明治時代覚え書き①

明治時代の概要(1868年~1912年)
一人の天皇につきひとつの元号になったので、期間としてはそこまで長くはないんだけど、近現代史ってことで、文明開化から日清・日露戦争まで盛りだくさん。
西洋型の近代国家となった日本は、国際社会と積極的に関わるようになり、世界史と日本史は合流していく。

明治時代前期
王政復古の大号令に納得がいっていない旧幕府軍との戦争によって明治時代は始まった。新政府は戊辰戦争を繰り広げながらも着々と明治時代のアウトライン(天皇親政、身分制度緩和、近代的な議会政治など)を描き、戦争が終わると破竹の勢いで近代化を実現させるが、幕末に結ばれた不平等条約によって関税自主権がなかったため、国内産業が苦戦、全体的に経済活動はあまり活発化しなかった。

小御所会議(こごしょかいぎ)
1897年12月9日、王政復古の大号令が出された日に行われた、公武合体派と倒幕派の会議。徳川慶喜の内大臣の辞退と、徳川家の領地の半分を朝廷に納めることが決まった。

戊辰戦争
しかし新政府の決定に納得しなかった旧幕府派は、薩摩藩の挑発に乗り新政府との対決姿勢を表明、旧幕府軍を組織した。これにより小御所会議の決定に一度は従った徳川慶喜も、旧幕府軍を支持することになった(自分が担ぎ上げられているわけだし)。
戊辰戦争は1年半も続いた。

鳥羽・伏見の戦い
1868年1月に京都の鳥羽と伏見で起こった1万5000人の旧幕府軍と5000人の新政府軍(官軍)の戦い。
人数的には劣っていた官軍が近代兵器を駆使して官軍が勝利したと言われるが、実際には武器の性能よりは、官軍の指揮系統や士気の高さが勝利につながったと言われている。
なんにせよ敗れた旧幕府軍と慶喜は江戸に逃亡した。

江戸無血開城
官軍の最高実力者の西郷隆盛は、慶喜を追って江戸を総攻撃しようとしたが、旧幕府軍陸軍総裁になっていた勝海舟との和平交渉に応じ、1868年4月に江戸城は無血開城、新政府の占領下になった。篤姫でそんなことやってたな。
ちなみにこれを不服とする旧幕臣(彰義隊)は上野で抵抗。アームストロング砲を撃ち込まれている。

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)
江戸城は新政府の手に落ちたが、地方では依然旧幕府派の抵抗が続き、会津藩などの東北や北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成した。
しかし官軍によって9月に会津若松城は陥落、東北諸藩の抵抗勢力は撃破された。
八重の桜でそんなことやってたな。

五稜郭の戦い
旧幕府軍の海軍副総裁の榎本武揚は函館の五稜郭に立てこもったが、のちの総理大臣になる黒田清隆の腹を割った交渉などにより1869年の5月に榎本武揚も降伏。こうして戊辰戦争は終結し、全国は統一された。
ちなみに五稜郭とは大砲がいろんな角度へ撃てるように星型になった要塞。

新政府の政策
戊辰戦争中に新政府は9つの政策を実行した。

新政府の政策①諸外国への政権交代宣言
新政府が天皇中心の政権であることを海外に宣言。

新政府の政策②五箇条の御誓文の公布
新政府の基本方針。
1条:各地で広く会議を開き公開された会議で重要事項は決定されます。
2条:国民が一丸となって経済を振興しよう。
3条:身分に関わらず誰もが志を抱き、それを達成できるようにしよう。
4条:旧来の慣習はやめて、国際法に基づこう。
5条:新しい知識を世界に求め、天皇が国を治める基礎を作ろう。

由利公正(ゆりきみまさ)が原案を作成、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と木戸孝允が加筆・修正。

新政府の政策③五榜の掲示の公布
国民が守らなければいけない儒教的道徳を示している(一札)。
また民衆の徒党や強訴(二札)、キリスト教(三札)、外国人への暴行(四札)も禁止された。最後は犯罪者が逃亡することを禁止している(五札)。

新政府の政策④政体書の公布
政府の組織を示したもの。国家権力を太政官という中央政府(機関であって役職ではない)に集め、アメリカ合衆国憲法の三権分立制も導入された。
立法機関は議政官で上局と下局で構成。
行政機関は行政官。
司法機関は刑法官。

これらは全て太政官に含まれる。

新政府の政策⑤東京への改名
江戸から東京に名前が変更され、首都は東京に。天皇の皇居は江戸城になった。

新政府の政策⑥一世一元の制の採用
天皇一代につき元号も一つということになった。

新政府の政策⑦府県設置
没収した旧幕府領のうち重要なものは「府」、その他は「県」とされた。
よって、この段階では藩地は府県にはなっておらず、藩の統治権は藩主が握り続けていた。

新政府の政策⑧版籍奉還
各藩の藩主が、領地(藩図)と領民(戸籍)を天皇に返還した。
まず薩長土肥が明治政府の求めに応じて先立って版籍を奉還、その他の藩もこれに倣った。
藩主は知藩事と言う地方長官に命じられ、石高に応じて家禄が与えられた。
徴税権と軍事権は知藩事が掌握していた。

新政府の政策⑨四民平等
藩主や公家は華族に、旧幕臣や旧藩士は士族になった。
農工商の人は平民になり、華族や士族と結婚したり、自分の好きな職業に就くことができるようになった。
しかし、えた・非人出身者の戸籍は「新平民」と分けて記載され、実質的な差別は依然として残ってしまった。

壬申戸籍
1871年に制定された戸籍法によって、その翌年作られた日本初の全国的かつ近代的な戸籍。

廃藩置県
明治政府の財源は、旧幕府直轄領(府県)からの徴税のみだったため、明治政府は財政難となり、府民の住民からの厳しい税の取立ては、各地で一揆を頻発させてしまった。
そこで明治政府は1871年に廃藩置県を断行、そのための軍事力として薩摩・長州・土佐から兵士を募集し御親兵(ごしんへい)を組織した。
明治政府は、藩制度を全廃し、全ての藩を府県にすることで政府の統治下におき、新たに増えた府県から財源を確保することができるようにした。
これにより藩主は知藩事を罷免され東京に移住、その代わりに中央から府知事や県令が府県に派遣され、地方行政にあたることになった。

中央官制
祭政一致と天皇親政の考えのもと、1868年(戊辰戦争中)に作られた太政官制を改正。
太政官の上に神祇官をおいた。
太政官は正院、左院(元老院。立法上の諮問機関)、右院(行政上の諮問機関)の三院制となり、正院の中に大蔵省、兵部省、外務省、文部省、工部省、開拓使などの各省を入れた。

富国強兵
経済を発展させて国家の軍事力を増強させる考え方。

殖産興業
国家を近代的にするための産業育成策。工部省が指導し、軍事は兵部省が担当した。
兵部省は1872年に陸軍省と海軍省に分かれている。
ちなみに陸軍はドイツ、海軍はイギリスをモデルに作られたという。

藩閥政府
政府の要職(正院参議や、各省の卿など)に薩長土肥の若い実力者がついた体制のこと。
薩摩藩:西郷隆盛、大久保利通、黒田清隆
長州藩:木戸孝允、井上薫、山県有朋
土佐藩:板垣退助、後藤象二郎、佐々木高行
肥前藩:大隈重信、副島種臣、江藤新平

