「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆ 緊張感☆☆☆☆☆」
約束したんだ。終わったら家に返すと。
デンマークにナチスが埋めていった220万個の地雷を、戦後、ドイツ少年兵に撤去させるという、地獄の黒ひげ危機一髪を描く、近年稀に見る大人はクソ映画。
やつらはもっともらしい綺麗事を言うのだけは上手いけど、結局は自己保身や利権のことしか考えてないからね。
協調性が大切とか言いながら、やつらがやってきたことはファシズムと異分子の阻害ですよ。ほいで、バンドワゴンに乗れたら大きな顔ができるけど、負けちゃったらこの有様。正義の名のもとに人間扱いされずにリンチ。中学生くらいの少年が爆死しようが餓死しようがシラヌ・ド・ゾンゼーヌ。
戦争は恐ろしいとか、あの時代は狂っていたとか、そういう話じゃないよ。今だよ。社会科教師は基本的人権がなんだとかうそぶくけれど、世の中結局は戦って勝たないといけない。負ければ、誰もがやりたくない汚れ仕事を押し付けられる。そこに人権などはない。
大人と子どものもっともアンフェアな点は、その残酷な事実を知ってるかいなかなんじゃないか。そして生きていくうちに遅かれ早かれそのことに気づき、子どもは大人になるのではないでしょうか。あ、そういうルールなのかっていう。それに気づけなきゃ社会で生きていけないぞっていう。
でも彼らはまだ知らない。だから子どもなんだ。あんな悲惨な状況においても、地獄にも手心はあるだろと希望を捨てない。それが痛々しい。でも軍曹は知っている。彼らに希望などないことを。
オレの目を見て話せ。
軍曹は鬼のような形相で少年兵たちに凄む。しかし物語の後半、その軍曹がさらに上の士官にまったく同じセリフで叱責される。中間管理職の悲哀。
軍曹の中にも当然ドイツへの強い憎しみはあっただろう。しかしそれ以上に彼を鬼にさせたのは、単純にそういう仕事をやれと上(イギリス)から言われたからだ。
戦時中において数々の惨劇を生んだ“合理的システム”の恐ろしさを丸山真男やハンナ・アーレントやフランクフルト学派の学者たちは説いたが、それは戦後も変わらなかったのである。
国家がしでかしたことの責任はその国の国民が取るべきだというのは極めて合理的な判断。そこに議論の余地はないだろう。
同様に、デンマークはナチスドイツの保護下に置かれたために交戦国ではなく、よって捕虜の虐待を禁じるジュネーブ条約がドイツに対して適用されず、ドイツの子どもに地雷を撤去させても虐待にあたらずセーフというのも合理的な判断。
その事実を戦後冷戦が始まっていろいろゴタゴタしてたからという理由で長いあいだ封印していたというのも合理的な判断。(唯一、非合理的な判断をしたのは、その事実を映画にして白日の下に晒してしまった、このデンマーク人の監督なんだろうな)。
人間は自分に被害が及びさえしなければ極めて合理的に残酷なことを許容できてしまう。
現在も地雷は世界各地に1億個以上も埋められていることも、20分に一回のペースで誰かが踏んづけていて手足が吹っ飛んでいることも、でも生活のために地雷原で農業しなきゃいけない人がいるということも、ICBLのオタワプロセスの時、海岸線を安上がりに手っ取り早く防衛できるから、と日本の防衛庁が対人地雷全面禁止条約に難色を示していたことも、アメリカ、ロシア、中国らの大国はその条約すら批准せず今なお地雷を作り続け、しかも探知できないように金属以外の素材で上手にこしらえているということも。
この映画の一番優れたところは、そんな“ガヤ”がまったく描かれないところだ。撮されるのは、ほとんどユトランド半島の美しく静かな海岸だけ。徹底して“現場”しか撮らない。
そして、合理的判断とやらをするのはいつも現場とは無関係な“ガヤ”なのだ。ガヤはかしましい。手を差し伸べる気がないなら黙っていてくれ。そんな声無き叫びがスクリーンから聞こえた気がする。
現在も世界のどこかの土地で命懸けで地雷を撤去している人がいる。作業は機械ではなく手作業らしい。現在のペースですべての地雷が除去されるにはあと1000年かかるという。
異文化理解覚え書き①
2017-03-14 19:05:14 (7 years ago)
・・・これは社会の勉強だと思う。※2017年2回目。
参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』
ハドリアヌスの壁(Hadrian’s Wall)
イギリス版の万里の長城であると共にローマ帝国の国境の最北端でもある。『テルマエ・ロマエ』の市村正親が作った。
もう少し詳しく言うと、グレートブリテン島(ブリタニア)にまで領土を拡大させたローマ帝国が、スコットランドからのケルト人(カレドニア人=スコットランド人)の襲来に備えて建設した。122年に工事が開始。10年の年月をかけて完成した。高さ5メートルの防御壁(リメス)は全長100キロ以上に及び、軍事的な役割がなくなったあとも国境としての役割を果たしていた。
この時期あたりからローマ帝国は領土のスプロール化を懸念して守勢に転じ、国境を脅かすゲルマン民族に頭を悩ませるようになる。
征服戦争は減少し、それによって帝国財政は逼迫し(国境を守る軍隊のコストが略奪した土地や戦利品でまかなえなくなった)、さらに捕虜奴隷の供給は断たれ、奴隷の大量使役を前提とする産業や経営は非効率的だと認識されるに至った(でも忘れて16世紀にまたやり出した※スレイブ・トレード参照)。
さて、ハドリアヌス帝の次の皇帝(マルクス=アウレリウス=アントニウス帝)の時代までを五賢帝時代と言うが、これ以降パクスロマーナは崩壊の道をたどることになる。それを象徴するかのように、ハドリアヌスの壁のさらに北のエリアに142年に建造されたアントニウスの壁(世界遺産認定)は完成後たった20年で放棄されている。
薔薇戦争(The Wars of the Roses)
百年戦争が終わった二年後の1455年から30年にかけて続いた、イギリスの貴族同士の決闘的な内乱。イギリス版応仁の乱という感じで実際時期もほとんど重なる。
薔薇戦争という由来は、イギリスのすべての貴族が赤薔薇をシンボルとするランカスター家、もしくは白薔薇をシンボルとするヨーク家のいずれかに分かれて対立していたことによるもの。
百年戦争終結後、まず王位に就いていたのはランカスター朝のヘンリー6世だったが、彼は精神に異常を来し、王妃マーガレットがランカスター家を切り盛りしていた。
これを好機と見たヨーク家リチャードは王を攻撃、両陣営のあいだで一進一退の攻防が続くが、1460年にリチャードは戦死してしまう。
リチャードの息子エドワードは、キング・メイカーと呼ばれ、王を凌ぐ人気があったとされる有力貴族のウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けて逆襲、ヘンリー6世とマーガレットを追い払い、王位についてエドワード4世になった。
その後、マーガレットは夫をスコットランドに残し、フランスに渡りルイ11世に支援を要請、また、ヨーク家を支援したネヴィルを味方につけ、70年にイングランドに上陸、今度はエドワードがネーデルランドに亡命、再びヘンリー6世が王に復位した。
しかし戦いは終わらず、エドワードがネーデルランドのブルゴーニュ公(※フランスが嫌い)を引き連れて再上陸、国内の貴族と市民の支援を受けてヘンリー6世を逮捕すると、彼をロンドン塔に幽閉した。
こうして泥沼の戦いに勝利したように見えたヨーク家だったが、今度はヨーク家同士で内紛が始まり、シェイクスピアが作品で取り上げたことでも有名な暴君リチャード3世が、エドワード5世(4世の子ども)を処刑し王位を奪うと、その残虐な王に不満を持っていた貴族たちは一斉にランカスター家を支持、これを受けてフランスのブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリーが58年にイギリスに上陸した。
彼はボズワースの戦いでリチャード3世を倒し、新たな王ヘンリー7世として即位、またライバルのヨーク家エリザベスと結婚することで薔薇戦争を終結させ(気を利かせたな)、テューダー朝が始まった。
こうしてイギリスの貴族たちは互いに相打ちし自滅&没落、絶対王政の舞台が整うこととなったのである。
奴隷貿易(Slave Trade)
15世紀の大航海時代と共に始まり、16世紀に本格化、19世紀末まで続いた。
16世紀、いち早く世界の海に漕ぎ出したスペインとポルトガルの二国は西半球を支配、これに抗議する形で後発国のイギリス、オランダ、フランスは海賊をけしかけ私掠行為を働いた。
これらの国はキリスト教の布教よりも、新大陸の金銀財宝やグローバルなビジネスの拠点の獲得をもくろんでいた。
16世紀、西アフリカに多くの拠点を持っていたポルトガルでは、すでにブラジルでアフリカ人の奴隷を使った砂糖の生産が行われた。
17世紀なかばになると、イギリスやフランスなどでアジアから輸入された茶やコーヒーなどがオシャレなブームになり、カリブ海の英仏植民地では砂糖の生産が激増、北アメリカの植民地でもタバコや綿花、藍などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
商品作物の生産は当初は先住民のインディオが使われたが、彼らはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やチフスに免疫がなかった上、重労働を課されたために、たちまち人口が激減、南米のアンデスでは3分の2のインディオが死に、多くの部族が消滅した。
こうしてインディオの代わりとなる労働力が必要になったわけだが、渡航費を免除される代わりにプランテーションで一定期間働く契約をしたヨーロッパ白人(年季奉公人)では労働力としての絶対数が足りず、砂糖のプランテーション農園を中心にアフリカの黒人が奴隷として大量に供給されるようになった。
もともと黒人奴隷はアラブ商人の仲立ちで販売されていたが非常に高額で、ヨーロッパ各国は黒人奴隷を直接現地で確保するため競って西アフリカに拠点を求めたのである。
初めは商品作物の需要増にこたえるための労働力として捕獲された黒人奴隷であったが、いつしか黒人奴隷そのものが取引の対象として利潤を生むことが分かると、ギニア海岸地区にはベニン王国やコンゴ王国など、奥地に住む黒人を白人に売りつけるという黒人国家まで現れ、大西洋の奴隷貿易は一大マーケットとなった。
その中継地点こそがアメリカで、ヨーロッパ諸国はアフリカの黒人国家に武器を売り、その武器で調達させた奴隷を購入し、船に積み込んでアメリカで売り、アメリカの砂糖やタバコを持ち帰るという三角貿易をおこなった。
狭い船内に押し込められた奴隷達は、航海中に多くの者が死に、また奴隷の自殺や反乱が相次いだことから、じゃあ大切な商品である奴隷をもう少し人間的に扱うのかな、と思ったら、奴隷の輸送に保険がかけられる有様だった。
また生きてプランテーションにまで運ばれた奴隷も、異国の気候や重労働に適応できず、多くの奴隷が使い捨ての消耗品にされた。
19世紀に奴隷が廃止されるまでにアフリカから捕獲された黒人奴隷は1000~4000万人にも及び、アフリカ社会に大きな打撃を与える反面、ヨーロッパ各国は莫大な利益を手に入れ、イギリスでは産業革命の元手になった。
英国国教会(The Church of England)
since1534年。
奥さん(キャサリン)と離婚して他の女(アン=ブーリン)と結婚したいが為にヘンリー8世がでっちあげた教会。
ヘンリー8世は、キャサリンとの結婚を無効と考えるケンブリッジ大学教授クランマーをカンタベリ大司教にして、アンとの結婚の合法化をもくろんだが、当然ながら教皇はヘンリー8世を破門、これに対し1534年に国王至上法というオレイズム全開の法律を制定したヘンリー8世は、トマス=モアなどの反対派を処刑し、各地の修道院に圧力を加えることで英国国教会の成立をごり押しした。
英国国教会はプロテスタントに分類されることが多いが、以上のような個人的かつスキャンダラスな事情でカトリックから分裂したため、教義的にはプロテスタントよりはカトリックに近く(ヘンリー8世はもともと反ルター)、また、教会のトップが国王であることも大きな特徴である。ちなみにヘンリー8世はローマ教皇から信仰の擁護者とまで呼ばれていた(破門されたけど)。
次のエドワード6世のころには、カルヴァン派の教義が取り入れられた共通祈祷書(国民全員の祈りの言葉)が英語で書かたことで、脱カトリックがちょっとだけ進み、メアリ1世の時代にはカトリックが復活することになるが、それはまた別の話。
エリザベス1世(Queen Elizabeth I)
テューダー朝最後の女王で、二つ名は処女王(誰とも結婚しなかったため=イギリスと結婚)で、国民にはベスという愛称で親しまれた。
