松尾友香先生のブログ

 「なんか生物学の面白いブログないかな~」ってネットをやってたら(最近はワードで小説書いているので夜はパソコンばっかしてます)、なんかめちゃくちゃオタクな雰囲気漂うブログを見つけて(スベスベマンジュウガニの単語にセンサーが反応)こやつ何者だ?と思ったら、管理人の人がどっかで見たことある顔で・・・プロフィールを見たら代ゼミの先生。

 あ・・・!この人の授業、予備校で受けたことある!
 
 この人すっごい優しそうな、お淑やかな女性の先生で「わたしは肌についてはとても詳しいので女性の方、お肌のお手入れとか興味あったらぜひ私に聞いてくださいね」とか微笑んでたけど、なぜか教室の空気がシーンとなっちゃったのは強く覚えている。(松尾先生可愛そうってw)
 
 で、私はこの人の優しさに付け込んで「なんだよ、オレこれくらいは知ってるよ」とタカをくくって即座にサボりだし、この人の授業は結局2回しか行かなかった。

 そして半年後。案の定「生物」を馬鹿にしたつけが回ってきた。

 得意科目のはずだった生物の成績がかなり落ちてしまって、結局自分自身で一から高校生物をおさらいし、二ヶ月くらいかかったかな?・・・でなんとか代ゼミ入塾時の状態にまで持ち直し、受験に突っ込んだ。

 つまり結局生物はなにもレベルアップしなかった。
 松尾先生の授業を馬鹿にしないでちゃんと受け続けていたら、もっと生物ができるようになっていたかもしれないが、当時の私は教育に燃えており、バイオ関係に行くつもりはなかったから、まあ・・・いいや。

 でもバイオ系に頑張って行ってもよかったかもしれないなあ。教育学部の美術に進学したこと自体に後悔はしてないけど。人生最大の恩師にも出会えたし。ただやっぱりオレは芸術語る奴ってすかしてて嫌いw。
 とにかく今の自分とは違った知識を大学で得たんだろうなってのは想像してて面白い。

 んで松尾先生のブログ今日からチェックしようと思ったら、今年の三月から更新が途絶えてて終焉を迎えた可能性が・・・(笑)

『純粋理性批判』について

 カントの三批判書第一弾。二度と読む気はないですw。

 ここでは佐倉統さんの『進化論の挑戦』の文庫版150ページの記述をまとめてカントが何が言いたかったか考えてみようと思います。

 まずカントはニュートン力学に強く影響を受け、数学や物理学における抽象的な理論の形式がなんで成立するんだろう?と考えたそうです。
 で、人間が数学や物理学を成り立たせているのは、我々人間が「直観的に時間と空間を認識できる力(直観形式)」と「そこに因果律を見出す思考の力(思考形式)」を持っているからであり、その二つの力によって、わたしたちの経験の形式が形作られているとカントは考えたようです。

 ここまでは昔の私も理解はできた。で、この二つの力こそが人間のどんな経験よりも先だって存在しているもの(アプリオリ)である!とか言いだしたあたりから私はついていけなくなった思い出がある。

 「直観形式」がアプリオリってのは百歩譲ってまあ分かる。もしかしたら先天的かもしれない。
 でも比較的高度な「思考形式」が経験に先立つってのが本当かよって気がする。なにかを認識し感じたりする経験によって形成されている気がするから。

 そしてもうひとつ。直観形式と思考形式はアプリオリであるがゆえに、その二つの力によって導き出された数学や物理の理論のような法則性には縛られない(アプリオリの不可知性)とカントは言った。
 ここがかなり難しい。どういうことだ?アプリオリな直観、思考形式は、自身が導いた法則性に本当に縛られないのか?本当に?わかんねえ。

 これは『進化論の挑戦』でも「後にコンラート・ローレンツも指摘した」と書かれているけど、たとえばアプリオリな思考形式によって導き出された「進化論」は、人間の思考形式を形成する「法則性」をかなり合理的に説明しているのではないか?

