英米文学2覚え書き①

 案の定、連休恒例の体調不良ですが、なんとか勉強してます。前回の英米文学がアメリカ文学で、今回はイギリス文学。学習内容がかなり異文化理解とかぶる(理解が深まる)。
 ちなみに今回のテキストは、その時代を代表する作家によって時代分けがされている。ちょっとMYSTっぽくてかっこいい。

参考文献:荒巻哲雄、岡地嶺著『英文学読本』

Beowulf時代(1066年以前)
古英語の時代。
ブリテン島に住む最古の民族はケルト民族の一部であるブリトン人で、彼らは紀元前からブリテン島に住んでいたが、紀元前55年にローマのシーザーに征服されて以来、ローマ文化やキリスト教の影響を受けた。
5世紀の初め頃、ローマがブリテン島から撤収したことに乗じて、今度はデンマークからドイツ北方に住んでいたアングロサクソン人のゲルマン民族が侵入し、先住民を追い払った。「アングロ人の土地」という意味のイングランドとはこの時(449年頃)名付けられた。
やがてアングロ人は、ノーサンブリア、イーストアングリア、メルシャの三王国を、サクソン人はエセックス、サセックス、ウェセックスの三王国を、そしてジュート人はケントの一王国を樹立し、7王国時代となった(厳密にはもっとあったらしいがキリがいいということで)。
その時の国語は、低地ドイツ語系でこれを古英語という。古英語の時代はノルマン征服がおこった1066年までであるが、西洋史では5世紀のゲルマン民族大移動から14世紀までを中世としているので、学者によっては中世前期とも言われる。
『ベオウルフ』とは、スウェーデンの勇者ベオウルフが巨人や火を吐くドラゴンと戦うゲルマン民族の英雄叙事詩で、7・8世紀に書かれたファンタジーのパイオニア的作品である。
この時代の文学で最も古いのはWidsith『遠く旅せる者』で、5・6世紀には伝誦(口から口へ伝わること)されていた。これは吟遊詩人(グリーマン)が旅行中に見聞した事柄を歌ったものである。
他にも挽歌(エレジー)の『旅人』や『海行く人』、キリスト宗教詩でカドマン作とされる『創世記』(ジェネシス)、『出エジプト記』(エクソダス)、『キリストとサタン』などが挙げられる。さらに『謎』は短詩を集めたもので、人事や自然現象の寓意詩であり、『モールドンの戦い』は歴史上の戦争の詩である。
古英語で書かれたこれらの詩の特徴は、それぞれの行に4つの強勢(ストレス)があり、その中央に区切りがあって、しかも4つの音節のうち、2、3つは必ず頭韻(オルタレーション)を踏み、脚韻(フットライム)は踏まない点である。
散文では、ウェセックスのアルフレッド大王は『アングロサクソン年代記』を編纂した。
文教に理解がある大王は、スペインの僧侶オロシウスの『歴史と地理』、ローマの哲学者ボエティウスの『哲学の慰め』、イングランドの僧侶ベーダの『英国教会史』などを翻訳した。

Chaucer時代(1066~1500)
中世英語の時代。
アングロサクソン王ハロルドはヘイスティングスの戦いでノルマンディーのウィリアム征服王に敗北、これにより英国は大陸と交流が盛んになり、中世特有の封建制度が発達、カトリック教国になった。
フランスやラテンの文化はかつてのアングロサクソンのそれを衰退させたが、言語に関してはアングロサクソン語がフランス語を征服しミドルイングリッシュ、中世英語ができた。
ノルマン王朝は直系の王が絶えたので、フランスからヘンリー二世を迎え、イギリス王がフランスの支配もすることになった。これが百年戦争や薔薇戦争につながることになる。
また、この時代は十字軍の聖地奪還、国王の暴政、聖職者の腐敗なども起きたが、産業は徐々に発達し近代社会へ推移していく。
イギリスの文学が注目されるのは、中世後期からであるが、この時代の文学は古代英語の詩の伝統が残っている西部と、フランス文化の影響が強い東南部に現れた。
西部の詩人には、身分の低い聖職者だったウィリアム・ラングランドがいる。『農夫ピアズの幻』は、二部作で、一部では教会や僧侶の腐敗や上流社会の悪徳を痛烈に批判して労働の神聖を説き、二部では七つの大罪を寓意化して真理の探求を説いた夢物語である。
もうひとりの詩人は、技巧の完全さからアーサー王物語の中でも最も優れたものであるとされる『ガウェイン卿と緑の騎士』を書いたが名前は不明である。
東南部では、教養が高くラテン語、フランス語、英語などで『恋人の告白』(恋に起こりがちの失敗談を教える内容)などの詩を書いたジョン・ガワーと、その友人で後に「英詩の父」と呼ばれるジェフリー・チョーサーがいる。
チョーサーはロンドンの酒商人の子で、市井と宮廷、平和と戦争、実務と外交などあらゆる知識を持っていた。彼の作家人生は三つの時期に分けられ、フランス中世の詩を翻訳したフランス期、外交官としてイタリアに行きボッカチオなどの模倣をしたイタリア期、作家として円熟し、中世・近世を通じて最大の傑作『カンタベリー物語』(カンタベリーは巡礼地で、リチャード二世治下の社会を様々な立場の平民の生活から描いた作品)を作ったイギリス期がある。

