政治学覚え書き⑤(政治哲学)

 まだまだまだまだ覚えなきゃいけないことはたくさん!ひい

功利主義①ベンサム
 みんなの快楽や幸福の合計値を最大化(=苦痛や不幸の合計値を最小化)することが善であるという考え方。18世紀のイギリスの哲学者ベンサムが完成。
 いわゆる「最大多数の最大幸福」ってやつで、人々が政府の権威に従うのは、政府に服従して得られる功利が、政府に従わないことによって得られる功利よりも、多いからであって、政府は、国民の欲求をできる限り正確に計算し、その増大を目指せば正統性の基盤は強くなるとした。
 これはJSミルによってパワーアップし、新古典経済学を支える根本的な考え方になった(人間は幸福を求めて、不幸を回避する、合理的な存在であるという前提が共通)。
 ゲーム理論のパレート最適をふまえて展開された厚生経済学は、実際の社会政策に対する功利主義の反映と言える。
 ベンサムの功利主義の問題点は、なにかトラブルが起きたとき、幸福度の合計が大きい方が正しいと考えちゃうので、こいつを犠牲にすれば、他の多数の人が助かるならいいやってなりやすいことと、そもそも数学的に個人の幸福って単純計算できるのか?というところ。
 経済学的には、GDPさえ上がれば、格差社会でも別にいいのかって話で、結果オーライなら、過程や手続きに不正があってもいいのだろうか、という問題がある。

功利主義②ミル
 この問題点をなんとか改善しようとしたのが『自由論』のミル。ミルは、何を持って幸福と感じるかは人それぞれで(質的差異)、一元的に単純計算はできないとした。
 ベンサムの効用の原理(幸福最大化)は、その場その場の問題で用いるのではなく、もっと長期的な目標にせよというわけ。例えば、現時点の社会情勢では朝鮮や中国を差別したほうが、日本にいるたくさんの差別主義者の幸福が上がるかもしれないが、それは長期的に見ると絶対に国家の幸福度を下げちゃうぜっていう。
 また、お馴染みの多数決も、時間が経てば少数派の意見の方が「正しいんじゃない?」ってみんなの考え方が変わってくる可能性だってある。
 ミルは、自由の定義を、人に実害を与えない限りは何をしても自由(ドラッグやって体がボロボロになるのもOK)と考えた。でも、ヤク中になっちゃったらその家族には実害があるんじゃないのか(^_^;)
 さらに、政治権力だけでなく、世論や慣習すら個人の自由の対立物になることに注目した。明治時代には中村正直という幕臣が、イギリスに留学し『自由論』を翻訳、個人主義道徳を伝えた。中江兆民が東洋のルソーなら、オレは東洋のミルだぜ!って(多分言ってない)。

 さて、ミルの名言で

 満足した豚であるよりも不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりかは不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、愚か者や豚の意見がこれと異なるなら、それは彼らがこの問題について自分自身の側しか知らないからだ。(『これからの正義の話をしよう』75ページ)

 というのがあるけれど、例えばシェイクスピアと萌えアニメのどちらが質の高い快楽かどうかを判定するためには、どっちも経験した人たちに多数決を取らせればいいんじゃない?と、ミルは考える。したがって、道徳を支えているものは崇高な理念ではなくて、人々の欲求ということになる。って、そんな単純に比較できたら、多分ネットはこんなに荒れてない!

カントの目的論批判
 こういった結果オーライの功利主義を批判したのが、オレたちのカント先生。カントは18世紀のドイツ観念論の創始者。
 カントは「何をなすべきか」という道徳的な判断は「何がなされたか」という事実からは導き出せないとした、その道徳的判断は、固有の普遍的原則に基づくとした。
 これをカントは定言命法と呼び、「人間としての義務であるがゆえにやりなさい」という無条件の絶対命令の形になる。逆に「将来の幸せを考えるなら今のうちに頑張りなさい」みたいな条件付きの命令は仮言命法と言う。
 結果が良かったんだから道徳的にも良かったんだよという池田信夫的考えは、カントからしてみれば言語道断、道徳的判断に値しない。全ての人は、目的を達成するための手段として扱われてはならないのだ。

 カントといえば三批判書だけど、過去問ですごいわかりやすく命題が整理してあったので、ここでパク・・・引用する。
『純粋理性批判』・・・人間は何を知りうるか
『実践理性批判』・・・人間は何をなすべきか
『判断力批判』・・・人間は何を願いうるか

ヘーゲルの弁証法
 カントが始めたドイツ観念論を大成した人物として知られる。
 ヘーゲルは法は、社会秩序を維持し、自由を保障するが、客観的かつ抽象的で、個人の内面を軽視しやすく、一方、道徳は個人の主観的な側面が強く、全体への働きかけが乏しいとして、その法と道徳の矛盾を解決することが望まれると考えた。
 この法と道徳がうまい具合で一致したものが人倫で、言ってみれば、個人の道徳がいい感じに社会にコミットしている状態を指す。人倫は、家族→市民社会→国家とその領域を段階的に拡張し、その欠点を克服していく。
 例えば、家族は、愛はあるけど個人の独立性は自覚されない。やがて子どもは自立すると市民社会に参加するが、市民社会は独立した個人が自分の利害を追求する欲望の体系であり、これは人倫の喪失状態である。
 よって国家こそが家族と市民社会がうまく統合された最高の共同体で、国家では個人の独立が保障されるとともに(家族の短所)、平等に扱われ(市民社会の短所)、個人は国家の一員として真の自由を獲得するのだ・・・!ってヘーゲルは考えた。
 と、こんな感じで、ヘーゲルは二つの異なる考え方が対立していて(テーゼとアンチテーゼ)、それを統合することによって(ジンテーゼ)お互いの長所が生かされ、短所が相殺できるよというストーリー展開が好きらしい。これこそヘーゲル名物、正反合の弁証法だ。
 ちなみに、マルクス兄弟は、ヘーゲルが国家と市民社会を分離して語ったのは評価している。でも市民社会の問題点を克服するために国家こそが最高の共同体のあり方だっていう結論は違うんじゃない?って考えたわけだ。

