室町時代覚え書き

室町時代の概要(1392年~1573年)
南北朝を統一した足利義満と守護大名たちによる連合政権。
注目すべきは中国と再び国交を結んだことで、なんと菅原道真の遣唐使廃止以来500年ぶり。
その後、独裁的だった足利義教は殺され、文化に没頭しすぎて政治をないがしろにした足利義政は奥さんと弟による跡目争いをきっかけに11年も続いた応仁の乱を起こし、京都を火の海にしてしまう。
これにより下克上の戦国時代に突入、室町幕府自体は戦国時代も続いたが、戦国武将の織田信長によって終わりを遂げた。

足利義満
室町幕府3大将軍で、足利尊氏の子、足利義詮(あしかがよしあきら)の息子。
南北朝の統一を果たした足利義満は、諸国に課す税を徴収する権限、京都の政治を取り仕切る権限といった、朝廷の権限を幕府の管理下に敷いた。
また強大な勢力となった守護の統制を試みた義満は、山名氏、大内氏といった有力守護を挑発し、明徳の乱、応永の乱などの戦争を仕掛け、彼らを討伐していった(山名氏は中国・近畿を合わせて、なんと日本の6分の1を支配していた)。
こうして室町幕府は安定していったが、その安定は将軍と有力守護との勢力均衡によって保たれており、将軍の地位は相対的に低下していた。
そんな義満は、南北朝統一のわずか2年後に、将軍の地位を息子の足利義持に譲っているが、太政大臣になり出家したあとも実権を握り続け、天皇への野望も持っていたという(義満暗殺説があるのはそのため)。
ちなみにこの時代には珍しく、大変時間に厳しい人だったらしい。

管領
室町時代に新設されたポストで、将軍を補佐するという点では鎌倉時代の執権みたいなものだが、侍所、政所、評定衆といった中央機関をまとめて統括しながら、各国の守護に将軍の命令を伝えるという、将軍を凌ぐ幕府の影の支配者にまで発展した執権と比べて、よりサポート色の強いものになっている。
この役職は足利氏一門の、細川氏、斯波氏、畠山氏三管領として交代で任命された。ここら辺も北条氏がポストを独占した鎌倉時代と異なり、室町幕府が守護大名たちの連合政権だったということがよくわかる。

四職(ししき)
京都内外の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官は所司と呼ばれ(その最高の地位が別当)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から任命される慣例になっていた。
これを四職と言い、彼らはみんな守護大名だったため、幕府での仕事の際は領国を留守にしなければならなかった。この時、守護の代役を務めたのが守護代だった。

奉公衆
室町幕府直轄軍のこと。
彼らは将軍の護衛や全国に散在する将軍直轄領である御料所(ごりょうじょ)を管理し、守護を牽制した。親衛隊的な。

鎌倉府(関東府)
東国を統治する地方機関で、リーダーは鎌倉公方と呼ばれ、初代鎌倉公方は足利尊氏の息子の足利基氏が務めた。
鎌倉公方の補佐役は関東管領と呼ばれ、こちらは上杉氏が世襲した。
鎌倉公方は当初は将軍に従っていたが、やがて幕府から独立して関東地方を支配、将軍と対立するようになった。

室町幕府の財政基盤
①御料所の収入
②守護の分担金
③地頭や御家人への賦課金
④京都の高利貸、土倉や酒屋への課税
⑤関所や港で徴収する関銭、津料
⑥京都五山の僧侶への課税
⑦公共事業の際に全国の守護に課す段銭、棟別銭
⑧日明貿易の利益

日明貿易
足利義満は1401年に明の呼びかけに応じ、『日本国王源道義』の返信用紙と明の暦を受け取り、平安時代以来となる中国との国交を500年ぶりに回復させた。
とはいうものの、これは「日本国王」である義満を、明の皇帝である朱元璋の臣下にしてやるというもので、対等な外交というよりは属国扱いだったのだが、これにより日明貿易は明への朝貢という扱いになったので、貿易にかかる経費はすべて明が負担し、日本は莫大な利益を得ることができた。
明は当時中国や朝鮮沿岸で暴れていた倭寇との区別をするために、日本からの遣明船に正式な貿易船であることを示す勘合を持参させたため、日明貿易は勘合貿易と呼ばれた。
これにより大量の銅銭(永楽通宝)が日本に持ち込まれ、このような外貨は日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
日本にはほかにも生糸や高級織物、書画が輸入され、逆に明へは金や銅、硫黄といった鉱物、刀剣や槍などの武器、鎧、扇、屏風といった工芸品などが輸出された。
日明貿易はその後、義満の政策に否定的だった4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の時に「侮辱的である」と一時中止になるが、6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の時に再開され結局150年間続いた。
ちなみに倭寇とは、もともと日本と明との貿易を要求していた密貿易商人だったため、日明貿易の実現によって沈静化した。しかし彼らによって高麗の衰退は早まった。

朝鮮外交
李氏朝鮮は1339年に李成桂(りせいけい)が高麗を倒して建国した国家で、義満はこちらとも国交を樹立した。
倭寇によって高麗が衰退したことを知る朝鮮は、うちもやられちゃたまらないと日本に倭寇の禁止を要求、義満はこれに応じた。
日朝貿易は対馬の守護大名である宗氏を通じて対等に行われ、幕府だけではなく、守護や国人、商人も参加した。
朝鮮からは木綿といった織物や大蔵経が輸入され、日本からは銅といった鉱物、工芸品、南洋諸島のコショウや香料などが輸出された。

応永の外寇
1419年に沈静化はしたもののまだ暴れていた倭寇に悩む朝鮮が、対馬を倭寇撃退という名目で攻撃した事件。これにより日朝貿易は一時中断したが、すぐに再開された。

琉球王国の成立
沖縄では北山、中山、南山の3つの地方勢力が覇権争いをしていたが中山(ちゅうざん)の王様の尚巴志(しょうはし)が統一、1429年に琉球王国を建国した。
室町時代中期には日本と琉球王国の国交はなかったものの民間レベルでは盛んに交易が行われた。

和人とアイヌ
畿内と津軽の十三湊(とさみなと)の日本海貿易が14世紀にはすでに行われていた。
その後、津軽の豪族、安藤氏の支配下に置かれた和人と言う本州人が津軽海峡を渡り、蝦夷が島(北海道南部)に進出し、道南十二館(どうなんじゅうにたて)などの居住地や港を建設した。
和人は北海道に古来から住んでいたアイヌと交易、しだいにアイヌの生活圏を脅かした。

室町時代の農業
生産性はより向上、農村は豊かになり、商品経済が浸透した。
桑、漆、藍、茶なども栽培。
三毛作:二毛作がさらにパワーアップ。米、麦、そばを生産。
米の品種改良:早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)など収穫時期の異なる稲ができた。
大唐米:大陸から伝わった災害に強く収穫量も多い品種。
下肥(しもごえ):肥料として使う人の糞尿。
水車:灌漑用水をくみ上げる。

室町時代の経済
連雀商人や振売:行商人。
大原女:炭や薪を売った女性。
桂女:鮎を売った女性。
六斎市:鎌倉時代では月に3回だったのが6回に増えた。
見世棚:さらに増えた。
座:さらに増えた。大寺社所属は神人、皇室所属は供御人。
米場:米を専門に扱う市場。
魚市:海産物を専門に扱う市場。
古式入浜:のちの入浜塩田。日本では岩塩がないので塩を作るための専用の砂田を作った。
貨幣経済:貨幣の流通量はさらに増えた。
永楽通宝:明銭。
私鋳銭:私的に造られた粗悪な貨幣。
撰銭令(えりぜにれい):私鋳銭などの悪貨と良貨を選別し、その基準や混入率を定めた法律。
酒屋:裕福な酒屋さんは高利貸(土倉)を営むことが多かった。
交通の発達:廻船(かいせん)、馬借、車借など。

北山文化
公家文化と武家文化が合体、禅宗などの中国文化にも影響を受けた文化。
足利義満が京都の北山に山荘(と金閣)を作ったことに由来する。
鹿苑寺金閣は、寝殿造と禅宗様の折衷様建築で修学旅行の定番。

臨済宗
鎌倉時代に生まれた禅宗だが、ストイックな曹洞宗と異なり、幕府の保護を受けたためかなり栄えた。
南宋の官寺の制にならった五山・十刹の制という寺のランキングが作られ、京都の南禅寺が最高ランクに認定され、それに次ぐ五山格には京都五山と鎌倉五山が、その下に十刹格のお寺、さらにその下に諸山のお寺が続いた。
京都五山は天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
五山の僧侶は渡来僧や留学僧が多く、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)らが宋の研究や漢文詩の創作をした。

水墨画
渡来僧や留学僧によって技法が伝えられた。
如拙の瓢鮎図(ひょうねんず)や周文の寒山拾得図(かんざんじっとくず)など。

庶民文化
商工業者や農民の間にも、読み・書き・計算といったリテラシーが向上し、奈良には『節用集』という辞書を刊行した商人もいた。
また庶民のあいだでは、室町時代に流行った小歌を311首収録した『閑吟集(かんぎんしゅう)』が作られ、さらに格式高い能楽と異なり、風刺性の強い喜劇の狂言(コメディだったのか)や、一遍の踊念仏が発展した盆踊り、能や歌舞伎の原型と呼ばれる幸若舞(こうわかまい)、三味線を伴奏とする語り物である古浄瑠璃(有名な義太夫節ができる前の浄瑠璃をこう呼ぶ)なども楽しまれた。

お伽草子
庶民の間で広まった通俗的な短編小説集。
小人が打出の小槌によってコンプレックスを克服する「一寸法師」や、歌の才能に恵まれたニートが宮中に呼ばれる「ものぐさ太郎」など、身分や境遇に恵まれなくても、その人の能力次第では出世できるというアメリカンドリーム的な作品が多く、下克上の思想につながった。
ほかにも相対性理論を思わせるSF作品『浦島太郎』、ヤマタノオロチを父に持ち平安時代を恐怖に陥れた日本最大最強の鬼を描いた『酒呑童子』などが有名。