ヘンリー8世が宗教を作ってまで結婚したかった愛人アン=ブーリンの娘である。
しかし、そのヘンリー8世には母アン=ブーリンを処刑され(男子を産まなかったからという理不尽な理由らしい)、また前女王メアリ1世には無実の罪(新教徒を扇動し反乱を起こした疑い)を着せられ、生きては帰れぬロンドン塔へ幽閉されたこともあった。
彼女の最大のライバルは、スコットランド王の父とフランス王族の母という高貴な血統を持ち、熱心なカトリック教徒でもあるメアリ=スチュアートである。彼女はエリザベスの次の王位継承者で、巻き返しを図るイギリス国内のカトリック勢力に担がれ、エリザベス女王暗殺を計画するが失敗、処刑された。
そんな波瀾万丈すぎる人生のエリザベスだが、十分に熟慮を重ね、いざ心に決めたら一心不乱という、やり手の統治者であり、宗教的にも政治的にも混乱していた16世紀のイギリスを、統一法(教義は新教的、制度や儀式は旧教的にして対立を和らげようとした)や、貨幣の改鋳(グレシャムが関わった)、また救貧法(イギリス最初の公的扶助)をおこなうことで立て直し、彼女の治世でイギリスの絶対王政は頂点をむかえた。
さらに、当時のイギリスは対外的にも弱小国で、フランスやスペインなどの大国に常に脅かされていたが、エリザベスはフランシス・ドレイクなどの海賊に私掠許可を与えることで味方に引き入れ、海賊流の荒っぽい戦術でシドニア率いるスペインの無敵艦隊アルマダを退けた。これは当時のヨーロッパ情勢においては驚天動地の大番狂わせだった。
その後は経済力増強のために行ったジェントリ(農村の地主)への独占許可状の乱発や、アイルランド問題にも砕身することになり、日本の戦国時代が終わった1603年に70歳で亡くなった。ちなみに、ちょうどこの時代にシェイクスピアが活躍している。
イングランド内戦(The English Civil War)
清教徒革命の際に勃発した軍事衝突で1642年に始まり、1651年に集結するまで計三回も起きた。この内乱のきっかけは傲慢な国王チャールズ一世が自分の専制政治に逆らう5人の議員を逮捕しようとして、しかも失敗したため。
内戦時の兵隊は槍兵とマスケット銃兵で編成され、槍兵はマスケット銃の弾を込める時間稼ぎをした。戦場で敵味方を区別するために、国王軍はレッド、議会軍はオレンジのたすきを着けていた。
開戦当初は、正式に王から礼状が与えられた百戦錬磨の国王軍が、民兵の集まりに過ぎない議会軍に対して有利に戦争を進めたが、議会派下院議員のオリヴァー・クロムウェルは鉄騎隊(アイアンサイド)という鎧を着けた騎兵部隊を作って、マーストン=ムーアの戦いなどで形勢を逆転させた。
鉄騎隊はその後、イギリス初の常備軍となるニューモデル軍に発展する。ニューモデル軍は11の騎兵隊、1の竜騎兵隊(火器を備えた騎兵。使っていた武器であるドラグーンマスケット銃から竜騎兵という)、12の歩兵隊の合計22000人で構成され、ネイズビーの戦いで国王軍を決定的に打ち破り、革命軍の主力部隊としてクロムウェル政権を支えた。
ネイズビーの戦いで敗北した国王軍はチャールズ一世を議会軍に引き渡し、1649年にチャールズ一世は処刑、イギリス最初で唯一の共和制(コモンウェルス)が樹立した(戦争自体は52年のウスターの戦いでチャールズ一世の息子のチャールズ皇太子が大陸に亡命するまで続いた)。
その後、権力を握ったクロムウェルは典型的な独裁政治をおこない、自軍の支持者だった水平派(財産権や参政権の平等を主張する議会派の急進的一派)、国内の王党派やカトリック勢力などを弾圧、穏健的な立憲君主制を唱える長老派(プレスビテリアン)を議会から追放し、自身が率いる独立派(議会派の一派で、長老からの教会の独立を唱える。長老派よりは革新だが、水平派よりは保守)だけで議会を独占した。これをランプ議会という(残党議会という意味)。
こうしてクロムウェルは実質的なイギリスの支配者になったが、前にも書いたように58年にインフルエンザであっけなく死んでしまった。その後、王党派と長老派が息を吹き返し結局王政復古、クロムウェルは国賊となり遺体はバラバラにされ、長い間さらし首にされてしまったという。
ロンドン万国博覧会(The Great Exhibition of 1851)
開催期間は5月~10月。
女王の旦那アルバート公がプロモーターとなってしかけた、ヴィクトリア時代のイギリスを象徴する世界最初の万国博覧会。
最大の目玉は当時の最新技術(30万枚のガラス&鉄骨&プレハブ工法)の結晶であるクリスタルパレス(水晶宮)で、いち早く産業革命をなしたイギリスの優れた工業技術は他の国を圧倒し、国内でも大勢の労働者が団体旅行的に集まった。
来場者数は最終的に600万人を超え、当時のイギリスの人口の3分の1に当たる。これを可能にしたのが、印刷出版技術の向上(フライヤー)と鉄道網の整備である。
出典品は、原料・鉱物部門、機械・土木部門、ガラス、陶器などの製品部門などに分けられ(恐竜やドードー鳥もいた)、その巨額の利益によって科学博物館やホールなどの文化施設が建てられた。
ちなみに水晶宮は万博終了後に取り壊される予定だったが、それを惜しむロンドンッ子の声に応えて場所を移転して再建、太陽の塔的に残されることになった。留学時代の福沢諭吉も訪れたと言うが、1936年に火災で焼失してしまった。
ボーア戦争(Boer War)
ダイヤモンド鉱山や金鉱を狙ってボーア人(ボーアとはオランダ語で「農民」という意味で、アフリカのケープ植民地に移住したオランダ人を指す)が建国したオレンジ自由国やトランスヴァール共和国(位置的には現在の南アフリカ共和国に当たる)を、帝国主義的膨張政策に湧くイギリスが強引に併合しようとした大義なき戦争。大英帝国の輝かしい歴史に暗い影をおとすことになった。
第一次ボーア戦争(1880~1881年)
オレンジ自由国で見つかったダイヤモンド鉱山をめぐってイギリスとトランスヴァール共和国が争った戦争。
イギリス軍はトランスヴァール共和国の激しい抵抗にあい、1881年のマジュバ・ヒルの戦いで大敗。併合を諦めプレトリア条約でトランスヴァール共和国を承認することにした。
第二次ボーア戦争(1899~1902年)
ケープ植民地の首相であり企業家のセシル・ローズはトランスヴァール共和国の併合にもう一度チャレンジ、金とダイヤモンドの独占を狙った。
セシル・ローズはトランスヴァールの北にローデシア(現ジンバブエ)を置いて、そこからトランスヴァール内のイギリス人の保護という建前でジェームソンら武装勢力を送り込んだがボーア人民兵によって失敗(ジェームソン事件)。引責辞任した。
この事件でイギリスに危機感を持ったトランスヴァールはオレンジ自由国と同盟を組み、こうして第二次ボーア戦争が始まった。
ボーア民兵のゲリラ戦にイギリスは苦戦、最終的に45万人という兵力を投入すると共に、ゲリラが支配する地域の住民を強制的に収容所に押し込めるという非人道的行為を行ない辛勝、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国のエリアに1910年南アフリカ連邦を建国した。しかしそのイニシアティブは結局イギリスではなくボーア人が握った。なんだったんだろう。
第一次世界大戦(The First World War)
開戦までの流れはこちらを参照。
サラエボ事件
1914年6月28日。オーストラリアのフランツ=フェルディナント大公夫妻が、オーストラリアに併合されたボスニアで暗殺された事件。
事件が起こった場所がボスニアの州都のサラエボだったことからサラエボ事件という。
実行犯はプリンツィプという反ハプスブルク家(=反オーストリア)を掲げるセルビア(サラエボの隣の国)の青年で、橋のたもとから皇太子夫妻をピストルで射殺した。この橋はプリンツィプ橋と呼ばれることになる。
セルビア政府はこの事件と直接関与はしていなかったが、オーストリアはドイツの支援を受けて7月28日にセルビアに宣戦布告。セルビアはオーストリアが戦争を始める大義名分を得るためにでっち上げた事件だと主張したが、結局この事件はヨーロッパの火薬庫に火をつけることになった。
セルビアを支援するロシアが総動員令を発令すると、ドイツはロシアとフランスに宣戦布告、8月4日にドイツはベルギーの中立を無視してそこを通過し北フランスに進撃する。
これを国際法違反だとしたイギリスがドイツに宣戦布告すると、他の列強国も同盟・協商関係にしたがって次々に参戦、全ヨーロッパを巻き込むワールドウォーに発展した。
シュリーフェン計画
西のフランスと東のロシアを同時に相手にしなければならないドイツは、まずは西部戦線でフランスを迅速に片付けて、その後にすぐさま東部戦線のロシアを打ち破り、6週間で戦争を終わらせるという、シュリーフェン計画(シュリーフェン将軍のアイディア)を実行したが、思いの外ロシア軍の動員が迅速で、ドイツ軍は西部戦線に割いていた兵力の一部を東部戦線に回さざるを得なくなった。
これにより東部戦線のタンネンベルクの戦いではヒンデンブルク率いるドイツ軍が勝利したものの、西部戦線のマルヌの戦いで敗北、西部戦線は膠着し、泥沼の塹壕戦に陥った。
また勝利した東部戦線においても国土の広さや厳しい寒さで決着の見通しは立たなかった。
こうして短期間で終わると思われていた戦争は「落ち葉の散るころまでには・・・」「クリスマスまでには・・・」とどんどん延長され、結局4年以上もかかることになる。
挙国一致体制
第一次世界大戦がそこまでの泥沼になるとは思ってもいなかった各国の市民は、開戦当初この戦争を防衛戦争と考えて歓迎、大都市では愛国ムードが漂い、若者は戦争に好奇心を抱きワクワクして軍に入隊した。だが、彼らはロマンを求めた戦場でさんざんな目に遭いロスト・ジェネレーション(迷える世代)などと呼ばれてしまうことになる。
引き金を引くだけで機械的に人間を次々に射殺できる機関銃、そしてその銃弾を避けるために掘られた塹壕にかくれる兵士をいぶり出すための毒ガス兵器の登場(1915年4月のイープルの戦いで初めてドイツ軍が使用)は、戦場を地獄絵図に変え、16年2月~12月までのヴェルダン要塞(ロレーヌ地方ムーズ)の攻防戦はフランスドイツ両軍に70万人の死者を出した。
同年6月、フランス北部のソンムの戦いではイギリス軍の戦車(マークⅠひし形戦車)が史上初めて登場し、西部戦線の塹壕や鉄条網をたたきつぶした。
フランスドイツ両軍は最初の一年で常備したすべての軍需物資を使い果たし、戦争が総力戦&消耗戦の様相を呈すると、経済体制は軍需産業が最優先となり、イギリスでは史上初の徴兵制が取られ、貿易を断たれたドイツ・オーストリア・ロシアでは国民の消費生活が統制されることになった。
こうしていつまでたっても戦争終結のめどすら立たず、国民生活も窮乏すると戦争に対する市民の不満が噴出、国際的反戦運動の動きも出始め、各国政府は更に強力な戦時指導体制を構築しなければならなくなった。
例えばドイツでは1916年8月に“タンネンベルクの英雄”ヒンデンブルクらの軍部独裁体制が成立、一方イギリスではロイド・ジョージが挙国一致内閣の首相に就任し、食糧配給制度などの国家統制を強めた。
戦時秘密外交
戦争が長期化すると両陣営は、どちらにも属さない中立国を自軍に引き入れようと、戦後の領土の配分をあらかじめ約束するような条約を結びだしだ。
その外交交渉は、議会や世論の動向に左右されることを嫌い、秘密裏で行われた。
例えば、開戦当初はドイツ、オーストリアと三国同盟を結び、中立を守っていたイタリアであったが、イギリスなどが未回収のイタリア(トリエステ、チロルなどイタリア人が居住するオーストリア領のこと)の領有をロンドン秘密条約で約束すると、領土問題でオーストリアともめていたイタリアはあっさり寝返り、オーストリアに宣戦布告してしまう。
このように秘密条約を特に乱発したのがイギリスである。イギリスはインドにも戦後の自治を約束して145万人以上のインド人兵士を集めたが、極めつけは以下の3つの秘密条約である。
1915年、オスマン帝国を滅ぼすために西アジアのアラブ人(パレスチナ人)の反乱を企てたイギリスは、アラブ民族運動の指導者フセインとフセイン・マクマホン協定を結ぶ。その内容は戦後、アラブ人の独立国家建設をイギリスが約束するというものだった。
ところが、その翌年の1916年、フランス&ロシアとの間で戦後のオスマン帝国のエリアを分け合うサイクス・ピコ協定(外交官サイクスとピコに由来)が結ばれる。
さらに翌々年の1917年には、ロスチャイルド家などのユダヤ人実業家の資金力が欲しかったイギリスの外相バルフォアが、パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを作ることをシオニストに約束(バルフォア宣言)、これはパレスチナを国際管理地域とするサイクス・ピコ協定と矛盾する内容であり、ぶっちゃけイギリスはオスマン・トルコさえ倒せればどんな勢力と手を結ぼうともよかったのであった。