岩倉使節団
1871年末、不平等条約撤廃と欧米視察のために派遣。
メンバーは岩倉具視(特命全権大使)、木戸孝允(副使)、大久保利通、伊藤博文、山口芳尚ら約50名。また津田梅子など40人の留学生も同行した。
不平等条約の改正自体は失敗に終わったが、欧米諸国の政治や産業を詳細に視察したことで、今後の明治政府の運営に大きな影響を与えることになった。

留守政府
岩倉使節団が帰国する1873年9月まで、留守を預かった政府のことで、西郷隆盛らが中心となって内政を行った。

留守政府の政策①学制の実施
1872年。
フランスの学校制度に基づき、文部省主導のもと、男女が等しく学ぶ国民皆学教育や小学校教育を実施した。

留守政府の政策②徴兵制の実施
騎兵隊の大村益次郎は農民主体の軍隊の方が武士の軍隊よりも強いという点に目をつけて、国民皆兵を唱えた。
これを受けて、1872年に山県有朋が徴兵告諭を発表、1873年には徴兵令が公布。
満20歳以上のすべての男子の兵籍編入が原則だったが、役人や官立学校の卒業生といった支配階級は除外された上に、お金(約700万円)さえ収めればどんな人でも兵役が免除されたので、8割以上の人が徴兵をまぬがれ、結局兵役に就いたのは農村の次男以下がほとんどだった。

留守政府の政策③地租改正条例
1873年。不安定な収穫高ではなく地価を基準に課税することにした。
また税は物税ではなく金納で、地券所有者を納税者とした。
地券とは地主の土地所有を証明する権利証。
しかしその厳しさは、江戸時代の年貢と変わらず、その上大切な働き手の子どもを学校や軍隊に取られたので、全国の農民は反対一揆を起こした。

明治時代前期の産業
電線:1869年に東京~横浜間に初めて敷かれ、その5年後には北海道と長崎が結ばれた。
北海道開拓:開拓使が主導し、アメリカ型の大農場や畜産技術が広められた。
屯田兵制度:1874年。失業した士族を北海道に派遣。開拓と対ロシア防衛が目的。
札幌農学校:1876年。アメリカの教育者クラークを北海道に招き開校。
新貨条例:1871年。金本位制に基づき円、銭、厘を単位とする新しい貨幣ができた。
政府紙幣:金や銀と交換できない不換紙幣だった。
郵便制度:前島密によって1871年に発足。飛脚に取って代わった。料金は全国一律。
鉄道:1872年に新橋~横浜の間に初めて敷かれた。
官営事業:工部省は鉱山、炭鉱、造船所など旧幕府から事業の経営を引き継いだ。
富岡製糸場:官営模範工場の先駆け。主力の輸出品だった生糸の生産拡大を狙った。
政商:岩崎弥太郎の三菱に政府は特権を与えた(有事の際に輸送を行わせるため)。

日清修好条規
1871年。日本が外国と結んだ初の対等条約。開港と領事裁判権が両国の間で承認されたが、日本に有利な不平等条約を結べばよかったのにと不満を持つ日本人もいた。

琉球漂流民殺害事件
台湾で琉球の漂流民54人が殺された事件。
当時台湾は清の領土だとされていたため、日本は清に賠償請求をしたが、清はまず琉球はそもそも清の属国だし(名目上として日本もこれを認めていた)、台湾は清の法的拘束力の外にあるとして賠償を拒んだ。
これに対抗して日本は強硬手段として1872年に琉球藩を置いたが(琉球処分)、清はこれを認めなかったため両国の関係はギクシャクした。ちなみに琉球藩の王は尚泰(しょうたい)。

征韓論争
鎖国政策を取り明治政府と国交を結ぶことを拒んだ朝鮮に対して、留守政府首脳の西郷隆盛や板垣退助は武力で朝鮮を屈服させる征韓論を唱えた。
朝鮮は、江戸時代の頃に窓口になっていた宗氏を廃し、宗氏と結んだ条約を一方的に破棄した明治政府に不信感があったらしい。
その後、征韓論は帰国した岩倉使節団に「いや、まずは国内の政治システムを整えたほうがいい」と拒否されたことで(内治優先論)、政府を揺るがす大論争に発展した。
結局、征韓論を主張した参議、軍人、官僚など約600人が辞職。これを明治6年の政変という。
これをきっかけに大きな権限を持つ内務省が設置され、それを統括し政府の最高権限を持つ内務卿には大久保利通が就任した。

明治時代前期の文化
儒教や神道の考えが廃れ、欧米的な自由主義や個人主事が流行った。
人間は生まれながらに自由で平等で幸福を追求する権利があるという天賦人権説はそれを象徴とするものだった。
1872年には太陽暦が導入、1日は24時間になり、日曜日は休日になった。
洋服、ざんぎり頭、レンガ造りの建物、ガス灯、牛鍋やポークカレーライスなどの洋食などは文明開化の象徴だった。その反面、これまでの日本の文化はあっさり捨てられてしまったが、錦絵や歌舞伎など一部の文化は、文明開化の時期にも流行をした。

大教宣布の詔(だいきょうせんぷのみことのり)
1870年。寺社制度や祝祭日を制定。

神仏分離令
1868年。神仏習合を否定し、仏像を破壊する廃仏毀釈が全国で行われた(沖縄は例外)。

禁止の高札(こうさつ)の撤廃
1873年。浦上信徒弾圧事件(1868年)などに対する欧米諸国の抗議によってキリスト教は黙認されるようになった。

ジャーナリズム
1869年に本木昌造が導入した鉛製の活字鋳造によって、日本初の日刊新聞である『横浜毎日新聞』など、様々な印刷物が出版された。
福沢諭吉らの明六社は『名六雑誌』を刊行し、近代的な西洋思想を普及させた。

ブロントサウルス復活!

 まずは何も言わずに、本日アップロードされたこの論文を読んで欲しい。
 英語が弱いので定かではないが、(おそらく)全てのカミナリ竜の解剖学的特徴を歯から尻尾の先まで色分けグラフ化している(表4)。
 そして、アパトサウルス属に含まれる種(もしくは標本)がまさかこんなに多いんだ、ということに気づくだろう。あれもアパト、これもアパトでメガロサウルス並みによくわからない集団になってしまっていたらしい。
 そこで、ちょっとアパトサウルスってことになっている恐竜をもうちょい厳密に分析してみようよってなったところ、アパトサウルス・エクセルサスがアパトサウルスじゃなくて、別の属(つまりブロントサウルス)として独立することになったのだ!それもディプロドクス科としてではない!
 
