江戸時代末期
いわゆる幕末。
開国か攘夷かで、幕府と朝廷が内部分裂。
薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件によって、攘夷が不可能であることを知った薩摩と長州は、とりあえず幕府から倒してしまおうと朝廷やイギリスに接近、幕府の方もフランスと手を組み対抗したが、相次ぐ将軍の死で弱体化著しかった幕府は、とうとう政権を朝廷に返還、それどころか薩長が繰り出した王政復古の大号令で幕府という存在すら廃止されてしまう。
つまり現代に置き換えれば、民主党が自民党に政権を返したのが大政奉還ならば、下野した民主党を野党としても存在させないのが王政復古の大号令ということになる(多分)。
ここら辺の時代はファンがたくさんいる上に、私は『竜馬におまかせ!』の知識しかないので、かなり適当。
薪水給与令(しんすいきゅうよれい)
産業革命によって新たな国外市場を求めた欧米列強国は、アジア各国を次々に植民地化、イギリスがアヘン戦争で清を破り南京条約で開国させたことを知った日本は、異国船打ち払い令を緩和、1842年の薪水給与令で外国船を撃退せずに薪と水を与えて帰ってもらうようにした。
ジェームズ・ビッドル
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1846年に日本に来航。
清米貿易船や捕鯨船の寄港地として日本の港を使わせて欲しいと要求したが、幕府は拒否し、ビッドルはそのまま帰っていった。
徳川家定
13代将軍。篤姫の旦那さんで有名。
彼が将軍に就いた1853年にペリーが来航している。
もともと体が弱く35歳で病死。ちなみに特技はお菓子作りだった。
マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1853年に軍艦4隻を率いて日本に来航。
フィルモア大統領の国書を提出し、開国しろと日本に強い圧力をかけた。
日本はとりあえず国書を受け取り、回答は翌年すると保留しペリーを帰らせた。
阿部正弘
当時わずか26歳で幕政を主導していた老中首座で、ペリーの要求についての意見を幕臣だけでなく、朝廷や大名、さらに庶民にまで広く求めた。
これにより幕府の権威は大きく落ち、後に倒幕運動をはじめる幕末の志士たちにも大きな影響を与えたが、もはや幕府の体制は硬直化しすぎており、それどころじゃなかった。
そこで阿部正弘は、前水戸藩主で徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)を幕政に参加させるなど大胆な人事を断行、江戸湾に砲台を設置し、大船建造を解禁するなどの安政の改革を行った。
日米和親条約
1854年、ペリーは約束通り日本の回答を聞きに再び来航。
しかも今度は軍艦を7隻に増やしてやってきた。
幕府はペリーの圧力に屈し、アメリカ船への燃料や食料の提供、漂流民の救助や引渡し、伊豆半島の下田と、函館の開港などが盛り込まれた日米和親条約を結ぶ。
特に第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというもので、日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。
その後、幕府は同じ内容の条約をイギリス、ロシア、オランダと締結した。
ちなみにロシアとは択捉島とそれより南のエリアは日本の領土であること、樺太は両方の国のものとして国境を定めないことなどを確認している。
タウンゼント・ハリス
1856年に来日したアメリカ総領事。
ハリスは幕府の通称条約の締結を求め、これを受けた老中首座の堀田正睦(ほったまさよし)は朝廷に勅許(許可)を申請したが、当時の孝明天皇はこれを拒否。
江戸時代に天皇が幕府からの勅許を拒否したことは一度もなく、当然通商条約は締結できると見越していた堀田正睦は失脚、幕政の主導権は滋賀県東北部の彦根藩主の大老井伊直弼に移った。
井伊直弼
44歳で臨時職の大老に抜擢。
自分の意見をはっきりと言う性格で、当初は開国に反対していたが、やはり合理的に考えて西洋列強国に軍事力では勝てない。なら開国をして海外の進んだ技術を受け入れたほうがいいと、考えを改めた。
問題は通商条約を受け入れるとして、どのタイミングで締結するかになったが、堀田政権の側近の岩瀬忠震(いわせただなり)が1858年にさっそく日米修好通商条約を結んでしまう。
この条約はハッキリ言って日本にとって最悪の条件の不平等条約で、そのために孝明天皇や尊王攘夷論者の怒りを買った井伊直弼は、国内で内乱が起きないように安政の大獄という恐怖政治を始めたが、1860年の桜田門外の変で水戸脱藩の志士に暗殺されてしまう。
日米修好通商条約
おもに5つの内容を持っていた。
①函館に加え、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港と江戸、大阪の開市。
②関税などを廃した自由貿易であること。
③開港地に居留地を作り、一般外国人の国内旅行を禁止させること。
④領事裁判権を認めること。
⑤日本に関税自主権は認められない。
②と⑤が矛盾していて、極めてアンフェアなんだけど、長らく鎖国していた日本には国際法の理解に遅れがあり、こういう詐欺まがいの交渉に丸め込まれてしまった。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。
アロー号事件
日本が不平等条約にサインせざるを得なかったもう一つの理由がこれで、イギリスの船を海賊船と間違って臨検しちゃった清がイギリスとフランスの軍事制圧を受け、不平等条約(天津条約)を押し付けられた事件。
アメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約を結んだら、アメリカがイギリスとフランスから日本を守ってやるという日米安保的な条件を持ちかけ、清の二の舞にはなりたくなかった日本はこれにやむなく従ったのである。
勝海舟
オランダから贈られた軍艦を使って長崎に作られた海軍伝習所の第一期生。
彼は幕府建造の軍艦の咸臨丸(かんりんまる)の艦長になり、1860年に外国奉行の新見正興を乗せて日米修好通商条約の批准書を交換しにアメリカへ渡った。
ちなみに子どもの頃イヌに片方のキンタマを食いちぎられて死にかけたため、ワンちゃんが大の苦手だった。
開国の経済的影響
日本に開国の揺さぶりをかけたのがアメリカだからか、開国当時の最大の貿易相手国もアメリカだという印象があるが、実はこの頃のアメリカは南北戦争(1861~65年)で大変だったため、日本と最も取引が多かったのはイギリスだった。
貿易額では横浜港が最大だった。
日本からの輸出品の8割は生糸で、その他、茶、蚕卵紙(蚕蛾の卵が産み付けられた紙)など。
日本への輸入品は毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など。
欧米列強国との貿易は日本の大幅な輸出超過ではじまり、国内の物価は上昇した。
これを受けて幕府は1860年に雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の5品は必ず江戸の問屋を経てから輸出させるという五品江戸廻送令を出し、物価抑制をはかったが、5品を扱う商人や列強国が反発したので効果は上がらなかった。
また生糸や茶とともに日本から大量の金貨も流出した。
当時の金銀の交換比率は1:15だったのに、日本の交換比率は1:5で、日本で銀を金に交換するだけでボロ儲けができたのだ。
それに対して幕府は日本の金貨の質を下げることで対抗しようとしたが、この改鋳により物価はさらに上昇、庶民の不満はさらに高まった。
将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
病弱で子どもが作れなかった徳川家定の次の将軍を、一橋家の慶喜にするか、紀伊藩主の家茂にするかという問題。一橋慶喜を推薦していたのが越前藩や薩摩藩で、家茂を推薦していたのが井伊直弼ら南紀派だった。
大老に就任した井伊直弼は、強引に14代将軍を徳川家茂にしてしまい、また安政の大獄では、徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)や徳川慶喜を処罰している。
一橋家の反発を受けたのは言うまでもない。
安藤信正
朝廷、一橋家、尊皇攘夷派と様々な勢力から反感を買ってしまった井伊直弼が暗殺されると、次に老中の安藤信正が幕政に当たった。彼は朝廷と幕府の融和を図る公武合体路線を取り、徳川家茂と孝明天皇の妹の和宮親子内親王(美少女)を結婚させた。
しかしこの策略結婚は朝廷に対する冒涜だと、尊皇攘夷派の神経をさらに逆撫でしてしまい、安藤信正も1862年の坂下門外の変で水戸脱藩の志士に襲撃され大怪我を負い、老中を退いた。
徳川家茂
14代将軍。
血筋、人格(誰に対しても優しい)、武勇、全てにおいて優れたパーフェクト将軍だったが彼も21歳の若さで病死してしまう。
ちなみに大の甘党でほとんどの歯はひどい虫歯だったらしい。
文久の改革
薩摩藩主島津忠義(しまづただよし)の父、島津久光は江戸にやってきて幕政の改革を要求、これにより幕閣の人事移動、西洋式軍隊の編成、榎本武揚(えのもとたけあき)、西周(にしあまね)のオランダへの派遣、参勤交代は3年に一度、江戸にいる期間は100日に緩和された。
生麦事件
1862年。薩摩藩の武士が、江戸から帰る途中の島津久光の行列を乱したイギリス人商人ら4人を斬った事件(一人死亡)。
生麦とは事件が起きた神奈川県の村の名前。
薩英戦争
1863年。薩摩藩がイギリスに生麦事件の報復を受けた事件。
この砲撃により薩摩藩はイギリス海軍の圧倒的実力を目の当たりにし、攘夷は不可能であることを悟った。
八月十八日の政変
考えを変えた薩摩藩は、朝廷内の公武合体派の公家や会津藩とともに朝廷の実権を奪い、攘夷にこだわる長州藩と公家の三条実美を1863年に京都から追放した。
池田屋事件
1864年。新選組が京都の攘夷派を殺傷した事件。
池田屋とは京都の旅館で、中は狭かったため、新選組は刀を振り回せず、沖田総司などは刀を突いて(天然理心流の奥義の三段突きで)攘夷派を成敗した。
禁門の変(蛤御門の変)
池田屋事件をきっかけに京都に攻め込んだ長州藩を、薩摩藩や会津藩が追い返した戦い。
このあと幕府は、第1次長州征討の兵を送った。
四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
1864年。第1次長州征討のさなか、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダから下関砲台を砲撃される。これにより、とうとう長州藩も攘夷を諦めた。
改税約書
1865年。兵庫の開港を嫌がった孝明天皇に(京都と近いから)、欧米列強国がその代わりに関税の優遇措置を要求し、その勅使を孝明天皇からとることで、幕府に調印させた。
この流れを見てイギリス公使のパークスは、幕府が無力であることを見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権が日本に実現することを期待した。
薩摩藩改革派
薩英戦争をきっかけに薩摩藩は下級武士の西郷隆盛や大久保利通が実権を握るようになった。彼らはイギリスに接近、武器の輸入、留学生の派遣、洋式工場の建設などを行ない、倒幕の準備をした。
長州藩改革派
同じく長州藩でも、改革派に転向した高杉晋作や桂小五郎が、幕府に擦り寄る上層部に兵(西洋式の歩兵隊である奇兵隊など)を挙げ、長州藩の主導権を奪った。
改革派は長州藩の意向を倒幕に転換させ、イギリスに接近、維新の十傑の一人、兵学者の大村益次郎の指揮で、倒幕のための軍事力を強化させた。
一方の幕府はイギリスと対立するフランスの援助を受け、長州藩に領地の削減を要求したが、長州藩はこれをはねつけ、1865年に第2次長州征討が行われた。
薩長同盟
幕府は長州藩のライバルである薩摩藩に長州征討の協力を命じようとしたが、この時には既に土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎によって薩摩藩は長州藩と手を組んでいた。
日本初の商社(亀山社中)を作った坂本龍馬は、長州には薩摩の銃(アメリカ南北戦争で使った余り)を、薩摩には長州の米を送ることで、薩長同盟を実現させてしまったのだ。
そのため第2次長州征討に薩摩藩は参加せず、14大将軍の徳川家茂が急死すると第2次長州征討は中止された。
徳川慶喜
15代将軍。
イギリスと対立していたフランスの援助によって幕政の立て直しを図った。
公武合体路線を主張する土佐藩の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は慶喜に、天皇への政権奪還を提案、これは薩長の倒幕の決意を知った土佐藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が豊信に託したものだった。
こうして1867年の10月14日に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。これは薩長が朝廷の岩倉具視から討幕の密勅を受け取った日と同じだった。
ちなみに、四本足の動物を食べる習慣がなかった日本で積極的に肉を食べたことから「豚一将軍」と呼ばれ、文明開化の肉食ブームのきっかけを作った。
絵画やハンティングなど趣味が多く、明治に時代に入ると実業家の渋沢栄一の援助を受けて、悠々自適の生活を送った。あまり将軍に未練はなかったらしい。
王政復古の大号令
大政奉還によって薩長は幕府を倒すという大義名分を失ったが、もう今更止められず1867年12月9日に朝廷でクーデターを起こし、王政復古の大号令により天皇のもとに総裁、議定、参与の三職を起き、有力諸藩を参与とする新政権を樹立した。
これにより将軍職を始め、朝廷の摂政や関白も全て廃止、江戸幕府は滅亡した。
幕末の文化
世直し一揆:農村にも尊王思想が広まったことによる。
教派神道:民衆信仰。
ええじゃないか:1867年。東海から畿内一帯で民衆が踊り狂った。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ):幕府が設立した西洋の自然科学を教える学校。のちの東京大学。
留学生派遣
西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)榎本武揚はオランダへ。
福沢諭吉は幕府使節団としてアメリカとヨーロッパへ。
薩摩藩の森有礼、長州藩の伊藤博文や井上馨はイギリスに。
彼らは明治維新による日本の近代化に活躍。
江戸時代覚え書き③
2015-03-28 19:47:22 (9 years ago)
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江戸時代後期
18~19世紀。
都市だけではなく農村にも貨幣経済が発展したことで、貧富の格差が深刻な社会問題となった。
これに対し幕府は、江戸の三大改革をはじめとする様々な政治改革を行なったが、うまくいかず諸藩や民衆の不満は増大していく。
またロシアやイギリスといった列強国が日本に迫り、国内外共に問題を抱えることになった。これを江戸時代の内憂外患と言う。
徳川吉宗
8代将軍。
1716年に7代将軍家継が早死し、家康の血統が途絶えたため、紀伊の藩主である彼が次の将軍に大抜擢された。この反省で、吉宗の次男の田安家と、四男の一橋家ができている。
暴れん坊なイメージがあるが、実際な質素堅実な人で、いくら天下泰平の世でも浪費グセが付いたら非常時にいっぱい働けないと、素食を続けた。
吉宗は側用人の側近政治をやめ、初代の家康のように自ら率先して政治を行ない、大岡忠相を江戸町奉行に任命するなど有能な人材を積極的に登用した。
大岡忠相は、お白州が有名だが、たびたび大火災に見舞われた江戸の防火対策(火除け地の設置や、町火消しの組織など)などにも尽力している。だからドラマではサブちゃんと仲がいいのね。
ちなみに大飢饉や疫病で亡くなった人々を弔うというコンセプトで隅田川花火大会を開いたりもしている。
享保の改革①足高の制
町奉行のポストは3000石の石高がないと就けなかったが、身分に関わらず有能な人材を登用したかった吉宗は、その人が不足する石高を在職中に限って支給した。
例えば石高2000石の人を使いたい場合、1000石を支給し就任させた。
享保の改革②上げ米の制
1722年。大名に1万石につき米100石を上納させた。その代わりに参勤交代の負担を半分にした(江戸にいる期間を半分にした)。
享保の改革③定免法
豊作凶作にかかわらず年貢率を固定し、年貢率を4割から5割に引き上げた。
享保の改革④株仲間公認
物価を安定させるため、株仲間を公認。製造、販売の独占権を与える代わりに税を課した。
享保の改革⑤新田開発
商人の力を借りて米の増産を狙った。
幕府の石高は1割以上増加し、これらの取り組みから吉宗は米将軍と呼ばれた。
享保の改革⑥相対済まし令(あいたいすましれい)
借金の訴訟を幕府は一切受け付けず、当事者同士で解決させた。
享保の改革⑦勘定所再編
勘定所を司法担当の公事方と、財政担当の勝手方に分けた。
享保の改革⑧サツマイモの普及
青木昆陽に普及させた。サツマイモは甘藷(かんしょ)と呼ばれた。
享保の改革⑨目安箱設置
庶民の意見箱。ここに届けられた意見によって、ドラマでもお馴染みの貧しい人を対象にする医療機関、小石川療養所が設置された。
享保の改革⑩公事方御定書
裁判の基準を明確化。奉行の気分とかでなく、ちゃんと判例に則った裁判をさせた。
問屋制家内工業
有力百姓である豪農と、都市の問屋が手を組み、農村に資金や原料を投入して組織された。
逆に貧しい小百姓や小作人たちは豪農と対立、労働問題が起きた。
百姓一揆
享保の改革後に頻発。
17世紀初めには旧侍層の土豪が中心だったが、17世紀後半になると村の代表者が領主に直訴する代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)になった。下総の佐倉惣五郎といった一揆の代表者は、大塩平八郎的に伝説化している。
17世紀末には、武力を伴う大規模な惣百姓一揆に発展、藩領全域に及んだものは全藩一揆と呼ばれた。
享保の飢饉
1732年。冷夏とイナゴやウンカの大量発生による西日本の大飢饉。
これにより江戸の米の価格が高騰、打ちこわしも起きた。
田沼意次
10代将軍徳川家治に厚く信頼され、側用人から老中に大出世した人物。
経済に明るい彼は、商業活動を利用して財政再建を目指し、定量計数の銀貨である南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)の鋳造(それまでは銀の塊を重さで測ってちぎっていた)や、幕府直営の銅座、真鍮座、朝鮮人参座などの設立を行なった。
他にもロシアとの交易の可能性を探るため、最上徳内(もがみとくない)を蝦夷地に派遣している。
これらの改革によって商業活動は活性化したが、賄賂やコネによる人事が横行、武士の風紀は乱れた。
そんな田沼意次の時代には、浅間山が噴火したり、天明の飢饉が起こったりと多数の死者が出るような大事件が相次ぎ、さらに対外貿易を考えていた息子の田沼意知(たぬまおきとも)は旗本に刺殺、彼自身も将軍の代替わりの際に罷免された。
松平定信
11代将軍徳川家斉の老中で、徳川吉宗の孫。福島県白河藩の藩主。
田沼意次の政治を改め、質素倹約をうたった吉宗を理想に諸改革にあたった。
