された問題にどうやって対応するか。(対象範囲がかぶるIMFとWTOや、労働と貿易を対象とするILOやWTOなどはうまく連携できるのだろうか?)

②国際社会におけるガバナンスの決定プロセスに、発展途上国や非国家的主体(国連やIMFなどの国際組織、多国籍企業、NGOなど)が新たに参加することによって、従来の決定プロセスは変容するのだろうかという「民主主義の赤字」の問題。

③多国間協調と国内利害のジレンマの問題。例えば、国際貿易の自由化が国内の集団に利益格差をもたらすといったような可能性(TPPの議論など)。
そしてこのような多国間交渉を従来通り政府に任せていいのだろうか。国際協調は国家内の利害対立を克服し推進されるのだろうか。

サミュエル・ハンチントン
著書『文明の衝突』で知られるアメリカの政治学者。
資本主義VS社会主義というイデオロギーの対立構造が冷戦終結によってなくなると、その代わりにキリストVSイスラームという宗教間の対立が起こることを予言。そして実際その通りになった。すごい。

サイモンの満足モデル
ハーバート・サイモンはノーベル経済学賞を受賞した政治学者。組織論が専門。
意思決定のプロセスは一般的に「課題設定→選択肢の探求→結果の予測→結果の評価→選択」という手順で行われるが、よくよく考えてみると現実問題として考えられる全ての選択肢を洗い出し、その結果を確実に推測、評価し、あらかじめ決められた評価基準に最も適合する選択肢を選ぶことは不可能である。
人工知能を作るときにもこんなようなNP問題は大きな障壁となっているんだけど、サイモンはそんなことリアルな人間はやっていない、人間は合理的であろうとする理想はあるものの、その合理性には限界があることを指摘、制約された合理モデル、満足モデルを考案した。
満足モデルの特徴は以下の三つ。
①選択肢の検討は一挙ではなく、ひとつずつ順番(逐次的)に行われる
②逐次的な検討の途中で、一応満足できる選択肢が発見された時点で選択肢の探求はきりがないので終了、最善の選択肢を発見することにはこだわらない。
探求を停止することによって余った時間やエネルギーは反対派の説得やほかの意思決定に使われる。
③結果を評価する基準(要求基準)は変化する。時間的制約がある場合、制限時間内に満足できる選択肢が見つからない場合は、要求水準を下げて、以前は満足できないと捨ててしまった選択肢を採用する。意思決定を放棄するよりはマシなので。

経済的人間
経済学が前提とする合理的な知性を持つ人間。多分そんな奴は人類にはいない。
ある種の理想。

経営的人間
決定の過程では合理性は制約されるが(満足モデル参照)、その目的意図においては制約を受けない人間。政治学や行政学が前提とする。

公共的人間
政治家や官僚などの政策エリートは、意図だけでなく結果においても合理的であることが多い。自分の決定が正当なものであるということを事前に説明することがあるからである。
公共的人間というと高い使命感と倫理観を持つ人という印象があるが、ここではしっぽを掴まれないような言い訳をあらかじめ考える人くらいの意味。

公共的人間における三つの観点
①アカウンタビリティ
説明責任。自分がおこなった意思決定について合理的な説明を行う責任。
②コンプライアンス
法令遵守。高度経済成長までに多用された、法的根拠が不明確な活動は現代では通用しなくなっている。
③トランスペアランシー
透明性。意思決定の過程をつまびらかにしても異論が出ないような論理武装が必要。

アリソンモデル
アメリカの政治学者グレアム・アリソンは、著書『決定の本質』において政策決定過程を、それを行う組織がどのように構成されているかという観点から三つに分類した。

①合理モデル
組織を一人の人間であるように単一の行為者と見る(最も単純なモデル)
問題点:誰にとっての国益か、何を国益とするかという問題

②組織過程モデル
組織の決定を組織内のルール適用の結果と見る
問題点:異なるルールや手順に従う複数の組織が決定に関与する場合、その政策決定は合理的でない場合があること

③政府内政治モデル
組織の決定を役職者たちの駆け引きの結果と見る(最も複雑なモデル)
問題点:関与する人間が変われば、同じ役職にあったとしても異なる政策決定がなされ、その駆け引きの相互作用を分析するのは極めて複雑。

アリソンはキューバ危機の際、核戦争を引き起こす可能性のある重大な決定が両国の一般市民をないがしろにして決定されたことを指摘し、政治的決定の影響を被る国民が、どのように政府をチェックすべきかという問題を提起した。

ゴミ缶モデル
組織論の研究者であるマーチとオルセンが提唱。
何か解決しなければいけない課題が先にあり、そのあとに解決方法を探すという政策過程は、極めて論理的で分かりやすいが、実際には「なんとなく」で政策を決めてしまい、そのあと政策にあった課題を後付けしまうこともある。
ゴミ缶モデルでは三つの前提がある。

①政策決定者の選好は不確か
何がしたいのかわからないままとりあえず参加して、徐々に自分のしたいことが分かったり、分からなかったり…

②政策決定者の持っている知識や情報は不確か
課題について十分に知識を持っていないこともある。

③政策決定への参加は流動的
参加者が日によって変わったり、同じ参加者でも積極性が日によって違うことがある。

この①~③を総括してマーチらは組織化された無秩序と呼んだ。
政策決定は偶然に左右され、課題や政策はまるでゴミ箱にゴミを投げ込むかのように適当に政策決定の場に投げ込まれるというのだ。

コーポラティズム
協調主義という意味。
単一、もしくは少数の頂上団体をそれぞれに持つ経営者と労働者が、賃金や物価上昇率を協議、そこで決定された方針に従って頂上団体が下位の利益組織を統制するような政治体制を指す。
各種の団体や組織が階層的に構成されている(そのヒエラルキーのトップが頂上団体)、頂上団体と政府との関係が安定的などの特徴がある。

デュアリズム
二元主義という意味。
労使交渉の対等性を訴えるコーポラティズムに対して、労働者の立場の弱さを強調する。
利益団体の影響力は均等ではなく、多元主義的な均衡も実際には強い団体に有利に形成された偏った均衡であると考える。

