江戸時代覚え書き②

江戸時代中期
17世紀半ば~18世紀初めの、幕藩体制が確立し社会秩序が安定した時期。
幕府の政治も武力を盾にした専制的なものから、儒教的な道徳や礼儀に基づく文治政治になった。将軍の方は不幸が続いて、家綱→綱吉→家宣→家継と代わっている。
また、農業をはじめとする各種産業に商人の資本が大々的に投下され、まさに時代は経済革命だった。
なにより、私が大好きな水戸黄門の時代でもある。TBSは国民に対する歴史教育の一環としてぜひ再放送をしていただきたい。

徳川家綱
4代将軍。1651年に先代で父親の家光が亡くなったため将軍職に就いたが、この時まだ11歳だったため、実際の政治は叔父の会津藩主、保科正之(ほしなまさゆき)が行なった。
彼が取り組んだ社会問題は、失業した武士である牢人(ろうにん)がかぶき者となって社会秩序を乱すことだった。
この時代では、跡継ぎのいない大名が、養子を取って勝手に土地を相続することは末期養子の禁(まつごようしのきん)という法律で禁じられていた。そのため、たくさんの大名家が断絶、かぶき者予備軍の牢人が増加したのである。
1651年に起きた、兵学者の由井正雪の乱(慶安の変)も、背景にはこういった武士の失業問題があった。
この対策として保科正之は、かぶき者の取り締まりを強化すると共に、末期養子の禁を緩和(50歳未満の大名は養子をとってOKになった)、また家臣が主人の後を追って自害(殉死)することを禁止した。
殉死の禁止は、主人が代わっても家臣は死なずに、次の主人に仕えなさいということで、牢人の増加を防止するとともに、主従関係も確立して、下克上の可能性は減少した。

藩政改革
社会が安定し軍役が減ったことで、有能な家臣を補佐官にして、治水事業や新田開発を行う殿様が増えた。
将軍を助けた保科正之は、垂加神道(神道+儒教)を唱えたことで有名な山崎闇斎(やまざきあんさい)、水戸の徳川光圀は、明の儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)、岡山の池田光政は、陽明学者の熊沢蕃山(くまざわばんざん)、加賀の前田綱紀は、徳川綱吉の家庭教師も務めた木下順庵といった著名な学者を招いて、小泉竹中的に改革を実行した。

徳川綱吉
5代将軍。彼が将軍を務めた頃を元禄時代といい、水戸黄門もこの時代を舞台にしたドラマである。
綱吉の補佐は最初、大老の堀田正俊(ほったまさとし)が務めていたが、彼が若年寄に暗殺されてしまったため(綱吉黒幕説アリ)、側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が、その後将軍の補佐をした。
綱吉は、儒学者の木下順庵を家庭教師を付けていたため、天和令(てんなれい)という武家諸法度で忠孝、礼儀を第一に要求した。
また林羅山が上野に開いた塾を、湯島に移し湯島聖堂として、その経営を林家に主催させ、大学頭に林鳳岡(はやしほうこう)を就けた。ここは受験シーズンになると受験生が合格祈願に殺到する。
また、綱吉は神道にも影響を受けており、服忌令(ぶっきれい)で喪に服したり、忌引き日数を定め、死や血を嫌う風潮を生み出し、死を恐れないチンピラだったかぶき者の生き様を否定した。

生類憐れみの令
さらに綱吉は仏教にも帰依していたため(インテリだったんだな)、生き物すべての殺生を禁止する生類憐れみの令を出し、民衆は虫も殺せないと大迷惑したが、野犬はすべて施設に保護されたので町にうろつくことはなくなった。
そもそもこの法令の最大の狙いは、動物ではなく、人間――捨て子の保護だった。
なんだかんだ言って、綱吉の時代までは戦国時代のノリがあったため、人を殺すのは割と日常的だった(野球のバッティング練習の感覚で庶民やイヌを試し斬りしていた)。
生類憐れみの令は、そんな日本人の意識を変えた人権尊重的な法律だった・・・って井沢元彦さんが言ってた。
徳川綱吉は、ドラマと違い本当は水戸黄門とあまり仲が良くなかったらしいが、これも水戸のご老公が「人だって罪を犯せば罰せられるのに、田畑を荒らす害獣を殺せないのは絶対おかしい」と生類憐れみの令を批判し、犬将軍とまで呼ばれた愛犬家の綱吉に犬の毛皮をプレゼントしたからである。
う~ん、どっちの言い分もわかるけど、やっぱご老公パンキッシュだぜ。どっか旅に行かせてたほうが将軍もホッとしたのかもな。

