外国史各論1(東洋史)覚え書き①

参考文献:王瑞来『中国史略』

歴史と歴史学の区別
歴史とは人類の過去にあった事項と行動を指し、客観的な事実である。
歴史学とは過去に起こったことを記録し解釈することで、記録者・研究者の主観的な理解や評価(史観)を含む。
しかしこの両者は不可分なもので、イタリアの哲学者クローチェは「すべての歴史は現代史である」と述べ、どの時代の歴史を記述しても必ず記述者の見解が入り込むことを論じている。そう言った意味で真に客観的歴史記述はありえない。
また歴史についての史料は広大な海のように多く(浩如煙海)、中国の歴史学は中国史と同様に長い歴史を持つ。殷の時代の甲骨文字には、すでに「史」という文字が残されている。

中国文化と日本文化の関係
稲作の導入、律令制度、漢字、儒教思想など、日本文化は中国文化に大きく影響を受けているが、それは「源」と「流」の関係ではなく、並行する川のようなものである。
中国と日本の文化は親戚のような関係があるが、結局はある種の異文化で、それぞれが独自の歴史的文脈のもとに形成されたことには注意する必要がある。

中国とは何か
実は中国とは国名ではない。
現在中国と呼ばれる国家は二つある。1949年に成立した中華人民共和国と1912年の中華民国であるが、そのどちらの憲法にも「中国」を自国の略称とするような記述、法的根拠はみつからない。
また歴史的根拠を見ても、いわゆる“中国”が「中国」という国名を冠したことは5千年の歴史の中でも一度もない。
それもそのはずで、中国の歴史には王朝があるだけで、国はない。国は王朝の下位の概念であり、国がなければ国名はないのだ。台湾の思想家である牟宗三(ぼうそうさん)は「中国とは一つの国家的単位ではなく、文化的単位であり、天下の観念はあったが、国家の観念はなかった」と述べている。
「中国」という言葉の出典で最も古いものは『詩経』(紀元前11~4世紀)で、「大雅」に「この中国をめぐみ、四方をやすんぜよ」という詩があり、考古物では1963年に出土した西周時代の青銅器に「中国」という言葉が確認されている。
付け加えるならば、中国とは「中心の国」といった純粋な地理的概念ではなく、また、「中央に君臨する国」といった中華思想を表す自慢の言い方でもない。“中国”の周囲に住む人が殷の支配する地域を「中」と見なしていたのである。なんにせよ「中国」とは過去においても現代においても具体的な国名ではなかったのである。

古代
※一般的には先史時代から~アヘン戦争までが古代中国とされるのですが、それだといくらなんでも長すぎるので(まじで4000年の歴史に)、日本の内藤湖南氏の学説に基づいて古代→中世→近世→近代→現代と、小分けにします。王瑞来先生のテキストではこういった日本史的な時代区分は設けられていません。

治水英雄伝説
司馬遷の『史記』によれば、中国の最古の王朝である夏(BC2000~1600?)は、黄河中流の治水に成功した禹王(うおう)によるものだという。
この王朝は長らく伝説だとされていたが、その存在を証明する発掘が相次ぎ、先史時代の中国に大規模な強制労働を実行させた国家権力が本当にあったということが分かっている。

禅譲
禅譲とは天子(天の命によって天下を治める君主)が、その地位を自分の血縁者ではない有徳な人物に譲ること。
古代中国の神話伝説では堯(ぎょう)が舜(しゅん)に、舜は禹王に禅譲を行なったと伝わっており、徳治政治を理想とする儒家思想が古代にもあったように思えるが、実際には譲られる側が天子に強制して禅譲を行わせていたことが多かった。

殷代青銅器の動物模様
青銅礼器のほとんどは動物の紋様で装飾されている。その多くは、頭があり体がない怪獣の饕餮(とうてつ)や、頭が一つで体が二つあるヘビの肥遺(ひい)、一本足の龍夔(き)、角を持つ龍の虬(きゅう)などの神話の動物がモチーフにされた。
礼器は、王室や貴族の権利と正統性を証明するレガリアであるとともに、人間の世界と、祖先や鬼神の世界を繋ぐアイテムだった。殷代では動物の骨で占いをしていたので、このような動物模様のついた青銅器も、人間と祖先・鬼神を結びつける役割があったと考えられる。

西周が中国文化の源とされる理由
中国史における政治、経済の改革は、そのほとんどが周代(BC1100~771)に起源を持つという。その理由は、西周が文献上における政治経済の諸制度が完備された初めての王朝だとされるからである。
西周の政治家の周公は、数いる聖人の中で、唯一系統的な法令制度(封建制度など)を作り、後世の王朝に政治的な規範を残した。中国の古代思想の源流もこの時代にあるとされ、儒家の始祖である孔子も周の政治を理想とした。

封建制の成立
中国史における封建制度の確立は紀元前1046年頃に起こった西周に見られる。周は西方から殷を滅ぼし、中国の広大な土地と多様な民族を統一支配したが、この全てを周の王一人が直接支配することは不可能であった。
最初の王である武王が死ぬと、幼い成王が即位。
こうして成王の叔父の周公が王を補佐する摂政期が始まると、周公は殷の残存勢力の反乱を防止するために、西周時代の首都「宗周」の東に「成周」を建て、反乱をしたことのある殷の民をそこにまとめて移して集中的にコントロールした。
また、殷の貴族で、周に親しい微子に殷の旧都である宗を封じ、武王の弟や自分の長男にも土地を与えて、殷の民族を分割統治させた。また、王や諸侯は、自分の家臣(卿・大夫・士)に対してもという領土を与え統治させた。
このような周の封建制は、あくまで宗族といった血縁関係に基礎を置き、ヨーロッパのような土地を媒介とした個人間の契約主従関係ではなかった。
また、祭政一致の神権政治ではなく、血縁関係によって広大な領土を支配した周の封建制度は、かつての王朝の殷と異なる政治体制であったと言えるが、宗法という先祖崇拝を重視した点などは、神権政治同様、宗教的な信仰が強かった古代ならではの手法であったと言える。
さて、諸侯は周王に軍役を誓い、貢ぎ物を捧げれば、封じられた土地の資源と収益を得て、自由に領地を支配することができた。このように地方分権的であった周の封建制度は、広大な領地に対する国家運営と防衛において大きな利点があったが、血縁関係を基準にした支配体制は、法律などの利害関係ではなく、血縁者間の信頼関係によって担保されていたので、その絆は当事者の意識の薄れによってたやすく破棄される危険性があった。
そこで周公は社会秩序を安定させるため、「制礼作楽」によって、上下関係を重んじた礼儀(礼)と、社会で共同することの大切さ(楽)を人々に強調する必要があった。これは、為政者自身が徳政を行い、天命を保つことにもつながった。

西周の崩壊
このような努力にもかかわらず、結局周の封建制度は崩壊の道をたどってしまう。地方の力は次第に強くなり、穆王(ぼくおう)の55年に及ぶ支配が終わると、王はめまぐるしく変わるようになり、周王朝は没落、各諸侯が覇権を争うようになってしまった。
王は反乱を抑えるため、自分をそしる人間はすぐに殺すなど、対策にあたったが、民の暴動で王が亡命するなど、社会は混乱した。
西周最後の王、幽王は妻とその子どもを廃し、寵愛する愛人褒姒(ほうじ。絶世の美女だったらしい)を后に立て、彼女の子に王位を継がせようとしたが、この時捨てられた太子の宜臼(ぎきゅう)に幽王は殺されてしまう。
こうして西周の歴史に終止符が打たれた。血縁関係によって統治された西周は、皮肉にもその血縁関係のトラブル(あと愛人)によって滅んだのである。
周王朝は、日本の封建制度における御家人などと違って、諸侯が支配する規模が都市国家並みに大きく、主君を裏切って独立がしやすかったことが、その崩壊の原因に考えられる。
また日本の封建制度は双務的契約を前提にしていたことから、幕府の恩賞が足りないという理由で御家人の不満が爆発して崩壊した。この点も日本と中国では事情が異なると言えるだろう。

秦が中国を統一できた要因
実践的な法家思想を取り入れたことが挙げられる。
法律が作られれば国内秩序が安定し、国家君主の力も強大なものになる。さらに全国を郡や県に分けて、そこに皇帝が任命した官吏を派遣する郡県制は、秦の中央集権化を促進し、中国の統一を成し遂げた。
また、秦は他国からの移民を受け入れ、個人の土地所有と、その売買を認め、農業を奨励している。
しかしこのような専制的な中央集権化は秦に滅ぼされた国の不満を買い、始皇帝が亡くなると各地で反乱が相次ぎ15年で秦は滅亡した。

シルクロードの開通
もともとシルクロードの開通には、匈奴(モンゴルの遊牧民)に悩む漢王朝の軍事的な目的があった。漢の武帝は匈奴を挟み撃ちにするために、トルキスタンの遊牧国家である大月氏と同盟を結ぶことを決める。そのため万里の長城の外の西域にある大月氏に使いを送った。
結局、距離が遠かったことから大月氏との同盟は実現しなかったが、この派遣によって西域の知識や情報が漢にもたらされ、喜んだ武帝は西域の開拓に乗り出した。このような経緯で作られたのがシルクロードである。
その後、シルクロードは中央アジア、西アジア、地中海まで伸びて、世界を繋ぐ交易路となった。
漢は、絹(シルク)、鉄器、製鉄や井戸掘りの技術を輸出、西域からは、ブドウ、ゴマ、ウマ、ラクダ、ガラスなどが輸入された。中国の製紙術、印刷術、火薬、仏教、キリスト教、イスラム教もこのシルクロードを経て伝わっている。

後漢政治の特徴
幼い皇帝を担ぐことによってその母親の皇太后が力を持ち、日本の平安時代のような外戚政治も見られた。
末期には、宦官(かんがん)が外戚を廃することに成功するが、彼らもまた幼帝を傀儡にして朝政を支配した。宦官とは外戚勢力を取り除くために去勢された王の家臣で、彼らが増えたのは皇太后が力を持ったのが原因であるが、その権力を増大させたのは初代の光武帝(劉秀)、彼らを積極的に登用したのは4代目の和帝であるとされる。
いずれにせよ根本的な原因は、光武帝の子孫がみんな短命で、幼くして死んでしまったことであろう。

三国志物語の歴史観
三国志と一口に言っても、「正史」と呼ばれる3世紀に陳寿によって書かれた歴史書『三国志』と、これを元に羅貫中によって書かれた14世紀の小説『三国志演義』は別物で、後者はあくまでも大衆をターゲットにした娯楽小説であり、そこで描かれる出来事(赤壁の戦いの描写など)や登場人物のキャラクターには大きな誇張がされている。中国の京劇における曹操は白い顔の奸雄、対する関羽は赤い顔の忠臣といった勧善懲悪のイメージがそれである。
このような作品が作られた背景には、当時の中国(明)が北方民族によって攻められていたことから、三国時代に北を治めていた魏を悪、南の蜀を善にすることで、国民の士気を高める意図があったのではないか、とも考えられるが、実際の制作意図はよくわからない。
とはいえ、仮に蜀に過剰に肩入れしたフィクションでも、三国志の時代に興味を持つきっかけとしては有効であるし、14世紀に生きていた作者の歴史観も伺えることから、それを文化史の観点からメタ的に研究することもできるだろう。
例えば、作中描かれる大義名分の重要性や、正統王朝である蜀(漢)と簒奪王朝である魏は相反する要素であり決して両立しないという考え方「漢賊は両立せず」は、現代の中国にも(一つの中国問題など)大きな影響を与えていると言える。
さて、三国志には魏呉蜀という三つの国が覇権を争い、魅力的なキャラクターがたくさん登場するが、ここではメインキャラクターを取り上げる。

劉備
まず主人公である、蜀の建国者、劉備。巧みな策を練り自軍を勝利に導く切れ者、正義の英雄として描かれるが、実際の劉備は戦が下手で、裏切りを繰り返す冷徹な人物だったらしい。
彼の生まれた家は良い家柄ではなく、それを象徴するように作中では自分が編んだ草履を家族と売り歩くシーンがある。豊臣秀吉を彷彿とさせる劉備の立身出世ぶりは多くの読者の心を掴んだに違いない。

曹操
次に魏の奸雄、曹操。作中では、曹操が漢の皇帝にとって代わり、その強大な力とヒールぶりを読者に印象づけるが、これは事実とは異なる。曹操にそのような野心がなかったとまでは言えないが、実際の曹操は権謀に優れた人物で、軍事的、政治的配慮によってこれを実行には移さなかった。
また、曹操は後漢からの慣習であった家柄を重視する官吏登用ではなく、あくまでもその人物の能力のみに基づいた合理的な人事を行なったり、孫子の兵法の注釈書を執筆したりもしている、従来の枠には収まらない多才な人物であった。

諸葛孔明
3人目は、三国志きっての切れ者キャラと知られる諸葛亮孔明。自身のイメージ戦略に優れ、劉備の信頼を勝ち取った彼は、劉備亡き後の蜀漢を率いて領土拡大を図った。作中では天才軍師と描かれるが、彼の得意とする分野は軍事ではなく内政だったらしい。
公正かつ公平な法の執行を試み民を治めるずば抜けた才能があった孔明は、その公明正大さがコンゲームが繰り広げられる戦場では逆にネックになり、大きな成果を上げられなかったのかもしれない。

孫権
最後に呉を率いる孫権である。赤壁の戦いは彼が画策し、小が大に制した三国志演義の大きな見せ場になっているが、孫権は他の王と異なり自国を拡大する野望が無かった。しかし彼が三国時代の君主の中でもっとも長生きしたことは興味深い。

三国時代の三大戦役
順にまとめる。
官渡(かんと)の戦いは、後漢の実権を握った曹操が、黄河北岸の一大勢力の袁紹(えんしょう)と戦った戦役。袁紹の戦力は曹操の十倍で、曹操は兵糧切れギリギリまで追い詰められるが、袁紹陣営の許攸(きょきゅう)の裏切りによって、相手の兵糧を襲撃することに成功、逆に袁紹軍を兵糧切れに追い込み、大逆転勝利を果たした。これにより曹操は華北地帯の実権を握った。
赤壁の戦いは、映画化もされた最も有名な戦いで、曹操と孫権・劉備連合軍が長江をはさんで戦った戦役。曹操は連合軍の火攻めによって水軍を失った。
夷陵(いりょう)の戦いは、赤壁の戦いで曹操を退けた孫権(呉)と劉備(蜀)が衝突した戦いで、三国の鼎立(ていりつ)を確立させた。この戦いで敗れた劉備は程なくして亡くなり、その実権は諸葛孔明に委ねられることになった。

昭和覚え書き

昭和の概要(1926年~1989年)
すまん、この流れだと、昭和も昭和時代になるんだろうけど、昭和時代という言い方に抵抗がある昭和生まれなのであった。昭和時代って言うと一時代が終わった感があるしね。おそらく平成生まれは抵抗ないんだろうな。だから若い子にとっては、ここらへんの時代が一番盲点で知らなかったりすることが多い。
・・・あ、概要か。日本が戦った最後の戦争(アジア太平洋戦争)の時代。敗戦という経験は、日米関係、沖縄基地問題、日中・日韓関係、歴史認識問題などといった現代の社会問題に大きなジレンマを与えている。ここまで時代が来ると現代に生きる我々も他人事じゃないのだ。ちなみに戦後史については政治経済の記事を参照。