ロールズの正義論
 カントの功利主義批判を受けて、功利主義に毒された第二次世界大戦後のアメリカを批判したのがジョン・ロールズだ。
 ミルが論じたように、ロールズは何を幸せと感じるかなんて人それぞれなんだから、何が善であるかは個人の完全に自由な判断に任せればいいとした。
 功利主義は、一見みんなが自由に自分の利益を目指しているように見えるけれど、実際は社会全体の利益追求という目標の手段にされちゃっていると考えた(目的論)。さすがカントをリスペクトしただけあるぜ。
 正義を善に優先させるという、ロールズの正義論は独特で、正義とはウルトラマンとかジャッジドレッドじゃなくて、個人と個人の正しい関係という意味だ。この正しい関係さえできれば、その枠組みの中で個人は自由に幸福を追求できるとした(義務論)。
 このロールズの正義には二つの原理があって、みんなが同等の権利(基本的自由)を持つべきであるという、平等な自由の原理(正義の第一原理)と、社会的・経済的不平等の問題に関わる、二つの原理だ(正義の第二原理)。
 てめーじゃあ三大原理じゃねえか!って気がするけど、ここは我慢して、正義の第二原理の中の二つの原理を見ていこう。

正義の第二原理①格差原理
 社会的弱者の最大の便益になるなら、格差はOKという原理。例えば医者や弁護士みたいな専門職は、たくさんの人の弱い人を助けているから人よりも多少は多くの報酬をもらってもいい。
生まれながらに優れた才能を持っている人は、それを持っていない人のために、その才能を活かせというもの。
 つまり、ロールズに言わせれば、天性の才能はその人の所有物じゃなくて、社会のものということになる。

正義の第二原理②機会均等原理
 これは、人よりも多くのギャラをもらう仕事がどんな人でも頑張ればなれるように開かれていればOKという原理。

 ちょっと込み入ってくるけれど、この正義の原則を公正な手続きに基づいて市民が選ぶには、自分が今置かれている地位や立場、そして才能や性格を一切捨てて、みんな平等のレベル1に戻さないといけない。こういった原初状態をロールズは無知のヴェールと名づけ、無知なヴェールの中ではプレイヤーは最悪の事態を想定し、利益の最大化よりもリスクの最小化を選択すると考えた(マキシミンルール)。この思考実験は、ロックの社会契約説(リベラリズム)を踏まえている。

ラスウェルの権力概念
 ハロルド・ラスウェルはシカゴ学派の大物政治学者。処女作『世界大戦における宣伝技術』で戦時中のプロパガンダを研究。社会主義革命やファシズムからアメリカの民主主義をどうやって守るかを考えるため権力の分析を行なった。具体的には権力の腐敗の原因を解明し、民主主義の実現のために権力を変え利用すべきだと考えた。毒を持って毒を制す的な。
 ラスウェルによれば権力とは「ある行為のタイプに違反すれば、その結果、重大な価値剥奪が期待されるような関係」であると定義される。つまりXがYの持つ価値を剥奪することによって、ある行為を行わせる場合、XがYに権力を行使したことになる。この概念によって、司法、立法、行政といった制度的権力以外にも、圧力団体、企業、労働組合といった様々な社会関係における権力が考察の対象として扱えるようになった。
 さらに権力の獲得に専心する人間は、その「私的動機を、公の目標に転位し、公共の利益の名において合理化する」。そしてそのような人間は、官僚型や扇動家型などいくつかに類型化されるという。
 ラスウェルの権力概念の特徴的な点は、権力追求者は先天的に形成されるのではなく、その人が若い頃に影響を受けた文化・社会的環境によって形成されると考える点である。言い換えれば、社会環境さえ操作すれば、人間の政治的な人格は大きく変えられるということになる。この考え方はいくら民主主義のためだとは言えけっこう洗脳スレスレで、アメリカの民主主義が東側陣営のイデオロギーによって危機を迎えていた当時の世相を大きく反映している。

ルークスの権力論
 アメリカ政治学で扱われてきた権力論の分類を試みたのがイギリスの社会学者スティーブン・ルークスだ。

一次元的権力観
 アクター(行為主体)同士の主観的な利害をめぐる、観察可能な対立や紛争が存在するというダールの考え方がここに分類される。アクターの行動に焦点を当てている。
 ロバート・ダールは権力を「AがBに働きかけなかったら、BはCをしなかったと仮定できるとき、AはBに権力を使った」と定義した人だ。
 こういった観察可能な権力、例えばデモ隊に警官が暴行みたいなのは、明示的権力と言う。

二次元的権力観
 これは、バクラックとバラッツが考えた、潜在的な争点の顕在化を阻止するために決定が回避されるタイプの権力観だ。
 つまり非決定というかたちでも権力は行使されるという権力行使に焦点を合わせた議論。
 これもダールの権力観同様、観察可能な対立や紛争の存在が前提となっている。