案の定、戦後このエリアはけっきょく誰が統治するのか揉めに揉め、約束のつじつまが合わせられなくなったイギリスはこの問題を国連に丸投げ。これこそが今に至るパレスチナ問題なのである。
アメリカ合衆国参戦
1917年、膠着する戦争に転機が訪れる。モンロー主義(ヨーロッパのいざこざには首を突っ込まないという考え)を掲げて中立を保ち続けたアメリカ合衆国が参戦したのである。
アメリカ大統領ウィルソンは無併合・無賠償という勝利なき平和をモットーに戦争集結を各国に斡旋、しかし実際にはアメリカは物資や兵器の供給、資金の融資などを通じて連合国との結びつきを強めていた。
また、ドイツ軍はUボート(ウンターゼ・ボートの略)で15年5月にイギリスの客船ルシタニア号を撃沈させており、この乗客には128人のアメリカ人も含まれていたことから、アメリカ世論はアベンジに傾き、民主主義の擁護を掲げて17年4月ドイツに宣戦を布告する。
ロシアのソヴィエト政権が講和交渉をはじめると、ドイツでも帝国議会の多数派が講和を決議、帝政の民主化を求める運動が激化、軍部と保守派は独裁を一層強化することでこれを押さえつけた。フランスにおいても対独強硬論のクレマンソー内閣が設立して挙国一致体制が再構築された。
18年1月、社会主義革命の広がりを恐れたウィルソンは、ソヴィエト政権のレーニンが行った和平案や秘密条約の公表に対抗して、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などの14カ条の平和原則を発表する。
一方のソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和に踏み切り、3月にブレスト=リトフスク条約を結んで戦線から離脱した。これによりドイツは東部戦線の兵力を西部方面に送り込み、終盤の巻き返しを図ったが、補給不足のために進撃は止まってしまった。
9月にはブルガリア、10月にはオスマン帝国、11月にはオーストリアと同盟国陣営は次々と単独休戦を行うと、残されたドイツ軍は戦争の勝利を諦め、議会に政権を委ねることにした。
こうしてドイツ議会はアメリカと休戦交渉に入るが、ここでこれまであまり目立った活躍をしなかったドイツ海軍が突然しゃしゃり出て最後の絶望的出撃を命令すると、かねてより上層部に不満を持っていたドイツの水兵たちは11月3日、キール軍港で蜂起、この反乱は革命となって全国に波及し、首都ベルリンで共和制の設立が宣言される(皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命)。
こうして1918年11月11日にドイツの新共和国政府はコンピエーヌの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終わった。
ヴェルサイユ条約
1919年のパリ講和会議において、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれ、戦争に負けたドイツの処遇が決まった。
これによりドイツは、全植民地を失うとともに、ラインラント地方の非武装化、アルザルロレーヌ地方のフランスへの割譲を約束させられ、さらに潜水艦と空軍の保有を禁止され、極めつけに1320億金マルク(金とちゃんと兌換できるマルクという意味)という巨額の賠償金を支払うという散々な目にあった。
この現在の価値で20兆円くらいする天文学的数字は、これまでの戦争がその損失を敗戦国からの賠償金によって補填することが慣例だったためであるが、もはやこの戦争の損失(特に主戦場のフランスの損失)は賠償金で補えるレベルではなかったのである。
これにより戦時中からインフレが続いていたドイツはさらにハイパーインフレになり(フランスへの借金返済にルール地方を当てたため)、国民の不満が噴出、次の世界大戦への伏線が出来てしまった。
参考文献:木下康彦、吉田寅、木村靖二 編『詳説世界史研究』
ハドリアヌスの壁(Hadrian’s Wall)
イギリス版の万里の長城であると共にローマ帝国の国境の最北端でもある。『テルマエ・ロマエ』の市村正親が作った。
もう少し詳しく言うと、グレートブリテン島(ブリタニア)にまで領土を拡大させたローマ帝国が、スコットランドからのケルト人(カレドニア人=スコットランド人)の襲来に備えて建設した。122年に工事が開始。10年の年月をかけて完成した。高さ5メートルの防御壁(リメス)は全長100キロ以上に及び、軍事的な役割がなくなったあとも国境としての役割を果たしていた。
この時期あたりからローマ帝国は領土のスプロール化を懸念して守勢に転じ、国境を脅かすゲルマン民族に頭を悩ませるようになる。
征服戦争は減少し、それによって帝国財政は逼迫し(国境を守る軍隊のコストが略奪した土地や戦利品でまかなえなくなった)、さらに捕虜奴隷の供給は断たれ、奴隷の大量使役を前提とする産業や経営は非効率的だと認識されるに至った(でも忘れて16世紀にまたやり出した※スレイブ・トレード参照)。
さて、ハドリアヌス帝の次の皇帝(マルクス=アウレリウス=アントニウス帝)の時代までを五賢帝時代と言うが、これ以降パクスロマーナは崩壊の道をたどることになる。それを象徴するかのように、ハドリアヌスの壁のさらに北のエリアに142年に建造されたアントニウスの壁(世界遺産認定)は完成後たった20年で放棄されている。
薔薇戦争(The Wars of the Roses)
百年戦争が終わった二年後の1455年から30年にかけて続いた、イギリスの貴族同士の決闘的な内乱。イギリス版応仁の乱という感じで実際時期もほとんど重なる。
薔薇戦争という由来は、イギリスのすべての貴族が赤薔薇をシンボルとするランカスター家、もしくは白薔薇をシンボルとするヨーク家のいずれかに分かれて対立していたことによるもの。
百年戦争終結後、まず王位に就いていたのはランカスター朝のヘンリー6世だったが、彼は精神に異常を来し、王妃マーガレットがランカスター家を切り盛りしていた。
これを好機と見たヨーク家リチャードは王を攻撃、両陣営のあいだで一進一退の攻防が続くが、1460年にリチャードは戦死してしまう。
リチャードの息子エドワードは、キング・メイカーと呼ばれ、王を凌ぐ人気があったとされる有力貴族のウォリック伯リチャード・ネヴィルの支援を受けて逆襲、ヘンリー6世とマーガレットを追い払い、王位についてエドワード4世になった。
その後、マーガレットは夫をスコットランドに残し、フランスに渡りルイ11世に支援を要請、また、ヨーク家を支援したネヴィルを味方につけ、70年にイングランドに上陸、今度はエドワードがネーデルランドに亡命、再びヘンリー6世が王に復位した。
しかし戦いは終わらず、エドワードがネーデルランドのブルゴーニュ公(※フランスが嫌い)を引き連れて再上陸、国内の貴族と市民の支援を受けてヘンリー6世を逮捕すると、彼をロンドン塔に幽閉した。
こうして泥沼の戦いに勝利したように見えたヨーク家だったが、今度はヨーク家同士で内紛が始まり、シェイクスピアが作品で取り上げたことでも有名な暴君リチャード3世が、エドワード5世(4世の子ども)を処刑し王位を奪うと、その残虐な王に不満を持っていた貴族たちは一斉にランカスター家を支持、これを受けてフランスのブルターニュに亡命していたテューダー家のヘンリーが58年にイギリスに上陸した。
彼はボズワースの戦いでリチャード3世を倒し、新たな王ヘンリー7世として即位、またライバルのヨーク家エリザベスと結婚することで薔薇戦争を終結させ(気を利かせたな)、テューダー朝が始まった。
こうしてイギリスの貴族たちは互いに相打ちし自滅&没落、絶対王政の舞台が整うこととなったのである。
奴隷貿易(Slave Trade)
15世紀の大航海時代と共に始まり、16世紀に本格化、19世紀末まで続いた。
16世紀、いち早く世界の海に漕ぎ出したスペインとポルトガルの二国は西半球を支配、これに抗議する形で後発国のイギリス、オランダ、フランスは海賊をけしかけ私掠行為を働いた。
これらの国はキリスト教の布教よりも、新大陸の金銀財宝やグローバルなビジネスの拠点の獲得をもくろんでいた。
16世紀、西アフリカに多くの拠点を持っていたポルトガルでは、すでにブラジルでアフリカ人の奴隷を使った砂糖の生産が行われた。
17世紀なかばになると、イギリスやフランスなどでアジアから輸入された茶やコーヒーなどがオシャレなブームになり、カリブ海の英仏植民地では砂糖の生産が激増、北アメリカの植民地でもタバコや綿花、藍などの商品作物が大量に栽培されるようになった。
商品作物の生産は当初は先住民のインディオが使われたが、彼らはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘やチフスに免疫がなかった上、重労働を課されたために、たちまち人口が激減、南米のアンデスでは3分の2のインディオが死に、多くの部族が消滅した。
こうしてインディオの代わりとなる労働力が必要になったわけだが、渡航費を免除される代わりにプランテーションで一定期間働く契約をしたヨーロッパ白人(年季奉公人)では労働力としての絶対数が足りず、砂糖のプランテーション農園を中心にアフリカの黒人が奴隷として大量に供給されるようになった。
もともと黒人奴隷はアラブ商人の仲立ちで販売されていたが非常に高額で、ヨーロッパ各国は黒人奴隷を直接現地で確保するため競って西アフリカに拠点を求めたのである。
初めは商品作物の需要増にこたえるための労働力として捕獲された黒人奴隷であったが、いつしか黒人奴隷そのものが取引の対象として利潤を生むことが分かると、ギニア海岸地区にはベニン王国やコンゴ王国など、奥地に住む黒人を白人に売りつけるという黒人国家まで現れ、大西洋の奴隷貿易は一大マーケットとなった。
その中継地点こそがアメリカで、ヨーロッパ諸国はアフリカの黒人国家に武器を売り、その武器で調達させた奴隷を購入し、船に積み込んでアメリカで売り、アメリカの砂糖やタバコを持ち帰るという三角貿易をおこなった。
狭い船内に押し込められた奴隷達は、航海中に多くの者が死に、また奴隷の自殺や反乱が相次いだことから、じゃあ大切な商品である奴隷をもう少し人間的に扱うのかな、と思ったら、奴隷の輸送に保険がかけられる有様だった。
また生きてプランテーションにまで運ばれた奴隷も、異国の気候や重労働に適応できず、多くの奴隷が使い捨ての消耗品にされた。
19世紀に奴隷が廃止されるまでにアフリカから捕獲された黒人奴隷は1000~4000万人にも及び、アフリカ社会に大きな打撃を与える反面、ヨーロッパ各国は莫大な利益を手に入れ、イギリスでは産業革命の元手になった。
英国国教会(The Church of England)
since1534年。
奥さん(キャサリン)と離婚して他の女(アン=ブーリン)と結婚したいが為にヘンリー8世がでっちあげた教会。
ヘンリー8世は、キャサリンとの結婚を無効と考えるケンブリッジ大学教授クランマーをカンタベリ大司教にして、アンとの結婚の合法化をもくろんだが、当然ながら教皇はヘンリー8世を破門、これに対し1534年に国王至上法というオレイズム全開の法律を制定したヘンリー8世は、トマス=モアなどの反対派を処刑し、各地の修道院に圧力を加えることで英国国教会の成立をごり押しした。
英国国教会はプロテスタントに分類されることが多いが、以上のような個人的かつスキャンダラスな事情でカトリックから分裂したため、教義的にはプロテスタントよりはカトリックに近く(ヘンリー8世はもともと反ルター)、また、教会のトップが国王であることも大きな特徴である。ちなみにヘンリー8世はローマ教皇から信仰の擁護者とまで呼ばれていた(破門されたけど)。
次のエドワード6世のころには、カルヴァン派の教義が取り入れられた共通祈祷書(国民全員の祈りの言葉)が英語で書かたことで、脱カトリックがちょっとだけ進み、メアリ1世の時代にはカトリックが復活することになるが、それはまた別の話。
エリザベス1世(Queen Elizabeth I)
テューダー朝最後の女王で、二つ名は処女王(誰とも結婚しなかったため=イギリスと結婚)で、国民にはベスという愛称で親しまれた。
ヘンリー8世が宗教を作ってまで結婚したかった愛人アン=ブーリンの娘である。
しかし、そのヘンリー8世には母アン=ブーリンを処刑され(男子を産まなかったからという理不尽な理由らしい)、また前女王メアリ1世には無実の罪(新教徒を扇動し反乱を起こした疑い)を着せられ、生きては帰れぬロンドン塔へ幽閉されたこともあった。
