龍三と七人の子分たち

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 小さい頃に爪噛んでいたら指が短くなっちゃったとか、子どもに嘘を言うのやめてもらえるかな。

 あのたけしのおじさんがとうとう撮ってくれたコメディ映画!おそらくたけし監督って本業が漫才師だから(自分では今はタレントって言っているけど)、映画でも同じことをやるのにはなんか抵抗があって、残酷だったり(とにかく痛い)、虚無的だったり(無意味に突然死ぬ)、抽象的で難解な内容の映画を作り続けていたんだろうけど、最近ではゴダール病はやめようってことで、『アキレスと亀』とか『アウトレイジ』とかだんだん一般人にもわかりやすい映画を作ってくれているんだ(本人曰く“紙芝居”やってたけど“漫画”もたまにはいいなって)。
 とはいえ、ナドレックさんも指摘しているように、これらの作品も笑えるポイントはあるものの、たけし映画特有のその現実はおぞましすぎるから目を背けようってみんなで約束したじゃん!っていう部分を平気でつまびらかにする描写のせいで、安心して笑えるコメディ映画か?と言われると、ちょっと困ってしまう。
 私はどっちも好きで、美術の授業では『アキレスと亀』、社会の授業とかでは『アウトレイジ』上映してもいいんじゃないかって思うんだけど、「あの映画のせいでトラウマになった」っていうクレームも来そうでなかなか参ってしまう。

 しかし、今回のは違う。今までだったらバイオレンスにガガガって突き進んじゃうようなポイントもうまくゆる~い感じに軟着陸させていて、テレビや書籍におけるたけしネタのTHEムービー的な仕上がりになっている。まさに映画監督世界のキタノじゃなくて、タレントビートたけしの映画作品。
 そもそもこの作品のコンセプトは監督の中でずいぶん前から暖めてあって、当初の予定では龍三親分の役は高倉健さんや菅原文太さんにオファーしようと思っていたそうだ。確かにたけし監督はずいぶん前から「高倉健さんで一回ヤクザ映画やってみたい」って言ってて、じゃあ硬派な極道映画なのかなって思っていたんだけど、まさかこういう内容の映画をやらせようとしていたとは、やはり一筋縄じゃ行かないw(ネグリジェ着させようとしていたのか)
 また、インタビューでは「昨今の少子高齢化が裏テーマなんですか?」って聞かれてて、「いや、たまたまだよ」って答えていたけど、これは当然で、もうずいぶん前からたけしさんは本で「若者よりもじじいが暴れた方が絶対に手がつけられない。君たちには将来があるとか説得できないんだから」とか「国民の祝日で昭和のジジイの日を作ろう」とか書いててさ、この映画のネタはそう言う意味では既に発表されたものではあったんだよね。だから初の映像化っていうのが近いのかもしれない。

「龍三親分」
アウトレイジシリーズから一転して、とぼけた雰囲気のヤクザの親分。笑顔がチャーミング。
萬田久子の家から脱出するのにシャンプーキャップはかぶる必要があったのだろうか。

「若頭のマサ」
龍三親分となんでも賭けたがる。本編ではかなり賭けのシーンはカットされたそうだが、その分、うどん屋のシーンが長くなった。「てめえ金もねえのに天ぷらうどんなんて頼みやがって、その女とやりてえだけだろ!女!お前も天ぷらうどん一杯でやらせるのか!」とかすごい迷惑なおじさん二人であった。

「はばかりのモキチ」
ホント中尾彬さんってたけし映画ではいじり倒されてばっかwテレビタレント(またはコメンテーター)としての偉そうな雰囲気をたけしさんは茶化したくなるのか、確信犯的にこういう役をやらせているんだろうけど、一番すごいのは、そんな上島竜兵みたいな役回りを毎回しっかり演じてくれる中尾彬さん本人だと思う。

「早撃ちのマック」
メンバー最高齢。新劇でコンテンポラリーな無声映画を演じていたという人物。完成披露舞台挨拶が黙祷から始まらないかドキドキしたと監督は言っていたけど、考えてみると『アウトレイジ ビヨンド』の花菱会会長を演じた神山繁さんのがずっと年齢は上なんだよな。
最後の襲撃の前にお世話になった病院に電話をしているのが萌えた。

「ステッキのイチゾウ」
公園にすごい場違いな格好で現れた、まるで座頭市のような殺陣を繰り広げるじじい。演じるのは樋浦勉さんで、もうこの人は吹き替え声優としても大御所だよね。

「五寸釘のヒデさん」
メンバーで最も紳士的な物腰の人物だが、彼の五寸釘さばきで詐欺グループ京浜連合は総崩れになった。

「カミソリのタカ」
介護施設にいたじじい。ちょっとコント時の関根勤さんに似てる。

「神風のヤス」
割と後半で登場。たけしさんが大好きな右翼ネタ。
空母に特攻…!と思ったら軟着陸。それを踏まえても、この映画が今までよりずっと安心して観られる作品であることがお分かりいただけるだろう(そうか?)。

 というわけで、テレビや本のネタを映画にした感じだから、別に掘り下げるような内容の映画じゃないし、そもそもコメディ映画やギャグなんていうのは、笑えれば勝ちでそれ以上でもそれ以下でもないんだから、論理的な考察なんていうのは頭でっかちのする野暮なことなんだ。
 もう、何も考えずに笑って楽しむ映画だよ、ほいで自分はビートたけしにこれを期待していたんだって改めて思ったw

 こんなえいがにまじになっちゃってどうするの?

日本の産業覚え書き

北海道
広大な面積を生かした農業が盛んで、北海道の産業全体の3割を占める。
次いで石油・石炭製品が2割、鉄鋼、紙パルプと続く。
また農業だけに着目するなら、米(12%)よりもはるかに畜産の割合(50%)が多く、割合としては果実が少ない(0.6%)。
小麦の生産量は55万トンで、日本全国の半分以上を占める。乾燥に強い作物で、北海道のような梅雨のない気候に適しているのだ。とはいえ小麦の食料自給率自体は11%ほど。
米の生産量は64万トンで日本で二位。元々米は冷涼な気候には適さない作物だが、高い農業技術でこれを克服している。
ちなみに石狩平野が北海道で最大の稲作地帯だが、この地も元々は泥炭地で水持ちが悪く稲作には不向きだった。土壌改良の結果である。
一方畑作では十勝平野が盛ん。
じゃがいもの生産量は187万トンでダントツ一位、これも日本の生産量の半分以上を占める。
大豆の生産量も6万トンで日本一位。
大根の生産量も16万7000トンで日本一位。
なたねの生産量も800トン日本一位。
にんじんの生産量も17万トンで日本一位。
肉牛の飼育頭数は51万頭で日本一位。
乳牛の飼育頭数も80万頭でダントツの日本一位。
ちなみに北海道で最も酪農が盛んなのは根釧台地。
メロンの生産量は茨木に敗れ2万8000トンで日本二位。
豚の飼育頭数は62万頭で日本三位。
イカの漁獲量は7万5700トンで日本一。
さんまの漁獲量は7万トンで日本一。
ほたての養殖は10万トンでダントツ日本一。
原木生産も335万平方メートルで日本一。

東北地方

青森県
りんごの生産量は41万トンでダントツの日本一位。
大根の生産量は12万トンで日本三位。
なたねの生産量は350トンで日本二位。
イカの漁獲量は4万5000トンで日本二位。
ほたての養殖は5万トンで日本二位。

秋田県
意外だけど電子部品の製造が盛んで、秋田県の産業の3割を占める。次いで食料品が8%ほど。
米の生産量は53万トンで日本三位。
原木生産も盛ん。
伝統工芸品は大館投げわっぱ(薄い杉などの木材を曲げて作る器)。

岩手県
ニワトリのブロイラーは2万1000羽で日本三位。
乳牛の飼育頭数も多く4万5000頭は日本三位。
わかめの養殖は1万8000トンで日本一位。
原木生産も盛ん。
伝統工芸品は南部鉄器(茶釜や鉄製風鈴など)。
石川啄木、宮沢賢治の出身地でもある。

山形県
さくらんぼ生産は山形の独壇場(1万3000トン)。山形以外では北海道しか生産してない。
米の生産量は41万トンで日本四位。
米沢牛が有名。

宮城県
さんまの漁獲量は2万トンで日本二位。またいわし漁やマグロ漁も盛ん。
わかめの漁獲量は1万7000トンで惜しくも岩手に敗れ二位。
大豆の生産量は1万4000トンで日本で三位。
牡蠣の養殖も盛んで1万3000トンは日本三位。
米どころとしても知られ、ササニシキやひとめぼれはここで生まれた。

福島県
桃の生産量は2万9000トンで日本二位。
まゆの生産量は34トンで日本二位。
キュウリの生産量4万1000トンは日本で四位。
桐材も有名。

関東地方

茨城県
首都圏への近郊農業を担う。
白菜の生産量は23万7000トンで日本一位。
ピーマンの生産量は3万5000トンで日本一位。
また、メロンの生産地は北海道というイメージがあるが日本一は茨城県で3万8000トンも生産している。
米の生産量は41万トン弱でほぼ東北の山形県に匹敵する。
以下宮城、福島、栃木、千葉と続く。
さつまいもの生産量は18万トンで日本で二位。
キャベツの生産量は10万トンで日本で三位。
ネギの生産量は4万8000トンで日本三位。
豚の飼育頭数は56万頭で日本四位。
いわしの漁獲量は5万トンで日本一位。
レンコンや卵の生産量も日本一。

群馬県
首都圏への近郊農業を担う。
関東地方で最も小麦を生産している(2万3000トン)。
富岡製糸場があっただけあって養蚕業が盛んで、まゆの生産量は57トンで日本一。
キャベツの生産量も多く、生産量25万トンは日本で一位の愛知県に匹敵する。
さらにキュウリの生産量5万5000トンも日本で二位。
梅の生産量5500トンも日本で二位。
ほうれん草の生産量は2万トンで日本三位。

栃木県
首都圏への近郊農業を担う。
イチゴの生産量が2万6000トンで日本一位。
乳牛の飼育頭数は5万3000頭で日本二位。以下岩手と熊本が並ぶ。
ゆうがお(かんぴょう)の生産量もダントツ日本一位(シェア98%)。

千葉県
首都圏への近郊農業を担う。
落花生は千葉の独壇場(1万3000トン)。
ネギの生産量は6万6000トンで日本一位。
ほうれん草の生産量は3万4000トンで日本一位。
大根の生産量は15万8000トンで日本二位。
にんじんの生産量は11万トンで日本二位。
スイカの生産量は4万1000トンで日本二位。
豚の飼育頭数は68万頭で日本二位。
さつまいもの生産量は11万トンで日本で三位。
キャベツの生産量は13万トンで日本で三位。
いわし漁も盛ん。
平均標高が49メートルで日本一低い県である。