貨幣改鋳
鉱山の金銀の産出量の減少、1657年に江戸で発生した日本史上最大の大火事である明暦の大火、信仰心の厚い綱吉による相次ぐ寺社建設などで、綱吉の時代には幕府の財政状況はかなり厳しかった。
そこで勘定吟味役の荻原重秀(おぎわらしげひで)が提案した貨幣改鋳を行い、金の含有量を減らした元禄小判を発行し、これを量産することで(量的緩和)、その差額を財政再建にあてた。
これにより幕府の収入は上がったが、質の低い貨幣はインフレを発生させ、民衆の生活は苦しくなった。

宝永大噴火
1707年。マグニチュード9クラスの南海トラフ地震によって引き起こされた富士山の大噴火で、以降富士山は噴火していない。当時江戸に滞在していた新井白石は、大量の火山灰で昼でも暗くなった江戸の様子を記録している。

徳川家宣
6代将軍。1709年に亡くなった綱吉の跡を継いだ。
綱吉の側近の柳沢吉保を退け、代わりに高名な朱子学者の新井白石と政治の刷新を行なった。
家宣は生類憐れみの令を廃止させたが、在職してたった3年でインフルエンザをこじらせて亡くなってしまった(51歳)。

徳川家継
7代将軍。家宣の死で急遽7代目の将軍になったが、この時家継はまだ3歳。
そのため幕政は、そのまま新井白石が主導した(正徳の政治)。
新井白石は、3歳の家継と2歳の皇女八十宮(やそのみや)の婚約をまとめ、将軍家と皇室との結びつきを強化したが、婚約の翌年に家継は風邪をこじらせて、まだ8歳で病死してしまう。これは歴代で最も短命な将軍となった。
この他にも新井白石は、財政難に苦しむ皇室を繁栄させるために閑院宮(かんいんのみや)という新しい宮家を新設している。

新井白石
新井白石の政治は、主に経済政策で知られる。
長崎貿易による金の流出を防ぐための法律である海舶互市新例(かいはくごししんれい)を発布するとともに、金含有量を家康の時代の慶長小判と戻した正徳小判を発行しディスインフレを目指した。
しかし立て続けの貨幣変更は社会を混乱させてしまった。

農業の発達
鉱山開発の諸技術(掘削、測量、排水)が農業に転用され、河川敷や沿岸部などで大規模な耕作が可能になった。
全国の農地の数は17世紀初めから18世紀のはじめにかけて、二倍にも激増した。
有力な都市商人が農地に資金を投下し開発する、町人請負新田も各地にできた。『プロミストランド』みたいだな。
宮崎安貞(みやざきやすさだ)の『農業全書』、大倉常永(おおくらつねなが)の『農具便利論』といった、新しい栽培技術や農業技術を紹介する本も著され、米の生産力は飛躍的に向上、余ったお米は商品として売却され貨幣に変わった。
この時代に開発された農具には、備中ぐわ、脱穀用のでかい鉄製のクシが取り付けられた千歯こき、脱穀したお米と籾殻を選別するためのビンゴゲームのガラガラみたいな唐箕(とうみ)、ふるい付きの滑り台みたいな千石どおし、人の足で踏んで水を汲み上げる小型の水車の踏車などがある。

商品作物
桑、漆、茶、楮(和紙の原料)、麻、藍、紅花はまとめて四木三草と呼ばれた。
ほかにも綿花、油菜、野菜、果物、タバコなどが生産。
肥料には、干鰯、〆粕(青魚のカス)、油粕などの市販された肥料の金肥が利用された。