寛政の改革①農村再興
飢饉で食い詰めて江戸に流れていた農民たちに、旅費を出して農村に帰らせた。
そして次の飢饉に備えて穀物倉に米を蓄えさせた。
寛政の改革②都市の治安回復
無宿者や再犯の恐れのある犯罪者を人足寄場に収容し職業訓練を行なった。
北野武監督の『アウトレイジ ビヨンド』でも中尾彬さん演じるヤクザの親分が、刑務所のことを寄場というが、ここから来ているらしい。
寛政の改革③風紀の引き締め
朱子学のみを正当な学問とし、幕府の統制下の学校で朱子学以外を教えるのを禁止させた。これを寛政異学の禁と言う。
また庶民の楽しみだった娯楽小説を次々に規制、銭湯の男女混浴も取り締まり、あまりに厳しい改革は、将軍、大名、庶民すべての反感を買い、「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」や「こんな世の中じゃ長生きしたくないポイズン」など、汚職にまみれた田沼時代を懐かしむ風潮さえ生まれた。
尊号事件
1789年。実父の典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとした光格天皇が、松平定信に拒否され、これに関わった武家伝奏などの公家が処分された事件。
これにより松平定信は将軍家斉と対立し、退陣した。
また幕府と朝廷の協調関係は崩壊、天皇の権威は尊王論とともに高まっていく。
徳川家斉(とくがわいえなり)
11代将軍。
質の悪い貨幣の大量生産で幕府財政を一時的に潤わせたが、大奥とともに浪費生活を繰り返した。
これにより物価は高騰、農村は荒廃、治安は悪化したため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を作り、関東の巡回させた。
また1827年には関東地方の村に寄場組合を作らせ、地域を警備させている。
徳川家慶(とくがわいえよし)
12代将軍。
1837年に家斉から将軍職を譲られる。しかし実権は大御所となった家斉がやっぱり握っていた。
江戸時代の内憂外患
天保の大飢饉:1830年代の連年の大飢饉で百姓一揆や打ちこわしが多発。
大塩平八郎の乱:幕府の役人の大塩平八郎による貧民救済のための武装蜂起。
生田万の乱(いくたよろずのらん):大塩に影響を受けた国学者の反乱。
ラクスマン:ロシア大使。1792年に根室に来航。
近藤重蔵と最上徳内:1798年に択捉島を調査。
レザノフ:ロシア大使。1804年ラクスマンの入港許可証を使って来航。幕府に追い返された。
間宮林蔵:1808年に樺太を調査。
ゴローウニン:ロシア軍艦艦長。1811年に国後島に上陸し逮捕、抑留された。
フェートン号事件
1808年。イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎に侵入、日本のオランダ商館職員を人質に、水や食料を要求して退去した事件。
これを受けて、幕府は1825年に外国船の撃退を命じる外国船打ち払い令を出した。
モリソン号事件
1837年。アメリカ商船モリソン号が来校し、漂流した日本人の返還と貿易を求めたが、外国船打ち払い令によって撃退された。
これを批判した渡辺崋山や高野長英は幕府によって勉強会ごと処罰されてしまう(蛮社の獄)。
水野忠邦
大御所の徳川家斉が亡くなったあと、徳川家慶のもとで政治を主導。
享保の改革と寛政の改革を手本に、権威を失いつつあった幕府の立て直しを図った。
天保の改革①倹約令
贅沢三昧の将軍や大奥にまで適用。
人情本を規制するなど、庶民の風俗も取り締まったため、庶民から非難轟々だった。
天保の改革②人返しの令
百姓の出稼ぎを禁止。江戸にいる貧民を強制的に帰郷させた。
飢餓で荒廃した農村の債権を図ったものだったが、江戸を追われた無宿者や浪人が江戸周辺の農村に流れたため、スラム化、治安が悪化してしまった。
天保の改革③株仲間の解散
徳川吉宗や田沼意次が奨励した株仲間を、物価高騰の原因であるとして解散。
しかし物価上昇の本当の原因は、生産地から上方市場への商品流通量の減少、すなわちディマンド・プル・インフレーションであり、株仲間の解散は商品流通量をさらに減少させてしまった。
天保の改革④棄捐令(きえんれい)
困窮する旗本や御家人を救うために、幕府から旗本や御家人に支給される米の仲介業である札差(ふださし)に低金利の融資を命じたが、札差に不満が残った。
天保の改革⑤上知令(あげちれい)
江戸や大阪周辺の50万石の土地を直轄化し財政の安定を狙ったが、譜代大名や旗本の猛反発を受けて実行できなかった。
工場製手工業(マニュファクチュア)
天保の改革の失敗の背景には農村の変化もあった。
19世紀前半の農村では、工場制手工業が発展し、生活に困った百姓は田畑を捨てて工場の賃金労働者に転職してしまったのである。
こうなると当然、幕府は年貢を取り立てられないので、幕藩体制の根幹が大きく揺らぐことになった。
藩政改革
頼りにならない幕府に見切りをつけた諸藩は、中級下級武士から有能な人材を取り立てて、藩営専売制や藩営工場設立など、自ら藩政改革を行い出した。
これを成功させた藩は雄藩と呼ばれ、薩摩、長州、土佐、肥前など明治維新の中核を担った藩が該当した。
雄藩①薩摩藩
藩主島津斉彬が鉄の精錬に使う反射炉や造船所、ガラス製造所を建設。
調所広郷(ずしょひろさと)は黒砂糖の専売強化や琉球王国との貿易で財政を再建した。
島津斉彬から藩主を継いだ島津忠義はイギリス人技師の指導のもと、日本初の器械紡績工場を建設、スコットランド商人グラバーから洋式武器を輸入して軍事力を強化した。グラバーって死の商人だったんだ。
雄藩②長州藩
村田清風(むらたせいふう)が紙やロウの専売制を整え、越荷方(こしにかた)を設置し、下関を通過する貨物船から商品を購入、その委託販売などを行った。
雄藩③土佐藩
おこぜ組という改革派の藩士たちを起用。支出を緊縮させた。
雄藩④肥前藩
藩主鍋島直正が均田制で農村を復興。有田焼などの陶磁器の専売によって財政を再建させるとともに、反射炉を備えた大砲の製造所を作るなど軍事力を強化した。
江戸時代後期の学問
元禄時代の古典研究が発展した国学が登場。
儒学に比べて自由な研究が行われ、批判精神も強まった。
国学
荷田春満(かだのあずままろ):外来思想は儒学も、仏教も、洋学も全て排除。
賀茂真淵:たおやめぶりを女々しいと批判。
本居宣長:『古事記伝』。たおやめぶりを真心の表れと評価。
平田篤胤:復古神道。
洋学
西川如見(にしかわじょけん):長崎でヨーロッパの見聞を記録。
新井白石:イタリア人宣教師シドッチから得た知識を『西洋紀聞』などに記録。
徳川吉宗:青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学習させた。
前野良沢と杉田玄白:『ターヘルアナトミア』を翻訳。
大槻玄沢:太陽暦の元旦にオランダ正月として新年会を開催。蘭学の入門書『蘭学階梯』を書いた。
稲村三泊:大槻玄沢の弟子。蘭日辞書の『ハルマ和解』を作成。
平賀源内:物理学者。エレキテル(静電気発生装置)の研究。
伊能忠敬:ティコ・ブラーエやケプラーなど西洋天文学を勉強し、彼を一目置いた徳川家斉の命令で17年かけて大日本沿海輿地全図を作る。
志筑忠雄(しづきただお):オランダ通訳者。『暦象新書』でニュートンやコペルニクスの説を紹介。
緒方洪庵:大阪に蘭学校の適塾を開く。
シーボルト:ドイツ人医師。長崎に鳴滝塾を開く。シーボルトは帰国の際に日本地図を勝手に持って行っちゃったので国外追放になった。
江戸時代後期の教育
藩が作った学校は藩校と言い、城下町から離れた場所に藩によって作られた学校は郷校(ごうこう)と言った。
大阪町人の出資によってできた懐徳堂からは、既成の学問を合理主義的に疑問視した、富永仲基や山片蟠桃が出た。
寺子屋は庶民の初等教育期間で、この時代に爆発的増加。
長州藩士の吉田松陰は松下村塾を開き、呉服屋に奉公した経験のある京都の石田梅岩は石田心学を開いた。
尊王思想
朱子学の大義名分論から。天皇が日本の王者という考えで水戸学などが主張。
日本で一番偉いのは将軍という幕府の立場を否定する考えなので、度々問題になった。
18世紀半ばには、竹内式部が京都の公家に尊王論を説いた宝暦事件や、尊皇論で幕府の腐敗を批判した山県大弐が処刑される明和事件などが起きている。
幕末になると、水戸藩の藤田幽谷と藤田東湖親子によって、攘夷思想と合体し、尊王攘夷運動となる。
安藤昌益
八戸の医者。『自然真営道』で当時の身分制度や封建社会を批判。
戦後にカナダの外交官ハーバード・ノーマンによって「日本に忘れられた思想家」として再評価される。
本多利明
『西域物語』において、西欧諸国と交易したほうが日本は豊かになるというデビッド・リカード的な自由貿易を主張。
佐藤信淵(さとうのぶひろ)
こちらも経済学者。『経済要録』で、産業の国営化と、海外貿易による振興策を提案。
海保青陵(かいほせいりょう)
『稽古談』で朱子学の影響で商人を見下す武士の偏見を批判。
化政文化
実は江戸時代に「化政」という元号はない。
12代将軍の徳川家斉の時代の文化期と文政期に江戸で町人文化が起きたため「化」と「政」を足して化政文化と呼んでいる。
化政文化の文学
出版物や貸本屋の普及で読書は民衆のものになった。
その題材も彼らにとって身近な政治や社会の問題が取り上げられ、洒落本(風俗本。キャバクラ潜入ルポみたいな内容)作家の山東京伝の『仕懸文庫』や、表紙が黄色い風刺漫画の黄表紙など、寛政の改革で規制された作品もあった。
コメディタッチに庶民の生活を描いたのが滑稽本で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』がある。
人情本は恋愛を題材にした小説で(ハーレクイーン的な)、『春色梅児誉美』の為永春水は、内容がエロいと天保の改革で処罰された。
挿絵がない活字オンリーの小説は読本(よみほん)と呼ばれ、読本を初めて書いた上田秋成の『雨月物語』や、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などがある。
『南総里見八犬伝』は鳥山明の『ドラゴンボール』や三谷幸喜の『合い言葉は勇気』の元ネタになった、室町時代が舞台の大ヒット長編小説で、単行本はゴルゴ並みの全98巻、滝沢馬琴は他の作品も掛け持ちした人気作家だったため、完結までに28年もかかった。
俳壇では、画家でもあった与謝蕪村、『おらが春』の小林一茶がいる。
今なお大人気な川柳(世相を風刺する季語無し俳句)は、この時代に柄井川柳によって誕生した。というか人名だったのね。
一方の狂歌(世相を風刺する短歌)には、大田南畝などの作家がいたが、やがて川柳に押された。
人形浄瑠璃の脚本では、忠臣蔵を南北朝時代にバージョンチェンジした『仮名手本忠臣蔵』の竹田出雲、武田氏と上杉氏の争いを描いた『本朝廿四孝』の近松半二&三好松洛、『東海道四谷怪談』の鶴屋南北などが有名。
都市文化
芝居小屋や見世物小屋、講談や落語などの寄席、縁日、聖地巡礼、寺社参詣・・・特に伊勢神宮への参拝ツアーは一大旅行ブームを巻き起こし、年間旅行者数500万人に登ったことがある。
化政文化の美術
まずは浮世絵。
鈴木春信は多色版画の錦絵を創始し、代表作「ささやき」を発表した。
他にも美人画の喜多川歌麿、役者絵や相撲絵の東洲斎写楽、風景画の葛飾北斎、歌川広重など。
写生画には、遠近法を取り入れた円山応挙(足がない幽霊を最初に描いた人)や呉春、文人画を描き与謝蕪村と合作した池大雅(いけのたいが)などがいる。
油絵具とともに西洋絵画も伝わり、日本の銅版画の創始者で浮世絵作家でもあった司馬江漢(しばこうかん)など日本人の西洋画作家も生まれた。
18~19世紀。
都市だけではなく農村にも貨幣経済が発展したことで、貧富の格差が深刻な社会問題となった。
これに対し幕府は、江戸の三大改革をはじめとする様々な政治改革を行なったが、うまくいかず諸藩や民衆の不満は増大していく。
またロシアやイギリスといった列強国が日本に迫り、国内外共に問題を抱えることになった。これを江戸時代の内憂外患と言う。
徳川吉宗
8代将軍。
1716年に7代将軍家継が早死し、家康の血統が途絶えたため、紀伊の藩主である彼が次の将軍に大抜擢された。この反省で、吉宗の次男の田安家と、四男の一橋家ができている。
暴れん坊なイメージがあるが、実際な質素堅実な人で、いくら天下泰平の世でも浪費グセが付いたら非常時にいっぱい働けないと、素食を続けた。
吉宗は側用人の側近政治をやめ、初代の家康のように自ら率先して政治を行ない、大岡忠相を江戸町奉行に任命するなど有能な人材を積極的に登用した。
大岡忠相は、お白州が有名だが、たびたび大火災に見舞われた江戸の防火対策(火除け地の設置や、町火消しの組織など)などにも尽力している。だからドラマではサブちゃんと仲がいいのね。
ちなみに大飢饉や疫病で亡くなった人々を弔うというコンセプトで隅田川花火大会を開いたりもしている。
享保の改革①足高の制
町奉行のポストは3000石の石高がないと就けなかったが、身分に関わらず有能な人材を登用したかった吉宗は、その人が不足する石高を在職中に限って支給した。
例えば石高2000石の人を使いたい場合、1000石を支給し就任させた。
享保の改革②上げ米の制
1722年。大名に1万石につき米100石を上納させた。その代わりに参勤交代の負担を半分にした(江戸にいる期間を半分にした)。
享保の改革③定免法
豊作凶作にかかわらず年貢率を固定し、年貢率を4割から5割に引き上げた。
享保の改革④株仲間公認
物価を安定させるため、株仲間を公認。製造、販売の独占権を与える代わりに税を課した。
享保の改革⑤新田開発
商人の力を借りて米の増産を狙った。
幕府の石高は1割以上増加し、これらの取り組みから吉宗は米将軍と呼ばれた。
享保の改革⑥相対済まし令(あいたいすましれい)
借金の訴訟を幕府は一切受け付けず、当事者同士で解決させた。
享保の改革⑦勘定所再編
勘定所を司法担当の公事方と、財政担当の勝手方に分けた。
享保の改革⑧サツマイモの普及
青木昆陽に普及させた。サツマイモは甘藷(かんしょ)と呼ばれた。
享保の改革⑨目安箱設置
庶民の意見箱。ここに届けられた意見によって、ドラマでもお馴染みの貧しい人を対象にする医療機関、小石川療養所が設置された。
享保の改革⑩公事方御定書
裁判の基準を明確化。奉行の気分とかでなく、ちゃんと判例に則った裁判をさせた。
問屋制家内工業
有力百姓である豪農と、都市の問屋が手を組み、農村に資金や原料を投入して組織された。
逆に貧しい小百姓や小作人たちは豪農と対立、労働問題が起きた。
百姓一揆
享保の改革後に頻発。
17世紀初めには旧侍層の土豪が中心だったが、17世紀後半になると村の代表者が領主に直訴する代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)になった。下総の佐倉惣五郎といった一揆の代表者は、大塩平八郎的に伝説化している。
17世紀末には、武力を伴う大規模な惣百姓一揆に発展、藩領全域に及んだものは全藩一揆と呼ばれた。
享保の飢饉
1732年。冷夏とイナゴやウンカの大量発生による西日本の大飢饉。
これにより江戸の米の価格が高騰、打ちこわしも起きた。
田沼意次
10代将軍徳川家治に厚く信頼され、側用人から老中に大出世した人物。
経済に明るい彼は、商業活動を利用して財政再建を目指し、定量計数の銀貨である南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)の鋳造(それまでは銀の塊を重さで測ってちぎっていた)や、幕府直営の銅座、真鍮座、朝鮮人参座などの設立を行なった。
他にもロシアとの交易の可能性を探るため、最上徳内(もがみとくない)を蝦夷地に派遣している。
これらの改革によって商業活動は活性化したが、賄賂やコネによる人事が横行、武士の風紀は乱れた。
そんな田沼意次の時代には、浅間山が噴火したり、天明の飢饉が起こったりと多数の死者が出るような大事件が相次ぎ、さらに対外貿易を考えていた息子の田沼意知(たぬまおきとも)は旗本に刺殺、彼自身も将軍の代替わりの際に罷免された。
松平定信
11代将軍徳川家斉の老中で、徳川吉宗の孫。福島県白河藩の藩主。
田沼意次の政治を改め、質素倹約をうたった吉宗を理想に諸改革にあたった。
寛政の改革①農村再興
飢饉で食い詰めて江戸に流れていた農民たちに、旅費を出して農村に帰らせた。
そして次の飢饉に備えて穀物倉に米を蓄えさせた。
寛政の改革②都市の治安回復
無宿者や再犯の恐れのある犯罪者を人足寄場に収容し職業訓練を行なった。
北野武監督の『アウトレイジ ビヨンド』でも中尾彬さん演じるヤクザの親分が、刑務所のことを寄場というが、ここから来ているらしい。
寛政の改革③風紀の引き締め
朱子学のみを正当な学問とし、幕府の統制下の学校で朱子学以外を教えるのを禁止させた。これを寛政異学の禁と言う。
また庶民の楽しみだった娯楽小説を次々に規制、銭湯の男女混浴も取り締まり、あまりに厳しい改革は、将軍、大名、庶民すべての反感を買い、「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」や「こんな世の中じゃ長生きしたくないポイズン」など、汚職にまみれた田沼時代を懐かしむ風潮さえ生まれた。
尊号事件
1789年。実父の典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとした光格天皇が、松平定信に拒否され、これに関わった武家伝奏などの公家が処分された事件。
これにより松平定信は将軍家斉と対立し、退陣した。
また幕府と朝廷の協調関係は崩壊、天皇の権威は尊王論とともに高まっていく。
徳川家斉(とくがわいえなり)
11代将軍。
質の悪い貨幣の大量生産で幕府財政を一時的に潤わせたが、大奥とともに浪費生活を繰り返した。
これにより物価は高騰、農村は荒廃、治安は悪化したため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を作り、関東の巡回させた。
また1827年には関東地方の村に寄場組合を作らせ、地域を警備させている。
徳川家慶(とくがわいえよし)
12代将軍。
1837年に家斉から将軍職を譲られる。しかし実権は大御所となった家斉がやっぱり握っていた。
江戸時代の内憂外患
天保の大飢饉:1830年代の連年の大飢饉で百姓一揆や打ちこわしが多発。
大塩平八郎の乱:幕府の役人の大塩平八郎による貧民救済のための武装蜂起。
生田万の乱(いくたよろずのらん):大塩に影響を受けた国学者の反乱。
ラクスマン:ロシア大使。1792年に根室に来航。
近藤重蔵と最上徳内:1798年に択捉島を調査。
レザノフ:ロシア大使。1804年ラクスマンの入港許可証を使って来航。幕府に追い返された。
間宮林蔵:1808年に樺太を調査。
ゴローウニン:ロシア軍艦艦長。1811年に国後島に上陸し逮捕、抑留された。
フェートン号事件
1808年。イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎に侵入、日本のオランダ商館職員を人質に、水や食料を要求して退去した事件。
これを受けて、幕府は1825年に外国船の撃退を命じる外国船打ち払い令を出した。
モリソン号事件
1837年。アメリカ商船モリソン号が来校し、漂流した日本人の返還と貿易を求めたが、外国船打ち払い令によって撃退された。
これを批判した渡辺崋山や高野長英は幕府によって勉強会ごと処罰されてしまう(蛮社の獄)。
水野忠邦