埼玉県
首都圏への近郊農業を担う。
パンジーの生産量は1万2000トンで日本一位。
ネギの生産量は6万3000トンで日本二位。
ほうれん草の生産量は2万6000トンで日本二位。
キュウリの生産量4万8000トンは日本で三位。
プロスポーツチームが多い。

東京都
出版印刷業を独占している。
政治、経済の中心地。

神奈川県
農業の中では野菜を最も生産していて(神奈川の農業産出額の4割)、一方畜産はあまり行われていない。

中部地方

山梨県
桃の生産量は3万9000トンで日本一位。
ぶどうの生産もトップクラス。

静岡県
茶の生産量は3万2000トンでダントツ一位。
みかんの生産量は12万トンで日本三位。
かつおの漁獲量は8万8000トンで日本一位。
意外なのがマグロの漁獲量で2万3000トンで日本一。
ちなみに東海工業地域は食料品の割合が高いのが特徴。
常滑(とこなめ)や瀬戸といった焼き物も有名。

長野県
冷涼な気候で東洋のスイスの異名を持つ。
白菜の生産量は22万トンで日本二位。レタス生産は日本一位。
りんごの生産量は15万トンで日本二位。
長野県が含まれる中央高地エリアは東海エリア並みに機械生産(時計やオルゴールなどの精密機械や電気機械)が盛んで、長野県の工業全体の7割を占める。その理由は空気がきれいで降水量が少ないから。

新潟県
言わずと知れた水田単作地帯なので米の生産量は65万トンで日本一位。
新潟の農業の産出額の95%は米。
新潟をはじめとする北陸エリアは東北地方よりも農業全体に占める米の生産額の割合が高い(62%)。

富山県
稲作が盛んで富山県の農業全体の72%を占める。
また、工業では機械類の他、金属加工(アルミ)や石油化学工業も盛んでバランスがいい。
越中の薬売りが有名。

石川県
スイカや大根の生産が盛ん。
工業では電子部品の割合が最も高い。また重機でお馴染みのコマツがある。
日本三名園の兼六園がある。

福井県
メガネと恐竜と越前ガニの県。あとハープ。

岐阜県
農業ではトマト、ほうれん草、枝豆、栗、柿、はちみつなどを生産。
工業では金属加工、刀剣、陶磁器が有名。特に美濃焼きは陶磁器の中でも生産量は日本一。
県の多くが山岳地帯なのでヒノキなどの林業も盛ん。
長良川の鵜飼が有名。

愛知県
言わずもがなトヨタ自動車があるので、輸送用機械の製造が盛ん。
愛知県の産業全体の半分弱は自動車。
キャベツの生産量は26万トンで日本で一位。
の生産量は46万5000トンで日本一位。菊は日照時間が短くなると花を咲かせてしまうため、夜はライトアップして開花時期を調整している。これを電照菊と言う。
大根やキャベツの生産も盛んだったが市街化が進み農地が減っている。

近畿地方

滋賀県
京都、大阪を支える農業県で稲作が盛ん。日本茶発祥の地としても知られている。
なにしろ琵琶湖を持っているのでアユやマスの養殖も行っている。

大阪府
西日本の経済の中心地。阪神工業地帯は、京浜、中京に並ぶ三大工業地帯。
東大阪市などに技術の高い中小企業が多くあるが、買収を恐れて上場をしていない会社が多い。特に「ゆるまないネジ」は送電線の鉄塔や海外の鉄道、スペースシャトルの発射台など世界中で使われている。普通にすごい。

京都府
かつて(今も?)日本の首都があったので、奈良県とともに貴重な街並みや文化財が多く残っている。特に古都保存法によってセブンイレブンなどのチェーン店のデザインも京都バージョンになっていたりする。

奈良県
柿の生産量は2万8000トンで日本二位。

三重県
かつおの漁獲量は3万トンで日本二位。
真珠の養殖や松坂牛が有名。

和歌山県
果樹の生産が盛んで和歌山の農業の産出額の7割以上を占める。
梅の生産量が7万9000トンで日本一位。
柿の生産量も4万8000トンで日本一位。
みかんの生産量も16万8000トンで日本一位。

兵庫県
南部は重化学工業、中部と北部は農林水産業、同じ県に過密と過疎を抱えることから日本の縮図とも呼ばれる。
川崎重工や神戸鉄鋼が有名。
本州四国連絡橋があり徳島県と結ばれている。これを神戸~鳴門ルートという。

中国地方

岡山県
牡蠣の養殖が盛んで(2万トン)日本二位。
本州四国連絡橋があり香川県と結ばれている。これを児島~坂出ルートという。
桃太郎のふるさとだけあって桃とぶどうの生産量が多い。山梨県とかぶる。

鳥取県
スイカ、らっきょう、二十一世紀梨が有名。
また松葉ガニというズワイガニのブランドの陸揚げが日本一。
どうでもいいけど日本で唯一スターバックスコーヒーの店舗がない。

島根県
漁業が盛んで、ベニズワイガニとブリの漁獲量は日本一。
また、いわしの漁獲量は3万7000トンで日本二位。
出雲大社と石見銀山がある。

広島県
牡蠣の養殖はダントツ日本一で10万トンもの牡蠣を育てている。
レモンの生産量も日本一。
工業ではマツダの本社があるので自動車産業が盛ん。
本州四国連絡橋があり愛媛県と結ばれている。これを尾道~今治ルートという。

山口県
薩長土肥の一角をになっていたので、戦前から造船、化学、機械、金属などの工場があり、戦後では石油化学コンビナートが建てられるようになった。また炭鉱もあったが現在はすべて閉山している。食べ物ではやっぱりフグ。
秋吉台のカルスト地形も有名。

四国地方

香川県
稲作を始めレタスやみかんの栽培が盛ん。あと全国にその名を轟かすうどん県。

徳島県
にんじんの生産量は5万トンで日本三位。
オロナミンCやカロリーメイトで有名な大塚製薬本社があることから、桃鉄でも「栄養補給飲料工場」という物件がある。

愛媛県
石油・石炭製品から始まって、非鉄金属、輸送用機械(愛媛日産自動車、愛媛トヨタ自動車)、パルプ紙、化学とバランスがいい工業県。
みかんの生産量は13万7000トンで日本二位。
タオルの生産も盛ん。
宇和島に代表される真珠の養殖は全国一位。

高知県
ピーマンの生産量は1万3000トンで日本三位。
マグロ漁も盛ん。

九州地方

福岡県
洋蘭の生産量は3000トンで日本一位。
小麦の生産量は6万トンで日本で二位。
イチゴの生産量も多く(1万8000トン)栃木に次いで二位。
以下、新潟、静岡、愛知、長崎、熊本が1万トン前後で並んでいる。
福岡~佐賀にかける筑紫平野は、かつては米の裏作としてい草や大麦が生産されていたが、現在ではイチゴや野菜を生産している。

佐賀県
小麦の生産量は3万トンで日本で三位。
大豆の生産量は1万5000トンで日本で二位。
のりの生産は日本一である。

長崎県
じゃがいもの生産量は10万トンで日本で二位。
戦艦武蔵を建造した造船と軍港の地(桃鉄では佐世保造船所の物件がなくなったけど)。
炭鉱や漁業が盛んだったが、近年過疎化に悩んでいる。

大分県
しいたけ栽培が盛ん。
工業では電子工業が盛ん。北部では自動車も作っている。
温泉地だけに地熱発電が盛んで自然エネルギーの自給率が日本で一位。

宮崎県
温暖な気候を生かし出荷時期を早める促成栽培が盛ん。
キュウリの生産量6万5000トンは日本で一位。
ニワトリのブロイラーは2万8000羽で日本一位。
ピーマンの生産量は2万8000トンで日本二位。
肉牛の飼育頭数は25万頭で日本三位。
マグロ漁も盛んで、漁獲量2万1000トンは日本一位の静岡にほぼ匹敵。
原木生産は171万平方メートルで日本二位。

熊本県
スイカの生産量は5万3000トンは日本一位。
メロンの生産量も多く、2万4000トンは日本二位。
トマトの生産も日本一。
さつまいもの生産量は9万トンで日本で四位。
乳牛の飼育頭数は4万4000頭で日本四位。

鹿児島県
鹿児島の農業産出額の中では米と畜産の割合が若干高い。
畜産が盛んなため、その餌となる飼料作物も多く生産。
さつまいもの生産量は37万トンで日本で一位。
豚の飼育頭数は133万頭で日本一位。
意外にも茶の生産量が多く、2万5000トンは日本で二位。
じゃがいもの生産量は9万トンで日本で三位。
大根の生産量は10万トンで日本四位。
ニワトリのブロイラーは2万6000羽で日本二位。
肉牛の飼育頭数は33万頭で日本二位。
マグロ漁も盛ん。

沖縄県
サトウキビやパイナップルを生産するが、海外の輸入品に苦戦。
また日照りの被害を受けやすい。
航空輸送が整備されたことで、利益が出やすい、菊や蘭などの花や、サヤエンドウなどの野菜を栽培している。
在日アメリカ軍基地の70%はこの県が負担している。

外国史各論1(東洋史)覚え書き②

参考文献:王瑞来『中国史略』

中世
魏晋南北朝時代~唐代末、五代までとされる。

北魏孝文帝の改革
北魏は中国北部の遊牧騎馬民族である鮮卑族が建てた王朝。
孝文帝は、馮太后(ふうたいごう)が手がけた漢化政策をさらに推進し、都を南の洛陽に定め、鮮卑族の服装や言葉は全て漢民族のものに改めさせた。
これにより、北魏は遊牧民を中心とした国家体制から、より普遍的な国家体制へと変わり、馮太后と孝文帝時代の北魏は全盛期を迎えている。
また、普遍的国家体制の樹立は後の隋による中国再統一へのきっかけにもなった。

三省六部制について
三省六部制とは隋と唐で行われた政治制度で、皇帝の下で中央政府の運営の中核を担った。
三省とは、皇帝の意思をもとに法案を作る中書省(ちゅうしょしょう)、法案を審査する門下省(もんかしょう)、審査に通った法案を行政化する尚書省(しょうしょしょう)の三つの機関のことで、六部とは官僚の人事を行う吏部、財政と地方行政を担当する戸部、教育と倫理、外交を司る礼部、軍事を担当する兵部、司法と警察を担当する刑部、公共事業を担う工部の六つの機関のことである。
これらのシステムは、中国のその後の政治制度にも影響を与えている。

中国の皇帝の役割
前述の三省六部制は皇帝に対する制度的な制約のほか、道徳的な規範を後の皇帝に示し、これにより皇帝は王朝(中央政府)の政治運営に機械的に従うだけの支配システムの一部になってしまった。また皇帝の公的なイメージは皇帝の権力の象徴化を促した(テキスト263ページ)。
中号史上最高の名君とされる唐の皇帝、太宗(たいそう)を例に挙げると、彼の行なった政治は貞観の治と呼ばれ、後世に名高い評価を受けているが、これも太宗個人の功績ではなく、彼とそのシンクタンク(委員会)の共同作業の成果であると考えるのが妥当である。
また、英明な太宗は進んで大臣の意見を聞くことで、儒学における聖王名君の枠に収まるとともに(太宗は北もしくは西の異民族である胡人だった)、皇帝という地位に対して冷静な認識を持つに至った。
こうして強い自律心を得た太宗は、自身の恣意的な行為を抑えたため、皇帝の私的権力が公的権力に取り込まれることになったのである。