三次元的権力観
 ルークス自身の権力論がこれ。本来ならば争点化されるであろう問題が制度的に隠蔽され、決定から排除された人の利害が表沙汰にならない上に、意識されることもないという、一番厄介な権力(^_^;)
 これを目に見えない権力という意味で、黙示的権力という。
 この権力は、客観的観察者からしてみれば、みんな著しく損をしているのに、当人はとっても満足という状況を作り出す。
 しかし、この権力も(真の利益や客観的利益がわからないものの)誰かが誰かを巧みにコントロールするという点では、行為主体(黒幕)がいるわけだ。

フーコーの権力論
 最後に、ルークスの三次元的権力観をさらに掘り下げ、全国の教育関係者に衝撃を与えたフーコーをご紹介。
 フーコーの権力は、目に見えない構造が生み出したものなんじゃないか、という点で、恐るべきことにコントロールする主体すら、そこには存在しない。
 ずいぶん前にUstreamで取り上げたことがあるけれど、18世紀にベンサムが考えた、パノプティコンという、グルリと囚人の部屋を看守が一望できる刑務所があったとして(逆に囚人からは看守は見えない)、このような構造さえあれば、その刑務所に看守を一人も雇わなくても、囚人たちは見えない看守を勝手に怖がって支配され続けるという話である。
 つまり近代の権力とは、強い奴からの弱い奴への暴力といった形(二項対立)でわかりやすく見えるものではなく、権力を受ける者が無意識に自ら服従するという意味で、自動的に行使されている。誰に石投げりゃいいんだw
 これは、刑務所だけじゃなく、学校、軍隊、工場、病院、福祉施設、いたるところで観察される構造で、近代的な合理的主体というのは、結局はフィクション、幻想だったというのだ。

政治学覚え書き④(政治と国家の定義)

 な~んか過去問やったら、大学のテキストと若干のズレがあって6割くらいしか分からない・・・じゃあ試験勉強に特化した参考書を買ってみようってことで、読んでいるんですが、やっぱ、こういう問答無用で丸暗記しましょうみたいなの超苦手!!
 こういう勉強できる人って、疑問に思わないのかなあ。思ってても割り切れるんだろうけれど。だいたい、この参考書、レイアウトが悪いよ。1ページにすごい詰め込んでるし。
 なんというか、頭のいい人が授業を受けて、まとめたノートみたくて、そうじゃなくて、オレがこういうノートをまとめられるような参考書が欲しいんだよなあ(でも、めっちゃ読むけどね)。
 ノートっていうのはそれを作った人の取捨選択が入っているわけで、その割愛された情報がないと頭に入らないってことがあるんだ。
 うお、なんか学習法について喋ってると、塾の先生っぽいぞ!

政治の機能
対立の調整、社会秩序の維持、社会の統合

集団現象説
政治の機能は国家特有ではなく、もっと普遍的で、企業や学校などどこでも見られる現象だとする考え方。

国家現象説
政治は国家特有の現象で、従って政治の研究は国家の起源や、本質、制度、機能を研究することだとする考え方。

アリストテレス
この人、過去問でもう少し掘り下げられて出題されてたので、再登場!
ポリス的動物=社会的動物+政治的動物

調整的正義と配分的正義
アリストテレスは正義には、全体的正義(誰がどう考えても正しいこと。人を殺しちゃダメとか)と、部分的正義があるとし、その部分的正義は更に、配分的正義調整的正義に分けられるとして、個人的には配分的正義を重視した。
配分的正義は、その人の業績に応じて地位や報酬を与えるべきだという考え方。
調整的正義は、本来は平等であるべきものが不平等になったとき、平等に戻すような正義。加害者に罰、被害者に慰謝料でトントン、みたいな。

アリストテレスは、人間にとっての最高善は幸福だとして、ポリスでの共同関係を支えているのは友愛と徳(態度や行ないの良さ)だと考えた。
真理を純粋に見る観想(テオリア)的な生活に最高の幸福があるとしたのは、さすがフクロウをマスコットにしていたアテネの哲学者だなあって。
ちなみに友愛(フィリア)は利他的な無償の愛。一方的な好意(エウノイア)とはその点で異なる。

さらにアリストテレスは政治体制を6つに分類した(政体論)。
支配者が一人で、目的が公的なら王制、目的が私的なら僭主制。
支配者が少数で、目的が公的なら貴族制、私的なら寡頭制。
支配者が多数で、目的が公的なら国制、私的なら民主制。
悪い政治体制の中でも最悪なのが僭主制、次に寡頭制、民主制となる。

政治の定義
目的論
政治とは、社会の理想の実現を目指す。プラトンは正義、アリストテレスは幸福が政治の目的だとした。

制度論
政治とは、国家の意思決定と、その執行にあたる統治機構の活動。

強力論
政治とは、特定の個人や階級が、ほかの人々を強制的に支配服従させる現象。マルクス主義では、政治の本質は階級支配と階級闘争であるとした。

機能論
政治とは、対立を調整し、社会的な合意を得られるように価値の適切な配分を行うプロセス・・・あ、さっき言ったかw
対立調整は、シカゴ大学名誉教授のデビット・イーストンが定義した考え。
価値の最適分配は、アメリカの政治学者でシカゴ学派の大物のハロルド・ラスウェルが定義した考え。