 ディプロドクス上科、ブロントサウルス科、ブロントサウルス属!(´;ω;`)

 アラン・グラント博士じゃないけど、「子どもの頃一番好きだった恐竜だよ~まさか復活するなんてね~」って感じだ(あいつはトリケラトプスだったけど)。
 しかしトロサウルス騒動のように二転三転するこの世界、この論文を書いた人も「同じ種というのは異なる種よりも共通する特徴を多く持っていなければならない。そういった意味で、アパトサウルスとブロントサウルスが別の種であることは明白だった。でも、うそだろ~って思ってもう一回確認したんだけど、やっぱりブロントはアパトと違ってました」みたいなことをインタビューで言っている。パチンコじゃないが、なかなかの激アツであることは確かである。
 しかし自分が幼稚園の時に出会い、小学校高学年くらいには名称変更の憂き目にあっていたブロントサウルスが・・・長生きはするもんじゃわい。

 ちなみに、この論文、カミナリ竜の解剖学的なデータベースとしてかなりの超大作で、カアテドクスという種類の頭骨が保存状態がいいのか大活躍したり、シュノサウルスの頭骨の吻部がアパトサウルスのように丸く幅が広くなく、尖ってるなど、なかなか参考資料としても面白い。
 なによりアパトサウルスとされていた2種(アパトサウルス・ミニマスとグランディス)なんてディプロドクスどころかマクロナリアになっちゃってるぜ!大変動だ。
 丹波竜以降、恐竜の絵を封印し、大学の単位取得に勤しんでいた私だったが、ブロントサウルス復活となっては話は別。
 明治時代覚え書きの原稿を放り投げて、学生時代に描いたアパトサウルスのイラストを描き直してしまいましたとさ。

 つーことで、本日は「別種じゃね?」とあなたが物言いつけたから、4月7日はブロント記念日ということで、よろしく。

イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密

 「面白い度☆☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆ クリストファー☆☆☆☆☆」

 ドイツ軍は愛ゆえに戦争に負けたぞ。

 本作は『ビューティフル・マインド』のジョン・ナッシュ、『ソーシャル・ネットワーク』のマーク・ザッカーバーグに続く、人の感情の機微や空気が読めない、理系バカの哀愁を描いた映画である(人ごととは思えねえ!)。
 
 題名のイミテーション・ゲームとは、いくつかの質問をすることで、相手が本当の人間か、それとも人間のふりをしたマシンかを判断するテストのことで、もしこのテストで人間と判定された相手がイミテーション、つまり人工知能だった場合は、そのマシンは人間の思考を持つことになる。
 本によっては考案者の名前からチューリングテストとも呼ばれてるんだけど、私はこのテストの具体的な内容はよく知らないんだけどさ、これって言ってみればあれだよね。『ブレード・ランナー』の取り調べだよね。

 もっと言えば、こんなもんSNSで毎日みんなやってるよね。すごい時代になっちまったよなw
 だいたいツイッターなんかはリアルで会ったこともない人と会話しているわけで、相手がただのbotの可能性だってあるし、実際どう考えてもbotのアカウントに熱心にリプライ送っている人もいるもんな。
 あれは謎だよな。もしかしてbotがbotとやり取りしている可能性もあるわけで、そうなるともう誰が人間なのか、もしかしたら引きこもってネットしかやってない人にとってみれば、フォロワー全員botというオリエント急行殺人事件的な展開もありうるわけだ。

 ここまで来ると、リアルで会っている人間だってもしかしたら中身は新聞紙詰まっているハリボテかもしれんぞという、哲学的ゾンビ問題になっちゃうんだけど、とりあえず今んとこ人間とマシンの区別がつかないようなことはない・・・って思ったらこないだチューリングテストで、人間認定されたマシンができちゃったらしく、まあそいつだって見た目はコンピューターなんだろうが、こいつとディスプレイ越しで交流したらもう人間と区別がつかないわけで、いよいよ恋愛シミュレーションゲームはさらなる輝きの向こう側へ行くぜっていう。

 ・・・すまん、それくらいしか思いつかなかった!(SFを書いているとは思えない貧困な想像力)

 ほかに何かあるかな・・・ああ、オレオレ詐欺プログラムとかが開発されて、全国のおじいちゃんおばあちゃんに一斉送信されそうだな。もう詐欺組織は電話かける必要もねえぜって。
 そうなると保険会社とかのCMに出てくる「お客様の声がうんたら・・・」的なオペレーターのお姉さんもみんな失業しそうだな。こええな。第二のラッダイド運動始まりそうだな。

 まあ、でもさ、人間も結局は人工知能と同じ条件(=自然法則)で動いている以上、どっちもコンピューターみたいなもんっていうのはあるんだけど、人間の脳がマシンのそれよりも特に優れている点は、曖昧なことをなあなあで流しちゃう点だよね。
 つまり、物事にプライオリティをつけて、わからないものや考えても仕方のないものはとりあえずペンディングしちゃうという。ここが、そんじょそこらのコンピューター共とは違うところだよ。
 まあ人間の脳とコンピューターじゃ求められている用途も違うっていうのもあるんだろうけど。人間は、なんだかんだいって、やっぱり自然界で暮らす動物なわけで、食物連鎖や自然淘汰に勝ち残る必要があるけれど、コンピューターの仕事って基本的に計算だからな。3回に1回足し算を間違う電卓とか、絶対売れないもんな。

 これがもし、コンピューター的な知性がサバンナで暮らしたら、すぐにライオンに捕まって食べられちゃうだろう。
 コンピューターってやつは変なところ愚かで、行動の選択をする際に、考えられるすべての選択肢をしらみつぶしにリストアップして、そのあとに最も適切な選択肢をそっから選ぶんだけど、向こうからやってくるライオンをどう対処するかというパターンなんてそれこそ無限にあるわけで、リストアップしている最中にガブリッてやられて終わりだぜっていう。
 だいたいライオンの対処なんて「たたかう」「にげる」「ぼうぎょ」くらいにしぼり込める筈なのに、コンピューターはバカだから「三角測量でライオンとの距離を計算する」とか、どうでもいい行動も選択肢の中に入れて吟味しちゃうんだ。

 こういう系の問題を、NP完全問題とかフレーム問題とかって言うんだけど、この映画に出てくるナチスドイツの暗号(エニグマ)解読機「クリストファー」くんも、10人の天才が毎日計算しても2000万年かかる演算を一生懸命続けていて、当然そんなアプローチじゃ計算が終わるはずもなく、パトロンの軍人に「ボッシュートです」とか言われちゃうんだけど、これはそもそも問題の解き方のアプローチが違っていたわけだ。
 
 よく出来た映画ってなによりメタファーの使い方がうまいんだ。『ショーシャンクの空に』とか『WALL・E』とかさ。因数分解的というか、重層的というか。メタファーを使ってそれぞれの要素を完結にひとまとめにすることで、伝えたいテーマが見ている人に明確に届くんだよ。
 この映画もまさにそうで、アラン・チューリングというマシン的な思考を持つ人間が、人間的思考を持つマシンを創ることで、彼にとっては暗号同然の対人コミュニケーションと格闘する話なんだよね。