ここでいう「座」とは武田鉄矢一座的な、寺社の保護を受けて能を演じる専門集団のことで、興福寺を拠点とした大和猿楽四座の一つである観世座からは世阿弥・観阿弥親子が出た。彼らは足利義満に評価され、猿楽能を完成させた。
また世阿弥は『風姿花伝』という能楽書を著した。

永享の乱(えいきょうのらん)
なんとくじ引きで決まった衝撃の将軍、足利義教が将軍の権力強化を狙って、1438年に幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした戦い。彼は比叡山や九州もこんな感じで平定しており、室町将軍家における最大領土を獲得している。
足利義教は突然怒りだしたり性格に難があったものの、十代で天台宗の大僧正になったという超エリートで、4代将軍家持が後継者を決めずに亡くなった為(※5代将軍義量は家持より先に亡くなった)、出家していたにも関わらずピンチヒッターで6代将軍に抜擢された経緯がある。

嘉吉の乱(かきつのらん)
有力守護を弾圧し続けた第六天魔王の足利義教が逆に、有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺されてしまった事件。
赤松満祐はすぐに幕府に討たれたが、義教の殺害によって将軍権力は大きく揺らぎ、室町幕府は衰退していった。室町時代版本能寺の変みたいなもの。

応仁の乱
世継ぎに恵まれなかった8代将軍足利義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を次の将軍にすることを約束するが、その後妻の富子が男の子を出産、この時生まれた足利義尚(あしかがよしひさ)を推す富子と足利義視のあいだで家督争いが勃発した。
これに管領の細川勝元(ほそかわかつもと)が義視派として、四職の山名持豊(やまなもちとよ)が富子派として参戦したことで、家督争いは他の有力守護たちも巻きこむほどに拡大、1467年には細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて争う応仁の乱に発展した。
応仁の乱は11年も続いたため、主な戦場だった京都は火の海になり(これで何回目だ)、1477年にやっと両者痛みわけで終結したが、各地での地域的な紛争はその後も継続し、室町時代の統治体制は崩壊した。

惣村の団結
室町時代後期になると、結束した惣村の農民たちが、悪徳荘官の免職や天災による不作などを理由に年貢の減免を求めて文書を送る愁訴や、荘園領主に大挙して押し寄せる強訴、惣村の全員が耕作を放棄して村から逃げ出してしまう逃散(ちょうさん)などを起こすようになった。
また、農民たちは傘連判状(からかされんばんじょう)に円環状に署名をしており、みんなが対等の立場で立ち向かうことを確認するとともに、事件の首謀者が処罰されることを防いだ。

土一揆
さらに惣村同士が結束して起こす土一揆も多発、なかでも売買や貸借契約の破棄を求める徳政一揆が多かった。
当初は簡単に徳政令を出さなかった幕府も、繰り返される一揆に負けて次第に徳政令を乱発、挙げ句の果てには徳政令を出す際に手数料を取っていた(分一徳政令)。
土一揆の「土」とは土を耕す農民が中心になって起こしたことに由来。

正長の徳政一揆
1428年。最初に起きた徳政一揆として知られる。
滋賀県の近江で琵琶湖を渡ってきた荷物を馬で京都へ運ぶ運送業の馬借らが、生活苦に耐え兼ねて蜂起。これに農民も加わり、高利貸を営む酒屋、土倉、寺院を襲撃した。
当時情勢が不安定だった幕府は徳政令を出さなかったが、畿内では守護大名によって地域ごとに徳政令が認められた。

嘉吉の徳政一揆
1441年。足利義教が殺された嘉吉の乱直後に勃発。
数十万もの惣村農民が京都を占拠した。
この時には幕府は押し切られる形で徳政令を出している。

山城国一揆
1485年。こちらは応仁の乱で戦争に明け暮れていた守護に代わって力をつけた、京都南部の山城国の国人たちが既得権を守るために結んだ一揆で、内部対立をしていた畠山氏をまとめて国外に追い出した。
山城国はその後、国人たちが8年間自治的支配をした。まさに住民自治。まさにイニシアティブ。

加賀一向一揆
1488年。一向宗(浄土真宗本願寺派)の信仰で結束した講という組織が、守護の冨樫政親(とがしまさちか)を自殺に追い込んだ一揆。
その後加賀は「百姓たちの国」となり、石山本願寺が支えた自治は100年も続き、戦国大名たちをも手こずらせた。彼らは死ねば極楽浄土の阿弥陀如来のもとへ行けると信じていたため、死をも恐れず戦ったのである。

寧波の乱(ニンポーのらん)
1523年。ニンポーとは中国の港の名前。
室町幕府が衰退したことで明との国交は途絶えてしまったのだが、日明貿易自体はその後も、堺商人とつながった細川氏と、博多商人とつながった大内氏によって続けられ、その両者が日明貿易の主導権を争った経済戦争。勝利した大内氏は日明貿易の利益を独占した。

嘉吉条約
1443年。対馬の宗氏と朝鮮の間で結ばれた貿易協定で、日本からの渡航者が増大したため負担が増えた朝鮮は、宗氏を通じて日本から派遣される渡来船を年間50隻に削減させた。これにより日朝貿易は縮小した。

三浦の乱(さんぽのらん)
1510年に在朝日本人が起こした暴動。三浦とは朝鮮が貿易のために開いた3つの港。

コシャマインの戦い
1457年。アイヌの大首長コシャマインが和人の居住地を襲撃した。
上ノ国の領主、蠣崎氏が反撃し制圧された。

東山文化
8代将軍足利義政は(度を越した)文化人として知られ、祖父の足利義満にならって京都の東山に慈照寺銀閣を作った。修学旅行の時に、金閣が本当に金ピカだったから、銀閣もさぞ銀ピカに輝いていると思ったら、割と地味でガッカリした記憶があるが、足利義政の時代には応仁の乱などによって幕府の財政はかなり逼迫していて、銀ピカにする余裕はなかった上に、もともと東山文化のモットーが禅の簡素の追求やわび・さびなので当初から銀ピカにする予定はなかったらしい(銀閣という呼び名も江戸時代以降に「あっちが金閣ならこっちは銀閣にしよう」みたいな感じで付けられた)。
また、有名な近代和風建築の原型である書院造(床の間)や、枯山水という庭園様式も禅宗の影響である。
さらに、茶道では、村田珠光(むらたじゅこう)が茶に禅の精神を取り入れ侘び茶を創始、生花では座敷の床間を飾る立花様式が定まった。

林下(りんか)
五山・十刹の制による臨済宗のヒエラルキーに入らなかった寺のことで、室町幕府衰退とともに衰えた五山に代わって地方武士や民衆の支持を得た。
この代表的な人物に宗純(一休さん)がいる。実際の一休さんは愉快な小坊主ではなく、ニヒルで自由主義的な反骨精神を持つ人物だったらしい。
ちなみにとんねるずのタカさんがリアル野球盤などでよく言う「花は桜木(男は石橋)」はもともとは一休さんの言葉。
ほかにも一休さんは後小松天皇の隠し子だったという説がある。まさかの皇族。
あと一休さんに「屏風の虎を捕まえろ」というディメンション的に無茶なことを言ったのは足利義満。

天文法華の乱
1536年。法華一揆が延暦寺と衝突し、寺を焼き討ちにされた挙句京都を追われた事件。
他宗派を厳しく批判することが特徴の法華宗の日親は『立正治国論』で足利義教を諌めてしまったので、幕府から迫害&拷問されたが、その後布教によって京都の商工業者に広まった。

蓮如
応仁の乱の頃に現れた浄土真宗本願寺の僧。
彼は布教の際に、読みやすい平仮名で書かれた御文(おふみ)を用いて、信者たちを講と呼ばれる団体に組織、北陸や東海を中心に信者が増えた。

東山文化の芸術
彫刻では能面、工芸では後藤祐乗の金工や、金箔をまいた漆工芸の蒔絵が有名。
また雪舟が日本的な水墨画の作画技術を集大成し、大和絵では応仁の乱のあとに土佐光信が土佐派の基礎を固めた。
土佐派の狩野正信と狩野元信親子は水墨画に大和絵の手法を融合し有名な狩野派を開始している。狩野元信の代表作は大徳寺大仙院花鳥図。

東山文化の文学
『新撰莬玖波集』:正風連歌を確立した宗祇(そうぎ)が編纂。
『犬莬玖波集』:より自由な俳諧連歌を作った山崎宗鑑が編纂。

東山文化の学問
『公事根源』をまとめた一条兼良など、政治や経済において力を失った公家が有職故実の研究を行った。
また、応仁の乱が終わると公家や僧侶は荒廃した京都から地方へ移り、地方武士たちに都の文化を伝えた。肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に講師として招かれた桂庵玄樹による薩南学派や、中部や関東をめぐった臨済僧の万里集九が残した漢詩文などがそれである。

足利学校
平安初期に建てられ、鎌倉後期には既に廃れていたが15世紀半ば、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が、校長先生に有名なお坊さんを呼んだり、蔵書の数を増やしたりするなど再興。
これにより足利学校は、室町時代から戦国時代における日本の最高学府となり、全国から集まった禅僧や武士が高度な教育を受けた。現在の復元は江戸時代に最も栄えた時のもの。
フランシスコ・ザビエルはここを「坂東の大学」と呼んだ。

寺子屋
地方武士の子弟の教育が行われる寺院のこと。
テキストは『御成敗式目』や、社会に必要な一般教養をやさしくまとめた『庭訓往来』だった。
足利学校同様こちらも平安時代には既にあったらしい。