則天武后の政治
中国史上唯一の女帝が則天武后である。
太宗の側室だった彼女は太宗の貞観の治を継承し、唐に次ぐ新たな王朝である武周を建てた(彼女ら武一族による周という意味)。また仏教で国を治めようと各地に寺を建てたことでも知られ、これは日本の奈良時代の国分寺に影響を与えている。
とりわけ則天武后は、粛清によって新旧貴族を退けて、科挙制度を実施、家柄にとらわれない合理的な人事を行なった。後世につながる人材も、この時に発掘、養成されており、貴族政治から科挙官僚政治へと移行するきっかけを作った。
しかし武周自体は彼女一代、わずか15年で滅んだ。その後彼女が退けた息子の中宗が王位に復帰、唐を再開させている。

李白と杜甫の漢詩のスタイルの相違
李白の作品はバラエティに富んでおり、漢魏六朝以来の中国詩歌の集大成である。
ダイナミックでスケールの大きな作品、清らかで繊細な作品、飄逸で超俗的な作品など、総じて変幻自在で鮮烈な印象を残している。
一方、杜甫の作品は現実の社会を直視したリアリズムが特徴で、代表作の『春望』からは憂愁感や悲壮感が漂っている。社会や政治の矛盾を作品のテーマに積極的に取り上げる、杜甫の叙述姿勢(詩史)は、後の白居易などにも影響を与えている。
ちなみに李白と杜甫は同時代人で親友でもあった。

遣唐使と日中交流
貞観の治によって政治的に安定した時期に、日本は何度も遣唐使を送っている。
唐からの冊封関係(中国の皇帝の支配下に入ることで、王としての正統性を皇帝に担保してもらうこと)の要求を断っていた日本の朝廷は、白村江の戦い以降は対外的に消極策を取るようになり、唐への朝貢を続けることで日本の国号を維持し、大宝律令を完成させることで国家体制を確立した。
また和同開珎、平城京、仏教の基礎などは全て唐の影響によるものである。
その後、大規模な農民反乱である黄巣の乱で唐が事実上崩壊すると、菅原道真は遣唐使を廃止した。ちなみに黄巣は指導者の名前で、科挙に落ちて塩の闇商人をやっていたヒトクセある人物。

漢と唐の文化の相違点
漢では儒教や道教といった思想が誕生、儒教は支配層に広まり科挙の必須科目となった。また無為自然を説いた道教も手厚く保護されている。
漢代の文学で名高いのは司馬遷の『史記』で、後世の歴史家に大きな影響を与えた。
唐では漢の文化を源流にし、音楽では楽器演奏や舞などの唐楽、美術ではユネスコ世界遺産になった龍門石窟寺院、書は書聖と言われた王義之(おうぎし)、中国史きっての忠臣と言われた顔真卿(がんしんけい)などが有名である。

近世
宋代~清代中期までとされる。

宋代の士大夫政治の形成
後周からの禅譲によって北宋を樹立した突厥(トルコ系)の趙匡胤(ちょうきょういん)は、武人(固有の兵力を持つ節度使など)の力をそぎ落とし、貴族の横槍が入っていた科挙を公平なものに改善することで、動乱の世の中を終わらせ、文治政治による天下泰平の世を築こうとした。
この結果、一回につき10人ほどだった科挙の合格者が、太祖(初代皇帝=趙匡胤のこと)時代には数百人にまで増え、3代の真宗の時代からは科挙官僚が朝廷を実質的に支配するようになった(中国史の中で最もビューロクラシーが栄えた)。
ちなみに科挙官僚は地主と文人を合わせて士大夫(したいふ)と呼ばれたため、この時期の政治を士大夫政治と言う。

宋代の官僚制度
宋代では地方(府、州、県)の長官を、知某州事や知某県事と呼ぶようになり、省略されて知県事、知府事となった。
一方中央政府では、官、職、差遣(さけん)という官僚制度が導入された。
官はその官員の地位と棒録を表し、寄録官と呼ばれた。実際の職務内容は表さない。
職は文才のある官員に与えられる名誉ある肩書き。これも職務内容と無関係に与えられる。
差遣はその官員が担当する実際の職務(使、判、知など)を表し、職事官と呼ばれた。
このような差遣制度は、官員の官名と職務を分離する点で役に立った。なぜなら政治闘争を避けたかった新政府は、自らが滅ぼした旧政権の官僚を罷免しなかったのだが、重要なポストにはやはり新政権が信頼できる人材を新たに登用したかったからである。
五代十国時代では、このようないきさつで差遣や官員が大量に出現、官制の混乱、行政の効率低下を引き起こし、財政支出を増大させているが、宋代においてもこの明らかに弊害のある制度は100年間も続けられ、祖宗の法の負の遺産と呼ばれた(テキスト328ページ)。

世界初の紙幣と宋代経済の繁栄
文治政治を掲げた宋は、遼や西夏に金銭を支払い平和を買うほど、経済観念が発達していた。都市の大都市化による物品の集散、夜間営業の市、政府の商業奨励政策、商人の地位向上などによって商業はかつてないほどに繁栄した。
そして欧州(スウェーデン)に先立つこと600年、世界初の紙幣である交子が誕生する。
これまでは貨幣が市場の取引を支えていたが、従来の貨幣の供給量では市場の需要を満たせず銭荒(せんこう)という価格の乱高下が起こった。
また、商品が掛け(ツケ)で売買されることも交子が生まれた原因であると考えられる。実際に交子は、元々とある富豪が貨幣の預金証書として考案し、その発行権を政府が取り上げることで政府紙幣となった。ちなみに交子には有効期限も設けられており、紙幣を不当に貯め込むことを防いでいた。

宋代の四大発明
彫版印刷術自体は、唐や五代ですでに行われていたが、北宋においては儒学、道教、仏教の経典や史書、文集の印刷に、また南宋では、それらに加えて、科挙の受験準備書や生活の実用書の印刷に用いられていた。
これに刺激を受ける形で発達したのが製紙業で、原料の拡大、乾燥法、着色法、虫食い防止法などの技術が開発、日常生活にも紙が使われるようになった。
羅針盤は宋代では航海や夜間の行軍以外に旅行においても使われた。
火薬は唐代で初めて軍事的に用いられるようになったが(発射薬ではなく炸薬として)、南宋の時代になると大量生産が可能になり、管状火薬兵器の最初の形態である火箭(かせん。おそらく火矢だとされるがロケット兵器だったんじゃないかという説もある)、突火槍(槍の先に火薬をくくりつけ炎を噴射する武器)などが戦争に積極的に導入されるようになった。

建国以前のモンゴルに対して漢文化が与えた影響
従来の説では、モンゴル帝国は漢文化の影響を受けずに突然勃興し、強大な帝国に発展したと考えられていたが、現在では漢族周辺の他民族と同様に、交流と衝突を繰り返しながら次第に漢族の文化を受容していったと考えられている。
その影響には、政治体制の熟知や、体制の一員としての意識の形成などが挙げられ、実際にモンゴル人の一部族は「祖元皇帝」を名乗り、中国風の年号をつけている。また政治的なポストには王や太子という言葉も借用している。

モンゴル人が漢民族と同化しなかった理由
モンゴル人は百年近くも漢族地域を支配していたが、結局漢民族と同化することはなかった。その理由は、行政を簡素化して、身分制度を設けたことにある。
元以前の中国の統一王朝は、前王朝の政治体制をそのまま流用していたが、元はそれを嫌ってモンゴル人(全体の1.4%)を頂点とする新たな身分制度を確立した。このヒエラルキーではモンゴル人が中央や地方の重要ポストを独占し、西域出身の諸民族である有目人(こちらも全体の1.4%)が準支配階級として経済財政の実務を行った。
被支配層は金が支配していた漢人(13.8%)と、南宋が支配していた遺民の南人(83.4%)だった。

大元ウルスの世界史的な意義
ウルスとはモンゴル語で「国家」という意味。つまり大元ウルスとは大元大モンゴル国のこと。
さて、急速に拡大し、そして滅亡したモンゴル帝国は、中国だけでなくアジアやヨーロッパに巨大な政治的、経済的、文化的遺産を残した。
例えば、中国とユーラシア大陸の境界線が消失したことで東西の交流は自由で緊密なものとなり、それに伴って文化や経済も発展した。
内陸近海水運の発達は経済や流通を活性化し、火薬や印刷術は世界的に広がった。
こうして、これまで孤立的だった東アジアは、アジア全域、ヨーロッパ、アフリカなどの国際社会と一体になったのである。

鄭和の南海遠征
永楽帝の中華帝国構想(朝貢貿易の拡大)の一環として、1405年に第一回が行われた鄭和(ていわ)の遠征航海は、大航海時代に先立って行われ(コロンブスの88年前、マゼランの116年前)、世界史に残る偉業であった。
中国の造船技術は、当時のヨーロッパとは比較にならないほど進んでおり、全長150m以上に達する巨大な木造船を造ったり、2万人以上もの乗組員が所属する大艦隊を編成できるほどであった。

明朝の朝貢体制に対する評価
中国の歴史における伝統的な制度を導入したというよりは、むしろ前身のモンゴル帝国の刺激を受けた結果、導入した。
元には及ばないものの、漢民族の朝貢は、明の時代でその頂点にまで推し進められたが、その結果、政府は巨額の財政支出を出すことになった(朝貢にかかる経費は相手国ではなく明が負担したため)。

明代人の経営意識の欠如
剛腕政治家の張居正(ちょうきょせい)の改革によって多くの財政収入を得た明政府は、なぜか、その資金を国家の経営投資に当てようとはしなかった。それもそのはずで、当時の中国には投資という発想がそもそもなかったのである。明代の中国人は資産を、再生産のための投資ではなく、貧しさをしのぐ蓄財か、湯水のような京楽に回してしまい、そのため近代国家への移行ができなかった。

明代の下層社会の特徴
南宋や元以降の知識人の大量参入によってもたらされた下層社会の質の増進がそのまま明にも受け継がれていること、もう一つは下層社会の活発化によって商品経済が発達したことである。『水滸伝』にもこの様子は描かれている。