国家の定義
領域内の社会全体の公共の秩序を維持、管理するために作られた社会集団。主権と領域と国民が・・・そこらへんは分かるかw

主権
国家権力、統治権のこと。国家の政治を最終的に決定する権利で、どんな支配もしのぐ最高性と(国家を支配する政治的アクターは存在しないから※国連は国家を支配しているわけではない)、国外のどんな干渉も退ける独立性を持つ。内政不干渉の原則!
ジャン・ボーダンというフランスの政治学者が『国家論六書』において、主権について最初に体系づけた。ボーダンは主権の絶対性を論じ、絶対王政(君主主権)を支持した。

主権の自己制限
近年は国際化が進み、各国の合意に基づいて国際連合や国際法に従っている。そういった傾向のこと。

クラズナー
スティーブン・クラズナーはアメリカの国際政治学者。
これまでの政治学では、ウェストファリア条約以降、主権国家(近代国家)の概念は普遍的に遵守されてきたように捉えられていたが、このような国際法における主権は現在のグローバル化を待たなくても、割と頻繁に侵害、変容してきたよ、と指摘した。
さらにクラズナーは国家主権を以下の四つに分類した。

①国内における主権…国内における政府の絶対的統治権(統治権)
②相互依存における主権…国境を越える交流(人・モノ・カネなど)を管理する能力
③国際法における主権…国家の平等、外交権限など国際法上対外的に認められた権利(最高権)
④ウェストファリア的主権…国家が国内で有する権限を外から侵害されない権利(独立性)

クラズナーによれば③は国家がそれを承認しなかったり、また国際連合などが国家ではない政治主体(植民地)を承認する行為などによって覆ることがあるし、④も外国からの政治的介入や国際機関への統治権の移譲などによって侵害されてきた。
つまり、国家主権とは、その誕生当初から絶対的なものではなく、国家は自分の利益に合致している限りは主権の存在を認め遵守するが、利益に合致しない場合は主権といえども侵害してしまうのだ。

国家の起源
神授説
国家は神が作ったもので、君主の権力は神から授けられたものだという国家観。
明治時代の国粋主義思想(神の末裔である天皇が、天照大神の勅命を受けて永遠に統治を続ける、唯一無二の国という思想)も似たタイプだと思う。

契約説
これはこの前やったやつで、人民の合意に基づいて人工的に国家が成立されたという国家観。

征服説
強大な種族や階級が、弱小種族、階級を征服、支配することで国家ができたという国家観。
フランツ・オッペンハイマーが提唱。アメリカとかがそうなのだろうか。

階級説
階級社会の成立によって、支配階級が他の階級を抑圧し支配する機関として国家ができたという国家観。征服説と似てる気がする。

一元国家論
国家を絶対至高の価値を持つものとする考え方。全体主義っぽいぞ。

国家有機体説
国家をひとつの生物のように考える。個人(細胞)は国家(個体)と統合することで初めて生きていける。国家を人工的なものとする社会契約説と真逆。ヘーゲルやバーク、スペンサーなどが提唱。

多元的国家論
国家もほかの社会集団と同等の、ひとつのあり方に過ぎずないとする考え方。ポストモダンっぽいぞ!

階級国家観
国家を支配階級の抑圧機関とする考え方。もちろんマルクスの考え方なんだけど、マルクスは国家の歴史的流れも整理していて(唯物史観)無階級社会が、やがて階級国家になり、最後は再び共産主義という無階級のユートピアができると考えた。

奴隷制国家→封建制国家→絶対主義国家→資本主義国家→社会主義国家→共産主義社会(※共産主義では国家は消滅!・・・って池上さんが言ってたw)

国家の機能的分類
警察国家
君主が国民の人権を抑圧する国家。16~18世紀の絶対王政。

夜警国家
国家の任務を、治安や国防など最小限にして、市民社会は自由放任レッセフェール。小さな政府論だけど、現代でもネオリベが流行ったアメリカで実践(多分失敗)。
そもそもこの夜警国家ってネガティブな意味で作られた言葉と知ってビックリ。ドイツの社会主義者ラッサールが、公正中立と思われていた小さな政府が、結局ブルジョアの富しか保護してないない階級国家になっちゃってるぞ!と批判する文脈で用いられたらしい。

福祉国家
現在主流なタイプ。国家が貧富の格差を是正し、社会的弱者の生活を保障。

経済学覚え書き⑦

 いい加減、経済学はすべてまとめちゃいたいな~・・・今回はマクロ経済学の核ともいえるGDPと、それを決定する二つの線を中心にまとめます。

GDP国内総生産
グロス・ドメスティック・プロダクトの略。
一年間で国内で生産された付加価値の合計。付加価値っていうのがよくわからないけれど、つまりこれは複数の企業で分業して製品を作っていった場合、原材料費(中間投入物)が二重計算になっちゃうから。
だから最終的にできた製品の生産額といっても良い。
また、海外の歌手が日本で公演してもGDPに含まれる。※日本の歌手が海外で公演したら入らない。
さらにGDPは、市場価格に基づいて計算するので、市場で取引されない活動(専業主婦の家事、育児やボランティア活動)はGDPに含まれない。
GDPはその国の経済活動の活発さ(フロー)を示すが、経済活動の結果蓄積された資本(ストック)は勘定に入らない。
また単純計算で出した名目GDPと、物価変動を考慮した実質GDP(去年の物価×今年売れた数で計算=値上がり分を計算しない)、そして名目GDPを実質GDPで割った指数GDPデフレーターなどがある。