大御所の徳川家斉が亡くなったあと、徳川家慶のもとで政治を主導。
享保の改革と寛政の改革を手本に、権威を失いつつあった幕府の立て直しを図った。
天保の改革①倹約令
贅沢三昧の将軍や大奥にまで適用。
人情本を規制するなど、庶民の風俗も取り締まったため、庶民から非難轟々だった。
天保の改革②人返しの令
百姓の出稼ぎを禁止。江戸にいる貧民を強制的に帰郷させた。
飢餓で荒廃した農村の債権を図ったものだったが、江戸を追われた無宿者や浪人が江戸周辺の農村に流れたため、スラム化、治安が悪化してしまった。
天保の改革③株仲間の解散
徳川吉宗や田沼意次が奨励した株仲間を、物価高騰の原因であるとして解散。
しかし物価上昇の本当の原因は、生産地から上方市場への商品流通量の減少、すなわちディマンド・プル・インフレーションであり、株仲間の解散は商品流通量をさらに減少させてしまった。
天保の改革④棄捐令(きえんれい)
困窮する旗本や御家人を救うために、幕府から旗本や御家人に支給される米の仲介業である札差(ふださし)に低金利の融資を命じたが、札差に不満が残った。
天保の改革⑤上知令(あげちれい)
江戸や大阪周辺の50万石の土地を直轄化し財政の安定を狙ったが、譜代大名や旗本の猛反発を受けて実行できなかった。
工場製手工業(マニュファクチュア)
天保の改革の失敗の背景には農村の変化もあった。
19世紀前半の農村では、工場制手工業が発展し、生活に困った百姓は田畑を捨てて工場の賃金労働者に転職してしまったのである。
こうなると当然、幕府は年貢を取り立てられないので、幕藩体制の根幹が大きく揺らぐことになった。
藩政改革
頼りにならない幕府に見切りをつけた諸藩は、中級下級武士から有能な人材を取り立てて、藩営専売制や藩営工場設立など、自ら藩政改革を行い出した。
これを成功させた藩は雄藩と呼ばれ、薩摩、長州、土佐、肥前など明治維新の中核を担った藩が該当した。
雄藩①薩摩藩
藩主島津斉彬が鉄の精錬に使う反射炉や造船所、ガラス製造所を建設。
調所広郷(ずしょひろさと)は黒砂糖の専売強化や琉球王国との貿易で財政を再建した。
島津斉彬から藩主を継いだ島津忠義はイギリス人技師の指導のもと、日本初の器械紡績工場を建設、スコットランド商人グラバーから洋式武器を輸入して軍事力を強化した。グラバーって死の商人だったんだ。
雄藩②長州藩
村田清風(むらたせいふう)が紙やロウの専売制を整え、越荷方(こしにかた)を設置し、下関を通過する貨物船から商品を購入、その委託販売などを行った。
雄藩③土佐藩
おこぜ組という改革派の藩士たちを起用。支出を緊縮させた。
雄藩④肥前藩
藩主鍋島直正が均田制で農村を復興。有田焼などの陶磁器の専売によって財政を再建させるとともに、反射炉を備えた大砲の製造所を作るなど軍事力を強化した。
江戸時代後期の学問
元禄時代の古典研究が発展した国学が登場。
儒学に比べて自由な研究が行われ、批判精神も強まった。
国学
荷田春満(かだのあずままろ):外来思想は儒学も、仏教も、洋学も全て排除。
賀茂真淵:たおやめぶりを女々しいと批判。
本居宣長:『古事記伝』。たおやめぶりを真心の表れと評価。
平田篤胤:復古神道。
洋学
西川如見(にしかわじょけん):長崎でヨーロッパの見聞を記録。
新井白石:イタリア人宣教師シドッチから得た知識を『西洋紀聞』などに記録。
徳川吉宗:青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学習させた。
前野良沢と杉田玄白:『ターヘルアナトミア』を翻訳。
大槻玄沢:太陽暦の元旦にオランダ正月として新年会を開催。蘭学の入門書『蘭学階梯』を書いた。
稲村三泊:大槻玄沢の弟子。蘭日辞書の『ハルマ和解』を作成。
平賀源内:物理学者。エレキテル(静電気発生装置)の研究。
伊能忠敬:ティコ・ブラーエやケプラーなど西洋天文学を勉強し、彼を一目置いた徳川家斉の命令で17年かけて大日本沿海輿地全図を作る。
志筑忠雄(しづきただお):オランダ通訳者。『暦象新書』でニュートンやコペルニクスの説を紹介。
緒方洪庵:大阪に蘭学校の適塾を開く。
シーボルト:ドイツ人医師。長崎に鳴滝塾を開く。シーボルトは帰国の際に日本地図を勝手に持って行っちゃったので国外追放になった。
江戸時代後期の教育
藩が作った学校は藩校と言い、城下町から離れた場所に藩によって作られた学校は郷校(ごうこう)と言った。
大阪町人の出資によってできた懐徳堂からは、既成の学問を合理主義的に疑問視した、富永仲基や山片蟠桃が出た。
寺子屋は庶民の初等教育期間で、この時代に爆発的増加。
長州藩士の吉田松陰は松下村塾を開き、呉服屋に奉公した経験のある京都の石田梅岩は石田心学を開いた。
尊王思想
朱子学の大義名分論から。天皇が日本の王者という考えで水戸学などが主張。
日本で一番偉いのは将軍という幕府の立場を否定する考えなので、度々問題になった。
18世紀半ばには、竹内式部が京都の公家に尊王論を説いた宝暦事件や、尊皇論で幕府の腐敗を批判した山県大弐が処刑される明和事件などが起きている。
幕末になると、水戸藩の藤田幽谷と藤田東湖親子によって、攘夷思想と合体し、尊王攘夷運動となる。
安藤昌益
八戸の医者。『自然真営道』で当時の身分制度や封建社会を批判。
戦後にカナダの外交官ハーバード・ノーマンによって「日本に忘れられた思想家」として再評価される。
本多利明
『西域物語』において、西欧諸国と交易したほうが日本は豊かになるというデビッド・リカード的な自由貿易を主張。
佐藤信淵(さとうのぶひろ)
こちらも経済学者。『経済要録』で、産業の国営化と、海外貿易による振興策を提案。
海保青陵(かいほせいりょう)
『稽古談』で朱子学の影響で商人を見下す武士の偏見を批判。
化政文化
実は江戸時代に「化政」という元号はない。
12代将軍の徳川家斉の時代の文化期と文政期に江戸で町人文化が起きたため「化」と「政」を足して化政文化と呼んでいる。
化政文化の文学
出版物や貸本屋の普及で読書は民衆のものになった。
その題材も彼らにとって身近な政治や社会の問題が取り上げられ、洒落本(風俗本。キャバクラ潜入ルポみたいな内容)作家の山東京伝の『仕懸文庫』や、表紙が黄色い風刺漫画の黄表紙など、寛政の改革で規制された作品もあった。
コメディタッチに庶民の生活を描いたのが滑稽本で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』がある。
人情本は恋愛を題材にした小説で(ハーレクイーン的な)、『春色梅児誉美』の為永春水は、内容がエロいと天保の改革で処罰された。
挿絵がない活字オンリーの小説は読本(よみほん)と呼ばれ、読本を初めて書いた上田秋成の『雨月物語』や、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などがある。
『南総里見八犬伝』は鳥山明の『ドラゴンボール』や三谷幸喜の『合い言葉は勇気』の元ネタになった、室町時代が舞台の大ヒット長編小説で、単行本はゴルゴ並みの全98巻、滝沢馬琴は他の作品も掛け持ちした人気作家だったため、完結までに28年もかかった。
俳壇では、画家でもあった与謝蕪村、『おらが春』の小林一茶がいる。
今なお大人気な川柳(世相を風刺する季語無し俳句)は、この時代に柄井川柳によって誕生した。というか人名だったのね。
一方の狂歌(世相を風刺する短歌)には、大田南畝などの作家がいたが、やがて川柳に押された。
人形浄瑠璃の脚本では、忠臣蔵を南北朝時代にバージョンチェンジした『仮名手本忠臣蔵』の竹田出雲、武田氏と上杉氏の争いを描いた『本朝廿四孝』の近松半二&三好松洛、『東海道四谷怪談』の鶴屋南北などが有名。
都市文化
芝居小屋や見世物小屋、講談や落語などの寄席、縁日、聖地巡礼、寺社参詣・・・特に伊勢神宮への参拝ツアーは一大旅行ブームを巻き起こし、年間旅行者数500万人に登ったことがある。
化政文化の美術
まずは浮世絵。
鈴木春信は多色版画の錦絵を創始し、代表作「ささやき」を発表した。
他にも美人画の喜多川歌麿、役者絵や相撲絵の東洲斎写楽、風景画の葛飾北斎、歌川広重など。
写生画には、遠近法を取り入れた円山応挙(足がない幽霊を最初に描いた人)や呉春、文人画を描き与謝蕪村と合作した池大雅(いけのたいが)などがいる。
油絵具とともに西洋絵画も伝わり、日本の銅版画の創始者で浮世絵作家でもあった司馬江漢(しばこうかん)など日本人の西洋画作家も生まれた。
江戸時代覚え書き②
2015-03-28 00:42:39 (9 years ago)
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カテゴリタグ:
- 歴史
江戸時代中期
17世紀半ば~18世紀初めの、幕藩体制が確立し社会秩序が安定した時期。
幕府の政治も武力を盾にした専制的なものから、儒教的な道徳や礼儀に基づく文治政治になった。将軍の方は不幸が続いて、家綱→綱吉→家宣→家継と代わっている。
また、農業をはじめとする各種産業に商人の資本が大々的に投下され、まさに時代は経済革命だった。
なにより、私が大好きな水戸黄門の時代でもある。TBSは国民に対する歴史教育の一環としてぜひ再放送をしていただきたい。
徳川家綱
4代将軍。1651年に先代で父親の家光が亡くなったため将軍職に就いたが、この時まだ11歳だったため、実際の政治は叔父の会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)が行なった。
彼が取り組んだ社会問題は、失業した武士である牢人(ろうにん)がかぶき者となって社会秩序を乱すことだった。
この時代では、跡継ぎのいない大名が、養子を取って勝手に土地を相続することは末期養子の禁(まつごようしのきん)という法律で禁じられていた。そのため、たくさんの大名家が断絶、かぶき者予備軍の牢人が増加したのである。
1651年に起きた、兵学者の由井正雪の乱(慶安の変)も、背景にはこういった武士の失業問題があった。
この対策として保科正之は、かぶき者の取り締まりを強化すると共に、末期養子の禁を緩和(50歳未満の大名は養子をとってOKになった)、また家臣が主人の後を追って自害(殉死)することを禁止した。
殉死の禁止は、主人が代わっても家臣は死なずに、次の主人に仕えなさいということで、牢人の増加を防止するとともに、主従関係も確立して、下克上の可能性は減少した。
藩政改革
社会が安定し軍役が減ったことで、有能な家臣を補佐官にして、治水事業や新田開発を行う殿様が増えた。
将軍を助けた保科正之は、垂加神道(神道+儒教)を唱えたことで有名な山崎闇斎(やまざきあんさい)、水戸の徳川光圀は、明の儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)、岡山の池田光政は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)、加賀の前田綱紀は、徳川綱吉の家庭教師も務めた木下順庵といった著名な学者を招いて、小泉竹中的に改革を実行した。
徳川綱吉
5代将軍。彼が将軍を務めた頃を元禄時代といい、水戸黄門もこの時代を舞台にしたドラマである。
綱吉の補佐は最初、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が務めていたが、彼が若年寄に暗殺されてしまったため(綱吉黒幕説アリ)、側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、その後将軍の補佐をした。
綱吉は、儒学者の木下順庵を家庭教師を付けていたため、天和令(てんなれい)という武家諸法度で忠孝、礼儀を第一に要求した。
また林羅山が上野に開いた塾を、湯島に移し湯島聖堂として、その経営を林家に主催させ、大学頭に林鳳岡(はやしほうこう)を就けた。ここは受験シーズンになると受験生が合格祈願に殺到する。
また、綱吉は神道にも影響を受けており、服忌令(ぶっきれい)で喪に服したり、忌引き日数を定め、死や血を嫌う風潮を生み出し、死を恐れないチンピラだったかぶき者の生き様を否定した。
生類憐れみの令
さらに綱吉は仏教にも帰依していたため(インテリだったんだな)、生き物すべての殺生を禁止する生類憐れみの令を出し、民衆は虫も殺せないと大迷惑したが、野犬はすべて施設に保護されたので町にうろつくことはなくなった。
そもそもこの法令の最大の狙いは、動物ではなく、人間――捨て子の保護だった。
なんだかんだ言って、綱吉の時代までは戦国時代のノリがあったため、人を殺すのは割と日常的だった(野球のバッティング練習の感覚で庶民やイヌを試し斬りしていた)。
生類憐れみの令は、そんな日本人の意識を変えた人権尊重的な法律だった・・・って井沢元彦さんが言ってた。
徳川綱吉は、ドラマと違い本当は水戸黄門とあまり仲が良くなかったらしいが、これも水戸のご老公が「人だって罪を犯せば罰せられるのに、田畑を荒らす害獣を殺せないのは絶対おかしい」と生類憐れみの令を批判し、犬将軍とまで呼ばれた愛犬家の綱吉に犬の毛皮をプレゼントしたからである。
う~ん、どっちの言い分もわかるけど、やっぱご老公パンキッシュだぜ。どっか旅に行かせてたほうが将軍もホッとしたのかもな。
貨幣改鋳
鉱山の金銀の産出量の減少、1657年に江戸で発生した日本史上最大の大火事である明暦の大火、信仰心の厚い綱吉による相次ぐ寺社建設などで、綱吉の時代には幕府の財政状況はかなり厳しかった。
そこで勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が提案した貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らした元禄小判を発行し、これを量産することで(量的緩和)、その差額を財政再建にあてた。
これにより幕府の収入は上がったが、質の低い貨幣はインフレを発生させ、民衆の生活は苦しくなった。
宝永大噴火
1707年。マグニチュード9クラスの南海トラフ地震によって引き起こされた富士山の大噴火で、以降富士山は噴火していない。当時江戸に滞在していた新井白石は、大量の火山灰で昼でも暗くなった江戸の様子を記録している。
徳川家宣
6代将軍。1709年に亡くなった綱吉の跡を継いだ。
綱吉の側近の柳沢吉保を退け、代わりに高名な朱子学者の新井白石と政治の刷新を行なった。
家宣は生類憐れみの令を廃止させたが、在職してたった3年でインフルエンザをこじらせて亡くなってしまった(51歳)。
徳川家継
7代将軍。家宣の死で急遽7代目の将軍になったが、この時家継はまだ3歳。
そのため幕政は、そのまま新井白石が主導した(正徳の政治)。
新井白石は、3歳の家継と2歳の皇女八十宮(やそのみや)の婚約をまとめ、将軍家と皇室との結びつきを強化したが、婚約の翌年に家継は風邪をこじらせて、まだ8歳で病死してしまう。これは歴代で最も短命な将軍となった。
この他にも新井白石は、財政難に苦しむ皇室を繁栄させるために閑院宮(かんいんのみや)という新しい宮家を新設している。
新井白石
新井白石の政治は、主に経済政策で知られる。
長崎貿易による金の流出を防ぐための法律である海舶互市新例(かいはくごししんれい)を発布するとともに、金含有量を家康の時代の慶長小判と戻した正徳小判を発行しディスインフレを目指した。
しかし立て続けの貨幣変更は社会を混乱させてしまった。
農業の発達
鉱山開発の諸技術(掘削、測量、排水)が農業に転用され、河川敷や沿岸部などで大規模な耕作が可能になった。
全国の農地の数は17世紀初めから18世紀のはじめにかけて、二倍にも激増した。
有力な都市商人が農地に資金を投下し開発する、町人請負新田も各地にできた。『プロミストランド』みたいだな。
宮崎安貞(みやざきやすさだ)の『農業全書』、大倉常永(おおくらつねなが)の『農具便利論』といった、新しい栽培技術や農業技術を紹介する本も著され、米の生産力は飛躍的に向上、余ったお米は商品として売却され貨幣に変わった。
この時代に開発された農具には、備中ぐわ、脱穀用のでかい鉄製のクシが取り付けられた千歯こき、脱穀したお米と籾殻を選別するためのビンゴゲームのガラガラみたいな唐箕(とうみ)、ふるい付きの滑り台みたいな千石どおし、人の足で踏んで水を汲み上げる小型の水車の踏車などがある。
商品作物
桑、漆、茶、楮(和紙の原料)、麻、藍、紅花はまとめて四木三草と呼ばれた。
ほかにも綿花、油菜、野菜、果物、タバコなどが生産。
肥料には、干鰯、〆粕(青魚のカス)、油粕などの市販された肥料の金肥が利用された。
鉱山業の発達
17世紀後半になると、ついに金銀の産出量が減り、それに代わって銅の産出が急増した。
銅は貨幣になったり、長崎貿易の最大の輸出品になった。
また木炭で砂鉄を精錬するたたら製鉄が中国地方や東北地方で行われ、玉鋼は農具や工具に加工された。
漁業の発達
網漁法や、沿岸部の漁場が開発。
九十九里浜のイワシ漁や、松前のニシン漁などが有名。
蝦夷地では、いりこ、ほしあわび、ふかのひれを俵に詰めた俵物が生産され、銅に代わる清への輸出品になった。
入浜塩田もさらに発達した。
林業の発達
都市の開発が進んだため、木材の需要が急増、材木問屋によって蝦夷地にまで林業が広がった。
尾張藩の木曽檜、秋田藩の秋田杉など。
織物業の発達
絹、木綿、麻織物などがあり、その中でも絹織物が高級だった。
なかでも京都の西陣織は、腰をピンと立てて真っ直ぐに織らなければいけない高機(たかばた)という織り機で織られ、高度な技術が必要とされた(気を抜くとすぐよれる)。
木綿や麻をつかった織物は庶民の衣料として消費され、村の百姓――特に女性が零細的に生産した。
有名な産地には、河内(木綿)、近江(麻)、奈良(晒)などがある。
製紙業の発達
和紙の流漉(ながしすき)の技術が発達し、岐阜県美濃といった生産地には専売性が敷かれた。
和紙の主な原料は楮(こうぞ)で、木材を使ったパルプが用いられるようになるのは明治時代からである。
ちなみに、楮のみの紙漉き技術は、2014年にユネスコの世界無形文化遺産になった。
醸造業の発達
京都の伏見や神戸の灘が酒を、千葉の野田や銚子が醤油を生産。
商業の発達
国内交通が整備される以前は、朱印船貿易で荒稼ぎした、堺、京都、博多、長崎、敦賀などの初期豪商が商業の中心となっていたが、海外との交易が制限され、国内交通が整備されると、商業の中心は次第に、三都(江戸、大阪、京都)や城下町で国内流通を牛耳る問屋(といや)となった。
問屋の同業者組合は仲間と呼ばれ、仲間掟を作って営業権独占を図った(カルテル行為)。
特に、江戸の十組問屋(とくみといや)と二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は有名で、幕府はこのような連合組織に営業税(運上、冥加)を課した。
問屋の支配下には、小売商人への卸売を独占した仲買人がおり、小売商人の多くは常設の店舗を持たず、振売、某手振りと呼ばれた。魚が入った天秤みたいなのを担いで、鉢巻きしている人がそれである。
五街道
江戸の日本橋を起点とする幹線道路。
三都を結ぶ東海道と、その北に並列する中山道、江戸と甲府をつなぐ甲州道中、江戸と東北を結ぶ奥州道中、日光への日光道中の5つ。
五街道は幕府の直轄下で、道中奉行が管理した。
これ以外の主要道路は脇街道と呼ばれた。
菱垣廻船(ひがきかいせん)
大型の貨物船で17世紀後半から運航開始。大阪から江戸に木綿や油、酒を運んだ。
樽廻船(たるかいせん)
小型の貨物船で18世紀前半から運航開始。
本来は酒の輸送専用の船だったが、菱垣廻船に比べて速度がべらぼうに速く、その後ほかの物資も運ぶようになった。