近代
清代中期~辛亥革命までとされる。

清代の中国史上の位置づけ
清は、女真族(その後満州族に名称変更)のアイシンギョロ氏のヌルハチが、腐敗しきっていた明から独立し、そのあとを継いだホンタイジが建てた王朝である。
生気のない社会に再び活気を取り戻し、中国の伝統社会を復活させた清の建国は、単なる王朝の交代以上の意味があった。もし清朝が築かれなかったら、欧米列強による中国の支配はさらに繰り上がっていたに違いない。
また、清は現在の中国人の思想や行動に根源的な影響を与え、中国の伝統とされるものは実は清代が源であることが多い。
ちなみに清を中国の全国王朝にまで拡大させた第4代の康熙帝(こうきてい)は、積極的な緊縮財政や文化事業を実施し(大変な読書家)、唐代の太宗と並んで中国史上最高の名君とされている。
そのあとを継いだ雍正(ようせい)、乾隆(けんりゅう)も名実ともに豊かで繁栄した社会を実現させている。このような平穏な世は130年あまり続いた。
しかし内陸民族であった満州族は保守的で、世界に先駆ける先進国だった中国は、近代に入ると発展の機会を次々に逃し、いつの間にか後進国になってしまった。

清朝の『明史』編纂宣言の真意
文化や学術的な意味よりも、政治的な意味合い、つまり清朝の正当性を示すために編纂されたと考える方が実情に即している。
事実、『明史』の編纂は、明から清への王朝の交代を既成事実化するために、中国全土の征服が完了していない頃にすでに宣言されており、また、この宣言は本当に宣言だけで、具体的な編纂作業はまだ行われていなかった。

サツマイモとトウモロコシの伝来
どちらも海外貿易によって16世紀に中国に伝わった。多収穫作物であるサツマイモとトウモロコシの栽培は、食料の生産量をさらに向上させ、人口増加を支えた(なんと1億4千万人だった人口が50年ほどで3億人超にまで増えている)。また桑、茶、綿花、タバコなどとともに農業の商業化ももたらした。

乾隆帝がマカートニー使節団の通商要求を拒否した背景
ジョージ・マカートニーはイギリスの外交官。
満州人は中国を支配すると、従来の中国王朝が抱いていた天朝意識(中国は神が伝えた文化と王朝を持つ素晴らしい国であるという意識)を吸収し、彼らもまた貿易はあくまでも朝貢によるやりとりが主であると考えた。
実際、自給自足で事足りた中国は、不安定な海外交易よりも内政問題を優先させ、積極的な海外進出をする動機そのものがなかったのである。

日本の明治維新と中国の洋務運動
どちらもヨーロッパの先進技術を導入することで、産業を発展させ、富国強兵を成し遂げようとした改革であるが、日本の明治維新が、福沢諭吉の「脱亜入欧」に象徴されるように、社会体制の変革までも含めた欧米文化の導入を実践したのに対して、中国の洋務運動では、張之洞の「中体西用」に象徴されるように、あくまでも産業分野のみの改革で社会体制の変革を伴わなかった。そのために王朝の反対勢力の抵抗にあい、洋務運動は不徹底なものに終わってしまった。

現代
辛亥革命~中華人民共和国の建国までとされる。
ちなみに中華人民共和国建国以降は当代とされる。

現代における清朝の民族差別に対する認識について、記憶幻覚という心理的現象の観点から論ぜよ
中国の歴史では、漢民族を中心とする中国地域は度々周辺の他民族から侵攻を受けていたが、全国規模の王朝が建てられたのは、モンゴル人の元と満州人の清だけであった。
実際、純粋な漢民族自体は三国時代においてすでに絶滅しているらしいが、漢民族的な支配方式や文化はある程度、他民族の王朝においても継承されたこと、また時間の経過によって漢民族の抵抗感は次第に薄れていった。
しかし、清王朝末期の運動(辛亥革命など)を通して、その屈辱的な記憶は喚起され、民族差別を誇張した反清宣伝は、若い世代の記憶的な幻覚になった。
これは現在の中国にも大きな影響を与え、漢民族を主体とした王朝である宋と明の輝かしさに憧れるとともに、モンゴル人や満州人などの他民族よって滅亡したことを嘆いているのである・・・って宋ってトルコの人が作ったんじゃ・・・

外国史各論1(東洋史)覚え書き①

参考文献:王瑞来『中国史略』

歴史と歴史学の区別
歴史とは人類の過去にあった事項と行動を指し、客観的な事実である。
歴史学とは過去に起こったことを記録し解釈することで、記録者・研究者の主観的な理解や評価(史観)を含む。
しかしこの両者は不可分なもので、イタリアの哲学者クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べ、どの時代の歴史を記述しても必ず記述者の見解が入り込むことを論じている。そう言った意味で真に客観的歴史記述はありえない。
また歴史についての史料は広大な海のように多く(浩如煙海)、中国の歴史学は中国史と同様に長い歴史を持つ。殷の時代の甲骨文字には、すでに「史」という文字が残されている。

中国文化と日本文化の関係
稲作の導入、律令制度、漢字、儒教思想など、日本文化は中国文化に大きく影響を受けているが、それは「源」と「流」の関係ではなく、並行する川のようなものである。
中国と日本の文化は親戚のような関係があるが、結局はある種の異文化で、それぞれが独自の歴史的文脈のもとに形成されたことには注意する必要がある。

中国とは何か
実は中国とは国名ではない。
現在中国と呼ばれる国家は二つある。1949年に成立した中華人民共和国と1912年の中華民国であるが、そのどちらの憲法にも「中国」を自国の略称とするような記述、法的根拠はみつからない。
また歴史的根拠を見ても、いわゆる“中国”が「中国」という国名を冠したことは5千年の歴史の中でも一度もない。
それもそのはずで、中国の歴史には王朝があるだけで、国はない。国は王朝の下位の概念であり、国がなければ国名はないのだ。台湾の思想家である牟宗三(ぼうそうさん)は「中国とは一つの国家的単位ではなく、文化的単位であり、天下の観念はあったが、国家の観念はなかった」と述べている。
「中国」という言葉の出典で最も古いものは『詩経』(紀元前11~4世紀)で、「大雅」に「この中国をめぐみ、四方をやすんぜよ」という詩があり、考古物では1963年に出土した西周時代の青銅器に「中国」という言葉が確認されている。
付け加えるならば、中国とは「中心の国」といった純粋な地理的概念ではなく、また、「中央に君臨する国」といった中華思想を表す自慢の言い方でもない。“中国”の周囲に住む人が殷の支配する地域を「中」と見なしていたのである。なんにせよ「中国」とは過去においても現代においても具体的な国名ではなかったのである。

古代
※一般的には先史時代から~アヘン戦争までが古代中国とされるのですが、それだといくらなんでも長すぎるので(まじで4000年の歴史に)、日本の内藤湖南氏の学説に基づいて古代→中世→近世→近代→現代と、小分けにします。王瑞来先生のテキストではこういった日本史的な時代区分は設けられていません。

治水英雄伝説
司馬遷の『史記』によれば、中国の最古の王朝である夏(BC2000~1600?)は、黄河中流の治水に成功した禹王(うおう)によるものだという。
この王朝は長らく伝説だとされていたが、その存在を証明する発掘が相次ぎ、先史時代の中国に大規模な強制労働を実行させた国家権力が本当にあったということが分かっている。

禅譲
禅譲とは天子(天の命によって天下を治める君主)が、その地位を自分の血縁者ではない有徳な人物に譲ること。
古代中国の神話伝説では堯(ぎょう)が舜(しゅん)に、舜は禹王に禅譲を行なったと伝わっており、徳治政治を理想とする儒家思想が古代にもあったように思えるが、実際には譲られる側が天子に強制して禅譲を行わせていたことが多かった。

殷代青銅器の動物模様
青銅礼器のほとんどは動物の紋様で装飾されている。その多くは、頭があり体がない怪獣の饕餮(とうてつ)や、頭が一つで体が二つあるヘビの肥遺(ひい)、一本足の龍夔(き)、角を持つ龍の虬(きゅう)などの神話の動物がモチーフにされた。
礼器は、王室や貴族の権利と正統性を証明するレガリアであるとともに、人間の世界と、祖先や鬼神の世界を繋ぐアイテムだった。殷代では動物の骨で占いをしていたので、このような動物模様のついた青銅器も、人間と祖先・鬼神を結びつける役割があったと考えられる。

西周が中国文化の源とされる理由
中国史における政治、経済の改革は、そのほとんどが周代(BC1100~771)に起源を持つという。その理由は、西周が文献上における政治経済の諸制度が完備された初めての王朝だとされるからである。
西周の政治家の周公は、数いる聖人の中で、唯一系統的な法令制度(封建制度など)を作り、後世の王朝に政治的な規範を残した。中国の古代思想の源流もこの時代にあるとされ、儒家の始祖である孔子も周の政治を理想とした。

封建制の成立
中国史における封建制度の確立は紀元前1046年頃に起こった西周に見られる。周は西方から殷を滅ぼし、中国の広大な土地と多様な民族を統一支配したが、この全てを周の王一人が直接支配することは不可能であった。
最初の王である武王が死ぬと、幼い成王が即位。
こうして成王の叔父の周公が王を補佐する摂政期が始まると、周公は殷の残存勢力の反乱を防止するために、西周時代の首都「宗周」の東に「成周」を建て、反乱をしたことのある殷の民をそこにまとめて移して集中的にコントロールした。
また、殷の貴族で、周に親しい微子に殷の旧都である宗を封じ、武王の弟や自分の長男にも土地を与えて、殷の民族を分割統治させた。また、王や諸侯は、自分の家臣(卿・大夫・士)に対してもという領土を与え統治させた。
このような周の封建制は、あくまで宗族といった血縁関係に基礎を置き、ヨーロッパのような土地を媒介とした個人間の契約主従関係ではなかった。
また、祭政一致の神権政治ではなく、血縁関係によって広大な領土を支配した周の封建制度は、かつての王朝の殷と異なる政治体制であったと言えるが、宗法という先祖崇拝を重視した点などは、神権政治同様、宗教的な信仰が強かった古代ならではの手法であったと言える。
さて、諸侯は周王に軍役を誓い、貢ぎ物を捧げれば、封じられた土地の資源と収益を得て、自由に領地を支配することができた。このように地方分権的であった周の封建制度は、広大な領地に対する国家運営と防衛において大きな利点があったが、血縁関係を基準にした支配体制は、法律などの利害関係ではなく、血縁者間の信頼関係によって担保されていたので、その絆は当事者の意識の薄れによってたやすく破棄される危険性があった。
そこで周公は社会秩序を安定させるため、「制礼作楽」によって、上下関係を重んじた礼儀(礼)と、社会で共同することの大切さ(楽)を人々に強調する必要があった。これは、為政者自身が徳政を行い、天命を保つことにもつながった。

西周の崩壊
このような努力にもかかわらず、結局周の封建制度は崩壊の道をたどってしまう。地方の力は次第に強くなり、穆王(ぼくおう)の55年に及ぶ支配が終わると、王はめまぐるしく変わるようになり、周王朝は没落、各諸侯が覇権を争うようになってしまった。
王は反乱を抑えるため、自分をそしる人間はすぐに殺すなど、対策にあたったが、民の暴動で王が亡命するなど、社会は混乱した。
西周最後の王、幽王は妻とその子どもを廃し、寵愛する愛人褒姒(ほうじ。絶世の美女だったらしい)を后に立て、彼女の子に王位を継がせようとしたが、この時捨てられた太子の宜臼(ぎきゅう)に幽王は殺されてしまう。
こうして西周の歴史に終止符が打たれた。血縁関係によって統治された西周は、皮肉にもその血縁関係のトラブル(あと愛人)によって滅んだのである。
周王朝は、日本の封建制度における御家人などと違って、諸侯が支配する規模が都市国家並みに大きく、主君を裏切って独立がしやすかったことが、その崩壊の原因に考えられる。
また日本の封建制度は双務的契約を前提にしていたことから、幕府の恩賞が足りないという理由で御家人の不満が爆発して崩壊した。この点も日本と中国では事情が異なると言えるだろう。