昭和天皇
歴代天皇の中で最も在位期間が長く(昭和は64年まで)、最も長生きをした天皇(87歳)。
メガネがチャームポイントのインテリ派の天皇で、鈴木貫太郎の奥さん(たか)が子どもの頃の教育係を務めている。
国家の命運をかけた総力戦及び敗戦という大変な時期に、現人神として数々の決断をすることになったが、戦後になると焼け野原になった各地を巡幸するなど、国民と積極的に関わり、ウィットに富んだゆる~い返しをする好々爺として愛された。しかしアメリカの大統領で初めて天皇に謁見したフォード大統領は、そのオーラに足の震えが止まらなかったという。
口癖は、高い声で「あ、そう」。尊敬する人物は源義経で、趣味はゴルフ、お気に入りはミッキーマウスの腕時計。

金融恐慌
1927年。昭和になってさっそく起きた恐慌。
高岡直温(かたおかなおはる)大蔵大臣が、東京渡辺銀行が破綻したという誤報を流してしまい、これを知った国民が経営状態の悪い銀行が破綻する前に自分の預金を引き出そうと殺到して起こった。

第1次若槻礼次郎内閣
金融恐慌を沈静化するために総合商社(鈴木商店)に融資を行い、経営難に陥った台湾銀行を救済しようとしたが、この緊急勅令は若槻内閣の協調路線に反対していた枢密院の同意が得られず実現しなかった。
これにより金融恐慌は放置され、責任を取って若槻内閣は退陣した。

田中義一内閣
1927年発足。立憲政友会の田中義一の内閣。
久しぶりに登場したけど、おさらいすると田中義一は日露戦争の時にレーニン同志などと裏工作をした軍人・・・まあ言ってみればスパイ。

田中義一内閣の政策①金融恐慌の沈静化
預金者への支払いを3週間遅らせることができるモラトリアムを各銀行に認めた。
この恐慌によって三井、三菱、住友などの5大銀行に預金の集中が進み、金融界は5大銀行に支配されるようになる。

田中義一内閣の政策②社会主義運動への対応
1928年の総選挙で当選者を出した、社会主義や共産主義といった無産政党は公然と活動を開始、これを受けて田中内閣は共産党員を一斉検挙し、日本労働組合評議会などを解散させた(三・一五事件)。
また同じ年に治安維持法を改正し、最高刑を死刑または無期刑と引き上げた。道府県警にも特別高等課を設置し、思想犯の取り締りを強化した。
田中内閣は1929年にも大規模な共産党員の検挙を行い(四・一六事件)、これにより日本共産党は大打撃を受けた。

田中義一内閣の政策③中国への強硬政策
蒋介石率いる国民革命軍は北方軍閥(当時の中国で互いに覇権を争っていた軍事勢力のこと)を倒すために各地方の制圧(北伐)に乗り出した。
これに対して、田中内閣は北方軍閥で満州の帝王と呼ばれた張作霖を支援しようと、1927~28年に3回にわたる山東出兵を行った。

張作霖爆殺事件
国民革命軍に敗北した張作霖を、1928年に関東軍の一部が無断で列車ごと爆破してしまった事件。
この事件の真相は国民には明かされず、満州某重大事件と濁した表現で呼ばれた。
ここでいう関東軍とは、関東庁(旧関東都督府)の陸軍部が独立してできた組織。
この関東軍の暴走に田中義一は厳しい処分ができなかったため、昭和天皇は不快感を示し、田中内閣は総辞職した。関東軍はその後、大陸進出の急先鋒となった。
ちなみに、その語感が好きなのかビートたけしさんがよく言いたがる。

浜口雄幸内閣
1929年。立憲民政党で大蔵官僚出身の浜口雄幸の内閣。
立派なヒゲと鋭い眼差しが、まさに百獣の王の風格だったのでライオン宰相と呼ばれ、国民に親しまれた。
裏工作などには頼らない実直な性格の人物で「信念のもとに正道を進まん」と述べ、とにかく正義感が強かった。
ちなみに浜口雄幸はこの時59歳。初の明治生まれの総理大臣だった(それまで江戸生まれだったのか)。

浜口雄幸内閣の政策①金解禁
大蔵省出身の浜口雄幸は、前日銀総裁の井上準之助を、党内の批判をはねのけて大蔵大臣に起用し、緊縮財政によって物価を引き下げるとともに、産業の合理化を図り国際競争力を強化させようとした。
また1930年に、為替相場を安定させるために、輸入品の代金支払いに金の輸出を認める金解禁(=金本位制の復帰)を行なった。

浜口雄幸内閣の政策②昭和恐慌への対応
しかし悲劇は起こった。
金輸出解禁の前年の1929年にニューヨークの株式が暴落、世界的な恐慌が起こり、これにより日本では昭和恐慌が発生、輸出よりも輸入が増え大量の金が国外へ流出、企業の倒産が相次ぎ、失業者が増大したのである。
一部の失業者は農村に戻ったが、農村でも農作物の価格が暴落、豊作貧乏が起こっていた。
しかも1931年には東北で大凶作が発生(農業恐慌)、食事が十分に取れない欠食児童や、身売りを余儀なくされる女子がたくさん出た。
これに対応すべく、浜口内閣は1931年に重要産業統制法を制定、各種産業部門のカルテルの結成を認めた。
しかし昭和恐慌は収まらなかった。その原因の一つが、金輸出の再禁止を見越した、財閥の円売りとドル買いで(円高時には円を手放して一気にドルを買い、その後円安になった時にドルを円に替えることで、莫大な利益を獲得する)、1930年1月からの半年で2億円以上に当たる金が流出、財閥に対して非難の声が上がった。

浜口雄幸内閣の政策③協調外交の復活
戦争でイギリスやアメリカには絶対勝てないことを知っていた浜口雄幸は、協調路線の幣原喜重郎外務大臣を再起用し、中国への強硬政策を改めさせた。
1930年には中国の関税自主権を条件付きで認める日中関税協定や、各国海軍の補助艦保有率を定め、ワシントン海軍軍縮条約で決められた主力艦建造の禁止をさらにあと5年延長するロンドン海軍軍縮条約に調印した。
ロンドン海軍軍縮条約では、日本が要求していた大型巡洋艦の対米7割保有は認められなかったため、野党の立憲政友会や海軍、右翼は天皇の統帥権の干犯であるとして、海軍の反対を押し切ってロンドン海軍軍縮条約を結んだ浜口内閣を批判した。

浜口雄幸狙撃事件
1930年。浜口雄幸が東京駅で右翼の青年の凶弾に倒れた事件。
犯人は犯行理由として、浜口雄幸が天皇陛下の統帥権を侵したことを挙げたが、統帥権の干犯がそもそもどういう意味なのかは理解していなかった。そういうもんなんだよな。
その後、重傷を負った浜口総理に代わって、外務大臣の幣原喜重郎が臨時総理を務めたが、立憲政友会の犬養毅に「あんたじゃ話にならない」といなされて大苦戦、これを受けて浜口総理は再び国会に帰ってくるが、その無理がたたって1931年に亡くなってしまった。
百獣の王ライオンですら戦争への道は止められなかったのだ。

血盟団事件
1932年にライオン宰相の相棒のタカ、井上準之助が「一人一殺」を掲げた右翼の過激派血盟団の凶弾に倒れたテロ事件。彼ら血盟団に暗殺された要人には、三井財閥総裁の團琢磨もいた。ちなみに大学で私に美術史を教えてくれた先生は、この人のひ孫に当たる。

滿蒙の危機
1928年の末、張作霖の息子の張学良は、蒋介石の国民政府と合流し、北伐は完了、国民政府は中国をほぼ統一した。
この事態に対し、日本が持つ満州の権益が危ないと感じた関東軍は、柳条湖で南満州鉄道の線路を自分で爆破しておきながら、中国軍の仕業だとでっち上げるという柳条湖事件を起こし、これを理由に満州各地に進軍を開始した(満州事変)。
これをきっかけに日本では国家主義が高まり、国家による社会主義運動の弾圧は強化、社会主義者は転向(自分の思想を放棄すること)を余儀なくされた。
さらに社会主義や共産主義以外にも、自由主義、民主主義的な思想にも圧力が加えられるようになった。
1933年には自由主義的刑法学説を唱えた瀧川幸辰(たきがわゆきとき)京都大学教授が休職処分になる滝川事件も起きている。

新興財閥
満州事変以後、軍部と結びついて急成長した新しい財閥。
日産コンツェルンや日窒コンツェルン、理研コンツェルンがそれで、軍需や重化学工業の分野で活躍した。

石原莞爾
関東軍作戦参謀。柳条湖事件や満州事変を敢行した、帝国陸軍きってのエリート。
機関銃を飛行機に取り付けるといったアイディアを出すなど極めて頭が切れる上に、上官すら無能だったら罵倒する異端児キャラだった彼は、同僚の東条英機を「憲兵隊しか動かせない意気地なし」「あいつは子どもの頃からバカ(これはホント)」と徹底的に見下したので、1937年から始まった日中戦争では当たり前だけど東条英機と対立、閑職に左遷される。
彼は軍事思想家としても活躍し、『世界最終戦争論』では、やがて東洋最強の大日本帝国と、西洋最強のアメリカ合衆国が、世界最強をかけて決勝戦を行ない、その時には都市が丸ごと消滅する最終兵器が登場するだろうと論じた。まあ実際そんなようなことは起きたけど。ちなみにこのようなハルマゲドンによって戦争そのものが絶滅し、その後は普遍的な世界平和が訪れるとも予言している。できればこっちも実現して欲しい。

第2次若槻礼次郎内閣
1931年。満州事変はよくないぞと不拡大の方針を打ち出したが、満州事変が世論やマスコミの支持を受けていたこともあり、軍部に同調した内務大臣らは若槻総理に造反、閣内不一致となり退陣を余儀なくされた。
実際、軍部は内閣の方針を無視して中国国民党と衝突している(上海事変)。

犬養毅内閣
1931年。立憲政友会の重鎮で(当時77歳)憲政の神様と呼ばれた犬養毅の内閣。
元老の西園寺公望が昭和天皇に、中国との独自のパイプを持つ彼を推薦して実現した。
ちなみに犬養毅は、慶應義塾で福沢諭吉に学んだ元新聞記者で、報道の自由を掲げる彼は、通信大臣時代にNHKを設立している。
また、かつてから満洲国の建国には強く反対しており、あんなものを作ったのは日本の恥と言っていた。ペンが剣よりも強いことを理解していた犬養毅は、自分一人では軍部と戦うのは無理でも国民世論が味方につけば、戦争への道は食い止められると考えていた。しかしその国民は、犬養の予想以上に全体主義や軍国主義に惹かれてしまっていたのであった。

犬養毅内閣の政策①金輸出再禁止
大蔵大臣の高橋是清元総理が断行、円の金兌換を停止(管理通貨制度へ移行)した。
これにより円相場は下落、恐慌下で合理化を進めた諸産業は輸出を拡大、昭和恐慌から脱却するきっかけができた。

犬養毅内閣の政策②中国との直接交渉
孫文と友達だった犬養毅は、関東軍の進撃を抑えて中国と直接交渉を行うことで、各国からの批判をかわそうとした。
しかし中国との交渉中の1932年に関東軍が勝手に満洲を占領、清王朝のラストエンペラーである溥儀を執政(王というよりは首長レベルの役職)にして満州国を作ってしまった。
この一連の行動に対し中国は国際連盟に提訴、アメリカはこの訴えを認めて、満州国の建国宣言を不承認とした。
また国連の理事会は事実関係の確認のために、満州と日中両国にリットン調査団を派遣した。リットンはイギリス人の元インド提督。

五・一五事件
1932年。
帝都暗黒化(東京大停電)を目論んだ海軍の青年将校たちが、警視庁や首相官邸を襲撃した事件。
青年将校たちは、犬養総理暗殺を実行する前に「犬養毅はタヌキ親父でコミュ力がすごいから、論理で丸め込まれる前に撃ち殺すように」と確認し合っていた。
これにより加藤高明内閣以来8年間続いた日本の政党政治は終わりを告げた。

斎藤実内閣(さいとうまことないかく)
1932年。斎藤実は穏健派の海軍の大将で、こちらも元老の西園寺公望が推薦した。
斎藤内閣は、官僚や政党からも閣僚を出す挙国一致内閣だった。
同年9月には、満州とその権益を承認する日満議定書を取り交わした。また同時に出された秘密文書では、満州国の政府に日本人の役人を採用することが決められていた。

国際連盟からの脱退
リットン調査団は、満州国は日本の傀儡政権であるという結論を国連に報告した。
この調査結果を元に、国連は日本に対して満州国の承認を撤回させようとしたが、日本政府は松岡洋右(まつおかようすけ)全権に対し、この撤回要求を拒否させた。
1933年2月、松岡全権は国連の議場を退席、その翌月には正式に国際連盟からの脱退を通告した。こうして2年後の1935年に日本は国際連盟から脱退した。

塘沽停戦協定(たんくーていせんきょうてい)
1933年5月。
黄河作戦を仕掛けた日本と、北京まで進行されてはたまらないと考えた国民政府との間で結ばれた軍事停戦協定。
これによって満州事変は一応集結、盧溝橋事件まではとりあえず平和が続いた。
塘沽は天津近郊の地名。

岡田啓介内閣
1934年。海軍穏健派の岡田総理は、満州国を溥儀を皇帝とする帝国へ移行させるとともに、満州の経営と開発に着手した。これによって満州国は事実上の日本の植民地になった。
この時(1936年)、関東軍の板垣征四郎と共に満州の開発を行ったのが、昭和の妖怪の岸信介(当時40歳)である。
岡田総理は軍部の圧力に屈する形で、天皇機関説を否定する国体明徴声明を出した。これにより政党政治は大きな理論的支柱を失った。

二・二六事件
1936年。陸軍皇道派(右翼の思想的影響を受けた若手将校を中心にした派閥)に官邸を襲撃された岡田啓介が、東京中を逃げ回った軍事クーデター。
この時殺害された人物には、斎藤実、高橋是清などの元総理大臣や、陸軍統制派の中心人物だった渡辺錠太郎教育総監、岡田総理の義理の弟、また重傷を負った人物には、侍従長の鈴木貫太郎がいる。
さて、1400人ほどの兵を率いた青年将校たちは、国会などの主要機関を4日間にわたって占拠、首都には戒厳令が敷かれて岡田内閣は崩壊したが、この事態に最も強い憤りを覚えたのは、皮肉にも彼らが尊敬する昭和天皇だった。
自分が信頼する人々を次々に殺されてしまった天皇は、陸軍の統制派(財閥や官僚と結びついた東条英機ら幕僚将校が中心の派閥。皇道派と対立していた)に彼らの厳罰を指示、反乱軍として鎮圧させた。これによって、陸軍内では統制派が主導権を握ることになり、軍の権威は向上、対する政治家の権威は失墜した。マスコミも軍部主導の国内改革を盛んに喧伝した。