南北朝時代覚え書き

南北朝時代の概要(1336年~1392年)
天皇中心の社会に戻そうと建武の新政が行われたが結局すぐに失敗、その後、朝廷が京都と奈良の二つにでき、政治は大混乱。
日本史における戦乱の時代と言ったらやっぱり戦国時代がイメージされるが、南北朝戦争は戦国時代に匹敵するほど長期化しており、その利害関係があまりに複雑な上に、情勢が二転三転しているため、テレビゲームなどにはややこしくて取り上げられないという事情がある。
戦争を略奪のチャンスとしか考えない新興武士の悪党、部下になんでもあげちゃう足利尊氏によって権限が大きく拡大した守護、その守護から独立しようと国人と名乗る地頭、そして守護と主従関係を結び侍の身分を獲得する農民など、戦国時代におけるバトルロイヤルの伏線がはられている。

建武の新政
鎌倉幕府滅亡後に京都に戻った後醍醐天皇が、10世紀後半の醍醐天皇や村上天皇に習って1333年~1336年の間に行った、急進的な天皇親政。
後醍醐天皇は幕府、院政、摂政・関白の全てを廃止し、中央には重要政務を一手に引き受ける記録所、鎌倉時代の引付衆に当たる雑訴決断所、警察省に当たる武者所(長官は新田義貞)、後醍醐天皇を支持した武士に恩賞を与える恩賞方を設置した。
地方では行政府の国司の力を強化、守護の権限を引き下げると共に、東国には陸奥将軍府(頼良親王と北畠顕家)と鎌倉将軍府(成良親王と足利直義)を置いた。
また、後醍醐天皇は天皇の法令である綸旨(りんじ)によって、土地所有権は天皇の許可がなければ認められないようにし、さらに強力な人事権を行使して、役職と家柄を切り離し(得宗専制政治を廃止)、官職と官位を切り離した(大宝律令からの官吏相当制を廃止)。
このような後醍醐天皇の改革は、醍醐&村上の延喜・天暦の治よりは、中国の君主独裁制に近く、その上、武士の力に頼りながら、武士社会の慣習を無視したものだったので、武士たちは当然反発し、護良親王のクーデターや、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画などが起きた。

中先代の乱
1335年に鎌倉時代の執権北条高時の息子の北条時行が鎌倉を占拠した事件。
このクーデターを後醍醐天皇のために鎮圧した足利尊氏は、協力してくれた武士たちに勝手に恩賞を与え始め、これを危険視した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵として認定、新田義貞に足利尊氏討伐を命じた。
ちなみに足利尊氏はかつては歴史ファンの人気が低く、江戸時代に水戸学を始めた水戸光圀(水戸のご老公)も『大日本史』において天皇に弓を引いた逆賊だと批判していたが、現在では客観的な評価がされている。

南北朝時代の始まり
朝敵にされてしまった足利尊氏は当初は苦戦したものの、九州での大逆転(多々良浜合戦)をきっかけに、西国のほとんどの武士を、自身のカリスマ性や、持明院統の担ぎ出し、宗教的演出などで味方に付け、1336年に京都を制圧、新たに光明天皇を即位させ、聖徳太子を思わせるトラディショナルな建武式目を発表した。
これにより戦争は集結したかと思いきや、講和に一度は納得した後醍醐天皇が吉野で正統な天皇であると主張したため、京都の光明天皇と奈良の後醍醐天皇という、二つの王朝が日本にできてしまった。

二頭政治
1338年に征夷大将軍に任命された足利尊氏は、弟の足利直義(あしかがただよし)と職権を分担して政治にあたった。
人情味があり武士の人気が高かった尊氏は軍事的な指揮権や人事権を、理論派で冷静だった直義は法令順守に則った行政権や司法権を掌握した。
一方南朝の後醍醐天皇は、新田義貞や北畠顕家を失い劣勢のまま亡くなった。

観応の擾乱
1350年。武力によって領土拡大を訴える急進派の高師直と、戦争を早急に終結させようとする保守派の足利直義による北朝の内部分裂。
最終的に幕府派(尊氏派)と、足利直冬率いる旧直義派、そして南朝の三つ巴の戦いになった。

単独相続
南北朝戦争時には、所領の細分化が進みすぎたため(子孫が幾何級数的に増えるため一人あたりの土地の面積がどんどん減る)、本家と分家の嫡子(長男)がそれぞれに土地を単独相続するようになり、それまでの惣領制を支えてきた血縁的結合よりも地縁的結合が優先されるようになった。
そのため本家と分家の対立も増え、それが南北朝戦争を長期化させることになった。
ちなみに、この単独相続への移行によって夫と別に財産を持っていた嫁、つまり女性の社会的地位が低下した。それまでは自分の旦那を選択できたり、複数の異性との交際がOKだったりと、割と日本の女性の地位は高かった。実際北条政子は夫婦別姓だったしね。

南北朝統一
南北朝戦争は60年も続いたが、1392年に3代将軍足利義満が南北朝を統一させ戦争を集結させた。
具体的には、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を渡し、以後は北朝の持明院統が皇位を継承することになった。
ちなみに、義満は京都の室町にある邸宅「花の御所」で政治を行ったので、足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになった。
したがって学校の教科書では南北朝時代も室町時代に含んでいたりするけれど、1392年以前は室町幕府は存在しないので足利幕府と呼ぶ本もある。

守護大名
南北朝戦争の際、味方を増やしたい幕府によって、苅田狼藉(田地の紛争の際に一方が勝手に稲を刈り取ってしまう行為)の取り締まりが出来る権利、使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)という幕府の判決を強制執行する権利、半済令(はんぜいれい)という国内の荘園や公領の年貢の半分を徴収する権利などを与えられた全国の守護たちは、他の荘園や公領を襲撃し、その利益を分け与えることで地方武士を支配しだした。
また、本来領主の仕事である年貢の徴収を請け負う守護請も現れた。
このような国衙の権限を吸収し一国を支配する守護を守護大名という。

国人一揆(こくじんいっき)
国人とは地頭などの領主をやっていた一部の地方武士。
彼らは守護に頼らず自分たちで結束し、自主的に紛争を解決したり農民と契約を結んだ。
このような結束を一揆といい(暴動って意味じゃなかったんだ)、ひとつの地域権力として守護と対立した。

惣村の普及
惣村とは、荘園の内部に農民が自主的に作り上げた自治的な村のこと。
惣村の農民は惣百姓と呼ばれ、農業につかう灌漑用水などの共同管理や入会地(いりあいち)と言う共同利用地を確保し、年貢も惣村単位でひとまとめに行った(村請)。
また、おとな(沙汰人)と呼ばれた惣村の指導者は、寄合という会議で決められたルールである惣掟に従って村を運営した。
惣村の祭礼は宮座という集団が行った。
惣村は力をつけ、惣百姓の中には守護などと主従関係を結んで、侍の身分を獲得するような地侍も現れた。

南北朝文化
動乱の時代だったので多くの歴史書、軍記物語が書かれた。
『増鏡』:源平争乱後の歴史を公家の立場で記述。
『梅松論』:室町幕府成立過程を描く。
『神皇正統記』:北畠顕家の父親の北畠新房(親房)が伊勢神道を根拠に南朝の正当性を主張。
『太平記』:南北朝の動乱を描いた軍記物語。戦争で翻弄される人々の姿を描く。

連歌
平安時代にできた長句(5・7・5)と短句(7・7)を別の人が交互に詠むゲーム。
武家、公家問わず大流行した。
南北朝時代の歌人である二条良基(にじょうよしもと)『応安新式』というルールブックを執筆し、方式を確立。彼は『莬玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、これは後に勅撰和歌集に準じるものとして和歌と対等に扱われた。
このように本来は格式高いものだが、バサラ大名はパーティーピーポー的なゲームとして楽しんだ。

鎌倉時代覚え書き

鎌倉時代の概要(1185年~1333年)
武士が政治の主導権を握る幕府体制が始まる。
幕府に従う武士を御家人といい、幕府は彼らに領地を与え、その代わりに軍役を課した。
やがて、執権北条氏が専制的な政治を行うようになるが、元寇によって生活が苦しくなった御家人が幕府に不満を持ちクーデターが勃発、終わる。

治承・寿永の乱(じしょうじゅえいのらん)
いわゆる源平合戦。
日本一の大天狗と呼ばれた謀略家の後白河法皇は、鹿ケ谷の陰謀で失敗した際、「もう二度と政治に口出しはしません」と平氏に約束したにも関わらず、自分の息子の以仁王(もちひとおう)に打倒平氏を広く呼びかけさせ、源頼朝や、木曽の源義仲などを挙兵させた。
そもそもお前が平氏を重用したんだろうがって感じだが、これも摂関家と結び付きが強かった源氏の力を弱めるための策略で、今度はその平氏が調子に乗り出したから、源氏を利用し平氏を始末しようとしたのだ。『アウトレイジ ビヨンド』の片岡刑事ばりの汚さである。

源頼朝
伊豆では桓武平氏系の北条時政が源頼朝の監視に当たっていたはずなのだが、監視がゆるかったのか、源頼朝は北条時政の娘の北条政子と駆け落ちをして、石橋山の戦いに臨んだ。
この戦いに敗北した源頼朝は、武士の情けで見逃されると、千葉県南房総の安房国に逃げ、一度体勢を立て直し、今度は鎌倉に拠点をおいた。
その後、源頼朝は拠点の鎌倉を動かず、弟の源範頼(みなもとののりより)、源義経を使って戦争を進めることにした。ちなみに幕府とはもともと戦場において大将が指揮を執る幕の中を指し、それが武家政権を指す言葉になった。

平氏の滅亡
対する平氏は、都を大きな港のある神戸の福原京に移転したが、すぐに京都に戻し、畿内や西国での支配を固め、源氏に対抗した。
しかし平清盛が急死してしまった上に、西国で養和の飢饉が起こると、次第に弱体化、北陸で源義仲に敗北し、都落ちした。
その後、源義仲の力が強くなると、後白河法皇は源頼朝に源義仲を始末させ、ついでに西国に逃げた平氏も追討させた。ほんとこいつ汚ねえ。
そして1185年、長門の壇ノ浦の戦いで義経軍に敗れた平氏は滅亡した。
『吾妻鏡』によれば、幼かった安徳天皇と共に三種の神器の刀も関門海峡に水没し紛失した。