秦が中国を統一できた要因
実践的な法家思想を取り入れたことが挙げられる。
法律が作られれば国内秩序が安定し、国家君主の力も強大なものになる。さらに全国を郡や県に分けて、そこに皇帝が任命した官吏を派遣する郡県制は、秦の中央集権化を促進し、中国の統一を成し遂げた。
また、秦は他国からの移民を受け入れ、個人の土地所有と、その売買を認め、農業を奨励している。
しかしこのような専制的な中央集権化は秦に滅ぼされた国の不満を買い、始皇帝が亡くなると各地で反乱が相次ぎ15年で秦は滅亡した。

シルクロードの開通
もともとシルクロードの開通には、匈奴(モンゴルの遊牧民)に悩む漢王朝の軍事的な目的があった。漢の武帝は匈奴を挟み撃ちにするために、トルキスタンの遊牧国家である大月氏と同盟を結ぶことを決める。そのため万里の長城の外の西域にある大月氏に使いを送った。
結局、距離が遠かったことから大月氏との同盟は実現しなかったが、この派遣によって西域の知識や情報が漢にもたらされ、喜んだ武帝は西域の開拓に乗り出した。このような経緯で作られたのがシルクロードである。
その後、シルクロードは中央アジア、西アジア、地中海まで伸びて、世界を繋ぐ交易路となった。
漢は、絹(シルク)、鉄器、製鉄や井戸掘りの技術を輸出、西域からは、ブドウ、ゴマ、ウマ、ラクダ、ガラスなどが輸入された。中国の製紙術、印刷術、火薬、仏教、キリスト教、イスラム教もこのシルクロードを経て伝わっている。

後漢政治の特徴
幼い皇帝を担ぐことによってその母親の皇太后が力を持ち、日本の平安時代のような外戚政治も見られた。
末期には、宦官(かんがん)が外戚を廃することに成功するが、彼らもまた幼帝を傀儡にして朝政を支配した。宦官とは外戚勢力を取り除くために去勢された王の家臣で、彼らが増えたのは皇太后が力を持ったのが原因であるが、その権力を増大させたのは初代の光武帝(劉秀)、彼らを積極的に登用したのは4代目の和帝であるとされる。
いずれにせよ根本的な原因は、光武帝の子孫がみんな短命で、幼くして死んでしまったことであろう。

三国志物語の歴史観
三国志と一口に言っても、「正史」と呼ばれる3世紀に陳寿によって書かれた歴史書『三国志』と、これを元に羅貫中によって書かれた14世紀の小説『三国志演義』は別物で、後者はあくまでも大衆をターゲットにした娯楽小説であり、そこで描かれる出来事(赤壁の戦いの描写など)や登場人物のキャラクターには大きな誇張がされている。中国の京劇における曹操は白い顔の奸雄、対する関羽は赤い顔の忠臣といった勧善懲悪のイメージがそれである。
このような作品が作られた背景には、当時の中国(明)が北方民族によって攻められていたことから、三国時代に北を治めていた魏を悪、南の蜀を善にすることで、国民の士気を高める意図があったのではないか、とも考えられるが、実際の制作意図はよくわからない。
とはいえ、仮に蜀に過剰に肩入れしたフィクションでも、三国志の時代に興味を持つきっかけとしては有効であるし、14世紀に生きていた作者の歴史観も伺えることから、それを文化史の観点からメタ的に研究することもできるだろう。
例えば、作中描かれる大義名分の重要性や、正統王朝である蜀(漢)と簒奪王朝である魏は相反する要素であり決して両立しないという考え方「漢賊は両立せず」は、現代の中国にも(一つの中国問題など)大きな影響を与えていると言える。
さて、三国志には魏呉蜀という三つの国が覇権を争い、魅力的なキャラクターがたくさん登場するが、ここではメインキャラクターを取り上げる。

劉備
まず主人公である、蜀の建国者、劉備。巧みな策を練り自軍を勝利に導く切れ者、正義の英雄として描かれるが、実際の劉備は戦が下手で、裏切りを繰り返す冷徹な人物だったらしい。
彼の生まれた家は良い家柄ではなく、それを象徴するように作中では自分が編んだ草履を家族と売り歩くシーンがある。豊臣秀吉を彷彿とさせる劉備の立身出世ぶりは多くの読者の心を掴んだに違いない。

曹操
次に魏の奸雄、曹操。作中では、曹操が漢の皇帝にとって代わり、その強大な力とヒールぶりを読者に印象づけるが、これは事実とは異なる。曹操にそのような野心がなかったとまでは言えないが、実際の曹操は権謀に優れた人物で、軍事的、政治的配慮によってこれを実行には移さなかった。
また、曹操は後漢からの慣習であった家柄を重視する官吏登用ではなく、あくまでもその人物の能力のみに基づいた合理的な人事を行なったり、孫子の兵法の注釈書を執筆したりもしている、従来の枠には収まらない多才な人物であった。

諸葛孔明
3人目は、三国志きっての切れ者キャラと知られる諸葛亮孔明。自身のイメージ戦略に優れ、劉備の信頼を勝ち取った彼は、劉備亡き後の蜀漢を率いて領土拡大を図った。作中では天才軍師と描かれるが、彼の得意とする分野は軍事ではなく内政だったらしい。
公正かつ公平な法の執行を試み民を治めるずば抜けた才能があった孔明は、その公明正大さがコンゲームが繰り広げられる戦場では逆にネックになり、大きな成果を上げられなかったのかもしれない。

孫権
最後に呉を率いる孫権である。赤壁の戦いは彼が画策し、小が大に制した三国志演義の大きな見せ場になっているが、孫権は他の王と異なり自国を拡大する野望が無かった。しかし彼が三国時代の君主の中でもっとも長生きしたことは興味深い。

三国時代の三大戦役
順にまとめる。
官渡(かんと)の戦いは、後漢の実権を握った曹操が、黄河北岸の一大勢力の袁紹(えんしょう)と戦った戦役。袁紹の戦力は曹操の十倍で、曹操は兵糧切れギリギリまで追い詰められるが、袁紹陣営の許攸(きょきゅう)の裏切りによって、相手の兵糧を襲撃することに成功、逆に袁紹軍を兵糧切れに追い込み、大逆転勝利を果たした。これにより曹操は華北地帯の実権を握った。
赤壁の戦いは、映画化もされた最も有名な戦いで、曹操と孫権・劉備連合軍が長江をはさんで戦った戦役。曹操は連合軍の火攻めによって水軍を失った。
夷陵(いりょう)の戦いは、赤壁の戦いで曹操を退けた孫権(呉)と劉備(蜀)が衝突した戦いで、三国の鼎立(ていりつ)を確立させた。この戦いで敗れた劉備は程なくして亡くなり、その実権は諸葛孔明に委ねられることになった。

昭和覚え書き

昭和の概要(1926年~1989年)
すまん、この流れだと、昭和も昭和時代になるんだろうけど、昭和時代という言い方に抵抗がある昭和生まれなのであった。昭和時代って言うと一時代が終わった感があるしね。おそらく平成生まれは抵抗ないんだろうな。だから若い子にとっては、ここらへんの時代が一番盲点で知らなかったりすることが多い。
・・・あ、概要か。日本が戦った最後の戦争(アジア太平洋戦争)の時代。敗戦という経験は、日米関係、沖縄基地問題、日中・日韓関係、歴史認識問題などといった現代の社会問題に大きなジレンマを与えている。ここまで時代が来ると現代に生きる我々も他人事じゃないのだ。ちなみに戦後史については政治経済の記事を参照。

昭和天皇
歴代天皇の中で最も在位期間が長く(昭和は64年まで)、最も長生きをした天皇(87歳)。
メガネがチャームポイントのインテリ派の天皇で、鈴木貫太郎の奥さん(たか)が子どもの頃の教育係を務めている。
国家の命運をかけた総力戦及び敗戦という大変な時期に、現人神として数々の決断をすることになったが、戦後になると焼け野原になった各地を巡幸するなど、国民と積極的に関わり、ウィットに富んだゆる~い返しをする好々爺として愛された。しかしアメリカの大統領で初めて天皇に謁見したフォード大統領は、そのオーラに足の震えが止まらなかったという。
口癖は、高い声で「あ、そう」。尊敬する人物は源義経で、趣味はゴルフ、お気に入りはミッキーマウスの腕時計。

金融恐慌
1927年。昭和になってさっそく起きた恐慌。
高岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣が、東京渡辺銀行が破綻したという誤報を流してしまい、これを知った国民が経営状態の悪い銀行が破綻する前に自分の預金を引き出そうと殺到して起こった。

第1次若槻礼次郎内閣
金融恐慌を沈静化するために総合商社(鈴木商店)に融資を行い、経営難に陥った台湾銀行を救済しようとしたが、この緊急勅令は若槻内閣の協調路線に反対していた枢密院の同意が得られず実現しなかった。
これにより金融恐慌は放置され、責任を取って若槻内閣は退陣した。

田中義一内閣
1927年発足。立憲政友会の田中義一の内閣。
久しぶりに登場したけど、おさらいすると田中義一は日露戦争の時にレーニン同志などと裏工作をした軍人・・・まあ言ってみればスパイ。

田中義一内閣の政策①金融恐慌の沈静化
預金者への支払いを3週間遅らせることができるモラトリアムを各銀行に認めた。
この恐慌によって三井、三菱、住友などの5大銀行に預金の集中が進み、金融界は5大銀行に支配されるようになる。

田中義一内閣の政策②社会主義運動への対応
1928年の総選挙で当選者を出した、社会主義や共産主義といった無産政党は公然と活動を開始、これを受けて田中内閣は共産党員を一斉検挙し、日本労働組合評議会などを解散させた(三・一五事件)。
また同じ年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑または無期刑と引き上げた。道府県警にも特別高等課を設置し、思想犯の取り締りを強化した。
田中内閣は1929年にも大規模な共産党員の検挙を行い(四・一六事件)、これにより日本共産党は大打撃を受けた。

田中義一内閣の政策③中国への強硬政策
蒋介石率いる国民革命軍は北方軍閥(当時の中国で互いに覇権を争っていた軍事勢力のこと)を倒すために各地方の制圧(北伐)に乗り出した。
これに対して、田中内閣は北方軍閥で満州の帝王と呼ばれた張作霖を支援しようと、1927~28年に3回にわたる山東出兵を行った。