広田弘毅内閣
1936年。軍の要求を受けて組織された内閣。
1936年にロンドン海軍軍縮条約とワシントン海軍軍縮条約がともに失効し、国際的に孤立した日本政府は、陸海軍の帝国国防方針に基づいて国策の基準を発表した。
国策の基準では、対ソ連戦を想定した北進論(陸軍が主張)と、南洋諸島及び東南アジアへの進出を想定した南進論(海軍が主張)の両方が採用された。
広田内閣は、戦艦大和や武蔵の建造など、大規模な軍備拡張計画を推進しようとしたが、それに反対する政党の批判や、国内改革が不徹底だという軍部の批判を受けて1937年の1月に総辞職をした。
そんな彼は、過激派に戦闘機で自宅を機銃掃射されるほどの平和主義者だったのだが、日独防共協定、日独伊三国防共協定(こちらは近衛内閣外相時代)に調印したことから、戦後、連合軍にA級戦犯にされ、東京裁判で死刑判決を受けてしまった。
ちなみに最愛の女性と恋愛結婚をした、家族を愛するマイホームパパとしても有名。

林銑十郎内閣(はやしせんじゅうろうないかく)
1937年。軍縮で名を上げた総理候補の宇垣一成が、陸軍の支持を得られず組閣することができなかったために陸軍大将の彼に白羽の矢が立った。
大軍拡のための重要産業を育成するために、軍財抱合(軍と財界の連携)を試みたがうまくいかず、短命に終わった。

第1次近衛文麿内閣
1937年。国民や軍部、元老から広く支持を受けた、貴族院議長の近衛文麿の挙国一致内閣。
内閣直属の機関である企画院を設置し、臨時資金調整法や輸出入品等臨時措置法などを制定、軍需産業に資金や輸入資材を集中させた。このような経済統制によって台頭したのが経済官僚だった。
彼らは軍部と結びついて強力な国防国家を建設しようとした。
国家主導の軍需の拡大は、国策に協力する大企業が莫大な利益を上げた一方で、一般人には増税を強いることになった。また浜口内閣が危惧した、多額の赤字国債、紙幣乱発によるインフレーションも発生した。
近衛内閣はさらに、国民精神総動員運動(国家主義と軍国主義を掲げた上で、節約や貯金など国民の戦争への協力を促す)や、国家総動員法(議会の承認なしで戦争に必要な物資や労働力を動員できる)、軍需工業動員法、電力国家管理法なども制定。
国家の戦争遂行のためにはなんでもアリになった。こういうのを全体主義と言い、戦争に否定的な人はみんな共産主義者にされ逮捕されてしまった。
第1次近衛内閣はドイツからソ連、イギリス、フランスを仮想敵国にする軍事同盟を持ちかけられたが態度を保留した。

西安事件
国民政府の張学良が、中国共産党を攻撃したい蒋介石を西安の郊外に監禁した上で、内戦はやめてともに日本と戦おうと中国共産党に持ちかけた事件。
これにより国民党と中国共産党は手を組み、抗日民族統一戦線結成のきっかけができた。

盧溝橋事件
1937年7月。日中戦争の引き金として知られる発砲事件。
日中両軍の衝突は一旦は収まったものの、近衛内閣は軍部の圧力に屈して、兵力を増派、戦線を拡大したので日中戦争が勃発した。当時の日本政府は、この戦争を北支事変とか支那事変と呼び、局地の戦闘扱いにした。
日本軍の戦法ってだいたい宣戦布告なしの奇襲攻撃が多いんだけれど、これは宣戦布告すると“戦争状態”になってしまい、となると中立法をとるアメリカから弾薬が輸入できなくなってしまうからである(アメリカは戦争状態の国に武器を輸出しない立場をとっていた)。

第2次国共合作
9月。国民党と共産党が抗日民族統一戦線の成立を宣言した。
日本軍は国民政府の首都の南京を陥落させたが、国民政府は漢口・重慶と退きながら徹底抗戦をした。いわくつきの南京30万人大虐殺もこの時起きている。
こうして戦況は泥沼化、平沼内閣はドイツの中国駐在大使のトラウトマンに仲介を依頼するなど、和平工作も試みるが、結局失敗、1938年1月の近衛内閣の声明(国民政府は相手とせず)によって和平交渉の可能性を自ら潰してしまった。
さらに11月には「日中戦争の目的は日・満・華が連帯する新しい秩序の建設である」という東亜新秩序声明を出した。この背景にはヨーロッパ各国が危機的状況に陥り、極東地域に構っていられなくなったことが挙げられる。つまり、イギリスが中国への支援の手を緩めたことろで中国へ一気に攻勢をかけようとしたのだ。

汪兆銘(おうちょうめい)
中国国民政府の要人で1940年に日本の傀儡政権の首班になった。
南京に作られたこの新国民政府は弱く、一方の中国国民政府はイギリスやアメリカから援蒋ルートによって援助を受け続け、日本と戦った。

平沼騏一郎内閣
1939年1月。国家総動員法に基づく国民徴用令米穀配給統制法(米の集荷を政府が統制するために一元化した法律)を出した。
東大卒のエリート官僚出身の平沼総理は各方面から受けが悪く、近衛内閣の路線を継承するに終わった。ドイツと手を組む決断を曖昧にしたのも一緒だった。

阿部信行内閣
1939年8月。阿部信行は予備役の陸軍大将。
この頃になると、ついにドイツは隣国ポーランドを侵攻、第二次世界大戦が勃発したが、阿部内閣は第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
一方の陸軍は、アメリカによって日米通商航海条約を破棄されたことをきっかけに、ならば優勢のドイツと手を組み、それを足がかりに南方のアジアの植民地をまとめて開放してしまおうという大東亜共栄圏構想を打ち出した。
それはまあ建前で、本音は南方の資源、戦争に必要な石油やゴムやボーキサイトの獲得が狙いだった。
実際、この頃の国内経済はかなり逼迫しており、「贅沢は敵だ」というスローガンとともに価格等統制令が出されている。
しかしアジア版EU的な大東亜共栄圏の建設は、アメリカやイギリスとの戦争を覚悟することでもあった。

米内光政内閣(よないみつまさないかく)
1940年1月。米内光政は海軍大将。
海軍では良識派として知られ、猛進撃を続けるドイツのヒトラーと日本が手を組むことを憂慮した昭和天皇の推薦を受けて総理になる。
彼もドイツとの軍事同盟締結には消極的で、阿部内閣同様、第二次世界大戦には不介入の方針を取った。
また、米内内閣の頃には七・七禁令(贅沢禁止令)が出された。これにより宝石や象牙、銀製品といった贅沢品の販売や製造が禁止された。これは戦争によって莫大な利益を得た軍需成金に対する市民の不満を抑える目的があった。

第2次近衛文麿内閣
1940年。
内閣情報局を設置し、出版物、演劇、ラジオ、映画など全てのマスメディアを戦争のプロパガンダに利用した。
また大日本産業報国会を作り、労使一体で国策に協力させた。これによって日本のすべての労働組合は解散させられた。
ドイツ軍は、この年の4月にデンマークとノルウェー、5月にはオランダを奇襲した。
飛行機と戦車を駆使した電撃的な奇襲作戦は強力で、6月にはとうとうフランスのパリが陥落、こうして1940年時点で、ヨーロッパでナチスドイツと戦っていた国はイギリス一国になってしまった。
このような状況の中、第2次近衛内閣はドイツ、イタリア、ソ連との連携を強化する方針を打ち出すと共に、イギリスやアメリカの援蒋ルートを断ち切るために南進を決めた。
1940年9月、日本はドイツに降伏したフランスの植民地のインドシナ北部へ進出(北部仏印進駐)、時を同じくしてアメリカは鉄の対日輸出を禁止するという経済制裁を加えた。
10月には、全国の国民の戦意発揚を掲げる指導的組織である大政翼賛会が発足、翌年になると小学校が国民学校になり国家主義的教育が推進された。
また朝鮮や台湾では、日本語教育や創氏改名をはじめとする皇民化政策が取られ、そのため台湾のお年寄りには日本語が上手にしゃべれる人がいる。

日ソ中立条約
1941年4月。
南進を進めるためには北方が手薄になるため、その安全を確保するために結んだ。
またアメリカを牽制する狙いもあった。なんだかんだ言ってソ連は大国だから。

日米交渉
しかし近衛総理はアメリカとの戦争は絶対に回避しようと日米交渉も開始していた。
しかし1941年6月、イギリスへの上陸を諦めたドイツが(レーダーを用いた対空防衛システムが厄介だった)、独ソ不可侵条約を突如破ってソ連に侵攻、無謀な両面作戦を開始してしまった。これに日ソ中立条約を結んだばかりの日本は態度を決め兼ねた。
そこで天皇も出席する大本営政府連絡会議である御前会議が開かれ、その結果軍部の強い主張のもと北進と南進を同時に進めることが決まった。
しかし近衛総理はまだ日米交渉を続けていた。1941年7月には、強硬派の外交官松岡洋右(国連脱退、日独伊三国同盟、日ソ中立条約などに関与)を除外するために一度総辞職もしている。

第3次近衛文麿内閣
第2次近衛内閣総辞職直後に結成。
1941年7月、日本軍はインドシナの南部に進出(南部仏印進駐)、これに対してアメリカは対日石油輸出の禁止を決定、さらに在米日本資産の凍結と、イギリス、中国、オランダとともにABCD包囲網という経済封鎖を行った。
日本は石油が産出しないので、一時間に400トンもの油を食う軍艦を抱える海軍にとっては重大な死活問題となった。
9月6日の御前会議では、日米交渉の期限を10月上旬にし、交渉失敗の場合は戦争に踏み切ることが決定されたが、10月に入っても日米交渉はなかなか進展せず、総辞職になった。

東条英機内閣
東条英機はもともと陸軍大臣で、このままでは暴走しかねない陸軍参謀本部を何とかするために、内大臣(天皇の補佐)の木戸幸一によって大抜擢された(今までは元老が首相の選任権を握っていたが、最後の元老だった西園寺公望は1940年に亡くなっている)。
日中戦争では、自身の兵団を率いた稲妻作戦で、関東軍始まって以来の猛進撃を実現させカミソリ東条と称えられた。
ちなみに東条英機は自分を褒める部下をとにかく可愛がった。小さい頃から成績が悪かった東条は、努力一筋で総理大臣まで上り詰めたので、色々とコンプレックスがあったのかもしれない。
さて、1941年11月、アメリカのハル国務長官から突きつけられた提案(ハル=ノート)は、中国とインドシナからの無条件撤退、満州国の汪兆銘政権の否認、日独伊三国同盟の破棄という、日本を満州事変以前の状態に戻すような内容で、これまでの戦争ですでに10万人の犠牲者を出していた陸軍が飲めるものでは到底なかった。
こうして12月1日の御前会議で、日本は米英開戦を最終決定した。
そして一連の情報はアメリカの暗号解読機によって筒抜けだった。日本はすでに情報戦で敗北していたのである。
昭和天皇から戦争の回避を任された東条総理は無念のあまり泣いたという。

太平洋戦争
1941年12月8日。
日本は日米交渉の打ち切りをアメリカとイギリスに通告し、宣戦布告をした。
しかし、日本海軍はその前日の7日の朝に「ニイタカヤマノボレ」「トラトラトラ」の暗号電文の下、ハワイの真珠湾に奇襲攻撃を仕掛けていた。
こうして、これまで一貫して戦争反対の立場だったアメリカは「真珠湾を忘れない」を合言葉に日本との戦いを決意した。
ちなみに、アメリカ海軍は日本軍がサイパンを通って南側から攻めてくると思っていたので、空母を南太平洋や大西洋に回していたのだが、なんと南雲司令長官率いる日本軍は択捉島の方から赤城や加賀などの空母6隻で襲ってきたので大パニック。「これは演習ではない」とラウドスピーカーで呼びかけたのも手遅れで、大打撃を受けた(逆に言えばアメリカは大切な空母を守れたとも言えるが)。
アメリカ西海岸に住む12万人以上の日系人は強制収容所に送られた。
日本の言い分としては駐米外交官の不手際によって、日米交渉の打ち切りが真珠湾攻撃までに間に合わなかったそうだが、駆け引きや裏工作が繰り広げられる非常時ということもあって、その真相はわからない(アメリカはすでに情報を傍受していたという話もある)。
なんにせよ、この時に撃破された戦艦アリゾナは今なお真珠湾に沈んでおり、当時のアメリカ人の怒りと悲しみを伝えている。

マレー沖海戦
日本がアメリカに宣戦したことで、ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告、これにより戦争は全世界に拡大、日本、ドイツ、イタリアは枢軸国と呼ばれた。
日本は真珠湾攻撃の成功をスタートに、マレー沖海戦では航空機(一式陸上攻撃機)でイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズを撃破、大艦巨砲主義(どんどんでかい戦艦を作れば戦争に勝てるという考え方)を終焉させ航空主兵論を台頭させた。
ちなみにこれを境にバトルシップの製造は減っていき、世界で最も巨大な戦艦は大和(64000トン)ということになった。
さらに日本軍は、香港、フィリピン、マレー半島といった欧米の植民地を次々に制圧(解放)し、南太平洋の一円を支配した。

翼賛選挙
このような日本の連戦連勝に日本国民は大熱狂、1942年4月に東条内閣が行った総選挙では、政府の援助を受けた推薦候補が国民の支持を集めて絶対多数を獲得した。
もちろん政府の援助を受けない候補者もいたが、彼らは警察や当局の干渉を受けた。
こうして憲法や議会政治は形骸化、議会は政府の提案に承認を与えるだけの機関に成り下がった。

ミッドウェー海戦
しかし日本軍は、八紘一宇の思想(天皇陛下を中心に世界がひとつになる考え方)や大東亜共栄圏の構想の下、戦線を拡大させすぎてしまう(勝って兜の緒を締めれなかった)。
当然、物資の補給も困難になり、1942年6月のミッドウェー海戦ではアメリカの海軍機動部隊に大敗北を喫した。
これにより日本側は主力空母4隻と、巡洋艦1隻、200機以上の艦載機を失ったが、軍部はこの事実を国民には知らせず、生き残った兵士を隔離した。
これ以降日本の戦況は悪化していく。

ガダルカナル島の戦い
1942年8月。
西太平洋の島であるガダルカナル島をめぐる日本軍とアメリカ軍の戦い。
日本はここに新しい飛行場を作る予定だったのだが、アメリカ軍に占領されてしまい、何が何でも奪還したかった。しかし日本軍は物資の不足と感染症(マラリア)などによって撤退を余儀なくされた。このようにアメリカに補給路を断たれてからの、南方の戦いでは戦死者よりも病気にかかって死ぬ兵士の数の方がずっと多かった。

サイパン島の戦い
1944年6~7月。この敗北により日本の絶対防衛圏の一角が崩壊、この責任を取って東条英機は内閣を総辞職した。その後は小磯国昭内閣ができるが、戦況は悪化する一方だった。

学徒出陣
1943年。戦況の悪化を受けて、文系の大学生や高等専門学校生を徴兵した。

勤労動員
学生や女性たちを軍需工場で働かせた。

学童疎開
陥落したサイパン島から、アメリカ軍の爆撃機が本土に襲来するようになったため、都市から田舎に子どもたちを避難させた。
『窓ぎわのトットちゃん』を思い出します。

総合切符制
戦争が始まり、物資は配給制になったのだが、戦況が悪化すると引換チケットがあっても物資がないという状態にまでなってしまった(もしくは質の悪い食料や衣料を買わされた)。この時の人々の摂取カロリーは1日あたり1793キロカロリー、第二次大戦に参戦した国の中でも極めて低かった。