彼女の最大のライバルは、スコットランド王の父とフランス王族の母という高貴な血統を持ち、熱心なカトリック教徒でもあるメアリ=スチュアートである。彼女はエリザベスの次の王位継承者で、巻き返しを図るイギリス国内のカトリック勢力に担がれ、エリザベス女王暗殺を計画するが失敗、処刑された。
そんな波瀾万丈すぎる人生のエリザベスだが、十分に熟慮を重ね、いざ心に決めたら一心不乱という、やり手の統治者であり、宗教的にも政治的にも混乱していた16世紀のイギリスを、統一法(教義は新教的、制度や儀式は旧教的にして対立を和らげようとした)や、貨幣の改鋳(グレシャムが関わった)、また救貧法(イギリス最初の公的扶助)をおこなうことで立て直し、彼女の治世でイギリスの絶対王政は頂点をむかえた。
さらに、当時のイギリスは対外的にも弱小国で、フランスやスペインなどの大国に常に脅かされていたが、エリザベスはフランシス・ドレイクなどの海賊に私掠許可を与えることで味方に引き入れ、海賊流の荒っぽい戦術でシドニア率いるスペインの無敵艦隊アルマダを退けた。これは当時のヨーロッパ情勢においては驚天動地の大番狂わせだった。
その後は経済力増強のために行ったジェントリ(農村の地主)への独占許可状の乱発や、アイルランド問題にも砕身することになり、日本の戦国時代が終わった1603年に70歳で亡くなった。ちなみに、ちょうどこの時代にシェイクスピアが活躍している。
イングランド内戦(The English Civil War)
清教徒革命の際に勃発した軍事衝突で1642年に始まり、1651年に集結するまで計三回も起きた。この内乱のきっかけは傲慢な国王チャールズ一世が自分の専制政治に逆らう5人の議員を逮捕しようとして、しかも失敗したため。
内戦時の兵隊は槍兵とマスケット銃兵で編成され、槍兵はマスケット銃の弾を込める時間稼ぎをした。戦場で敵味方を区別するために、国王軍はレッド、議会軍はオレンジのたすきを着けていた。
開戦当初は、正式に王から礼状が与えられた百戦錬磨の国王軍が、民兵の集まりに過ぎない議会軍に対して有利に戦争を進めたが、議会派下院議員のオリヴァー・クロムウェルは鉄騎隊(アイアンサイド)という鎧を着けた騎兵部隊を作って、マーストン=ムーアの戦いなどで形勢を逆転させた。
鉄騎隊はその後、イギリス初の常備軍となるニューモデル軍に発展する。ニューモデル軍は11の騎兵隊、1の竜騎兵隊(火器を備えた騎兵。使っていた武器であるドラグーンマスケット銃から竜騎兵という)、12の歩兵隊の合計22000人で構成され、ネイズビーの戦いで国王軍を決定的に打ち破り、革命軍の主力部隊としてクロムウェル政権を支えた。
ネイズビーの戦いで敗北した国王軍はチャールズ一世を議会軍に引き渡し、1649年にチャールズ一世は処刑、イギリス最初で唯一の共和制(コモンウェルス)が樹立した(戦争自体は52年のウスターの戦いでチャールズ一世の息子のチャールズ皇太子が大陸に亡命するまで続いた)。
その後、権力を握ったクロムウェルは典型的な独裁政治をおこない、自軍の支持者だった水平派(財産権や参政権の平等を主張する議会派の急進的一派)、国内の王党派やカトリック勢力などを弾圧、穏健的な立憲君主制を唱える長老派(プレスビテリアン)を議会から追放し、自身が率いる独立派(議会派の一派で、長老からの教会の独立を唱える。長老派よりは革新だが、水平派よりは保守)だけで議会を独占した。これをランプ議会という(残党議会という意味)。
こうしてクロムウェルは実質的なイギリスの支配者になったが、前にも書いたように58年にインフルエンザであっけなく死んでしまった。その後、王党派と長老派が息を吹き返し結局王政復古、クロムウェルは国賊となり遺体はバラバラにされ、長い間さらし首にされてしまったという。
ロンドン万国博覧会(The Great Exhibition of 1851)
開催期間は5月~10月。
女王の旦那アルバート公がプロモーターとなってしかけた、ヴィクトリア時代のイギリスを象徴する世界最初の万国博覧会。
最大の目玉は当時の最新技術(30万枚のガラス&鉄骨&プレハブ工法)の結晶であるクリスタルパレス(水晶宮)で、いち早く産業革命をなしたイギリスの優れた工業技術は他の国を圧倒し、国内でも大勢の労働者が団体旅行的に集まった。
来場者数は最終的に600万人を超え、当時のイギリスの人口の3分の1に当たる。これを可能にしたのが、印刷出版技術の向上(フライヤー)と鉄道網の整備である。
出典品は、原料・鉱物部門、機械・土木部門、ガラス、陶器などの製品部門などに分けられ(恐竜やドードー鳥もいた)、その巨額の利益によって科学博物館やホールなどの文化施設が建てられた。
ちなみに水晶宮は万博終了後に取り壊される予定だったが、それを惜しむロンドンッ子の声に応えて場所を移転して再建、太陽の塔的に残されることになった。留学時代の福沢諭吉も訪れたと言うが、1936年に火災で焼失してしまった。
ボーア戦争(Boer War)
ダイヤモンド鉱山や金鉱を狙ってボーア人(ボーアとはオランダ語で「農民」という意味で、アフリカのケープ植民地に移住したオランダ人を指す)が建国したオレンジ自由国やトランスヴァール共和国(位置的には現在の南アフリカ共和国に当たる)を、帝国主義的膨張政策に湧くイギリスが強引に併合しようとした大義なき戦争。大英帝国の輝かしい歴史に暗い影をおとすことになった。
第一次ボーア戦争(1880~1881年)
オレンジ自由国で見つかったダイヤモンド鉱山をめぐってイギリスとトランスヴァール共和国が争った戦争。
イギリス軍はトランスヴァール共和国の激しい抵抗にあい、1881年のマジュバ・ヒルの戦いで大敗。併合を諦めプレトリア条約でトランスヴァール共和国を承認することにした。
第二次ボーア戦争(1899~1902年)
ケープ植民地の首相であり企業家のセシル・ローズはトランスヴァール共和国の併合にもう一度チャレンジ、金とダイヤモンドの独占を狙った。
セシル・ローズはトランスヴァールの北にローデシア(現ジンバブエ)を置いて、そこからトランスヴァール内のイギリス人の保護という建前でジェームソンら武装勢力を送り込んだがボーア人民兵によって失敗(ジェームソン事件)。引責辞任した。
この事件でイギリスに危機感を持ったトランスヴァールはオレンジ自由国と同盟を組み、こうして第二次ボーア戦争が始まった。
ボーア民兵のゲリラ戦にイギリスは苦戦、最終的に45万人という兵力を投入すると共に、ゲリラが支配する地域の住民を強制的に収容所に押し込めるという非人道的行為を行ない辛勝、トランスヴァール共和国とオレンジ自由国のエリアに1910年南アフリカ連邦を建国した。しかしそのイニシアティブは結局イギリスではなくボーア人が握った。なんだったんだろう。
第一次世界大戦(The First World War)
開戦までの流れはこちらを参照。
サラエボ事件
1914年6月28日。オーストラリアのフランツ=フェルディナント大公夫妻が、オーストラリアに併合されたボスニアで暗殺された事件。
事件が起こった場所がボスニアの州都のサラエボだったことからサラエボ事件という。
実行犯はプリンツィプという反ハプスブルク家(=反オーストリア)を掲げるセルビア(サラエボの隣の国)の青年で、橋のたもとから皇太子夫妻をピストルで射殺した。この橋はプリンツィプ橋と呼ばれることになる。
セルビア政府はこの事件と直接関与はしていなかったが、オーストリアはドイツの支援を受けて7月28日にセルビアに宣戦布告。セルビアはオーストリアが戦争を始める大義名分を得るためにでっち上げた事件だと主張したが、結局この事件はヨーロッパの火薬庫に火をつけることになった。
セルビアを支援するロシアが総動員令を発令すると、ドイツはロシアとフランスに宣戦布告、8月4日にドイツはベルギーの中立を無視してそこを通過し北フランスに進撃する。
これを国際法違反だとしたイギリスがドイツに宣戦布告すると、他の列強国も同盟・協商関係にしたがって次々に参戦、全ヨーロッパを巻き込むワールドウォーに発展した。
シュリーフェン計画
西のフランスと東のロシアを同時に相手にしなければならないドイツは、まずは西部戦線でフランスを迅速に片付けて、その後にすぐさま東部戦線のロシアを打ち破り、6週間で戦争を終わらせるという、シュリーフェン計画(シュリーフェン将軍のアイディア)を実行したが、思いの外ロシア軍の動員が迅速で、ドイツ軍は西部戦線に割いていた兵力の一部を東部戦線に回さざるを得なくなった。
これにより東部戦線のタンネンベルクの戦いではヒンデンブルク率いるドイツ軍が勝利したものの、西部戦線のマルヌの戦いで敗北、西部戦線は膠着し、泥沼の塹壕戦に陥った。
また勝利した東部戦線においても国土の広さや厳しい寒さで決着の見通しは立たなかった。
こうして短期間で終わると思われていた戦争は「落ち葉の散るころまでには・・・」「クリスマスまでには・・・」とどんどん延長され、結局4年以上もかかることになる。
挙国一致体制
第一次世界大戦がそこまでの泥沼になるとは思ってもいなかった各国の市民は、開戦当初この戦争を防衛戦争と考えて歓迎、大都市では愛国ムードが漂い、若者は戦争に好奇心を抱きワクワクして軍に入隊した。だが、彼らはロマンを求めた戦場でさんざんな目に遭いロスト・ジェネレーション(迷える世代)などと呼ばれてしまうことになる。
引き金を引くだけで機械的に人間を次々に射殺できる機関銃、そしてその銃弾を避けるために掘られた塹壕にかくれる兵士をいぶり出すための毒ガス兵器の登場(1915年4月のイープルの戦いで初めてドイツ軍が使用)は、戦場を地獄絵図に変え、16年2月~12月までのヴェルダン要塞(ロレーヌ地方ムーズ)の攻防戦はフランスドイツ両軍に70万人の死者を出した。
同年6月、フランス北部のソンムの戦いではイギリス軍の戦車(マークⅠひし形戦車)が史上初めて登場し、西部戦線の塹壕や鉄条網をたたきつぶした。
フランスドイツ両軍は最初の一年で常備したすべての軍需物資を使い果たし、戦争が総力戦&消耗戦の様相を呈すると、経済体制は軍需産業が最優先となり、イギリスでは史上初の徴兵制が取られ、貿易を断たれたドイツ・オーストリア・ロシアでは国民の消費生活が統制されることになった。
こうしていつまでたっても戦争終結のめどすら立たず、国民生活も窮乏すると戦争に対する市民の不満が噴出、国際的反戦運動の動きも出始め、各国政府は更に強力な戦時指導体制を構築しなければならなくなった。
例えばドイツでは1916年8月に“タンネンベルクの英雄”ヒンデンブルクらの軍部独裁体制が成立、一方イギリスではロイド・ジョージが挙国一致内閣の首相に就任し、食糧配給制度などの国家統制を強めた。
戦時秘密外交
戦争が長期化すると両陣営は、どちらにも属さない中立国を自軍に引き入れようと、戦後の領土の配分をあらかじめ約束するような条約を結びだしだ。
その外交交渉は、議会や世論の動向に左右されることを嫌い、秘密裏で行われた。
例えば、開戦当初はドイツ、オーストリアと三国同盟を結び、中立を守っていたイタリアであったが、イギリスなどが未回収のイタリア(トリエステ、チロルなどイタリア人が居住するオーストリア領のこと)の領有をロンドン秘密条約で約束すると、領土問題でオーストリアともめていたイタリアはあっさり寝返り、オーストリアに宣戦布告してしまう。
このように秘密条約を特に乱発したのがイギリスである。イギリスはインドにも戦後の自治を約束して145万人以上のインド人兵士を集めたが、極めつけは以下の3つの秘密条約である。
1915年、オスマン帝国を滅ぼすために西アジアのアラブ人(パレスチナ人)の反乱を企てたイギリスは、アラブ民族運動の指導者フセインとフセイン・マクマホン協定を結ぶ。その内容は戦後、アラブ人の独立国家建設をイギリスが約束するというものだった。
ところが、その翌年の1916年、フランス&ロシアとの間で戦後のオスマン帝国のエリアを分け合うサイクス・ピコ協定(外交官サイクスとピコに由来)が結ばれる。
さらに翌々年の1917年には、ロスチャイルド家などのユダヤ人実業家の資金力が欲しかったイギリスの外相バルフォアが、パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを作ることをシオニストに約束(バルフォア宣言)、これはパレスチナを国際管理地域とするサイクス・ピコ協定と矛盾する内容であり、ぶっちゃけイギリスはオスマン・トルコさえ倒せればどんな勢力と手を結ぼうともよかったのであった。
案の定、戦後このエリアはけっきょく誰が統治するのか揉めに揉め、約束のつじつまが合わせられなくなったイギリスはこの問題を国連に丸投げ。これこそが今に至るパレスチナ問題なのである。
アメリカ合衆国参戦
1917年、膠着する戦争に転機が訪れる。モンロー主義(ヨーロッパのいざこざには首を突っ込まないという考え)を掲げて中立を保ち続けたアメリカ合衆国が参戦したのである。