 おそらく天才カントもそんなことは薄々知っていたと思う。でも、とりあえず現在(18世紀)の科学の段階で「これだけは・・・」っていう“基準”を設けてみようよ。そしてそれをアプリオリ(前提)ってとりあえず仮定しておこうよ・・・ってのが本心だったかもしれない。
 よって人間の認識パターン”そのもの”について論じれるような段階に、カントの時代はまだ科学が成熟していなかったんだと思っています。

 結論:現在の認識科学の下地を作ったのがカント。

トゥームレイダー

 「面白い度☆ 好き度☆☆ アンジェリーナ・ジョリーのおっぱい×」

 20年以上生きてるしいい加減飽きたこういうの。

 とりあえず「トゥームレイダース」と言ったら私がプレイした中でもBEST10に入るほど難易度の高かったアクションゲーム。
 ま~ララ・クロフトが弱い弱い。すぐ死ぬ。パリの段差でも死ぬ。
 でもわたしこのゲーム大好きなんですよ。ストイックにやり込まないと絶対にクリア不可能なところが(洋ゲーってそんなところある)。
 そんな「トゥームレイダース」が実写映画化するって聞いてわたしは「見よう見よう」とは思っていたんだけど、なんか気分が乗らず、とうとう今日の今日まで見ていなかった。なんか面白そうに思えなかった。
 ゲームとそのままのこと(両足の大腿部にホルスターつけて二丁拳銃で敵を撃つところとか)を忠実に実写でやっているのが、予想以上に違和感を感じて「こんなやついねえよ現象」が発生してしまった・・・

 で、この映画やっぱりテレビゲームの方がいい。ゲームのストイックな世界観がまるでなくなって(エンターテイメント映画にしなきゃいけないから仕方ないけどさ)、ただの星の数ほどある大げさなアクション映画に・・・
 そこは忠実にやったら面白いと私は思ったけど『アデル ファラオと復活の秘薬』のように個性が強すぎる映画は一般受けしないから、これで最善だったと思う。あえてわがままを言わせてもらうなら・・・ってこと。

 この映画で新しいところと言えば、主人公が女性ってことなんだろうけど、あんな役男がやっても変わらない。ハリソン・フォードと同じことやってる。
 で、私は主人公が男だろうが女だろうが、一人の強い奴がたった一人でばったばったと膨大なザコ敵を倒すパワーバランスのおかしい「一騎当千的映画」が嫌い。
 「やっぱりこんなやついねえよ」になっちゃう。

 それにもう今の時代「女が男よりもヒーロー・・・!」って時代じゃなくね?映画の中では。もう確立されたよ充分。
 「女が男よりも強く逞しい映画をやるな」っていうわけじゃなくて、もう新しい方法じゃない。新左翼運動とかあったらしいけど、今は男女の共生でしょ?
 私も昔は「なんでヒロインは男に助けてもらってばっかなんだ、てめえらも自分で問題を何とかせい!」と思っていて、男を殴りとばせる強い女性に憧れたこともあったけど、『セーラームーン』とかが出てきちゃって、少なくとも漫画の世界ではそのジャンルは市民権得ちゃったし、女には女のもっと男にはない武器があると思う。そしてそれは昔から変わっていないと思う。
 だから若い世代のせいかもしれないけど、男にライバル意識を持って頑張る女性ってひいてしまう。それってあなたが一番性別を意識してるよねって。

 まあララ・クロフトは似てた。顔がブスなところが。アンジェリーナ・ジョリーって絶対いい感じで顔がブスだから抜擢されたよね。
 これがまた日本のゲーム「ファイナルファンタジー」などでは絶対に主人公の顔として採用されないような、ひどいブスな顔なんだ。でも、それがまたよかったりした。
 とはいえ私はこの映画のアンジェリーナ・ジョリーがあまり好きじゃない・・・なんかあいつ無駄にセクシャル的じゃねえ?
 この映画のアンジェリーナ・ジョリーってやたらノーブラ率が高く、オレ別にお前のおっぱいなんて興味ないのに、やたらセクシャル的振る舞いをするそのあざとさに腹が立った。
 大嫌いこんな女。

 ・・・あれなんでこの人に悪態ついてんだろう、ええと、「トゥームレイダース」ってプレイした人なら解ると思うけどすっごい静かなゲーム。
 ララがひとりぽっちでさびれた遺跡にいて、戦うのは大抵オオカミやクマ、トラといった動物たち。そしてティラノサウルス(なぜかペルーの遺跡にいるw)にリザードマンといった得体の知れない化け物ばかり(ヒトの敵もいるけど、動物の割合がかなり多い)。
 だから映画版でララが主に人と戦っている予告を見て「違わい!こんなのトゥームレイダースじゃないやい!」って観に行くのをやめたような気がする・・・

 しかしこの映画の筋って、もう『インディ・ジョーンズ』とか『ダヴィンチ・コード』とかみちゃうとなにも目新しいところなくて(それは勿論この映画のせいではない)、自分でも「こんなにアクションやってるんだから、もっとドキドキしていいじゃん!」って思うほど胸躍らず。もう自分も色々な映画を見たんだと思う。飽きた。
 実際『インディ・ジョーンズ クリスタルスカルの王国』が辛かったもん。「面白いとは思う」けど、内心楽しめていないあの感じ。

 最後に一言。『ソルト』は観に行かない。

子を虐待する親に思うこと

 神父様聞いてください。私は小さい頃金魚を飼っていました。

 最初は「可愛いなあ」と思っていたのが、連中水の中で口をパクパクさせてウンチをぶら下げているだけで、その単純な動作の繰り返しにすぐに飽きてしまい、水槽の水を取り換えたり、水槽を洗うのが本当に面倒くさくなってしまったんです。
 結局ろくに世話もせず、弱い金魚は死に、強くてでかい金魚は水槽についた藻などを食べて逞しく生き延びていた・・・その時愛のない私はどう思ったか?