菱垣廻船が10~20日かかる南海路を58時間で済ませるという最高記録を出したらしい。
これにより19世紀以降は樽廻船が優位になり、菱垣廻船は衰退した。
河村瑞賢(かわむらずいけん)
全国的な海上交通網である東廻り海運(東北地方太平洋側~江戸)と西廻り海運(江戸~大阪~瀬戸内海~下関~北陸)を整備した。
角倉了以(すみのくらりょうい)
富士川や京都の高瀬川に新たな水路を開いた。
三貨
金貨、銀貨、寛永通宝などの銭貨(ぜんか)を合わせた言い方。17世紀半ばまでに全国的に普及。
金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座で鋳造された。
この三貨の交換レートは変動相場制だった。
面白いことに金貨は主に江戸で流通、銀貨は主に大阪で流通したため、江戸の金遣い、大阪の銀遣いと言われた。金座も銀座も江戸と京都にあったんだけど。
それ以外の貨幣では、各藩が発行しその藩だけで使える地域通貨の藩札や、商人発行の少額紙幣の私札などがあった。
両替商
特に、大阪や江戸の有力な両替商は、三貨の両替だけでなく、公金の出納や為替、貸付といった会計業務も行なっており、幕府や藩の財政を支えた。
有名な両替店は、大阪の天王寺屋、平野屋、鴻池屋(こうのいけや)、江戸の三井、三谷、加島屋など。
時代劇における「お主もワルよのぉ」でお馴染みの、両替商を営む呉服屋、越後屋さんも実在し、少量の呉服でも安心の価格で買えるというユニクロ戦法によって江戸、京都、大阪に14店舗を構えるまでに利益を上げた・・・ってチェーン展開してたんかい。
三都
江戸:将軍のお膝元。人口100万人の世界有数の大都市で、政治の中心地だった。
大阪:天下の台所。人口約35万人で、諸藩の蔵屋敷が置かれた商業の中心地だった。
京都:皇室や公家、寺社が集中。人口約40万人で宗教や文化の中心地だった。
元禄文化
水戸黄門の時代の文化。
大阪の豪商を中心に育まれたため現実主義的で、さらに儒教の影響が強く、逆に仏教の影響が薄いことが特徴。
井原西鶴
江戸時代を代表する作家の一人。
元は大阪の商人で、軽妙な句調の談林俳諧で注目を集め、その後享楽的な現世を描いた連続短編小説、浮世草子を執筆した。
スケベ男を題材にした『好色一代男』、町人を題材にした『日本永代蔵』、武士を題材にした『武家義理物語』など。
近松門左衛門
江戸時代を代表する脚本家の一人。
彼は出身が武士で、現実社会や歴史を題材にし、そこで義理人情に悩む人間の姿を、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として描いた。
ヒットしすぎて心中事件を多発させてしまった問題作『曽根崎心中』、明と日本のハーフの主人公が明に行きその再興を目指す『国姓爺合戦』などが代表作。
彼の作品は人形浄瑠璃で竹本義太夫に語られ大人気、義太夫節が生まれた。
松尾芭蕉
伊賀出身のため忍者説がある俳人。談林俳諧とは一線を画す、芸術性の高い蕉風俳諧を確立。
代表作は『奥の細道』で、自然と人間を鋭く見つめた。
歌舞伎
民衆の演劇である歌舞伎は、江戸と上方に常設の芝居小屋が置かれた。
江戸の市川団十郎は勇ましい演技(荒事)で大好評となり、京都の坂田藤十郎は恋愛劇(和事)で大好評となった。
元禄文化の芸術
土佐光起:朝廷の御用絵師。
住吉如慶と具慶親子:幕府の御用絵師。洛中洛外図巻。
菱川師宣:浮世絵を確立。有名な見返り美人像は肉筆画だが、版画も作った。
尾形光琳:俵谷宗達の画法を取り入れ琳派を起こす。燕子花(かきつばた)図屏風、紅白梅図屏風、八橋蒔絵螺鈿硯箱など。
宮崎友禅:友禅染を創始。
野々村仁清:陶工。色絵を完成。京焼を創始。
朱子学
戦国時代に開かれた海南学派が、山崎闇斎や野中兼山を輩出。
陽明学
明の王陽明が創始した儒学。知行合一がモットーで、中江藤樹やその弟子の熊沢蕃山が幕政を批判したため、幕府に危険視された。
古学派
孔子や孟子の古典に立ち返る一派。
感情や欲望を否定する朱子学を独善的と批判した山鹿素行や、伊藤仁斎が創始。
これを継いだ荻生徂徠は、統治の具体策、経世論を説いて、徳川綱吉についた柳沢吉保や、徳川吉宗に重用された。
荻生徂徠の弟子の太宰春台(だざいしゅんだい)は著書『経済録』で、武士も商業を行ない利益を上げろと主張した。
その他の学問
新井白石:『読史余論』、『古史通』で独自の歴史観を論じる。
貝原益軒(かいばらえきけん):博物学者。著書は『大和本草』。
関孝和:和算。測量や商取引に利用。代数や円周率計算などの研究。
渋川春海(しぶかわしゅんかい):天文学。幕府独自の暦である貞京暦(じょうきょうれき)を作る。
契沖(けいちゅう):古典研究。『万葉集』を研究。
北村季吟(きたむらきぎん):古典研究。『源氏物語』や『枕草子』を研究。
17世紀半ば~18世紀初めの、幕藩体制が確立し社会秩序が安定した時期。
幕府の政治も武力を盾にした専制的なものから、儒教的な道徳や礼儀に基づく文治政治になった。将軍の方は不幸が続いて、家綱→綱吉→家宣→家継と代わっている。
また、農業をはじめとする各種産業に商人の資本が大々的に投下され、まさに時代は経済革命だった。
なにより、私が大好きな水戸黄門の時代でもある。TBSは国民に対する歴史教育の一環としてぜひ再放送をしていただきたい。
徳川家綱
4代将軍。1651年に先代で父親の家光が亡くなったため将軍職に就いたが、この時まだ11歳だったため、実際の政治は叔父の会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)が行なった。
彼が取り組んだ社会問題は、失業した武士である牢人(ろうにん)がかぶき者となって社会秩序を乱すことだった。
この時代では、跡継ぎのいない大名が、養子を取って勝手に土地を相続することは末期養子の禁(まつごようしのきん)という法律で禁じられていた。そのため、たくさんの大名家が断絶、かぶき者予備軍の牢人が増加したのである。
1651年に起きた、兵学者の由井正雪の乱(慶安の変)も、背景にはこういった武士の失業問題があった。
この対策として保科正之は、かぶき者の取り締まりを強化すると共に、末期養子の禁を緩和(50歳未満の大名は養子をとってOKになった)、また家臣が主人の後を追って自害(殉死)することを禁止した。
殉死の禁止は、主人が代わっても家臣は死なずに、次の主人に仕えなさいということで、牢人の増加を防止するとともに、主従関係も確立して、下克上の可能性は減少した。
藩政改革
社会が安定し軍役が減ったことで、有能な家臣を補佐官にして、治水事業や新田開発を行う殿様が増えた。
将軍を助けた保科正之は、垂加神道(神道+儒教)を唱えたことで有名な山崎闇斎(やまざきあんさい)、水戸の徳川光圀は、明の儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)、岡山の池田光政は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)、加賀の前田綱紀は、徳川綱吉の家庭教師も務めた木下順庵といった著名な学者を招いて、小泉竹中的に改革を実行した。
徳川綱吉
5代将軍。彼が将軍を務めた頃を元禄時代といい、水戸黄門もこの時代を舞台にしたドラマである。
綱吉の補佐は最初、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が務めていたが、彼が若年寄に暗殺されてしまったため(綱吉黒幕説アリ)、側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、その後将軍の補佐をした。
綱吉は、儒学者の木下順庵を家庭教師を付けていたため、天和令(てんなれい)という武家諸法度で忠孝、礼儀を第一に要求した。
また林羅山が上野に開いた塾を、湯島に移し湯島聖堂として、その経営を林家に主催させ、大学頭に林鳳岡(はやしほうこう)を就けた。ここは受験シーズンになると受験生が合格祈願に殺到する。
また、綱吉は神道にも影響を受けており、服忌令(ぶっきれい)で喪に服したり、忌引き日数を定め、死や血を嫌う風潮を生み出し、死を恐れないチンピラだったかぶき者の生き様を否定した。
生類憐れみの令
さらに綱吉は仏教にも帰依していたため(インテリだったんだな)、生き物すべての殺生を禁止する生類憐れみの令を出し、民衆は虫も殺せないと大迷惑したが、野犬はすべて施設に保護されたので町にうろつくことはなくなった。
そもそもこの法令の最大の狙いは、動物ではなく、人間――捨て子の保護だった。
なんだかんだ言って、綱吉の時代までは戦国時代のノリがあったため、人を殺すのは割と日常的だった(野球のバッティング練習の感覚で庶民やイヌを試し斬りしていた)。
生類憐れみの令は、そんな日本人の意識を変えた人権尊重的な法律だった・・・って井沢元彦さんが言ってた。
徳川綱吉は、ドラマと違い本当は水戸黄門とあまり仲が良くなかったらしいが、これも水戸のご老公が「人だって罪を犯せば罰せられるのに、田畑を荒らす害獣を殺せないのは絶対おかしい」と生類憐れみの令を批判し、犬将軍とまで呼ばれた愛犬家の綱吉に犬の毛皮をプレゼントしたからである。
う~ん、どっちの言い分もわかるけど、やっぱご老公パンキッシュだぜ。どっか旅に行かせてたほうが将軍もホッとしたのかもな。
貨幣改鋳
鉱山の金銀の産出量の減少、1657年に江戸で発生した日本史上最大の大火事である明暦の大火、信仰心の厚い綱吉による相次ぐ寺社建設などで、綱吉の時代には幕府の財政状況はかなり厳しかった。
そこで勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が提案した貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らした元禄小判を発行し、これを量産することで(量的緩和)、その差額を財政再建にあてた。
これにより幕府の収入は上がったが、質の低い貨幣はインフレを発生させ、民衆の生活は苦しくなった。
宝永大噴火
1707年。マグニチュード9クラスの南海トラフ地震によって引き起こされた富士山の大噴火で、以降富士山は噴火していない。当時江戸に滞在していた新井白石は、大量の火山灰で昼でも暗くなった江戸の様子を記録している。
徳川家宣
6代将軍。1709年に亡くなった綱吉の跡を継いだ。
綱吉の側近の柳沢吉保を退け、代わりに高名な朱子学者の新井白石と政治の刷新を行なった。
家宣は生類憐れみの令を廃止させたが、在職してたった3年でインフルエンザをこじらせて亡くなってしまった(51歳)。
徳川家継
7代将軍。家宣の死で急遽7代目の将軍になったが、この時家継はまだ3歳。
そのため幕政は、そのまま新井白石が主導した(正徳の政治)。
新井白石は、3歳の家継と2歳の皇女八十宮(やそのみや)の婚約をまとめ、将軍家と皇室との結びつきを強化したが、婚約の翌年に家継は風邪をこじらせて、まだ8歳で病死してしまう。これは歴代で最も短命な将軍となった。
この他にも新井白石は、財政難に苦しむ皇室を繁栄させるために閑院宮(かんいんのみや)という新しい宮家を新設している。
新井白石
新井白石の政治は、主に経済政策で知られる。
長崎貿易による金の流出を防ぐための法律である海舶互市新例(かいはくごししんれい)を発布するとともに、金含有量を家康の時代の慶長小判と戻した正徳小判を発行しディスインフレを目指した。
しかし立て続けの貨幣変更は社会を混乱させてしまった。
農業の発達
鉱山開発の諸技術(掘削、測量、排水)が農業に転用され、河川敷や沿岸部などで大規模な耕作が可能になった。
全国の農地の数は17世紀初めから18世紀のはじめにかけて、二倍にも激増した。
有力な都市商人が農地に資金を投下し開発する、町人請負新田も各地にできた。『プロミストランド』みたいだな。
宮崎安貞(みやざきやすさだ)の『農業全書』、大倉常永(おおくらつねなが)の『農具便利論』といった、新しい栽培技術や農業技術を紹介する本も著され、米の生産力は飛躍的に向上、余ったお米は商品として売却され貨幣に変わった。
この時代に開発された農具には、備中ぐわ、脱穀用のでかい鉄製のクシが取り付けられた千歯こき、脱穀したお米と籾殻を選別するためのビンゴゲームのガラガラみたいな唐箕(とうみ)、ふるい付きの滑り台みたいな千石どおし、人の足で踏んで水を汲み上げる小型の水車の踏車などがある。
商品作物
桑、漆、茶、楮(和紙の原料)、麻、藍、紅花はまとめて四木三草と呼ばれた。
ほかにも綿花、油菜、野菜、果物、タバコなどが生産。
肥料には、干鰯、〆粕(青魚のカス)、油粕などの市販された肥料の金肥が利用された。
鉱山業の発達
17世紀後半になると、ついに金銀の産出量が減り、それに代わって銅の産出が急増した。
銅は貨幣になったり、長崎貿易の最大の輸出品になった。
また木炭で砂鉄を精錬するたたら製鉄が中国地方や東北地方で行われ、玉鋼は農具や工具に加工された。
漁業の発達
網漁法や、沿岸部の漁場が開発。
九十九里浜のイワシ漁や、松前のニシン漁などが有名。
蝦夷地では、いりこ、ほしあわび、ふかのひれを俵に詰めた俵物が生産され、銅に代わる清への輸出品になった。
入浜塩田もさらに発達した。
林業の発達
都市の開発が進んだため、木材の需要が急増、材木問屋によって蝦夷地にまで林業が広がった。
尾張藩の木曽檜、秋田藩の秋田杉など。
織物業の発達
絹、木綿、麻織物などがあり、その中でも絹織物が高級だった。
なかでも京都の西陣織は、腰をピンと立てて真っ直ぐに織らなければいけない高機(たかばた)という織り機で織られ、高度な技術が必要とされた(気を抜くとすぐよれる)。
木綿や麻をつかった織物は庶民の衣料として消費され、村の百姓――特に女性が零細的に生産した。
有名な産地には、河内(木綿)、近江(麻)、奈良(晒)などがある。
製紙業の発達
和紙の流漉(ながしすき)の技術が発達し、岐阜県美濃といった生産地には専売性が敷かれた。
和紙の主な原料は楮(こうぞ)で、木材を使ったパルプが用いられるようになるのは明治時代からである。
ちなみに、楮のみの紙漉き技術は、2014年にユネスコの世界無形文化遺産になった。
醸造業の発達
京都の伏見や神戸の灘が酒を、千葉の野田や銚子が醤油を生産。
商業の発達
国内交通が整備される以前は、朱印船貿易で荒稼ぎした、堺、京都、博多、長崎、敦賀などの初期豪商が商業の中心となっていたが、海外との交易が制限され、国内交通が整備されると、商業の中心は次第に、三都(江戸、大阪、京都)や城下町で国内流通を牛耳る問屋(といや)となった。
問屋の同業者組合は仲間と呼ばれ、仲間掟を作って営業権独占を図った(カルテル行為)。
特に、江戸の十組問屋(とくみといや)と二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は有名で、幕府はこのような連合組織に営業税(運上、冥加)を課した。
問屋の支配下には、小売商人への卸売を独占した仲買人がおり、小売商人の多くは常設の店舗を持たず、振売、某手振りと呼ばれた。魚が入った天秤みたいなのを担いで、鉢巻きしている人がそれである。
五街道
江戸の日本橋を起点とする幹線道路。
三都を結ぶ東海道と、その北に並列する中山道、江戸と甲府をつなぐ甲州道中、江戸と東北を結ぶ奥州道中、日光への日光道中の5つ。
五街道は幕府の直轄下で、道中奉行が管理した。
これ以外の主要道路は脇街道と呼ばれた。
菱垣廻船(ひがきかいせん)
大型の貨物船で17世紀後半から運航開始。大阪から江戸に木綿や油、酒を運んだ。
樽廻船(たるかいせん)
小型の貨物船で18世紀前半から運航開始。
本来は酒の輸送専用の船だったが、菱垣廻船に比べて速度がべらぼうに速く、その後ほかの物資も運ぶようになった。
菱垣廻船が10~20日かかる南海路を58時間で済ませるという最高記録を出したらしい。
これにより19世紀以降は樽廻船が優位になり、菱垣廻船は衰退した。
河村瑞賢(かわむらずいけん)
全国的な海上交通網である東廻り海運(東北地方太平洋側~江戸)と西廻り海運(江戸~大阪~瀬戸内海~下関~北陸)を整備した。
角倉了以(すみのくらりょうい)
富士川や京都の高瀬川に新たな水路を開いた。
三貨
金貨、銀貨、寛永通宝などの銭貨(ぜんか)を合わせた言い方。17世紀半ばまでに全国的に普及。
金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座で鋳造された。
この三貨の交換レートは変動相場制だった。
面白いことに金貨は主に江戸で流通、銀貨は主に大阪で流通したため、江戸の金遣い、大阪の銀遣いと言われた。金座も銀座も江戸と京都にあったんだけど。
それ以外の貨幣では、各藩が発行しその藩だけで使える地域通貨の藩札や、商人発行の少額紙幣の私札などがあった。
両替商
特に、大阪や江戸の有力な両替商は、三貨の両替だけでなく、公金の出納や為替、貸付といった会計業務も行なっており、幕府や藩の財政を支えた。
有名な両替店は、大阪の天王寺屋、平野屋、鴻池屋(こうのいけや)、江戸の三井、三谷、加島屋など。
時代劇における「お主もワルよのぉ」でお馴染みの、両替商を営む呉服屋、越後屋さんも実在し、少量の呉服でも安心の価格で買えるというユニクロ戦法によって江戸、京都、大阪に14店舗を構えるまでに利益を上げた・・・ってチェーン展開してたんかい。
三都
江戸:将軍のお膝元。人口100万人の世界有数の大都市で、政治の中心地だった。
大阪:天下の台所。人口約35万人で、諸藩の蔵屋敷が置かれた商業の中心地だった。
京都:皇室や公家、寺社が集中。人口約40万人で宗教や文化の中心地だった。
元禄文化
水戸黄門の時代の文化。
大阪の豪商を中心に育まれたため現実主義的で、さらに儒教の影響が強く、逆に仏教の影響が薄いことが特徴。
井原西鶴
江戸時代を代表する作家の一人。
元は大阪の商人で、軽妙な句調の談林俳諧で注目を集め、その後享楽的な現世を描いた連続短編小説、浮世草子を執筆した。
スケベ男を題材にした『好色一代男』、町人を題材にした『日本永代蔵』、武士を題材にした『武家義理物語』など。
近松門左衛門
江戸時代を代表する脚本家の一人。
彼は出身が武士で、現実社会や歴史を題材にし、そこで義理人情に悩む人間の姿を、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として描いた。
ヒットしすぎて心中事件を多発させてしまった問題作『曽根崎心中』、明と日本のハーフの主人公が明に行きその再興を目指す『国姓爺合戦』などが代表作。
彼の作品は人形浄瑠璃で竹本義太夫に語られ大人気、義太夫節が生まれた。
松尾芭蕉
伊賀出身のため忍者説がある俳人。談林俳諧とは一線を画す、芸術性の高い蕉風俳諧を確立。
代表作は『奥の細道』で、自然と人間を鋭く見つめた。
歌舞伎
民衆の演劇である歌舞伎は、江戸と上方に常設の芝居小屋が置かれた。
江戸の市川団十郎は勇ましい演技(荒事)で大好評となり、京都の坂田藤十郎は恋愛劇(和事)で大好評となった。
元禄文化の芸術
土佐光起:朝廷の御用絵師。
住吉如慶と具慶親子:幕府の御用絵師。洛中洛外図巻。
菱川師宣:浮世絵を確立。有名な見返り美人像は肉筆画だが、版画も作った。
尾形光琳:俵谷宗達の画法を取り入れ琳派を起こす。燕子花(かきつばた)図屏風、紅白梅図屏風、八橋蒔絵螺鈿硯箱など。
宮崎友禅:友禅染を創始。
野々村仁清:陶工。色絵を完成。京焼を創始。
朱子学
戦国時代に開かれた海南学派が、山崎闇斎や野中兼山を輩出。
陽明学
明の王陽明が創始した儒学。知行合一がモットーで、中江藤樹やその弟子の熊沢蕃山が幕政を批判したため、幕府に危険視された。