頼朝追討の院宣と義経追討の院宣
後白河法皇の悪巧みはこれで終わらず、利用価値のなくなった源氏の共倒れを狙って、兄の待遇に不満を持つ義経に頼朝を討てと命令し(頼朝追討の院宣)、これが失敗すると今度は兄の頼朝に弟の義経を討てと命令した(義経追討の院宣)。
この時、後白河法皇は交換条件として、守護を全国に置く権利、地頭を荘園や公領に置き、彼らに兵粮米を徴収させる権利、在庁官人を支配させる権利を頼朝に認めてしまった。
これが後白河法皇最大のミスだった。
頼朝は後白河法皇の命令通り、奥州に逃亡していた弟の義経を討ち、さらに彼をかくまった奥州藤原氏を滅亡させたが、その後、自身の勢力を西国にまで拡大させると、後白河法皇が恐れていた武家政権成立に動き出す。
後白河法皇は源頼朝の将軍就任に最後まで反対していたものの、頼朝は後白河法皇が死ぬとさっそく1192年に征夷大将軍となり、武家政権である鎌倉幕府を開いた。
様々な勢力を捨て駒のように影で操った後白河法皇も、最後の最後には飼い犬に手を噛まれたのだ。

鎌倉幕府の成立時期
ちなみに鎌倉時代の始まりはかつては「いい国作ろう鎌倉幕府」だったのだが、現在では1192年鎌倉幕府成立説は少数派で、最近の教科書では「いい箱作ろう鎌倉幕府」という謎のメッセージになっている。
これは1185年に平氏の残党と義経追討の名目で守護・地頭が置かれ、武家の支配が全国に及んだことにちなむ。本当どっちでもいんだけど、まあ鎌倉時代はそんな感じで7年伸びた。

二元統治
武家政権が始まったものの、源頼朝の時代には幕府の権力は絶対的なものではなかった。
幕府の財政基盤は、頼朝が所有する知行国や、平家から没収した大量の荘園(平家没官領)だったが、朝廷や貴族、大寺院といった荘園領主の力は根強かった。
鎌倉幕府と朝廷の関係は、新制という朝廷から通達される法令によって拘束され、幕府は守護・地頭を通して朝廷の支配や荘園の維持を助けた。

封建制度
源頼朝は従者である御家人たちを、公領や荘園の管理をする地頭に任命し、先祖代々の所領の支配を保障する本領安堵や、新たな所領を与える新恩給与などの御恩を与えた。
地頭とともに新設された守護は、各国に一人ずつ置かれる諸国の軍事行政官で、東国出身の有力御家人が任命された。
守護は職務内容が国司とかなり丸かぶりで、後の御成敗式目では守護は警察と軍事だけを行い、行政は国司に任せるということになったが、結局国司は形骸化した。
御恩を主人から受けた御家人は、戦時には軍役、平時には大犯三ヶ条(だいぼんさんかじょう)という職務規定に従い、京都大番役、鎌倉番役、異国警固番役などの警備といった奉公をした。
このような土地の支配を認める代わりに、軍役を課す制度を封建制度といい、若干形は違うが中世ヨーロッパや中国の西周などでも行われた。

侍所
御家人を統率。軍事や警察を担当。長官は別当と呼ばれ、和田義盛が務めた。

政所
一般政務や財務事務を担当。初期は公文所と呼ばれた。長官は別当と呼ばれ、大江広元が務めた。

問注所
裁判事務を担当。長官は執事と呼ばれ、三善康信が務めた。

北条時政
源頼朝が謎の急死をし、当時18歳で政治家として無能だった源頼家が2代将軍につくと、御家人たちは主導権争いを始めた。
北条政子の父、北条時政は1203年に自分の孫に当たる源頼家を幽閉、翌年殺害し、頼家の弟でまだ幼かった源実朝を将軍につけた。
北条時政は将軍が幼いということで、彼を補佐する執権という職に就き、将軍版摂関政治みたいなものを始めだした。これを執権政治といい、以降将軍は形ばかりの地位となった。
その後、北条時政は源実朝の代わりに婿の平賀朝雅(ひらがともまさ)を擁立しようとしたが、娘の北条政子や息子の北条泰時に阻止され、伊豆に引退することになった。

北条義時
2代執権。
侍所の別当の和田義盛を和田合戦で滅ぼし、自ら侍所と政所の別当となった。

藤原将軍
1219年、源頼家の子の公暁(くぎょう)が父の敵である源実朝を暗殺、さらに公暁自身もまもなく討たれてしまうと、源頼朝の血は絶えてしまった。
これを受けて北条泰時は皇族を次の将軍につけようと交渉を持ちかけたが、後鳥羽上皇がこれを拒否、仕方なく源頼朝の遠い親戚の摂関家、藤原頼経(ふじわらよりつね)を4代将軍につけた。これを摂家将軍と呼ぶ。
ちなみに藤原頼経は2歳のとき鎌倉に迎えられ、8歳で将軍に即位した。お飾りだったのは言うまでもない。

承久の乱
分散していた皇室領の荘園を集め、西面の武士を置くことで院政を強化した後鳥羽上皇は、歌仲間の3代将軍実朝が殺されると幕府との対決姿勢を強め(4代将軍の依頼を断った)、1221年についに北条氏打倒を呼びかけた。
しかし後鳥羽上皇の予想に反して東国武士の大半は北条氏側につき、北条義時の息子の泰時と時房が京都を攻めると一ヶ月程度で鎮圧されてしまった。
その後、幕府は主犯の後鳥羽上皇を始め3人の上皇を島流しにすると共に、仲恭天皇を廃し、皇室の皇位継承に介入するようになった。
さらに京都に朝廷を監視する六波羅探題を設置し、京都周辺の警備や西国の統治に当たらせ、朝廷が挙兵できないようにした。六波羅は京都にあるお寺の名前。
承久の乱で後鳥羽上皇側についた貴族や武士たちの土地は没収され、幕府側で頑張って戦ってくれた御家人に与えられた。
この時任命された地頭は新補地頭(しんぽじとう)と呼ばれ、幕府の支配権は畿内、西国、荘園、公領と、さらに拡大したが、これにともない武士同士、もしくは荘園領主や国衙たちとの小競り合いも頻発し、裁判制度の確立が求められた。

北条泰時
3代執権。
1232年にかの有名な御成敗式目51ヶ条(貞永式目)を制定する。
御成敗式目は、日本初の武士の法典で、先例や道理と呼ばれる武家社会の慣習、道徳に基づき、封建制度における紛争を公平に裁く基準を明確にした。
北条泰時は他にも、執権の補佐をする連署や、幕府の政務処理や裁判を行う評定集というポストを新設、これらのポストには有力御家人、とりわけ北条氏が優先的に任命され、やがて北条氏がほとんど独占するようになる。

北条時頼
5代執権。
御家人の所領に関する訴訟を専門に受け付ける引付衆を作って裁判を迅速化させたり、朝廷にも評定集を設置してつながりを強め、藤原将軍から皇族将軍に変更(もちろんこれも有名無実)、幕府が朝廷を支配できるようにした。

宝治合戦(ほうじがっせん)
1247年。幕府内で強い影響力を持っていた大御家人三浦泰村(みうらやすむら)を、北条時頼とその外戚の安達景盛(あだちかげもり)が滅ぼし、北条氏の独裁体制を確立させた戦い。

惣領制
鎌倉時代の武士は血縁関係で結ばれ、一族(一門もしくは一家)ごとに本家である宗家と、その他の庶子で構成されていた。
惣領は一門のリーダーで、戦時には軍を指揮し、平時には祭祀を取り仕切ると共に、幕府への軍役や、領主・国衙への年貢納入における責任者を務めた。
武士たちは河川近くのちょっと高くなっている土地に堀や塀を巡らせ、その中に館を建てて暮らした。
館の周囲には佃、門田、正作、用作などと呼ばれた年貢がかからない直営地を作り、下人や農民に耕作をさせた。
地頭は、農民から徴収した年貢を国衙や荘園領主に納め、自分の収入は農民から課徴米として別に徴収したため、農民にとっては国税、地方税的なダブルパンチになった。

地頭請所(じとううけしょ)
荘園や公領の領主が、しかたなく地頭に荘園の管理をすべて任せて、その代わりに一定の年貢を納入させること。

下地中分(したじちゅうぶん)
領地を地頭に分け与えて、相互支配を認め合うこと。

武芸の訓練
流鏑馬:走る馬に乗りながら的に矢を射る訓練、もしくは儀式。
笠懸:流鏑馬とほとんど一緒だが、こちらの方がより実践的で余興的だった。
犬追物(いぬおうもの):馬に乗りながら犬を追いかけて弓で射る訓練。一試合に150頭もの犬が射られた。かなり動物虐待だが、用いられる矢は柔らかく殺傷能力はなかった。
巻狩:シカやイノシシを四方から取り囲み、徐々に包囲を狭めながら、弓矢で獲物を仕留める大規模なハンティング。猟犬が使われた。

蒙古襲来(元寇)
13世紀初め、チンギス=ハーンが中央アジア~南ロシアを征服しモンゴル帝国を築いた。
チンギス=ハーンの後継者らは、ヨーロッパや中国の金を侵略し、ユーラシア大陸をほとんど支配してしまう。
チンギス=ハーンの孫のクビライ=ハーンは元を起こし都を北京に移転、朝鮮半島の高麗を隷属させ、次は日本だ!と日本に朝貢を要求してきた。
時の執権北条時宗は、この要求(×4)を拒否するばかりか、元からの使者を殺してしまったので、元は高麗の軍隊を使って日本に侵攻することにした。
クビライは、南宋の旧軍人に農具と作物の種を持たせ、占領後の日本に移住させるつもりだったらしい。