ヤルタ会談
1945年2月。ヤルタとはクリミア半島にある都市。
連合国側のアメリカ、イギリス、ソ連が、ナチス政権の根絶など戦後処理を話し合った。
日本との戦争を早く終らせたいアメリカは、ソ連に対日参戦を要求、その代わりに千島列島と南樺太を日本から返還させることを認めた。
このようにヤルタ会談とは勝ち組三カ国の利害関係を調整する会議だった。

東京大空襲
戦況がどんなに不利になっても、日本は一億総玉砕の根性のもとに、なかなか戦争をやめなかった。
そこでアメリカ軍は日本人の戦意喪失を目的に、軍事施設から一般市民の住む市街地にターゲットを変えて爆撃することにした(ウォルト・ディズニーのアイディアらしい)。
1945年3月の東京大空襲では、300機のB29爆撃機が1700トンの焼夷弾を投下、たった一晩で10万人の人が焼き殺されてしまった。
『ちいちゃんのかげおくり』はおそらくこの出来事を描いた作品。

沖縄戦
1945年。日本軍は鎌倉時代の元寇を撃退した神風にあやかって、特別攻撃隊を組織、パイロットが飛行機ごと敵に突っ込む自爆体当たり攻撃で、なんとかアメリカ軍の沖縄上陸を阻止しようとしたが、3ヶ月に及ぶ攻防の末、ついに1945年の6月に沖縄本島は占領された。この責任を取って小磯内閣は退陣した。

鈴木貫太郎内閣
1945年4月に組閣。天皇の侍従長を務めていた人物で、その信頼は熱く、引退同然だった彼を総理大臣にするために説得したのは、ほかならぬ昭和天皇自身だった。
鈴木総理は「私の屍を越えていけ」と戦争続行を声高に叫んだが、これは軍部向けのポーズで、8月9日に長崎にその人口の半分以上(73000人)を一瞬で消滅させてしまった原子爆弾ファットマンが落とされると、鈴木総理は即座にポツダム宣言の受諾(連合国への無条件降伏)を決定、これに抵抗する軍部に対しては、天皇の聖断を仰ぐという切り札を使った。ちなみにこの時、過激派に暗殺されそうになっている。
暗殺で気づいた人もいるかもしれないけれど、鈴木貫太郎は二・二六事件で3発の銃弾を受けて死にかけた人物で、彼は子どもの頃にも魚釣りに行って溺れたり、海軍時代ではイカリごと海に落ちたりと、とにかく悪運の強い人だった。そのため死にぞこない貫太郎と呼ばれていた。なんにせよ彼が死にぞこなったおかげで、日本の誰もが止められなかった戦争は集結したのであった。

終戦記念日
1945年8月15日。昭和天皇はラジオ放送で戦争終結を国民に告げた。
国民にとっては天皇陛下のお声を聞くのはこの時が初めてだったので、感無量になったという。しかし厳密には戦争が終わったのはもうちょっと後で、戦艦ミズーリ号で降伏文書への調印が行われた9月2日が本当に戦争が終わった日である。
太平洋戦争では、日本だけでも230万人もの兵士、80万人もの一般市民が犠牲になった。
第二次世界大戦全体ではなんと4600万人以上の人が亡くなっている(内ユダヤ人が600~1100万人虐殺、国家として最大の犠牲を出したのはソ連で2000万人)。
この悲劇は、たとえ不愉快だろうが、トラウマになろうが、絶対に忘れちゃいけないと思う。

東久邇宮稔彦内閣(ひがしくにのみやなるひこないかく)
1945年8月。ポツダム宣言の受諾と同時に総辞職した鈴木貫太郎内閣に続いて発足。
東久邇宮稔彦は皇族だったが、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策と対立し、わずか54日で総辞職。
これは歴代の総理大臣の中で最も在位期間が短い。三谷幸喜のドラマの『総理と呼ばないで』ではこの内閣の記録に負けないように、田村正和総理が頑張った。

幣原喜重郎内閣
1945年10月。
協調外交でアメリカに知られていた元外務大臣の幣原喜重郎の内閣。
GHQの指導のもと、占領政策が実施された。
その占領政策とは設計主義に基づいた福祉国家の建設で、ニューディール政策に関わったスタッフがアメリカでは実現できなかった大きな政府を実現させようとした。
具体的には以下のものがある。
①女性に参政権を与える
②労働組合結成を奨励
③教育制度の自由主義的改革
④秘密警察や治安維持法の廃止
⑤経済の民主化
⑥国家と神道を分離する神道指令
⑦戦犯容疑者にしない代わりの天皇の人間宣言
⑧財閥解体&独占禁止法の制定
⑨自作農を増やす農地改革


マッカーサー三原則
1946年2月。日本政府に新しい憲法草案を作らせたら明治憲法とほとんど変わっていなくて、呆れたGHQのマッカーサー元帥が直々に突きつけた要求。マッカーサーノートとも言う。
①天皇を元首とする
②戦争を放棄する
③封建制度を廃止する

これに基づいてアメリカ主導で草案(マッカーサー草案)が作られ、11月に日本国憲法は公布された(施行は翌年5月3日)。
ちなみに、自民党などは、この日本国憲法を“アメリカの押しつけ憲法”というが、アメリカ側は一枚上手で「だったら日本国民にこの憲法案の是非を問わせる用意がこちらにはある」と持ちかけたらしい。国民がどっちを選ぶかは明白でしょう?という。

 さて、古代からふりかえってきた日本の歴史もこれでおしまい。いや~長かった。特に古代は漢字の変換すらままならなかったからなあ。
 そして来月にはもっと漢字変換が鬼畜の中国史の試験がやってくるのであったゴゴゴ…

大正時代覚え書き

大正時代の概要(1912年~1926年)
明治天皇が崩御し、大正天皇が1912年7月に即位したことで始まる。
大正デモクラシーをはじめとする社会運動や、普通選挙の実施、マスメディアや大衆文化の発達など、今日の現代社会にも通じるような、いわゆる「大正ロマン」の時代。
また、ヨーロッパ全土を焦土と化した第一次世界大戦は、日本に大戦景気をもたらしたが、戦争が終わるとすぐに株式市場が暴落(戦後恐慌)、さらにダメ押しで関東大震災も起こり、結局社会は混乱した。ちなみに大正時代は15年しかない。

大正天皇
1912年7月に、明治天皇の崩御を受けて即位する。
抽象概念(理系科目)が苦手で、病気を理由に学習院大学を中退しているが、文系科目は得意だったらしく漢詩を作ることが趣味だった。
苦手な政務を無理をして行ったために病気が悪化、47歳の若さで崩御した。
ちなみに大正天皇は、学校に行くときにカバンを背負ったのだが、これがランドセルの原型になったという説がある。

孫文
中国の革命家で、もともとは医者。なんと三国志に登場する呉の孫権の子孫。
革命三段階理論や三民主義の考えのもと、中国を(最終的に)民主主義の国にしようとしたが、その思想には一貫性がなく、国の財産を勝手に抵当に入れたり、清王朝を内部崩壊させるためとは言え軍閥(袁世凱)と手を組んだりと、研究者によってかなり評価が割れている人物。逆に考えれば、それだけ柔軟な思考や決断が出来る人だったのかもしれない。短気だったらしいけどね。
ちなみに犬養毅と仲良しで、これが五・一五事件が起きた原因の一つにもなっている。

辛亥革命
1911~1912年。
孫文先生が清王朝を倒した中国の民主主義革命。
これにより中国初の共和国である中華民国ができ、臨時大統領には孫文が就任したが、その後すぐに清の大統領で軍人の袁世凱にバトンタッチした(孫文は一ヶ月ちょっとしか大統領をやってない)。
10月10日に始まったのでダブルテン革命と呼ばれる。
またジャッキー・チェンは辛亥革命を題材にした『1911』という映画を撮っている。
ちなみにジャッキーが演じたのは孫文の相棒の黄興(こうこう)。

第2次西園寺内閣
日本の陸軍は辛亥革命や朝鮮の抗日運動を受けて、朝鮮に駐屯させる2個師団の増設を要求したが、緊縮財政をとる西園寺内閣はこれを拒否。
そもそも日露戦争は、外国から借金をして戦った上に賠償金が出なかったため、日本の国家財政は逼迫、これ以上軍備を増強する余裕はなかったのだ。
国民も陸軍を非難し、西園寺内閣を支持したため、へそを曲げた陸軍大臣は大正天皇に辞表を提出、しかも後任の陸軍大臣を指名しなかった。
これにより陸軍大臣がいなくなり内閣が作れなくなってしまった西園寺内閣は総辞職に追い込まれてしまった。
このように明治憲法下では、内閣総理大臣の権限が今よりも弱く(同輩内の主席。閣僚任免権は総理にはなく天皇にあった)、軍部大臣現役武官制を利用してストライキ的なことをすればすぐに内閣が潰れたため、軍隊の政治介入は容易であった。

第3次桂内閣
1912年。陸軍と長州藩閥の長老であった桂太郎がまたまた総理になった。
しかし、打倒藩閥政治を掲げていた立憲国民党の犬養毅や、護憲運動の草分け的存在である立憲政友会の尾崎行雄といった野党からの反撃を受け、わずか62日で退陣した。これを大正政変という。

第1次護憲運動
「閥族打破・憲政擁護」を掲げる運動。
桂太郎総理は当時、天皇の侍従長と内大臣も兼任していたため、内閣と宮中の区別が曖昧になり、これは軍と藩閥の横暴を許すものだと、議会勢力に批判されたのだ。
この運動は、犬養毅や尾崎行雄ら野党勢力や、全国の商工業者、民衆などに広まり、憲政擁護大会には2万人が集まった。

第1次山本権兵衛内閣
1913年。大正政変の原因になった軍部大臣現役武官制を改正し、軍部大臣の資格を現役以外の予備役・後備役(現役を退いた兵士)まで広げた。
また文官任用令も改正し、政党員に高級官僚になる道を開いた。
つまり山県有朋内閣の政策を修正し、官僚や軍部に対する政党の影響力を拡大させた。
これにより野党や民衆の不満を抑えようとしたが、海軍高官の汚職事件(ジーメンス事件)が起こり1年ちょっとで退陣を余儀なくされる。
ちなみにジーメンスとはドイツの会社ジーメンス=シュッケルト社(今もあるコングロマリット)のことで、造船会社ヴィッカース社に発注した巡洋艦金剛の仲介をしていた。多分ロッキード事件的なものだと思う。

第2次大隈内閣
1914年。政界激震の汚職事件が発覚し、山県有朋ら元老たちは緊急事態として、政界を引退していた当時76歳の大隈重信を再び担ぎ出した。
大隈重信が総理の椅子に座るのはなんと16年ぶり。
第2次大隈内閣は、長州閥や陸軍の支援を受け、1913年に65歳で亡くなった桂太郎(立憲同志会)の跡を継いだ。

第一次世界大戦
1914~1918年までの4年間続いた。
ドイツ、オーストリアなど4カ国の同盟軍VSロシア、フランス、イギリス、アメリカ、イタリア、日本など27カ国の連合軍の戦い。
ヨーロッパ全土で繰り広げられた、機関銃、毒ガス兵器、戦車、飛行機、潜水艦、塹壕戦なんでもアリの総力戦で「アイウォンチュー」でお馴染みのアメリカ陸軍兵士募集ポスターもこの頃印刷されている。
第一次世界大戦が始まると、国内ではこれをチャンスにして中国に進出しちゃえという雰囲気になり、1915年の総選挙では与党の立憲同志会が圧勝する。
こうして大隈内閣は議会で陸軍の2個師団増設案を通したが、これは国民負担軽減を掲げる内閣の方針とは大きく矛盾したものだった。
さて、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告をした日本は、その軍事行動の範囲についてイギリスの合意を得ないまま戦争に突入、ドイツの権益だった青島と山東省を接収し、赤道より北のドイツ領の南洋諸島を占領した。

二十一ヶ条の要求
日本が中国の袁世凱に突きつけたひどい要求。主な内容は以下の5つ。
①山東省のドイツ権益の継承
②南満洲と東部内蒙古の権益の強化
③旅順・大連、南満州鉄道の租借権を99年延長(長え)
④日中合弁事業の承認
⑤中国政府の顧問に日本人を採用すること

日本は戦争をちらつかせて、この21個の要求のうち⑤以外のほとんどを認めさせた。
当然中国国内では日本に対する反感が高まり、これを受け入れた5月9日は国恥記念日となった。
ただ、長い交渉と修正の末、中国側もこの日本の“希望”におおむね同意していたらしく(中国側から提案されたものもあった)、袁世凱はこの条約に同意してから日本に一方的に要求を突きつけられたと海外にアピール、これに日系移民を排斥したいアメリカが「日本はひどい」と同調したという説がある。

第4次日露協約
1916年。中国での権益拡大への列強の批判を抑えるために結んだ。
極東における権益をロシアと相互に擁護しているわけだから、中国の利益拡大に列強各国は文句を言うなというロジックだったらしい。

寺内正毅内閣
1916年。戦時中の超然内閣。
前大隈内閣の与党各派は、合同で憲政会を作ってこれに対抗しようとしたが、寺内内閣は1917年に衆議院を解散、その後の総選挙で寺内内閣を支えた立憲政友会が第一党になった。
寺内正毅は頭がとんがっていて目がつり上がっていて、通天閣のアレにそっくりだったのでビリケン宰相と呼ばれた。ビリケン宰相は、藩閥と官僚だけで組閣したため、非立憲内閣・・・ヒリッケン内閣・・・ビリケン内閣と言うわけ。
ちなみにビリケンさんはもともとアメリカの芸術家プリッツが作った像。

西原借款
寺内内閣は、1916年からの3年間にわたって、袁世凱の跡を継いだ段祺瑞(だんきずい)に総額1億5000万円ものお金を貸した。西原とは寺内総理の私設公使、西原亀三のこと。
これにより中国での権益拡大を狙った。

石井・ランシング協定
特命大使石井菊次郎がワシントンでアメリカの国務長官ランシングと結んだ協定で、日本の権益拡大に批判的だったアメリカを牽制した。

ロシア革命
1917年。レーニン同志がニコライ2世を退位させロマノフ王朝を滅ぼした。
これによりソビエト社会主義共和国連邦が誕生。ちなみにソビエトとは「会議」という意味。

シベリア出兵
1918年にソ連は第一次世界大戦から離脱、世界初の社会主義国を警戒した列強国はロシア革命に干渉を始めた。
日本も連合軍の主力となってシベリアに兵を送り込んだが、イギリス、フランス、アメリカが引き上げる中、日本だけが第一次世界大戦が終わっても兵を引き上げなかったため(1922年まで出兵してた)、国内外から批判を受けた。

大戦景気
第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパへの軍需品供給とアジアやアメリカへの製品(主に織物)輸出で日本は大儲け、1914年時点で11億円あった日本の借金は吹き飛び、1920年には日本は逆に27億円以上の債権を持つようになっていた。
特に躍進したのが海運業と造船業で、第一次世界大戦で不足した船舶を供給し続けた日本はアメリカ、イギリスに次ぐ世界三位の海運国になった。この時現れた金持ちは船成金と呼ばれた。
この他にも、ドイツからの薬品や化学肥料の輸入が途絶えたことで発達した化学工業や、大規模な水力発電事業を中心とした電力業も躍進した。
その一方で大戦景気は、物価を高騰させたため民衆の生活は苦しかった。