政党の機能
①政策形成機能
利益団体や国民の利益、意見を政治過程に吸い上げる。
政党のメンバーの議員が地元の要望を聞き入れ、地元に有利な政策を提案する。
数多くの団体や個人の利害を調整して、いくつかの政策にまとめる。

②政治的指導者の選抜と政府の形成
特に政権与党の党首が首班指名される議院内閣制や、単独で政権を取れない連立政権では重要。国民が首班を選ぶ大統領制においても政党支持態度に基づいて候補者に投票する有権者が多いことから(ミシガンモデル)政党が指導者の選抜に与えている影響は大きい。

③政治家の人材発掘と登用
政治家を発掘して育てる(政治的リクルートメント)。自民党の派閥など。

④国民の政治教育
テレビや新聞などのマスメディア、選挙運動を通じて国民に政治教育を行なう。

経済学覚え書き⑩

 去年は『キャピタリズム~マネーは踊る~』にめちゃくちゃハマって何十回も観て、経済学ブームがあったんですが、時は流れその時得た知識がけっこう抜けちゃったので、専門書引っ張り出して基本事項を再確認。

マクロ経済学における三つの経済主体

①家計
家計は消費や貯蓄の主体で、企業や政府に労働や資本・土地などの生産要素を提供することから生産要素の供給主体とも言われる。家計はその対価として賃金や利子・配当、地代などの得た収入を元に、企業から商品(材やサービス)を購入したり、政府に税金を収めたりすることで消費されている。

②企業
企業は生産の主体であり、資本を元手に設備投資を行い(工場や機械を購入したりソフトウェアを開発すること)、労働者を雇って商品を生産し、それを家計や政府に販売している。このため企業は生産要素の需要主体と呼ばれる。企業には生産財生産部門と消費財生産部門があり、生産財生産部門は消費財生産部門に原材料や部品、工作機械などの設備を提供し、その代金を得ている。

③政府
政府は家計や企業から税金を徴収し、道路や橋、公園などの公共財(社会資本)や、教育や警察、消防、国防などの公共サービスを家計と企業に提供している。また政府は企業に補助金を支払うこともある。国が行う公共事業にかかる金額と公共サービスの提供にかかる金額(公務員の給料など)を合わせたものを政府支出という。例えば財政政策は政府支出を上げて、企業の生産水準を上げることをいう。ケインズ経済学はこれを重視する。

有効需要理論と乗数プロセス
有効需要理論とは、消費や設備投資などの有効需要が低下すると、商品が売れないので企業が生産量を縮小させ、求人を減らし、失業率が上がるというものである。すると人々の所得は減少し、さらに需要は落ち込み、ますます景気は悪化する。この一連の流れをデフレスパイラルという。逆を言えば需要を刺激すれば、企業の商品は売れて、企業の生産量は拡大、雇用も増えて失業率は低下すると言える。
また需要の増加が、生産料の増加と所得の増加を生み出し、それが連鎖反応的に他の需要に波及していく過程を乗数プロセスという。

景気循環

インフレーション
・メリット
お金を持ってても仕方がないので、消費が活発化(有効需要が上がる)
通貨価値が相対的に下がるので輸出産業が儲かる

・デメリット
お金の価値が下がりすぎると物価が高くて、買いたくても買えなくなる
通貨価値が相対的に下がるので輸入が困難(国際市場における通貨の信用が下がる)

デフレーション
・メリット
お金をたくさん持っている人はさらに金持ちに
通貨価値が相対的に高いので、外貨や輸入品を安く購入できる

・デメリット
お金を貯蓄するようになるので、消費が滞る(有効需要が下がる)
消費者の給料も減り、さらにそれが消費を鈍らせるというデフレスパイラルが発生

円高と円安
一般的に
円高
・国際的に信用が高い通貨は買われる→好景気の場合に発生
円安
・国際的に信用が低い通貨は売られる→不景気の場合に発生

しかし日本の財政赤字は危機的状況の割に、ほかの通貨の信用がそれよりも低いからか円が安定して買われることもある。
また、不景気だと円安が発生するが、これは国際貿易においては輸出に有利となるので、貿易黒字が増え、景気が改善し、結果的に円高になる場合がある。
さらに、円高だと外貨で稼いだ利益が両替時に目減りすることになるので、輸出産業にとっては不利となる。逆に材料を海外から輸入するような産業や、海外旅行が好きな人は嬉しい。

フィリップス曲線
日本の労働者の賃金はこれまで高いと言われていた。
企業が失業者を出さないように労働者に高い給料を払い続けるには、商品の値上げを行うことになるので、物価は上がりコストプッシュインフレーションが発生する。
このことを示したのがフィリップス曲線で、失業率が高いときはインフレ率が低く、失業率が低い時はインフレ率が高くなる。
このようなトレードオフの関係は19世紀後半から20世紀初頭の景気データに基づいて考えられており、ケインジアンが猛威を振るっていた当時の経済学界では、極端なインフレや高い失業率を回避するために政府が適切なファインチューニングを行うべきであると考えられていた。

フィリップス曲線フリードマンver.
だが、フィリップス曲線が示すインフレ率と失業率のトレードオフの関係は1970年代以降次第に確認されなくなってきたことから、フリードマンはインフレが起こると失業率は一時的には下がるものの、長期的には失業率は元の水準に戻ってしまうとフィリップス曲線を批判。
つまりインフレ率と失業率には相関関係はなく、どんなインフレ率であろうと失業率はだいたい一定の値(自然失業率)をとるというのだ。
例えば、こういうことが考えられる。高い賃金によるコストプッシュインフレによって、メーカーの商品価格は上昇。高い商品では消費者の購入意欲は上がらないので、企業は生産量を縮小、雇用は減り、結局失業者は増加してしまう。
従って、政府が裁量的に市場に介入し、インフレ率を高めても、結局同じ失業率に戻るなら、物価が高くなるだけ逆効果、経済状態は不安定になるとフリードマンは考えた。
ちなみにフリードマンが引いた“長期的なフィリップス曲線”はインフレ率と全く関係がないので垂直線となる。