文永の役
1274年。一度目の元寇。
3万もの元軍が900隻の軍艦で、対馬と壱岐を攻めたあと、博多湾に上陸、集団戦術(武士の戦いは基本的に一対一)や火器によって日本軍を圧倒した。
しかし一所懸命の精神(=と恩賞が欲しかった)で無謀な特攻を繰り返す、日本軍の予想外の根性に、元軍の首脳陣が撤退を命令、さらに偶然吹いた暴風雨によって敗退した。
これを受けて幕府は九州の異国警固番役を強化し、博多湾ぞいに石塁を築いた。

弘安の役
1281年。二度目の元寇。
南宋を滅ぼした元が今度は14万2000人の兵士と4400隻の軍艦を率いて襲撃してきた。
しかし今度も台風によって艦隊は一瞬にして壊滅、元軍を追撃した日本軍は海上で強襲し、元軍の4分の3を撃破。日本軍は大勝利した。
一説には、元が高麗に軍艦を突貫工事で建造させたため、神風でみんな沈んでしまったと言う。
この戦争の後、幕府は朝廷管轄の全国の荘園や公領からも武士を動員する権利を得た。
また博多に鎮西探題(ちんぜいたんだい)として北条一門を派遣し、九州の政務や裁判、御家人の指揮に当たらせた。

得宗専制政治
西国一帯の武士の支配権が確立されるとともに、北条氏の家督である得宗の権力も強大なものになった。
得宗の家臣、御内人(みうちびと)と御家人の対立は激化し、9代執権北条貞時の頃には、元寇の戦後処理を行った有力御家人の安達泰盛が、御内人の内管領平頼綱に滅ぼされる霜月騒動が起きた。
平頼綱は、その後成長した北条貞時に滅ぼされたが、これ以降北条氏と御内人は独裁政治を行うようになった。
全国の守護の半分以上、地頭のほとんどが北条ファミリーに独占されてしまい、得宗専制政治は多くの不満を生むようになった。

鎌倉時代の農業
二毛作:一年に米と麦を栽培する。
刈敷:刈った草を田に敷いて肥料にする。
草木灰(そうもくかい):草木を焼いた灰を肥料にする。
荏胡麻(えごま)の栽培:それをさらに麻布を作った。

鎌倉時代の経済
定期市:荘園や公領の中心地、交通の要所、寺社の門前で開催。
三斎市:月に3回行われる市。
行商人:中央から地方へと工芸品や織物を売りに行く商人。
見世棚:奈良や鎌倉などの都市にある常設小売店。
問丸:年貢運送管理や商品の中継、委託販売を行う、物流を専門にした組織。
座:商工業者の同業者団体。公家や寺社に賄賂を贈り、その見返りに販売権を独占した。
貨幣経済:米といった現物支給ではなく、支払いが宋銭などの貨幣になった。
為替:遠隔地取引の際に金銭の輸送を手形で代用すること。
借上(かしあげ):高利貸業者。

永仁の徳政令
元寇での恩給が期待以上に不十分、分割相続の切り返しで所領が細分化、貨幣経済の発展などによって御家人たちの生活は困窮していた。
これを受けて北条貞時は永仁の徳政令を出し、御家人の質入れを禁止し、彼らの借金を帳消しにしたが上手くいかず、畿内や周辺では、地頭や御家人ではない新興武士たちが悪党となり荘園領主に抵抗するようになった。

正中の変
朝廷では後深草天皇の流れを汲む持明院統と、亀山天皇の流れを汲む大覚寺統が皇位継承権で争い、幕府の介入でとりあえず交互で皇位につくようにしていたが(両統迭立)、これに不満を持っていた大覚寺統の後醍醐天皇は、得宗専制政治に対する御家人たちの不満を利用して、1324年に倒幕計画を試みるが幕府側に情報がもれて失敗する。

元弘の変
懲りない後醍醐天皇は女装して御所を抜けると1331年に再び挙兵をして、やっぱり失敗。これにより後醍醐天皇は隠岐に島流しにされた。
しかし後醍醐天皇の息子の護良親王や、大阪河内国の豪族の楠正成(くすのきまさしげ)は、悪党などの反幕勢力を結集させて幕府軍に宣戦布告、隠岐を脱出した後醍醐天皇も倒幕を呼びかけるようになると、呼応する者が急増、有力御家人で幕府軍の指揮官だった足利高氏は北条高時の「高」を与えられたことも忘れたのか、天皇側に寝返り六波羅探題を襲撃、群馬県上野国の御家人新田義貞も鎌倉に攻め込み、北条高時を滅ぼした。これにより1333年、鎌倉幕府は滅亡した。
ちなみに、この功績(寝返り)を認められて足利高氏は、後醍醐天皇から「尊」の字をもらったのだが、逆に言えばご褒美はそれくらいだった為(高い地位に就かせてもらえなかった)、後醍醐天皇と足利尊氏の間にはしこりが残ることになった。

鎌倉文化
武士の質素で力強い文化と、政権を武士に奪われた貴族のノスタルジックな文化が見られた。

鎌倉新仏教
旧来の難しい学問や祈祷を重視するのではなく、庶民など広い階層の人々を取り込むために、念仏や題目、座禅など誰でもわかりやすい修行を中心としている。
浄土宗:法然。専修念仏。『選択本願念仏宗』。知恩院。
浄土真宗:親鸞。悪人正機説。『教行信証』。本願寺。
時宗:一遍。踊念仏。『一遍上人語録』。清浄光寺。
日蓮(法華)宗:日蓮。『立正安国論』。久遠寺。
臨済宗:栄西。幕府に広まった禅宗。『興禅護国論』。建仁寺。
曹洞宗:道元。山中でひたすら座禅。『正法眼蔵』。永平寺。

旧仏教の動き
鎌倉新仏教に刺激され、法相宗の貞慶(じょうけい)と華厳宗の明恵(みょうえ)は南都仏教を復興し、律宗の叡尊(えいぞん)と忍性(にんしょう)は戒律を重んじながら、貧しい人や病人へ赤十字的な慈善事業を行った。

中世文学
『新古今和歌集』:藤原定家が後鳥羽上皇の命で編纂。
『山家集』:西行が平安末期の動乱をふまえて詠んだ。
『金槐和歌集』:源実朝の歌集で万葉調。

『十訓抄』:儒教に基づいた教訓を記述。
『沙石集』:仏教説話集。

『方丈記』:鴨長明の随筆。世の中の無常を描く。
『徒然草』:吉田兼好の随筆。動乱記の人間観察。
『海道記』:作者不詳。東海道を取り上げた紀行文。

『水鏡』:四鏡の第3弾で古代~平安時代までの歴史を振り返る。
『吾妻鏡』:作者不詳の歴史物語。幕府の歴史を記述。
『愚管抄』:源頼朝の友達、九条兼実の弟の慈円による歴史物語。

『平家物語』:平家の興亡を描いた軍記物語。琵琶法師が文字の読めない人に語った。
『保元物語』:保元の乱を源為朝を中心に記述した歴史物語。

鎌倉時代の学問
貴族の過ぎ去った栄光を懐かしむ風潮があった。
有職故実(ゆうそくこじつ)という朝廷の儀式や先例を研究する学問が流行り、金沢には金沢文庫という私設図書館が建てられた。新書レーベルみたいな名前だけど。
また宋学(朱子学)も伝わり、その中の大義名分論は後醍醐天皇の倒幕運動の理論的裏付けになった。
さらに鎌倉仏教の影響を受けた神道理論が、伊勢神宮の渡会家行(わたらいいえゆき)によって作られ、伊勢神道もしくは度会神道と呼ばれた。伊勢神道は、仏>神と考えた本知垂迹説とは真逆で神>仏と考えた。

鎌倉時代の建築
東大寺南大門:大陸的な雄大さを持つ大仏様という建築様式が特徴。
円覚寺舎利殿:整然とした美しさと繊細さを持つ禅宗様(唐様)という建築様式が特徴。
蓮華王院本堂:平安時代からの和洋建築。
観心寺金堂:大仏様+禅宗様の折衷様の建築物。

鎌倉時代の芸術
西洋のルネサンスのように、ありのままの人間を肯定するような、写実的な表現が見られ、蒙古襲来絵巻、平治物語絵巻、法然上人絵伝、一遍上人絵伝、春日権現験記といった絵巻物や似絵という肖像画が描かれている。
彫刻では運慶と快慶が作った東大寺南大門金剛力士像が有名。
書道では、和と宋の書風を組み合わせた青蓮院流(しょうれいいんりゅう)を創始した尊円入道親王の『鷹巣帖』がある。

平安時代覚え書き③

平安時代後期
大河ドラマ「たいらの~きよもり~!」の時代だと言っていい。なんといっても白河上皇の院政と平氏の台頭、これに尽きる。どちらも専制的なのも印象的。
地方の勢力に過ぎなかった武士は、もはや中央の皇族や貴族の権力争いに必要不可欠な存在となってしまった。

後三条天皇
1068年即位。藤原頼通の娘に子どもができなかったため、摂政や関白を外戚とせず、大江匡房(おおえまさふさ)などの学者をブレーンにし天皇親政を行った。
ちなみに息子の白河上皇が行ったことで有名な院政を考案したのも後三条天皇である。
1069年には延久の荘園整理令を出し、公領を圧迫するほどまでに増えすぎた荘園の整理に乗り出した。
荘園整理令はかつて醍醐天皇も行っているが、今回は前回の失敗を踏まえて、国司に丸投げするのではなく、中央政府が直接荘園整理に乗り出した。
中央政府は記録荘園券契所(記録所)を設置して荘園所有者と国司が提出した書類を比較し、荘園を摂関家のものも含めて一つ一つ厳重にチェックした。そして新しい荘園や書類に不備がある荘園に対しては運営停止を命じた。