実質GDP=名目GDP÷GDPデフレーター

つまり、名目GDPが実質GDPよりも膨らむほど、分母を担うGDPデフレーターも大きくなる(=GDPデフレーターが1を超えるとインフレが起きている)。

GNP国民総生産
その国民だったら働いているのが国内だろうが国外だろうが生産額に加算される。
しかし海外の人が日本で働いた分はもちろん含まれない。昔はGDPよりもこっちが使われることが多かった。

NDP国内純生産
ほとんどGDPと一緒なんだけど、生産によって消耗してしまう機械の価値(固定資本減耗=減価償却費)をGDPから差し引いたもの。

NI国民所得
NDPから、国民の所得のマイナス要因である間接税を差し引き、プラス要因である政府の補助金を加えたもの。

三面等価の原則
GDPは生産面で見ても、所得分配面で見ても、支出面で見ても、全く同じ数値になるという原則。
うそだ~生産した商品すべてが購入されるわけないじゃん!って思うけれど売れ残りはメーカー側の支出として計算されるのでモーマンタイ。
それと貯蓄も所得分配として計算されるのでモーモーマンタイ。

Yはイールドで生産量(GDP)
Cはコンサムプションで消費
Sはセーブで貯蓄
Tはタックスで税金

とすると

Y=C+S+T

生産=所得分配となる。
つまり生産によって生まれた付加価値は、消費に回るか、貯蓄されるか、政府に税金として徴収されちゃうかのどれかになるってこと。

次に生産=支出面を見てみよう。これはケインズVSハイエクでケインズがライムにしている、あの有名な式になる。

Y=C+I+G

生産=家計の消費(コンサムプション)+企業の設備投資(インベストメント)+政府支出(ガバメント)となる。
つまり、マクロ経済学の3つの経済主体といわれる家計と企業と政府が使ったお金とGDPは一致する。

いやちょっと待て!と思ったそこのあなたは頭がいい。そう、マクロ経済学はもうひとつ海外との貿易というのも考えないといけない。だからY=C+I+Gに輸出入(海外経常余剰)を勘定に入れる。
GDPは国総生産なので、輸出EX(収入)から輸入IM(支出)を差し引いた額を加えればいい。

Y=C+I+G+(EX-IM)

IS‐LM分析
ミクロ経済学では需要供給曲線が黄金のクロスと言われたが、マクロ経済学では財市場と貨幣市場の均衡点を考えるIS‐LM分析がよく出てくる。
IS‐LMってなんだよ!って感じだけど、ISは投資I(使う)と貯蓄S(貯める)、LMは貨幣需要Lと貨幣供給Mのこと。
ケインズサーカスのジョン・ヒックスが考案した。

なんで貨幣需要がマネーデマンドじゃないんだ!って思うけど、貨幣需要は流動性選好リキッドリー・プレファランスのLを使うのが慣例。
その、流動性選好ってのはなんやねんてことになるけれど、貨幣っていうのはなんでも交換しやすいから流動性が高いって考える。つまり「貨幣を資産に選ぶ度合い=貨幣需要」ということになる。

IS曲線
投資、貯蓄曲線のこと。
ポイントは二つ。
①銀行の利子率が上がると、企業は投資(!:企業の設備投資=資金調達のことでウォール街とかで流行った投機じゃない!)を控える。
逆に、利子率が下がると、企業は設備投資を増やす。

②投資が減少するとGDPが減少する。逆に投資が増加するとGDPも増加する。

②を踏まえると、投資IをそのままGDPに置き換えることが可能であることがわかる。
よって利子率が上がるとGDPは下がり、利子率が下がるとGDPが上がる右肩下がりの直線が引ける(Y軸が利子率r、X軸がGDPの場合)。これがIS曲線。

LM曲線
貨幣需要供給曲線のこと。
ポイントは二つ。
①利子率が上がると貨幣需要は下がる。逆に利子率が下がると貨幣需要は上がる。
実は貨幣というのは資産として利子(キャピタルゲイン)がつかない。
よって資産需要においては、利子率と貨幣需要は逆の動きをする。
利子率が高いと、貨幣の形で資産を保有するよりは、利子がつく債券や株、土地の方が特だと判断し、貨幣から債権へ乗り換えが起きるというわけだ。バブバブバブル!(C)新黒沢

②一般的にGDPが増えると経済活動が活発し、流動性のある貨幣需要が上がる。すると貨幣需要曲線LLが右にシフトし、利子率が多少高くても貨幣需要は高いレベルをキープするようになる。

②を踏まえると、利子率とGDPは比例関係にあることがわかるので、GDPが上がると利子率は上がり、GDPが下がると利子率も下がる右肩上がりの直線が引ける(Y軸が利子率r、X軸がGDPの場合)。これがLM曲線。

・・・ちょっと待て!結論が矛盾してるぞ!