Shakespeare時代(1500~1625)
文芸復興期。
イタリアで始まったルネサンスがイギリスに及んだのは16世紀になってからだった。
中世の暗黒時代の原因だった宗教勢力は十字軍の失敗で権威が失墜し、それにルネサンスにおけるギリシャ、ラテンの古典の研究、科学の発達、新世界の発見などが追い撃ちをかけた。
16世紀のイギリスは、百年戦争に続く薔薇戦争によって、封建諸侯の勢力が衰退、新興の中産階級の強い支持により絶対王政が確立した時代で、代表的作家はウィリアム・シェイクスピアとエドマンド・スペンサーである。
大陸の新しい思想をイギリスに伝えた詩人には、トーマス・ワイアット卿と、サリー伯爵ヘンリー・ハワードがいる。彼らはイタリアから14行詩という新しい形式を移入して、叙情詩のジャンルを開拓した。彼らの遺稿はのちにエリザベス朝の叙情詩に大きな影響を与えた。
またサリー伯爵は無韻詩(ブランク・バース)という新詩型も試みて叙事詩や劇詩の詩形の先駆者となった。
詩人の詩人と呼ばれるエドマンド・スペンサーはロンドンの仕立て屋に生まれ、処女詩集『牧人の暦』はギリシャやラテン詩人の伝統的な牧歌の形式で好評を博した。
この業績によりアイルランド総督の秘書に採用され、そこで最大の傑作『フェアリーの女王』を創作を始める。この作品は、ルネサンスと宗教改革に代表される近代的精神を、中世の騎士道物語の中に歌い上げたイギリス最大の寓意詩である。
イギリス・ルネサンス期の散文では、トマス・モアの『ユートピア』が挙げられる。またウィリアム・ティンダルは直接ギリシャ語から新約聖書を英訳し、欽定英訳聖書の基礎を作った。モアは旧教の、ティンダルは新教の殉教者である。
小説はこの時代十分に成長していないが、ジョン・リリーの『ユーフィーズ』が最初の小説とされる。これはユーフィズムという文体を流行らせたが、フィリップ・シドニー卿の牧歌的ロマンス『アルカディア』によって打破された。
この時代生まれた新しい分野には随筆がある。フランシス・ベーコンは健全な常識と簡潔な文体でエッセイを書き、英国随筆の父と呼ばれている。
聖書物語や聖人伝を扱った教会での宗教劇は、すでに中世から行われていたが、ますます盛んになり、善と悪を扱う道徳劇や幕間狂言(まくあいきょうげん。社会や風俗を描く)として発展した。トマス・モアの友人、ジョン・ヘイウッドの書いた多くの滑稽狂言は、英国喜劇の走りとなった。さらにラテン喜劇の影響を受けてニコラス・ウダールが初めて純粋喜劇の『ラルフ・ロイスター・ドイスター』を書いた。
悲劇の発達は喜劇よりもやや遅れ、サックヴィルとノートンの『ゴーボダック王』はラテンの悲劇作家セネカを手本にして書かれた。
シェイクスピア以前の劇作家で優れた作家がクリストファー・マーロウで、彼は心からのルネサンス人で、無限の征服欲を描いた『タンバレイン大王』、無限の知識欲を描いた『フォースタス博士の痛ましい歴史』、無限の財産欲を描いた『マルタ島のユダヤ人』などを執筆した。『マルタ島のユダヤ人』はシェイクスピアの『ヴェニスの商人』に出てくる冷徹な高利貸シャイロックの着想となった。
彼は無韻詩を巧みに使ったが、決闘で29歳の若さで死んでしまった。
彼のような優れた劇作家は、ケンブリッジもしくはオックスフォード出身だったのでユニバーシティ・ウィッツ(大学での才人)と呼ばれている。
英国最大の詩人であり、ホメロス、ウェルギリウス、ダンテとともに世界四大詩人の一人とされるシェイクスピアは、エイヴォン州のストラットフォードという田舎に生まれた。彼は大学出の才人と違って教育はほとんどされてなかった。
ロンドンに単身上京して劇場で働き、他人の作品を修正しているうちに自身も創作するようになった。その後劇場経営も兼業し、大きな財産を作り、引退して故郷に帰った。20年間の作家活動において、詩7篇、劇37篇を発表した。
シェイクスピアの作品は通常、史劇、喜劇、悲劇の三つに分けられるが、悲劇の中に喜劇の要素があったり、史劇には悲劇の要素が大部分を占めている。
シェイクスピアは古典劇(三一致の法則)の条件を無視したため、古典主義時代には顧みられなかったが、ロマン主義の勃興とともに再発見された(古典劇は同じ日、同じ場所、同じ筋という縛りがあった)。
シェイクスピアの創作生活は四期に分けられる。
第一期の修行時代(1590~95)では、『ヘンリー六世』『じゃじゃ馬馴らし』『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』など、主に史劇や喜劇を描き、情熱的で華麗な文体が特徴である。
第二期(1596~1600)では、現実の人生を広く深く観察した時代で、作品は『ヴェニスの商人』『から騒ぎ』と、第一期同様、史劇と喜劇を描いた。
第三期(1601~08)では『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』の四大悲劇を執筆し、文体はすっかり枯れている。
第四期(1609~11)は、暗い悲劇から『テンペスト』などの清澄なロマンスに移った時代である。

モアナと伝説の海

 「面白い度☆☆☆☆ 好き度☆☆☆☆☆」

 何もかも人間のためだったのね。愛されたかったから。

 今更ながら鑑賞。冒頭部は、あ~はいはい、毎度お馴染みの自分自身の夢を追って上京する、トライエブリシング系ね、って鼻ほじってたんだけど、中盤からなんともはや。
 そもそもプリンセスものなんかじゃなくメチャメチャアドベンチャー超大作だった。『ウォーターワールド』、『怪盗グルーのミニオン危機一発』、『マッドマックス怒りのデスロード』を足したようなアクションシーンは、けっこう血湧き肉躍る。
 あと、こういう映画って、宇宙が舞台のやつもそうだけど、本来は広大な海や宇宙が狭く見えるっていうのがあるんだけど、この映画はちゃんと海の広さを感じられるのが上手い。※『スター・トレック ビヨンド』は狭かった(^_^;)

 しかしよ、ここまで来ると、ディズニーもウーマンリブとかのレベルじゃなくて、セーラームーンとかプリキュアだよな。戦闘少女系の作品だよね。
 だから、一般受けがアナ雪などに比べて今ひとつだったのかね。アナ雪でもかなり危うかったロマンス要素、とうとうゼロだもんな。こういうの観たくて劇場来ているんじゃねえよっていうw
 普通に、選ばれし者の英雄譚やってんだよね。南洋の神様マウイの描き方はいろいろ物議をかもしたらしいけど、ああいう動機っていうのはプリミティブに心を打つよ。こんな子いたいた、みたいな。
 純粋に愛や正義だ!って普遍的モットーで戦う正義の味方にはもうリアリティを感じられない世の中になっちゃったんじゃないか。純粋にやりすぎて飽きちゃったというだけかもしれないけど。冷戦も終わったしなあ。