米騒動
重工業の発展に伴い農業従事者は減り、1918年のシベリア出兵では米の需要が上がると見越した投資家が米を投機的に買い占め、米の価格が高騰した。
またこの頃の農家は、麦やヒエではなく白米を食べていたので米の需要自体もそもそも高かった。
これに対して富山県の漁村では、奥様方が船への米の積み込みを妨害し、米屋に押しかけるという、富山の女一揆が起こり、これが全国に波及、時の寺内内閣は適切な対応を取れずに軍隊を出動させ、責任を取って総辞職した。

原敬内閣
マダムの力を思い知った元老たちは、農村を支持基盤にする立憲政友会の原敬を首相にした。彼は爵位を持たなかったことから、平民宰相と呼ばれ(でも家系自体は盛岡の上級武士)、国民からの期待度は高かったが、普通選挙法の実施を「時期尚早である」と見送り、選挙権の納税資格を3円以上に引き下げただけだった。
これにより原敬内閣の人気は急落したが、衆議院を解散した後、鉄道の拡充や高等学校の増設などを公約に掲げると、人気が回復、解散総選挙で圧勝した。
しかし原敬内閣は、大戦景気の終焉と1920年の戦後恐慌によって財政難に陥り、大きな成果を上げる前に東京駅で政治腐敗(立憲政友会の汚職事件)に怒った駅員に暗殺されてしまう。
これに大きなショックを受けたのが、意外にも軍閥の重鎮の山県有朋で、程なくして彼も後を追うように亡くなってしまった。
ちなみに原敬内閣は日本初の本格的な政党内閣と呼ばれている。つまり衆議院の第一党の総裁が組閣し、陸軍、海軍、外務大臣以外のすべての閣僚が立憲政友会の党員で構成されていたのである。

14ヶ条の原則
1918年。「平和は勝利なき平和でなければならない」と語ったアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンがドイツに提案した原則で、これまで乱発された秘密外交の廃止や、民族自決などを定めた。この民族自決の精神は東ヨーロッパの多くの国を独立させることになった。
なんにせよこれをドイツが受け入れたことで第一次世界大戦は終わった。
短期間で終わると思っていた戦争は「落ち葉が散る頃までには」「クリスマスまでには」・・・と結局どんどん長引き、全世界で6300万人もの兵士が動員され、990万人もの犠牲者が出てしまった。この死者数は過去100年のすべての戦争で亡くなった死者数の合計をはるかに超えるものだったという。

パリ講和会議
1919年。ヴェルサイユ条約が調印され、これに基づく新秩序をヴェルサイユ体制という。
日本は、山東省のドイツの権益の継承と、赤道より北の旧ドイツ領南洋諸島の統治権を獲得した。アメリカはこれに反対したが、ヴェルサイユ条約自体には調印している。

国際連盟
ウィルソン大統領の呼びかけで、国際連盟もこの時に発足した。日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国になった。
しかし国際連盟結成を呼びかけた当のアメリカが、モンロー主義を掲げる上院議会の反対によって加盟できず、またソ連も加盟しなかったので、影響力はそこまで大きくなかった。
モンロー主義とはアメリカはヨーロッパ情勢に首を突っ込まないよという考え。

人種差別撤廃案
パリ講和会議で日本が出した世界初の人種差別撤廃法案。
国際連盟が白人ばかりで占められてしまうのは人種差別だと主張したが、移民排斥を展開していたアメリカ上院やイギリス、オーストラリアの猛反対にあって廃案にされた。

三・一独立運動(万歳事件)
朝鮮の独立を求める大衆運動。
その背景にはロシア革命の成功や、ウィルソンの民族自決思想、日本による併合を最後まで拒んだ大韓帝国初代皇帝高宗の死などがあった。
3月1日にソウルで行われた独立宣言書の朗読会(&万歳)がきっかけだった為にこう呼ばれる。この運動の中心になったのは東学党やキリスト教徒、仏教徒などの宗教勢力で、中国のナショナリズム(五・四運動)に影響を与えた。
日本は朝鮮総督府を通じて弾圧をするが、その一方で朝鮮総督の資格を文官まで拡大したり、憲兵警察を廃止、言論、出版、集会の自由を認めるなどをして、朝鮮の民衆に譲歩、国際社会からの批判をかわそうとした。
また日本のマスコミはこの運動を「朝鮮で起こった暴動」と伝えたが、吉野作造や石橋湛山は一定の理解を示している。

五・四運動
1919年。ヴェルサイユ条約に不満を持つ中国が山東省の返還を求めた運動。
5月4日の北京の学生による街頭運動がきっかけだった為にこう呼ばれる。
中国はヴェルサイユ条約には調印していない。
ちなみに、この時の学生や労働者によるデモ行進やゼネスト(全国的なストライキ)、ボイコットなどが中国共産党に高く評価されている。

ワシントン会議
1921年。アメリカの呼びかけで行われた、戦争の再発防止と列強国の協調を目指す国際会議。日本からは加藤友三郎と幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が派遣された。
加藤は軍縮関連の交渉を、幣原はそれ以外の交渉を担当した。
アメリカの狙いはこの会議によって日本の膨張を抑えることだった。

四カ国条約
1921年。日本、イギリス、フランス、アメリカで結ばれた条約。
太平洋諸島を現状維持し、太平洋で起きた紛争は話し合いで解決することが決められた。
この締結に伴って、日英同盟は破棄された。
日英同盟破棄の背景には、日本とイギリス両国のロシアに対する脅威が低下したことが挙げられるが、アメリカの思惑もあった。アメリカにとっては世界最強の軍隊を持つイギリスが日本と手を組んでいる状況は、たいへん都合が悪かったのである。
実際この条約は日英同盟を破棄さえできればよかったので、国際法としては全く役に立たないものだった。

九カ国条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ベルギー、ポルトガル、オランダ、中国で結ばれた条約。
各国が持つ中国の領土と主権を尊重し、中国の経済的な門戸開放と機会均等を確認した。
これにより石井・ランシング協定は破棄され、日本は中国に山東省を返還した。

ワシントン海軍軍縮条約
1922年。日本、イギリス、フランス、アメリカ、イタリアで結ばれた条約。
今後10年間、主力艦の建造をやめ、その保有量を制限するという内容。
これにより日本の主力艦保有率はアメリカとイギリスの6割ということにされた。
これは日本を封じ込めるとともに、莫大な軍艦建造費に悩む各国の負担を軽減する目的があった。ちなみに当時日本は国家予算の半分を軍事費に使っていたが、この条約によりたった5年で27%にまで下がった。

ワシントン体制
四カ国条約、九カ国条約、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする体制。
中国の主権を尊重するとか言っておきながら、中国が結ばされた不平等条約や、中国に駐留する各国の軍隊はそのままだった。

高橋是清内閣
1921年。暗殺された原敬の跡を次ぐ形で任命される。
恰幅のいい総理大臣で、バランスのとれた政治を行ったことからダルマ宰相と呼ばれていた。
彼は7回も大蔵大臣を経験した財政のプロで1億円以上の歳出抑制に成功、国家財政を立て直した。

幣原外交
高橋是清内閣はワシントン体制を受け入れ、協調外交路線をしばらくの間とることにした。また、その後の加藤友三郎内閣、第2次山本権兵衛内閣も同じ路線をとった。
この一連の協調路線は、外務大臣を務めた幣原喜重郎に因んで幣原外交と呼ばれている。

大正デモクラシー
日露戦争のあとから大正時代末まで起きた民主主義的な一連の運動。
護憲運動、普通選挙運動、労働運動、社会主義運動など。
天皇機関説と民本主義が思想的バックボーンになった。
ちなみに民主主義を求める風潮は日本だけでなく世界的なものだった。
世界各国が悲惨な戦争にはもうウンザリしていたのである。

天皇機関説
憲法学者の美濃部達吉が提唱。
天皇は国家の最高機関だが、その統治権の行使は憲法に基づくという考え方。
言ってみれば立憲君主制で、となると天皇の統治権に対して立法機関である議会が制限を加えられるという解釈も成り立つので、1935年に軍部を中心に波紋が起きた(天皇機関説事件)。

民本主義
政治学者の吉野作造が提唱。
ぶっちゃけ民主主義(デモクラシー)と一緒なんだけど、一字変更している。
これは民“主”って言っちゃうと国家の主権者が国民になってしまい、大日本帝国憲法の天皇主権と矛盾してしまうからである。
なんにせよ天皇は日本国の主権者ではあるけれど、国民の意向を重視すべきだという考え方で、もっと具体的に言うと普通選挙制度を実施しようぜってこと。
吉野作造は1918年に思想啓蒙団体の黎明会を結成し、平和と協調を訴えた。
この影響を受けた学生たちは東大新人会などの思想団体を作り、労働運動や農民運動と連携を深めた。

戦後恐慌
第一次世界大戦による大戦景気は戦争とともにあっさり終わり、ヨーロッパの市場が回復すると、日本は大幅な輸入超過(貿易赤字)に悩まされるようになった。
さらに1920年には株式市場が暴落、戦後恐慌が発生し、アジアやアメリカに売っていた綿糸と生糸の価格は半値以下まで下がってしまった。

労働運動
第一次世界大戦による産業の発達で急増した労働者による賃上げ運動。
鈴木文治が1912年に組織した友愛会は全国組織へと発展し、大日本労働総同盟友愛会に改称、1920年に労働者の祭典であるメーデーを日本で初めて主催した。
メーデーはもともとアメリカの労働者が8時間労働を要求した運動。毎年5月1日。

日本労働総同盟
1921年に大日本労働総同盟友愛会がさらに改称して出来た。
これまでは労働者と資本家の協調路線をとっていたが、階級闘争へと路線変更、各地の労働運動を指導するようになった。
これにより八幡製鉄所や、三菱造船所、川崎造船所などで労働争議が多発した。

小作争議
小作料の減免を求める運動。これを背景に1922年に、小作人組合の全国組織、日本農民組合が結成された。

社会主義運動
大逆事件以来、冬の時代だったが、またまた盛り上がり出した。
1920年に、日本社会主義同盟が結成、1922年には堺利彦らが日本共産党を非合法に結成した。ちなみに現在活動している政党で、この共産党が一番古い。
またロシア革命の影響で、マルクス・レーニン主義(共産主義)も台頭した。

女性解放運動
1911年に平塚雷鳥が女性の地位向上のために結成した青鞜社が先駆け。
この運動は、市川房枝との新婦人協会によって引き継がれ、彼女たちは女性の参政権を要求する運動を行った。
1922年には、女性の政治運動を禁止した治安警察法が改正され、女性でも政治的アジテーションができるようになった。

部落解放運動
1922年に西光万吉(さいこうまんきち)を中心に全国水平社が結成された。

普通選挙運動
1919~20年に労働者たちの友愛会や学生を中心に盛り上がり、これを受けて加藤友三郎内閣や第2次山本権兵衛内閣は普通選挙の導入を検討したが、関東大震災や虎の門事件が起こって社会は混乱、山本内閣が総辞職してしまったので実現しなかった。

関東大震災
1923年。マグニチュード7.9の巨大地震。この未曾有の大災害により決済ができなくなった手形(震災手形)が大量に出回ることになり、山本内閣は日銀に各銀行への特別融資をさせたがうまくいかず、日本の経済危機は深刻化した。
ちなみに、ワシントン海軍軍縮条約でスペックをごまかした曰くつきの戦艦の長門はこの時、救援物資を運んでいる(山本総理は海軍出身)。
また、この地震の際に在日朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが広がり、民衆はおろか警察や自警団までもが朝鮮人を無差別に虐殺するという痛ましい事件が起きた。

虎の門事件
アナーキストの難波大助が、裕仁親王を狙撃した事件。
幸いなことに銃弾は当たらなかった。
裕仁親王はのちの昭和天皇で、難波大助は大逆罪で死刑になった。
この責任を取る形で山本内閣は辞職した。

清浦奎吾内閣(きようらけいごないかく)
1924年。貴族院と官僚の勢力を背景にする超然内閣。
これに反発した、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部は第2次護憲運動を起こした。
ちなみにこの3つの政党を合わせて護憲三派と言う。
清浦内閣は対抗措置として議会を解散したが、総選挙で護憲三派に敗北し総辞職してしまった。

加藤高明内閣
1924年。護憲三派の連立内閣。
1925年に以下の3つの政策を行なった。
加藤内閣は、連立を組んでいた立憲政友会が陸軍の田中義一を総裁に迎えて革新倶楽部と合体すると連立を解消、憲政会のみの単独政権になった。

加藤高明内閣の政策①ソ連との国交樹立
幣原喜重郎の協調外交によって実現した。後に弱腰外交と批判される。

加藤高明内閣の政策②普通選挙法の成立
納税額の制限が完全撤廃、満25歳以上のすべての男子が衆議院議員の選挙権を与えられた。
これにより有権者数は4倍の1240万人になった。

加藤高明内閣の政策③治安維持法の成立
天皇制や私有財産制度などの廃止を目的とする結社や参加者を処罰する法律。

憲政の常道
憲政会と立憲政友会による政党内閣が続く、加藤高明内閣~犬養毅内閣までの8年間を指す。しかし議院内閣制が制度化されたわけではないのに注意。

第1次若槻礼次郎内閣
1926年。加藤高明の病死を受けて、憲政会の若槻礼次郎が総理になる。
憲政会はその後、立憲民政党と名前が変わり、立憲政友会と立憲民政党は昭和初期の二大保守政党となった。

インテリの増加
日露戦争後の時点で日本の就学率は97%に達し、ほとんどの国民は文字を読み書きできるようになっていた。第一次世界大戦後には旧制中学校の生徒数や、高等教育機関も増加、これに伴い都市部を中心に高学歴者、インテリが現れた。
彼らは給与生活者、いわゆるサラリーマンとなった。
また女性の社会進出も進み、1924年にはバスガールという女性車掌が誕生、他にも電話交換手、市電、タイピスト、ウエイトレスなどの仕事を行った。

大衆文化
男性から洋服が普及し始める(サラリーマンの背広)。また銀座ではアメリカのシネモードスタイルを真似たモダンガールが見られた。
食文化ではトンカツやカレーライスなどの洋食が普及した。あと食文化かわからないけどグリコやカルピスも登場した。
他にも松竹や日活といった国産の映画や、宝塚少女歌劇団などもできた。

丸ビルと東京駅
丸の内などの都心では鉄筋コンクリートのビルが建てられるようになった。
また赤レンガ作りの東京駅もこの頃(1914年)にできた。最近Suicaで珍騒動が起きたけど、あの駅舎のデザインは大正時代の東京駅の復元である。

文化住宅
和洋折衷様式の住宅のこと。とりあえず最新のものには「文化」と付ける風潮があったらしい。文化鍋とか文化包丁とか。

セーラー服
今やJKの定番だが、これが女学生の制服に採用されたのも大正時代(9年)から。
男子学生が陸軍の制服である詰襟を着ていたので、なら女子学生は海軍でいいやってことになった。

マスメディア
1925年に東京、大阪、名古屋でラジオ放送が開始。
1926年にはNHKが設立。
新聞では『大阪朝日新聞』や『大阪毎日新聞』が100万部の発行部数を叩き出した。