 げっまだ生きてる・・・!みんな死んでほしかったのに。

 この私の中の冷徹な感情を知った時、私はペットを飼うことをやめてしまった。もっといえば少女漫画の「恋」だの「愛」だのも懐疑的になった。
 人間には結局愛じゃなくて、時に愛にもなり得るトレードオフの原理があるだけだと。

 だから私は「一目惚れ」が嫌い。信用してない。ああいう盲目的な恋や愛は結局遅かれ早かれ、金魚の愛と同じで冷めてしまう。
 だから20年以上誰とも付き合えない。中学生の頃は「いくら俺でも二十歳くらいには彼女いるだろ」と楽観していたができなかった(笑)。どうでもいい議論ばっかするから、女の子にモテないだけだけどね。正確にはどうでもいい議論をついしてしまう自分を知っているから、女の子には積極的にしゃべりかけずに黙っている。そしてほとんど会話せずに終わる。

 で、まあ盲目的な愛って結局のところ自己中心的なエゴイズムだから、長い間付き合う中で次第に双方の妥協点もさぐりあって、地道に二人っきりでもリラックスできる状況を形成していくしかない。この人といると安心する的空気。

 ちょっとした痴話げんかが破局に発展してるようじゃまだ駄目。喧嘩しても数時間後にはどっちも水に流していて忘れちゃうってのがいい。そんなネガティブなことを引きずらない適度に依存し、適度にサッパリした関係の方がいい。

 結局は人と継続して付き合っていきたいならば「感じるな。考えろ」ってことだと思う。
 で、子どもはそれができない。感じたまま行動する。そして金魚を最初は愛していたのに、最後は死んでくれればいいのに・・・と煩わしい重荷にしてしまう。

 私はこの前の児童虐待事件を起こした母親はそんな心理状況だったと思う。最初は自分の子を愛していたのは確かだろうけど、もう子育てが想像以上に(想像もしていなかったかもしれん)面倒くさくて、いい加減死んでくれ、と。

 自分の子供を金魚よわばりとは!って不快に思う人もいるかもしれない。でも私たちのような高等?動物、パンダやゾウ、霊長類・・・にとって育児放棄は珍しいことじゃない。
 意地でも自分の子を命がけで守る愛があるのはどう考えても、俺たちが低能と馬鹿にしている本能行動の連中。
 彼らだけが映画やドラマで描かれる「理想の愛」を実現しているのです。そんなに理想の母親像を強要するならカバキコマチグモに学べよ。産卵した母親は、生まれた子が最初に食べる餌として自分の体をささげちゃうんだから。

 子育ては面倒くさいのは仕方がない。人間は最初は「種族、遺伝子プール」の為に生きていて、ちょっと前までは「国家や社会」の為に生きていたけど、とうとう「自分=個人」の為に生きるようになってしまった。
 霊長類研究者の佐倉統さんが言ってるけど、自分の子供なんて遺伝子的には半分しか自分のコピーじゃないんだから、だったら100%自分の遺伝子を持つ自分(の意思)の方が大事に決まってる。

 でもいずれそんな大切な自分も死ぬから、往生際の悪い俺たちは子供を作って未来に自分の存在した痕跡を残そうとする。
 まあそんなこと託された子供もいい迷惑だろうけど、2、30年経ったらやっぱり子どもも同じことをやっている・・・

 つまり児童虐待や育児放棄は社会や共同体が崩壊した?今、新たなセーフティネットを作らないことには始まらない。
 もうどう考えても小学生に虐待の跡があったら、学校の先生は家庭のプライバシ―なんて関係無しで乗りこまなきゃいけないけど、そんなことしても子どもの心は癒えないのが辛い。体の傷は親から離せば癒えるんだけど・・・

 その子にとってはそんなしょうもない親がやっぱり自分の親で、その両親が例え虐待を自分に加えていたとしても、自分の親が逮捕されちゃってワイドショーで「この親は信じられねえ。人間の心が無い」とかコメンテーターに言われているのを見ると、やっぱり自分の存在を否定されているようで傷ついてしまう。

 ・・・でも、死んでしまうよりはいいのかな?自信を持って「いい」とは言えない。親が逮捕された。しかも自分に虐待をしていた、という現実を背負って生きていくのってどれだけ辛いのか分からないから。

 もう私たちは金魚(愛玩動物)の心理と、自分がこの世に存在した証を残すというプリミティブな感情以外に、子どもを無理して生むような必要性など感じていないのかもしれない・・・

対談 dario×ゴーダイ  “普遍”は存在するか?