その通り、財市場(モノの生産消費)を踏まえたIS曲線と、貨幣市場を踏まえたLM曲線は、利子率とGDPの関係が全く逆になってしまう。この2つの直線をクロスさせて、財市場と貨幣市場を同時に均衡させるポイントを見つけるのがIS‐LM分析ということになる。

政治学覚え書き③(社会契約説)

 経済学ばっかりまとめていて政治学が片手落ちだったんで、もういっちょ投入。今回は大学のレポート課題と重なった部分、国家と権力構造の問題を。

ポリス的国家観
古代ギリシャの哲学者アリストテレスが主張。都市国家ポリスとは、自然的共同体である。どういうことかというと、人間は生まれつき個人を超えた共同生活に向かう習性があるポリス的動物(ゾーン・ポリティコン)で、そういう意味でミツバチやアリと変わらない。集団生活によって初めて生存を確保できるのだ。
人間はほかの動物とは違って、言語と理性があって、善や不正を判断でき、たまたま生まれた共同体に埋没することはせず、共通善を共有する仲間を生活しようとする。これがポリスであるというわけだ。
政治共同体と個人は切っても切り離せないものであり、この考え方をコミュニタリア二ズムという。私もどっちかというとこの考え方。構造主義的だよね。
人が法やルールに従うのは強制されたり、制裁を恐れるからではなく、自発的自律的に秩序や相互支配の構造ができていく。
ただ理性的じゃない人に対しては、かなり排他的で、そういう人には一方支配が必要とした点で、さすが奴隷制度があった時代だなあとは思う。これは後の古代ローマにも受け継がれていた。

権力国家観
アリストテレスは甘い!人間はもっと利己的で自分勝手、秩序を維持するためには暴力で屈服させるしかない!という拳王ラオウみたいなリアリスト的な考え方が権力国家観。
ルネサンス期のフィレンツェで外交官をしていたマキャベリが『君主論』で提唱した。
王は国民から愛されるよりも恐れられるべきで、ほかの国の王に対しては誠実に接することは無益。「キツネの狡猾さとライオンの獰猛さ」が大切。
つまり、手段の善悪は国家の秩序維持に役立つかで判断せよというわけ。したがって一見反道徳的で無慈悲な手段も、秩序の維持のためならためらわず行うべきだという。これを国家理性という。
また、それを実現するためには、当時主流だった傭兵よりも、当事者に直属する親衛隊みたいな軍隊のほうがいいとマキャベリは考えた。
社会学者の重鎮マックス・ヴェーバーは、その暴力行使が被支配側から見て「正統(しょうがない)」と思われなければ、その支配は正当化されず秩序は安定しないとした。
また、国家は暴力装置を独占的に有している以上、責任倫理があると述べた。

社会契約説①ホッブス
社会契約説とは、国家は各個人が社会秩序を維持するために「契約」によって人工的に作り出した組織であるという考え方。人工的という点で、ゾーン・ポリティコンのアリストテレスとは異なる。
ホッブスは『リヴァイアサン』で国家がない状態(自然状態)を仮定して、人間はどのように振舞うのかを思考実験した。すると人間は自分の生存だけを考え、互いに争ってしまう。殺られる前に殺るという、このアウトレイジを「万人の万人に対する戦い」と言う。
しかし、マキャベリ以上にリアリストなホッブスは、これは決しておかしなことではなく、自然状態で自分のために戦うのは当たり前の権利(自然権)でしょ、と考える。
とはいえ、こんなアナーキーな状態じゃやってられないし、人間には死の恐怖というのがあるから、アウトレイジは次の段階に発展する。人々は、暴力的な死から逃れて平和を望むという点において利害が一致し、じゃあ平和のために自然権に制限をかけようという「自然法」が合意に基づいてできる。
そして、ルールを違反した人を平和希求の義務に引き戻すための第三の権力が必要になってくる。これが主権権力(リヴァイアサン)と言うわけだ。
この主権者はいわばみんなの代理人であり、合意によって一度契約を結んだら、その絶対的な代理人にすべてを委ねなくてはならない。
全ての人間は、自分勝手で自由という点で平等という、前提から社会契約を導き出した点がホッブスの斬新な点だったという。

社会契約説②ロック
ホッブスの考えた思考実験はロックに受け継がれるが、ホッブスの結論が、国民は代理人に絶対服従としたのに対し、ロックは自由主義的な政府を設立する必然性の論拠として用いた。
ロックは自然法ができても自然権(自由)は維持されるべきであると考えた。
そしてロックが考えた自然法とは、ほかの人の生命、自由、そして所有権を侵害してはいけないというものだった。つまり、ホッブスのシミュレーションは非協調的なゼロサムゲームだったが、ロックが考えたのは、ほかの人の利益と自分の利益を同時に考えて行動することは可能だ、としている。
ロックは、市民革命による残虐な殺し合いを目の当たりにしたホッブスと違って、ある程度市民社会が落ち着いた時に出てきた学者だ。だから、人間は自然状態ではけっこう平和と考えたのだ(リベラリズム)。
ただ、自然状態における自然法の解釈は人によって異なるため、細かな争いが頻発するのを防ぐために、立法と行政を政府に一元化したほうがいいとしたのだ(各人の権利を政府に信託)。これは自然権そのものの放棄ではなく、政府が自然法を保証してくれる限り、代理人を任せるよというものだった。つまり、政府が契約を破ったら、国民はいつでも抵抗したり革命を起こす権利があるということだ。したがってロックの理論では、契約後も依頼人は代理人のコントロールが可能なのだ。