 吃音症の数学者といえば、やっぱり『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルが出てくるけれど、それ以上に彼のキャラクターを象徴するのはアスペルガー症候群だろう(あと同性愛なんだけど、この問題はここでは割愛します)。
 アスペルガー症候群っていうのは本によって若干定義が異なるんだけど、知的障害を伴わないタイプの自閉症で、社会性、コミュニケーション、想像力に難がある場合が多い。
 こういう問題って、社会で生きる以上、多かれ少なかれどんな人も苦労はすると思うだけど(スペクトラム障害っていうくらいだから診断も難しい)、その程度がちょっと甚だしく、曖昧だったり婉曲的な表現や、言葉の裏にある相手の感情を読み取れなかったり、「あなたブスですね」的なバカ正直なことを言って集団で孤立したり、常人には理解できないような独自のルールに沿って行動したり、同じパターンを繰り返したり、興味のあることに関してはものすごく没頭するんだけど、その興味の対象がすごい狭いとか、難しい言葉を使うんだけど実は大して理解してないとか、まあ、総じて作らなくてもいいトラブルを周囲に作ってしまうところが特徴で、チューリング博士は見事にこれに当てはまる。
 
 学校で人気者だったろ?
 気難しい態度が許されるのは本物の天才だけだぞ。


 このような皮肉を同僚に言われちゃうのも、アスペルガー症候群に重度な知的な遅れがなく、言葉のやりとり自体は普通にできるためである。
 しかし『ソーシャル・ネットワーク』のザッカーバーグは、ホントただのムカつくやつに見えて、それはそれで面白かったけど、この映画のチューリング博士はなんか、分からないなりになんとか人を理解しようと頑張っている感じがして、すごいけなげで愛らしい。
 そもそも本当に論理的に考えるならば、不必要な人間関係のトラブルは作らないはずだからね。チューリング博士なりにそれ自体は理解してた感じがする。
 でも、そのためのアプローチがどうしてもイメージできなくて、フィアンセのアイディアに素直に従ったんじゃないかな。あのリンゴのシーンは本当、萌えました。高倉健さんの「不器用ですから」に匹敵する、なんか、こう、切ない・・・
 まあ、それで、同僚に「あ、この人別に悪意があって胸が張り裂けそうなこと言ってるんじゃないんだ」って理解されて、チューリング自身もなんとなく人間の思いやりとか愛情における傾向みたいなのを論理的に理解できるようになって、ついにエニグマ攻略の糸口を見つけるという。ここら辺の展開がすごい上手。

 そう、人間の思考はコンピューターのそれとは大きく違う。そして毎日エニグマの設定を更新しているのはドイツ兵――ほかならぬ人間だったのだ。
 チューリング博士は気づいた。ライオンに襲われる際に「測量をする」みたいな選択肢を選ぶバカはいない。そういう、どう考えてもいらない選択肢は初めから除外すればいいんじゃないか?と。
 これは分枝限定法と現在では言われているんだけど、チューリング博士は人間の思考を理解することで、難攻不落のマシンを攻略したわけだ。
 実際人工知能の研究は、ファジー理論に代表されるように人間の思考のある種おおざっぱな点を導入することで、飛躍的に進歩している。これを人工知能のO型化と呼ぼう。
 私なんかも血液型がO型だから、ネットでのやりとりで「そんなロジックで考えても絶対答えが出ない問題を、こんなところで議論しなくてもいいやん」とか思ってたんだけど、実はああいうやり取りをする人って、ネットプロレスや不毛な言葉遊びをしたいんじゃなくて、もっと切実に、机上の空論どころかむしろ地に足着いた問題として本気で悩んでいるのかなって思った。
 なら、私も論理的な思考には自信があるから答えを教えるよ。

 答えがないものとして、とりあえずスルーするのが答えだよ。

 なんかマロさんが仏教に詳しくて、宇宙がどうとか政治がどうとかマクロなことばっか批判してた弟子マールンキャプッタに、ガウタマの兄貴が「んなこと考える前に身近な人に手を差し伸べろよ」って一蹴した話があるんだって(毒矢のたとえ)。
 つまり、お前の職業が自然科学者や哲学者、政治家ならともかく、身近な人間関係で悩んでいるのなら、まずもって考えることはそういうことじゃないだろって話だろう。
 君が悩んでいるエニグマの答えは、そのアプローチでは絶対に解決できない。だから、この世の中には論理では答えが出ない問題があることを受け入れようよ。論理的に。ダメ?

江戸時代覚え書き④

江戸時代末期
いわゆる幕末。
開国か攘夷かで、幕府と朝廷が内部分裂。
薩英戦争や四国艦隊下関砲撃事件によって、攘夷が不可能であることを知った薩摩と長州は、とりあえず幕府から倒してしまおうと朝廷やイギリスに接近、幕府の方もフランスと手を組み対抗したが、相次ぐ将軍の死で弱体化著しかった幕府は、とうとう政権を朝廷に返還、それどころか薩長が繰り出した王政復古の大号令で幕府という存在すら廃止されてしまう。
つまり現代に置き換えれば、民主党が自民党に政権を返したのが大政奉還ならば、下野した民主党を野党としても存在させないのが王政復古の大号令ということになる(多分)。
ここら辺の時代はファンがたくさんいる上に、私は『竜馬におまかせ!』の知識しかないので、かなり適当。

薪水給与令(しんすいきゅうよれい)
産業革命によって新たな国外市場を求めた欧米列強国は、アジア各国を次々に植民地化、イギリスがアヘン戦争で清を破り南京条約で開国させたことを知った日本は、異国船打ち払い令を緩和、1842年の薪水給与令で外国船を撃退せずに薪と水を与えて帰ってもらうようにした。

ジェームズ・ビッドル
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1846年に日本に来航。
清米貿易船や捕鯨船の寄港地として日本の港を使わせて欲しいと要求したが、幕府は拒否し、ビッドルはそのまま帰っていった。

徳川家定
13代将軍。篤姫の旦那さんで有名。
彼が将軍に就いた1853年にペリーが来航している。
もともと体が弱く35歳で病死。ちなみに特技はお菓子作りだった。

マシュー・ペリー
アメリカ東インド艦隊の司令長官で1853年に軍艦4隻を率いて日本に来航。
フィルモア大統領の国書を提出し、開国しろと日本に強い圧力をかけた。
日本はとりあえず国書を受け取り、回答は翌年すると保留しペリーを帰らせた。

阿部正弘
当時わずか26歳で幕政を主導していた老中首座で、ペリーの要求についての意見を幕臣だけでなく、朝廷や大名、さらに庶民にまで広く求めた。
これにより幕府の権威は大きく落ち、後に倒幕運動をはじめる幕末の志士たちにも大きな影響を与えたが、もはや幕府の体制は硬直化しすぎており、それどころじゃなかった。
そこで阿部正弘は、前水戸藩主で徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)を幕政に参加させるなど大胆な人事を断行、江戸湾に砲台を設置し、大船建造を解禁するなどの安政の改革を行った。

日米和親条約
1854年、ペリーは約束通り日本の回答を聞きに再び来航。
しかも今度は軍艦を7隻に増やしてやってきた。
幕府はペリーの圧力に屈し、アメリカ船への燃料や食料の提供、漂流民の救助や引渡し、伊豆半島の下田と、函館の開港などが盛り込まれた日米和親条約を結ぶ。
特に第9条の最恵国待遇は、日本と他の国がアメリカよりも待遇の良い条約を結んだら、その待遇が自動的にアメリカにも適用されるというもので、日露和親条約における長崎の開港がアメリカにも適用されることになった。
その後、幕府は同じ内容の条約をイギリス、ロシア、オランダと締結した。
ちなみにロシアとは択捉島とそれより南のエリアは日本の領土であること、樺太は両方の国のものとして国境を定めないことなどを確認している。