張作霖爆殺事件
国民革命軍に敗北した張作霖を、1928年に関東軍の一部が無断で列車ごと爆破してしまった事件。
この事件の真相は国民には明かされず、満州某重大事件と濁した表現で呼ばれた。
ここでいう関東軍とは、関東庁(旧関東都督府)の陸軍部が独立してできた組織。
この関東軍の暴走に田中義一は厳しい処分ができなかったため、昭和天皇は不快感を示し、田中内閣は総辞職した。関東軍はその後、大陸進出の急先鋒となった。
ちなみに、その語感が好きなのかビートたけしさんがよく言いたがる。

浜口雄幸内閣
1929年。立憲民政党で大蔵官僚出身の浜口雄幸の内閣。
立派なヒゲと鋭い眼差しが、まさに百獣の王の風格だったのでライオン宰相と呼ばれ、国民に親しまれた。
裏工作などには頼らない実直な性格の人物で「信念のもとに正道を進まん」と述べ、とにかく正義感が強かった。
ちなみに浜口雄幸はこの時59歳。初の明治生まれの総理大臣だった(それまで江戸生まれだったのか)。

浜口雄幸内閣の政策①金解禁
大蔵省出身の浜口雄幸は、前日銀総裁の井上準之助を、党内の批判をはねのけて大蔵大臣に起用し、緊縮財政によって物価を引き下げるとともに、産業の合理化を図り国際競争力を強化させようとした。
また1930年に、為替相場を安定させるために、輸入品の代金支払いに金の輸出を認める金解禁(=金本位制の復帰)を行なった。

浜口雄幸内閣の政策②昭和恐慌への対応
しかし悲劇は起こった。
金輸出解禁の前年の1929年にニューヨークの株式が暴落、世界的な恐慌が起こり、これにより日本では昭和恐慌が発生、輸出よりも輸入が増え大量の金が国外へ流出、企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大したのである。
一部の失業者は農村に戻ったが、農村でも農作物の価格が暴落、豊作貧乏が起こっていた。
しかも1931年には東北で大凶作が発生(農業恐慌)、食事が十分に取れない欠食児童や、身売りを余儀なくされる女子がたくさん出た。
これに対応すべく、浜口内閣は1931年に重要産業統制法を制定、各種産業部門のカルテルの結成を認めた。
しかし昭和恐慌は収まらなかった。その原因の一つが、金輸出の再禁止を見越した、財閥の円売りとドル買いで(円高時には円を手放して一気にドルを買い、その後円安になった時にドルを円に替えることで、莫大な利益を獲得する)、1930年1月からの半年で2億円以上に当たる金が流出、財閥に対して非難の声が上がった。

浜口雄幸内閣の政策③協調外交の復活
戦争でイギリスやアメリカには絶対勝てないことを知っていた浜口雄幸は、協調路線の幣原喜重郎外務大臣を再起用し、中国への強硬政策を改めさせた。
1930年には中国の関税自主権を条件付きで認める日中関税協定や、各国海軍の補助艦保有率を定め、ワシントン海軍軍縮条約で決められた主力艦建造の禁止をさらにあと5年延長するロンドン海軍軍縮条約に調印した。
ロンドン海軍軍縮条約では、日本が要求していた大型巡洋艦の対米7割保有は認められなかったため、野党の立憲政友会や海軍、右翼は天皇の統帥権の干犯であるとして、海軍の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を結んだ浜口内閣を批判した。

浜口雄幸狙撃事件
1930年。浜口雄幸が東京駅で右翼の青年の凶弾に倒れた事件。
犯人は犯行理由として、浜口雄幸が天皇陛下の統帥権を侵したことを挙げたが、統帥権の干犯がそもそもどういう意味なのかは理解していなかった。そういうもんなんだよな。
その後、重傷を負った浜口総理に代わって、外務大臣の幣原喜重郎が臨時総理を務めたが、立憲政友会の犬養毅に「あんたじゃ話にならない」といなされて大苦戦、これを受けて浜口総理は再び国会に帰ってくるが、その無理がたたって1931年に亡くなってしまった。
百獣の王ライオンですら戦争への道は止められなかったのだ。

血盟団事件
1932年にライオン宰相の相棒のタカ、井上準之助が「一人一殺」を掲げた右翼の過激派血盟団の凶弾に倒れたテロ事件。彼ら血盟団に暗殺された要人には、三井財閥総裁の團琢磨もいた。ちなみに大学で私に美術史を教えてくれた先生は、この人のひ孫に当たる。

滿蒙の危機
1928年の末、張作霖の息子の張学良は、蒋介石の国民政府と合流し、北伐は完了、国民政府は中国をほぼ統一した。
この事態に対し、日本が持つ満州の権益が危ないと感じた関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を自分で爆破しておきながら、中国軍の仕業だとでっち上げるという柳条湖事件を起こし、これを理由に満州各地に進軍を開始した(満州事変)。
これをきっかけに日本では国家主義が高まり、国家による社会主義運動の弾圧は強化、社会主義者は転向(自分の思想を放棄すること)を余儀なくされた。
さらに社会主義や共産主義以外にも、自由主義、民主主義的な思想にも圧力が加えられるようになった。
1933年には自由主義的刑法学説を唱えた瀧川幸辰(たきがわゆきとき)京都大学教授が休職処分になる滝川事件も起きている。

新興財閥
満州事変以後、軍部と結びついて急成長した新しい財閥。
日産コンツェルンや日窒コンツェルン、理研コンツェルンがそれで、軍需や重化学工業の分野で活躍した。

石原莞爾
関東軍作戦参謀。柳条湖事件や満州事変を敢行した、帝国陸軍きってのエリート。
機関銃を飛行機に取り付けるといったアイディアを出すなど極めて頭が切れる上に、上官すら無能だったら罵倒する異端児キャラだった彼は、同僚の東条英機を「憲兵隊しか動かせない意気地なし」「あいつは子どもの頃からバカ(これはホント)」と徹底的に見下したので、1937年から始まった日中戦争では当たり前だけど東条英機と対立、閑職に左遷される。
彼は軍事思想家としても活躍し、『世界最終戦争論』では、やがて東洋最強の大日本帝国と、西洋最強のアメリカ合衆国が、世界最強をかけて決勝戦を行ない、その時には都市が丸ごと消滅する最終兵器が登場するだろうと論じた。まあ実際そんなようなことは起きたけど。ちなみにこのようなハルマゲドンによって戦争そのものが絶滅し、その後は普遍的な世界平和が訪れるとも予言している。できればこっちも実現して欲しい。

第2次若槻礼次郎内閣
1931年。満州事変はよくないぞと不拡大の方針を打ち出したが、満州事変が世論やマスコミの支持を受けていたこともあり、軍部に同調した内務大臣らは若槻総理に造反、閣内不一致となり退陣を余儀なくされた。
実際、軍部は内閣の方針を無視して中国国民党と衝突している(上海事変)。

犬養毅内閣
1931年。立憲政友会の重鎮で(当時77歳)憲政の神様と呼ばれた犬養毅の内閣。
元老の西園寺公望が昭和天皇に、中国との独自のパイプを持つ彼を推薦して実現した。
ちなみに犬養毅は、慶應義塾で福沢諭吉に学んだ元新聞記者で、報道の自由を掲げる彼は、通信大臣時代にNHKを設立している。
また、かつてから満洲国の建国には強く反対しており、あんなものを作ったのは日本の恥と言っていた。ペンが剣よりも強いことを理解していた犬養毅は、自分一人では軍部と戦うのは無理でも国民世論が味方につけば、戦争への道は食い止められると考えていた。しかしその国民は、犬養の予想以上に全体主義や軍国主義に惹かれてしまっていたのであった。

犬養毅内閣の政策①金輸出再禁止
大蔵大臣の高橋是清元総理が断行、円の金兌換を停止(管理通貨制度へ移行)した。
これにより円相場は下落、恐慌下で合理化を進めた諸産業は輸出を拡大、昭和恐慌から脱却するきっかけができた。

犬養毅内閣の政策②中国との直接交渉
孫文と友達だった犬養毅は、関東軍の進撃を抑えて中国と直接交渉を行うことで、各国からの批判をかわそうとした。
しかし中国との交渉中の1932年に関東軍が勝手に満洲を占領、清王朝のラストエンペラーである溥儀を執政(王というよりは首長レベルの役職)にして満州国を作ってしまった。
この一連の行動に対し中国は国際連盟に提訴、アメリカはこの訴えを認めて、満州国の建国宣言を不承認とした。
また国連の理事会は事実関係の確認のために、満州と日中両国にリットン調査団を派遣した。リットンはイギリス人の元インド提督。

五・一五事件
1932年。
帝都暗黒化(東京大停電)を目論んだ海軍の青年将校たちが、警視庁や首相官邸を襲撃した事件。
青年将校たちは、犬養総理暗殺を実行する前に「犬養毅はタヌキ親父でコミュ力がすごいから、論理で丸め込まれる前に撃ち殺すように」と確認し合っていた。
これにより加藤高明内閣以来8年間続いた日本の政党政治は終わりを告げた。

斎藤実内閣(さいとうまことないかく)
1932年。斎藤実は穏健派の海軍の大将で、こちらも元老の西園寺公望が推薦した。
斎藤内閣は、官僚や政党からも閣僚を出す挙国一致内閣だった。
同年9月には、満州とその権益を承認する日満議定書を取り交わした。また同時に出された秘密文書では、満州国の政府に日本人の役人を採用することが決められていた。

国際連盟からの脱退
リットン調査団は、満州国は日本の傀儡政権であるという結論を国連に報告した。
この調査結果を元に、国連は日本に対して満州国の承認を撤回させようとしたが、日本政府は松岡洋右(まつおかようすけ)全権に対し、この撤回要求を拒否させた。
1933年2月、松岡全権は国連の議場を退席、その翌月には正式に国際連盟からの脱退を通告した。こうして2年後の1935年に日本は国際連盟から脱退した。

塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)
1933年5月。
黄河作戦を仕掛けた日本と、北京まで進行されてはたまらないと考えた国民政府との間で結ばれた軍事停戦協定。
これによって満州事変は一応集結、盧溝橋事件まではとりあえず平和が続いた。
塘沽は天津近郊の地名。

岡田啓介内閣
1934年。海軍穏健派の岡田総理は、満州国を溥儀を皇帝とする帝国へ移行させるとともに、満州の経営と開発に着手した。これによって満州国は事実上の日本の植民地になった。
この時(1936年)、関東軍の板垣征四郎と共に満州の開発を行ったのが、昭和の妖怪の岸信介(当時40歳)である。
岡田総理は軍部の圧力に屈する形で、天皇機関説を否定する国体明徴声明を出した。これにより政党政治は大きな理論的支柱を失った。