アメリカ大統領ウィルソンは無併合・無賠償という勝利なき平和をモットーに戦争集結を各国に斡旋、しかし実際にはアメリカは物資や兵器の供給、資金の融資などを通じて連合国との結びつきを強めていた。
また、ドイツ軍はUボート(ウンターゼ・ボートの略)で15年5月にイギリスの客船ルシタニア号を撃沈させており、この乗客には128人のアメリカ人も含まれていたことから、アメリカ世論はアベンジに傾き、民主主義の擁護を掲げて17年4月ドイツに宣戦を布告する。
ロシアのソヴィエト政権が講和交渉をはじめると、ドイツでも帝国議会の多数派が講和を決議、帝政の民主化を求める運動が激化、軍部と保守派は独裁を一層強化することでこれを押さえつけた。フランスにおいても対独強硬論のクレマンソー内閣が設立して挙国一致体制が再構築された。
18年1月、社会主義革命の広がりを恐れたウィルソンは、ソヴィエト政権のレーニンが行った和平案や秘密条約の公表に対抗して、秘密外交の廃止、海洋の自由、民族自決などの14カ条の平和原則を発表する。
一方のソヴィエト政府はドイツなどとの単独講和に踏み切り、3月にブレスト=リトフスク条約を結んで戦線から離脱した。これによりドイツは東部戦線の兵力を西部方面に送り込み、終盤の巻き返しを図ったが、補給不足のために進撃は止まってしまった。
9月にはブルガリア、10月にはオスマン帝国、11月にはオーストリアと同盟国陣営は次々と単独休戦を行うと、残されたドイツ軍は戦争の勝利を諦め、議会に政権を委ねることにした。
こうしてドイツ議会はアメリカと休戦交渉に入るが、ここでこれまであまり目立った活躍をしなかったドイツ海軍が突然しゃしゃり出て最後の絶望的出撃を命令すると、かねてより上層部に不満を持っていたドイツの水兵たちは11月3日、キール軍港で蜂起、この反乱は革命となって全国に波及し、首都ベルリンで共和制の設立が宣言される(皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命)。
こうして1918年11月11日にドイツの新共和国政府はコンピエーヌの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終わった。
ヴェルサイユ条約
1919年のパリ講和会議において、対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれ、戦争に負けたドイツの処遇が決まった。
これによりドイツは、全植民地を失うとともに、ラインラント地方の非武装化、アルザルロレーヌ地方のフランスへの割譲を約束させられ、さらに潜水艦と空軍の保有を禁止され、極めつけに1320億金マルク(金とちゃんと兌換できるマルクという意味)という巨額の賠償金を支払うという散々な目にあった。
この現在の価値で20兆円くらいする天文学的数字は、これまでの戦争がその損失を敗戦国からの賠償金によって補填することが慣例だったためであるが、もはやこの戦争の損失(特に主戦場のフランスの損失)は賠償金で補えるレベルではなかったのである。
これにより戦時中からインフレが続いていたドイツはさらにハイパーインフレになり(フランスへの借金返済にルール地方を当てたため)、国民の不満が噴出、次の世界大戦への伏線が出来てしまった。
松任谷タカヒロ試乗レポート
2017-03-12 09:14:04 (7 years ago)
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- 雑記
車を買いました。HEAVENインサイト!!
HONDAのサイトより。
以下試乗した感想。
・ハイブリッドカーだから、燃料ゲージほんとに全然減らない。
・ナビの操作音が『デザーテッド・アイランド』の功績ポイントを振り分ける音と一緒。これは嬉しいポイントですな。
・車高が高い代車に乗っていたからか、車高が低くてなんか酔う。ゴーカートみたい。
・・・うお!車に興味がないから3行くらいで終わった!!
でも本当に車高が低い。低すぎて車体の底に取り付けてあるメインバッテリーを擦ってぶっ壊したら高いよと脅されました。でも軽自動車よりも低いもんなあ。思えば、スパイクは最初バスみたくて運転するのが難しかったけど、慣れれば車高が高いと、ほかの車を見下したようなセブンイレブンいい気分で、なかなかあっぱれであった。それが今や下に~下に~(※自分が)ですよ。
でもローンで買っちゃったから今更引き返せない。鬼になれよ近藤。
そんなわけで、最近『新選組!』にハマってます。でもなんか回が進むごとに内輪もめや裏切りや粛清が多くて、だんだん見るのが嫌になってきた(^_^;)もともと幕末とか新選組ってそんなに好きじゃないしね。
なんつーか見てて思うのは、こいつらフランス革命のロベスピエールとかと似てるよね。純粋で理想主義で、だからこそ下手な大義名分と武力を与えちゃうと恐ろしいこと極まりないつーか。自分が正しいことをしていると本気で思っている奴の暴力は計り知れねえよ。
あと、彼らは一歩間違えばただのニートだったわけで、やっぱりバカが暇つぶしに政治に興味を持つとろくなことにならねえなっていう。
案外当時はシールズが刃物持っちゃったみたいな感じだったのかな。つーかシールズってどこへ行ったんだろう。結局新選組もそうだけど、こういう若者って大人にいいように食い物にされて使い捨てられちゃうんだよな。
うん、全然車の話してないね。
HONDAのサイトより。
以下試乗した感想。
・ハイブリッドカーだから、燃料ゲージほんとに全然減らない。
・ナビの操作音が『デザーテッド・アイランド』の功績ポイントを振り分ける音と一緒。これは嬉しいポイントですな。
・車高が高い代車に乗っていたからか、車高が低くてなんか酔う。ゴーカートみたい。
・・・うお!車に興味がないから3行くらいで終わった!!
でも本当に車高が低い。低すぎて車体の底に取り付けてあるメインバッテリーを擦ってぶっ壊したら高いよと脅されました。でも軽自動車よりも低いもんなあ。思えば、スパイクは最初バスみたくて運転するのが難しかったけど、慣れれば車高が高いと、ほかの車を見下したようなセブンイレブンいい気分で、なかなかあっぱれであった。それが今や下に~下に~(※自分が)ですよ。
でもローンで買っちゃったから今更引き返せない。鬼になれよ近藤。
そんなわけで、最近『新選組!』にハマってます。でもなんか回が進むごとに内輪もめや裏切りや粛清が多くて、だんだん見るのが嫌になってきた(^_^;)もともと幕末とか新選組ってそんなに好きじゃないしね。
なんつーか見てて思うのは、こいつらフランス革命のロベスピエールとかと似てるよね。純粋で理想主義で、だからこそ下手な大義名分と武力を与えちゃうと恐ろしいこと極まりないつーか。自分が正しいことをしていると本気で思っている奴の暴力は計り知れねえよ。
あと、彼らは一歩間違えばただのニートだったわけで、やっぱりバカが暇つぶしに政治に興味を持つとろくなことにならねえなっていう。
案外当時はシールズが刃物持っちゃったみたいな感じだったのかな。つーかシールズってどこへ行ったんだろう。結局新選組もそうだけど、こういう若者って大人にいいように食い物にされて使い捨てられちゃうんだよな。
うん、全然車の話してないね。
化学実験覚え書き
2017-03-05 14:10:39 (7 years ago)
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カテゴリタグ:
- 化学
立派な中年になりました。(33)祝え!(´;ω;`)
大学近くのネットカフェが潰れたから、なかなか記事をアップできなかったんだけど、先月末に最後のスクーリングであるケミカル実験に行ってきたのです。
案の定、神様のような教授でした。この先生は昨年の面接試験での面接官で、その時からお世話になっていたんですが、面接時すごい意気投合して、地学実験の時に通りがかった時もお互い顔を覚えていたという。
な~んで私みたいなカスを気に入ってくださったのかなってずっと思ってたんだけど、実はこの先生、専門は生化学なんだけど、なにかの機会で造形教育にも携わっていたことがあって、科学と美術のコラボにもともと興味があったそう。おかげさまで高倍率の試験を通して頂いたと。初めて美術の肩書き役に立ったな。
んで最後の授業の時に、「理科教育について大学院で勉強したい」って言ったら、専門家を紹介してくれると快くおっしゃてくださったんだけど、欲を言えばこの先生の下で学びたかったよ(先生は院を担当してない)。やはり渡米してハイイログマを研究するしかねえな。
先生のポリシー
レポートをまとめるための実験や観察は本末転倒なのでレポートの提出を義務化はしない。
①何か感じて、②発想を展開させ、③行動をする。そしてその行動によってまた何かを感じるというフィードバックを、先生は発想スパイラルと名づけている。ぱっとみPCDAサイクルに似ているが、こちらはプランをあらかじめ立てているので、発想スパイラルとは似て非なるものであろう。
オレ達ノープラン。
空気の重さ調べ
宮本武蔵の師匠として知られる沢庵和尚は、ちびっこのおもちゃである空気でっぽうの仕組みに興味を持ち、目に見えない何かが紙玉を押し出していると、ボイルに先駆けすでに見抜いていた。徳川家光あたりの頃の話である。
この時代ヨーロッパでは科学革命が起き、太陽の見過ぎで目をやられた天文学者ガリレオもまた沢庵和尚と同じく空気を探求の対象にしていた。
たくあん法
さて、沢庵和尚といえば、漬物のたくあんだが、3800円くらいで漬物を作るために容器内の空気を抜く調理器具が売っている。そこで、完全な真空までとはいかないが、この漬物容器を使って空気1リットルの重さを量ってみる。
空気を抜く前の容器の重さをてんびんで量り、空気を抜いてからの重さと比較して算出する。
実験に使った漬け物容器の容積は1800mL、空気を抜く前の重さは408g、抜いたあとの重さは406gなので、2gの減少。これを1リットル当たりに換算するとだいたい1.1g/Lとなる。
ガリレオ法
ガリレオ・ガリレイが実際に行なった実験。スプレー缶(ガリレオはガラス容器)に空気入れで空気を入れてその重量を量ったあとに、その空気の一部を水を貯めたタライにつけたメスシリンダーの中に入れて、メスシリンダーに入れた空気の体積を量り、スプレー缶の重さがどれだけ減ったかを調べる。
実験では500mLをメスシリンダーにうつしスプレー缶の重量を調べた。3回量ってその平均を出すと1.13g/Lとなり、たくあん法とだいたい一致した。
ちなみに理科年表による公式数値は1.29g/L、ガリレオが出した数値は2.5g/Lで、現代のカインズホームでアイテムを揃えれば17世紀の天才より正確な値を出すことができることが分かる。
理論的には、空気の8割が窒素、残りを酸素として大雑把に計算すると、22.4リットルで窒素が28g、酸素が32gなので、窒素は28×0.8=22.4、酸素は32×0.2=6.4、合計28.8。
これを22.4で割れば1リットル分の重さが出るので1.285g/Lで、実験なしでさらにオフィシャルに近い値が出せる。高校化学すごい。
水の表面張力
コップに水を溢れるギリギリまで注ぎ、そこに透明プラスチックの薄い板でカバーをして、コップをひっくり返すと、あら不思議、コップの水はこぼれない。
これは、重力に打ち勝つほどの大気圧と水の表面張力(水分子同士を引き寄せて表面積をできるだけ小さくしようとする力)が働いているからである。
さらにそこに吸盤とフックを付けフックにおもりを引っ掛けると、おもりをコップが引っ張り上げてしまう。実験によっては一般的な大きさのコップで6kgものおもりを持ち上げるという。
コップの口の表面積、容器の柔らかさなど、様々なファクターが水にかかる重力を凌ぎさえすれば、水はこぼれないが、ちょっとでもコップとカバーのあいだに隙間ができるとザッツオールになる。
洗剤の臨界ミセル濃度
専門的にはCMC(クリティカル・ミセル・コンセントレーション)というらしい。
界面活性剤のボールであるミセルができ、洗剤(界面活性剤)の洗浄力が飛躍的に上がる(表面張力が激減する)濃度を言う。つまり単純な比例の直線ではない。
じゃあ、その濃度はどのへんじゃということでキュキュットさんを10倍、100倍、1000倍、10000倍に希釈し、水の表面張力が洗剤の濃さによってどれだけ変化するか、安全ピペッターでそれぞれ1.8mLずつ測りとり、一滴ずつ滴下させるという腱鞘炎必至の地獄の実験を行なった。
すると
×10では120滴、×100では119滴、×1000では99滴、×10000では46滴となり、たった1000倍から水の表面張力は激減することがわかった。
つまり、洗剤は相当ケチれることになる。実際キュキュットのパッケージには「水1Lに0.75mLでお使いください」と書いてあり、一個買えば350リットルくらい使える。いいのか花王!