鉱山業の発達
17世紀後半になると、ついに金銀の産出量が減り、それに代わって銅の産出が急増した。
銅は貨幣になったり、長崎貿易の最大の輸出品になった。
また木炭で砂鉄を精錬するたたら製鉄が中国地方や東北地方で行われ、玉鋼は農具や工具に加工された。

漁業の発達
網漁法や、沿岸部の漁場が開発。
九十九里浜のイワシ漁や、松前のニシン漁などが有名。
蝦夷地では、いりこ、ほしあわび、ふかのひれを俵に詰めた俵物が生産され、銅に代わる清への輸出品になった。
入浜塩田もさらに発達した。

林業の発達
都市の開発が進んだため、木材の需要が急増、材木問屋によって蝦夷地にまで林業が広がった。
尾張藩の木曽檜、秋田藩の秋田杉など。

織物業の発達
絹、木綿、麻織物などがあり、その中でも絹織物が高級だった。
なかでも京都の西陣織は、腰をピンと立てて真っ直ぐに織らなければいけない高機(たかばた)という織り機で織られ、高度な技術が必要とされた(気を抜くとすぐよれる)。
木綿や麻をつかった織物は庶民の衣料として消費され、村の百姓――特に女性が零細的に生産した。
有名な産地には、河内(木綿)、近江(麻)、奈良(晒)などがある。

製紙業の発達
和紙の流漉(ながしすき)の技術が発達し、岐阜県美濃といった生産地には専売性が敷かれた。
和紙の主な原料は楮(こうぞ)で、木材を使ったパルプが用いられるようになるのは明治時代からである。
ちなみに、楮のみの紙漉き技術は、2014年にユネスコの世界無形文化遺産になった。

醸造業の発達
京都の伏見や神戸の灘が酒を、千葉の野田や銚子が醤油を生産。

商業の発達
国内交通が整備される以前は、朱印船貿易で荒稼ぎした、堺、京都、博多、長崎、敦賀などの初期豪商が商業の中心となっていたが、海外との交易が制限され、国内交通が整備されると、商業の中心は次第に、三都(江戸、大阪、京都)や城下町で国内流通を牛耳る問屋(といや)となった。
問屋の同業者組合は仲間と呼ばれ、仲間掟を作って営業権独占を図った(カルテル行為)。
特に、江戸の十組問屋(とくみといや)と二十四組問屋(にじゅうしくみといや)は有名で、幕府はこのような連合組織に営業税(運上、冥加)を課した。
問屋の支配下には、小売商人への卸売を独占した仲買人がおり、小売商人の多くは常設の店舗を持たず、振売、某手振りと呼ばれた。魚が入った天秤みたいなのを担いで、鉢巻きしている人がそれである。

五街道
江戸の日本橋を起点とする幹線道路。
三都を結ぶ東海道と、その北に並列する中山道、江戸と甲府をつなぐ甲州道中、江戸と東北を結ぶ奥州道中、日光への日光道中の5つ。
五街道は幕府の直轄下で、道中奉行が管理した。
これ以外の主要道路は脇街道と呼ばれた。

菱垣廻船(ひがきかいせん)
大型の貨物船で17世紀後半から運航開始。大阪から江戸に木綿や油、酒を運んだ。

樽廻船(たるかいせん)
小型の貨物船で18世紀前半から運航開始。
本来は酒の輸送専用の船だったが、菱垣廻船に比べて速度がべらぼうに速く、その後ほかの物資も運ぶようになった。
菱垣廻船が10~20日かかる南海路を58時間で済ませるという最高記録を出したらしい。
これにより19世紀以降は樽廻船が優位になり、菱垣廻船は衰退した。