タウンゼント・ハリス
1856年に来日したアメリカ総領事。
ハリスは幕府の通称条約の締結を求め、これを受けた老中首座の堀田正睦(ほったまさよし)は朝廷に勅許(許可)を申請したが、当時の孝明天皇はこれを拒否。
江戸時代に天皇が幕府からの勅許を拒否したことは一度もなく、当然通商条約は締結できると見越していた堀田正睦は失脚、幕政の主導権は滋賀県東北部の彦根藩主の大老井伊直弼に移った。

井伊直弼
44歳で臨時職の大老に抜擢。
自分の意見をはっきりと言う性格で、当初は開国に反対していたが、やはり合理的に考えて西洋列強国に軍事力では勝てない。なら開国をして海外の進んだ技術を受け入れたほうがいいと、考えを改めた。
問題は通商条約を受け入れるとして、どのタイミングで締結するかになったが、堀田政権の側近の岩瀬忠震(いわせただなり)が1858年にさっそく日米修好通商条約を結んでしまう。
この条約はハッキリ言って日本にとって最悪の条件の不平等条約で、そのために孝明天皇や尊王攘夷論者の怒りを買った井伊直弼は、国内で内乱が起きないように安政の大獄という恐怖政治を始めたが、1860年の桜田門外の変で水戸脱藩の志士に暗殺されてしまう。

日米修好通商条約
おもに5つの内容を持っていた。
①函館に加え、新潟、神奈川、兵庫、長崎の開港と江戸、大阪の開市。
②関税などを廃した自由貿易であること。
③開港地に居留地を作り、一般外国人の国内旅行を禁止させること。
④領事裁判権を認めること。
⑤日本に関税自主権は認められない。
②と⑤が矛盾していて、極めてアンフェアなんだけど、長らく鎖国していた日本には国際法の理解に遅れがあり、こういう詐欺まがいの交渉に丸め込まれてしまった。
このような不平等条約はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも結ばれ、安政の五か国条約と言われている。

アロー号事件
日本が不平等条約にサインせざるを得なかったもう一つの理由がこれで、イギリスの船を海賊船と間違って臨検しちゃった清がイギリスとフランスの軍事制圧を受け、不平等条約(天津条約)を押し付けられた事件。
アメリカ総領事ハリスは、日米修好通商条約を結んだら、アメリカがイギリスとフランスから日本を守ってやるという日米安保的な条件を持ちかけ、清の二の舞にはなりたくなかった日本はこれにやむなく従ったのである。

勝海舟
オランダから贈られた軍艦を使って長崎に作られた海軍伝習所の第一期生。
彼は幕府建造の軍艦の咸臨丸(かんりんまる)の艦長になり、1860年に外国奉行の新見正興を乗せて日米修好通商条約の批准書を交換しにアメリカへ渡った。
ちなみに子どもの頃イヌに片方のキンタマを食いちぎられて死にかけたため、ワンちゃんが大の苦手だった。

開国の経済的影響
日本に開国の揺さぶりをかけたのがアメリカだからか、開国当時の最大の貿易相手国もアメリカだという印象があるが、実はこの頃のアメリカは南北戦争(1861~65年)で大変だったため、日本と最も取引が多かったのはイギリスだった。
貿易額では横浜港が最大だった。
日本からの輸出品の8割は生糸で、その他、茶、蚕卵紙(蚕蛾の卵が産み付けられた紙)など。
日本への輸入品は毛織物、綿織物、鉄砲、艦船など。
欧米列強国との貿易は日本の大幅な輸出超過ではじまり、国内の物価は上昇した。
これを受けて幕府は1860年に雑穀、水油、蝋、呉服、生糸の5品は必ず江戸の問屋を経てから輸出させるという五品江戸廻送令を出し、物価抑制をはかったが、5品を扱う商人や列強国が反発したので効果は上がらなかった。
また生糸や茶とともに日本から大量の金貨も流出した。
当時の金銀の交換比率は1:15だったのに、日本の交換比率は1:5で、日本で銀を金に交換するだけでボロ儲けができたのだ。
それに対して幕府は日本の金貨の質を下げることで対抗しようとしたが、この改鋳により物価はさらに上昇、庶民の不満はさらに高まった。

将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
病弱で子どもが作れなかった徳川家定の次の将軍を、一橋家の慶喜にするか、紀伊藩主の家茂にするかという問題。一橋慶喜を推薦していたのが越前藩や薩摩藩で、家茂を推薦していたのが井伊直弼ら南紀派だった。
大老に就任した井伊直弼は、強引に14代将軍を徳川家茂にしてしまい、また安政の大獄では、徳川慶喜のお父さんの徳川斉昭(とくがわなりあき)や徳川慶喜を処罰している。
一橋家の反発を受けたのは言うまでもない。

安藤信正
朝廷、一橋家、尊皇攘夷派と様々な勢力から反感を買ってしまった井伊直弼が暗殺されると、次に老中の安藤信正が幕政に当たった。彼は朝廷と幕府の融和を図る公武合体路線を取り、徳川家茂と孝明天皇の妹の和宮親子内親王(美少女)を結婚させた。
しかしこの策略結婚は朝廷に対する冒涜だと、尊皇攘夷派の神経をさらに逆撫でしてしまい、安藤信正も1862年の坂下門外の変で水戸脱藩の志士に襲撃され大怪我を負い、老中を退いた。

徳川家茂
14代将軍。
血筋、人格(誰に対しても優しい)、武勇、全てにおいて優れたパーフェクト将軍だったが彼も21歳の若さで病死してしまう。
ちなみに大の甘党でほとんどの歯はひどい虫歯だったらしい。

文久の改革
薩摩藩主島津忠義(しまづただよし)の父、島津久光は江戸にやってきて幕政の改革を要求、これにより幕閣の人事移動、西洋式軍隊の編成、榎本武揚(えのもとたけあき)、西周(にしあまね)のオランダへの派遣、参勤交代は3年に一度、江戸にいる期間は100日に緩和された。

生麦事件
1862年。薩摩藩の武士が、江戸から帰る途中の島津久光の行列を乱したイギリス人商人ら4人を斬った事件(一人死亡)。
生麦とは事件が起きた神奈川県の村の名前。

薩英戦争
1863年。薩摩藩がイギリスに生麦事件の報復を受けた事件。
この砲撃により薩摩藩はイギリス海軍の圧倒的実力を目の当たりにし、攘夷は不可能であることを悟った。

八月十八日の政変
考えを変えた薩摩藩は、朝廷内の公武合体派の公家や会津藩とともに朝廷の実権を奪い、攘夷にこだわる長州藩と公家の三条実美を1863年に京都から追放した。

池田屋事件
1864年。新選組が京都の攘夷派を殺傷した事件。
池田屋とは京都の旅館で、中は狭かったため、新選組は刀を振り回せず、沖田総司などは刀を突いて(天然理心流の奥義の三段突きで)攘夷派を成敗した。