 というか、日本では受けが悪そうというか、下品って思われちゃいそうだけれど、名声を得たいっていう動機で社会に貢献するのって別に悪かないと思うんだけどね。
 あれなのかな。そういう動機で慈善事業はじめるやつって、たいてい、いざやってみると意外と大変で、ほいですぐにめんどくさくなって、結局、事態をこんがらせるだけこんがらせて、放り出しがちって思われてんのかな。おのれ民主党みたいな。
 実際、この映画の神様もそんなヘタレ的なところあったしな。でも神様ですらああなら、オレらは別に聖人じゃないんだから、もっと気軽にエゴで親切やってもいいと思うけどね。
 というか、私はヘタレの哀愁に弱いんだよな。こういう“勘違い系ヘタレ”は基本的にポジティブだから、哀愁の振れ幅が大きくていけねえや(´;ω;`)
 だから個人的には、この作品すごい面白かったんだけど、これがディズニープリンセスの基本路線にはならなそうだし、すべきじゃないと思う(※オタクくさくなるから)。4年に1度くらいの変化球って感じでいいんじゃないか。
 それともディズニーもマーベルとか買収して、男の子路線に大々的にニーズを変えようとしてんのかな。『ズートピア』も妙にアメコミっぽかったもんな。『アストロ・シティ』みたいな。

 しかし南洋の部族の人らの神話をメチャメチャ取材したんだろうな~って感動。昔の人の想像力はすごいよね。
 そういや、この前、理科の地学分野(造山運動)の授業で、みんな大陸や島って海の上に浮いていると思ってて、軽く衝撃を受けてさ、だから大陸移動説は学校の知識で知っているけど、そのメカニズムがひょうたん島だったという(^_^;)
 それなら、ヨーヨー釣りの要領で、釣り針で神様が島をヒョイっと釣り上げてもつじつまが合うよな。
 海の向こうの世界や宇宙の果てといった未知なものに対する理解を、自由な想像力を駆使して漸進させていくっていうのは、神話に限らず科学の本質かもしれないよね。人類の知識を積み上げていったのは知識じゃないんだよ。

 海を渡る達人ならもういるじゃないか。

異文化理解覚え書き⑤

 19世紀が思いのほか長いので、まさかの第5弾。案の定というか、世界史の単位と内容がかぶる。この時期はグローバル化が進んでいるから、例えば日本史やってても世界史的になるんだよね。
 つ~か、18~19世紀のイギリスってほんとつええな。連戦連勝じゃん。世界に先駆けて工業化したとか色々あるんだろうけど、やっぱり運もあったんだろうね。
 ちなみにイギリス王朝がいろいろ出てきて、こんがらがっちゃいそうなので、登場順にここに覚え書き。

①ウェセックス朝(ゲルマン系。アングロサクソン人。アルフレッド大王など)
②デーン朝(デンマーク人。クヌートなど)
③ノルマン朝(ノルマン人。ウィリアム一世など。以降、現英国王室に続く)
④ブロア朝(フランス系。スティーブン一代限り)
⑤プランタジネット朝(中世。薔薇戦争のランカスター家とヨーク家含む)
⑥テューダー朝(エリザベス女王が有名)
⑦スチュアート朝(スコットランド系。アン女王など)
⑧ハノーヴァー朝(ヴィクトリア女王が有名。ちなみにウィンザーのドイツ読み)
⑨サックス=コバーグ=ゴータ朝(長い。ドイツ系。ヴィクトリア女王の夫アルバート公など)
⑩ウィンザー朝(現女王エリザベス二世など)

参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized

19th century foreign affairs(19世紀の外交)
18世紀後半からイギリスはその支配の領域を、インド、中国、中東、アフリカに拡大し、徐々に海外に帝国を築いていった。
その領土と貿易利益を保護、拡大するということは、イギリスがそのための戦争に巻き込まれることを意味した。
世紀の前半、外交政策は外交官によって指揮された。有名な人物として、キャニング、キャストレ、パーマストンなどがいた。
しかし1860年頃から首相が外交政策により関心を示した。自由党とトーリー党の両当事者は、帝国を守ることを目指していた。自由党党首グラッドストンは帝国主義を嫌い、保守党のディズレーリ首相の政策を批判したが、首相に就任すると彼自身も同様の政策を追求していた。

War with France(フランスとの戦争)
1789年から92年、フランス革命によって、フランスは君主制を打倒し、共和制となった。
他のヨーロッパ諸国は革命的思想の波及を恐れて、1793年にはイギリスはオーストリア、プロシア帝国とともにフランスと戦った。
1796年と1797年にはナポレオン・ボナパルト率いるフランスがオーストリアからベルギーとイタリアの一部を押収した。
ナポレオンはフランスの影響力を世界に広げることを目指していた。
彼はまずヨーロッパの残りの部分を征服し、次にインド、中東、カリブ海を征服する予定だった。
ホレーショ・ネルソン司令官率いるイギリス海軍は1799年にエジプトのナイル川におけるアブキール湾の戦いでナポレオンの東方への野望を阻止した。
1803年、ナポレオンはスイスとイタリアから離脱し、さらに1804年にフランスの皇帝になった。
彼は海軍を撃破してイギリスに侵攻する予定だったが、1805年、ネルソンはスペイン南岸のトラファルガーの海戦でフランス艦隊を倒した。
この挫折にも関わらず、ナポレオンはオーストリアとロシアに勝利し、ドイツを支配した。
1808年、ナポレオンはスペインとポルトガルを侵略し、イギリスとヨーロッパの貿易相手国を隔てようと企んだ。
しかしイギリスの支援を受けて、スペインとポルトガルは徐々にフランスを追い払った。
1812年、ナポレオンはロシアを征服することができず、1813年にはオーストリア、プロシア、ロシアがドイツで大規模な戦いで勝利した(ライプチヒの戦い)。
1814年にイギリスが侵攻し、ナポレオンは退去しエルバ島に追放された。
彼は1815年に新しい軍隊を育成したが、ウェリントン率いるイギリス、プロシア、ベルギーによってワーテルローの戦いで倒された。
こうして1815年にウィーン会議で平和が成し遂げられた。