古学派
孔子や孟子の古典に立ち返る一派。
感情や欲望を否定する朱子学を独善的と批判した山鹿素行や、伊藤仁斎が創始。
これを継いだ荻生徂徠は、統治の具体策、経世論を説いて、徳川綱吉についた柳沢吉保や、徳川吉宗に重用された。
荻生徂徠の弟子の太宰春台(だざいしゅんだい)は著書『経済録』で、武士も商業を行ない利益を上げろと主張した。
その他の学問
新井白石:『読史余論』、『古史通』で独自の歴史観を論じる。
貝原益軒(かいばらえきけん):博物学者。著書は『大和本草』。
関孝和:和算。測量や商取引に利用。代数や円周率計算などの研究。
渋川春海(しぶかわしゅんかい):天文学。幕府独自の暦である貞京暦(じょうきょうれき)を作る。
契沖(けいちゅう):古典研究。『万葉集』を研究。
北村季吟(きたむらきぎん):古典研究。『源氏物語』や『枕草子』を研究。
江戸時代覚え書き①
2015-03-27 04:12:28 (9 years ago)
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- 歴史
江戸時代の概要(1603年~1868年)
徳川将軍家が豊臣家が始めた封建制度を継承し、260年間に及ぶミラクルピースを実現させた。政治は政治家任せ、大衆文化に殺到、とにかく勤勉、外国には頭が上がらず排他的・・・現代に繋がるような日本人の庶民感覚は、ここで確立されたような気がする。
江戸時代前期
平安時代同様長い時代なので4回に分けてまとめます。
まずは江戸時代の幕藩体制が確立した、家康→秀忠→家光の時代。
今までの幕府(武家政権)って大体2代目あたりでつまずくことが多かったんだけど、2代将軍秀忠はコンプライアンスを徹底させて幕府の支配を全国的に磐石なものにしている。
じゃあ、彼が断行した改易や減封などの諸大名への厳しい措置によってクーデターは起きなかったのかというと、実はかなり重い改易処分の際にも金銭的、人事的配慮をして(家名はちゃんと残してあげたり、より高いポストに再就職みたいな)、まあこれでもいいかと大名たちを納得させたらしい。そこらへんがとにかく上手いよ。
関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなると、秀吉政権で五大老筆頭(最高顧問的な地位)に就いていた徳川家康と、五奉行(秀吉政権の国務大臣的な)石田三成が対立、1600年に関ヶ原の戦いが起きた。
東軍の豊臣秀吉と、西軍の石田三成の兵力はほぼ互角で、むしろ事前予想では東軍を挟み撃ちにしていた西軍が有利くらいに思われていたのだが、なぜか西軍は敗れた。
その原因としてよく挙げられるのが小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りである。
彼は秀吉の養子で、一時は秀吉政権の後継者とされていたが、子宝に恵まれなかった秀吉にやっと息子(豊臣秀頼)ができると、お払い箱的な扱いをされてしまう(小早川家に移籍された)。
そんな経緯もあってか、1万5000もの兵を抱え、当初は西軍についていた彼は、最終的に東軍と西軍のどちらの味方につくか決めかねていた。
結局、小早川秀秋は、徳川家康の「寝返ってくれたら上方の大国二つプレゼント」の誘いに乗ってしまい西軍を裏切り、ほかにも立場を決めかね傍観したり、東軍に寝返る者が出たため、西軍は軍勢の半分も動かせずに、大方の予想を覆して、たった一日で東軍に敗れてしまった。
小早川秀秋は、この戦いをあくまで豊臣家内の勢力争いと考えており、まさか徳川家が豊臣家を滅ぼす野望を持っているとは思っていなかったという。
一方、勝利した東軍の徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと、西軍の中心の石田三成と小西行長(こにしゆきなが)を処刑した。
そして大阪城に入城していた毛利輝元を転封&減封処分するなど、敗れた西軍から領土を没収、それを東軍についてくれた大名に分け与え徳川幕府の大名配置の原型を作った。
大名
将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を指す。1万石とは1500トンの米の生産力があるということで、金額に換算すると年間の予算は5億円ほどになった。
徳川家康は大名たちを親藩大名、譜代大名、外様大名の三つに分けて全国に配置、江戸城と市街地造成の土木工事や国絵図、郷帳(ごうちょう)作成を求めた。
郷帳とは検地帳みたいなもので、村ごとの石高を郡単位で記載し、それをさらに国単位にまとめたデータベースである。
ちなみに1万石に満たない将軍直属の家臣は旗本や御家人と呼ばれ、将軍に謁見できる地位の高いほうが旗本、できないのが御家人。
親藩大名
徳川氏の親戚。尾張、紀伊、水戸は御三家とされ、将軍に子がいないときはこの三家から後継を出すとされた。
なかでも水戸黄門で有名な水戸徳川家は、参勤交代を免除され江戸に常駐する定府大名であり、そう考えると最も諸国漫遊とは遠い地位にご老公様はいたことになる。
このように参勤交代を免れる大名はほかにもいて、参勤交代ができるほどの経済力がどう考えてもない小大名(石高1万ギリギリ)は藩の存続も厳しくなるので免除とされた。
譜代大名
古くから徳川方についていた大名。石高は少ないものの重要な職務を任された。
外様大名
関ヶ原直前もしくは以後に徳川方に従った大名。石高は多いが江戸から離れた僻地に配置された。
言うまでもなく参勤交代で掛かる予算が一番厳しい。
徳川家康
初代将軍。しかしこの時既に高齢だったので、江戸幕府を開いた2年後の1605年にすでに将軍職を息子の秀忠に譲っている。これにより江戸時代のトップは徳川一族の世襲であることをアピールした。将軍職を引退した家康は静岡県の駿府に引っ越したが、大御所として実権を握り、未だに強い力を持っていた秀吉の息子の豊臣秀頼に方広寺を作らせた挙句、その鐘に掘られた文字(国家安康、君臣豊楽)が気に入らねえと、本当にひどい言いがかりを付け、1614~15年に大阪冬の陣と夏の陣で滅ぼしてしまった。
この時の武力解除は当時の元号にちなんで元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれた。
その後、家康は秀忠名義で、大名の居城は一人一つまでにする一国一城令を出し、さらに大名たちを厳しく統制するため武家諸法度(元和令)を制定した。
徳川秀忠
2代将軍。家康の死後に実権を引き継ぐ。
1617年、秀忠は大名と公家と寺社に出した確認文書によって、全国の土地の所有者は将軍であり、大名たちは将軍に与えられた土地で藩の執政を行うという幕藩体制を明らかにした。
これはパッと見中世の封建制度を思わせるが、封建領主が各自に支配していた司法権や軍事権がすべて幕府に引き渡されており、絶対王政と封建制度のハイブリッド的なところがあった。
彼は、とにかく律儀な性格だったらしく、どんな相手であろうと法令を遵守した。
例えば、関ヶ原の戦いの功労者の福島正則を、城の修築を幕府に無断に行った武家諸法度違反で改易(領地や役職を没収)、大阪夏の陣で真田幸村を倒してくれた松平忠直に対しては、あまりに暴君だということで強制的に隠居させている。
家康にも「生真面目すぎる」と言われた、この秀忠の実直な政治手腕によって江戸幕府の統治体制は確固たるものになったのかもしれない。彼は1623年に将軍位を息子の家光に譲り、家康同様大御所となった。1632年没。
徳川家光
3代将軍。
肥後の外様大名の加藤忠広を、忠長(家光の弟)が計画する謀反に参加していたとして改易し、さらに全国の大名に軍役を命じて30万人の軍勢を作り、彼らと共に京都に入ることで、将軍の軍事指揮権を見せつけた。
彼は1635年に有名な武家諸法度(寛永令)を発布した。これにより国元と江戸を一年おきに往復(国元に一年、江戸に一年の繰り返し)する参勤交代と、大名の妻子が江戸屋敷に定住することを義務付けられ、殿様が藩にいないあいだに家臣が悪巧みをするという水戸黄門恒例のパターンが確立された。
幕藩体制の財源
①17世紀末には400万石にもなった幕府直轄領からの年貢
②世界有数の主要鉱山からの収入
③重要都市直轄化による経済規制
江戸幕府の統制①中央及び地方
評定所:最高司法機関で、老中と三奉行が合議して決定。
譜代大名の中から任命されるポスト
大老:普段はいない臨時の最高職。古代ローマのディクタトル的な。
老中:幕政を統轄するポスト。定数は4~5人。年寄という重臣が任命された。
若年寄:どっちなんだって話だけど老中の補佐役。定数は4人。
側用人:将軍の側近。将軍の命令を老中に伝える役職。
寺社奉行:三奉行の筆頭。寺社の行政を担当。
京都所司代:京都の警備及び西国大名の監察。
大阪城代:大阪城の警備及び西国大名の監察。
老中統括部門(旗本の中から任命)
町奉行:江戸の町の司法、行政を管轄。
勘定奉行:幕領の租税徴収と領地管理。
大番頭:江戸城と江戸市内の警備。つまり警視庁。
城代:駿府、伏見、二条城の警備。
大目付:大名を監察。
遠国奉行(おんごくぶぎょう):長崎、佐渡、日光、堺などの江戸から遠いけど重要な場所の諸奉行。
若年寄統括部門(旗本の中から任命)
書院番頭:江戸城の警備。将軍の護衛。
小姓組番頭:将軍の護衛。
目付:旗本を監察。
江戸幕府の統制②朝廷
徳川家康は1611年に御水尾天皇を即位させると、その4年後に幕府による朝廷の統制基準を定めた禁中並公家諸法度を制定、天皇領の禁裏御料や公家領を最小限にし、朝廷統制のイニシアティブは摂家に持たせた上で、京都所司代に朝廷を監視させた。
また朝廷との連絡は公家から選んだ武家伝奏に行わせた。
2代将軍秀忠になると、幕府の朝廷への規制はさらに強化されることになる。
1620年、秀忠は自分の娘を御水尾天皇の内裏に入れさせ、朝廷の残りの権限、官位制度、改元、改暦権についても幕府の許可制にしてしまった。
この力関係を象徴するのが、1627年に起きた紫衣事件(しえじけん)で、幕府は、御水尾天皇が十数人のお坊さんに勝手に紫衣(名誉あるお坊さんが朝廷から賜る紫色の法衣)を与えたとして、御水尾天皇の紫衣の授与を無効としている。
この幕府の措置に抗議した大徳寺の沢庵和尚らは流罪になってしまうが、さすがの幕府もこれはちょっとやりすぎたと思ったのか、秀忠が死ぬと、この時流罪された僧侶たちは全て許され、なんと沢庵和尚は徳川家光の帰依を受けていたりする。
江戸幕府の統制③宗教勢力
出家した皇族や摂家が入る門跡寺院を理由に、じゃあ寺社は朝廷と一緒、なら寺社も幕府の支配下というロジックで、幕府は寺社も支配した。
寺社の領地の門跡領も最小限にし、寺院法度によって宗派ごとに中心寺院(本山)を限定。その他の寺を末寺としてその下に組織させた(本末制度)。
1665年には寺と僧侶全体を支配する諸宗寺院法度と、神社と神主全体を支配する諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を制定、さらに日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)とキリスト教を禁教に指定した。
禰宜は神様の心を和ませるという意味。日蓮宗不受不施派とは日蓮宗アンチには施しや説教はしないぞという派閥。
1637年に島原天草一揆が起きると、幕府はキリスト教への弾圧をさらに強め、絵踏(えぶみ)を実施、さらに禁教を信仰しないように、寺檀制度によって、すべての家に檀那寺の檀家になることを義務付け、それを証明させる寺請け制度で宗門改めを行なった。
江戸幕府の統制④農民
農民内の格差を広げないために1643年に出された田畑永代売買の禁令(でんばたえいだいばいばいのきんれい)、分割相続による田畑の細分化を防止するために1673年に出された分地制限令、商品作物を勝手に栽培することを禁じる田畑勝手作りの令などによって、年貢の徴収を安定させた。
江戸幕府の統制⑤身分制度
いわゆる士農工商。
武士は特権階級かつ支配身分ということで政治や軍事を担当。苗字や帯刀権を持つ。
同じレベルとして天皇家や公家、僧侶や神職がいた。
最下層が非人、かたわ。
非人は物乞いや清掃、芸能に従事した人。貧困や罪を犯して転落する人もいた。
かたわ(えた)は百姓のように村を作って農業を行い、皮革やわら細工などを作ったが、差別され、死んだ馬や牛、人(死刑囚)の処理をさせられた。
江戸時代の村
17世紀末には6万を超える村が全国にあったらしい。
ほとんどが農村だったが、漁村や山村、定期市などによって村が都市化した在郷町もあった。
村では村人が自治的な運営を行い、幕府や大名もそれを認めて年貢を徴収した(村請制)。
村の運営は、いわゆる庄屋さんの名主(なぬし)、名主を補佐する組頭、村民代表の本百姓の三者(村方三役)が村掟に従って行なった。
本百姓は高持とも呼ばれ、検地帳に登録された田畑や屋敷を所有し、各種の年貢を請け負った。
一般的に百姓の生活は貧しく、田畑を持たず、日雇い労働をする百姓は水呑百姓と呼ばれ、本百姓に隷属した名子(なご)、被官(ひかん)、譜代という人もいた。なんか名称がややこしいな。
田植えや稲刈りなどの作業は結(ゆい)と呼ばれた。
年貢①本途物成(ほんとものなり)
四公六民ということで、石高の約40%の米や貨幣を納める。年貢率は免と言い、その年の収穫量に応じて変わる検見法と、一定期間変動しない定免法(徳川吉宗が導入したことで有名)の二種類があった。
年貢②小物成(こものなり)
農業以外の副業にかかる税。
山林、原野、河川、海などの用益、生産物など。1500種類以上あったらしい。
年貢③国役
河川の土木工事といった労働。国単位で課せられた。
年貢④伝馬役
公的な人や物の輸送のために人馬を差し出す。街道周辺の村に課せられた。
江戸時代の町
特に城下町が発展した。
町内は武家地、寺社地、町人地に分けられ、城下町の大半は武家地だった。
商人や手工業者の住む町人地は小さかったが、経済活動の中心となり全国と領地を結んだ。
町の運営は、名主、町年寄、月行事(がちぎょうじ)などの代表が町法に従って行なった。
ほかにも地借(宅地を借りて家を建てた人)、借家、店借(たながり)などが町にいたが、彼らは町の運営には参加できなかった。
徳川家康の積極外交
1600年に大分県に漂着したオランダ船リーフデ号に乗っていた航海士ヤン=ヨーステンと案内人のイギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)を、徳川家康が江戸に招いたことがきっかけになって、1609年にオランダ、1613年にイギリスが平戸に商館を開いた。
家康はスペインとも積極的に貿易をし、さらにスペイン領のメキシコとの取引も望んだがこれは実現しなかった。ちなみに仙台の伊達政宗もメキシコとの貿易を目指し、スペインに家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を送ったが、これもやっぱりダメだった(慶長遣欧使節)。
糸割賦制度(いとわっぷせいど)
これまで日本は中国産の生糸をポルトガル商人の仲立ちで購入していたが、家康は京都、堺、長崎の商人に独占輸入権と独占卸売権を与えることで生糸を一括購入させ、ポルトガルの利益独占を排除した(日本の商人間で市場メカニズムが発生しないため、ポルトガル商人は不当に生糸の輸入価格を上げられない)。この時結成された組織を糸割賦仲間といい、その後江戸と大坂の商人も加わり五ヶ所商人となった。
そんな中国の明とは、戦国時代につながりがあった大内氏が滅んで以来国交が途絶えており、その後、朝鮮と琉球を通じて明に国交回復を呼びかけたが、拒否されている。
朝鮮通信使
家康は、秀吉の朝鮮出兵によってこじれた日朝関係を修復し講和を実現、1609年に宗氏と朝鮮との間で己酉条約(きゆうじょうやく)が結ばれ、釜山には和館が置かれた。
幕府は、朝鮮との外交で毎度お世話になっている宗氏に対朝鮮貿易を独占させ、朝鮮からは計12回の使節が送られ、4回目から通信使と呼ばれるようになった。
琉球王国
1609年に薩摩藩に征服された琉球は、琉球国王の代が変わるごとに謝恩使を、江戸の将軍の代が変わるごとに慶賀使(けいがし)を幕府に送った。
蝦夷地
室町時代にコシャマインの反乱を鎮圧した蠣崎氏が相変わらず勢力を保っており、蠣崎氏は松前氏と名前を変え、松前藩は1604年には家康からアイヌとの交易独占権を与えられた。
1669年には、アイヌの首長のシャクシャインの戦いが起きるが、松前藩はこれを鎮圧、多くの交易対象地(商場)が和人の請負となった。
朱印船貿易
幕府は海外進出をする日本人に朱印状というパスポートを与え貿易を促進した。
その為、海外移住する日本人も増加し、ベトナム、カンボジア、フィリピンなどに日本町が作られた。
その中でも最大のものはタイのアユタヤのもので、山田長政はアユタヤ王朝に重用された。
鎖国政策
家康は海外との公益に積極的だったが(キリスト教は割と規制してたけど)、秀忠が将軍に就くと、幕府はキリスト教徒と、貿易による西国の大名たちの強大化に危機感を感じるようになる。
秀忠は1616年に外国船(中国船除く)の寄港を平戸と長崎のみにし、1624年にはスペイン船の来航を禁止。
これが家光の代になると、1633年に許可証(老中奉書)を得た奉書船以外の海外渡航が禁止され、1635年には日本人の海外渡航は全面禁止、在外日本人も帰国ができなくなった。
中国船の寄港も長崎のみになり、オランダとの競争に負けたイギリスは1623年に平戸の商館の閉鎖し、日本から撤退した。
1637年にクリスチャンの反乱である島原・天草一揆が起きると、幕府のキリスト教への締めつけは当然更に厳しくなり、1639年にはポルトガル船の来航が禁止、1641年にはオランダ商館を平戸から長崎の人工島、出島に移転させ、長崎奉行に厳しく監視させた。
これにより日本は鎖国体制に入り、オランダ、中国、朝鮮、琉球の4カ国だけと貿易をするようになった。
オランダと中国
ヨーロッパ情勢については、唯一ヨーロッパで日本とつながりを保ったオランダ商船が、日本に来航する際に提出するオランダ風説書でわずかに知るくらいになった。
なんでヨーロッパの国でオランダだけが幕府との貿易を許されたのかというと、プロテスタントのオランダはキリスト教を熱心に布教しなかったので、日本も「まあいいか」となったのだ。
しかしこれにより日本の近代化は大きく遅れた。
ちなみに1644年になると、明から清に中国の王朝が変わり、日本と通商をはじめるが、日本から大量の銀が流出すると、中国船の輸入も制限するようになった。
島原・天草一揆
かつては乱と呼ばれたが、最近の教科書では一揆になっている。
これは飢饉にもかかわらず無慈悲な年貢を課し、キリスト教を弾圧した長崎県島原と熊本県天草の領主に対して3万人もの百姓たちが立ち上がった事件で、リーダーは様々な奇術で農民たちから人気があった天草四郎だった。
島原と天草はかつてキリシタン大名(天正遣欧使節団を送った有馬晴信や小西行長)の領地だったためクリスチャンが多く、天草四郎も熱心な信者だった(しかも美少年)。
この反乱を鎮圧するために、家光は戦国時代並みの13万人もの軍隊を送り込み、国家予算の3分の1を使ってしまった。
寛永文化
17世紀前半の江戸時代の文化。寛永の元号の頃に新しい傾向が見られたためこう呼ばれる。
朱子学
上下の秩序を重んじる学問(上下定分)なので江戸時代の身分制度を正統化するうえでマッチした。
大御所は藤原惺窩で、彼の紹介で幕府の御用学者になったのが林羅山である。
朱子学とは、儒教的な思想(目上の人を敬おう)と仏教が組み合わさったような理論で、自分が正しいと思うなら行動で示せというテーゼは後醍醐天皇の原動力にもなった。