河村瑞賢(かわむらずいけん)
全国的な海上交通網である東廻り海運(東北地方太平洋側~江戸)と西廻り海運(江戸~大阪~瀬戸内海~下関~北陸)を整備した。

角倉了以(すみのくらりょうい)
富士川や京都の高瀬川に新たな水路を開いた。

三貨
金貨、銀貨、寛永通宝などの銭貨(ぜんか)を合わせた言い方。17世紀半ばまでに全国的に普及。
金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座で鋳造された。
この三貨の交換レートは変動相場制だった。
面白いことに金貨は主に江戸で流通、銀貨は主に大阪で流通したため、江戸の金遣い、大阪の銀遣いと言われた。金座も銀座も江戸と京都にあったんだけど。
それ以外の貨幣では、各藩が発行しその藩だけで使える地域通貨の藩札や、商人発行の少額紙幣の私札などがあった。

両替商
特に、大阪や江戸の有力な両替商は、三貨の両替だけでなく、公金の出納や為替、貸付といった会計業務も行なっており、幕府や藩の財政を支えた。
有名な両替店は、大阪の天王寺屋、平野屋、鴻池屋(こうのいけや)、江戸の三井、三谷、加島屋など。
時代劇における「お主もワルよのぉ」でお馴染みの、両替商を営む呉服屋、越後屋さんも実在し、少量の呉服でも安心の価格で買えるというユニクロ戦法によって江戸、京都、大阪に14店舗を構えるまでに利益を上げた・・・ってチェーン展開してたんかい。

三都
江戸:将軍のお膝元。人口100万人の世界有数の大都市で、政治の中心地だった。
大阪:天下の台所。人口約35万人で、諸藩の蔵屋敷が置かれた商業の中心地だった。
京都:皇室や公家、寺社が集中。人口約40万人で宗教や文化の中心地だった。

元禄文化
水戸黄門の時代の文化。
大阪の豪商を中心に育まれたため現実主義的で、さらに儒教の影響が強く、逆に仏教の影響が薄いことが特徴。

井原西鶴
江戸時代を代表する作家の一人。
元は大阪の商人で、軽妙な句調の談林俳諧で注目を集め、その後享楽的な現世を描いた連続短編小説、浮世草子を執筆した。
スケベ男を題材にした『好色一代男』、町人を題材にした『日本永代蔵』、武士を題材にした『武家義理物語』など。

近松門左衛門
江戸時代を代表する脚本家の一人。
彼は出身が武士で、現実社会や歴史を題材にし、そこで義理人情に悩む人間の姿を、人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本として描いた。
ヒットしすぎて心中事件を多発させてしまった問題作『曽根崎心中』、明と日本のハーフの主人公が明に行きその再興を目指す『国姓爺合戦』などが代表作。
彼の作品は人形浄瑠璃で竹本義太夫に語られ大人気、義太夫節が生まれた。

松尾芭蕉
伊賀出身のため忍者説がある俳人。談林俳諧とは一線を画す、芸術性の高い蕉風俳諧を確立。
代表作は『奥の細道』で、自然と人間を鋭く見つめた。

歌舞伎
民衆の演劇である歌舞伎は、江戸と上方に常設の芝居小屋が置かれた。
江戸の市川団十郎は勇ましい演技(荒事)で大好評となり、京都の坂田藤十郎は恋愛劇(和事)で大好評となった。

元禄文化の芸術
土佐光起:朝廷の御用絵師。
住吉如慶と具慶親子:幕府の御用絵師。洛中洛外図巻。
菱川師宣:浮世絵を確立。有名な見返り美人像は肉筆画だが、版画も作った。
尾形光琳:俵谷宗達の画法を取り入れ琳派を起こす。燕子花(かきつばた)図屏風、紅白梅図屏風、八橋蒔絵螺鈿硯箱など。
宮崎友禅:友禅染を創始。
野々村仁清:陶工。色絵を完成。京焼を創始。

朱子学
戦国時代に開かれた海南学派が、山崎闇斎や野中兼山を輩出。

陽明学
明の王陽明が創始した儒学。知行合一がモットーで、中江藤樹やその弟子の熊沢蕃山が幕政を批判したため、幕府に危険視された。

古学派
孔子や孟子の古典に立ち返る一派。
感情や欲望を否定する朱子学を独善的と批判した山鹿素行や、伊藤仁斎が創始。
これを継いだ荻生徂徠は、統治の具体策、経世論を説いて、徳川綱吉についた柳沢吉保や、徳川吉宗に重用された。
荻生徂徠の弟子の太宰春台(だざいしゅんだい)は著書『経済録』で、武士も商業を行ない利益を上げろと主張した。