フィリップス曲線クルーグマンver.
だがだがクルーグマンによると、低インフレやデフレの状態においてはフィリップス曲線は長期でも右肩下がり(=失業率とインフレ率は相関)になるという。
デフレの状態では市場に出回っている貨幣の量が少ないので、賃金を調達することが難しく、失業率が改善できない。安倍さんがアベノミクスで世界で初めてインフレターゲットをデフレ対策で実行したのはそのため(イギリスなど他の国ではインフレ抑制対策としてインフレターゲットを行っている)。

ローレンツ曲線
所得格差を調べる際に最もよく使われる指標。
人口の百分比と、所得の百分比の表を作り、その表において原点を通る45度の直線が均衡分布線。すなわち、全ての人の所得が等しい(=所得格差が全く無い)状態を表す。
まあ、理想的な共産主義でもない限りそういうことはあまりないので、実際の所得分配状況を示したローレンツ曲線は、所得格差がひどいほど均衡分布線から遠ざかり、下方にたるむ感じになる。一般的にローレンツ曲線は、原点から所得が低い世帯順に並べていくので、アメリカのようにものすごい格差社会の場合は、グラフの後半で傾きが急に大きくなる(ラストの少数で一気に累計所得が上がってしまう)ってわけ。
この場合、均衡分布線とローレンツ曲線で囲まれた面積で算出するジニ係数は1に近づく(逆にローレンツ曲線が均衡分布線と重なる場合はジニ係数は0で所得格差はない)。

日本政府の財政政策

平成26年度一般会計予算の内訳①歳出

第一位:社会保障関係費(31.8%)
高齢化率21%を超える超高齢化社会だけあって、文句なしの第一位。
その上、合計特殊出生率は人口の維持に必要な2.1を1970年代に下回り、近年では1.3→1.4の低水準を続けている。
つまり高齢者が増加する一方で、その保険料を支える現役世代が減っているということなので、高齢者給付の削減と、現役世代の負担軽減という困難な課題を同時に相手にしなければならない。

第二位:国債費(24.3%)
赤字国債は73年の第一次オイルショックの時に初めて発行され、その後、経済は持ち直したが、バブル経済崩壊後はコンスタントかつ幾何級数的に発行され、来年度には合計900兆円に達する見通し。これはもちろん対GDP比100%を超えている(一年間のGDPを超える借金があるということ)。
ちなみに平成27年度の国債発行額は170兆円で、なんとか減らそうとはしているんだけれど、古い国債の借金を返すための国債(借換債)も赤字国債などと共に発行しているという、なんだかよくわからないけれど大変なことになっている。

第三位:地方交付税交付金(16.8%)
小泉さんはトリニティ的に地方分権を推進したが、まだまだ地方財政は中央からの依存財源でやりくりしているということだろうか。ちなみにこの三位一体の改革で、地方債の許可制は廃止され、国の許可なしに自由に発行ができる事前協議制になっている。また地方に寄付すると特産物がもらえる上に、寄付した金額のほぼ全額が確定申告時に控除されるふるさと納税なども話題になっている(寄付できる上限は所得額に応じて決められている)。

ちなみにこの上位3つで歳出の七割以上を占めている。
以下、第四位が公共事業、第五位が文教及び科学振興、第六位が防衛費となっている(どれも6~5%ほど。民主党政権時は文教及び科学振興が12%で第四位をマークしていたが、現在では削られて第五位に転落した)。

平成26年度一般会計予算の内訳②歳入
半分弱が公債金でまかなわれている、極めて不健全な状態。
租税収入で最も割合が高いのは消費税(16%)で、以下所得税(10%)、法人税(10%)。

プライマリーバランス(基礎的財政収支)
公債金収入(借金で得た収入)を除いた歳入から、公債の利払い費と債務償還費を除いた歳出(一般歳出)を引いた額。この差が均衡している場合は、経済成長率が金利よりも高い限り、政府の借金の対GDP比、すなわち借金の依存度は次第に縮小する(『入門経済学』)。
プライマリーバランスを黒字化に・・・とかちょっと前の民主党政権は掲げていたけど、プライマリーバランスとは国の借金を毎年どれだけ返しているかの指標じゃなくて、借金なしでどれだけ行政サービスを行っているかという、公債依存度を示す指標なのである。

国債発行の問題点
①財政の硬直化
借金の返済に追われて自由に使える予算が減る。
②世代間の不公平
将来世代にツケを残すため。
③クラウディングアウト(押しのけ効果)
国債の発行によって政府が資金を吸い取ってしまい、民間企業の分がなくなってしまう。

日本銀行の金融政策

①基準貸付利率及び基準割引率操作(ロンバート型貸出制度)
金融機関は日銀から担保の範囲内でお金を借りられる。その時の利率が基準貸付利率。
これが市中銀行間の短期金利であるコールレートよりも高いと金融機関は民間の市中銀行からお金を借り、これがコールレートよりも低いと金融機関は日銀からお金を借りる。
つまり金融機関は基準貸付利率とコールレートを比較してお金を借りる先を決定する。
かつて日銀は政策金利である公定歩合を定め、市中銀行の金利を拘束していたが、94年の金利自由化により各金融機関は自由に金利を決められるようになった。
しかし銀行金利をすべて市場の原理に任せてしまうと急激な金利上昇(盧武鉉大統領時代の韓国みたいな)を起こすことがあるので、基準貸付利率は“コールレートの上限”として市場金利の安定化を果たしている。

②公開市場操作
有価証券の売買によって市場に出回る通貨供給量(マネーサプライ)を調節する。
金融緩和をしたい場合は買いオペレーション。
金融引き締めをしたい場合は売りオペレーション。

③預金準備率操作
市中銀行の法定準備率を上下させて市場に出回る通貨供給量を調節する。
法定準備率↑・・・市中銀行が貸し出せる資金が減る
法定準備率↓・・・市中銀行が貸し出せる資金が増える