禁門の変(蛤御門の変)
池田屋事件をきっかけに京都に攻め込んだ長州藩を、薩摩藩や会津藩が追い返した戦い。
このあと幕府は、第1次長州征討の兵を送った。

四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)
1864年。第1次長州征討のさなか、長州藩はイギリス、フランス、アメリカ、オランダから下関砲台を砲撃される。これにより、とうとう長州藩も攘夷を諦めた。

改税約書
1865年。兵庫の開港を嫌がった孝明天皇に(京都と近いから)、欧米列強国がその代わりに関税の優遇措置を要求し、その勅使を孝明天皇からとることで、幕府に調印させた。
この流れを見てイギリス公使のパークスは、幕府が無力であることを見抜き、天皇を中心とする雄藩連合政権が日本に実現することを期待した。

薩摩藩改革派
薩英戦争をきっかけに薩摩藩は下級武士の西郷隆盛や大久保利通が実権を握るようになった。彼らはイギリスに接近、武器の輸入、留学生の派遣、洋式工場の建設などを行ない、倒幕の準備をした。

長州藩改革派
同じく長州藩でも、改革派に転向した高杉晋作や桂小五郎が、幕府に擦り寄る上層部に兵(西洋式の歩兵隊である奇兵隊など)を挙げ、長州藩の主導権を奪った。
改革派は長州藩の意向を倒幕に転換させ、イギリスに接近、維新の十傑の一人、兵学者の大村益次郎の指揮で、倒幕のための軍事力を強化させた。
一方の幕府はイギリスと対立するフランスの援助を受け、長州藩に領地の削減を要求したが、長州藩はこれをはねつけ、1865年に第2次長州征討が行われた。

薩長同盟
幕府は長州藩のライバルである薩摩藩に長州征討の協力を命じようとしたが、この時には既に土佐藩の坂本龍馬と中岡慎太郎によって薩摩藩は長州藩と手を組んでいた。
日本初の商社(亀山社中)を作った坂本龍馬は、長州には薩摩の銃(アメリカ南北戦争で使った余り)を、薩摩には長州の米を送ることで、薩長同盟を実現させてしまったのだ。
そのため第2次長州征討に薩摩藩は参加せず、14大将軍の徳川家茂が急死すると第2次長州征討は中止された。

徳川慶喜
15代将軍。
イギリスと対立していたフランスの援助によって幕政の立て直しを図った。
公武合体路線を主張する土佐藩の前藩主山内豊信(やまうちとよしげ)は慶喜に、天皇への政権奪還を提案、これは薩長の倒幕の決意を知った土佐藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が豊信に託したものだった。
こうして1867年の10月14日に慶喜は大政奉還の上表を朝廷に提出。これは薩長が朝廷の岩倉具視から討幕の密勅を受け取った日と同じだった。
ちなみに、四本足の動物を食べる習慣がなかった日本で積極的に肉を食べたことから「豚一将軍」と呼ばれ、文明開化の肉食ブームのきっかけを作った。
絵画やハンティングなど趣味が多く、明治に時代に入ると実業家の渋沢栄一の援助を受けて、悠々自適の生活を送った。あまり将軍に未練はなかったらしい。

王政復古の大号令
大政奉還によって薩長は幕府を倒すという大義名分を失ったが、もう今更止められず1867年12月9日に朝廷でクーデターを起こし、王政復古の大号令により天皇のもとに総裁、議定、参与の三職を起き、有力諸藩を参与とする新政権を樹立した。
これにより将軍職を始め、朝廷の摂政や関白も全て廃止、江戸幕府は滅亡した。

幕末の文化
世直し一揆:農村にも尊王思想が広まったことによる。
教派神道:民衆信仰。
ええじゃないか:1867年。東海から畿内一帯で民衆が踊り狂った。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ):幕府が設立した西洋の自然科学を教える学校。のちの東京大学。

留学生派遣
西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)榎本武揚はオランダへ。
福沢諭吉は幕府使節団としてアメリカとヨーロッパへ。
薩摩藩の森有礼、長州藩の伊藤博文や井上馨はイギリスに。
彼らは明治維新による日本の近代化に活躍。

江戸時代覚え書き③

江戸時代後期
18~19世紀。
都市だけではなく農村にも貨幣経済が発展したことで、貧富の格差が深刻な社会問題となった。
これに対し幕府は、江戸の三大改革をはじめとする様々な政治改革を行なったが、うまくいかず諸藩や民衆の不満は増大していく。
またロシアやイギリスといった列強国が日本に迫り、国内外共に問題を抱えることになった。これを江戸時代の内憂外患と言う。

徳川吉宗
8代将軍。
1716年に7代将軍家継が早死し、家康の血統が途絶えたため、紀伊の藩主である彼が次の将軍に大抜擢された。この反省で、吉宗の次男の田安家と、四男の一橋家ができている。
暴れん坊なイメージがあるが、実際な質素堅実な人で、いくら天下泰平の世でも浪費グセが付いたら非常時にいっぱい働けないと、素食を続けた。
吉宗は側用人の側近政治をやめ、初代の家康のように自ら率先して政治を行ない、大岡忠相を江戸町奉行に任命するなど有能な人材を積極的に登用した。
大岡忠相は、お白州が有名だが、たびたび大火災に見舞われた江戸の防火対策(火除け地の設置や、町火消しの組織など)などにも尽力している。だからドラマではサブちゃんと仲がいいのね。
ちなみに大飢饉や疫病で亡くなった人々を弔うというコンセプトで隅田川花火大会を開いたりもしている。

享保の改革①足高の制
町奉行のポストは3000石の石高がないと就けなかったが、身分に関わらず有能な人材を登用したかった吉宗は、その人が不足する石高を在職中に限って支給した。
例えば石高2000石の人を使いたい場合、1000石を支給し就任させた。

享保の改革②上げ米の制
1722年。大名に1万石につき米100石を上納させた。その代わりに参勤交代の負担を半分にした(江戸にいる期間を半分にした)。

享保の改革③定免法
豊作凶作にかかわらず年貢率を固定し、年貢率を4割から5割に引き上げた。

享保の改革④株仲間公認
物価を安定させるため、株仲間を公認。製造、販売の独占権を与える代わりに税を課した。

享保の改革⑤新田開発
商人の力を借りて米の増産を狙った。
幕府の石高は1割以上増加し、これらの取り組みから吉宗は米将軍と呼ばれた。

享保の改革⑥相対済まし令(あいたいすましれい)
借金の訴訟を幕府は一切受け付けず、当事者同士で解決させた。

享保の改革⑦勘定所再編
勘定所を司法担当の公事方と、財政担当の勝手方に分けた。

享保の改革⑧サツマイモの普及
青木昆陽に普及させた。サツマイモは甘藷(かんしょ)と呼ばれた。

享保の改革⑨目安箱設置
庶民の意見箱。ここに届けられた意見によって、ドラマでもお馴染みの貧しい人を対象にする医療機関、小石川療養所が設置された。

享保の改革⑩公事方御定書
裁判の基準を明確化。奉行の気分とかでなく、ちゃんと判例に則った裁判をさせた。

問屋制家内工業
有力百姓である豪農と、都市の問屋が手を組み、農村に資金や原料を投入して組織された。
逆に貧しい小百姓や小作人たちは豪農と対立、労働問題が起きた。

百姓一揆
享保の改革後に頻発。
17世紀初めには旧侍層の土豪が中心だったが、17世紀後半になると村の代表者が領主に直訴する代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)になった。下総の佐倉惣五郎といった一揆の代表者は、大塩平八郎的に伝説化している。
17世紀末には、武力を伴う大規模な惣百姓一揆に発展、藩領全域に及んだものは全藩一揆と呼ばれた。