社会契約説③ルソー
自然状態をホッブスよりもさらに理想的なものと考えたのがこの人。自然状態では個人は完全に平等(ホッブス的)で、かつ平和だった(ロック的)。
しかしロックが自然権と主張した私有財産権を認めると、ビジネスが上手い奴がどんどん利益を増やし、不平等な経済格差が発生してしまう。
そのためには個人は、ひとそれぞれの主観(特殊意志。集まると全体意志)ではなく、社会みんなの利益を考える一般意志を持ち、その一般意志(正しい世論)で政府を動かすべきだとした。
つまり政府は一般意志の代理人ではなく、一般意志の公僕と考えた。となればわかるように、ルソーは代表制民主主義よりもギリシャのような直接民主制の方がよいとしていたのだ。
これは、強い共同体意識(公共精神)で結ばれた上で、強い主体性を持つ個人を前提としている。しかし、みんなそこまで強いのだろうか。
例えば、経済学者のシュンペーターは、直接民主制にこだわるルソーに対して、大多数の人はそんな国家レベルの問題に興味を持って生きてないし、そういった有権者に公共の利益に合致する決定を、合意によって導くのはそもそも不可能だと批判した。
シュンペーターは、民主主義を一種の市場になぞらえ、政治家は企業、有権者は消費者であり、したがってそれぞれの政治家は、有権者を支持を勝ち取るための厳しい競争に勝たなければならない、と論じた。さすが経済学者。この場合、民主社会という市場を能動的に支配するのは政治家ということになる。

ヴェーバーの正当性論
近代国家は正統的に暴力行使を独占していると考えたヴェーバーは、そのアプローチの仕方を三つに分類した。
①伝統的支配
伝統によって権威づけられたモノに対する日常的信念に基づく支配と服従。家長制度など。
②合法的支配
合理的な法律や命令権に基づく支配と服従。指導者の人格ではなく、合理的な秩序に対して服従する。官僚制など。
③カリスマ的支配
ある個人に備わった非日常的なカリスマがもっている権威に服従する。預言者や扇動者、人民投票に基づく政治指導者など。
この人の慎重な点は、あくまでも支配されている方が「正当だよ」と思っている信念の部分に着目し、その内容に立ち入らなかったこと(事実と価値の分離)。
ただ、この形式的、手続き的合理性(目的合理性)の側面に基づいたヴェーバーの正当性論は後に、ニヒルすぎて空疎と言われるようになってしまう。
ちなみにヴェーバーは、社会の合理化が進むと官僚が重要な役割を担い、議会の地位は相対的に低下すると考えている。
とはいえ、党派性を持たず、上司の命令に忠実な官僚が政治の主役になることに、ヴェーバーは強い危機感を抱き、官僚たちは強いカリスマ性と責任感のある政治家に率いられるべきであると考えた(エリート主義的民主主義)。

ハーバーマスの正当性論
ドイツの社会哲学者ハーバーマスは正当性論に規範的内容を取り上げた。
しかしオッカムのカミソリのように、超越的ドグマ(神、自然法、普遍的人権、歴史の必然など)を自分の論に持ち込むことはヴェーバー同様に避けた。
ハーバーマスは、手続きそのものをより厳密に考えることで、手続き的正義を立証しようと試み、誰もが支配からの自由を表明できる原理的発話状況を備えていることが正当な支配の条件であるとした。
しかし、この考え方は、そんな原理的発話状況なるものが現実に存在するのか?また理性的な討議を尽くせば必ず何らかの合意は生まれるのだろうか?といった批判がなされた。
そのためのひとつのアイディアとして、政治家の市民に対する説明責任(アカウンタビリティ)がある。
このような考え方を討議民主主義と言い、90年代以降、情報公開の考え方などと共に盛り上がりを見せた。

ルーマンのシステム論的正当性論
ハーバーマスの正当性論批判の急先鋒が社会学者のニクラス・ルーマンで、何らかの手続きによる決定がなされるとき、当事者の利害関係や心情とはまったく無関係に、政治システムの自己正当化プロセスに従って自動的に承認されるとき、はじめて社会秩序は安定するとした。
人情絡めていたら政治はできねえ!
ルーマンは近代の実定法(その時代その社会によってのみ効果がある人為的な法律。慣習や判例や成文法がこれにあたる⇔自然法)が最も完成度の高い正当性の調達システムだとみなす。
ただ、このルーマンの考え方も議会制民主主義をあまりにも肯定的に考えていないか、と批判が投げかけられている。通常の意思決定システムによる政策に反対するデモやストライキが議論から除外されている、というわけだ。
このハーバーマスとルーマンの論争は西ドイツにおいて、現代自由民主主義体制の正統性をめぐる議論を活発化させた(ハーバーマスもルーマンもどちらもドイツの人)。

政治学覚え書き②(社会保障)

 今回は福祉国家についてまとめてみます。

イギリスでは第二次世界大戦中に社会保障について研究を進め、それをベバリッジ報告としてまとめた。いわゆるゆりかごから墓場までというスローガンがそれだが、租税中心型の手厚い社会保障は財源調達が難しい上、多少ダラダラしても社会が保障してくれるもんねと60年代には英国病と呼ばれる状態が蔓延したため、サッチャー政権は社会保障費を削減した。しかしスウェーデンは、高福祉高負担を突き進み、租税負担率は50%以上、お腹の中から墓場までと言われている。
一方の大陸ヨーロッパ、フランス、イタリア、ドイツなどは保険料中心型と言われ、保険料はその人の所得に応じて決められ、給付されるレベルも異なっている。

社会保障
国家の責任で現金やサービスなどの給付を行なう制度のこと。社会保障政策は、所得保障(失業給付、年金)、医療保障(疾病予防、治療の機会を均等に保障、3割負担の医療保険)、社会福祉(高齢者や児童、母子家庭、心身障害者に人的支援、介護サービス)に分かれる。
ただ中学校や高校の教科書では以下の4つに分類されることが多い。