寛永文化の建築
権現造(ごんげんづくり)と数奇屋造が普及。
権現造は、先祖の霊を祀る神社建築で、桃山文化を思わせる豪華な彫刻が特徴。
神君家康公をまつる日光東照宮がそれ。神となった彼の遺骨は塔に封印されている。
数奇屋造は、書院造に、千利休が完成させた草庵風の茶室を取り入れたもの。
桂離宮の新書院がそれ。現代では高級料亭などで取り入れられているイメージ。
寛永文化の芸術
大徳寺方丈襖絵:幕府の御用絵師、狩野探幽の作品。
風神雷神図屏風:修飾画の新様式、琳派の創始者、俵屋宗達の作品。
舟橋蒔絵硯箱:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の作品。丸くて可愛い。
有田焼:酒井田柿右衛門が赤絵の技法を完成。窯は現代も続き、ビートたけしさんによれば柿右衛門はいい色を出す父(14代目)と、いい絵を描く息子で技術を高めあっていたらしい。
寛永文化の文学
仮名草子:教訓と道徳を説く。
貞門俳諧:松永貞徳が徘徊を連歌の入門編として独立させた。
徳川将軍家が豊臣家が始めた封建制度を継承し、260年間に及ぶミラクルピースを実現させた。政治は政治家任せ、大衆文化に殺到、とにかく勤勉、外国には頭が上がらず排他的・・・現代に繋がるような日本人の庶民感覚は、ここで確立されたような気がする。
江戸時代前期
平安時代同様長い時代なので4回に分けてまとめます。
まずは江戸時代の幕藩体制が確立した、家康→秀忠→家光の時代。
今までの幕府(武家政権)って大体2代目あたりでつまずくことが多かったんだけど、2代将軍秀忠はコンプライアンスを徹底させて幕府の支配を全国的に磐石なものにしている。
じゃあ、彼が断行した改易や減封などの諸大名への厳しい措置によってクーデターは起きなかったのかというと、実はかなり重い改易処分の際にも金銭的、人事的配慮をして(家名はちゃんと残してあげたり、より高いポストに再就職みたいな)、まあこれでもいいかと大名たちを納得させたらしい。そこらへんがとにかく上手いよ。
関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなると、秀吉政権で五大老筆頭(最高顧問的な地位)に就いていた徳川家康と、五奉行(秀吉政権の国務大臣的な)石田三成が対立、1600年に関ヶ原の戦いが起きた。
東軍の豊臣秀吉と、西軍の石田三成の兵力はほぼ互角で、むしろ事前予想では東軍を挟み撃ちにしていた西軍が有利くらいに思われていたのだが、なぜか西軍は敗れた。
その原因としてよく挙げられるのが小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りである。
彼は秀吉の養子で、一時は秀吉政権の後継者とされていたが、子宝に恵まれなかった秀吉にやっと息子(豊臣秀頼)ができると、お払い箱的な扱いをされてしまう(小早川家に移籍された)。
そんな経緯もあってか、1万5000もの兵を抱え、当初は西軍についていた彼は、最終的に東軍と西軍のどちらの味方につくか決めかねていた。
結局、小早川秀秋は、徳川家康の「寝返ってくれたら上方の大国二つプレゼント」の誘いに乗ってしまい西軍を裏切り、ほかにも立場を決めかね傍観したり、東軍に寝返る者が出たため、西軍は軍勢の半分も動かせずに、大方の予想を覆して、たった一日で東軍に敗れてしまった。
小早川秀秋は、この戦いをあくまで豊臣家内の勢力争いと考えており、まさか徳川家が豊臣家を滅ぼす野望を持っているとは思っていなかったという。
一方、勝利した東軍の徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと、西軍の中心の石田三成と小西行長(こにしゆきなが)を処刑した。
そして大阪城に入城していた毛利輝元を転封&減封処分するなど、敗れた西軍から領土を没収、それを東軍についてくれた大名に分け与え徳川幕府の大名配置の原型を作った。
大名
将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を指す。1万石とは1500トンの米の生産力があるということで、金額に換算すると年間の予算は5億円ほどになった。
徳川家康は大名たちを親藩大名、譜代大名、外様大名の三つに分けて全国に配置、江戸城と市街地造成の土木工事や国絵図、郷帳(ごうちょう)作成を求めた。
郷帳とは検地帳みたいなもので、村ごとの石高を郡単位で記載し、それをさらに国単位にまとめたデータベースである。
ちなみに1万石に満たない将軍直属の家臣は旗本や御家人と呼ばれ、将軍に謁見できる地位の高いほうが旗本、できないのが御家人。
親藩大名
徳川氏の親戚。尾張、紀伊、水戸は御三家とされ、将軍に子がいないときはこの三家から後継を出すとされた。
なかでも水戸黄門で有名な水戸徳川家は、参勤交代を免除され江戸に常駐する定府大名であり、そう考えると最も諸国漫遊とは遠い地位にご老公様はいたことになる。
このように参勤交代を免れる大名はほかにもいて、参勤交代ができるほどの経済力がどう考えてもない小大名(石高1万ギリギリ)は藩の存続も厳しくなるので免除とされた。
譜代大名
古くから徳川方についていた大名。石高は少ないものの重要な職務を任された。
外様大名
関ヶ原直前もしくは以後に徳川方に従った大名。石高は多いが江戸から離れた僻地に配置された。
言うまでもなく参勤交代で掛かる予算が一番厳しい。
徳川家康
初代将軍。しかしこの時既に高齢だったので、江戸幕府を開いた2年後の1605年にすでに将軍職を息子の秀忠に譲っている。これにより江戸時代のトップは徳川一族の世襲であることをアピールした。将軍職を引退した家康は静岡県の駿府に引っ越したが、大御所として実権を握り、未だに強い力を持っていた秀吉の息子の豊臣秀頼に方広寺を作らせた挙句、その鐘に掘られた文字(国家安康、君臣豊楽)が気に入らねえと、本当にひどい言いがかりを付け、1614~15年に大阪冬の陣と夏の陣で滅ぼしてしまった。
この時の武力解除は当時の元号にちなんで元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれた。
その後、家康は秀忠名義で、大名の居城は一人一つまでにする一国一城令を出し、さらに大名たちを厳しく統制するため武家諸法度(元和令)を制定した。
徳川秀忠
2代将軍。家康の死後に実権を引き継ぐ。
1617年、秀忠は大名と公家と寺社に出した確認文書によって、全国の土地の所有者は将軍であり、大名たちは将軍に与えられた土地で藩の執政を行うという幕藩体制を明らかにした。
これはパッと見中世の封建制度を思わせるが、封建領主が各自に支配していた司法権や軍事権がすべて幕府に引き渡されており、絶対王政と封建制度のハイブリッド的なところがあった。
彼は、とにかく律儀な性格だったらしく、どんな相手であろうと法令を遵守した。
例えば、関ヶ原の戦いの功労者の福島正則を、城の修築を幕府に無断に行った武家諸法度違反で改易(領地や役職を没収)、大阪夏の陣で真田幸村を倒してくれた松平忠直に対しては、あまりに暴君だということで強制的に隠居させている。
家康にも「生真面目すぎる」と言われた、この秀忠の実直な政治手腕によって江戸幕府の統治体制は確固たるものになったのかもしれない。彼は1623年に将軍位を息子の家光に譲り、家康同様大御所となった。1632年没。
徳川家光
3代将軍。
肥後の外様大名の加藤忠広を、忠長(家光の弟)が計画する謀反に参加していたとして改易し、さらに全国の大名に軍役を命じて30万人の軍勢を作り、彼らと共に京都に入ることで、将軍の軍事指揮権を見せつけた。
彼は1635年に有名な武家諸法度(寛永令)を発布した。これにより国元と江戸を一年おきに往復(国元に一年、江戸に一年の繰り返し)する参勤交代と、大名の妻子が江戸屋敷に定住することを義務付けられ、殿様が藩にいないあいだに家臣が悪巧みをするという水戸黄門恒例のパターンが確立された。
幕藩体制の財源
①17世紀末には400万石にもなった幕府直轄領からの年貢
②世界有数の主要鉱山からの収入
③重要都市直轄化による経済規制
江戸幕府の統制①中央及び地方
評定所:最高司法機関で、老中と三奉行が合議して決定。
譜代大名の中から任命されるポスト
大老:普段はいない臨時の最高職。古代ローマのディクタトル的な。
老中:幕政を統轄するポスト。定数は4~5人。年寄という重臣が任命された。
若年寄:どっちなんだって話だけど老中の補佐役。定数は4人。
側用人:将軍の側近。将軍の命令を老中に伝える役職。
寺社奉行:三奉行の筆頭。寺社の行政を担当。
京都所司代:京都の警備及び西国大名の監察。
大阪城代:大阪城の警備及び西国大名の監察。
老中統括部門(旗本の中から任命)
町奉行:江戸の町の司法、行政を管轄。
勘定奉行:幕領の租税徴収と領地管理。
大番頭:江戸城と江戸市内の警備。つまり警視庁。
城代:駿府、伏見、二条城の警備。
大目付:大名を監察。
遠国奉行(おんごくぶぎょう):長崎、佐渡、日光、堺などの江戸から遠いけど重要な場所の諸奉行。
若年寄統括部門(旗本の中から任命)
書院番頭:江戸城の警備。将軍の護衛。
小姓組番頭:将軍の護衛。
目付:旗本を監察。
江戸幕府の統制②朝廷
徳川家康は1611年に御水尾天皇を即位させると、その4年後に幕府による朝廷の統制基準を定めた禁中並公家諸法度を制定、天皇領の禁裏御料や公家領を最小限にし、朝廷統制のイニシアティブは摂家に持たせた上で、京都所司代に朝廷を監視させた。
また朝廷との連絡は公家から選んだ武家伝奏に行わせた。
2代将軍秀忠になると、幕府の朝廷への規制はさらに強化されることになる。
1620年、秀忠は自分の娘を御水尾天皇の内裏に入れさせ、朝廷の残りの権限、官位制度、改元、改暦権についても幕府の許可制にしてしまった。
この力関係を象徴するのが、1627年に起きた紫衣事件(しえじけん)で、幕府は、御水尾天皇が十数人のお坊さんに勝手に紫衣(名誉あるお坊さんが朝廷から賜る紫色の法衣)を与えたとして、御水尾天皇の紫衣の授与を無効としている。
この幕府の措置に抗議した大徳寺の沢庵和尚らは流罪になってしまうが、さすがの幕府もこれはちょっとやりすぎたと思ったのか、秀忠が死ぬと、この時流罪された僧侶たちは全て許され、なんと沢庵和尚は徳川家光の帰依を受けていたりする。
江戸幕府の統制③宗教勢力
出家した皇族や摂家が入る門跡寺院を理由に、じゃあ寺社は朝廷と一緒、なら寺社も幕府の支配下というロジックで、幕府は寺社も支配した。
寺社の領地の門跡領も最小限にし、寺院法度によって宗派ごとに中心寺院(本山)を限定。その他の寺を末寺としてその下に組織させた(本末制度)。
1665年には寺と僧侶全体を支配する諸宗寺院法度と、神社と神主全体を支配する諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を制定、さらに日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)とキリスト教を禁教に指定した。
禰宜は神様の心を和ませるという意味。日蓮宗不受不施派とは日蓮宗アンチには施しや説教はしないぞという派閥。
1637年に島原天草一揆が起きると、幕府はキリスト教への弾圧をさらに強め、絵踏(えぶみ)を実施、さらに禁教を信仰しないように、寺檀制度によって、すべての家に檀那寺の檀家になることを義務付け、それを証明させる寺請け制度で宗門改めを行なった。
江戸幕府の統制④農民
農民内の格差を広げないために1643年に出された田畑永代売買の禁令(でんばたえいだいばいばいのきんれい)、分割相続による田畑の細分化を防止するために1673年に出された分地制限令、商品作物を勝手に栽培することを禁じる田畑勝手作りの令などによって、年貢の徴収を安定させた。
江戸幕府の統制⑤身分制度
いわゆる士農工商。
武士は特権階級かつ支配身分ということで政治や軍事を担当。苗字や帯刀権を持つ。
同じレベルとして天皇家や公家、僧侶や神職がいた。
最下層が非人、かたわ。
非人は物乞いや清掃、芸能に従事した人。貧困や罪を犯して転落する人もいた。
かたわ(えた)は百姓のように村を作って農業を行い、皮革やわら細工などを作ったが、差別され、死んだ馬や牛、人(死刑囚)の処理をさせられた。
江戸時代の村
17世紀末には6万を超える村が全国にあったらしい。
ほとんどが農村だったが、漁村や山村、定期市などによって村が都市化した在郷町もあった。
村では村人が自治的な運営を行い、幕府や大名もそれを認めて年貢を徴収した(村請制)。
村の運営は、いわゆる庄屋さんの名主(なぬし)、名主を補佐する組頭、村民代表の本百姓の三者(村方三役)が村掟に従って行なった。
本百姓は高持とも呼ばれ、検地帳に登録された田畑や屋敷を所有し、各種の年貢を請け負った。
一般的に百姓の生活は貧しく、田畑を持たず、日雇い労働をする百姓は水呑百姓と呼ばれ、本百姓に隷属した名子(なご)、被官(ひかん)、譜代という人もいた。なんか名称がややこしいな。
田植えや稲刈りなどの作業は結(ゆい)と呼ばれた。
年貢①本途物成(ほんとものなり)
四公六民ということで、石高の約40%の米や貨幣を納める。年貢率は免と言い、その年の収穫量に応じて変わる検見法と、一定期間変動しない定免法(徳川吉宗が導入したことで有名)の二種類があった。
年貢②小物成(こものなり)
農業以外の副業にかかる税。
山林、原野、河川、海などの用益、生産物など。1500種類以上あったらしい。
年貢③国役
河川の土木工事といった労働。国単位で課せられた。
年貢④伝馬役
公的な人や物の輸送のために人馬を差し出す。街道周辺の村に課せられた。
江戸時代の町
特に城下町が発展した。
町内は武家地、寺社地、町人地に分けられ、城下町の大半は武家地だった。
商人や手工業者の住む町人地は小さかったが、経済活動の中心となり全国と領地を結んだ。
町の運営は、名主、町年寄、月行事(がちぎょうじ)などの代表が町法に従って行なった。
ほかにも地借(宅地を借りて家を建てた人)、借家、店借(たながり)などが町にいたが、彼らは町の運営には参加できなかった。
徳川家康の積極外交
1600年に大分県に漂着したオランダ船リーフデ号に乗っていた航海士ヤン=ヨーステンと案内人のイギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)を、徳川家康が江戸に招いたことがきっかけになって、1609年にオランダ、1613年にイギリスが平戸に商館を開いた。
家康はスペインとも積極的に貿易をし、さらにスペイン領のメキシコとの取引も望んだがこれは実現しなかった。ちなみに仙台の伊達政宗もメキシコとの貿易を目指し、スペインに家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を送ったが、これもやっぱりダメだった(慶長遣欧使節)。
糸割賦制度(いとわっぷせいど)
これまで日本は中国産の生糸をポルトガル商人の仲立ちで購入していたが、家康は京都、堺、長崎の商人に独占輸入権と独占卸売権を与えることで生糸を一括購入させ、ポルトガルの利益独占を排除した(日本の商人間で市場メカニズムが発生しないため、ポルトガル商人は不当に生糸の輸入価格を上げられない)。この時結成された組織を糸割賦仲間といい、その後江戸と大坂の商人も加わり五ヶ所商人となった。
そんな中国の明とは、戦国時代につながりがあった大内氏が滅んで以来国交が途絶えており、その後、朝鮮と琉球を通じて明に国交回復を呼びかけたが、拒否されている。
朝鮮通信使
家康は、秀吉の朝鮮出兵によってこじれた日朝関係を修復し講和を実現、1609年に宗氏と朝鮮との間で己酉条約(きゆうじょうやく)が結ばれ、釜山には和館が置かれた。
幕府は、朝鮮との外交で毎度お世話になっている宗氏に対朝鮮貿易を独占させ、朝鮮からは計12回の使節が送られ、4回目から通信使と呼ばれるようになった。
琉球王国
1609年に薩摩藩に征服された琉球は、琉球国王の代が変わるごとに謝恩使を、江戸の将軍の代が変わるごとに慶賀使(けいがし)を幕府に送った。
蝦夷地
室町時代にコシャマインの反乱を鎮圧した蠣崎氏が相変わらず勢力を保っており、蠣崎氏は松前氏と名前を変え、松前藩は1604年には家康からアイヌとの交易独占権を与えられた。
1669年には、アイヌの首長のシャクシャインの戦いが起きるが、松前藩はこれを鎮圧、多くの交易対象地(商場)が和人の請負となった。
朱印船貿易
幕府は海外進出をする日本人に朱印状というパスポートを与え貿易を促進した。
その為、海外移住する日本人も増加し、ベトナム、カンボジア、フィリピンなどに日本町が作られた。
その中でも最大のものはタイのアユタヤのもので、山田長政はアユタヤ王朝に重用された。
鎖国政策
家康は海外との公益に積極的だったが(キリスト教は割と規制してたけど)、秀忠が将軍に就くと、幕府はキリスト教徒と、貿易による西国の大名たちの強大化に危機感を感じるようになる。
秀忠は1616年に外国船(中国船除く)の寄港を平戸と長崎のみにし、1624年にはスペイン船の来航を禁止。
これが家光の代になると、1633年に許可証(老中奉書)を得た奉書船以外の海外渡航が禁止され、1635年には日本人の海外渡航は全面禁止、在外日本人も帰国ができなくなった。
中国船の寄港も長崎のみになり、オランダとの競争に負けたイギリスは1623年に平戸の商館の閉鎖し、日本から撤退した。
1637年にクリスチャンの反乱である島原・天草一揆が起きると、幕府のキリスト教への締めつけは当然更に厳しくなり、1639年にはポルトガル船の来航が禁止、1641年にはオランダ商館を平戸から長崎の人工島、出島に移転させ、長崎奉行に厳しく監視させた。
これにより日本は鎖国体制に入り、オランダ、中国、朝鮮、琉球の4カ国だけと貿易をするようになった。
オランダと中国
ヨーロッパ情勢については、唯一ヨーロッパで日本とつながりを保ったオランダ商船が、日本に来航する際に提出するオランダ風説書でわずかに知るくらいになった。
なんでヨーロッパの国でオランダだけが幕府との貿易を許されたのかというと、プロテスタントのオランダはキリスト教を熱心に布教しなかったので、日本も「まあいいか」となったのだ。
しかしこれにより日本の近代化は大きく遅れた。
ちなみに1644年になると、明から清に中国の王朝が変わり、日本と通商をはじめるが、日本から大量の銀が流出すると、中国船の輸入も制限するようになった。
島原・天草一揆
かつては乱と呼ばれたが、最近の教科書では一揆になっている。
これは飢饉にもかかわらず無慈悲な年貢を課し、キリスト教を弾圧した長崎県島原と熊本県天草の領主に対して3万人もの百姓たちが立ち上がった事件で、リーダーは様々な奇術で農民たちから人気があった天草四郎だった。
島原と天草はかつてキリシタン大名(天正遣欧使節団を送った有馬晴信や小西行長)の領地だったためクリスチャンが多く、天草四郎も熱心な信者だった(しかも美少年)。
この反乱を鎮圧するために、家光は戦国時代並みの13万人もの軍隊を送り込み、国家予算の3分の1を使ってしまった。
寛永文化
17世紀前半の江戸時代の文化。寛永の元号の頃に新しい傾向が見られたためこう呼ばれる。
朱子学
上下の秩序を重んじる学問(上下定分)なので江戸時代の身分制度を正統化するうえでマッチした。
大御所は藤原惺窩で、彼の紹介で幕府の御用学者になったのが林羅山である。
朱子学とは、儒教的な思想(目上の人を敬おう)と仏教が組み合わさったような理論で、自分が正しいと思うなら行動で示せというテーゼは後醍醐天皇の原動力にもなった。