India(インド)
1784年以降、インドはイギリス支配を拡張した多数の総督によって支配された。
多くのインド人は、社会的、宗教的慣習におけるイギリスの干渉に憤慨し、1857年にはイギリスの役人にインド人兵士が反抗した(セポイの反乱)。この反乱はインド北部と中部に広がり、最終的に1858年に鎮圧された。
同年、東インド会社は廃止され、その土地はイギリス政府に引き継がれた。
1876年、ヴィクトリア女王はインドの女帝になった。インドは彼女の代表であるヴィセロイ(王の代理の総督のこと)によって支配された。

The Eastern Question(東方問題)
オスマン帝国はトルコのムスリムによって13世紀に設立され、ヨーロッパ、アフリカ、中東の大部分をカバーするように拡張された。
しかし1680年代から、それは支配するには大きすぎると判明した。
帝国が弱まり始め、民衆が自由のために立ち上がったとき、政治的な問題が生じた。
多くのヨーロッパ諸国は、旧オスマン帝国の領土を獲得することによって、ライバル国家が権力を強化する可能性を懸念した。イギリスはトルコへのロシアの拡大を防ぐためクリミアでの戦争に巻き込まれた。
1878年、ロシアはアフガニスタンを侵略すると脅した。ロシアがそのまま隣のインドに侵攻する可能性を考え、イギリスはアフガニスタンに軍を送り、その支配下とした。

The Crimean War(クリミア戦争)
1853年、ロシアはオスマン帝国のすべてのクリスチャンを保護する権利を主張した。トルコはそれを拒否し、その後ロシアはトルコの土地を侵略した。
イギリスとフランスはロシアの影響力の拡大を恐れ、1854年9月クリミアのセバストーポリでロシアの海軍基地を包囲した。
11月には、イギリスは、アルマ、バラクラヴァ、インカーマンの三大戦争でロシアに勝利した。
とはいえ、イギリスの軍事組織は貧弱だった。
バラクラヴァでは、剣で武装したライトホース・ブリゲード(軽騎兵旅団)が命令系統のミスでロシアの砲兵の陣地に無謀にも突撃し、673人中247人が戦死した。
陸軍はクリミアで薬、食糧、布の不足など多くの苦難にあった。
タイムズ紙の報道官W・H・ラッセルのレポートは世論を呼び起こした。
ナイチンゲール率いる看護師のチームによって衛生状況が改善された。当時従軍看護師という地位は存在しなかったが、この活動が刺激となって国際赤十字がのちに設立された。
1855年、イギリスはセバストーポリを獲得し、戦争は1856年に終わった。

The Opium Wars(アヘン戦争
18世紀には、中国は他の国との貿易を制限し、銀との輸出(主として茶、磁器、シルク)のみを行った。
しかし19世紀初頭、イギリスの商人たちは中国のトレーダーに、インドのアヘンを支払い手段として受け入れるように説得した。
イギリス政府がインドでのアヘンの貿易を禁止したため、イギリス商人はそのアヘンを他国で売却したかったのである。
中国政府は、銀での支払いの喪失に憤慨し、中毒性薬物の輸入に懸念を示した。
1839年、彼らは広東省広州市ですべてのアヘンを押収した。
するとイギリスは砲撃を行い、戦争が始まった。
1842年にイギリスが香港島を併合するという平和条約が策定されたが、緊張は続き、1857年に再び戦争が始まった。
イギリスが広東を攻撃したあと、中国は降伏し、欧州貿易の全ての港を開放することを余儀なくされた。

Egypt(エジプト)
紅海(レッド・シー)と地中海を結ぶスエズ運河は1869年にフランスとエジプトによって建設された。
1875年にイギリスはエジプトの株式を購入した。この運河はイギリスの貿易にとって大きな助けとなった。
イギリスからインドへの移動は4000マイル(1マイルは1.6キロ)も削減されたからである。
イギリスは、エジプトとその隣国スーダン(1821年以来エジプトの支配下にあった)の政治問題を懸念した。

The Sudan(スーダン)
1881年、イギリスは暴動を抑止するためにエジプトに軍隊を送った。
1883年に宗教指導者マハディが率いるエジプトの統制に対するスーダンの反乱があった。
チャールズ・ゴードン将軍率いるイギリス軍はエジプト人を避難させるために送られた。彼は首都ハルツームに部隊を展開し、反乱軍と戦った。
反政府勢力はハルツームを包囲し、ゴードン将軍を含む多くのイギリス軍が戦死した。
グラッドストンは追加の軍隊を送ったが、それはあまりにも遅かった。その結果グラッドストン首相は支持を失い、辞任しなければならなかった。
1896年、彼の後継者ソールズベリー卿は、スーダンを取り戻すために軍隊を送った。
1898年、キッチナー卿が率いるイギリス軍は、オムドゥルマンの戦いでマハディの後継者であるカリファを破り、アングロエジプト人のスーダン支配を確立した。

War and expansion in southern Africa(南アフリカの戦争と拡張)
1652年、オランダは南アフリカ最初のヨーロッパ植民地であるケープコロニーを設立した。
他のヨーロッパ人は18世紀にそこに定着し始め、緊張が高まった。
1815年にイギリスはケープコロニーを支配した。
ボーア人として知られるオランダの入植者は、これを嫌がり、1836年には多くの人々がオレンジ自由国とトランスバール共和国という2つの新しい植民地を設立した。
トランスバールのボーア人は先住民族のズールー族を脅かした。
1877年、ボーア人はトランスバールをイギリスが併合することを許した。
1879年にイギリスとズールー族のあいだでズールー戦争が始まり、ズールー族が敗北した。
ボーア人はイギリスから自分の土地を取り戻そうとし、1881年に最初のボーア戦争が起こった。これはマジュバ・ヒルの戦いでイギリスの敗北で終わった。
1884年、イギリスはトランスバールの独立を認めた。
二回目のボーア戦争(1899~1901年)のあと、トランスバール共和国とオレンジ自由国は大英帝国の一部となった。