その他の学問
新井白石:『読史余論』、『古史通』で独自の歴史観を論じる。
貝原益軒(かいばらえきけん):博物学者。著書は『大和本草』。
関孝和:和算。測量や商取引に利用。代数や円周率計算などの研究。
渋川春海(しぶかわしゅんかい):天文学。幕府独自の暦である貞京暦(じょうきょうれき)を作る。
契沖(けいちゅう):古典研究。『万葉集』を研究。
北村季吟(きたむらきぎん):古典研究。『源氏物語』や『枕草子』を研究。

江戸時代覚え書き①

江戸時代の概要(1603年~1868年)
徳川将軍家が豊臣家が始めた封建制度を継承し、260年間に及ぶミラクルピースを実現させた。政治は政治家任せ、大衆文化に殺到、とにかく勤勉、外国には頭が上がらず排他的・・・現代に繋がるような日本人の庶民感覚は、ここで確立されたような気がする。

江戸時代前期
平安時代同様長い時代なので4回に分けてまとめます。
まずは江戸時代の幕藩体制が確立した、家康→秀忠→家光の時代。
今までの幕府(武家政権)って大体2代目あたりでつまずくことが多かったんだけど、2代将軍秀忠はコンプライアンスを徹底させて幕府の支配を全国的に磐石なものにしている。
じゃあ、彼が断行した改易や減封などの諸大名への厳しい措置によってクーデターは起きなかったのかというと、実はかなり重い改易処分の際にも金銭的、人事的配慮をして(家名はちゃんと残してあげたり、より高いポストに再就職みたいな)、まあこれでもいいかと大名たちを納得させたらしい。そこらへんがとにかく上手いよ。

関ヶ原の戦い
秀吉が亡くなると、秀吉政権で五大老筆頭(最高顧問的な地位)に就いていた徳川家康と、五奉行(秀吉政権の国務大臣的な)石田三成が対立、1600年に関ヶ原の戦いが起きた。
東軍の豊臣秀吉と、西軍の石田三成の兵力はほぼ互角で、むしろ事前予想では東軍を挟み撃ちにしていた西軍が有利くらいに思われていたのだが、なぜか西軍は敗れた。
その原因としてよく挙げられるのが小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りである。
彼は秀吉の養子で、一時は秀吉政権の後継者とされていたが、子宝に恵まれなかった秀吉にやっと息子(豊臣秀頼)ができると、お払い箱的な扱いをされてしまう(小早川家に移籍された)。
そんな経緯もあってか、1万5000もの兵を抱え、当初は西軍についていた彼は、最終的に東軍と西軍のどちらの味方につくか決めかねていた。
結局、小早川秀秋は、徳川家康の「寝返ってくれたら上方の大国二つプレゼント」の誘いに乗ってしまい西軍を裏切り、ほかにも立場を決めかね傍観したり、東軍に寝返る者が出たため、西軍は軍勢の半分も動かせずに、大方の予想を覆して、たった一日で東軍に敗れてしまった。
小早川秀秋は、この戦いをあくまで豊臣家内の勢力争いと考えており、まさか徳川家が豊臣家を滅ぼす野望を持っているとは思っていなかったという。
一方、勝利した東軍の徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと、西軍の中心の石田三成と小西行長(こにしゆきなが)を処刑した。
そして大阪城に入城していた毛利輝元を転封&減封処分するなど、敗れた西軍から領土を没収、それを東軍についてくれた大名に分け与え徳川幕府の大名配置の原型を作った。