寛永文化の建築
権現造(ごんげんづくり)と数奇屋造が普及。
権現造は、先祖の霊を祀る神社建築で、桃山文化を思わせる豪華な彫刻が特徴。
神君家康公をまつる日光東照宮がそれ。神となった彼の遺骨は塔に封印されている。
数奇屋造は、書院造に、千利休が完成させた草庵風の茶室を取り入れたもの。
桂離宮の新書院がそれ。現代では高級料亭などで取り入れられているイメージ。
寛永文化の芸術
大徳寺方丈襖絵:幕府の御用絵師、狩野探幽の作品。
風神雷神図屏風:修飾画の新様式、琳派の創始者、俵屋宗達の作品。
舟橋蒔絵硯箱:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の作品。丸くて可愛い。
有田焼:酒井田柿右衛門が赤絵の技法を完成。窯は現代も続き、ビートたけしさんによれば柿右衛門はいい色を出す父(14代目)と、いい絵を描く息子で技術を高めあっていたらしい。
寛永文化の文学
仮名草子:教訓と道徳を説く。
貞門俳諧:松永貞徳が徘徊を連歌の入門編として独立させた。
戦国時代覚え書き
2015-03-25 19:22:16 (9 years ago)
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戦国時代~安土桃山時代の概要(1467年~1603年)
近年では応仁の乱からではなく、室町幕府から中央政権としての機能が決定的になくなった明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶという説もある。
なんにせよ室町幕府は統治機構として完全に形骸化し、ツワモノたちによる群雄割拠の時代となった。ご存知、織田信長と、その部下の豊臣秀吉が、この戦乱をおさめたが、豊臣氏はその後の朝鮮出兵で失敗し、チャンスが来るまで待って待って待った徳川家康が天下泰平の世を築くことになる。
室町幕府の実権
応仁の乱のあとも室町幕府の内部では権力争いが継続しており、その実権は管領家の細川氏から、その家臣の三好長慶(みよしながよし)、そしてさらにその家臣の松永久秀へと移っていった。
鎌倉公方の分裂
関東を統括する鎌倉公方は、足利成氏の古河公方と、8代将軍足利義政の弟(実際は兄だが母親のランク的なあれで弟に)の足利政知(あしかがまさとも)の堀越公方に分裂し争った。
関東管領の分裂
鎌倉公方の補佐役の関東管領は、山内と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏が内部分裂をしていた。
戦国大名
こんな中央政府の権力争いを尻目に、地方では自ら領国を作り上げ独自支配を行う権力者、つまり戦国大名が育っていった。
15世紀末の北条早雲(鎌倉時代の執権北条家とは無関係で改名の際にあやかっただけ)もそんな一人で、堀越公方を滅ぼして伊豆(堀越)を奪うと、相模へ進出して、小田原を拠点とする戦国大名となり、彼らの子孫は関東一帯にその勢力を広げた。
16世紀に入ると、さらに多くの戦国大名が現れることになる。以下三つの系譜をまとめる。
守護大名系戦国大名
守護大名から戦国大名にそのまま移行したケース。
実は割とレアな存在で、駿河、近江を支配した今川義元や、山梨県“甲斐の虎”武田信玄、薩摩の島津貴久など下克上を一切許さなかった強大な大名が該当する。
守護代系戦国大名
守護の代理出身の戦国大名。
管領の斯波氏の守護代からのし上がった愛知県尾張の織田信長、福井県越前の朝倉義景や、上杉氏の守護代からのし上がった新潟“越後の龍”上杉謙信(旧姓:長尾)らが該当する。
国人系戦国大名
国人出身の戦国大名。広島県安芸の毛利元就や、高知県土佐の長宗我部元親など。
戦国武将の家臣たちは国人や地侍がほとんどだったので、彼らは一番家臣と近しいリーダーだったのかもしれない。
戦国大名の政策①貫高制
家臣の収入額を銭に換算して、それ(貫高)に応じて軍役を課す制度。
経済に割と強い織田信長がいち早く導入した。ちなみに自己申告制だったらしい。
戦国大名の政策②寄親・寄子制
家臣団に組み入れた地侍(子)を、有力家臣(親)に預けて監督させる手法。
戦国大名の政策③分国法(家法、壁書)
武将ごとに制定された家臣団統制や領国支配の基本法で、私婚の禁、罰則の連座制など中世法の集大成的な感じだった。
また喧嘩両成敗法など中世にはなかった新しい法も定められた。
伊達氏の塵芥集、今川氏の今川仮名目録、武田氏の甲州法度之次第、朝倉氏の朝倉孝景条々など。
戦国大名の政策④指出検地
家臣の領主や名主に田畑の面積や収入額を自己申告させ、そのデータを検地帳に登録した。
地方都市の発展
戦国大名は市場税を課さない楽市令を出すことで、経済を活性化させたため、農村の市場や町が飛躍的に増加した。
町(ちょう)とはそもそも裕福な商工業者である町衆を中心とした自治組織を指し、寺社周辺には門前町、浄土真宗の寺院の境内に商工業者が集まった寺内町、ほかに港町や宿場町などの町できた。
中継貿易
戦国時代の明は私的貿易をすべて禁じる海禁政策をとっていたのだが、北のモンゴルと南の倭寇の勢力によって衰えつつあった明には私的貿易のすべてを押さえ込む力がなく、実際には中国、日本、朝鮮、琉球、ベトナムなどの間で中継貿易が盛んに行われていた。
鉄砲の伝来
新たなキリスト教信者獲得と海外貿易圏の拡大を目指したヨーロッパは世界に積極的に進出(いわゆる大航海時代)、1543年に九州薩摩の種子島にポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントを乗せた中国人倭寇の船が漂着すると、島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は彼らが持っていた鉄砲3丁を購入した。
鉄砲は当時の最新ハイテク兵器で、というか最新過ぎて開発されたヨーロッパでもあまり実戦で使用されていなかったのだが(弓の信頼度の方が高かった)、新しもの好きな織田信長はいち早く戦争に導入し足軽鉄砲隊によって長篠の戦いを勝利に導いた。
ちなみに当時の鉄砲の価格は一丁辺りなんと2000万円以上で、その後、国産化によってコストダウンに成功、織田信長の時は1丁50万円にまで値下がりしている。
私的に貨幣を偽造できるような高い鋳造技術がここで生きたのだ。さすが物作りジャパン。
この時代の有名な鉄砲メーカーとして大阪府和泉の堺、紀伊半島の根来衆と雑賀衆、滋賀県近江の国友などがある。全部近畿地方なんだね。
南蛮貿易
その後、ポルトガル人は毎年のように九州の港に来航、1584年にはスペイン人も佐賀県肥前の平戸に来航して日本と貿易を始めた。
彼らヨーロッパ人は当時の日本人に南蛮人と呼ばれたため(酷い蔑称)、この貿易を南蛮貿易という。日本は16世紀半ばから生産量が伸びていた銀や刀、漆器などを輸出し、中国産生糸や火薬(硝石)、鉄砲を輸入した。
また人身売買(奴隷貿易)も盛んで、一人当たり4万円ほどで安売りされていた。
ほかにも天文学、医学、地理学などの学問、カボチャ、トウモロコシ、ジャガイモといった南米由来の野菜、パン、カステラ、コップ、ボタン、タバコ、地球儀、メガネ、カルタ(!)などが日本に伝わっている。
芸術分野では油絵や銅版画の技法が伝わり、ポルトガル人来航の様子を緻密な写実性で描写した南蛮屏風など西洋絵画の影響を受けた作品も描かれた。
主な貿易港は平戸、長崎、大分の御府内(ごふない)で、京都や堺、博多の商人達が積極的に参加した。
キリスト教の布教
南蛮貿易はキリスト教の布教活動とセットで付いてきた。宗教改革で信者が減ったカトリックイエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルは1549年に鹿児島にやってくると、大内義隆や大友義鎮たちの保護を受けて布教を開始した。
ザビエルは外国人に慈悲深い人物で、日本人を「異教徒の中で最も優れていて、親しみやすく善良である」と大絶賛。それと同時にキリスト教では考えられない、公然と行われるBL文化にはたまげたという。
ちなみにキリスト教の神様であるイエスは、当初は「大日」と通訳のヤジロウが超訳しちゃったため仏教の一派と勘違いされた。そこでザビエルはデウス(ポルトガル語で神様)という呼び名で布教することにした。
その後、相次いで来日した宣教師たちは教会堂(南蛮寺)を建てたり、聖職者養成学校のコレジオ(カレッジ)、神学校のセミナリオ(セミナー)を作った。
ポルトガル船は布教を認めてくれた大名領に入港したので、南蛮貿易の利益が欲しい大名は積極的にキリスト教を保護、中には洗礼を受けてクリスチャンになるキリシタン大名も現れた。
天正遣欧使節団
1582年に宣教師ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名の大友義鎮(おおともよししげ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)が、ローマ教皇のもとに派遣した少年使節団。
チームリーダーは伊東マンショでメンバーの年齢は全員中学生くらいだった。
スペイン王フェリペ2世に謁見するなどしてヨーロッパに日本人の存在を広めた彼らは、お土産としてグーテンベルグの活版印刷機を日本に持ち帰ってきた。
この技術で印刷されたローマ字による日本の古典をキリシタン版(天草版)といい、天草版『平家物語』などや『イソップ物語』、ポルトガル語の辞書が有名。
信長の野望
信長様は、尾張の守護代の分家に生まれた。
幼少時は常識破りの行動から「大うつけ」と呼ばれ、身分を気にせず町の民と遊んでいたらしい。しかし信長が中学生くらいの頃に初めて出会った斎藤道三(のちに信長の義理のお父さんになる)は、早くして信長の才能に気づいていたという。
しかしそんな斎藤道三は、長良川の戦いで実の息子のクーデターにあい、織田信長の助けも間に合わず殺されてしまう。
その後、稲生の戦いで弟の織田信勝を倒し、名実ともに尾張の主になった信長は1560年に東海一の大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ると、さらに西へ進軍し、美濃の斎藤氏を稲葉山城の戦いで撃破。
美濃を岐阜と名称を変更した信長は、ここで天下布武の印判を押し、天下統一の野望を宣言した。
1568年には、畿内を追われていた足利義昭を京都に連れ戻し、将軍職に就け、自分が将軍を凌ぐ力を持つことを大々的にアピール。
1570年、姉川の戦いで近江の浅井氏と福井県越前の朝倉氏を倒すと、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年になると将軍職の権威を復活させようと動いた足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。
この翌年には、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、1575年に徳川家康とタッグを組んで戦った長篠の戦いでは、騎馬や投石中心の武田勝頼の軍隊を最新兵器の鉄砲で撃破した。同年には越前の一向一揆も鎮圧している。
こういった宗教勢力は非常に手ごわい相手だったのだが、信長はキリスト教を保護することで、目には目を宗教には宗教をで対抗を試み、1580年には11年も抵抗した強敵石山本願寺をついに屈服させ、お館様は日本の三分の一を征服、天下統一まで後一歩というところまで及んだ。
しかし1582年、中国地方の毛利氏に手を焼いた豊臣秀吉を助けに向かうため、京都に滞在していた信長は、明智光秀の裏切りにあい自害してしまう(本能寺の変)。
これにより信長の野望は惜しくも潰えた。
織田信長の政策①関所の撤廃
寺社や公家が、関銭徴収のために設けた関所を廃止し、自由に人や物が移動できるようにした。
織田信長の政策②楽市令
安土城下で、特権的な販売権であった市座を廃止し、自由に商売をさせることで、経済を活性化させた。秀吉も信長に習って実施している。
江戸時代になると朱子学の影響でお金儲けは後ろめたいものみたいなイメージになってしまうが(だから商社を営んだ坂本龍馬や塾で月謝をとった福澤諭吉は疎まれた)、信長はアダム=スミス的に経済を自由化させたほうが最終的にはみんなが豊かになると考えたらしい。そう言う意味では、信長はやっぱり時代の先を行っていた(アダム=スミスが生まれたのはこの100年以上あと)。
豊臣秀吉の天下統一
信長の野望を継承したのが、身分にとらわれない人事がモットーのお館様に、地侍の生まれながら可愛がられた羽柴秀吉である。
彼は信長の死を知ると、戦っていた毛利氏と講和を結んで、すぐさま明智光秀を山崎の戦いで討伐した。たった11日の天下であった。ただ明智光秀は生存していた可能性があって、千利休や、徳川三代に仕えた僧侶の天海が光秀だったんじゃないかという珍説もある。
なんにせよ、三谷幸喜監督の『清洲会議』見てくれれば分かるけど、信長の敵を討って名を上げた秀吉は、信長の孫の秀信(三法師様)を、信長の息子たちを差し置いて後継者にしてしまうと、このとき対立した信長の筆頭家老、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、石山本願寺の跡地に大坂城を建設した。
1584年には、妻夫木くん・・・じゃなかった信長の次男の織田信雄&徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いを繰り広げ、実力者の徳川家康を味方につけてしまう。
1585年に関白に任命され名字が変わった藤原秀吉は、長宗我部元親を降参させ中国地方を平定、翌年には太政大臣の豊臣秀吉となり、天皇の命令という形で惣無事令を出して日本各地に停戦を呼びかけた。
このように秀吉は、後陽成天皇を京都に作った聚楽第(じゅらくだい)に迎えるなど、伝統的権威を巧みに利用することが得意だった。
でも、この停戦の呼びかけを無視したのが九州の島津義久(しまづよしひさ)で、秀吉はしょうがないから1587年に彼を降伏させている。その後、北条氏政・氏直親子(小田原攻め)を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名たちも服属させて(奥州平定)、1590年についに天下統一を果たした。
豊臣秀吉の政策①太閤検地(天正の石直し)
土地の面積を町、段、畝(せ)、歩に、米を量る升の容量を京升に全国的に統一した。
また田畑と屋敷の土地面積を計算し、その収穫量(石高)を算出、全国の生産力が米の収穫量で一元的に換算されるようになった。これを石高制という。
さらに荘園制度によって一つの土地に複数の土地所有者がいるややこしい状況を改善、実際にそこで働いている農民の田地と屋敷地のものにした。
これを一地一作人といい、農民は自分たちの田畑を法的に所有することができるようになったが、その代わりに石高に応じた年貢を収める義務が課せられた。
ほかにも秀吉は、大名たちには検地帳とともに、徴税や軍役をする際に便利な行政用地図である国絵図も提出させている。
豊臣秀吉の政策②刀狩り
第1条:百姓の武具を全て没収します。
第2条:取り上げた武具は方広寺の大仏建立に役立てられます。
第3条:農民は耕作に専念しましょう。
1588年に実施。農民から武器を取り上げ、土一揆や一向一揆を防ぐ狙いがあったというのが一般的な解説だが、近年ではそういった武力解除としての側面より、農民から帯刀権を奪うことで身分制度を徹底させる側面のほうが大きかったのではないかとれている。
豊臣秀吉の政策③人掃令(ひとばらいれい)
1591年に実施。武家奉公人が町人や百姓になることや、百姓が商人や職人になることを禁じた、身分統制令。江戸時代の身分制度につながる。
これを徹底させるために、職業別に戸数と人数を調査し、兵農分離を実現させた。
江戸時代は8割以上が農民などのデータもここら辺のセンサスから来ている。
豊臣秀吉の政策④バテレン追放令
織田信長は日本の宗教勢力を制圧するためにキリスト教を保護したが、秀吉はポルトガルが日本を植民地にするんじゃないかと危機意識を持ち、1587年の九州平定の際に宣教師(バテレン)を国外退去させた。
しかし1588年に海賊取締令を出して倭寇を鎮圧させた秀吉は、その後も南方貿易を継続させたため、キリスト教徒の取り締まりは不徹底だった。
豊臣政権の財源
①蔵入地(直轄領)からの収入。
②佐渡金山、石見銀山などの直轄化した主要鉱山の利益。
③京都、大阪、堺、伏見、長崎などの豪商の経済力。
とにかく広大な版図を持っていたので、財源は莫大だった。
この時作られた天正大判は巨大な金貨で秀吉政権の経済力を象徴している。
これ一枚(=10両)で米が6トン以上購入でき、現在の価値に直すと大体100万円ほど。
朝鮮出兵
戦国時代が終わり、領土拡大の機会がなくなってしまった諸大名のモチベーションを上げるために秀吉は没落しつつある明の征服を計画した。
とりあえず、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に朝貢と明への先導を要求したが、明に従属していた朝鮮は当然断り、秀吉は朝鮮への出兵を決めた。
秀吉はどうやら東アジアに、アジア版EUというか大東亜共栄圏みたいなものを作ろうとしていたらしく、インドのゴア州に置かれたポルトガル政庁や、フィリピンのマニアに置かれたスペイン政庁、台湾の高山国などにも朝貢を求めている。
さて、第一回目の進軍となる1592年の文録の役では、日本は明との国境付近まで軍隊を進めることができたが、朝鮮義勇軍や明の援軍によって次第に押し戻され停戦。
もう先が長くないと感じていた秀吉は、これが人生最後の大勝負だと、1597年にもう一度朝鮮に軍を送り、慶長の役を始めるが、今度は李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍にハナから苦戦、秀吉が病気で死ぬと、徳川家康や石田三成はすぐに日本軍の撤退を開始した。
この朝鮮出兵によって、諸大名のあいだには亀裂が生じ、大阪城に蓄えていた莫大な財宝をかなり使ってしまった豊臣家は、その没落を早めてしまう。
そんな秀吉とは対照的に、この時うまいこと財力や兵力を温存していたのが徳川家康で、天下泰平は彼の手によって実現することになる。
桃山文化
「桃山」とは、秀吉が晩年に住んだ京都の伏見城の城跡に桃が植えられていたことに由来する。
その特徴は、とにかく豪華絢爛、ヨーロッパの影響が随所に見られ、逆に仏教の影響が薄い点(世俗的)。
建築では、戦時の要塞としての機能よりも領国支配の利便性が優先された城郭建築が有名で、安土城、大阪城、姫路城などが挙げられる。
このような城の内部には大書院という大広間が設けられ、壁やふすまには濃絵(だみえ)という金ピカで強烈な色彩の絵が描かれた。狩野永徳の唐獅子図屏風はあまりにも有名。
こういった障壁画にはダイナミックな水墨画が描かれることもあり、こちらは長谷川等伯の松林図屏風が有名。
扉と天井の間の欄間には透かし彫りの彫刻が施された。
茶道
豊臣秀吉のお茶の先生だった堺の豪商、千利休が確立。
千利休は、茶の湯から余計な要素を取り除いて(バサラ大名がやってた闘茶ゲームとか)、精神的な要素だけを高めることで、たった二畳の茶室で簡素に行う侘び茶にたどり着いた。
1587年にはどんな身分の人も自由に参加できる北野大茶湯を開催している。
ちなみに、この時代の茶器や茶室、庭園には優れたものが多いという。
陶磁器
朝鮮の職人さんを捕虜として連れてきたので、技術が飛躍的に発展。
佐賀の有田焼(伊万里焼)、唐津焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼などは朝鮮の陶工が伝えたもの。