The Scramble for Africa(アフリカの争奪)
19世紀初め、アフリカの大部分はヨーロッパには知られていなかった。
しかし1870年代には、金やダイアモンドを含む、アフリカの豊富な天然資源に対する認識が高まった。その結果、いくつかの国は植民地を確立しようとした。
1914年までアフリカの大半は、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ、ポルトガルに植民地化された。そのプロセスは非常に早く、アフリカ争奪戦として知られるようになった。

異文化理解覚え書き④

 イギリスの歴史、おそらくラストの今回は、産業革命以降の19世紀。つーか、このゴールデンウィーク中に英語のレポートは全て片付けたいものである。
 そうなれば、夏休みにコンピュータ演習のスクーリング&教員免許更新講習&英語のテスト勉強・・・とわりかし有効にスケジュールが組めるしね。
 ちなみに免許更新講習の授業は、メダカの遺伝と、基礎物理学と、日中関係史にしました。これらの知識が現場でどう活きるかさっぱりわからないけど、教養っていうのは役に立つとか立たないとか、そういうもんじゃねえんだ。

 自分が楽しければいいんだ。

参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized

19th century home affairs(19世紀の内政)
19世紀という時代はイギリスにとって経済と政治において大変革があった時代であった。国内は産業革命によって工業化され、海外貿易は増加していた。
世紀半ばまでには、イギリスはワークショップ・オブ・ザ・ワールド(世界の工場)として知られ、海外では巨大な帝国を築いた。
国内では労働者階級がより良い生活水準と権利を求めて議会選挙に投票したり立候補したりした。アイルランドでは特に問題が増加していた。

Political groups(政治団体)
19世紀の初めには3つの政治団体があった。ホイッグ党、トーリー党(現在の保守党)、そして急進党である。
1858年まで、すべての議員は財産所有者でなければならなかった(1911年以前は議員は無給だった)。その結果、議会は上流階級(アッパークラス)が支配した。労働者階級は投票できず、限られた政治力しか持たなかった。
ほとんどのトーリー党員、支持者は議会制を現状維持することを望んでおり、ホイッグ党員、支持者も穏やかな変化しか支持していなかった。
しかし世紀の後半に、2つの新しい政党が登場した。それがホイッグ党と急進党が合流してできた自由党と、労働組合によって結成された独立労働党である。

Social unrest(社会不安)
19世紀初期ヨーロッパとアメリカの貿易が決裂し戦争が起きた。
布貿易における機械導入の増加は労働者の失業をもたらし、賃金は低く抑えられた。その結果、暴動と市民のデモが起こった。
暴徒の要求はネッド・ラッドという男によって率いられ、ラッダイトとして知られる運動が始まった。彼らは機械を破壊したため、トーリー党政府は政治的集会や宣伝に反対する法律を通過させた。

The Corn Laws(穀物条例)
1815年の穀物条例によって治安が悪化した。イギリスの農民を助けるためにイギリスの穀物が特定の価格に達するまで、政府は穀物の輸入を禁止したのである。
したがってトウモロコシやパンといった、ほとんどの人々の主食の価格は高いままだった。
穀物条例アンチの集団は急進党下院議員のリチャード・コブデンによって率いられ、穀物条例の廃止に向けて運動をした。
これを受けてロバート・ピール率いるトーリー党は1846年に穀物条例を廃止した。

The Liberal Party(自由党)
穀物法の廃止は、トーリー党(1834年以降は保守党と呼ばれることも多い)に分裂をもたらした。その大多数はベンジャミン・ディズレーリとダービー卿に続いた。
ピール派として知られる残りの議員は、ホイッグ党や急進党と合流し1859年に自由党を結成した。
自由党は1868年から1894年までウィリアム・グラッドストンによって率いられた。

Low and order reforms(法と秩序の改革)
19世紀の早い段階で失業率が増加し、120以上の犯罪が死刑により処罰されたが、これは抑止力として機能しなかった。
組織警察は無力で、犯罪者は滅多に逮捕できなかった。
1823年にロバート・ピール内務大臣は100以上の犯罪について死刑を廃止した。彼は刑務所の混雑した不健康な状態を改善する改革を導入し、1829年にはメトロポリタン警察を設立した。

The first reform bill(初の改正法案)
選挙制度改革の需要が増加したことを受けて、改革法案が1832年にホイッグ党によって可決された。しかしそれは財産による制限選挙だったため、中産階級に対してのみ投票権は拡張されるに過ぎなかった。
その結果、さらなる選挙制度改革のために、より多くの圧力団体がキャンペーンをおこなった。
チャーター派と呼ばれる団体(議会にチャーターと呼ばれる嘆願書を出したことにちなむ)は、すべての人が議会選挙に投票し、立候補する権利を求めて運動をおこなった。

Trade unions(労働組合)
最初の労働組合は地方で組織され、雇用主との間で生活や労働条件を交渉するためのものだった。組合は暴力を奨励したため、議会は1799年~1800年にそれらを違法とした。
しかし労働組合は、急進党議員によるキャンペーンの後、1824年に合法化となった。
最初の全国組合である全国労働組合大連合(GNCTU)は、1833年に急進党議員と向上所有者のロバート・オーウェンによって設立された。
オーウェンは強力な全国労働組合が、より多くの社会改正法と工場改革法を通過するように政府に圧力をかけることができると期待した。
労働組合はしばしば野党や雇用主と会談し、雇用主はしばしば従業員の解雇をほのめかし圧力をかけた。
1834年にドーセットのトルパドルから6人の男性が地元支部をつくろうとしてオーストラリアに追放された。彼らは殉教者として知られるようになった。
GNCTUは崩壊したが、労働者たちはチャーティスト運動のような他の政治運動に移っていった。