荘園公領制
後三条天皇の取り組みはかなりの成果を上げ、不明瞭だった公領と荘園の区別も明確化され、公領は郡、郷、保という単位に再構成、豪族や開発領主にその徴税を請け負わせた。
公領の実務の方は目代の指揮のもと、庁官人に行なわせた。
公領や荘園の耕地の大部分は名(みょう)となり、領主はその耕作を田堵に行わせ、年貢(米や絹)、公事(工芸品や特産物)、夫役(勤労奉仕)などを課した。
しかし、区別が明確になったとは言え、公領と荘園の運営システムは割とかぶっていて(中央政府が直接監督すべき公領も現地の豪族や開発領主に一任していたなど)、大宝律令以来の国>郡>里という行政区画と、新設された郡、郷、保という公領の土地単位、さらにそのどちらにも組み込まれない私有地である荘園が同時に共存するような状況になっていた。この体制を荘園公領制と言い、院政期にはさらに広がっていった。
全国の受験生泣かせの、こういったごちゃごちゃした状況は、豊臣秀吉が太閤検地をして一元化してくれるまで続くことになる。Ohボーイ。
実際この土地の本当の所有者は誰だかわからないこともあったんだってさ。

白河上皇の院政
白河天皇は1086年に当時8歳の堀河天皇に皇位を譲ると、院庁を作り、そこから出される院庁下文(いんちょうくだしぶみ)や上皇の命令である院宣(いんぜん)などを用いて、天皇の影で政治の実権を握りだした。
白河上皇は、院の御所を北面の武士に警備をさせ、源平の武士を側近に取り立てるなど、その権力を強化させていった。
その力は天皇の代理に過ぎない摂政や関白を大きく凌ぎ(つまり事実上の天皇)、しかも天皇のように法や先例に拘束されなかったため、やりたい放題ができた。

院政期の上皇
白河上皇が始めた院政はその後、鳥羽上皇、後白河上皇と継承され100年あまり続いた。彼らは、自分の側近、院近臣(いんのきんしん)をガッツリ稼げる国の国司に任命し、上級貴族には一国の支配権を与える知行国制度を実施、さらに上皇自身が自分の国の収益を握る院分国の制度も作り出した。
これにより公領は、上皇や知行国主、国司などの私有地と変わらなくなってしまった。
また鳥羽上皇の時代には、上皇への荘園の寄進が増加、その見返りとして不輸や不入の特権が当たり前のように与えられたので、荘園の独立性はかなり強まった。
こうして私有地化された公領と寄進地は院政の財政基盤となった。
院政期の上皇は、強欲な割に仏教を厚く信仰していたため、出家して法皇になった。そして京都東山の法勝寺(ほっしょうじ)といった大寺院建設の費用を捻出するために、位やポストの売買(成功)に手を染め、政治はすごい乱れた。国司のポストは金さえあれば購入できたのである。
それでも金が足りないと、上皇は大寺院の荘園の一部を武士を動員して取り上げようとし、大寺院が結成した武装組織である僧兵の激しい抵抗を受けた。
これにはさすがの白河上皇も「いくらオレでも鴨川の洪水と賽の目と延暦寺の僧兵だけはどうにもならねえや」と語ったという。
闘いが大好きな下級僧侶で組織された僧兵は、国司と争い、朝廷に要求を突きつける強訴まで行う大勢力と化していた。その中でも特に興福寺と延暦寺の僧兵は、奈良法師、山法師と呼ばれ恐れられた。殺生アリなんかい。

伊勢平氏の台頭
伊勢平氏とは伊勢と伊賀を地盤とする平氏。
源義家ブームで爆発的な人気を博したものの、彼が亡くなると落ち目になった清和源氏とは対照的に、院政期において地道にその勢力を拡大させていった。

平正盛
伊勢平氏の四代目にあたる。
検非違使や追捕使を勤めていた彼は、出雲で源義家の残酷なバカ息子が反乱を起こした源義親追討事件で一躍時の人となり、中央政界に進出するきっかけを作った。

平忠盛
平正盛の子で平清盛の父の平忠盛は瀬戸内海の海賊を鎮圧、鳥羽上皇の院近臣となった。

保元の乱
1156年。「たいらの~きよもり~!」が大活躍した二つの戦争の一つめ。
鳥羽法皇が死んだあとの跡目争いで勃発。
時の院、鳥羽上皇は、祖父の白河上皇の子だとされる崇徳天皇(すとくてんのう)を嫌い、彼を譲位させ、自分の弟の後白河を天皇に即位させた。
勿論崇徳上皇は納得がいかず、後白河天皇を退位させようと武士を動員、朝廷を二分する戦争が起きた。
後白河天皇は側近、藤原通憲(ふじわらのみちのり)のアドバイスを受け、平清盛や源義朝(みなもとのよしとも)などの武士に夜討ちや奇襲攻撃など、かなりずるい事をさせて戦乱に勝利。
敗れた崇徳上皇は讃岐に島流し、後白河天皇は晴れて上皇になり院政を始めた。

平治の乱
保元の乱の三年後、1159年に起きた戦争。
保元の乱において崇徳上皇側についた自分の父親まで斬った源義朝は、平清盛ばっかり後白河上皇に気に入られているとジェラシーを募らせ、藤原信頼(ふじわらののぶより)と共に兵を挙げた。
彼らは、後白河上皇を幽閉し、上皇の側近の藤原通憲を自殺に追い込んだが、平清盛がこれを鎮圧、義朝軍はまだ子どもだった源頼朝を残して、ほとんど処刑されてしまった(当時13歳だった頼朝は伊豆に島流し、赤ちゃんだった弟の義経は寺に預けられた)。

平治政権
平清盛は後白河上皇を武力で支え、上皇のために蓮華王院を建設、1167年には武士として初めて行政機関のトップである太政大臣に任命された。
平清盛はかつての藤原家のように、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、そこで生まれた子、安徳天皇の外戚となった。
伊勢平氏の一族は、それぞれに最高のポストが与えられ、彼らは、各地の武士を荘園や公領の現地支配者である地頭に任命し、さらに西国一帯の武士を家人として従えた。
伊勢平氏は全盛期には、日本の半分の知行国や500あまりの荘園を所有するまでになっており、武士でありながら芸術文化にも造詣がある貴族的な性格を持ち合わせていた。
また、平清盛は神戸に港を作り、父が始めた日宋貿易をさらに推進させた。とはいえ、宋と正式に国交を開いていたわけではなかったが、日宋貿易は平時政権の基盤となる、珍宝や宋銭、書籍などをもたらした。
あともともと神聖な場所とされた厳島に神社作ったのも清盛。

鹿ケ谷の陰謀(ししがだにのいんぼう)
とはいえ平治政権はかなり専制的だったため、旧来の貴族を中心に不満を持つ者も多く、1177年には後白河法皇の側近、藤原成親(ふじわらのなりちか)や俊寛(しゅんかん)たちが平氏打倒を企てた。
平清盛はこの陰謀の関係者を一網打尽にしたが、平時政権に対する不満は収まらなかった。

院政期の文化
院政期には貴族文化に、新たに台頭した武士や庶民の文化が混ざり合った。
浄土教は全国的に普及、地方には阿弥陀堂が建設された。
また貴族や庶民の間で流行った田楽や猿楽もこの頃生まれている。

『大鏡』
~鏡シリーズ第1弾。「大根(今)水増し」の語呂合わせで覚える四鏡のひとつで、白河上皇の時代に書かれる。平安時代前期~中期までの藤原北家の栄華を、200歳近く長生きした二人のお爺ちゃんが若い侍に語る、対話形式の歴史物語。
同じく平安末期に書かれた『今鏡』は第2弾。平安中期~平安末期を今度は長寿のお婆さんが回想する。

『今昔物語集』:日本、インド、中国の説話(伝承された物語)集。
『将門記』:平将門の乱を描いた軍記物語。
『陸奥話記』:前九年の役を描いた軍記物語。
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』:後白河法皇が民間の歌謡(今様)を学んで作った。

四大絵巻
『鳥獣戯画』:動物を擬人化した異色の作品。
『伴大納言絵巻』:応天門放火事件を描いた絵巻。
『信貴山縁起絵巻』:信貴山の修行僧、命蓮(みょうれん)の説話を描いた絵巻。
『源氏物語絵巻』:内大臣三条西実隆によって書かれ、いい収入になったらしい。

平安時代覚え書き②

平安時代中期
かの有名な藤原一族による摂関政治の最盛期。めっちゃ栄えたが、藤原頼通の娘が子どもを産めなかったことから急速に衰退。あの欠けることのない満月のようにこの世はオレ様の思い通りだぜ!と歌った藤原家の栄華はわりとあっけなかった。
また10世紀に入ると、地方でないがしろにされた豪族や農民が武士化、一大勢力となっていく。

藤原家の外戚政治
外戚政治とは自分の娘を天皇と結婚させて、生まれた皇子を天皇にして、天皇のおじいちゃんとなることで、天皇をサポート(=操縦)する摂政(天皇が幼少時に国政を代行)や関白(成人した天皇を補佐)の地位につくこと。
奈良時代、文武天皇に娘を嫁がせ、その子どもを聖武天皇として即位させた藤原不比等以来、藤原家の常套手段になった。
しかし、古代からの慣習で母方の一族が力を持つものの、当時の天皇は一夫多妻制で、自分の娘がうまく天皇の目にとまり、さらにその間に男の子が生まれても、その子を天皇に即位させるためには激しい競争があったため、なんだかんだで経済力やコネがものを言った。帝に寵愛された『源氏物語』の皇子、光源氏も母方の実家の身分が低かったため、天皇にはなれなかったという経緯がある。
成功(じょうごう)は朝廷の儀式や寺社の造営に私財を投じる見返りに官職が与えられることで、重任(ちょうにん)は金を払うことで高収入の官職に再任(任期継続)してもらうこと。
このような政治腐敗が進み、地方の政治もないがしろにされた。