④無担保コールレートオーバーナイト物
公定歩合に変わる日銀の政策金利。
野村證券のサイトによれば「担保なしで、短期資金を借り、翌日には返済する取引」
すごい。一日しか借りれない!w
これは住宅ローンなどにも影響を与えるので、日銀はこの無担保コールレートオーバー~(長い)を使って市中の金利水準を調整している。

フィッシャー効果
一般的に
インフレ・・・銀行金利は高い
デフレ・・・銀行金利は低い

インフレとはどんどん物価が高くなるということであり、裏を返せば貨幣の価値がどんどん低下することでもある。
例えば、現在100万円を持っていて10年後に物価が2倍に上がるとする。すると現在の100万円は10年後では50万円の価値しかないということになる。
このようにインフレが進む状況においては、銀行にお金を預金するのは損である。むしろ逆に銀行から資金を借りるほうが得になる。現在100万円借りても、10年後には実質50万円分の返済で済むことになるからである。こうなると市場に貨幣が出回り、さらにインフレが進んでしまう。
そこで銀行は、みんながお金を預金してくれるように、金利を引き上げ(出来ることならインフレ率と同じだけ)、金融引き締めを行う。
ちなみに物価の変動を考慮した金利を、名目金利に対して実質金利という。
仮に、物価上昇に合わせて名目金利を引き上げると、実質金利は理論上インフレ率とは独立に決まるということになる。このように名目金利が物価変動と同じように変化する現象をフィッシャー効果という。

バンクーバーの朝日

 「面白い度☆☆☆ 好き度☆☆ 妻夫木くんのユルさ☆☆☆☆☆」

 ね、悪い人ばかりじゃないでしょ?

 でもあいつらデカいだろ。


 現在の日本は超高齢社会と言われていて、選挙でも絶対数の多いお年寄りの民意が優先されてしまうから、数で負ける若者の政治離れが進んで、挙げ句の果てには自分たちのパイが不当に老人に搾取されていると思い込み「老害」なんて史上サイテーサイアクのスラングが跳梁跋扈する始末。
 老害という言葉は恥ずかしいことに50代~30代も使っていて、はっきり言って下の世代にとっちゃお前らも老害だろ感がすごいんだけど、こういう人たちって戦後の日本を豊かな経済大国に発展させたのが老害だという視点が欠落している。
 それに少子化だって、後続世代が子どもを作らなかったのが原因だろ。「早く嫁をもらえ」とか「孫の顔が見たい」とか、そういう親のプレッシャーが嫌で、自分の好きに生きたわけであってさ。いや、今の社会状況じゃ子どもを養うほどの余裕がないとか言うけれど、戦後はみんな貧しかったわけで、一度味わってしまった豊かな生活水準を下げられないのが問題なんだよね。
 私は、別に少子化を食い止めるために子どもを作れ!なんて全然思っていない。私も未だ独身だし。ただ、その結果による多少の不利益は潔く受け入れろって思うことがある。
 民主主義という多数決で政治が行われているだけなのに、人生の先輩たちを口汚く罵るのは、おかしいんじゃないのか。お年寄りの方もそんな文句言われても困るだろう。若い奴らの甘ったれもここまできたかって呆れているに違いない。オレたちはなんのために一生懸命働いたんだっていう、
 そして、私が興味があるのはそのあとの未来だ。つまり、そういった働き者の「老害」の世代が亡くなり、ごっそり日本の人口が減ったとき、不足した労働力はどうやって補うのか。100年後には日本の人口は三分の一になっちゃうらしい。
 私は、とうとう日本は移民を受け入れるようになるんじゃないかって思うんだ。つーかそれしかないだろ。私たちの世代が「老害」と言われるようになる未来、海外から出稼ぎにやってくる外国の人とどう付き合っていくべきか?そういうことを考えるいいきっかけとして、この映画は作られたのかな?そう思っていたんだ。

 そしたらすごいゆるかった。

 なんかね(^_^;)出ている俳優はすごい豪華な割に、見事にどのキャラも薄いというか、本当に全編ゆる~いテイストで、『タイタンズを忘れない』とか『ナンバー42』とかの感動スポーツ映画を期待した私は、ちょっと肩透かしだったというか・・・やっぱこういう内容の映画はアメリカってすごいうまいんだなって再確認しちゃったよ。
 いや、でもつまらなかったわけじゃないんだよ。ただ取り上げる題材や伝えたいであろうテーマは割と重いもののはずなのに、すっごい安心して見れるんだw低刺激というか。やっぱりマイルドな「いい話」が日本人は好きなんだなあって。
 しかし、日本人っていうのは、あれよね。ずるいよね。未だに自分たちを「被害者」としての視点でしか描けないんだっていう。日本人が「加害者」として描かれる映画は、まだ受け付けられないんだなって。本当に第二次世界大戦とか反省してんのかなあって。
 
 日本人は愚かだ。一度つけあがるとすぐに過ちを侵す。残念だ。

 一応「加害者」としてのポジションにいるカナダ人の人も割といいやつに描いていたから、まあ、向こうでも受け入れられたらしいんだけど。
 むしろカナダっていい国なんだなあって思うよ。字幕には表示されなかったけど、「フェアにやれ!」ってインチキカナダ人審判に抗議したカナダ人の観客が「オレはジャップじゃなくてベースボールを愛してるんだ!」とかこっそり名台詞言っていたしw
 でも、ちょっと淡々と描き過ぎかなって。これは作り手が意図的に深く追求しなかったんだろうなって感じはするんだけどね。いろんな層に配慮して。
 でもさ、これからやってくるのは、この映画で描かれた立場が逆になった社会だろう。カナダ人と日本人の立場を逆にしてみたとき、オレ達日本人はあそこまで外国人労働者や移民に寛容でいられるのだろうかって。
 関東大震災の時、在日朝鮮人が井戸に毒を入れたっていうデマにまんまと踊らされて、朝鮮の人をリンチしちゃったオレたちが、仕事を奪われ、野球でも負け、戦争で奇襲攻撃を仕掛けられた時、在日外国人の人をどこまで許せるのか。やっぱり強制収容所に送っちゃうんじゃないかっていう。