Unions and the TUC(組合と労働組合会議)
※TUC=トレード・ユニオン・コングレス。
1850年代、個人手工業熟練労働者の小さな組合が設立された。これらはモデル・ユニオンと呼ばれていた。
各地域の連合役員が問題を話し合うために会合を開き、1868年に労働組合会議を結成した。TUCは主要政治家に影響を与える手段として活動した。
1869年、政府の報告によると、強力な労働組合は労働者の暴力を減らすように考えられた。そのため、政府は反労働組合法を緩和した。
非熟練労働者の組合は1880年代に結成された。

Electoral reform and the Labour Party(選挙制度改革と労働党)
1867年、町の全ての男性の家主が議会に投票し立候補する資格を得た。これにより100万人以上の有権者が選出された。
1884年にこれは全ての家主の男性に拡大され、1918年には21歳以上の全ての男性に拡大された。
1874年、トーマス・バートとアレクサンダー・マクドナルドは最初の労働者階級の議員となった。
1893年、独立労働党は下院議員で鉱夫のリーダーであるケア・ハーディによって設立された。
1900年に労働代表委員会が設立、それは1906年に労働党に改名された。

Factory reform(工場改革)
19世紀初頭から、改革派は工場や鉱山での貧しい賃金、長時間と不健全な状態を改善し、幼い児童の雇用を禁止するように働きかけた。世紀の終わりには、11歳という年齢制限が設定された。
労働条件を規制するための規則が定められ、工場は査察の対象となった。

Education(教育)
1833年以前、教育は国家ではなく、豊かな個人や教会が資金を調達していたが、しばしば手数料も課されていた。その結果、貧しい子どもたちはほとんど学校には通っていなかった。
しかし1833年から政府は一部の学校に助成金を与えた。
1870年には公的資金によって、貧しい子どもたちのための最初の寄宿学校(ボード・スクール)が設立された。
1881年には11歳までの教育が義務化され、1891年には自由化された。
1902年には、グラマー・スクールと呼ばれる中等学校が資金が付与されることで導入された。

Public health(公衆衛生
ヘルスケアも徐々に改善された。1700年から1825年のあいだに、150以上の病院が設立された。これは主にリッチな後援者(ベネファクター)によって資金提供がされた。
最初の病院は非衛生的で、患者はしばしば手術後に感染やショックで亡くなった。しかし1846年にジョセフ・リスターは消毒剤の使用を開拓し、1847年にジェームズ・シンプソンは初めてクロロホルムを麻酔剤として使用した。
1853年、フローレンス・ナイチンゲールはロンドンにある聖トーマス看護病院のナースのためにヴィクトリア朝の訓練学校を開設した。
最初の公衆衛生法は1848年に可決された。
次の主要な法律は1872年と1875年にできた。それは地方自治体に健康管理者を任命させ、上下水道や衛生条件の改善を強制するものだった。

Cathorics and Ireland(カトリックとアイルランド)
1828年、アイルランドのカトリック教徒であるダニエル・オコンネルがアイルランドのクレア州の選挙で立候補し、勝利した。
しかしカトリック教徒には投票や公職が許可されなかったので、オコンネルは議席を議会に拒否された。これはアイルランドの暴動につながった。
アイルランドの内戦を恐れて1829年に議会はカトリック教徒に投票権を与えた。これはカトリック解放法として知られている。
アイルランドの大部分の土地所有者は英国人だった。先住アイリッシュは一般的に非常に貧しく、農法は成長する人口をまかなうには不十分だった。1846年から1848年の間に、主食のジャガイモが飢饉に陥り、100万人以上が死亡した。
多くの人が英国人を非難し、フェニアン(アイルランドの独立と共和国樹立を求める友愛団体)のようなグループがアイルランドの自治のために結成された。
1869年から1874年の間に、自由主義者はアイリッシュの状況を改善するためにいくつかの法案を通過させた。
彼らはテナント経営農家の法的権利を増やそうとし、イギリス国教会をアイルランド公式の教会とした法律を廃止した。
1879年、土地改革のためにアイルランド土地同盟が結成された。アイルランドの自治体の運動はチャールズ・パーネルによって率いられた。
だが、1886年と1893年に自由党はアイルランド自治法の法案を通すことができなかった。

異文化理解覚え書き③

 今回は主に18世紀。つーか、英語の本でスペイン継承戦争を読むと、チャールズもカルロスもカールもみんな表記がCharlesなので、どの勢力のCharlesなのかがごっちゃになって、要読解力(´;ω;`)
 本国の人は同じスペルでどうやって区別しているのだろうか・・・「チャールズのいとこのチャールズが」とかいきなり出てきて、分裂した!!??って初見では狼狽したものよ。
異文化理解テキスト.jpg

参考文献:Antonia Cunningham, Essential British History : key dates, facts & people summarized

18th century wars(18世紀の戦争)
18世紀になると、英国は欧州と植民地の戦争に関与し、そのパワーバランスと貿易利益を維持しようとした。英国の主なライバルはフランスとスペインだった。