藤原北家
藤原不比等を父に持ち、奈良時代の長屋王の変で活躍、その後全員天然痘で死んじゃった藤原四兄弟を覚えているであろうか。
藤原百川が光仁天皇を即位させ、奈良時代末に磐石となった藤原家だったが、今度はその四兄弟の子孫たちが内輪揉めを起こしてしまう。
その中でも中心的な地位にまで上り詰めて平安中期に一人勝ちしたのが、次男の藤原房前の子孫である藤原北家であった。
ちなみに、長男の武智麻呂→南家、三男の宇合→式家、四男の麻呂→京家で、三男の式家は薬子の変で藤原冬嗣(北家)の働きによって失脚している(薬子兄妹は藤原式家)。あれも藤原四家の勢力争いだったのだ。

承和の変
842年。藤原北家で藤原冬嗣の子の藤原良房が、大伴氏(懐かしいな)の子孫の伴健岑(とものこわみね)を処罰した事件。
嵯峨天皇の時代はかなり平和だったものの、天皇の皇位を兄→弟→兄の子→弟の子という順番で回していたので、この慣習は外戚政治を試みる藤原家にとっては、じれったくて都合が悪かった。
また、嵯峨天皇は引退して上皇になったあとも実力があり、藤原家ににらみを効かせていたので、嵯峨天皇の息子の仁明天皇(にんみょうてんのう)に妹が嫁いだ藤原良房も、甥っ子の道康親王をいきなり天皇に即位させることができずやきもきしていた。これまでの慣例で言えば、仁明天皇の次の天皇は、嵯峨天皇の弟(純和天皇)の子、恒貞親王(つねさだしんのう)になるのが筋だったのである。

通例
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→恒貞親王(弟の子)

しかし政界の重鎮の嵯峨天皇が亡くなると、藤原良房は恒貞親王を飛び越して、仁明天皇の次に道康親王を即位させようと画策した。

良房の計画
嵯峨天皇(兄)→純和天皇(弟)→仁明天皇(兄の子)→道康親王(兄の孫)

この動きを察知し、警戒したのが恒貞親王の側近の伴健岑だった。
そこで藤原良房は彼ら恒貞親王派がクーデターを企てていると言いがかりをつけて、まとめて逮捕。これにより藤原良房はこれまでの慣例を破って、次の天皇は前の天皇の子どもがなれるという新たな流れを作ったのである。かなり強引だけど。

清和天皇と藤原良房
嵯峨天皇政権で秘書(蔵人頭)を務め、承和の変で恒貞親王派を処罰した藤原良房は、外戚政策で自分の孫を清和天皇に即位させると、自分は摂政となった。
摂政は聖徳太子など、代々皇族が担ってきたが、藤原良房は初の皇族以外の摂政だった。このように身内から摂政や関白を出した藤原家を藤原摂関家、摂政や関白に上り詰めた人を氏の長者と言う。

応天門放火事件
866年。清和天皇の家(大内裏)が誰かに放火されるというとんでもない事件。
事件後に大納言の伴善男が「犯人は嵯峨天皇の七人目の息子の源信(みなもとのまこと)だ」と告発、源信は「まったく身に覚えがない」と無罪を主張した。
当時高校生くらいだった清和天皇は、藤原良房の意見を聞いて、とりあえず源信の処分を保留。真相は闇の中かと思われたが、事件から五ヶ月が過ぎたある日、「伴善男が清和天皇の家に火をつけているところを見た」という衝撃的なタレコミがされて、清和天皇はお手上げ、藤原良房を摂政に正式に任命し、伴善男の取り調べをさせた。
さらに、伴善男の取り調べ中、タレコミをした人の娘が伴善男の家臣に殺されるという殺人事件も発生、その犯人に応天門の放火事件についても追求したところ、「伴善男が火をつけた」と自白。
伴善男は全財産を没収され島流しにされた。これによりヤマト政権からの有力豪族、大伴氏は完全に歴史から姿を消し、藤原家のさらなる躍進につながった。
ちなみに、この放火事件の様子は『伴大納言絵巻』にも描かかれており、本当どうでもいいけれど、中学校美術の教育実習の際、授業で取り上げたことがある。なんか4コマにまとめて、空欄のフキダシを追加して生徒にセリフを考えさせてた気がする。

光孝天皇と藤原基経
藤原基経(ふじわらもとつね)は藤原良房の養子で彼の後継者。
884年に仁明天皇の子の光孝天皇が即位すると関白となった。

阿衝の紛議(あこうのふんぎ)
光孝天皇の次に即位したのが光孝天皇の息子で藤原家を外戚としない宇多天皇(うだてんのう)だった。宇多天皇は自分を天皇に推薦してくれた太政大臣の藤原基経を関白から解任して(厳密には藤原基経が“形式的”に辞退した)、阿衝という形だけの名誉職にしようとしたが、これに反発した藤原基経が職務放棄(スト)、慌てて宇多天皇はこの辞令を撤回した。
この時、天皇陛下に対してマジギレした藤原基経に対し、怒りを収めるよう文章を送って諭したのが、文章博士の菅原道真だった。

宇多天皇と菅原道真
とは言うものの宇多天皇は藤原基経が亡くなると、摂政と関白を置かず、その代わりに学者の菅原道真を重用した。菅原道真は「唐から学ぶものはほとんど学んだ」と、遣唐使を廃止したことで有名。

藤原時平
894年に醍醐天皇が即位すると、藤原基経の息子の藤原時平は、901年に菅原道真を九州の大宰府に左遷させた(昌泰の変)。その後失意のうちに亡くなった菅原道真は、朝廷に大きな雷を落とし、祟りだとみんなをビビらせ、その後学問の神様として祀られた。

醍醐天皇
醍醐天皇は父親の宇多天皇同様、摂政と関白を置かなかった。
天皇自ら政治を行うことを天皇親政と言う。
醍醐天皇は延喜の荘園整理令で荘園の不正の撲滅に取り組み律令制度の立て直しを図っている。

朱雀天皇と藤原忠平
次に即位した醍醐天皇の息子の朱雀天皇には、藤原基経の息子で藤原時平の弟の藤原忠平が摂政と関白を務めた。これにより藤原家の勢力は維持された。

村上天皇
兄の朱雀天皇から引き続き藤原忠平が関白を務めたが、彼が亡くなるとやっぱりその後は摂政や関白は置かなかった。
政治家だけでなく、芸術家としての才能にも恵まれた村上天皇は、平将門や藤原純友が起こした承平天慶の乱によって逼迫した朝廷の財政を改善させるべく倹約に努め、あの清少納言も絶賛、醍醐天皇の治世と共に延喜・天暦の治とカリスマ的に称えられている。
当然、藤原家にとっては目の上のたんこぶ的な天皇であったことは言うまでもない。

安和の変(あんなのへん)
969年。左大臣で醍醐天皇の皇子の源高明(みなもとのたかあきら)源満仲(みなもとのみつなか)の策略によってやっぱり九州に左遷される事件。源高明は村上天皇派。
これによって藤原氏の政敵は誰もいなくなり、摂政や関白の職は彼らが独占するようになった。で、案の定、今度は藤原北家間の戦いが始まるのであった。
ちなみにこの事件によって源満仲一族は藤原氏に取り入り、以後多田源氏としてその勢力を拡大していく。多田とは兵庫県の地名。

藤原道長
藤原一族間の争いを収めたのが、ご存知、藤原道長で、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇はみんな藤原道長の外孫である。天皇親政を試みようとした三条天皇と対立した際には、三条天皇が火事にあったり目を悪くしていたとはいえ(不遇の天皇と言われる)、圧力をかけて三条天皇を引退させるまでの実力を持っていた。
文学の愛好家としても知られ、「早く続きを読みたい」と紫式部の『源氏物語』の原稿を催促したり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」というオレイズム全開の歌を歌っている。
時代が割と平和だったこともあり、政治や軍事において藤原道長自身が特に手腕を発揮するようなことはあまりなく、満州の女真族が攻めてきた刀伊の入寇の際にも「ただ海賊が対馬で暴れているだけ」と何も手を打たなかった。地方の有力者が「朝廷は頼りにならない」と見限ったのも頷ける。
藤原道長は付き合いでの飲み会があまりにも多く、そこに運動不足も重なって深刻な糖尿病を患い62歳で亡くなっている。
ちなみに彼のお抱え陰陽師として安倍晴明がいる。

藤原頼通
藤原道長の息子で、50年もの間、摂政・関白を務めた人物。
また十円玉に彫られている平等院鳳凰堂を建立したことでも有名。
この時点で藤原家の摂関政治は最盛期を迎えるが、後冷泉天皇に嫁いだ娘の寛子が子どもに恵まれなかったため、藤原摂関家は絶頂から一気に下り坂になってしまう。
しかし寛子自身は明るく優しい皇后で後冷泉天皇と仲がよく、昭和天皇の皇后の97歳に次ぐ、長生きをした(92歳)。案外幸せだったのかもしれない。

荘園の発達
荘園の始まりは奈良時代の墾田永年私財法で、貴族や寺社が農民を使って開墾させた荘園を自墾地系荘園、既に開墾されていた土地を誰かが買収した荘園を既墾地系荘園といい、この二つをまとめて墾田地系荘園と呼んだ。

9世紀末、貴族や寺社、地方豪族が経営する荘園では、律令制度が機能不全に陥り、戸籍や計帳の記載をちょろまかして実際よりも少ない税を納める不正が横行した。
そこで醍醐天皇は延喜の荘園整理令において律令制度を立て直し、不正をなくそうとしたが、国司に荘園の整理を任せたため効果は薄く、税収は落ち込んだ。

10世紀前半、政府は一国の統治をやっぱり国司に任せ、その見返りに一定額の税の納入を国司に請け負わせるようになった。このような徴税請負人になった国司は受領(ずりょう)と呼ばれた。
受領は戸籍記載の不正に対抗するため、課税対象を戸籍(=人)ではなく田地に変更し、田地をという単位に分けて、田堵(たと)と呼ばれた有力農民に一年契約で耕作を請負わせた。
この時代には、祖調庸は官物、雑徭は臨時蔵役と名称が変更されている。
受領の中には、あまりの暴政で有力農民たちから訴えられた藤原元命など私腹を肥やす者もおり、赴任された国にろくに行かず、目代という代理人を派遣させるだけで収入を得る受領も多かったという。これを遙任と言い、まあ、とにかく地方には行きたくなかったらしい。今よりずっと僻地だっただろうし。