大名
将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を指す。1万石とは1500トンの米の生産力があるということで、金額に換算すると年間の予算は5億円ほどになった。
徳川家康は大名たちを親藩大名、譜代大名、外様大名の三つに分けて全国に配置、江戸城と市街地造成の土木工事や国絵図、郷帳(ごうちょう)作成を求めた。
郷帳とは検地帳みたいなもので、村ごとの石高を郡単位で記載し、それをさらに国単位にまとめたデータベースである。
ちなみに1万石に満たない将軍直属の家臣は旗本や御家人と呼ばれ、将軍に謁見できる地位の高いほうが旗本、できないのが御家人。

親藩大名
徳川氏の親戚。尾張、紀伊、水戸は御三家とされ、将軍に子がいないときはこの三家から後継を出すとされた。
なかでも水戸黄門で有名な水戸徳川家は、参勤交代を免除され江戸に常駐する定府大名であり、そう考えると最も諸国漫遊とは遠い地位にご老公様はいたことになる。
このように参勤交代を免れる大名はほかにもいて、参勤交代ができるほどの経済力がどう考えてもない小大名(石高1万ギリギリ)は藩の存続も厳しくなるので免除とされた。

譜代大名
古くから徳川方についていた大名。石高は少ないものの重要な職務を任された。

外様大名
関ヶ原直前もしくは以後に徳川方に従った大名。石高は多いが江戸から離れた僻地に配置された。
言うまでもなく参勤交代で掛かる予算が一番厳しい。

徳川家康
初代将軍。しかしこの時既に高齢だったので、江戸幕府を開いた2年後の1605年にすでに将軍職を息子の秀忠に譲っている。これにより江戸時代のトップは徳川一族の世襲であることをアピールした。将軍職を引退した家康は静岡県の駿府に引っ越したが、大御所として実権を握り、未だに強い力を持っていた秀吉の息子の豊臣秀頼に方広寺を作らせた挙句、その鐘に掘られた文字(国家安康、君臣豊楽)が気に入らねえと、本当にひどい言いがかりを付け、1614~15年に大阪冬の陣と夏の陣で滅ぼしてしまった。
この時の武力解除は当時の元号にちなんで元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれた。
その後、家康は秀忠名義で、大名の居城は一人一つまでにする一国一城令を出し、さらに大名たちを厳しく統制するため武家諸法度(元和令)を制定した。

徳川秀忠
2代将軍。家康の死後に実権を引き継ぐ。
1617年、秀忠は大名と公家と寺社に出した確認文書によって、全国の土地の所有者は将軍であり、大名たちは将軍に与えられた土地で藩の執政を行うという幕藩体制を明らかにした。
これはパッと見中世の封建制度を思わせるが、封建領主が各自に支配していた司法権や軍事権がすべて幕府に引き渡されており、絶対王政と封建制度のハイブリッド的なところがあった。
彼は、とにかく律儀な性格だったらしく、どんな相手であろうと法令を遵守した。
例えば、関ヶ原の戦いの功労者の福島正則を、城の修築を幕府に無断に行った武家諸法度違反で改易(領地や役職を没収)、大阪夏の陣で真田幸村を倒してくれた松平忠直に対しては、あまりに暴君だということで強制的に隠居させている。
家康にも「生真面目すぎる」と言われた、この秀忠の実直な政治手腕によって江戸幕府の統治体制は確固たるものになったのかもしれない。彼は1623年に将軍位を息子の家光に譲り、家康同様大御所となった。1632年没。

徳川家光
3代将軍。
肥後の外様大名の加藤忠広を、忠長(家光の弟)が計画する謀反に参加していたとして改易し、さらに全国の大名に軍役を命じて30万人の軍勢を作り、彼らと共に京都に入ることで、将軍の軍事指揮権を見せつけた。
彼は1635年に有名な武家諸法度(寛永令)を発布した。これにより国元と江戸を一年おきに往復(国元に一年、江戸に一年の繰り返し)する参勤交代と、大名の妻子が江戸屋敷に定住することを義務付けられ、殿様が藩にいないあいだに家臣が悪巧みをするという水戸黄門恒例のパターンが確立された。