The War of the Spanish Succession 1702-13(スペイン継承戦争)
スペイン継承戦争は、スペイン王のカルロス二世の後継者を誰にするのかの戦いである。
スペイン・ハプスブルグ家のカルロス二世は、生まれながら病弱で、フランスとスペインの統合はしないという約束の元、フランスのルイ14世の孫であるフィリップを継承者に指名して1701年に子どもを残さず亡くなった。
オーストリアと英国は、フランス(ブルボン王朝)の王位継承権も持つフィリップがフランスとスペインを結びつける強力なルールを作ることを恐れ、オーストリアのヨーゼフ一世の兄弟であるカール大公を支援した。
こうして1702年に、イタリア、オランダ、ドイツ、スペインで戦闘が始まった。
マールバラの初代公爵のジョン・チャーチル(※ウィストンの祖先)率いる英国は、ブレンハイムの戦い(1704年)、ラミリーの戦い(1706年)、アウデナールデの戦い(1708年)、マルプラケの戦い(1709年)で勝利した。
1711年にヨーゼフ一世が子どもを残さずに予期せぬ死を遂げ、彼の兄弟のカール大公がそのあとを継ぐと、英国はカールの支持を撤回し、スペインとオーストリアが結びつくのを妨げた。
翌年、英国はフィリップがフランスに対して全ての権利を放棄したという条件付きでフィリップを支持した。
こうして1713年各国はユトレヒト条約を結び、継承戦争は終わった。フィリップはスペイン王フェリペ五世として即位し、スペインの植民地を奪還した。
この戦争最大の受益者と言えるイングランドは、地中海のミノルカ島、スペイン南部のジブラルタル、アメリカの領土(北米大陸北部のハドソン湾~ノバスコシア半島エリア)と奴隷貿易のシェアを獲得した。
オーストリアはスペイン領ネーデルランドを割譲された。

The War of the Austrian Succession 1740-48(オーストリア継承戦争)
オーストリア皇帝カール六世が息子を残さずに亡くなると、王位は娘のマリア・テレジアに引き継がれることになったが、かつて彼女の支持者だったバイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(カール七世。奥さんがマリアテレジアのいとこ)が王位を要求、女性がオーストリアを支配するべきではないと主張した。彼のバックには、プロシア帝国のフレドリックとフランスのルイ十五世がついていた。
こうしてオーストリア継承戦争が1740年に勃発し、オーストリア領で最も豊かな地方であるシュレジエン(現在のチェコとポーランドあたり)にプロイセンが侵攻して戦闘が起きた(そのためシュレジエン戦争とも呼ばれる)。
それと同時にオーストリアはスペインの管理下である北イタリアとも戦った。
英国におけるフランスとスペインの関係は16世紀以来植民地や貿易におけるライバル関係だった。1739年には海上覇権を争って英国とスペインの戦争が起こった(ジェンキンスの耳戦争)。
1741年、フランスに抵抗するイギリスは権力のバランスを維持するためにオーストリア連合戦争に参戦し、オーストリアと同盟を結んだ。
翌年にはイギリス軍を含む軍勢がマリア・テレジアのもとに組織され、フランスとスペインとの戦いに成功した。
戦場で戦った最後のイギリス君主であるジョージ二世の陸軍はバイエルンのゲッティンゲンで大きな勝利をおさめた。
戦争は1748年のエクス・ラ・シャペル(アーヘン)条約で終わった。シュレジエンを除くすべての領土は元の所有者に戻り、英国はヨーロッパでのフランスの拡大を防ぐことができた。

The Seven Year's War 1756-63(七年戦争)
七年戦争は実際にはひとつの戦争ではなく、二つの戦争であり、ひとつはインドと北アメリカの支配をめぐるフランスと英国の戦争、もうひとつはプロイセンとオーストリアのヨーロッパ大陸における戦争であった。
プロイセンのフリードリヒ二世がオーストリア領に侵攻し、それをオーストリアの援軍に来たフランスが徹底抗戦、プロイセンはその後ボヘミアに侵攻したが、1757年に退去した。
当初は英国とプロイセンが多くの敗北を喫したが、彼らは1759年から勝利を続けることになる。
英国はドイツのミンデンや、フランス支配下のカナダでフランスを倒した(フレンチ=インディアン戦争におけるケベックの戦い)。
彼らはまた西アフリカのキブロン湾でフランス人を打ち負かし、西インド諸島を支配した(カルナティック戦争)。
スペインは1762年にフランスを支援するために参戦したが、その年後半にはイギリスとプロイセンが戦争に勝利した。
1763年のパリ条約によって英国はフランス領のカナダ、ミシシッピ川流域、ほとんどの西インド諸島を獲得した。
こうしてイギリスはヨーロッパにおいて支配的な国家となったが、フランスはなおも独自の貿易の拠点を保持していた。
1763年、プロイセン、オーストリア、ザクセンはフベルトゥスブルク条約に署名し、すべてのヨーロッパの領土は戦前の所有者に戻った。オーストリアの悲願、プロシアからのシュレジエン奪還は叶わなかった。

The American War of Independence 1775-88(アメリカ独立戦争)
17世紀の間にイングランドは北米の東海岸に13の植民地を設立したが、植民者(コロニスト)は英国本国の支配に憤慨し、アメリカの独立戦争につながった。
コロニストは軍事的保護のために英国とだけ取引をしたが、7年戦争の後、英国政府は北米の軍隊への支払いに充てるために英国領土に税金を課そうとした。
コロニストは英国議会に自分たちの代表を送っていないことから、英国政府は自分たちに課税する権利はないと主張(代表無くして課税無し)、英国との貿易をボイコットした。
こうして本国軍とコロニストの関係は悪化し、ボストン虐殺事件(反英運動を弾圧する英国軍によって5人のボストン市民が殺された)や、ボストン茶会事件(茶の販売を独占する東インド会社の船がボストン市民に襲撃され、ジョージ三世のお茶会※皮肉――が開かれた)が発生した。
そして、とうとうレキシントンとコンコードで武力衝突が起き、1775年に戦争が始まった。
コロニストたちはジョージ・ワシントン将軍に率いられ、最終的に1781年に英国を打ち負かした。その後1783年、英国はアメリカの独立を認めた。

The later 18th century(18世紀後半)
ジョージ三世(1760~1820年)は政策立案において、より積極的な方針を作り出そうとした。これによりジョージ三世は、閣僚やホイッグ党とのあいだで多くの衝突を引き起こすことになる。
フランスとの貿易再開を望む彼は7年戦争を終わせようとしたが、戦争の実質指導者ウィリアム・ピット(※パパの方)と彼の支持者はこれに反対した。
しかし、1763年、“キングス・フレンズ”として知られる寵臣グループは、下院にワイロを送って戦争離脱の同意にこぎつけた。だが、講和条約を結んだ首相のビュート伯爵は支持を失い辞任した。
次の20年間はアメリカ植民地における問題で埋まった。暫定首相はアメリカの植民地政策を放棄した。