ムラサキキャベツと酸・アルカリ
酸アルカリといった溶液の性質を調べることができる伝説のベジタブル。青いバラのように美しい。冷凍した葉っぱを200mLの水にひたすと試薬がもう出来上がり。
この試薬を2、3滴、パスツールピペットで8本の試験管に滴下する。
右から、水、4%塩酸、4%水酸化ナトリウム、飽和炭酸水(重曹)、レモン、卵白、カタバミ、そのまま。
写真はカタバミを試験管に入れる前だが、カタバミは弱酸性でムラサキキャベツ溶液はピンクっぽくなった。
ムラサキキャベツゼリー
デザートとして美味しいかは謎だが、ムラサキキャベツ溶液20mLと寒天をビーカーに入れて、コンロで加熱し、その後、飽和食塩水を加えて放置、冷蔵するとできる。
このゼリーにシャーペンの芯を2本つき差し、これを電極にして電気を流すと、ゼリーの色が変わってちょっと楽しい・・・がわりとくさい。
これはゼリーに混ぜた食塩水が電気分解され、陽極には塩素ガス、陰極には水素ガスと苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)が引っ張られるため。水に溶けた塩素は酸性なので陽極はピンクに、陰極はアルカリ性の水酸化ナトリウムによってグリーンになる。
・・・ってちょっと待ってくれ、陽イオンのナトリウムイオンが陰極に引っ張られるのはわかるが、水酸化物イオン、キサマは陰イオンだろというツッコミがあるが、これはあくまでも電極周辺の水酸化物イオンがナトリウムイオンと結びついていると考える。
実際ソーダを工業的につくる場合はイオン交換膜という“しきい”を作って水酸化物イオンが陽極に行かないようにしている。
ちなみに水酸化ナトリウム水溶液の原液は劇物で薬品庫で厳重に管理しなければならない。
また、こんな市販のキットもある。てってれ~マイクロ実験セット~(大山のぶ代の声で)
これは21世紀に開発された、実験の準備や片付けを手っ取り早くするために作られた小さなパレットのような学習教材なんだ。
・・・って実はこれ、うちの大学の化学の教授が10年以上前に考案していて、いつの間にか商品の形にまで実現していたという。ちょっと感動したが、価格はなんと14500円!高え!!
ちなみに、このセット・・・ウズラの卵のパック(100枚で1000円)で代用できるらしい。
セット内容は、シュウ酸塩(酸性代表)、フタル酸塩(弱酸性代表)、中性リン酸塩(中性代表)、ほう酸塩(弱アルカリ性代表)、炭酸塩(アルカリ性代表)となっております。
写真のA列の試薬はムラサキキャベツ、B列はBTB溶液、C列はマローブルー。マローブルーは長期間放置するとメロンソーダみたいな色になる。
水に対する溶解性
いろいろなものを水で溶かしてみる実験。
グルコース、ガラクトース、キシロース、スクロース、ラクトース、塩化ナトリウム、塩化アンモニウムをそれぞれ0.5g量って、水2mLと混ぜる。
ラクトースはなかなか溶けてくれないが、電動の試験管バイブレーターを使うと、ウルトラリング的な感じで溶ける。
ちなみに、徳島県や香川県には和三盆糖というトラディショナルなシュガー(竹糖で作る)があり、これはカキの殻の灰という“不純物”をあえて加えることで、時間がかかる糖の再結晶を促しているという。
さらに、メタノール、エタノール、1-プロパノール、1-ブタノールも2mL量って水2mLに混ぜると、1-ブタノールだけは溶解度が9なので水面に水飽和ブタノールが出来るだけで、溶けてくれない。
ちなみに「1-」というのはOH基が右から数えて何番目のCにくっついているかを表す。
C-C-C-C-OH
で1-ブタノール。
で2-ブタノール。
では、Cがヨコ3列になるためブタノールではなく、2-メチル-2-プロパノールとなる。
ちなみに最近ではt-ブチルアルコールと呼ぶことが多いらしく、こいつは溶解度がインフィニットであり、溶解度曲線は引けない。
塩化アンモニウムの再結晶
水50mLに塩化アンモニウム25gを混ぜて溶かすと、吸熱反応を起こしビーカーの温度がキンキンに冷える。
これを今度はインキュベーター(恒温槽)に入れて、温度を70~80℃まで上げる。
その後、冷えた水が入ったメスシリンダーに注ぐと、メスシリンダーの温度がカイロ的に上がりながらどんどん雪のような結晶が降ってくる。これを結晶化熱という。
ちなみに、塩化アンモニウムの結晶はスノードームのようにカワイイが、窒素分が多いため別に集めて破棄しなければならない。
食塩水から食塩を取り出す
海水を沸騰させて塩を作るのがトラディショナルかつ一般的だが、今回はそういうベタな方法ではなく、エタノールなどのアルコールを使って海水の水を脱水し食塩を取り出してみる。
5mLのエタノールと、1-プロパノールをそれぞれ入れた試験管に飽和食塩水を滴下すると、すぐに試験官が白く濁り塩の結晶をゲットできる・・・が、これって口に入れても大丈夫なのだろうか。
ちなみにこれはブラジルかどっかの岩塩。テトリスに匹敵する四角さである。
さて、食塩は海水から採取するもんだと海洋国家ジャパンは考えがちだが、世界に目を移すと世界のソルトの3分の2は岩塩らしい。特にオーストラリアとメキシコに岩塩が豊富で天気もいいので天日塩が生産できる。
日本の塩の歴史
先生が大変熱く語ってくれました。
実は食塩というのは商標だった…!衝撃の事実!食塩は塩化ナトリウムが99%以上のものだけが与えられる称号で、伝統的塩作りをモットーとするHA・KA・TA・NO・SHI・O!は塩化ナトリウムは95%である。
ちなみに日本の製塩法は古い順に以下のとおり。
①藻塩焼き
古墳時代以前から行っていた製法。海草についた塩を取る。
②揚げ浜式塩田
平安時代から江戸時代に行っていた製法。
海岸よりも高い位置に塩田(表面は粘土)を作り、そこに海水を撒いて日光や風で蒸発させる。こうしてできた塩分がたくさん付いた砂を沼井(ぬい)という囲いに入れて、さらに海水をかけて、塩分濃度の高い海水をを煮詰める。
③入浜式塩田
江戸時代の瀬戸内地方で普及。潮の満ち引きと毛細管現象を利用したタイプ。人力で海水を塩田に持ってくる必要がない。沼井を使うのは一緒。
④流下式塩田
Since昭和28年。入浜式がパワーアップ。竹で枝条架(しじょうか)を組み立て、その上から濃縮された海水を垂らす。HA・KA・TA・NO・SHI・O!はこの製法にこだわってソルトを生産していたが1971年に塩田による塩作りが禁止され(塩専売法)ほとんどの枝条架が取り壊されてしまった。
⑤イオン交換膜製塩法
Since昭和47年。もともとは海水から飲み水を作る技術だが、その副産物でソルトができることが着目され、天気に左右されない、少人数で作れる、汚染物が混入しない、などのメリットから政府公認の唯一の製塩法と認定された。
・・・が、工業的過程で作られたソルトはぶっちゃけあまり美味しくなく、平成9年、トラディショナルな製法も再び解禁。
HA・KA・TA・NO・SHI・O!も唯一取り壊しをまぬがれた枝条架で現在も塩を作っている。
しば漬けと乳酸発酵
好奇心の塊である先生が京都のしば漬け工房に直接尋ねたところによると、しば漬けはシソとナスとそして食塩で作られる。これを乳酸菌に発酵させることで酸性化、青いナスが赤くなる。ポイントは食塩の量で、これが少ないとナスが酸性化せずに、中性~弱アルカリ性で活躍する乳酸菌以外のバクテリアがナスを腐らせてしまう。
ちなみに、パンやワインを作ってくれる酵母菌(イースト菌)という奴がいるが、あれってパンのやつもワインのやつも学名は同じで、サッカロマイセス・セレヴィシアエらしい。種小名まで一緒だけど働きは違うという。
固定化生体触媒
パン酵母を化学反応で丸く固定化する。人工イクラもこんな感じで作っている。
フラスコに5%酵母液と2%のアルギン酸ナトリウム溶液25mLを入れてマグネティックスターラーで攪拌、こうしてできた溶液をこまごめピペットを使って、5%塩化カルシウム溶液が200mL入ったビーカーに滴下すると、アルギン酸ナトリウムに膜ができ、イクラの形をしたパン酵母を作ることができる。
こうしてできた酵母カプセルを、各種糖が入った試験管に入れると、グルコースやスクロースの試験管では酵母が出した二酸化炭素によってカプセルが浮き上がる。つまりパン酵母はこれらの糖を好んで発酵していることがわかる。逆にラクトースやガラクトースはあまり好きじゃないっぽい。
ちなみにどどっとつぶぴょんという、ねるねるねるね的なお菓子があるが、これもクチナシとアルギン酸ナトリウムを乳酸カルシウム溶液に滴下して作る、固定化生体触媒(つぶつぶゼリー)である。味はほぼねるねるねるね。
て~れってれ~♪
大学近くのネットカフェが潰れたから、なかなか記事をアップできなかったんだけど、先月末に最後のスクーリングであるケミカル実験に行ってきたのです。
案の定、神様のような教授でした。この先生は昨年の面接試験での面接官で、その時からお世話になっていたんですが、面接時すごい意気投合して、地学実験の時に通りがかった時もお互い顔を覚えていたという。
な~んで私みたいなカスを気に入ってくださったのかなってずっと思ってたんだけど、実はこの先生、専門は生化学なんだけど、なにかの機会で造形教育にも携わっていたことがあって、科学と美術のコラボにもともと興味があったそう。おかげさまで高倍率の試験を通して頂いたと。初めて美術の肩書き役に立ったな。
んで最後の授業の時に、「理科教育について大学院で勉強したい」って言ったら、専門家を紹介してくれると快くおっしゃてくださったんだけど、欲を言えばこの先生の下で学びたかったよ(先生は院を担当してない)。やはり渡米してハイイログマを研究するしかねえな。
先生のポリシー
レポートをまとめるための実験や観察は本末転倒なのでレポートの提出を義務化はしない。
①何か感じて、②発想を展開させ、③行動をする。そしてその行動によってまた何かを感じるというフィードバックを、先生は発想スパイラルと名づけている。ぱっとみPCDAサイクルに似ているが、こちらはプランをあらかじめ立てているので、発想スパイラルとは似て非なるものであろう。
オレ達ノープラン。
空気の重さ調べ
宮本武蔵の師匠として知られる沢庵和尚は、ちびっこのおもちゃである空気でっぽうの仕組みに興味を持ち、目に見えない何かが紙玉を押し出していると、ボイルに先駆けすでに見抜いていた。徳川家光あたりの頃の話である。
この時代ヨーロッパでは科学革命が起き、太陽の見過ぎで目をやられた天文学者ガリレオもまた沢庵和尚と同じく空気を探求の対象にしていた。
たくあん法
さて、沢庵和尚といえば、漬物のたくあんだが、3800円くらいで漬物を作るために容器内の空気を抜く調理器具が売っている。そこで、完全な真空までとはいかないが、この漬物容器を使って空気1リットルの重さを量ってみる。
空気を抜く前の容器の重さをてんびんで量り、空気を抜いてからの重さと比較して算出する。
実験に使った漬け物容器の容積は1800mL、空気を抜く前の重さは408g、抜いたあとの重さは406gなので、2gの減少。これを1リットル当たりに換算するとだいたい1.1g/Lとなる。
ガリレオ法
ガリレオ・ガリレイが実際に行なった実験。スプレー缶(ガリレオはガラス容器)に空気入れで空気を入れてその重量を量ったあとに、その空気の一部を水を貯めたタライにつけたメスシリンダーの中に入れて、メスシリンダーに入れた空気の体積を量り、スプレー缶の重さがどれだけ減ったかを調べる。
実験では500mLをメスシリンダーにうつしスプレー缶の重量を調べた。3回量ってその平均を出すと1.13g/Lとなり、たくあん法とだいたい一致した。
ちなみに理科年表による公式数値は1.29g/L、ガリレオが出した数値は2.5g/Lで、現代のカインズホームでアイテムを揃えれば17世紀の天才より正確な値を出すことができることが分かる。
理論的には、空気の8割が窒素、残りを酸素として大雑把に計算すると、22.4リットルで窒素が28g、酸素が32gなので、窒素は28×0.8=22.4、酸素は32×0.2=6.4、合計28.8。
これを22.4で割れば1リットル分の重さが出るので1.285g/Lで、実験なしでさらにオフィシャルに近い値が出せる。高校化学すごい。
水の表面張力
コップに水を溢れるギリギリまで注ぎ、そこに透明プラスチックの薄い板でカバーをして、コップをひっくり返すと、あら不思議、コップの水はこぼれない。
これは、重力に打ち勝つほどの大気圧と水の表面張力(水分子同士を引き寄せて表面積をできるだけ小さくしようとする力)が働いているからである。
さらにそこに吸盤とフックを付けフックにおもりを引っ掛けると、おもりをコップが引っ張り上げてしまう。実験によっては一般的な大きさのコップで6kgものおもりを持ち上げるという。
コップの口の表面積、容器の柔らかさなど、様々なファクターが水にかかる重力を凌ぎさえすれば、水はこぼれないが、ちょっとでもコップとカバーのあいだに隙間ができるとザッツオールになる。
洗剤の臨界ミセル濃度
専門的にはCMC(クリティカル・ミセル・コンセントレーション)というらしい。
界面活性剤のボールであるミセルができ、洗剤(界面活性剤)の洗浄力が飛躍的に上がる(表面張力が激減する)濃度を言う。つまり単純な比例の直線ではない。
じゃあ、その濃度はどのへんじゃということでキュキュットさんを10倍、100倍、1000倍、10000倍に希釈し、水の表面張力が洗剤の濃さによってどれだけ変化するか、安全ピペッターでそれぞれ1.8mLずつ測りとり、一滴ずつ滴下させるという腱鞘炎必至の地獄の実験を行なった。
すると
×10では120滴、×100では119滴、×1000では99滴、×10000では46滴となり、たった1000倍から水の表面張力は激減することがわかった。
つまり、洗剤は相当ケチれることになる。実際キュキュットのパッケージには「水1Lに0.75mLでお使いください」と書いてあり、一個買えば350リットルくらい使える。いいのか花王!