享保の飢饉
1732年。冷夏とイナゴやウンカの大量発生による西日本の大飢饉。
これにより江戸の米の価格が高騰、打ちこわしも起きた。

田沼意次
10代将軍徳川家治に厚く信頼され、側用人から老中に大出世した人物。
経済に明るい彼は、商業活動を利用して財政再建を目指し、定量計数の銀貨である南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)の鋳造(それまでは銀の塊を重さで測ってちぎっていた)や、幕府直営の銅座、真鍮座、朝鮮人参座などの設立を行なった。
他にもロシアとの交易の可能性を探るため、最上徳内(もがみとくない)を蝦夷地に派遣している。
これらの改革によって商業活動は活性化したが、賄賂やコネによる人事が横行、武士の風紀は乱れた。
そんな田沼意次の時代には、浅間山が噴火したり、天明の飢饉が起こったりと多数の死者が出るような大事件が相次ぎ、さらに対外貿易を考えていた息子の田沼意知(たぬまおきとも)は旗本に刺殺、彼自身も将軍の代替わりの際に罷免された。

松平定信
11代将軍徳川家斉の老中で、徳川吉宗の孫。福島県白河藩の藩主。
田沼意次の政治を改め、質素倹約をうたった吉宗を理想に諸改革にあたった。

寛政の改革①農村再興
飢饉で食い詰めて江戸に流れていた農民たちに、旅費を出して農村に帰らせた。
そして次の飢饉に備えて穀物倉に米を蓄えさせた。

寛政の改革②都市の治安回復
無宿者や再犯の恐れのある犯罪者を人足寄場に収容し職業訓練を行なった。
北野武監督の『アウトレイジ ビヨンド』でも中尾彬さん演じるヤクザの親分が、刑務所のことを寄場というが、ここから来ているらしい。

寛政の改革③風紀の引き締め
朱子学のみを正当な学問とし、幕府の統制下の学校で朱子学以外を教えるのを禁止させた。これを寛政異学の禁と言う。
また庶民の楽しみだった娯楽小説を次々に規制、銭湯の男女混浴も取り締まり、あまりに厳しい改革は、将軍、大名、庶民すべての反感を買い、「白河の 清きに魚の 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」や「こんな世の中じゃ長生きしたくないポイズン」など、汚職にまみれた田沼時代を懐かしむ風潮さえ生まれた。

尊号事件
1789年。実父の典仁親王に上皇の尊号を贈ろうとした光格天皇が、松平定信に拒否され、これに関わった武家伝奏などの公家が処分された事件。
これにより松平定信は将軍家斉と対立し、退陣した。
また幕府と朝廷の協調関係は崩壊、天皇の権威は尊王論とともに高まっていく。

徳川家斉(とくがわいえなり)
11代将軍。
質の悪い貨幣の大量生産で幕府財政を一時的に潤わせたが、大奥とともに浪費生活を繰り返した。
これにより物価は高騰、農村は荒廃、治安は悪化したため、家斉は1805年に関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)を作り、関東の巡回させた。
また1827年には関東地方の村に寄場組合を作らせ、地域を警備させている。

徳川家慶(とくがわいえよし)
12代将軍。
1837年に家斉から将軍職を譲られる。しかし実権は大御所となった家斉がやっぱり握っていた。

江戸時代の内憂外患
天保の大飢饉:1830年代の連年の大飢饉で百姓一揆や打ちこわしが多発。
大塩平八郎の乱:幕府の役人の大塩平八郎による貧民救済のための武装蜂起。
生田万の乱(いくたよろずのらん):大塩に影響を受けた国学者の反乱。
ラクスマン:ロシア大使。1792年に根室に来航。
近藤重蔵と最上徳内:1798年に択捉島を調査。
レザノフ:ロシア大使。1804年ラクスマンの入港許可証を使って来航。幕府に追い返された。
間宮林蔵:1808年に樺太を調査。
ゴローウニン:ロシア軍艦艦長。1811年に国後島に上陸し逮捕、抑留された。

フェートン号事件
1808年。イギリス軍艦フェートン号が、オランダ船を追って長崎に侵入、日本のオランダ商館職員を人質に、水や食料を要求して退去した事件。
これを受けて、幕府は1825年に外国船の撃退を命じる外国船打ち払い令を出した。

モリソン号事件
1837年。アメリカ商船モリソン号が来校し、漂流した日本人の返還と貿易を求めたが、外国船打ち払い令によって撃退された。
これを批判した渡辺崋山や高野長英は幕府によって勉強会ごと処罰されてしまう(蛮社の獄)。

水野忠邦
大御所の徳川家斉が亡くなったあと、徳川家慶のもとで政治を主導。
享保の改革と寛政の改革を手本に、権威を失いつつあった幕府の立て直しを図った。

天保の改革①倹約令
贅沢三昧の将軍や大奥にまで適用。
人情本を規制するなど、庶民の風俗も取り締まったため、庶民から非難轟々だった。

天保の改革②人返しの令
百姓の出稼ぎを禁止。江戸にいる貧民を強制的に帰郷させた。
飢餓で荒廃した農村の債権を図ったものだったが、江戸を追われた無宿者や浪人が江戸周辺の農村に流れたため、スラム化、治安が悪化してしまった。

天保の改革③株仲間の解散
徳川吉宗や田沼意次が奨励した株仲間を、物価高騰の原因であるとして解散。
しかし物価上昇の本当の原因は、生産地から上方市場への商品流通量の減少、すなわちディマンド・プル・インフレーションであり、株仲間の解散は商品流通量をさらに減少させてしまった。

天保の改革④棄捐令(きえんれい)
困窮する旗本や御家人を救うために、幕府から旗本や御家人に支給される米の仲介業である札差(ふださし)に低金利の融資を命じたが、札差に不満が残った。

天保の改革⑤上知令(あげちれい)
江戸や大阪周辺の50万石の土地を直轄化し財政の安定を狙ったが、譜代大名や旗本の猛反発を受けて実行できなかった。

工場製手工業(マニュファクチュア)
天保の改革の失敗の背景には農村の変化もあった。
19世紀前半の農村では、工場制手工業が発展し、生活に困った百姓は田畑を捨てて工場の賃金労働者に転職してしまったのである。
こうなると当然、幕府は年貢を取り立てられないので、幕藩体制の根幹が大きく揺らぐことになった。

藩政改革
頼りにならない幕府に見切りをつけた諸藩は、中級下級武士から有能な人材を取り立てて、藩営専売制や藩営工場設立など、自ら藩政改革を行い出した。
これを成功させた藩は雄藩と呼ばれ、薩摩、長州、土佐、肥前など明治維新の中核を担った藩が該当した。