ちなみにそれ以前の縄文土器→弥生土器→須恵器・・・と続く日本の焼き物は六古窯といい、これらと区別される。その6つとは瀬戸、常滑、越前、備前、信楽、丹波で、大学時代、有名な陶芸家の先生に強制暗記させられました。
庶民文化
歌舞伎踊り:出雲大社の巫女さんだった出雲の阿国が京都で始めた。
人形浄瑠璃:琉球から伝わった三味線の伴奏付きの人形劇。
隆達節(りゅうたつぶし):高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌に節をつけた。
小袖の着流し:当時の女子に流行。袖口が狭く、後の和服(着物)の原型になった。
近年では応仁の乱からではなく、室町幕府から中央政権としての機能が決定的になくなった明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶという説もある。
なんにせよ室町幕府は統治機構として完全に形骸化し、ツワモノたちによる群雄割拠の時代となった。ご存知、織田信長と、その部下の豊臣秀吉が、この戦乱をおさめたが、豊臣氏はその後の朝鮮出兵で失敗し、チャンスが来るまで待って待って待った徳川家康が天下泰平の世を築くことになる。
室町幕府の実権
応仁の乱のあとも室町幕府の内部では権力争いが継続しており、その実権は管領家の細川氏から、その家臣の三好長慶(みよしながよし)、そしてさらにその家臣の松永久秀へと移っていった。
鎌倉公方の分裂
関東を統括する鎌倉公方は、足利成氏の古河公方と、8代将軍足利義政の弟(実際は兄だが母親のランク的なあれで弟に)の足利政知(あしかがまさとも)の堀越公方に分裂し争った。
関東管領の分裂
鎌倉公方の補佐役の関東管領は、山内と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏が内部分裂をしていた。
戦国大名
こんな中央政府の権力争いを尻目に、地方では自ら領国を作り上げ独自支配を行う権力者、つまり戦国大名が育っていった。
15世紀末の北条早雲(鎌倉時代の執権北条家とは無関係で改名の際にあやかっただけ)もそんな一人で、堀越公方を滅ぼして伊豆(堀越)を奪うと、相模へ進出して、小田原を拠点とする戦国大名となり、彼らの子孫は関東一帯にその勢力を広げた。
16世紀に入ると、さらに多くの戦国大名が現れることになる。以下三つの系譜をまとめる。
守護大名系戦国大名
守護大名から戦国大名にそのまま移行したケース。
実は割とレアな存在で、駿河、近江を支配した今川義元や、山梨県“甲斐の虎”武田信玄、薩摩の島津貴久など下克上を一切許さなかった強大な大名が該当する。
守護代系戦国大名
守護の代理出身の戦国大名。
管領の斯波氏の守護代からのし上がった愛知県尾張の織田信長、福井県越前の朝倉義景や、上杉氏の守護代からのし上がった新潟“越後の龍”上杉謙信(旧姓:長尾)らが該当する。
国人系戦国大名
国人出身の戦国大名。広島県安芸の毛利元就や、高知県土佐の長宗我部元親など。
戦国武将の家臣たちは国人や地侍がほとんどだったので、彼らは一番家臣と近しいリーダーだったのかもしれない。
戦国大名の政策①貫高制
家臣の収入額を銭に換算して、それ(貫高)に応じて軍役を課す制度。
経済に割と強い織田信長がいち早く導入した。ちなみに自己申告制だったらしい。
戦国大名の政策②寄親・寄子制
家臣団に組み入れた地侍(子)を、有力家臣(親)に預けて監督させる手法。
戦国大名の政策③分国法(家法、壁書)
武将ごとに制定された家臣団統制や領国支配の基本法で、私婚の禁、罰則の連座制など中世法の集大成的な感じだった。
また喧嘩両成敗法など中世にはなかった新しい法も定められた。
伊達氏の塵芥集、今川氏の今川仮名目録、武田氏の甲州法度之次第、朝倉氏の朝倉孝景条々など。
戦国大名の政策④指出検地
家臣の領主や名主に田畑の面積や収入額を自己申告させ、そのデータを検地帳に登録した。
地方都市の発展
戦国大名は市場税を課さない楽市令を出すことで、経済を活性化させたため、農村の市場や町が飛躍的に増加した。
町(ちょう)とはそもそも裕福な商工業者である町衆を中心とした自治組織を指し、寺社周辺には門前町、浄土真宗の寺院の境内に商工業者が集まった寺内町、ほかに港町や宿場町などの町できた。
中継貿易
戦国時代の明は私的貿易をすべて禁じる海禁政策をとっていたのだが、北のモンゴルと南の倭寇の勢力によって衰えつつあった明には私的貿易のすべてを押さえ込む力がなく、実際には中国、日本、朝鮮、琉球、ベトナムなどの間で中継貿易が盛んに行われていた。
鉄砲の伝来
新たなキリスト教信者獲得と海外貿易圏の拡大を目指したヨーロッパは世界に積極的に進出(いわゆる大航海時代)、1543年に九州薩摩の種子島にポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントを乗せた中国人倭寇の船が漂着すると、島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は彼らが持っていた鉄砲3丁を購入した。
鉄砲は当時の最新ハイテク兵器で、というか最新過ぎて開発されたヨーロッパでもあまり実戦で使用されていなかったのだが(弓の信頼度の方が高かった)、新しもの好きな織田信長はいち早く戦争に導入し足軽鉄砲隊によって長篠の戦いを勝利に導いた。
ちなみに当時の鉄砲の価格は一丁辺りなんと2000万円以上で、その後、国産化によってコストダウンに成功、織田信長の時は1丁50万円にまで値下がりしている。
私的に貨幣を偽造できるような高い鋳造技術がここで生きたのだ。さすが物作りジャパン。
この時代の有名な鉄砲メーカーとして大阪府和泉の堺、紀伊半島の根来衆と雑賀衆、滋賀県近江の国友などがある。全部近畿地方なんだね。
南蛮貿易
その後、ポルトガル人は毎年のように九州の港に来航、1584年にはスペイン人も佐賀県肥前の平戸に来航して日本と貿易を始めた。
彼らヨーロッパ人は当時の日本人に南蛮人と呼ばれたため(酷い蔑称)、この貿易を南蛮貿易という。日本は16世紀半ばから生産量が伸びていた銀や刀、漆器などを輸出し、中国産生糸や火薬(硝石)、鉄砲を輸入した。
また人身売買(奴隷貿易)も盛んで、一人当たり4万円ほどで安売りされていた。
ほかにも天文学、医学、地理学などの学問、カボチャ、トウモロコシ、ジャガイモといった南米由来の野菜、パン、カステラ、コップ、ボタン、タバコ、地球儀、メガネ、カルタ(!)などが日本に伝わっている。
芸術分野では油絵や銅版画の技法が伝わり、ポルトガル人来航の様子を緻密な写実性で描写した南蛮屏風など西洋絵画の影響を受けた作品も描かれた。
主な貿易港は平戸、長崎、大分の御府内(ごふない)で、京都や堺、博多の商人達が積極的に参加した。
キリスト教の布教
南蛮貿易はキリスト教の布教活動とセットで付いてきた。宗教改革で信者が減ったカトリックイエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルは1549年に鹿児島にやってくると、大内義隆や大友義鎮たちの保護を受けて布教を開始した。
ザビエルは外国人に慈悲深い人物で、日本人を「異教徒の中で最も優れていて、親しみやすく善良である」と大絶賛。それと同時にキリスト教では考えられない、公然と行われるBL文化にはたまげたという。
ちなみにキリスト教の神様であるイエスは、当初は「大日」と通訳のヤジロウが超訳しちゃったため仏教の一派と勘違いされた。そこでザビエルはデウス(ポルトガル語で神様)という呼び名で布教することにした。
その後、相次いで来日した宣教師たちは教会堂(南蛮寺)を建てたり、聖職者養成学校のコレジオ(カレッジ)、神学校のセミナリオ(セミナー)を作った。
ポルトガル船は布教を認めてくれた大名領に入港したので、南蛮貿易の利益が欲しい大名は積極的にキリスト教を保護、中には洗礼を受けてクリスチャンになるキリシタン大名も現れた。
天正遣欧使節団
1582年に宣教師ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名の大友義鎮(おおともよししげ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)が、ローマ教皇のもとに派遣した少年使節団。
チームリーダーは伊東マンショでメンバーの年齢は全員中学生くらいだった。
スペイン王フェリペ2世に謁見するなどしてヨーロッパに日本人の存在を広めた彼らは、お土産としてグーテンベルグの活版印刷機を日本に持ち帰ってきた。
この技術で印刷されたローマ字による日本の古典をキリシタン版(天草版)といい、天草版『平家物語』などや『イソップ物語』、ポルトガル語の辞書が有名。
信長の野望
信長様は、尾張の守護代の分家に生まれた。
幼少時は常識破りの行動から「大うつけ」と呼ばれ、身分を気にせず町の民と遊んでいたらしい。しかし信長が中学生くらいの頃に初めて出会った斎藤道三(のちに信長の義理のお父さんになる)は、早くして信長の才能に気づいていたという。
しかしそんな斎藤道三は、長良川の戦いで実の息子のクーデターにあい、織田信長の助けも間に合わず殺されてしまう。
その後、稲生の戦いで弟の織田信勝を倒し、名実ともに尾張の主になった信長は1560年に東海一の大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ると、さらに西へ進軍し、美濃の斎藤氏を稲葉山城の戦いで撃破。
美濃を岐阜と名称を変更した信長は、ここで天下布武の印判を押し、天下統一の野望を宣言した。
1568年には、畿内を追われていた足利義昭を京都に連れ戻し、将軍職に就け、自分が将軍を凌ぐ力を持つことを大々的にアピール。
1570年、姉川の戦いで近江の浅井氏と福井県越前の朝倉氏を倒すと、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年になると将軍職の権威を復活させようと動いた足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。
この翌年には、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、1575年に徳川家康とタッグを組んで戦った長篠の戦いでは、騎馬や投石中心の武田勝頼の軍隊を最新兵器の鉄砲で撃破した。同年には越前の一向一揆も鎮圧している。
こういった宗教勢力は非常に手ごわい相手だったのだが、信長はキリスト教を保護することで、目には目を宗教には宗教をで対抗を試み、1580年には11年も抵抗した強敵石山本願寺をついに屈服させ、お館様は日本の三分の一を征服、天下統一まで後一歩というところまで及んだ。
しかし1582年、中国地方の毛利氏に手を焼いた豊臣秀吉を助けに向かうため、京都に滞在していた信長は、明智光秀の裏切りにあい自害してしまう(本能寺の変)。
これにより信長の野望は惜しくも潰えた。
織田信長の政策①関所の撤廃
寺社や公家が、関銭徴収のために設けた関所を廃止し、自由に人や物が移動できるようにした。
織田信長の政策②楽市令
安土城下で、特権的な販売権であった市座を廃止し、自由に商売をさせることで、経済を活性化させた。秀吉も信長に習って実施している。
江戸時代になると朱子学の影響でお金儲けは後ろめたいものみたいなイメージになってしまうが(だから商社を営んだ坂本龍馬や塾で月謝をとった福澤諭吉は疎まれた)、信長はアダム=スミス的に経済を自由化させたほうが最終的にはみんなが豊かになると考えたらしい。そう言う意味では、信長はやっぱり時代の先を行っていた(アダム=スミスが生まれたのはこの100年以上あと)。
豊臣秀吉の天下統一
信長の野望を継承したのが、身分にとらわれない人事がモットーのお館様に、地侍の生まれながら可愛がられた羽柴秀吉である。
彼は信長の死を知ると、戦っていた毛利氏と講和を結んで、すぐさま明智光秀を山崎の戦いで討伐した。たった11日の天下であった。ただ明智光秀は生存していた可能性があって、千利休や、徳川三代に仕えた僧侶の天海が光秀だったんじゃないかという珍説もある。
なんにせよ、三谷幸喜監督の『清洲会議』見てくれれば分かるけど、信長の敵を討って名を上げた秀吉は、信長の孫の秀信(三法師様)を、信長の息子たちを差し置いて後継者にしてしまうと、このとき対立した信長の筆頭家老、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、石山本願寺の跡地に大坂城を建設した。
1584年には、妻夫木くん・・・じゃなかった信長の次男の織田信雄&徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いを繰り広げ、実力者の徳川家康を味方につけてしまう。
1585年に関白に任命され名字が変わった藤原秀吉は、長宗我部元親を降参させ中国地方を平定、翌年には太政大臣の豊臣秀吉となり、天皇の命令という形で惣無事令を出して日本各地に停戦を呼びかけた。
このように秀吉は、後陽成天皇を京都に作った聚楽第(じゅらくだい)に迎えるなど、伝統的権威を巧みに利用することが得意だった。
でも、この停戦の呼びかけを無視したのが九州の島津義久(しまづよしひさ)で、秀吉はしょうがないから1587年に彼を降伏させている。その後、北条氏政・氏直親子(小田原攻め)を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名たちも服属させて(奥州平定)、1590年についに天下統一を果たした。
豊臣秀吉の政策①太閤検地(天正の石直し)
土地の面積を町、段、畝(せ)、歩に、米を量る升の容量を京升に全国的に統一した。
また田畑と屋敷の土地面積を計算し、その収穫量(石高)を算出、全国の生産力が米の収穫量で一元的に換算されるようになった。これを石高制という。
さらに荘園制度によって一つの土地に複数の土地所有者がいるややこしい状況を改善、実際にそこで働いている農民の田地と屋敷地のものにした。
これを一地一作人といい、農民は自分たちの田畑を法的に所有することができるようになったが、その代わりに石高に応じた年貢を収める義務が課せられた。
ほかにも秀吉は、大名たちには検地帳とともに、徴税や軍役をする際に便利な行政用地図である国絵図も提出させている。
豊臣秀吉の政策②刀狩り
第1条:百姓の武具を全て没収します。
第2条:取り上げた武具は方広寺の大仏建立に役立てられます。
第3条:農民は耕作に専念しましょう。
1588年に実施。農民から武器を取り上げ、土一揆や一向一揆を防ぐ狙いがあったというのが一般的な解説だが、近年ではそういった武力解除としての側面より、農民から帯刀権を奪うことで身分制度を徹底させる側面のほうが大きかったのではないかとれている。
豊臣秀吉の政策③人掃令(ひとばらいれい)
1591年に実施。武家奉公人が町人や百姓になることや、百姓が商人や職人になることを禁じた、身分統制令。江戸時代の身分制度につながる。
これを徹底させるために、職業別に戸数と人数を調査し、兵農分離を実現させた。
江戸時代は8割以上が農民などのデータもここら辺のセンサスから来ている。
豊臣秀吉の政策④バテレン追放令
織田信長は日本の宗教勢力を制圧するためにキリスト教を保護したが、秀吉はポルトガルが日本を植民地にするんじゃないかと危機意識を持ち、1587年の九州平定の際に宣教師(バテレン)を国外退去させた。
しかし1588年に海賊取締令を出して倭寇を鎮圧させた秀吉は、その後も南方貿易を継続させたため、キリスト教徒の取り締まりは不徹底だった。
豊臣政権の財源
①蔵入地(直轄領)からの収入。
②佐渡金山、石見銀山などの直轄化した主要鉱山の利益。
③京都、大阪、堺、伏見、長崎などの豪商の経済力。
とにかく広大な版図を持っていたので、財源は莫大だった。
この時作られた天正大判は巨大な金貨で秀吉政権の経済力を象徴している。
これ一枚(=10両)で米が6トン以上購入でき、現在の価値に直すと大体100万円ほど。
朝鮮出兵
戦国時代が終わり、領土拡大の機会がなくなってしまった諸大名のモチベーションを上げるために秀吉は没落しつつある明の征服を計画した。
とりあえず、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に朝貢と明への先導を要求したが、明に従属していた朝鮮は当然断り、秀吉は朝鮮への出兵を決めた。
秀吉はどうやら東アジアに、アジア版EUというか大東亜共栄圏みたいなものを作ろうとしていたらしく、インドのゴア州に置かれたポルトガル政庁や、フィリピンのマニアに置かれたスペイン政庁、台湾の高山国などにも朝貢を求めている。
さて、第一回目の進軍となる1592年の文録の役では、日本は明との国境付近まで軍隊を進めることができたが、朝鮮義勇軍や明の援軍によって次第に押し戻され停戦。
もう先が長くないと感じていた秀吉は、これが人生最後の大勝負だと、1597年にもう一度朝鮮に軍を送り、慶長の役を始めるが、今度は李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍にハナから苦戦、秀吉が病気で死ぬと、徳川家康や石田三成はすぐに日本軍の撤退を開始した。
この朝鮮出兵によって、諸大名のあいだには亀裂が生じ、大阪城に蓄えていた莫大な財宝をかなり使ってしまった豊臣家は、その没落を早めてしまう。
そんな秀吉とは対照的に、この時うまいこと財力や兵力を温存していたのが徳川家康で、天下泰平は彼の手によって実現することになる。
桃山文化
「桃山」とは、秀吉が晩年に住んだ京都の伏見城の城跡に桃が植えられていたことに由来する。
その特徴は、とにかく豪華絢爛、ヨーロッパの影響が随所に見られ、逆に仏教の影響が薄い点(世俗的)。
建築では、戦時の要塞としての機能よりも領国支配の利便性が優先された城郭建築が有名で、安土城、大阪城、姫路城などが挙げられる。
このような城の内部には大書院という大広間が設けられ、壁やふすまには濃絵(だみえ)という金ピカで強烈な色彩の絵が描かれた。狩野永徳の唐獅子図屏風はあまりにも有名。
こういった障壁画にはダイナミックな水墨画が描かれることもあり、こちらは長谷川等伯の松林図屏風が有名。
扉と天井の間の欄間には透かし彫りの彫刻が施された。
茶道
豊臣秀吉のお茶の先生だった堺の豪商、千利休が確立。
千利休は、茶の湯から余計な要素を取り除いて(バサラ大名がやってた闘茶ゲームとか)、精神的な要素だけを高めることで、たった二畳の茶室で簡素に行う侘び茶にたどり着いた。
1587年にはどんな身分の人も自由に参加できる北野大茶湯を開催している。
ちなみに、この時代の茶器や茶室、庭園には優れたものが多いという。
陶磁器
朝鮮の職人さんを捕虜として連れてきたので、技術が飛躍的に発展。
佐賀の有田焼(伊万里焼)、唐津焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼などは朝鮮の陶工が伝えたもの。
ちなみにそれ以前の縄文土器→弥生土器→須恵器・・・と続く日本の焼き物は六古窯といい、これらと区別される。その6つとは瀬戸、常滑、越前、備前、信楽、丹波で、大学時代、有名な陶芸家の先生に強制暗記させられました。
庶民文化
歌舞伎踊り:出雲大社の巫女さんだった出雲の阿国が京都で始めた。
人形浄瑠璃:琉球から伝わった三味線の伴奏付きの人形劇。
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