雑誌
『東洋経済新報』:経済の週刊誌。普通選挙法を主張。主幹はなんと石橋湛山。
『中央公論』:社会評論や思想、文芸を扱う総合月刊誌。
『改造』:社会改造を求め、民本主義や社会主義の論文が掲載された。
『キング』:講談社が出したオールジャンルの大衆娯楽雑誌。発行部数で100万部を突破。
『赤い鳥』:鈴木三重吉の児童雑誌。

マルクス主義
河上肇:『貧乏物語』
野呂栄太郎:『日本資本主義発達史講座』
森戸辰男:東大の助教授。ロシアのアナーキストを研究して休職させられた。

自然科学
野口英世:医学者。スピロヘーターや黄熱病の研究。
本多光太郎:物理学者。KS磁石鋼の発明。KSとは支援者の住友吉左衛門の頭文字。
磁石鋼とは強い磁性を持った特殊な鋼。

人文科学
西田幾多郎:『善の研究』を発表。純粋経験。
柳田国男:『遠野物語』を発表。民俗学を確立。

白樺派の小説
雑誌『白樺』を中心に発表された、都会的かつ西洋的な作品。
有島武郎:『或る女』『カインの末裔』
志賀直哉:『暗夜行路』
武者小路実篤:『人間万歳』

耽美派の小説
美を追い求める享楽的な作品。
永井荷風:『腕比べ』
谷崎潤一郎:『痴人の愛』

新思潮派の小説
夏目漱石の門下が『新思潮』に発表した、理知的で技巧的な作品。
芥川龍之介:『羅生門』『鼻』
菊池寛:『父帰る』『恩讐の彼方に』

新感覚派の小説
既成の精神主義的伝統を否定した作品。
川端康成:『伊豆の踊り子』『雪国』
横光利一:『日輪』

プロレタリア文学
階級闘争の理論に基づく作品。
小林多喜二:『蟹工船』なぜか最近ベストセラーになった。共産主義思想を喧伝するとして掲載誌が発売禁止になったことがある。
徳永直(とくながすなお):『太陽のない街』

大衆文学
江戸川乱歩:探偵小説。
吉川英治:『宮本武蔵』

西洋絵画
安井曾太郎:『金蓉』。驚異的なデッサン力で写実的な人物画を数多く描いた。
梅原竜三郎:『紫禁城』。ルノワールの指導を受けたが、色使いはフォービスムっぽい。
岸田劉生:『麗子微笑』。東洋のモナリザ。夢に出てくる。

明治時代覚え書き③

明治時代後期
近代化を果たした日本は、日清戦争と日露戦争という本格的な対外戦争を始める。
ほとんどの国民は戦争に賛成したようだが、軍事費捻出のための増税策や、国家主義に批判的な社会主義者に対する思想の弾圧などが実施されると、一連のミリタリズムに疑問を持つ人々も増えていった。
しかし、これらの戦争によってアジアの小国だった日本が列強国の仲間入りをしたことは確かで、日清戦争時の全権大使の陸奥宗光は領事裁判権を撤廃、日露戦争時の全権大使の小村寿太郎は関税自主権を回復し、幕末の古傷である不平等条約はとうとう改正された。
・・・いや~歴史にドキリは勉強になるなあ。

甲午農民戦争(東学党の乱)
1894年。朝鮮の農民が減税と日本排斥を訴えて起こした反乱。
この反乱の鎮圧を朝鮮政府(閔氏政権)から要請された清は、天津条約で約束したとおり、日本に通知してから朝鮮に兵を挙げた。
議会運営に苦しむ日本(第2次伊藤内閣)も、戦争が起これば国もまとまるだろうと、日本人居留地の保護という建前で朝鮮に兵を送り込んだが、農民軍はすぐに朝鮮政府と和解。
日本軍が朝鮮に到着した時には、すでに戦争は終わっていた。
ちなみに東学とは排外主義を掲げる民族宗教のことで、この宗教の信者が朝鮮の農民軍を率いたことから東学党の乱という。

日英通商航海条約
1894年。外務大臣の陸奥宗光が締結。
日本軍の朝鮮駐留に対するイギリスの支持を取り付けた。
またついに領事裁判権の撤廃も実現した。

大院君
陸奥宗光は清に対して、日本と共同で朝鮮政府を変革しようと持ちかけたが、これを断られ絶縁状を突きつけられた。
そのため日本軍は漢城に進軍し、閔氏を倒すと、日本のために壬午軍乱を起こしてくれた大院君に政権を握らせ、清を追い払うように仕向けた。

日清戦争
1894年8月。
朝鮮政府の要請という大義名分を得た日本は、清国へ宣戦布告した。
日清戦争が始まると、政党の政権批判は止み、議会は戦争関連の予算案や法案を全て承認した。
豊島沖海戦の勝利や、遼東半島や威海衛(いかいえい。清の北洋艦隊の基地)占領など、戦局は日本軍の圧倒的有利だった。
こうして日清戦争に勝利した日本軍は清軍を朝鮮から追い出した。

下関条約
1895年。伊藤博文と陸奥宗光が、清の李鴻章と結ぶ。
その内容は以下の四つ。
①清が朝鮮の独立を認めること。
②遼東半島と台湾と澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に割譲。
③2億両(約3億円)の賠償金の支払い。
④新たな港(沙市、重慶、蘇州、杭州)を開くこと。

この時に得た多額の賠償金によって、日本には再び企業勃興ブームが起こり、資本主義が本格的に確立した。

三国干渉
東アジアに南下したかったロシアは、フランスとドイツを誘って、日本が得た遼東半島を清に返せと圧力をかけた。
この三国に勝てるほどの軍事力がなかった日本は、清からの3000両の支払いと引き換えに遼東半島を手放した。
これにより日本の対露感情は悪化、軍事力の強化が課題になった。
伊藤内閣は自由党の板垣退助を内務大臣として入閣させ、自由党の協力で軍事拡張の予算案を議会で通した。
また、そのあとの第2次松方内閣も、立憲改進党から結党し、衆議院の3分の1を占めていた進歩党と手を組み(党首の大隈重信を外務大臣に入閣)、軍事力強化をさらに進めた。
しかし軍事拡張のための増税を試みると進歩党が猛反発。その背景には賃金労働者による労働運動の高まりがあった。
このため進歩党党首の大隈重信が辞任、松方内閣は今度は自由党と連携しようとしたが、結局うまくいかずに1897年に総辞職した。

貨幣法
1897年。総理大臣兼大蔵大臣だった松方首相が制定。
貿易の発展と貨幣価値を安定させるため、銀本位制ではなく国際基準の金本位制に変更した。金本位制に必要な準備金は、下関条約の賠償金があてがわれた。

労働組合期成会
高野房太郎や片山潜が1897年に結成。
彼らの指導のもとに鉄鋼組合や日本鉄道矯正会といった労働組合が組織された。
この年には全国で40件あまりのストライキが起きている。

憲政党
第3次伊藤内閣の軍事増税に反対するために、自由党と進歩党が合体して出来た。憲政党は衆議院の絶対多数となり、第3次伊藤内閣は退陣した。

第1次大隈内閣
憲政党党首の大隈重信が首相に就任。
これが日本初の政党内閣である。
外務大臣に大隈重信(首相と兼任)、内務大臣に板垣退助が就いたため、隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれた。
しかし内閣発足してすぐに憲政党が内部対立、演説中の失言(共和演説事件)で辞任に追い込まれた文部大臣(尾崎行雄)の後任人事をめぐる争いが決定的となり、憲政党はあっけなく分裂した。
これにより第1次大隈内閣はたった4ヶ月で退陣した。

第2次山県有朋内閣
松下村塾で学び、幕末期~明治初期には奇兵隊を率いた生粋の軍人で「国軍の父」と呼ばれる。日本の軍国主義を作った張本人として評価が低かったが、外交、安全保障、大陸政策などには慎重派であり、軍人ならではのリアリストだった。
自分の命は、なにか重要なことに使いたいと考えていたため、万が一に備えてふぐすら食べなかった。
山県有朋は軍部、官僚、貴族院に太いパイプを持っていたため、憲政党から協力を取り付け、以下の四つの政策を行った。

山県有朋内閣の政策①文官任用令の改正
高級官僚になるための任用資格規定を作った。
これにより専門官僚としての知識や経験がない政党員は高級官僚になれなくなった。
テクノクラート。

山県有朋内閣の政策②文官分限令と文官懲戒令の制定
国務大臣以外の官僚の身分を保障するもので、政党は官僚に影響を与えられなくなった。

山県有朋内閣の政策③軍部大臣現役武官制
現役の大将、もしくは中将でないと陸海軍の大臣にはなれない制度。
シビリアンコントロールの逆。

山県有朋内閣の政策④治安警察法
1900年。労働運動、農民運動、社会主義運動を弾圧するための法律。
民衆の声を反映させようとする政党の影響力を抑えるものだった。

立憲政友会
山県内閣の政策は、そのどれもが政党弾圧的な側面があったため、憲政党は山県有朋ではなく伊藤博文に接近した。
一方の伊藤博文も政党の重要性を考え新党の発足の準備を進めていたため、両者の利害は一致し、伊藤博文を党首とする新しい政党、立憲政友会ができた。
その後、強引だった山県内閣が総辞職すると、第4次伊藤内閣が発足するが、発足まもない立憲政友会が母体だったため力が弱く、提案した増税案の否決が相次ぎ、約7ヶ月で総辞職した。

第1次桂太郎内閣
1901年発足。桂太郎は戊辰戦争で戦った軍人で、山県有朋の後継者的な人物だった。
この頃から、日本を取り巻く国際情勢が悪化したため、桂太郎は日露戦争が終わるまで政権を維持し続けた。
ニコニコしながら相手の背中をポンと押して人の心をつかむのでニコポン宰相とも呼ばれる。
西園寺公望と安定した政治を行なったのも、軍人らしからぬ彼の人柄によるものだったのかもしれない。

八幡製鉄所
1901年操業。国内最大の筑豊炭田の近くに政府が作った官営製鉄所。
のちの日露戦争時に鉄の需要が増えたためコークス炉を導入してからは大活躍することになる。鉄鋼の国内シェアの8割を占めた。

西園寺公望
立憲政友会総裁。伊藤博文からバトンタッチされた。
フランス留学経験のある公家で、自由主義や立憲政治の重要性を理解していた彼は、巨大化する軍部の力を抑えようと尽力することになる。

元老
天皇の補佐役。伊藤博文も山県有朋も政界の第一線から退いたが、元老として首相の選任権は握り続けた。特に山県有朋は「元老中の元老」と呼ばれた。

中国分割
清は「眠れる獅子」と呼ばれていたが、日本ごときに負けちゃうんじゃ実は大したことないんじゃないか、と考えた列強国は次々に中国に領土を築いた。
アメリカの国務長官のジョン=ヘイは門戸開放、機会均等、領土保全の3原則を列強に呼びかけ、この原則のもとに各国は中国を分割していった。
パイ(清)をイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本が切り分ける風刺画は有名。

義和団の乱
義和団は清の宗教団体。「扶清滅洋」(清を助けて列強国を追い出そう)のスローガンのもと、民衆とともに反乱を起こし、北京の公使を包囲した。

北清事変
義和団事件に乗じて清政府が列強国に宣戦布告をしたこと。
これを受けて列強国は連合軍を組織し、日本も1900年にこれに参加し清に軍隊を送った。
連合軍は北京から義和団を追い出し、清を降伏させ北京議定書を結んだ。

北京議定書
清は多額の賠償金を列強国に支払うことになった。
また北京の公使館周辺は治外法権となり、公使館守備隊が駐留することになった。

大韓帝国
1887年に建国。ロシアが朝鮮に大院君政権を倒させて作った親露的な国家。
ロシアは北清事変の際に満州へも進出していたので、日本のロシアに対する危機感はさらに高まった。

満漢交換論
ロシアとの付き合いをこれからどうするかについては、大きく二つの立場があった。
一つが平和的共存、もう一つが徹底対決だった。
伊藤博文は前者の立場で、満州の権益をロシアに譲る代わりに、日本が持つ韓国の権益はロシアに認めてもらおうという提案をした。これを対露協商論と言う。
しかし桂内閣は対露強硬論を取り、イギリスに接近した。

日英同盟協約
1902年。
清と韓国における日英両国の権益を互いに了承し、同盟国が戦争になった場合は、他方の同盟国は中立を守り、さらに第三国が他国側に参戦した場合には、同盟国側に参戦することを決めた。
こうしてイギリスを味方につけた日本は、ロシアに対して満州から撤退するように求めたが、ロシアはこれを無視、日本はロシアと交渉を続けながら戦争の準備を進めた。

非戦論
キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水、片山潜が主張。
しかし世論は1903年に結成された対露同志会や、戸水寛人(とみずひろんど)ら帝国大学教授、また『国民新聞』を主宰したジャーナリストの徳富蘇峰(とくとみそほう)主戦論に影響され、開戦はやむおえない雰囲気になった。

日露戦争
1904年。日本はイギリスとアメリカに公債を買ってもらい、莫大な戦費を調達した。
対するロシアは革命運動が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世は、日本と戦争をしている場合じゃなくなっていた。これには陸軍きってのロシア通の田中義一の裏工作があった。
日露戦争は、機関銃や速射砲(無煙火薬を使ったため大砲の中のススを掃除する必要がなく早く撃てる)などの新兵器が導入された本格的な近代戦だった。
また政府が民間の重工業を奨励したため、鉄鋼業や造船や旋盤技術は世界基準に追いついた。

日韓議定書
韓国政府に対して日本軍に便宜を図らせた。

第1次日韓協約
1904年。韓国政府内に日本が推薦した財政と外交の顧問を置くことを認めさせた。

日本海海戦
1905年5月。
東郷平八郎率いる日本の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を全滅させた。
東郷平八郎はブシドウを感じるということで欧米の人気が高い人物。

桂・タフト協定
1905年7月。
桂太郎とアメリカのウィリアム・タフト陸軍長官(後に大統領になる)との協定。
アメリカのフィリピンの支配を日本が認める代わりに、日本の韓国に対する指導権を認めさせた。
同じ年には日英同盟を改定しイギリスとも似たような協定(イギリスのインド支配を認める代わりに、日本の韓国保護国化を認めさせた)を結んでいる。

ポーツマス条約
1905年9月。全権大使は小村寿太郎。
アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介で結ばれた。
ポーツマスとはワシントンの近くの軍港。
その内容は以下の四つ。
①ロシアは日本による韓国の指導権と監督権を認める。
②清から日本へ旅順・大連(遼東半島南端)と南満州鉄道を譲渡すること。
③南樺太とその付属諸島を譲渡すること。
③沿岸州とカムチャッカにおける日本の漁業権を認めること。

しかし、賠償金が取れなかったために国民が反発、日比谷焼き討ち事件などの暴動が各地で起きた。

韓国統監府
韓国から外交権を奪い、ソウルに置いた。
初代総監は伊藤博文で、彼が韓国の外交を司った。

桂園体制
1901~1913年までの期間は桂太郎内閣と西園寺公望内閣が交互に政権を担当した。
1906年にできた第1次西園寺内閣は迅速な軍事輸送を可能にするために鉄道国有法を定めて、民間の鉄道のほとんどを国有化した。
立憲政友会を母体とする西園寺内閣は桂内閣に比べて穏健だった。社会主義に対しても寛容な姿勢を見せたため、日露戦争中に下火になっていた社会主義運動は再燃した。