ムラサキキャベツと酸・アルカリ
酸アルカリといった溶液の性質を調べることができる伝説のベジタブル。青いバラのように美しい。冷凍した葉っぱを200mLの水にひたすと試薬がもう出来上がり。
この試薬を2、3滴、パスツールピペットで8本の試験管に滴下する。
右から、水、4%塩酸、4%水酸化ナトリウム、飽和炭酸水(重曹)、レモン、卵白、カタバミ、そのまま。
写真はカタバミを試験管に入れる前だが、カタバミは弱酸性でムラサキキャベツ溶液はピンクっぽくなった。
ムラサキキャベツゼリー
デザートとして美味しいかは謎だが、ムラサキキャベツ溶液20mLと寒天をビーカーに入れて、コンロで加熱し、その後、飽和食塩水を加えて放置、冷蔵するとできる。
このゼリーにシャーペンの芯を2本つき差し、これを電極にして電気を流すと、ゼリーの色が変わってちょっと楽しい・・・がわりとくさい。
これはゼリーに混ぜた食塩水が電気分解され、陽極には塩素ガス、陰極には水素ガスと苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)が引っ張られるため。水に溶けた塩素は酸性なので陽極はピンクに、陰極はアルカリ性の水酸化ナトリウムによってグリーンになる。
・・・ってちょっと待ってくれ、陽イオンのナトリウムイオンが陰極に引っ張られるのはわかるが、水酸化物イオン、キサマは陰イオンだろというツッコミがあるが、これはあくまでも電極周辺の水酸化物イオンがナトリウムイオンと結びついていると考える。
実際ソーダを工業的につくる場合はイオン交換膜という“しきい”を作って水酸化物イオンが陽極に行かないようにしている。
ちなみに水酸化ナトリウム水溶液の原液は劇物で薬品庫で厳重に管理しなければならない。
また、こんな市販のキットもある。てってれ~マイクロ実験セット~(大山のぶ代の声で)
これは21世紀に開発された、実験の準備や片付けを手っ取り早くするために作られた小さなパレットのような学習教材なんだ。
・・・って実はこれ、うちの大学の化学の教授が10年以上前に考案していて、いつの間にか商品の形にまで実現していたという。ちょっと感動したが、価格はなんと14500円!高え!!
ちなみに、このセット・・・ウズラの卵のパック(100枚で1000円)で代用できるらしい。
セット内容は、シュウ酸塩(酸性代表)、フタル酸塩(弱酸性代表)、中性リン酸塩(中性代表)、ほう酸塩(弱アルカリ性代表)、炭酸塩(アルカリ性代表)となっております。
写真のA列の試薬はムラサキキャベツ、B列はBTB溶液、C列はマローブルー。マローブルーは長期間放置するとメロンソーダみたいな色になる。
水に対する溶解性
いろいろなものを水で溶かしてみる実験。
グルコース、ガラクトース、キシロース、スクロース、ラクトース、塩化ナトリウム、塩化アンモニウムをそれぞれ0.5g量って、水2mLと混ぜる。
ラクトースはなかなか溶けてくれないが、電動の試験管バイブレーターを使うと、ウルトラリング的な感じで溶ける。
ちなみに、徳島県や香川県には和三盆糖というトラディショナルなシュガー(竹糖で作る)があり、これはカキの殻の灰という“不純物”をあえて加えることで、時間がかかる糖の再結晶を促しているという。
さらに、メタノール、エタノール、1-プロパノール、1-ブタノールも2mL量って水2mLに混ぜると、1-ブタノールだけは溶解度が9なので水面に水飽和ブタノールが出来るだけで、溶けてくれない。
ちなみに「1-」というのはOH基が右から数えて何番目のCにくっついているかを表す。
C-C-C-C-OH
で1-ブタノール。
で2-ブタノール。
では、Cがヨコ3列になるためブタノールではなく、2-メチル-2-プロパノールとなる。
ちなみに最近ではt-ブチルアルコールと呼ぶことが多いらしく、こいつは溶解度がインフィニットであり、溶解度曲線は引けない。
塩化アンモニウムの再結晶
水50mLに塩化アンモニウム25gを混ぜて溶かすと、吸熱反応を起こしビーカーの温度がキンキンに冷える。
これを今度はインキュベーター(恒温槽)に入れて、温度を70~80℃まで上げる。
その後、冷えた水が入ったメスシリンダーに注ぐと、メスシリンダーの温度がカイロ的に上がりながらどんどん雪のような結晶が降ってくる。これを結晶化熱という。
ちなみに、塩化アンモニウムの結晶はスノードームのようにカワイイが、窒素分が多いため別に集めて破棄しなければならない。
食塩水から食塩を取り出す
海水を沸騰させて塩を作るのがトラディショナルかつ一般的だが、今回はそういうベタな方法ではなく、エタノールなどのアルコールを使って海水の水を脱水し食塩を取り出してみる。
5mLのエタノールと、1-プロパノールをそれぞれ入れた試験管に飽和食塩水を滴下すると、すぐに試験官が白く濁り塩の結晶をゲットできる・・・が、これって口に入れても大丈夫なのだろうか。
ちなみにこれはブラジルかどっかの岩塩。テトリスに匹敵する四角さである。
さて、食塩は海水から採取するもんだと海洋国家ジャパンは考えがちだが、世界に目を移すと世界のソルトの3分の2は岩塩らしい。特にオーストラリアとメキシコに岩塩が豊富で天気もいいので天日塩が生産できる。
日本の塩の歴史
先生が大変熱く語ってくれました。
実は食塩というのは商標だった…!衝撃の事実!食塩は塩化ナトリウムが99%以上のものだけが与えられる称号で、伝統的塩作りをモットーとするHA・KA・TA・NO・SHI・O!は塩化ナトリウムは95%である。
ちなみに日本の製塩法は古い順に以下のとおり。
①藻塩焼き
古墳時代以前から行っていた製法。海草についた塩を取る。
②揚げ浜式塩田
平安時代から江戸時代に行っていた製法。
海岸よりも高い位置に塩田(表面は粘土)を作り、そこに海水を撒いて日光や風で蒸発させる。こうしてできた塩分がたくさん付いた砂を沼井(ぬい)という囲いに入れて、さらに海水をかけて、塩分濃度の高い海水をを煮詰める。
③入浜式塩田
江戸時代の瀬戸内地方で普及。潮の満ち引きと毛細管現象を利用したタイプ。人力で海水を塩田に持ってくる必要がない。沼井を使うのは一緒。
④流下式塩田
Since昭和28年。入浜式がパワーアップ。竹で枝条架(しじょうか)を組み立て、その上から濃縮された海水を垂らす。HA・KA・TA・NO・SHI・O!はこの製法にこだわってソルトを生産していたが1971年に塩田による塩作りが禁止され(塩専売法)ほとんどの枝条架が取り壊されてしまった。
⑤イオン交換膜製塩法
Since昭和47年。もともとは海水から飲み水を作る技術だが、その副産物でソルトができることが着目され、天気に左右されない、少人数で作れる、汚染物が混入しない、などのメリットから政府公認の唯一の製塩法と認定された。
・・・が、工業的過程で作られたソルトはぶっちゃけあまり美味しくなく、平成9年、トラディショナルな製法も再び解禁。
HA・KA・TA・NO・SHI・O!も唯一取り壊しをまぬがれた枝条架で現在も塩を作っている。
しば漬けと乳酸発酵
好奇心の塊である先生が京都のしば漬け工房に直接尋ねたところによると、しば漬けはシソとナスとそして食塩で作られる。これを乳酸菌に発酵させることで酸性化、青いナスが赤くなる。ポイントは食塩の量で、これが少ないとナスが酸性化せずに、中性~弱アルカリ性で活躍する乳酸菌以外のバクテリアがナスを腐らせてしまう。
ちなみに、パンやワインを作ってくれる酵母菌(イースト菌)という奴がいるが、あれってパンのやつもワインのやつも学名は同じで、サッカロマイセス・セレヴィシアエらしい。種小名まで一緒だけど働きは違うという。
固定化生体触媒
パン酵母を化学反応で丸く固定化する。人工イクラもこんな感じで作っている。
フラスコに5%酵母液と2%のアルギン酸ナトリウム溶液25mLを入れてマグネティックスターラーで攪拌、こうしてできた溶液をこまごめピペットを使って、5%塩化カルシウム溶液が200mL入ったビーカーに滴下すると、アルギン酸ナトリウムに膜ができ、イクラの形をしたパン酵母を作ることができる。
こうしてできた酵母カプセルを、各種糖が入った試験管に入れると、グルコースやスクロースの試験管では酵母が出した二酸化炭素によってカプセルが浮き上がる。つまりパン酵母はこれらの糖を好んで発酵していることがわかる。逆にラクトースやガラクトースはあまり好きじゃないっぽい。
ちなみにどどっとつぶぴょんという、ねるねるねるね的なお菓子があるが、これもクチナシとアルギン酸ナトリウムを乳酸カルシウム溶液に滴下して作る、固定化生体触媒(つぶつぶゼリー)である。味はほぼねるねるねるね。
て~れってれ~♪
英米文学1覚え書き②
2017-02-14 20:53:58 (7 years ago)
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カテゴリタグ:
- 文学
・・・これは社会の勉強だと思う。
そういえば、この前車検だったんだけど、5年間乗り倒したラパンがとうとうペッパーになっちゃって、車を買い換えるハメに。個人的には、ミニクーパー(ミスター・ビーン)とかベンツのMクラス(エディ・カー)がいいんだけど、外車は壊れやすいし部品代も高くつくらしいので、国産車にしました(現時点ではプリウスとかアクアのいわゆるハイブリッドカーを考えています)。
つーか、トランプの野郎もアメ車を売りたいなら、もっと安くて壊れにくい品質のいいやつを作れって言うんだよな。だいたい日本の狭い道でピックアップトラックは流行らねえって。
・・・とまあ、ここまで言ってあれだけど、国産車にした最大の決め手は私、マニュアル免許持ってないんだよね。
参考文献:板橋好枝・高橋賢一編著『はじめて学ぶアメリカ文学史』
アメリカの建国理念とその矛盾
疲れ果て、
貧しさにあえぎ、
自由の息吹を求める群衆を、
私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ、拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく、
動乱に弄ばれた人々を、
私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう、
自由の国はここなのだと。
これは、アメリカ独立を記念してフランスから贈呈された自由の女神の台座に彫られた言葉である。
1776年のアメリカ独立宣言は、イギリスや大陸ヨーロッパと異なる実験国家アメリカの誕生を世界に訴えるものであったが、かといってアメリカがただちに旧世界からの精神的・物質的独立を果たしたわけではなかった。
たとえば1788年に発効した合衆国憲法の成立過程においても、イギリス式慣習法の枠を越えることはできず、独立宣言の崇高な理念を裏切るものは少なくなかった。