 脚本に次ぐ、このブログの新しい試みです。

 dario氏とSkypeをやっていたら、お喋りがちょっとした議論になってしまい、これはけっこう面白いので「ブログの記事にさせて!」と編集してみました。
 ゴ=ゴーダイ、d=dario氏です。

 話はdario氏の「しょブログhttp://ameblo.jp/do-s2000/theme-10021197378.html」で「NHK ハーバード白熱教室」を取り上げていたことから始まります。実は私もこの番組の第三回だけ偶然見ていたんです。なんか変な番組がやってるぞ、と。

ゴ:NHK ハーバード白熱教室!オレも見た!

d:おおお。あれ録画してました いまでもたまにみるw

ゴ:カントがうんたらって言ってたなあ。教授のカントの解釈ってあれであってるのかな?(私はカントの「三批判書」は読み解くのを挫折した経験があります)

d:コミュニティに対してのなんらかの感謝をこめての行動はすべきだが、それははじめは義務でなく個人の選択だろうと考える。

生まれた赤ちゃんに祖国を思えや親に感謝しろは、感覚的にもおかしさを感じるのではないだろうか?

義務は個人の選択がありきでなりたつものであり、選択肢のない生まれた国や親に対しての義務はもともとなく、選択可能な人間になってからそれでもその選択をしているという時点で義務は生まれるものだと思う。

ゴ:その意見はクリティカルだね。「責任」ってのは社会的な契約だと思うから。一方的な強制は本来成り立たないはずだよね。

d:うんうん

ゴ:自分はおそらくあの番組の構造について分析するな。議論の内容でなくて、あの人の授業の仕方。

d:ああ、それは最終回で本人が言及してましたよ

ゴ:どういうこと?

d:なぜこの方法をとっているのか。アリストテレスの時代に 対話法?? ってのができたという始まりがあって・・・対話法でいいんでしたっけ?

ゴ:いいんじゃない?w(聞き役モード)・・・弁証法?

d:それかも。その方法はそのときに生まれたものであり、いまも続ける必要はないのだが私の授業はみてもらってもわかるとおり、その弁証法を行っているのである。

それは哲学において「普遍性」というのを常に考えているのだが、その普遍性は さまざまなひとの考えを そのときにいいと思えるものを選択していくことでしか作られず、波のように行ったり来たりするものなんじゃないか。

ゴ:ケースバイケースな柔軟なテーゼでしか結局実用性がないってこと?

d:そしてそれは過去のあるときと同様の答えをいましている。

ゴ:??↑ちょっと分からなくなってきたぞw・・・ああ歴史は繰り返してるってことか

d:弁証法も結局のところ「繰り返す」ことが普遍に近づく上で最善の方法という話。

ゴ:哲学という手段の目的化か

d:だから普遍といって 一択 になるのは誤りで多数があるから普遍をつくる という話になった

ゴ:あの白熱教授の普遍は本質主義ではないってことね。どっちかというと相対主義に近いね。

d:そうですね!それもあの人の 一部の考えにすぎないとは思いますが、あの授業では少なくともそう表現していました。

ゴ:しかしdario氏の「普遍的義務(国家や社会を成り立たせるために全ての国民が最低限守らなければいけないかなり拘束力が強いルール。刑法など)」という概念は面白い。これってオリジナル?

d: いや テレビででた言葉なんじゃないかな?

ゴ:使い勝手がいいな

d:番組では、普遍性があるものとしてスタートしているから、普遍的な義務という言葉がたぶんでていたんですが、普遍的な義務 はなんなのか は明確でなかったんです

ゴ:それで自分で定義した?

d:これやっていいと思う? いい?だめ? という比較だったのかな? テレビでは。自分はそれは「普遍」とは合致しないと考えていました。だから再定義したんです

ゴ:「普遍」という言葉の定義によるよね。リンゴが地面に落ちるのは、この番組の議論で言う「普遍」なのか?重力がどの物体にも働く力ならば普遍的法則は確かに存在するよね。では「普遍的な思想」はあるのか?