 とにかく、もうちょい脚本を練れば、もっといい映画になった気もするんだけど(そしてもっと人を選ぶ映画になった)、バンクーバー朝日っていう日系人の移民だけで結成されたカナダの野球チームのノリがね、『巨人の星』よりは『けいおん』なんだよね。
 全然ハングリーじゃないんだよね。移民一世のおじさんたちは「白人どもを叩きつぶせ~!」みたいなガラの悪い阪神ファンみたいな野次を飛ばしているんだけど、バンクーバー朝日のメンバーは移民二世ってこともあってか、あまり白人に強い対抗心を持っていないっていうのがね、あのチームのアグレッシブのなさにつながっているという(^_^;)
 ここら辺は、なんか今の日本の現状を皮肉ってんのかなって。今の若者って割とニヒルで、自分たちが頑張ってもどうせ世の中変わらねえよみたいに考えているところあるからね。だから投票にすら行かないわけで。
 これはもう、なんか、人間ってどの時代に生まれるかで考え方って変わっちゃうのかなあって切なくなったよwだから寿命ってのがあって定期的にメンバー交代してんのかなって。
 しかし、あのチームの良くも悪くもゆるふわな感じはホント何なんだろうな。リアルに考えるとみんな肉体労働をした後に野球の練習に行っているから、あまり元気がないとか…気分転換の趣味でいいやみたいな。
 実際、送りバント戦法も知恵を絞ったというよりは、割と偶然思いついったぽいし、血のにじむ特訓みたいなシーンも、監督がメンバーに具体的な指示を出すシーンすらほとんどない!なんかこの映画作った人スポーツやったことあるのかなっていうのはあったな(^_^;)
 演出の仕方によっては、もう白人の球は打てない!って潔く諦めて、ID野球やるところはもっとドラマチックになったんじゃないかなあ。

 かっこいいと思ってやってねえよ。

教育哲学覚え書き

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。そして元旦さっそく勉強をしている私。エライ!というか、今年の冬休みって今日しか休みがないんですよ。だから勉強できるときにやっておかないと。私エラいぞ(二回目)。
 というか宿敵の日本史が年末に攻略できたことで、今ちょっと向上心がモリモリなのかもしれない。去年の今頃は脳のキャパシティがオーバーして参考書放り投げてたけどね(^_^;)・・・あれはオレじゃねえ!

参考文献:小沢周三、小沢滋子、影山昇、今井重孝著『教育思想史』

ソクラテスの対話法
紀元前5世紀頃登場したソフィストと呼ばれる職業教師は、オリエント文化と交流が深い新しい植民都市の出身者が多かったため、伝統的なギリシャの慣習にとらわれることなく、既存の価値観を相対化した。彼らはアメリカのセレブ御用達の弁護士のように、何が正しいか正しくないかは置いておいて、訴訟に勝利するための法廷での振る舞い方、弁論術を有料で教えていた。
当時活躍したアリストファネスは古き良きアテナイを愛する作家であり、自身が書いた喜劇『雲』において、ソフィストによるラディカルな教育論や相対主義の功罪を描いた。この劇においてソフィストと共に痛烈にカリカチュアされたのがソクラテスである。作中ソクラテスは若者を堕落させる利口ぶった破壊的哲学者として描かれ、まるでソフィストの代表格としての扱いであったが、実際のソクラテスはむしろソフィストの相対主義を批判し、人間がよりよく生きる普遍的な原理を追求していた本質主義者だった。とはいえ、アリストファネスから見れば、どちらも皮肉(エイロネイア)を用いる、口が達者な憎たらしいインテリに見えたのかもしれない。
ソクラテスは相対主義と、それに伴う道徳の軽視(=エゴイズム)がはびこった当時の国家を改善するためには、若者を教育し直さなければならないと考えていた。
当時のソフィストの言い分は以下のようなものである。

法律→多数者が勝手に取り決めた。パターナリズム。
国家の秩序→勝手な拘束。パターナリズム。
道徳→政治教育による洗脳。パターナリズム。
神々の信仰→自由な活動を規制するためのオカルト。パターナリズム。

ポストモダニストやリバタリアン(とそれを誤解したツイッタラー)が主張しそうなことはこの当時のソフィストによってだいたい論理展開されていたといえよう。例えば、哲学者プロタゴラスは「人間こそが万物の尺度」だという有名な言葉を残している。
ペロポネソス戦争によって、これまで普遍的なものであると信じられていたアテナイの伝統的価値が揺らぎ、主観は客観に勝り、何が善く、何が美しく、何が正しいのかは個々人の自我が恣意的に決めているに過ぎないとうそぶくソフィスト。そんな彼らの鼻をあかしたのがソクラテスだった。
倫理的義務や行為は、個人的な好み(ドクサ)に由来はせず、精神の本質である正しい知(エピステーメー)に由来するとしたソクラテスは、「ソクラテスより賢い人間はいない」というデルフォイの神託を確かめるために、名だたる賢者、政治家、芸術家を訪ねた。ソクラテスはその際、自分の主張はせず、ひたすら聞き役に回り、相手の論の矛盾点を指摘した。これを対話法という。対話法は産婆術が得意だった母親を持つソクラテスが、自分は賢者ではないけれど助産師のように他の人が知を生み出すサポートくらいはできるのではないか、と考えていたことに由来する。
さて、この対話法の結果は散々なものだった。世間で賢者とされる人々は自分自身を頭がいいと思い込み、自分が専門とする領域の知識は豊富でも、人生における哲学的命題(善美の問題)については何も知らなかったのだ。彼らに決定的に欠けていたものは「自分が無知であることを知る」というメタ的な自己認識(…と謙虚さ)である。
そしてこの「無知の知」をソクラテスは誰より心得ていた。これによりソクラテスは当時のどんなインテリよりも賢かったことが証明されたのである。
しかし魂(プシュケー)に徳を備えることが人間の卓越性であると考えたり、知性を持つ有徳者ではなく、クジで代表者を決めてしまう当時のアテナイの民主政治を批判したソクラテスは、アリストファネスのような誤解も含めて若者に危険な思想を流布していると捉えられ、最終的には処刑されてしまう。退廃したアテナイ市民の周りをうるさく飛び回り、その無知に対して警鐘を鳴らした「アブ」の死であった。