また、独立13州はそれぞれの権益を守ろうとして独自の自治権を主張し、連邦制を脅かす不安要因はくすぶり続けた。
その端的な例が、合衆国憲法の5分の3条項である。
これは、各州の代表者数を人口から算定する際、奴隷制を基盤とする南部は黒人奴隷を人口に加えるために、黒人5人を自由白人3人分としてカウントするという、独立宣言の平等の理念に大きく矛盾する方策であった。
南部の州権論者のなかには、人間は元々平等に作られておらず、むしろ奴隷制を前提としたギリシャ型民主主義こそアメリカの政治形態にふさわしいとさえ論じるものもいたが、産業資本の蓄積を追求する北部の指導者は、独立宣言の理念を維持しつつ、常に南部と妥協の道を模索しながら連邦の維持を図っていた。
ひとつの自由州が設定されれば、ひとつの奴隷州も設定されなければならないというミズーリ協定(1820年)はその象徴であった。
しかし北部の産業資本主義と、南部の準貴族主義大農園体制の対立はやがて妥協が許されないレベルにまで深刻化し、1861年に世界初の近代戦と言われる南北戦争が勃発する。
この戦争を境に、黒人の文筆活動が盛んになり、黒人教育家ブーカー・ワシントン、黒人の待遇改善を訴えた評論家デュ・ボイス、優れた物語集を著して黒人文学の開拓者として知られるチャールズ・チェスナット(Charles W. Chesnutt)、詩人のジョンソンなどが現れた。
1920年代になると、第一次大戦中、労働力不足を補うために北部に大量に流入した南部の黒人が、ニューヨーク市ハーレム地区に独自の文化を開花させる。これをハーレム・ルネッサンスという。
クロード・マッケイ(Claude McKay)、ジーン・トゥーマー、カウンティー・カレンなどの詩人たちは、黒人なまりやブルース(南部の黒人の労働歌から発展した音楽)やジャズ(ブルースがマーチングバンドなどの影響を受けて発展したもの)のリズムを用いて、人種差別を糾弾する作品を発表、白人中心のアメリカ文学に異質な要素を加えた。
第二次大戦後の1950年代には、ヒステリックな反共運動のマッカーシズム、ジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリーに象徴される若者文化(サブカルチャー)と共に、黒人公民権運動も胎動を見せた。
黒人差別が合法化されていた南部を中心に、キング牧師が指導した非暴力・直接行動は、アメリカ文学にも影響を与え、ラルフ・エリスン(Ralph Ellison)は、52年に『見えない人間』(Invisible man)を発表、阻害された黒人の内的世界(アイデンティティ・クライシス)と、黒人を取り囲む社会状況を、風刺的かつ寓話的な手法で描き出し、直裁的な抗議小説ではない新たな黒人文学の到来を告げた(白人社会にも黒人解放組織にも徹底的無視される“見えない人間”である「私」は地下で1369個の電灯をともす)。
さて、キング牧師による50年代の黒人公民権運動の成果は、60年代以降になると明確に現れ、皮肉にも黒人暴動をはらむ急進的で暴力的な闘争にも発展した。
この時期に活躍した黒人作家にジェイムズ・ボールドウィン(James Baldwin)がいる。ヴェトナム反戦運動や、公民権運動にも深く関わり、公民権運動のスポークスマンと呼ばれた彼は、白人が期待する主体性のない黒人のイメージを拒否し、むしろ阻害と不安に陥っている白人こそアイデンティティの問題を抱えていると考え、黒人問題は白人側の問題であると定義した。
また、アメリカ黒人の真の解放は性の解放と不可分であるという立場から、人種と性別の壁を越えた様々な愛やヒューマニズムを作品の中で描いた。たとえば『ジョバンニの部屋』(Giovanni’s Room,1956)では白人同性愛者を、『もう一つの国』(Another Country,1962)では、多人種社会を描くことで人間性の根源や回復を探っている。
1960年代以降の文学は、ポスト・モダニズムの文学であるといえるだろう。前時代の文学を利用・引用したり、それ自体の生成過程や形式に言及することで、それが虚構であることを故意にさらけ出すメタ的な文学作品がポスト・モダン文学である。
これまで「現実」と呼ばれていたもの(西欧中心主義、男性中心主義)が唯一絶対で不変なものであるという見方を相対化するポストモダンは、非西欧、非白人、非男性、非異性愛者からみた「現実」に大きな意味を与え、トニ・モリスン(Toni Morrison)、アリス・ウォ-カー(Alice Walker)は黒人女性の苦難の体験を描いた。
そういえば、この前車検だったんだけど、5年間乗り倒したラパンがとうとうペッパーになっちゃって、車を買い換えるハメに。個人的には、ミニクーパー(ミスター・ビーン)とかベンツのMクラス(エディ・カー)がいいんだけど、外車は壊れやすいし部品代も高くつくらしいので、国産車にしました(現時点ではプリウスとかアクアのいわゆるハイブリッドカーを考えています)。
つーか、トランプの野郎もアメ車を売りたいなら、もっと安くて壊れにくい品質のいいやつを作れって言うんだよな。だいたい日本の狭い道でピックアップトラックは流行らねえって。
・・・とまあ、ここまで言ってあれだけど、国産車にした最大の決め手は私、マニュアル免許持ってないんだよね。
参考文献:板橋好枝・高橋賢一編著『はじめて学ぶアメリカ文学史』
アメリカの建国理念とその矛盾
疲れ果て、
貧しさにあえぎ、
自由の息吹を求める群衆を、
私に与えたまえ。
人生の高波に揉まれ、拒まれ続ける哀れな人々を。
戻る祖国なく、
動乱に弄ばれた人々を、
私のもとに送りたまえ。
私は希望の灯を掲げて照らそう、
自由の国はここなのだと。
これは、アメリカ独立を記念してフランスから贈呈された自由の女神の台座に彫られた言葉である。
1776年のアメリカ独立宣言は、イギリスや大陸ヨーロッパと異なる実験国家アメリカの誕生を世界に訴えるものであったが、かといってアメリカがただちに旧世界からの精神的・物質的独立を果たしたわけではなかった。
たとえば1788年に発効した合衆国憲法の成立過程においても、イギリス式慣習法の枠を越えることはできず、独立宣言の崇高な理念を裏切るものは少なくなかった。
また、独立13州はそれぞれの権益を守ろうとして独自の自治権を主張し、連邦制を脅かす不安要因はくすぶり続けた。
その端的な例が、合衆国憲法の5分の3条項である。
これは、各州の代表者数を人口から算定する際、奴隷制を基盤とする南部は黒人奴隷を人口に加えるために、黒人5人を自由白人3人分としてカウントするという、独立宣言の平等の理念に大きく矛盾する方策であった。
南部の州権論者のなかには、人間は元々平等に作られておらず、むしろ奴隷制を前提としたギリシャ型民主主義こそアメリカの政治形態にふさわしいとさえ論じるものもいたが、産業資本の蓄積を追求する北部の指導者は、独立宣言の理念を維持しつつ、常に南部と妥協の道を模索しながら連邦の維持を図っていた。
ひとつの自由州が設定されれば、ひとつの奴隷州も設定されなければならないというミズーリ協定(1820年)はその象徴であった。
しかし北部の産業資本主義と、南部の準貴族主義大農園体制の対立はやがて妥協が許されないレベルにまで深刻化し、1861年に世界初の近代戦と言われる南北戦争が勃発する。
この戦争を境に、黒人の文筆活動が盛んになり、黒人教育家ブーカー・ワシントン、黒人の待遇改善を訴えた評論家デュ・ボイス、優れた物語集を著して黒人文学の開拓者として知られるチャールズ・チェスナット(Charles W. Chesnutt)、詩人のジョンソンなどが現れた。
1920年代になると、第一次大戦中、労働力不足を補うために北部に大量に流入した南部の黒人が、ニューヨーク市ハーレム地区に独自の文化を開花させる。これをハーレム・ルネッサンスという。
クロード・マッケイ(Claude McKay)、ジーン・トゥーマー、カウンティー・カレンなどの詩人たちは、黒人なまりやブルース(南部の黒人の労働歌から発展した音楽)やジャズ(ブルースがマーチングバンドなどの影響を受けて発展したもの)のリズムを用いて、人種差別を糾弾する作品を発表、白人中心のアメリカ文学に異質な要素を加えた。
第二次大戦後の1950年代には、ヒステリックな反共運動のマッカーシズム、ジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリーに象徴される若者文化(サブカルチャー)と共に、黒人公民権運動も胎動を見せた。
黒人差別が合法化されていた南部を中心に、キング牧師が指導した非暴力・直接行動は、アメリカ文学にも影響を与え、ラルフ・エリスン(Ralph Ellison)は、52年に『見えない人間』(Invisible man)を発表、阻害された黒人の内的世界(アイデンティティ・クライシス)と、黒人を取り囲む社会状況を、風刺的かつ寓話的な手法で描き出し、直裁的な抗議小説ではない新たな黒人文学の到来を告げた(白人社会にも黒人解放組織にも徹底的無視される“見えない人間”である「私」は地下で1369個の電灯をともす)。
さて、キング牧師による50年代の黒人公民権運動の成果は、60年代以降になると明確に現れ、皮肉にも黒人暴動をはらむ急進的で暴力的な闘争にも発展した。
この時期に活躍した黒人作家にジェイムズ・ボールドウィン(James Baldwin)がいる。ヴェトナム反戦運動や、公民権運動にも深く関わり、公民権運動のスポークスマンと呼ばれた彼は、白人が期待する主体性のない黒人のイメージを拒否し、むしろ阻害と不安に陥っている白人こそアイデンティティの問題を抱えていると考え、黒人問題は白人側の問題であると定義した。
また、アメリカ黒人の真の解放は性の解放と不可分であるという立場から、人種と性別の壁を越えた様々な愛やヒューマニズムを作品の中で描いた。たとえば『ジョバンニの部屋』(Giovanni’s Room,1956)では白人同性愛者を、『もう一つの国』(Another Country,1962)では、多人種社会を描くことで人間性の根源や回復を探っている。
1960年代以降の文学は、ポスト・モダニズムの文学であるといえるだろう。前時代の文学を利用・引用したり、それ自体の生成過程や形式に言及することで、それが虚構であることを故意にさらけ出すメタ的な文学作品がポスト・モダン文学である。
これまで「現実」と呼ばれていたもの(西欧中心主義、男性中心主義)が唯一絶対で不変なものであるという見方を相対化するポストモダンは、非西欧、非白人、非男性、非異性愛者からみた「現実」に大きな意味を与え、トニ・モリスン(Toni Morrison)、アリス・ウォ-カー(Alice Walker)は黒人女性の苦難の体験を描いた。
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