雄藩①薩摩藩
藩主島津斉彬が鉄の精錬に使う反射炉や造船所、ガラス製造所を建設。
調所広郷(ずしょひろさと)は黒砂糖の専売強化や琉球王国との貿易で財政を再建した。
島津斉彬から藩主を継いだ島津忠義はイギリス人技師の指導のもと、日本初の器械紡績工場を建設、スコットランド商人グラバーから洋式武器を輸入して軍事力を強化した。グラバーって死の商人だったんだ。

雄藩②長州藩
村田清風(むらたせいふう)が紙やロウの専売制を整え、越荷方(こしにかた)を設置し、下関を通過する貨物船から商品を購入、その委託販売などを行った。

雄藩③土佐藩
おこぜ組という改革派の藩士たちを起用。支出を緊縮させた。

雄藩④肥前藩
藩主鍋島直正が均田制で農村を復興。有田焼などの陶磁器の専売によって財政を再建させるとともに、反射炉を備えた大砲の製造所を作るなど軍事力を強化した。

江戸時代後期の学問
元禄時代の古典研究が発展した国学が登場。
儒学に比べて自由な研究が行われ、批判精神も強まった。

国学
荷田春満(かだのあずままろ):外来思想は儒学も、仏教も、洋学も全て排除。
賀茂真淵:たおやめぶりを女々しいと批判。
本居宣長:『古事記伝』。たおやめぶりを真心の表れと評価。
平田篤胤:復古神道。

洋学
西川如見(にしかわじょけん):長崎でヨーロッパの見聞を記録。
新井白石:イタリア人宣教師シドッチから得た知識を『西洋紀聞』などに記録。
徳川吉宗:青木昆陽や野呂元丈にオランダ語を学習させた。
前野良沢と杉田玄白:『ターヘルアナトミア』を翻訳。
大槻玄沢:太陽暦の元旦にオランダ正月として新年会を開催。蘭学の入門書『蘭学階梯』を書いた。
稲村三泊:大槻玄沢の弟子。蘭日辞書の『ハルマ和解』を作成。
平賀源内:物理学者。エレキテル(静電気発生装置)の研究。
伊能忠敬:ティコ・ブラーエやケプラーなど西洋天文学を勉強し、彼を一目置いた徳川家斉の命令で17年かけて大日本沿海輿地全図を作る。
志筑忠雄(しづきただお):オランダ通訳者。『暦象新書』でニュートンやコペルニクスの説を紹介。
緒方洪庵:大阪に蘭学校の適塾を開く。
シーボルト:ドイツ人医師。長崎に鳴滝塾を開く。シーボルトは帰国の際に日本地図を勝手に持って行っちゃったので国外追放になった。

江戸時代後期の教育
藩が作った学校は藩校と言い、城下町から離れた場所に藩によって作られた学校は郷校(ごうこう)と言った。
大阪町人の出資によってできた懐徳堂からは、既成の学問を合理主義的に疑問視した、富永仲基や山片蟠桃が出た。
寺子屋は庶民の初等教育期間で、この時代に爆発的増加。
長州藩士の吉田松陰は松下村塾を開き、呉服屋に奉公した経験のある京都の石田梅岩は石田心学を開いた。

尊王思想
朱子学の大義名分論から。天皇が日本の王者という考えで水戸学などが主張。
日本で一番偉いのは将軍という幕府の立場を否定する考えなので、度々問題になった。
18世紀半ばには、竹内式部が京都の公家に尊王論を説いた宝暦事件や、尊皇論で幕府の腐敗を批判した山県大弐が処刑される明和事件などが起きている。
幕末になると、水戸藩の藤田幽谷と藤田東湖親子によって、攘夷思想と合体し、尊王攘夷運動となる。

安藤昌益
八戸の医者。『自然真営道』で当時の身分制度や封建社会を批判。
戦後にカナダの外交官ハーバード・ノーマンによって「日本に忘れられた思想家」として再評価される。

本多利明
『西域物語』において、西欧諸国と交易したほうが日本は豊かになるというデビッド・リカード的な自由貿易を主張。

佐藤信淵(さとうのぶひろ)
こちらも経済学者。『経済要録』で、産業の国営化と、海外貿易による振興策を提案。

海保青陵(かいほせいりょう)
『稽古談』で朱子学の影響で商人を見下す武士の偏見を批判。

化政文化
実は江戸時代に「化政」という元号はない。
12代将軍の徳川家斉の時代の文化期と文政期に江戸で町人文化が起きたため「化」と「政」を足して化政文化と呼んでいる。

化政文化の文学
出版物や貸本屋の普及で読書は民衆のものになった。
その題材も彼らにとって身近な政治や社会の問題が取り上げられ、洒落本(風俗本。キャバクラ潜入ルポみたいな内容)作家の山東京伝の『仕懸文庫』や、表紙が黄色い風刺漫画の黄表紙など、寛政の改革で規制された作品もあった。
コメディタッチに庶民の生活を描いたのが滑稽本で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』、式亭三馬の『浮世風呂』がある。
人情本は恋愛を題材にした小説で(ハーレクイーン的な)、『春色梅児誉美』の為永春水は、内容がエロいと天保の改革で処罰された。
挿絵がない活字オンリーの小説は読本(よみほん)と呼ばれ、読本を初めて書いた上田秋成の『雨月物語』や、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などがある。
『南総里見八犬伝』は鳥山明の『ドラゴンボール』や三谷幸喜の『合い言葉は勇気』の元ネタになった、室町時代が舞台の大ヒット長編小説で、単行本はゴルゴ並みの全98巻、滝沢馬琴は他の作品も掛け持ちした人気作家だったため、完結までに28年もかかった。
俳壇では、画家でもあった与謝蕪村、『おらが春』の小林一茶がいる。
今なお大人気な川柳(世相を風刺する季語無し俳句)は、この時代に柄井川柳によって誕生した。というか人名だったのね。
一方の狂歌(世相を風刺する短歌)には、大田南畝などの作家がいたが、やがて川柳に押された。
人形浄瑠璃の脚本では、忠臣蔵を南北朝時代にバージョンチェンジした『仮名手本忠臣蔵』の竹田出雲、武田氏と上杉氏の争いを描いた『本朝廿四孝』の近松半二&三好松洛、『東海道四谷怪談』の鶴屋南北などが有名。

都市文化
芝居小屋や見世物小屋、講談や落語などの寄席、縁日、聖地巡礼、寺社参詣・・・特に伊勢神宮への参拝ツアーは一大旅行ブームを巻き起こし、年間旅行者数500万人に登ったことがある。

化政文化の美術
まずは浮世絵。
鈴木春信は多色版画の錦絵を創始し、代表作「ささやき」を発表した。
他にも美人画の喜多川歌麿、役者絵や相撲絵の東洲斎写楽、風景画の葛飾北斎、歌川広重など。
写生画には、遠近法を取り入れた円山応挙(足がない幽霊を最初に描いた人)や呉春、文人画を描き与謝蕪村と合作した池大雅(いけのたいが)などがいる。
油絵具とともに西洋絵画も伝わり、日本の銅版画の創始者で浮世絵作家でもあった司馬江漢(しばこうかん)など日本人の西洋画作家も生まれた。
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