①公的扶助
生活に困窮する人全てを無償で救済する。日本では、701年の大宝律令にはじまり、日本国憲法25条の生存権で「健康で文化的な最低限度な生活」を保障している。このような社会権はドイツのワイマール憲法が有名。
かつては、地域社会や教会や寺院、ギルドによって行われていたが、今日では国家が担っている。
1601年イギリスのエリザベス救貧法では、ニートのような働けるのに働かない人は強制的に作業に従事させ、働けない人は最低限の救済がなされた。
費用は裕福な人から税として徴収し、貧民を国家が管理することで、社会治安を維持しようとする意図もあった。イエスの教えはけっこう合理的だった。
日本の生活保護がこれにあたり(生活保護法)、その人が生活保護を受けるほど貧しいかどうかを、国や自治体は判断する必要がある(選別主義)。桶川クーラー事件(生活保護を受けているのにクーラーは贅沢だろとクーラーを外され、その人が暑さで死んじゃった事件)は有名。

②社会保険
病気、出産、老後、障害、死亡、失業、業務災害などがあった時に、現金や現物を被保険者や被扶養者が受け取る制度。
公的扶助との最大の違いは、無償ではなく保険料を支払う点で、民間の保険と違い加入が強制される。
公的扶助に比べると歴史が浅い制度だが、ドイツ帝国のビスマルクが、労働者の反政府化、社会主義化を防ぐために始めたのが、その起源であると考えられている。
公的雇用保険制度は、大量の失業者が出ないようにするために発展してきた。
日本では給付の種類ごとに、医療保険、年金保険、雇用保険(旧失業保険)、労災保険、介護保険の5つがある。

③社会福祉
前述したように、援助を必要とする児童、障害者、高齢者に対して施設やサービスを提供。
公的扶助と同様に全額公費でまかなっている。
現在では、弱い人を助けるというよりは、その人の自立を支援するといったイメージが強い。

④公衆衛生
意外と忘れちゃうのがこれ。国民の健康を守るために医療環境、生活環境の整備や保全を行っている。全額公費。予防接種や感染症対策、上下水道の整備、清掃サービスなど。
14世紀のヨーロッパでペストが流行ったのは、街があまりにも不潔だったからという。

生存権
日本国憲法25条では「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と書かれているが、実はこの部分の解釈は割れている。
これは国家が国民に対する努力目標であり、国民にその権利を保障したものじゃないよ、というプログラム規定説と、25条を根拠に生存権は国家に主張できるはずだ、という法的権利説がある。
朝日訴訟では、公的扶助を受けていた結核患者の朝日茂さんが、生活保護の基準があまりにも少ないとして、国を相手取って裁判を起こした。東京地裁の一審判決では訴えは認められたが、東京高裁の二審判決では一審判決を取り消し、その後最高裁にまで持ち込まれたが、朝日さんは病死、主張は認められないまま裁判は終わった。
・・・が、地裁の一審判決のあと、日用品費は47%引き上げられ、社会保障制度は前進した。
ちなみに最近では、プログラム規定説と法的権利説(具体的権利説)の間を取った、憲法25条を根拠に生存権を国家に主張はできないが、そういう法律さえ作ればできるという抽象的権利説が取り沙汰されているという。

エスピン=アンデルセンの福祉国家の類型
福祉国家を分類するために社会学者のイエスタ・エスピン=アンデルセンは、『福祉資本主義の三つの世界』で二つの指標を考えた。
一つは脱商品化指標で、労働者が仕事に就きたいあまり自分を投売りしていないか考える。自分を安売りしすぎて、結果的に健康で文化的な生活ができなければ、社会福祉に助けてもらうしかない。一般的に、社会福祉政策が手厚いと労働者の安売り(=商品化)は減っていくので、脱商品化指標は上がっていく。
二つめは階層化指標で、福祉政策が拡充しても、全ての人に行き渡らなければ意味がない。どんな人も等しい手当が受けられているのかをこの指標は示す。
例えば日本では、大企業の厚生年金保険や公務員の共済組合の方が中小企業や自営業の人よりも手厚い年金を受け取ることができる。そう言う意味で日本は、階層化指標が高い。
この二つの指標を組み合わせて、福祉国家を分類すると、脱商品化が高く、階層化が低いスウェーデンなどは社会民主主義モデル、脱商品化が低く、階層化が高いアメリカやカナダは自由主義モデル、脱商品化は進んでいるものの階層化が高いドイツやオーストリアは保守主義モデルということになる。
この理論で行くと、日本は明らかに福祉国家ではない。だが、新生児死亡率は低く、みんな長生きだ(福祉国家への努力度は低いが、なぜか実績は良い)。そう言う意味で日本は福祉国家研究ではかなりイレギュラーな存在らしい。
日本は、社会保障を国家だけではなく、家族と企業が担い、本来なら失業者となる人を守ってきたという歴史がある。アンデルセンによると日本は保守主義型と自由主義型の混合形態らしい。

ちなみに福祉政策は累進課税制度と並ぶビルトイン・スタビライザーである。

おまけに
フィスカル・ポリシー=ビルトイン・スタビライザー+公共事業や増減税(財政政策)フィスカルは財政という意味。

ポリシー・ミックス=ビルトイン・スタビライザー+財政政策+金融政策
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