Pitt the Younger and free trade(小ピットと自由貿易)
1783年、ウィリアム・ピット(子)は24歳でイギリスの首相に選ばれた。彼は議会の組織形態を改善し、貿易収入を増やしイギリスを豊かにすることを目指した。
ピットは経済学者アダム=スミスが提案したアイディアである輸入関税の廃止&自由貿易導入を最終的に望んでいた。
アダム=スミスはこれによりモノの価格が下がり、貿易はより促進され、多くの富が創出されると主張した。
ピットはこのような自由貿易は、高度に工業化された国が貿易相手国よりも多く輸出する可能性があるため、イギリスに有利であると考えていた(貿易黒字になると思った)。
こうして1786年にフランスとの貿易条約に調印し、輸入関税を引き下げた。
彼はまた歳入制度を再編し、政府関係者の汚職の機会を減らした。
さらに、窓や、馬車、時計、ヘアパウダー、使用人といった贅沢品に課税をするとともに、国家の利息を減らし、フランス革命後は、フランスとの戦争遂行のためにイギリス史上初の所得税を課した。

Parliamentary reform(議会改革)
ピットが首相に就任したとき、1ダースの閑職(無責任な雇用)が廃止された。
彼はこの改革を続け、1785年には36の腐敗した選挙区を廃止する法案を提出し、選出される下院議員(MP)を公平に配分しようとした。
しかし、下院(庶民院)はこれを否決した。

John Wilkes and Liberty(ジョン・ウィルクスと自由)
1763年の平和条約は、急進的な下院議員でありジャーナリストのジョン・ウィルクスが創刊した週刊政治評論誌『ノース・ブリトン』によって批判された。
政府は彼を逮捕したが、法廷での彼は自由だった。議会は彼を法律の外に置くと、彼はフランスに逃亡した。
1768年に戻ってきた彼は「ウィルクスと自由!」のスローガンでミドルセックスの選挙に勝利した。しかし議会はウィルクスに議席を与えることを拒否し、これが暴動につながった。
1774年ロンドン市長になったウィルクスはとうとうミドルセックスの下院の議席も獲得することができた。
彼の発言は、言論の自由、報道の自由、そして自分の代議士を選ぶ権利についての問題提起をしたため、重要だった。

Pitt and the French Revolution(ピットとフランス革命)
イギリスは、1789年のフランス革命後、その影響(トラディショナルな君主がギロチンで処刑など)が本国にも及ぶことを恐れた。
1792年、フランス政府は世界的な市民革命を呼びかけた。小ピットはこれを阻止するために、思想の規制に乗り出した。
人身保護法の一時中断、英国に入国する外国人を監視する外国人法(1794年)、国王や議会に対して暴動を扇動する可能性のある50人以上の集会を禁止する扇動禁止法(1795年)などが施行された。
1799年から1800年にかけては労働組合も違法となった。

The British in India(英国領インド)
イギリスは16世紀にインドで取引を始めた。それは18世紀に増加した。
インドにおけるムガル帝国の衰退は、英国がそこから独立した地方の支配者と直接軍事的交渉や条約を結ぶことを容易くした。
イギリスはインドにおいて東インド会社に代表された。1763年にロバート・クライヴが率いる軍隊はフランスのライバル会社に壊滅的なダメージを与えた。
1757年のプラッシーの戦いでベンガルの支配者を敗北させたあと、会社は効率的にインド西海岸を支配した。その影響は大きく、1773年に政府は知事にウォーレン・ヘイスティングを選出し、その作業を統制させた。
1784年のインド法は、インドにおける取引の業務と統治の業務を分けるものだった。

Canada and Australia(カナダとオーストラリア)
1763年、カナダがイギリスのものとなった。これは既存のフランス入植者との摩擦につながった。その対策としてピットはカナダ法(1791年)を制定、カナダを二つの州(経済的自由を望むイギリス人のアッパーカナダと、封建的慣習を望む先住フランス人のロウワーカナダ)に分割することによって摩擦の沈静化を図った。
両州は知事と立法評議会によって統治されたが、フランス人もイギリス人もこれに憤慨をした。
オーストラリアとニュージーランドは17世紀にオランダが初めて発見した。しかし1768年から1779年までジェームズ・クックが海岸を探検し、イギリスが併合した。
オーストラリアは当初は囚人の植民地として始まった。最初の囚人は1788年に上陸した。しかしその後、自由入植者が続いて上陸し、1830年には囚人の数を上回った。

Ireland(アイルランド)
1790年、ウルフ・トーンと呼ばれるアイルランドのプロテスタントがアイルランドの独立と、カトリック教徒とプロテスタントの平等な権利を求めて運動し、統一アイルランド人連盟を設立した。
これによりいくつかの反カトリック法は1793年に廃止された。
1796年、アイルランドはフランス政府に英国に対する軍事的支援を求めた。フランスは1796年にアイルランドに艦隊を送ったが悪天候のため接岸が中止された。
1798年、ふたつのフランス軍がアイルランドに上陸したが、彼らは敗北し降伏した。ウルフ・トーンは捕らえられ、死刑判決を受けた。
その後、ヴィネガーヒル(アイルランド南東部の丘)において二度目の反乱が勃発したが、これも政府軍が鎮圧した。このときの両者の虐殺は凄まじいものだったらしい。
アイリッシュの独立を認めれば、英国攻撃の拠点として利用されると懸念したピットは、仲間と賄賂を提供することによってアイルランド議会を抱き込もうとした。
連合法(1801年)によってアイルランドは英国の一部となった。100人のアイルランド議員が下院に選出され、32人のアイルランド人の同胞が領主になった。
英国国教会はアイルランドの公式の教会になったが、ほとんどのアイルランド人はこれに反対した。
アイルランド人の88%がカトリック教徒だったが、カトリック教徒は議席を与えられなかった。首相のピットはカトリックにも政治的自由を与えようとしたが、ジョージ三世は拒否し、ピットは辞任した。
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