二・二六事件
1936年。陸軍皇道派(右翼の思想的影響を受けた若手将校を中心にした派閥)に官邸を襲撃された岡田啓介が、東京中を逃げ回った軍事クーデター。
この時殺害された人物には、斎藤実、高橋是清などの元総理大臣や、陸軍統制派の中心人物だった渡辺錠太郎教育総監、岡田総理の義理の弟、また重傷を負った人物には、侍従長の鈴木貫太郎がいる。
さて、1400人ほどの兵を率いた青年将校たちは、国会などの主要機関を4日間にわたって占拠、首都には戒厳令が敷かれて岡田内閣は崩壊したが、この事態に最も強い憤りを覚えたのは、皮肉にも彼らが尊敬する昭和天皇だった。
自分が信頼する人々を次々に殺されてしまった天皇は、陸軍の統制派(財閥や官僚と結びついた東条英機ら幕僚将校が中心の派閥。皇道派と対立していた)に彼らの厳罰を指示、反乱軍として鎮圧させた。これによって、陸軍内では統制派が主導権を握ることになり、軍の権威は向上、対する政治家の権威は失墜した。マスコミも軍部主導の国内改革を盛んに喧伝した。

広田弘毅内閣
1936年。軍の要求を受けて組織された内閣。
1936年にロンドン海軍軍縮条約とワシントン海軍軍縮条約がともに失効し、国際的に孤立した日本政府は、陸海軍の帝国国防方針に基づいて国策の基準を発表した。
国策の基準では、対ソ連戦を想定した北進論(陸軍が主張)と、南洋諸島及び東南アジアへの進出を想定した南進論(海軍が主張)の両方が採用された。
広田内閣は、戦艦大和や武蔵の建造など、大規模な軍備拡張計画を推進しようとしたが、それに反対する政党の批判や、国内改革が不徹底だという軍部の批判を受けて1937年の1月に総辞職をした。
そんな彼は、過激派に戦闘機で自宅を機銃掃射されるほどの平和主義者だったのだが、日独防共協定、日独伊三国防共協定(こちらは近衛内閣外相時代)に調印したことから、戦後、連合軍にA級戦犯にされ、東京裁判で死刑判決を受けてしまった。
ちなみに最愛の女性と恋愛結婚をした、家族を愛するマイホームパパとしても有名。

林銑十郎内閣(はやしせんじゅうろうないかく)
1937年。軍縮で名を上げた総理候補の宇垣一成が、陸軍の支持を得られず組閣することができなかったために陸軍大将の彼に白羽の矢が立った。
大軍拡のための重要産業を育成するために、軍財抱合(軍と財界の連携)を試みたがうまくいかず、短命に終わった。

第1次近衛文麿内閣
1937年。国民や軍部、元老から広く支持を受けた、貴族院議長の近衛文麿の挙国一致内閣。
内閣直属の機関である企画院を設置し、臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法などを制定、軍需産業に資金や輸入資材を集中させた。このような経済統制によって台頭したのが経済官僚だった。
彼らは軍部と結びついて強力な国防国家を建設しようとした。
国家主導の軍需の拡大は、国策に協力する大企業が莫大な利益を上げた一方で、一般人には増税を強いることになった。また浜口内閣が危惧した、多額の赤字国債、紙幣乱発によるインフレーションも発生した。
近衛内閣はさらに、国民精神総動員運動(国家主義と軍国主義を掲げた上で、節約や貯金など国民の戦争への協力を促す)や、国家総動員法(議会の承認なしで戦争に必要な物資や労働力を動員できる)、軍需工業動員法、電力国家管理法なども制定。
国家の戦争遂行のためにはなんでもアリになった。こういうのを全体主義と言い、戦争に否定的な人はみんな共産主義者にされ逮捕されてしまった。
第1次近衛内閣はドイツからソ連、イギリス、フランスを仮想敵国にする軍事同盟を持ちかけられたが態度を保留した。

西安事件
国民政府の張学良が、中国共産党を攻撃したい蒋介石を西安の郊外に監禁した上で、内戦はやめてともに日本と戦おうと中国共産党に持ちかけた事件。
これにより国民党と中国共産党は手を組み、抗日民族統一戦線結成のきっかけができた。

盧溝橋事件
1937年7月。日中戦争の引き金として知られる発砲事件。
日中両軍の衝突は一旦は収まったものの、近衛内閣は軍部の圧力に屈して、兵力を増派、戦線を拡大したので日中戦争が勃発した。当時の日本政府は、この戦争を北支事変とか支那事変と呼び、局地の戦闘扱いにした。
日本軍の戦法ってだいたい宣戦布告なしの奇襲攻撃が多いんだけれど、これは宣戦布告すると“戦争状態”になってしまい、となると中立法をとるアメリカから弾薬が輸入できなくなってしまうからである(アメリカは戦争状態の国に武器を輸出しない立場をとっていた)。

第2次国共合作
9月。国民党と共産党が抗日民族統一戦線の成立を宣言した。
日本軍は国民政府の首都の南京を陥落させたが、国民政府は漢口・重慶と退きながら徹底抗戦をした。いわくつきの南京30万人大虐殺もこの時起きている。
こうして戦況は泥沼化、平沼内閣はドイツの中国駐在大使のトラウトマンに仲介を依頼するなど、和平工作も試みるが、結局失敗、1938年1月の近衛内閣の声明(国民政府は相手とせず)によって和平交渉の可能性を自ら潰してしまった。
さらに11月には「日中戦争の目的は日・満・華が連帯する新しい秩序の建設である」という東亜新秩序声明を出した。この背景にはヨーロッパ各国が危機的状況に陥り、極東地域に構っていられなくなったことが挙げられる。つまり、イギリスが中国への支援の手を緩めたことろで中国へ一気に攻勢をかけようとしたのだ。

汪兆銘(おうちょうめい)
中国国民政府の要人で1940年に日本の傀儡政権の首班になった。
南京に作られたこの新国民政府は弱く、一方の中国国民政府はイギリスやアメリカから援蒋ルートによって援助を受け続け、日本と戦った。

平沼騏一郎内閣
1939年1月。国家総動員法に基づく国民徴用令米穀配給統制法(米の集荷を政府が統制するために一元化した法律)を出した。
東大卒のエリート官僚出身の平沼総理は各方面から受けが悪く、近衛内閣の路線を継承するに終わった。ドイツと手を組む決断を曖昧にしたのも一緒だった。

阿部信行内閣
1939年8月。阿部信行は予備役の陸軍大将。
この頃になると、ついにドイツは隣国ポーランドを侵攻、第二次世界大戦が勃発したが、阿部内閣は第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
一方の陸軍は、アメリカによって日米通商航海条約を破棄されたことをきっかけに、ならば優勢のドイツと手を組み、それを足がかりに南方のアジアの植民地をまとめて開放してしまおうという大東亜共栄圏構想を打ち出した。
それはまあ建前で、本音は南方の資源、戦争に必要な石油やゴムやボーキサイトの獲得が狙いだった。
実際、この頃の国内経済はかなり逼迫しており、「贅沢は敵だ」というスローガンとともに価格等統制令が出されている。
しかしアジア版EU的な大東亜共栄圏の建設は、アメリカやイギリスとの戦争を覚悟することでもあった。

米内光政内閣(よないみつまさないかく)
1940年1月。米内光政は海軍大将。
海軍では良識派として知られ、猛進撃を続けるドイツのヒトラーと日本が手を組むことを憂慮した昭和天皇の推薦を受けて総理になる。
彼もドイツとの軍事同盟締結には消極的で、阿部内閣同様、第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
また、米内内閣の頃には七・七禁令(贅沢禁止令)が出された。これにより宝石や象牙、銀製品といった贅沢品の販売や製造が禁止された。これは戦争によって莫大な利益を得た軍需成金に対する市民の不満を抑える目的があった。

第2次近衛文麿内閣
1940年。
内閣情報局を設置し、出版物、演劇、ラジオ、映画など全てのマスメディアを戦争のプロパガンダに利用した。
また大日本産業報国会を作り、労使一体で国策に協力させた。これによって日本のすべての労働組合は解散させられた。
ドイツ軍は、この年の4月にデンマークとノルウェー、5月にはオランダを奇襲した。
飛行機と戦車を駆使した電撃的な奇襲作戦は強力で、6月にはとうとうフランスのパリが陥落、こうして1940年時点で、ヨーロッパでナチスドイツと戦っていた国はイギリス一国になってしまった。
このような状況の中、第2次近衛内閣はドイツ、イタリア、ソ連との連携を強化する方針を打ち出すと共に、イギリスやアメリカの援蒋ルートを断ち切るために南進を決めた。
1940年9月、日本はドイツに降伏したフランスの植民地のインドシナ北部へ進出(北部仏印進駐)、時を同じくしてアメリカは鉄の対日輸出を禁止するという経済制裁を加えた。
10月には、全国の国民の戦意発揚を掲げる指導的組織である大政翼賛会が発足、翌年になると小学校が国民学校になり国家主義的教育が推進された。
また朝鮮や台湾では、日本語教育や創氏改名をはじめとする皇民化政策が取られ、そのため台湾のお年寄りには日本語が上手にしゃべれる人がいる。

日ソ中立条約
1941年4月。
南進を進めるためには北方が手薄になるため、その安全を確保するために結んだ。
またアメリカを牽制する狙いもあった。なんだかんだ言ってソ連は大国だから。

日米交渉
しかし近衛総理はアメリカとの戦争は絶対に回避しようと日米交渉も開始していた。
しかし1941年6月、イギリスへの上陸を諦めたドイツが(レーダーを用いた対空防衛システムが厄介だった)、独ソ不可侵条約を突如破ってソ連に侵攻、無謀な両面作戦を開始してしまった。これに日ソ中立条約を結んだばかりの日本は態度を決め兼ねた。
そこで天皇も出席する大本営政府連絡会議である御前会議が開かれ、その結果軍部の強い主張のもと北進と南進を同時に進めることが決まった。
しかし近衛総理はまだ日米交渉を続けていた。1941年7月には、強硬派の外交官松岡洋右(国連脱退、日独伊三国同盟、日ソ中立条約などに関与)を除外するために一度総辞職もしている。

第3次近衛文麿内閣
第2次近衛内閣総辞職直後に結成。
1941年7月、日本軍はインドシナの南部に進出(南部仏印進駐)、これに対してアメリカは対日石油輸出の禁止を決定、さらに在米日本資産の凍結と、イギリス、中国、オランダとともにABCD包囲網という経済封鎖を行った。
日本は石油が産出しないので、一時間に400トンもの油を食う軍艦を抱える海軍にとっては重大な死活問題となった。
9月6日の御前会議では、日米交渉の期限を10月上旬にし、交渉失敗の場合は戦争に踏み切ることが決定されたが、10月に入っても日米交渉はなかなか進展せず、総辞職になった。