プラトンの教育思想
プラトンはイデア論で有名な古代ギリシャの哲学者で、師匠のソクラテス同様、普遍的な真実の知であるエピステーメーが存在すると考えた。しかし人間はイデア(永遠不変の本質)の虚像にすぎない現象界に住んでおり、理性でイデアを捉えエピステーメーを獲得しなければならない上、それができる人間は限られている。
プラトンは人間の魂の性質を理性をもつ魂(支配者階級)・気概を持つ魂(防衛者階級)・欲望を持つ魂(生産者階級)の三つに分けた(三分説)。これに対応する徳はそれぞれ知恵・勇気・節制であり、全ての人が自分の天分を守ると正義の徳が成立する。この知恵・勇気・節制・正義をギリシャ4元徳と言う。
プラトンは知恵の徳を持つ理性的な人間が王にふさわしいとし、理想国家の実現には、哲学者を王にするか、王を哲学者にするべきだと考えた(哲人政治)。そのための教育メソッドが『国家』に記述されている。

17、8~20歳までは音楽と体操
20~30歳までは算術、幾何学、天文学、音調学
30~35歳までは弁証法を学ぶことで善のイデアを認識できるようにする。
この教育を受けた人が35~50歳までのあいだ実務を修練して哲人王として国家を統治する。

これは良い王を育てるための教育であり、近代の公教育とは意味合いが異なる(帝王学に近い)。だが哲人王にふさわしい人物を見つけ、その人の素質にふさわしい教育を順序だてて行うという意味では、カリキュラム論の先駆けであるともいえる。

モンテーニュの『エセー』で示される教育観
モンテーニュはルネサンスの人文主義者。
遊びを通した自由な教育や、子どもの特性に合わせた教材の選択や支援、そして、それを行なう教師の資質や専門的能力を重視したエラスムスの教育法を学んだ両親によって育てられた。
モンテーニュは子育てを親が行うとどんなに賢い親でも甘やかしすぎてしまうので、他人(=教師)に任せるべきだと考えた。そして、子どもにどんな教師を付けるかによって教育の成果は決まると、教師の役割と、その選択の重要性を主張した。
教師の選択基準について、モンテーニュは、その教師がどれだけたくさんの知識を知っているのかよりも、人格や判断力を重視すべきだと考え、古代ギリシャの知徳合一を評価した(主知主義的な詰め込み教育を否定したと言える)。
教育の最終的な目標を徳のある人格の涵養であるとしたモンテーニュが特に重視した学術分野は歴史と哲学である。歴史は年号を丸暗記するのではなく、過去の人物や出来事を追体験し、自分の判断力の育成に活かすことを、哲学は小難しいことをしかめっ面で考えるのではなく、頭を柔らかくして楽しんで学び、それを自分の人生の生き方に具体的に役立てることを主張している。実学的なのだ。
さらに徳の涵養については大人、子ども、愚鈍、利発関係なく、快楽を育むものであり、それを養うのは努力ではなく節制であるとした。
また、教育とは、教科書だけではなく、あらゆる事物や経験を通して行うことができるとし、強制や体罰に訴えず子どもの自主性を重んじるべきだと考えた。これはルソーの教育論に影響を与えている(間違った行動も子どもの自由にさせ、その結果自業自得で苦しませることで、それがいけないことだと子ども自身に気づかせる手法など)。
ほかにも、モンテーニュは旅行の教育的意義(異文化体験)を説いている。

ルソーの教育論
ルソーはフランスの啓蒙思想家。近代教育思想の始祖、子どもの発見者といわれる。
当時のヨーロッパでは「子ども」という概念は実はなかった。子どもは「小さい大人」とみなされ大人と子どもは区別されていなかったのだ。ルソーは子どもが大人とは異なる独特の存在であることに着目し、その発達的特性を踏まえた教育メソッドを『エミール』において表したのである。
さて、ルソーは人間の理性を礼賛したほかの啓蒙思想家とは異なり、文明を否定的に捉える特徴がある。つまり人々の不平等の起源は文明(私有財産制など)であり、人間は理性によって人間になるのではなく、心情によって人間になると主張した。
ルソーの提唱した教育は「自然」「人間(他者の働きかけ)」「事物(物質的環境)」の三つの要素から成り立つ。この中で人間の力でどうにもならないものは自然であり、この3つの要素を調和させるためには、自然に人間と事物を合わせるしかないと考えた。
ルソーは、文明と離れた自然の状態によって育てられた人間は、人間本来の姿を持ち、自分自身の価値が自己の内部に存在するが、その対極である社会人の価値は、社会との関係という外部基準によって決まるものであるとした。
ルソーは「教育とは機械ではなく人間を作るものである」という有名な言葉を残しているが、ここでいう「人間」とは「もっぱら自分のためだけに教育された人間」を言う。これは自分自身さえよければいいという利己的な人間ではなく、人間として生活することができる能力を持った存在を指す。つまり肉体的にも精神的にも自立した存在を理想としている。この生きる力は、本来自分自身の内部にあるものであり、これを自然と呼んだ。
自然が人間の中で発達するには、

感性的判断(幼少年期)
悟性的判断(少年期後期)
理性的判断(青年期)