d:普遍的思想は現実にはないと思います。

ゴ:物理法則は普遍的だと俺は思う。で、思想はそういった物理法則じゃないよね。それは法則の上に成り立つ流動的なシステム。遺伝子プールとかと一緒。・・・では物理法則と思想の違いは?引力の法則と遺伝子浮動の違いは?

d:思想は人や場所、時で左右されるし、一過性だ。

ゴ:オレの答えは「適応性」があるかないか。生物になんで心や意識があるかって、自然環境に適応しないといけないから。

d:相手に合わせるんですね。

ゴ:よって普遍的法則は「ある」。その法則にある程度しばられながらも、自由に適応ができるんだと思う。人の観念や思想は物理法則を超えられないじゃん。イメージでリンゴ浮かせられないじゃん

だから「この世において普遍的なものは何か?」と考える時に、この二つの階層ををいっしょくたに議論しちゃダメってこと。答えが出ない。

d:うんうん

ゴ:だからようは生物学をやればいいんだwみんな。哲学の答えは生物学にあるもん。カントも実際科学者だし・・・

d:ほぉ。そうするとどうなるのだかわからないのですが、そのような二層構造をもうちっと詳しく

ゴ:物理法則の上に思想が乗っかっている構造をイメージして。その二つの層は論じるコンテキストのようなものが違う。ことなる定規を用いる必要がある。

d:うんうん

ゴ:下(物理法則)は、人の振る舞いを制限する基礎的なルール。上(思想)はそのルール内で好き勝手できる応用編。ボーナスステージ。

d:それを混同してるケースが見受けられるって先輩は思うわけですよね

ゴ:哲学の議論においてはね。リチャード・ドーキンスがそんな事言って哲学者をめちゃくちゃ怒らせたらしい。

d:fmfm

ゴ:つまりあの教授のテーゼである「普遍性はさまざまなひとの考えをその時その時でいいと思えるものを選択していくことでしか・・・」ってのは俺が思うに「適応行動」なだけの様な気がする。

あと、多数があるから普遍をつくるという話になった。ってこれはただの民主主義w

d:多数があるから普遍をつくるってとこなんですが、それはその選択の幅を増やすという意味で多数決ではないんです。

ゴ:多数というのは多数意見のことじゃないのか。つまり多数というよか多様性ってこと?

d:意見の多様性があるから、人はより普遍といえるようなバランスのとれた思考ができるというニュアンスですかね。その人にとってのバランスのいい選択でしかありません

ゴ:自分はもっと力関係がアンバランスだと思うなあ・・・

d:fmfm どういうことでしょうか

ゴ:ああ、dario氏は個人レベルの話をしてて、おれは集団レベルで論じてるのか。そもそも民主主義って全然平等じゃないよね。みんなの意見は平等に同じだけ社会に反映はされない。奴隷を納得させた奴隷制だと思ってるあれは。

自分は集団のシステム的な構造はインターネットに近いと思っていて、すごい周りを納得させられるカリスマ力のある少数派が、大多数の意見(世論)を操作、形成してしまうと思う。
賢い人と普通の人の集団に占める割合がとってもアンバランスだよね。ネットワークってなんにせよそんなアンバランスな形になっているらしい。

d:うんうん

ゴ:つまりdario氏ってけっこう個人主義というか・・・いやオレの方が現実では個人主義だよ!でも思想はdario氏の方が個人主義的じゃん。
でも「個人の自由意思」を最小単位で現在の民主主義的社会を見ると、理想的ないいイメージしか見えない。社会科学的に見ると、結局民主主義の中で民主主義のルールをしっかり理解し、遊び倒しているのはごく一握りの賢い人。

d:自分が強くでる人間は、民主主義だと理想の社会を感じるわけですね。自分の考えも採用されるから

ゴ:結局強く出る奴の影響を、かなりオレたちは無意識的に受けているんだ。だから自分の考え、自分の判断って思っていたものはサブリミナルマインドだらけで、それは果たして俺の考えなの??ってなる。

社会と全く切り離された個人はおそらく存在し得ないし。そこにわざとか知らないけど気付かなかったのが近代合理主義。

d:自分が自分の考えだとどれだけ思えるのかで十分意味を果たすのだと思います。少なくとも一般市民は。
参画している意識が大事で、その考え自体がサブリミナル的に作られてても別にいい。それでも社会に関わろうとしてるから、その個人は満足してるはず。

ゴ:普通の人はそこまで自分をメタ的に見ていないよってこと?じゃあ民主主義はすごいよ

d:そうなりますよねw

ゴ:超すごい、みんな納得の新興宗教だよ!

d:ある特定の人のサブリミナルマインドで栄えますよねw
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