東条英機内閣
東条英機はもともと陸軍大臣で、このままでは暴走しかねない陸軍参謀本部を何とかするために、内大臣(天皇の補佐)の木戸幸一によって大抜擢された(今までは元老が首相の選任権を握っていたが、最後の元老だった西園寺公望は1940年に亡くなっている)。
日中戦争では、自身の兵団を率いた稲妻作戦で、関東軍始まって以来の猛進撃を実現させカミソリ東条と称えられた。
ちなみに東条英機は自分を褒める部下をとにかく可愛がった。小さい頃から成績が悪かった東条は、努力一筋で総理大臣まで上り詰めたので、色々とコンプレックスがあったのかもしれない。
さて、1941年11月、アメリカのハル国務長官から突きつけられた提案(ハル=ノート)は、中国とインドシナからの無条件撤退、満州国の汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の破棄という、日本を満州事変以前の状態に戻すような内容で、これまでの戦争ですでに10万人の犠牲者を出していた陸軍が飲めるものでは到底なかった。
こうして12月1日の御前会議で、日本は米英開戦を最終決定した。
そして一連の情報はアメリカの暗号解読機によって筒抜けだった。日本はすでに情報戦で敗北していたのである。
昭和天皇から戦争の回避を任された東条総理は無念のあまり泣いたという。

太平洋戦争
1941年12月8日。
日本は日米交渉の打ち切りをアメリカとイギリスに通告し、宣戦布告をした。
しかし、日本海軍はその前日の7日の朝に「ニイタカヤマノボレ」「トラトラトラ」の暗号電文の下、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けていた。
こうして、これまで一貫して戦争反対の立場だったアメリカは「真珠湾を忘れない」を合言葉に日本との戦いを決意した。
ちなみに、アメリカ海軍は日本軍がサイパンを通って南側から攻めてくると思っていたので、空母を南太平洋や大西洋に回していたのだが、なんと南雲司令長官率いる日本軍は択捉島の方から赤城や加賀などの空母6隻で襲ってきたので大パニック。「これは演習ではない」とラウドスピーカーで呼びかけたのも手遅れで、大打撃を受けた(逆に言えばアメリカは大切な空母を守れたとも言えるが)。
アメリカ西海岸に住む12万人以上の日系人は強制収容所に送られた。
日本の言い分としては駐米外交官の不手際によって、日米交渉の打ち切りが真珠湾攻撃までに間に合わなかったそうだが、駆け引きや裏工作が繰り広げられる非常時ということもあって、その真相はわからない(アメリカはすでに情報を傍受していたという話もある)。
なんにせよ、この時に撃破された戦艦アリゾナは今なお真珠湾に沈んでおり、当時のアメリカ人の怒りと悲しみを伝えている。

マレー沖海戦
日本がアメリカに宣戦したことで、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告、これにより戦争は全世界に拡大、日本、ドイツ、イタリアは枢軸国と呼ばれた。
日本は真珠湾攻撃の成功をスタートに、マレー沖海戦では航空機(一式陸上攻撃機)でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズを撃破、大艦巨砲主義(どんどんでかい戦艦を作れば戦争に勝てるという考え方)を終焉させ航空主兵論を台頭させた。
ちなみにこれを境にバトルシップの製造は減っていき、世界で最も巨大な戦艦は大和(64000トン)ということになった。
さらに日本軍は、香港、フィリピン、マレー半島といった欧米の植民地を次々に制圧(解放)し、南太平洋の一円を支配した。

翼賛選挙
このような日本の連戦連勝に日本国民は大熱狂、1942年4月に東条内閣が行った総選挙では、政府の援助を受けた推薦候補が国民の支持を集めて絶対多数を獲得した。
もちろん政府の援助を受けない候補者もいたが、彼らは警察や当局の干渉を受けた。
こうして憲法や議会政治は形骸化、議会は政府の提案に承認を与えるだけの機関に成り下がった。

ミッドウェー海戦
しかし日本軍は、八紘一宇の思想(天皇陛下を中心に世界がひとつになる考え方)や大東亜共栄圏の構想の下、戦線を拡大させすぎてしまう(勝って兜の緒を締めれなかった)。
当然、物資の補給も困難になり、1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカの海軍機動部隊に大敗北を喫した。
これにより日本側は主力空母4隻と、巡洋艦1隻、200機以上の艦載機を失ったが、軍部はこの事実を国民には知らせず、生き残った兵士を隔離した。
これ以降日本の戦況は悪化していく。

ガダルカナル島の戦い
1942年8月。
西太平洋の島であるガダルカナル島をめぐる日本軍とアメリカ軍の戦い。
日本はここに新しい飛行場を作る予定だったのだが、アメリカ軍に占領されてしまい、何が何でも奪還したかった。しかし日本軍は物資の不足と感染症(マラリア)などによって撤退を余儀なくされた。このようにアメリカに補給路を断たれてからの、南方の戦いでは戦死者よりも病気にかかって死ぬ兵士の数の方がずっと多かった。

サイパン島の戦い
1944年6~7月。この敗北により日本の絶対防衛圏の一角が崩壊、この責任を取って東条英機は内閣を総辞職した。その後は小磯国昭内閣ができるが、戦況は悪化する一方だった。

学徒出陣
1943年。戦況の悪化を受けて、文系の大学生や高等専門学校生を徴兵した。

勤労動員
学生や女性たちを軍需工場で働かせた。

学童疎開
陥落したサイパン島から、アメリカ軍の爆撃機が本土に襲来するようになったため、都市から田舎に子どもたちを避難させた。
『窓ぎわのトットちゃん』を思い出します。

総合切符制
戦争が始まり、物資は配給制になったのだが、戦況が悪化すると引換チケットがあっても物資がないという状態にまでなってしまった(もしくは質の悪い食料や衣料を買わされた)。この時の人々の摂取カロリーは1日あたり1793キロカロリー、第二次大戦に参戦した国の中でも極めて低かった。

ヤルタ会談
1945年2月。ヤルタとはクリミア半島にある都市。
連合国側のアメリカ、イギリス、ソ連が、ナチス政権の根絶など戦後処理を話し合った。
日本との戦争を早く終らせたいアメリカは、ソ連に対日参戦を要求、その代わりに千島列島と南樺太を日本から返還させることを認めた。
このようにヤルタ会談とは勝ち組三カ国の利害関係を調整する会議だった。

東京大空襲
戦況がどんなに不利になっても、日本は一億総玉砕の根性のもとに、なかなか戦争をやめなかった。
そこでアメリカ軍は日本人の戦意喪失を目的に、軍事施設から一般市民の住む市街地にターゲットを変えて爆撃することにした(ウォルト・ディズニーのアイディアらしい)。
1945年3月の東京大空襲では、300機のB29爆撃機が1700トンの焼夷弾を投下、たった一晩で10万人の人が焼き殺されてしまった。
『ちいちゃんのかげおくり』はおそらくこの出来事を描いた作品。

沖縄戦
1945年。日本軍は鎌倉時代の元寇を撃退した神風にあやかって、特別攻撃隊を組織、パイロットが飛行機ごと敵に突っ込む自爆体当たり攻撃で、なんとかアメリカ軍の沖縄上陸を阻止しようとしたが、3ヶ月に及ぶ攻防の末、ついに1945年の6月に沖縄本島は占領された。この責任を取って小磯内閣は退陣した。

鈴木貫太郎内閣
1945年4月に組閣。天皇の侍従長を務めていた人物で、その信頼は熱く、引退同然だった彼を総理大臣にするために説得したのは、ほかならぬ昭和天皇自身だった。
鈴木総理は「私の屍を越えていけ」と戦争続行を声高に叫んだが、これは軍部向けのポーズで、8月9日に長崎にその人口の半分以上(73000人)を一瞬で消滅させてしまった原子爆弾ファットマンが落とされると、鈴木総理は即座にポツダム宣言の受諾(連合国への無条件降伏)を決定、これに抵抗する軍部に対しては、天皇の聖断を仰ぐという切り札を使った。ちなみにこの時、過激派に暗殺されそうになっている。
暗殺で気づいた人もいるかもしれないけれど、鈴木貫太郎は二・二六事件で3発の銃弾を受けて死にかけた人物で、彼は子どもの頃にも魚釣りに行って溺れたり、海軍時代ではイカリごと海に落ちたりと、とにかく悪運の強い人だった。そのため死にぞこない貫太郎と呼ばれていた。なんにせよ彼が死にぞこなったおかげで、日本の誰もが止められなかった戦争は集結したのであった。

終戦記念日
1945年8月15日。昭和天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に告げた。
国民にとっては天皇陛下のお声を聞くのはこの時が初めてだったので、感無量になったという。しかし厳密には戦争が終わったのはもうちょっと後で、戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印が行われた9月2日が本当に戦争が終わった日である。
太平洋戦争では、日本だけでも230万人もの兵士、80万人もの一般市民が犠牲になった。
第二次世界大戦全体ではなんと4600万人以上の人が亡くなっている(内ユダヤ人が600~1100万人虐殺、国家として最大の犠牲を出したのはソ連で2000万人)。
この悲劇は、たとえ不愉快だろうが、トラウマになろうが、絶対に忘れちゃいけないと思う。

東久邇宮稔彦内閣(ひがしくにのみやなるひこないかく)
1945年8月。ポツダム宣言の受諾と同時に総辞職した鈴木貫太郎内閣に続いて発足。
東久邇宮稔彦は皇族だったが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策と対立し、わずか54日で総辞職。
これは歴代の総理大臣の中で最も在位期間が短い。三谷幸喜のドラマの『総理と呼ばないで』ではこの内閣の記録に負けないように、田村正和総理が頑張った。

幣原喜重郎内閣
1945年10月。
協調外交でアメリカに知られていた元外務大臣の幣原喜重郎の内閣。
GHQの指導のもと、占領政策が実施された。
その占領政策とは設計主義に基づいた福祉国家の建設で、ニューディール政策に関わったスタッフがアメリカでは実現できなかった大きな政府を実現させようとした。
具体的には以下のものがある。
①女性に参政権を与える
②労働組合結成を奨励
③教育制度の自由主義的改革
④秘密警察や治安維持法の廃止
⑤経済の民主化
⑥国家と神道を分離する神道指令
⑦戦犯容疑者にしない代わりの天皇の人間宣言
⑧財閥解体&独占禁止法の制定
⑨自作農を増やす農地改革


マッカーサー三原則
1946年2月。日本政府に新しい憲法草案を作らせたら明治憲法とほとんど変わっていなくて、呆れたGHQのマッカーサー元帥が直々に突きつけた要求。マッカーサーノートとも言う。
①天皇を元首とする
②戦争を放棄する
③封建制度を廃止する

これに基づいてアメリカ主導で草案(マッカーサー草案)が作られ、11月に日本国憲法は公布された(施行は翌年5月3日)。
ちなみに、自民党などは、この日本国憲法を“アメリカの押しつけ憲法”というが、アメリカ側は一枚上手で「だったら日本国民にこの憲法案の是非を問わせる用意がこちらにはある」と持ちかけたらしい。国民がどっちを選ぶかは明白でしょう?という。

 さて、古代からふりかえってきた日本の歴史もこれでおしまい。いや~長かった。特に古代は漢字の変換すらままならなかったからなあ。
 そして来月にはもっと漢字変換が鬼畜の中国史の試験がやってくるのであったゴゴゴ…
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