の3つの段階を経る。
幼少年期では子どもを自然に触れさせ、他人の手助けなしに必要なことをやらせるべきだとする。これにより子ども自身が自力で出来る範囲を知り、それに合わせて自分の欲望を抑制することができるようになる。
少年期後期では、学問を愛する趣味を与え、それが最も高まった時に学問を学ぶ方法を教える。この時期はひとつの対象に意識を持続的に向けられるように慣らす時期であり、子どもに学問を強制せず、子どもの欲求に基づいて学べるように配慮する。
これは子どもの理性に権威に服従する癖をつけさせないと同時に、自由な発想で規則性を発見したり、観念を整理したり、道具を工夫して使えるようにさせるために大変重要なことである。
教育とは大人が子どもに何かを詰め込むことではなく、子どもを援助し付き従うものなのである(消極教育)。教師は子どもが望むものを手の届くところに置いて、その欲望を生じさせ、それを満たす手段を提供させるだけでよく、学習の主体は子どもなのである。
青年期では自分以外の他者との関係を通じて自己を研究することが課題となる。これが人間の生涯の仕事でもあり、社会秩序の中で調和を保ちながら生きていくことを学ばなければならない。しかし情念を整備するのは人間ではなく自然であるとし、自然の中で人間は己の弱さを知り、その弱さが人間を社会的にするのである。

ヘルバルトの教育論
19世紀に教育学を科学的に体系化した人物として知られる。
教育学は教育者にとって必要な科学であるが、教育者は、相手に伝達するために必要な科学知識を持っていなければならないとし、教育が単に経験や慣習だけで行われてはいけないと考えた。
モンテーニュは教師の資質について知識よりも人格や判断力を重視したが、主著である『一般教育学』で「教授のない教育など存在しない」と論じたヘルバルトは、知識を再評価したと言える。
実際ヘルバルトは、子どもの自主性を重視したモンテーニュやルソーの教育観について批判を行っている。子どもを自然に任せるのではなく、教師の適切な手だてによって子どもの興味を引き出すことが重要なのだと考えたのだ。
ヘルバルトは、教育の目的(品格の陶冶)を実践哲学、手段を心理学に依拠した上で、「専心」(一つの対象に没頭すること)と「致思」(専心で得た知識を結合させること)の二つの概念からなる4段階教授法(明瞭、連合、系統、方法)という科学的なメソッドを組み立てた。

「明瞭」学習内容を限定化することで目当てを明確化する段階
「連合」明確化された学習内容を別の知識と調整する段階
「系統」連合で学習した知識を系統化する段階
「方法」系統化された知識を応用する段階


ヘルバルトのメソッドはツィラーやラインによって継承及び発展するが(5段階教授法になる)、後にディーイらに主知主義と批判される。

デューイの教育論
デューイはアメリカ生まれの哲学であるプラグマティズムを唱えた教育学者。
知識とは環境に適応するための道具なのだと主張(道具主義)。
知識とは常に修正を繰り返す仮説であり、普遍的な真理は存在しないというデューイの主張はダーウィニズムの影響を受けている。
倫理もその時の状況において道具として役に立つかどうかが重要だとした。
このような考え方は問題解決学習(子どもの自発性を重視する児童中心主義)としてアメリカの教育に大きな影響を与えた。
デューイの教育論はしばしば児童中心主義の側面のみが強調されるが、実際には子どもの4つの衝動(社会的衝動、製作の本能、探求の本能、表現的衝動)を前提とした教育者の指導の重要性も指摘している。その上でデューイは子どもの性格と無関係に学問の体系を押し付けても教育的な効果は少なく、子どもが抱く興味や衝撃を前提にして指導を行う重要性を説いた。
さらにデューイは「子どもは為すことによって学ぶ」と、木工、金工、裁縫、料理といった生活に役立つ作業によって社会的な意味を理解させるという学習法も提示している。

福沢諭吉の教育観
福沢諭吉は明治時代の武士であり、『学問のすすめ』というベストセラーを世にだした教育者でもある。この本の初編で、世の中の身分の違いや不平等は学問のあるなしによって生まれるとし、生まれた時は皆平等であり、さらに明治時代からは、誰でも学ぶ機会が等しく与えられるのだから、誰もが学問を収めなければならないと啓蒙した。
ここでいう学問とは専門的で難しいことをたくさん覚えるといったことではなく、手紙の書き方や帳簿のつけ方、計算の仕方といった普通の生活に役に立つ学問、つまり実学である。
明治時代からは生まれや身分によって社会的地位が決まるのではなく、その人の人間性や才能によって社会的地位が決まる。つまり社会的地位が高い人が尊いのは、その人自身が尊いのではなく、国家のために尊い仕事をしているからである。なにも学ばず、働かず、行動をしない恥知らずな人々が増えると、当然社会の治安は悪くなる。そうすると社会秩序のために政府は規則を締め付けなければいけない。国家をよりよくするためにも、全ての人が学問を修めることを奨励したのである。
その意味で福沢諭吉は機会の平等は評価するものの、結果の平等は本人の学習次第であると実力主義を認めている。一身独立して一国は独立する。この主張に、強い主体性を持った国民が国家をよりよくしていくという近代西洋の政治哲学の影響が見て取れる。

ゴーン・ガール

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆」

 彼女を怒らせるな。

 今日で仕事納めってことで、仕事帰りに『ゴーン・ガール』を鑑賞!除夜の鐘がゴーンゴーンゴーンガール…みたいな、SGA屋伍一さんですら脱力するであろうしょうもないネタのために、あえてこの日に観に行ったんだけど、そんな野郎は私以外におじさん一人だけ。そして、あまりの内容にいたたまれなくなったのか開始30分ほどでおじさん帰っちゃったから『ポリスストーリーレジェンド』以来の劇場貸切でした。
 デーブ・スペクターさんが「とくダネ!」か「ワイドスクランブル」か「ミヤネ屋」で紹介しそうなくだらねー海外ゴシップ映画かと思いきや、人間のアイデンティティの本質に迫るとても深い映画なのだ!