関東都督府
関東州を統括する機関。関東州とは日本の関東地方のことではなく、日露戦争で日本が手に入れた旅順や大連を含む遼東半島南端のエリアのこと。

南満州鉄道株式会社
大連に設置。半官半民の会社。鉄道沿線の炭鉱も経営した。
このような満洲の権益は国際社会の批判にあったが、日本政府は日英同盟と日露協約によってこれを押さえ込んだ。

ハーグ密使事件
1907年。韓国の皇帝である高宗が、ハーグで開かれた第2回平和会議に密使を送り、日本の支配に対する不満を訴えた事件。列国はこの密使を無視した。
日本は高宗を退位させ、第3次日韓協約で韓国の内政権を握り、韓国軍を解散させた。

日本社会党
片山潜の日本社会党と、西山光次郎の日本平民党が合体してできた。
もともと西園寺内閣は社会主義に寛容だったが、山県有朋など官僚勢力の非難があがり、結局解散させられた。

赤旗事件
1908年。社会主義者が赤旗を振って逮捕された。
天皇制すら反対する社会主義者に明治天皇は不快感を示し、第1次西園寺内閣は総辞職した。

戊申詔書(ぼしんしょうしょ)
第2次桂内閣が発布。国民の教化(世論の引き締め)を図った。
その背景には国家主義を疑問視する風潮があった。

地方改良運動
行政単位を新しい町村に再編し、内務省の町村に対する影響力を高めた。

帝国在郷軍人会
1910年に設立。町村ごとに存在した在郷軍人会をまとめた。

大逆事件
1910年。幸徳秋水らが天皇暗殺を計画、これを受けて政府は社会主義者や無政府主義者に大弾圧を加えたが、その大半は天皇暗殺計画に無関係だった。
以降、社会主義運動は第一次世界大戦まで再興せず冬の時代と呼ばれた。

特別高等課
思想の取締りの中枢で、大逆事件を受けて警視庁内に設置された。略して特高。

工場法
1911年。日本初の労働者保護法。
このように第2次桂内閣は、社会主義者を弾圧する一方、労働者への配慮も行った。
ビスマルク体制のアメとムチと似ている。

義兵運動
第2次桂内閣の頃に韓国で起こった植民地化の抵抗運動。
第3次日韓協約で解散させられた韓国軍の元兵士が参入し本格化した。
桂内閣は軍隊を増派して鎮圧に乗り出したが、その最中の1909年に、初代韓国統監の伊藤博文が韓国の運動家である安重根に駅で射殺されてしまった。
ちなみに安重根は韓国では英雄視されており(記念館があるほど)、日中韓が協力して西洋と戦おうという汎アジア主義を掲げていた彼は、日本でも右翼勢力を中心に賞賛の声があったと言う。実際、安重根は日本の天皇を敬愛し、旅順の日本人とも仲が良かったのだが、根も葉もない陰謀論(伊藤博文が孝明天皇を暗殺した)を間に受けて、韓国併合反対派の伊藤博文を殺してしまったことは、彼にとって最大のミスだったと言えよう。

韓国併合
1910年。伊藤博文暗殺をきっかけに、韓国に併合条約を強要し韓国を植民地化した。
さらに漢城を京城と改称し、統治機関の朝鮮総督府を設置した。
初代総督は、3代目韓国統監の寺内正毅が引き継いだ。

日米通商航海条約
1911年に小村寿太郎が締結。条約改正の最大の悲願、関税自主権が回復した。
これにより日本は欧米諸国と対等な立場を獲得した。

国家主義
対外膨張主義。日露戦争勝利後に主流の思想となった。
日本の大陸進出を肯定した高山樗牛(たかやまちょぎゅう)の日本主義など。
キリスト教徒や社会主義者はこれに反対したが少数派であり、逆に圧迫された。
その後日露戦争で日本が列強国の一員になると、国家論よりも地方の利益や自分の人生のほうが深刻な悩みだと、国家主義は疑問視されるようになる。

帝国大学
1886年の帝国大学令によって作られた国立大学。
東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、京城大学(※現ソウル大学)、台北大学、大阪大学、名古屋大学。

ロマン主義文学
与謝野晶子が活躍した雑誌『明星』が中心となった。
樋口一葉:『たけくらべ』『にごりえ』
泉鏡花:『高野聖』
島崎藤村:『若菜集』詩歌。

自然主義文学
フランスやロシアの影響を受ける。
人間社会の暗い現実をありのままに描く。
国木田独歩:『武蔵野』
田山花袋(たやまかたい):『蒲団』
島崎藤村:また出た。『破戒』
石川啄木:『一握の砂』『悲しき玩具』詩歌。

夏目漱石
現代文学は全てこの人の影響を受けているといってもいいほどの言わずもがなの大作家。
自然主義とは別に人間の内面を社会や国家のあり方になぞらえた。
『吾輩は猫である』『坊ちゃん』『草枕』『こころ』『三四郎』
読んだことあるけど、私にはむつかしくて(特に『草枕』)よくわからなかった。
村上春樹とかも何がいいんだかわからないしな。

岡倉天心
1898年に日本美術院を創設。
彼が設立した東京美術学校は伝統美術を重視したが1896年には西洋画科も新設された。
文部省も伝統美術と西洋美術の共演を図ろうと1907年に文部省美術展覧会を創設している。

黒田清輝
フランスの印象派の画風を学んだ洋画家。西洋美術団体の白馬会を創立した。

高村光雲
『老猿』で有名な彫刻家。
フランスでロダンに学んだ彫刻家の荻原守衛(おぎわらもりえ)と対立したが、やがて共存した。

新劇
日露戦争後に西洋の近代劇が翻訳されて上演されるようになった。
坪内逍遥の文芸協会や、小山内薫の自由劇場など。

明治時代覚え書き②

明治時代中期
征韓論を主張し、政府から下野した多くの士族は、軍事的な反乱を起こす。
しかし士族の中には、言論の力で民主主義国家設立を訴える者もいた。
憲法の制定、国会の開設、産業革命、国家主義・・・アジアの列強国になるための基礎は、この時期に固まったと言って良い。
生活様式では日本風と西洋風が混じり合い、大都市では鉄道馬車(レールを走るタイプの馬車)や電灯が普及したが、農村での生活はさほど代わり映えはしなかった。

不平士族
征韓論の背景には、版籍奉還で失職した上に、徴兵令によって軍人としても存在価値がなくなってしまった士族の不満があった。
つまり、このような不平士族を朝鮮征服の兵力として利用しようとしたのだ。
征韓論争によって政府から離れた者の中には、西郷隆盛のように士族反乱を起こすものと、板垣退助のように自由民権運動を起こすものがいた。

佐賀の乱
1874年に地元佐賀の不平士族にかつがれた元参議の江藤新平が起こす。士族反乱の先駆けになった事件。政府に鎮圧され、江藤新平は処刑された。

台湾出兵
不平士族の不満を和らげるために1874年に行った。

江華島事件
1875年。朝鮮の首都の近くの江華島で、領海を侵犯した日本の軍艦(日本の言い分では測量)を不審船だと思った朝鮮が、その軍艦に対して砲撃を開始、交戦状態になった事件。
この時の砲台は日本に焼き討ちにされてしまった。

日朝修好条規
江華島事件の翌年の1876年に結ばれる。これにより鎖国していた朝鮮が開国。
日本の領事裁判権を認めさせ、朝鮮に関税自主権を与えないなど、かつて自分がアメリカにやられた事をそっくりそのままやった不平等条約。
その一方で朝鮮の独立は約束された。とはいえこれも、朝鮮を清から引き離す目的があった。

廃刀令
1876年。武士の命である刀を持つことを禁止した。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)
こちらも1876年。四民平等になってからも士族が受けていた特別報酬(秩禄)を全廃した。

士族反乱
廃刀令と秩禄処分のダブルパンチにより、士族の不満はさらに高まり、熊本の敬神党の乱や福岡の秋月の乱、山口の萩の乱などの反乱が相次いだ。

農民反乱
徴兵制度や学制に反対する血税一揆や、地租改正に反対する地租改正一揆などが士族反乱と同じ頃に起きた。
しかしこのような反乱は1877年に地租の税率を3%から2.5%に下げたことで沈静化した。

西南戦争
1877年に西郷隆盛が起こした最大の士族の反乱。
半年間に及ぶ戦いの末に鎮圧された。
自分が育てた屯田兵を引き連れて西郷討伐に当たった、同郷の黒田清隆(後の内閣総理大臣)はこの戦争があまりにショックで以後、酒に酔い荒れた生活を送るようになったという。

民選議員設立の建白書
士族反乱が起きた一方、武力ではなく言論の力で自由民権運動を起こした不平士族もいた。
愛国公党を立ち上げた板垣退助や後藤象二郎は1974年に、立法上の諮問機関にあたる左院に民選議員設立の建白書を提出した。
この主な内容は、有司専制(政府官僚による専制政治)の批判と、公の議論を行うための国会の設立要求だった。

立志社設立
故郷の土佐に帰った板垣退助が、片岡健吉、植木枝盛、林有造らとともに設立。
さらに立志社を中心とした全国組織を目指し、旧愛国公党の同志を集めて大阪に愛国社も設立された。

大阪会議
1875年。内務卿の大久保利通と板垣退助、木戸孝允が大阪で行なった三者会談。
これにより明治政府は国会開設の方針を決め、漸次立憲政体樹立の勅を発表した。
これと同時に、府知事と県令で組織される地方官会議や、大審院(最高裁判所)、元老院(立法諮問機関)を設置した。

元老院
左院が廃止されてできた。1876年には憲法草案の起草が開始された。
しかし、その一方で過度な自由主義者を、讒謗律(ざんぼうりつ。名誉毀損罪のこと)や新聞紙条例によって厳しく取り締まった。

三新法
1878年。郡区町村編制法(画一的な行政区画を定める)、府県会規則(府県予算案の審議の一部を府県会に任せる)、地方税規則(複雑な諸税を地方税に統一)の三つの新しい法律のこと。

紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年。内務卿の大久保利通が石川県の不平士族に暗殺された。
これにより大久保利通に取り立てられ、イギリス式の議院内閣制の早期導入を主張する大隈重信と、保守派で国会開設に反対する岩倉具視やイギリスよりも君主の力が強いプロイセンの憲法を導入したい伊藤博文が対立。
新たな内務卿には伊藤博文が就任したが、政府内の対立は続いた。

国会期成同盟
1880年に愛国社の呼びかけで結成。
国会開設の請願書を、太政官や元老院に提出しようとしたが受理してもらえなかった。
さらに政府は集会条例によって自由民権運動の政治結社を規制しようとした。

開拓使官有物払い下げ事件
1881年。
北海道の開拓長官だった黒田清隆が、薩摩藩の政商の関係する関西の貿易社に、北海道の開拓使が所有していた官有物を不当に安く払い下げようとした事件。

明治十四年の政変
開拓使官有物払い下げ事件により政府は世論の厳しい批判に合い、これに関わったとして大蔵卿の大隈重信を1881年に罷免、さらに政府は国会開設の勅諭を出して、10年後の国会の解説を約束した。
政治の世界から追放された大隈重信は、かの有名な早稲田大学(東京専門学校)を作っている。

欽定憲法
国民の総意に基づいた民定憲法を、天皇がその意志で採用し、定める憲法。
つまり君主によって国民に与えられる憲法。

私擬憲法
民間で作られた憲法案。
福沢諭吉:『私擬憲法案』イギリス式議院内閣制。
植木枝盛:『東洋大日本国国憲按』抵抗権や革命権を認める急進的な内容。
立志社:『日本憲法見込案』君主権を縮小。

自由党
1881年に国会期成同盟の一部が結成。党首は板垣退助。
フランス式の共和制を主張した。
板垣退助は「庶民派」のリーダーとして農村からの支持が高かった。

立憲改進党
1882年に結成。大隈重信が党首。
イギリス式の議院内閣制を主張する。
都市の実業家や知識人からの支持が高かった。

立憲帝政党
政府側の福地源一郎が結成した保守政党。
民衆の支持が集められず、すぐに解党した。

松方財政
大隈重信に代わって大蔵卿になった松方正義は、西南戦争と国立銀行の不換紙幣大量発行による政府の財政難を何とかするため、大規模な財政改革を行った。
まず政府の支出を軍事以外はすべて緊縮。さらに増税によって不換紙幣を集め、それを処分することでインフレを食い止めようとした。

日本銀行設立
1882年、松方正義が設立。翌年には国立銀行条例を改正、銀行券の発行は日本銀行のみが行えるようにした。

銀兌換紙幣
1885年。デフレ政策によって紙幣と銀貨の価値の差がなくなると、日本銀行券を銀と交換ができる銀兌換紙幣にした。

岐阜事件
1882年。岐阜を遊説していた板垣退助が暴漢に襲われて負傷した事件。
「板垣死すとも自由は死せず」はこの時の言葉。

福島事件
1882年。自由党最初の激化事件。
県道工事によって重い負担をかけられた農民が、自由党の支援の下、警察署に押しかけ約2000人の逮捕者を出した事件。

高田事件
1883年。新潟県で、政府高官の暗殺を計画したとして自由党の党員が逮捕、処罰された事件。この時の逮捕者はほとんどが冤罪で、政府による自由民権運動の弾圧だった。

群馬事件
1884年。自由党急進派が厳しいデフレによって貧困に喘ぐ農民、漁師、博徒を率いて高利貸の家を打ち壊した事件。
このような一部の自由党員の過激な行動は、板垣退助が政府に懐柔され(政府からの洋行の提案に板垣が乗った)、自由党の足並みが乱れたことが原因だった。

加波山事件(かばさんじけん)
1884年。若い民権家が栃木県令を暗殺しようとした事件。
この直後、自由党は解散した。

秩父事件
1884年。困民党を名乗る貧困農民が、負債の減免を求めて警察署、役所、高利貸を襲撃し、軍隊まで出動した事件。
こういった一連の事件の全てが自由党によるものではなかったが、自由党は支持者の信用を失っていった。

海坊主退治キャンペーン
海坊主とは三菱の岩崎弥太郎のこと。
自由党の機関紙の自由新聞によるキャンペーンで、立憲改進党が三菱から資金提供を受けていると暴露した。これにより大隈重信は離党、立憲改進党も事実上の解党になった。

大阪事件
1885年。元自由党員による朝鮮政府転覆計画が発覚した事件。
過激行動と弾圧の繰り返しで、自由民権運動は次第に勢いがなくなっていった。

大同団結
国会開設が3年後になると、自由民権運動は再び盛り上がり、後藤象二郎は自由党と立憲改進党の確執を忘れて団結しようと呼びかけた。

三大事件建白運動
片岡健吉が井上薫外務大臣の不平等条約改正交渉を失敗と批判、元老院に三大事件(外交失策の挽回、地租改正、言論集会の自由)の建白書を提出した。
これをきっかけに三大事件への陳情が各政府機関に殺到、政府は危険思想の持ち主(と思われる人)を皇居から12キロ以内から締め出すという保安条例によって三大事件建白運動の運動家を東京から締め出したが、この運動は東北地方を中心に継続、旧民権派の再結集が進んだ。

憲法調査
1882年にヨーロッパに来訪した伊藤博文は、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインなどから君主の権限が強いドイツ流の憲法理論を学んだ。翌年帰国。

華族令
1884年。公家や大名などでなくても国家に功績を残した人は華族として認められる(=世襲の爵位が与えられる)法令。
貴族院(上院)の基礎を作るために作られた。