一方の現場型の田堵はやがて多くの下人を抱えて大規模経営を行うようになり、土地の所有権を示すために自分の土地に名前を付ける名主(みょうしゅ)に成長、さらに寺院や豪族に頼らず自ら開墾し土地開発を行なう開発領主にメガ進化した。

田堵→名主→開発領主→荘官

10世紀以降、律令制度の衰えを受けて、開発領主は国司ではなく、それよりも地位が上の中央貴族や寺社に直接年貢を納めたり田地を寄進するようになり、国司や周囲の領主から自分の土地を守ってもらう後ろ盾を得ようとした。これを寄進地系荘園といい、この時の開発領主を荘官、寄進を受けた権力者を領家と言った。
そして、その領家がさらに上位の階級の貴族や皇族に寄進をした場合、その権力者は本家という上級領主となった。

寄進系荘園のヒエラルキー
本家>領家>荘官

開発領主は政府や国司から税を免除され(不輸)、特権階級化し、その後不輸の対象や範囲をめぐって国司と開発領主は対立を始めた。開発領主は領家の後ろ盾のもと、国司が派遣する検田使を荘園に立ち入れないようにしたため(不入特権)、中央と地方の対立はさらに激化した。

武士の成長
9世紀末に律令制度が機能不全に陥ると、各地の豪族や有力農民、国衙(国司の役所)の役人、荘官などが、支配下勢力の維持と拡大を目指して武装。兵(つわもの)=武士へと成長した。
彼らは惣領と呼ばれた本家のリーダーを中心に、兄弟や子孫を家の子(分家)として従え、さらにその下に血のつながりのない家人や郎党を集めて武士団を形成した。

武士団のヒエラルキー
棟梁>惣領>家の子>家人・郎党

彼らは家同士で闘争を繰り返し、中央から派遣されてくる国司にも反抗した。
このような武士団を率いたリーダーが棟梁で、地方の大豪族や、任期を終えてもなお地方に残った国司、中央から武士の鎮圧に派遣された武官などがその地位についたが、中でも有名なのが桓武天皇の子孫の平高望(たいらのたかもち)を祖とする桓武平氏と、清和天皇の子孫の源経基(みなもとのつねもと)を祖とする清和源氏だった。
彼らは天皇の血を引くものの、母親の地位が低いことで出世競争に敗れた皇子たちであり、中央でくすぶっているよりは、地方で武士団を率いたほうがマシだと考えたのだった。

刀伊の入寇(といのにゅうこう)
1019年に、九州北部が満州に住んでいた女真族の海賊に攻められた事件。
藤原道長ら中央政府は、対馬で海賊による拉致・虐殺が起きているというのに、何ら手を打たず、とうとう女真族は博多湾にまで迫ってきた。
藤原道長との政争に敗れ、大宰府に左遷されていた大宰権帥(だざいのごんのそち。ぶっちゃけ閑職)藤原隆家は現地の九州の武士を率いてこれを撃退、これにより武士団の形成は九州北部にまで及んでいたことが分かっている。
ちなみに「刀伊」とは女真族のことで、朝鮮ではそのように呼ばれていたらしい。

承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)
さらに10世紀半ば、中学校の歴史の教科書にも取り上げられる大きな武士の反乱があった。
それが承平天慶の乱で、関東地方で起きた平将門の乱と瀬戸内地方で起きた藤原純友の乱のこと。

平将門の乱
東国の平将門が、常陸(茨木)、下野(栃木)、上野(群馬)など東国の大半を占領して新皇を自称した事件。
940年、同じ桓武平氏の平貞盛や、下野押領使(栃木県警)の藤原秀郷らによって、新皇自称後わずか二ヶ月で滅ぼされた。
ちなみに平貞盛は平清盛のおじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃん。
しかし平将門は、中央から派遣されてきた強欲な国司をやっつけてくれたと地元の人に英雄視され、神田明神の祭神となった。
また、はねられた首が空を飛んで落ちたという大手町の首塚は工事で移転しようとすると謎の事故が起こるというサンクチュアリーになっている。ちなみに「かんだ」とは平将門の首を失った「からだ」という意味らしい。

藤原純友の乱
平将門の乱と同時期に瀬戸内海で起きたのが藤原純友の乱で、彼はもともと伊予の国(愛媛県)の国司として派遣された貴族だったのだが、任期満了後も現地にとどまり、939年に地元の海賊たちを従えて、伊予の国府や北九州の大宰府を焼き討ちにしてしまった。
これは941年に源経基と小野好古(おののよしふる)によって鎮圧された。
平将門の乱との共通点は、どちらも力を持った武士の反乱で、さらに朝廷ではなく地元の武士がこれを鎮圧しているという点である。もはや朝廷は武士の力なくして、地方を平定することはできなくなっていたのである。
武士の実力を認めた朝廷は、彼らを侍として受け入れ、宮中や都、貴族のSPとして雇うようになった。天皇の身辺警護に当たった滝口の武士などがこれで、平安京内裏の清涼院の滝口という場所に詰所があったからこう呼ばれた。
また地方では受領(国司)直属の館侍や、国衙の軍事組織の国侍、警察職の押領使や追捕使に任命された。

平忠常の乱(たいらのただつねのらん)
1028~31年。平忠常が房総半島の上総で起こした乱で、これを鎮圧した清和源治の源頼信(みなもとのよりのぶ)は、清和源治の東国進出のきっかけを作った。
ちなみに源頼信は、安和の変で暗躍した源満仲の息子、藤原純友の変で活躍した源経基の孫に当たる。

前九年の役
陸奥(東北地方太平洋側)で国司にたてついた豪族の安倍頼時を、源頼信の息子の源頼義(みなもとのよりよし)が滅ぼした戦い。
9年続いたからこう呼ばれる。
この勝利の影には出羽(東北地方日本海側)の豪族の清原武則の援助があった。これにより清原氏は東北全体を支配できるようになった。

後三年の役
こちらは陸奥と出羽に勢力を伸ばした清原一族の内紛。3年続いた。
源頼義の息子の源義家(みなもとのよしいえ)が、藤原清衡(ふじわらのきよひら)を助けて活躍した。
藤原清衡は奥州藤原氏を起こし、前九年の役と後三年の役で亡くなった人々を弔うために中尊寺金色堂を建立(三万枚の金箔、沖縄の夜光貝、アフリカゾウの象牙を使うなど賢覧豪華)、京都を凌ぐ黄金都市を岩手県平泉に作ることを夢見た。
清原だったのになぜに藤原?って話だけど、馬や砂金を送って藤原家にそれだけ接近できる地位にまで上り詰めたっていうこと。あと藤原清衡って出自がけっこう複雑で、実は清原氏に滅ぼされた安倍家の子で、お母さんが清原氏と再婚したことで、清原氏の養子に入ったという波乱万丈の人生を歩んでいる。

源義家
朝廷から恩賞が出なかった際、自分の財産をなげうって部下の武士たちの労をねぎらったため人望を集め、東国武士の棟梁としての地位を確立した。
源義家の人気は東国にとどまらず中央にも届き、彼に荘園を寄進するものが相次ぎ、最終的には寄進を禁じていた朝廷も源義家を認め、中央からパージした源氏は再び中央でのし上がっていくことになったのである。

国風文化
平安時代中期は遣唐使が廃止されたため、国家としてはどこの国とも国交がなく、大和絵や日本風の書道(和様)など大陸文化を日本独自に熟成させた国風文化が栄えた。
貴族は寝殿造の邸宅に住み、男性は正装の束帯(普段着は衣冠と言う)、女性は女房装束(十二単)を着用していた。
男性の成人式は元服、女性の成人式は裳着(もぎ)と呼ばれ、元服は10~15歳で行われた。
この時代、渤海は10世紀前半に遼に滅ぼされ、朝鮮半島の新羅は高麗に滅ぼされた。中国の唐は907年に滅んでいる。みんな逝っちまった。

国文学
ひらがなやカタカナが開発され、文学表現の幅が広がったことで発達した。
かな物語:『竹取物語』(?)、『伊勢物語』(?)、『源氏物語』(紫式部)
日記:『土佐日記』(紀貫之)、『紫式部日記』(紫式部)、『更級日記』(菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ)
随筆:『枕草子』(清少納言)

『古今和歌集』
905年に紀貫之が編纂。初の勅撰和歌集。
あの「君が代」の歌詞も載っている(詠み人知らず)。
君が代はそもそも長寿を願う歌で、曲がついたのが明治時代(1880年に欧米に倣って日本も国歌を作った)、法的に正式な国歌になったのは、なんと小渕総理の時代で1999年(国旗国歌法)。

本地垂迹説
日本神話の神々を仏の化身と考える思想。明治時代に神道国教政策が取られると廃止された。

御霊会(ごりょうえ)
死者の祟りを防ぐために鎮魂をする儀式。それだけ政治的敗者が出ていたということらしい。

浄土信仰
阿弥陀仏を信仰し、念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという考え方。
10世紀半ばに諸国や京で教えを説いた空也(市聖)や、『往生要集』を執筆した源信(げんしん。みなもとのまこととは違う人!)がいる。
末法思想によれば1052年から仏法が衰え乱世になると考えられたことから、現世は諦めて来世で救われたいという人が増え、浄土教は貴族や庶民に大きく広まった。
法成寺(ほうじょうじ):藤原道長建立。
平等院鳳凰堂:藤原頼道建立。
阿弥陀如来増:平等院鳳凰堂の本尊。寄木造を完成させた定朝(じょうちょう)の作品。
高野山聖衆来迎図:来迎図(らいごうず)とは往生する人々を迎えに仏が来臨する様子を描いた絵。
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