 とりあえずヤンデレと言われるシチュエーションが好きな人、ジェンダー問題について一席ぶつのが好きな人は必ず見なさい。ルソーは主著『エミール』で「自然人」の対立概念である「社会人」のアイデンティティを、自己のあるがまま全てではなく、社会との関係いかんによって決まる危ういものだと定義した。
 また、サルトルは「自由」とは、自分で自分のあり方を選択した結果を自己責任で引き受ける「義務」を伴うものだと考え、「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を残している。結婚はそう言う意味で一夫一婦制という社会制度やそれに伴う男女関係を主体的に選択したとも言える。
 結婚が妻と夫がお互いに依存し合い、相手に自分を合わせて妥協するものであるならば、それは必ずしも幸福なことなんだろうかっていう。
 多分ね、この夫婦は子どもを作るのが遅かったんだと思う。だからこそのあのラストなんだよね。子どもがいれば親としてのデューティーも出てくるだろうよ。

 しかし女性と男性ってやっぱり決定的な隔たりがあるように思えてならない。ああいう「男性への依存」は近代のロマン主義の刷り込みでなっちゃったのか、もともとの生物的な性質なのかわからん。なんでそこまで異性の恋愛に没頭しちゃうんだろう。現実的であるとも言えるんだけど。
 だって男なんてもうどうしょうもないじゃん。それなのに結局「妻」という社会的役割にまるで吸い込まれるように戻ってきてしまう。そもそもセックスじゃなくてジェンダーは女性という社会的役割を指すわけで、やっぱり女性であるだけで、相当ストレスが辛いんだろうなあ。
 恋人がオタクだったら漫画を読み、スポーツマンだったらチアリーダーみたいな、ようは男にとって都合のいい女がいい女だからと悟った上で、それでも男に合わせてしまうっていう。
 少年漫画に対してすら、女性への抑圧を見て取る人もいるらしいしね。まあ少年漫画ってジェンダーあるに決まってるけど。少年漫画って「男の子向け」ってことだからな。
 でも結局、エイミーが嫌っていた「猿回しの猿のように夫を意のままに操る妻」という、かかあ天下構造になったわけで、だからこそジェンダー問題に興味がある人はぜひ鑑賞して感想を聞いてみたいんだよね。あれで満足するのか、そうじゃないのか。

 どうでもいいけれど、私は個人的に浮気夫ニックの双子の妹のマーゴちゃんがすごい好きだった。メガネっ娘だし。怪盗グルーのマーゴちゃんの大ファンだけにマーゴにハズレなし(まだ二例)!「下着を脱いだかも自分でわからない女なの?ファック!」という名言も素晴らしい。つーかこの兄弟ファックファック言い過ぎw
 こういう映画を見てても「推しメン」を見出してしまうところが男ってホントバカだと思うよね。作中男はいつもバカ扱いという名言が出てくるが、まさにおっしゃるとおりよ。
 女の子からの告白を承認したり、好きな人と一緒になるということが、ある種の社会的義務だということが抜けてんだ。これは人事じゃないんだけどね。だからそこまで恋愛ゲームは描いて全国の青少年に啓蒙しなきゃいけないよ。ほんとほんと。オタクってすぐ「嫁」を取り替えるじゃん。お前ぶっ殺されるぞって。

 そんな嫁エミリーが怖いという以上に…なんか、すごい哀しい。とにかく哀しい。人間である以上どんな人にも、どこかしらの欠陥はあるにしろ、エミリーはその欠落したピースが一般的な人のそれよりも多いんだよな。それは彼女のアイデンティティが他者…つーか作家の母親によって幼少期にすでに“完全に”担保されてしまった事。
 「完璧なエミリー」というチートキャラ的なラベルをがっちりお母さんに貼られてしまったもんだから、ありのままの自分でいられない。人間の本質っていうのはそういうもんだと思っている。「これが結婚よ」って。

 結婚はありのままじゃいられないのよって。

 人間というのは、多かれ少なかれ他者や社会とコミットして生きていく以上、エミリーの説はまこと正しいんだけど、それでも、すごい切ない。一見華やかなんだけどそれは虚飾で、すごい殺伐としていてニヒルな人間観。でもそのリアルじゃ生きていけない。
 ツイッターでも皮肉なのかしらねーけど、みんなの建前や了解事項、「それは触れないでおこうよ」ってやっているサンクチュアリを、いや本当はこうだからwって言ってる人いるけれど、それをやるのは子どもであってさ。そんなもん大人はみんな了解した上で生きてんだよっていうね。
 この社会が弱肉強食なのは当たり前じゃねえかって。それを今更指摘してお前になんのメリットがあるんだって話なんだよね。そうやって指摘するなら、お前はその生存競争に勝たなきゃいけないんじゃないか。勝負に参加する勇気もなく、ガヤから人と人との助け合いを冷笑しているっていうのは、結局こういうタイプの人も、リアリズムだけじゃ生きていけないからだろう。
 この世界のリアルを受け入れられるほど人間は強くない。承認欲求というロマンスが欲しい。だからあんな手の込んだ壮大なかくれんぼをしちゃうw私を見て。私はここにいるよって。

 教育学ではこういうのジョン・ボウルヴィのアタッチメント論って言うんだけれど、幼少期に周囲の大人(たいていは親)に“無条件で自分の存在を肯定”されなければ、その人は、自己や他者の存在を受け入れることが困難になるという。
 私なんかはそう言う意味ですっごい幸せな部類だと自分でも思う。マイペースなタイプだからあまり自分を他人や社会に無理して合わせた経験がない。自然体の自分を受け入れてくれそうなところにするするするって入っていっちゃうw
 これも子どもの頃、学校の先生とかに「しょうがねえか、田代だし」と、いい感じにラベル貼りを諦められたことが大きいと思う。「いいよ、お前はその路線で」って。それがありがたかった。教育とは矯正じゃないからね。放任じゃないか!って怒る人も今はいそうだけど、ルソー読んでみなよ。消極教育っていうのもあるんだぜ。
 でも、悲しいことに、エミリーは生まれた時から常に“条件付き”で愛されてきた。だからあの結末も、別のペルソナに取り替えただけで彼女の本質的な悲しさが何ら解消されていないから、カタルシスがないしゾッとしてしまう。
 『アナと雪の女王』が女性にあれだけ支持されたのも、きっと松たか子のレリゴーだけじゃないんだろう。

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