内閣制度
1885年。太政官制に代わって制定。
内閣は天皇の輔弼機関であり、各省庁は天皇に対して助言を行うとともに、天皇の行為に対してはその責任を負う。
ちなみに現在の内閣は国会に対して責任を負う(議院内閣制)。
内閣の首班となるのが総理大臣で、初代総理大臣には伊藤博文が就任した。

憲法草案の作成
1886年。作成者は伊藤博文、井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、総理秘書官で日本法律学校(日本大学)初代校長の金子堅太郎など。顧問はドイツの法学者ロエスエル。彼は商法の草案作りにも関わった。

枢密院
1888年設置。天皇の諮問機関。
憲法草案の審議が天皇臨席の上で行われた。

市制・町村制
1888年。山県有朋らがドイツのモッセを顧問にして作った地方自治制度。
1890年には府県制・郡制もできた。

大日本帝国憲法発布
天皇が制定し、それを黒田清隆総理大臣に授ける形で1889年2月11日に発布。
天皇と内閣に強い権限があったことが特徴。
ドイツの憲法を参考にしたため、天皇の権限が非常に強く、官僚の任免権、国防の方針の決定権、軍の統帥権、条約締結権などは全て天皇にあった。
このような国会が関与できない天皇の権限を天皇大権という。
特に軍の統帥権は内閣からも独立し、天皇直属の権利とされた。

帝国議会
明治憲法下における国会。
貴族院と衆議院の二院制で、両議院は対等の権限があった。
貴族院は、皇族や華族、多額納税者銀、内閣の推薦で天皇に任命される勅撰議員など非公選の議員によって構成され、政党議員はいなかった。
内閣の予算案や法案は帝国議会を通さなければならないため、政党の力は強まっていった。

臣民
明治憲法下における国民。
所有権の不可侵、信教、言論、出版、集会、結社の自由を法律の制限付きで認められた(法律の留保)。また帝国議会を通して国政に参加する権利も認められた。

衆議院議員選挙法
大日本帝国憲法と同時に公布。
選挙人は満25歳以上。被選挙人は満30歳以上で、直接国税(地租と所得税)15円以上納入した(全人口の1%しかいない)男子に限る制限選挙。
議員出馬のための納税制限は、その後10円以上→3円以上と引き下げられ、1925年に撤廃された。

皇室典範
大日本帝国憲法とともに制定(公布はされなかった)。
皇室に関する基本的な法典。欽定の最高法規で国会が関与することはできなかった。

民法典論争
民法は「日本近代法の父」と呼ばれるフランスの法学者ボアソナードが起草し、1890年に発表されたが、フランス流の自然法思想が日本の保守的な伝統にそぐわないとして、その施行は無期限延期された。
とはいえ、ナポレオン法典をそのまま日本に導入すべきとは考えていなかったボアソナードは、日本の慣習法と折り合いをつけ、また民法の他にも、刑法や治罪法など国内法の整備に積極的に取り組み、不平等条約の改正に大きく貢献をした(日本は民法がないことを理由に治外法権を正当化させられていた)。

第1回衆議院議員総選挙
1890年。大勝したのは自由党が再結集して出来た立憲自由党や立憲改進党。
立憲自由党は翌年党名を再び自由党に改めた。
自由党などの反政府系政党は民党と呼ばれた(政府系の政党は吏党)。

第1回帝国議会
1890年11月25日。
衆議院の過半数を占めていた民党は、行政費を削減し人民の税負担を減らせと、政府予算案を激しく批判した。

超然内閣
黒田清隆が発表した、内閣は政党のあり方に左右されないという立場。
しかし時の山県有朋内閣は、過半数を占める民党の意見を無視できず、その後の第一次松方内閣も軍艦建造費の予算案を通そうとして民党の激しい攻撃にあっている。

第2回衆議院議員総選挙
松方内閣の内務大臣だった品川弥二郎は、民党候補者の当選を阻もうと、選挙干渉を行ったが、結果はやっぱり民党の圧勝だった。これにより松方内閣は退陣した。

元勲内閣
第2次伊藤内閣のこと。明治維新で功績を残した薩摩藩や長州藩の実力者たちがオールスターで入閣したためこう呼ばれている。しかしやっぱり、民党の勢いを止められなかった。
このため伊藤博文は、外務大臣の陸奥宗光を使って自由党に接近、切り崩しを図った。
これが成功し、政府と自由党のあいだに連帯が生まれた。
また伊藤博文は天皇の権限に頼り、議会に政府への協力を呼びかけさせた。これにより海軍の軍備拡張に成功した。
しかし、政府に擦り寄った自由党に反発した立憲改進党は、逆に吏党の国民協会などと同盟を結び、第5、第6回帝国議会では過半数を取ったため、伊藤博文はその後も厳しい内閣運営を強いられた。

企業勃興
1886~89年までの会社設立ブームのこと。
デフレ不況(松方財政)だった頃に、土地を安く買い叩いて大儲けした豪農や豪商によって、全国の会社資本は増加、金融機関の資金は不足するようになったが、1889年に凶作が起こると企業勃興は終わった(1890年不況)。
企業勃興で生まれた会社は、機械技術の導入で大量生産を図り、産業革命の原動力になった。

紡績業
綿花から繊維を取り出し綿糸を作る産業のこと。
幕末~1870年代までは、関税自主権が認められなかったために、外国の安い綿織物が大量に輸入され、国内の綿織物業は不振だったが、その後業者は外国から安い綿糸を大量に購入し、ジョン・ケイの飛び杼の原理を手織り端の技術に組み込むことで、生産量を上げた。
これにより綿織物を安く大量に生産できるようになり、綿織物業は復興、綿糸の国内需要も高まり、1882年には大阪紡績工場が設立した。

大阪紡績工場
「日本資本主義の父」とも呼ばれる実業家の渋沢栄一が設立。
イギリスから輸入した紡績機械を蒸気機関で動かし(それまでは水力が主流)、安価な綿糸の大量生産に成功する。
これにならった大阪の豪農や豪商たちが、企業勃興時に次々に紡績会社を設立したことで、1890年には、国内で生産された綿糸の量が、輸入綿糸の量を超えるまでになった。
ちなみに渋沢栄一は、みずほ銀行や東京証券取引所、また、王子製紙、帝国ホテル、東京海上火災保険、キリンビール、サッポロビール、東京慈恵会、日本赤十字社、理化学研究所なども設立している。
彼は私利私欲よりも公益を優先させたため、同時代の他の実業家と異なり財閥を作っていない。
幕臣時代には、パリ万博に行ったり、エジソンに会ったりもしている。

製糸業
こちらはカイコの繭から生糸を作る産業のこと。
生糸は幕末以来、日本で最大の輸出品だった。
これまでは木製の歯車を手で回して糸を巻き取っていたが(座繰り製糸。ガンジーシステム)、外国製の繰糸器が導入され、器械製糸が主流になった。農村ではカイコの養殖も盛んになった。

日本鉄道会社
1881年に華族が主体となって設立した民間の鉄道会社。
これも企業勃興の時期に次々に設立されている。

財閥の誕生
1884年から政府が軍事工場と鉄道以外の官営事業を民間に払い下げると、これを買い取った民間企業は莫大な利益を上げて財閥となった。
三井、三菱、古河などの政商は、優良鉱山を政府から買い取り、巻上機などを使うことで石炭や銅の生産と輸出を増やした。
また北九州の筑豊炭田では排水用ポンプが導入され開発が進んだ。
三井財閥:江戸時代の両替商、三井家の財閥。日本初の私立銀行を設立。
三菱財閥:土佐藩の通商、岩崎弥太郎が設立。海運業を独占支配。
安田財閥:安田善次郎が明治時代に創業した安田銀行をもとに創始。

不平等条約改正
岩倉使節団(1871~73年)から続く不平等条約撤廃のための外交努力。
寺島宗則→井上薫→大隈重信→青木周蔵→榎本武揚→陸奥宗光→小村寿太郎という流れでやっと改正されるが、これは日米修好通商条約からなんと53年という長い道のりだった。

寺島宗則
1878年。アメリカに対し関税自主権の回復に絞って交渉を持ちかけ、ほぼ成功したけたが、イギリスやドイツの反対によって惜しくも失敗した。
また同じ時期に日本にアヘンを持ち込んだイギリス人が治外法権で無罪になるアヘン密輸事件が起き、関税自主権よりもまずは領事裁判権撤廃が先だろ、と世論の声が上がった。

井上薫
1882年。領事裁判権の撤廃をメインに交渉を進めた。
寺島外務卿の失敗を生かして、欧米各国の代表者を集め改正に向けた予備会議を開き、1883年には日比谷に鹿鳴館を建て欧米の要人を接待した。
井上薫は1886年に入ると正式に改正交渉を始め、領事裁判権の原則撤廃を欧米諸国にだいたい認めさせたが、この改正案には、外国人を日本で裁く場合その判事には外国人を半数以上付けることや、外国人の行動範囲を居住地から全国に広げるなどの交換条件があったため、政府内外から批判が続出した。
同じ時期に三大事件建白運動が起こり、鹿鳴館外交も極端な欧化主義だと批判、こうして井上薫は辞任に追い込まれた。
ちなみに初代内閣総理大臣の伊藤博文とは同郷の親友でドスケベコンビだった。

大隈重信
明治十三年の政変で下野し、東京で専門学校(早稲田大学)を開いていたが、井上薫が辞任すると、彼に代わって外務大臣に抜擢された。
大隈重信は、不平等条約の改正内容を極秘にして、改正に好意的な国から個別に交渉を始め、アメリカ、ロシア、イギリスから条約改正の調印を受けることに成功する。
しかし1889年、この条約改正案にも、大審院の裁判の判事には外国人を任用するという日本にとって不利な条件がついていることが『ロンドン・タイムズ』に暴露され、右翼の青年の来島恒喜(くるしまつねき)から爆弾で右脚を吹き飛ばされた大隈重信は、外務大臣を辞任した。
大隈重信は、この事件を起こした来島恒喜について「全然憎んでいない。若い奴はこれくらいの元気がなくちゃ」と語ったという。

青木周蔵
大隈重信に代わって外務大臣に就任。
彼は交渉相手を最大の難関だったイギリス一国に絞った。
しかしこの時のイギリスはロシアの南下政策を警戒し、清に利権を持つイギリスは日本との協力体制を築こうとしていた。
これによりイギリスは日本に対等条約を持ちかけ、無条件での条約改正交渉はほぼ合意にこぎつけていた。

大津事件
1891年。青木周蔵の交渉がまもなく締結しようとした時、滋賀県の巡査の津田三蔵が来日中のロシア皇太子ニコライ(のちのニコライ2世)に切りつけた傷害事件が発生。
津田巡査は、政府の圧力に屈せず司法権の独立を守った児島惟謙によって死刑を免れたが、大きな外交問題となり、この責任を取って青木周蔵は辞職した。

榎本武揚
青木周蔵に代わって外務大臣に就任。
青木案に沿って交渉を進めようとしたが、国内の世論が「それよりも諸法典の編纂を優先しろ」となったため、結局交渉は進まなかった。

壬午軍乱(じんごぐんらん)
1882年、日本よりも清との関係を重視しようという親清派の大院君(テウォングン)を支持する軍隊が、親日派の閔(ミン)氏一族に反対して、漢城で反乱を起こし、この反乱に呼応した民衆たちが日本公使館を取り囲んだ事件。
この反乱は結局失敗に終わったが、親日派だった閔氏は日本ではなく清に依存することにした。

甲申事変(こうしんじへん)
日本と接近して朝鮮を近代化させようと考えていた、独立党の金玉均(キムオクキュン)ら親日改革派は、清仏戦争(1884年)で清が負けたのを見計らって、日本公使館の支援のもとでクーデターを起こした。しかし清の支援によって、このクーデターも鎮圧されてしまった。

天津条約
1885年。全権大使の伊藤博文が、清国全権の李鴻章(りこうしょう)と悪化した日清関係を修復すべく結んだ条約。
日清両国が朝鮮から撤兵すること、日本が軍事教官を朝鮮に派遣しないこと、今後朝鮮に出兵するときはあらかじめお互いに通告し合うことが約束された。
しかし壬午軍乱と甲申事変によって、朝鮮に対する日本の影響力は低下し、清の影響力は増大した。そのため、日本国内では清と朝鮮に対する感情が悪化し、どっちもまとめて武力制圧すべきだという世論が強まった。

樺太・千島交換条約
1875年。日本(駐露公使榎本武揚)とロシアが樺太と千島列島を交換した。
これにより樺太はロシア領、千島列島は日本領になった。

小笠原諸島
東京の南の果てにある島々。
1876年に日本の領土だということが国際社会によって確定。
内務省の管轄になった。

脱亜論
福沢諭吉が提唱。日本はアジアから脱却して欧米に肩を並べる列強国になり、植民地を獲得していくべきだと考えた。
しかし、まずもって国民の幸福を主張する平均的欧化主義や近代的民族主義論者は、こういった日本の大陸進出には慎重だった。

島地黙雷(しまじもくらい)
政府の神道国教化に反対した浄土真宗の僧侶。神仏分離や信仰の自由を主張し、廃仏毀釈で打撃を受けた仏教の独立を勝ち取った。

キリスト教徒の知識人
札幌農学校のクラークなどの影響で増加する。
内村鑑三や新渡戸稲造など。

教育令
1879年公布。地方の実情を無視した画一的で強制的な学制を緩和、自由主義的にした。

学校令
1886年。森有礼文部大臣の下、公布。
帝国大学、師範学校、中学校、小学校と近代的な学校の体系が確立された。

教育勅語
1890年。学校教育の基本が忠君愛国とされた。

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
評論家。1885年に発表された『小説神髄』において、西洋の文芸理論に基づいて人間の内面や世相を客観的かつ写実的に描くべきだと主張。
戯作や勧善懲悪は否定された。この主張を取り入れた作家として、『浮雲』の二葉亭四迷、『五重塔』の幸田露伴がいる。

『文学界』
1893年創刊。
啓蒙主義や合理主義に反発し、人間の個性や感情を重視したロマン主義の作家の文芸雑誌。

『舞姫』
森鴎外が『国民の友』に掲載。ロマン主義的な短編小説。
ベルリンに留学した主人公が、エリスという美少女に出会い同棲したが、ロシアに転職することになり、これを知ったエリスが発狂してしまうという話。
・・・すまん、よく知らん(^_^;)

東京美術学校
現在の東京芸術大学。1887年設立。
西洋美術を排除した学校で、校長は岡倉天心、第一回の卒業生には横山大観がいる。
アメリカから教授として招かれたフェノロサは、日本の伝統美術を大いに称え、一方の西洋絵画を有害文化だと考えた。

『収穫』
浅井忠(あさいちゅう)の作品。バルビゾン派のミレーを思わせるような西洋絵画。彼が中心になり1889年には明治美術会が結成された。

団菊左時代
1890年代に大人気だった、9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初代市川左団次の3人の歌舞伎役者にちなむ。

壮士芝居(新派劇)
自由民権思想を普及させるための劇。壮士とは自由民権運動の活動家のこと。
1888年に角藤定憲 (すどうさだのり) が中江兆民の支援を受けて大阪で旗揚げした。
1891年には、川上音二郎が政府や社会を愉快に風刺するオッペケペー節を流行させた。
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