幕藩体制の財源
①17世紀末には400万石にもなった幕府直轄領からの年貢
②世界有数の主要鉱山からの収入
③重要都市直轄化による経済規制

江戸幕府の統制①中央及び地方
評定所:最高司法機関で、老中と三奉行が合議して決定。

譜代大名の中から任命されるポスト
大老:普段はいない臨時の最高職。古代ローマのディクタトル的な。
老中:幕政を統轄するポスト。定数は4~5人。年寄という重臣が任命された。
若年寄:どっちなんだって話だけど老中の補佐役。定数は4人。
側用人:将軍の側近。将軍の命令を老中に伝える役職。
寺社奉行:三奉行の筆頭。寺社の行政を担当。
京都所司代:京都の警備及び西国大名の監察。
大阪城代:大阪城の警備及び西国大名の監察。

老中統括部門(旗本の中から任命)
町奉行:江戸の町の司法、行政を管轄。
勘定奉行:幕領の租税徴収と領地管理。
大番頭:江戸城と江戸市内の警備。つまり警視庁。
城代:駿府、伏見、二条城の警備。
大目付:大名を監察。
遠国奉行(おんごくぶぎょう):長崎、佐渡、日光、堺などの江戸から遠いけど重要な場所の諸奉行。

若年寄統括部門(旗本の中から任命)
書院番頭:江戸城の警備。将軍の護衛。
小姓組番頭:将軍の護衛。
目付:旗本を監察。

江戸幕府の統制②朝廷
徳川家康は1611年に御水尾天皇を即位させると、その4年後に幕府による朝廷の統制基準を定めた禁中並公家諸法度を制定、天皇領の禁裏御料や公家領を最小限にし、朝廷統制のイニシアティブは摂家に持たせた上で、京都所司代に朝廷を監視させた。
また朝廷との連絡は公家から選んだ武家伝奏に行わせた。
2代将軍秀忠になると、幕府の朝廷への規制はさらに強化されることになる。
1620年、秀忠は自分の娘を御水尾天皇の内裏に入れさせ、朝廷の残りの権限、官位制度、改元、改暦権についても幕府の許可制にしてしまった。
この力関係を象徴するのが、1627年に起きた紫衣事件(しえじけん)で、幕府は、御水尾天皇が十数人のお坊さんに勝手に紫衣(名誉あるお坊さんが朝廷から賜る紫色の法衣)を与えたとして、御水尾天皇の紫衣の授与を無効としている。
この幕府の措置に抗議した大徳寺の沢庵和尚らは流罪になってしまうが、さすがの幕府もこれはちょっとやりすぎたと思ったのか、秀忠が死ぬと、この時流罪された僧侶たちは全て許され、なんと沢庵和尚は徳川家光の帰依を受けていたりする。

江戸幕府の統制③宗教勢力
出家した皇族や摂家が入る門跡寺院を理由に、じゃあ寺社は朝廷と一緒、なら寺社も幕府の支配下というロジックで、幕府は寺社も支配した。
寺社の領地の門跡領も最小限にし、寺院法度によって宗派ごとに中心寺院(本山)を限定。その他の寺を末寺としてその下に組織させた(本末制度)。
1665年には寺と僧侶全体を支配する諸宗寺院法度と、神社と神主全体を支配する諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)を制定、さらに日蓮宗不受不施派(にちれんしゅうふじゅふせは)とキリスト教を禁教に指定した。
禰宜は神様の心を和ませるという意味。日蓮宗不受不施派とは日蓮宗アンチには施しや説教はしないぞという派閥。
1637年に島原天草一揆が起きると、幕府はキリスト教への弾圧をさらに強め、絵踏(えぶみ)を実施、さらに禁教を信仰しないように、寺檀制度によって、すべての家に檀那寺の檀家になることを義務付け、それを証明させる寺請け制度で宗門改めを行なった。

江戸幕府の統制④農民
農民内の格差を広げないために1643年に出された田畑永代売買の禁令(でんばたえいだいばいばいのきんれい)、分割相続による田畑の細分化を防止するために1673年に出された分地制限令、商品作物を勝手に栽培することを禁じる田畑勝手作りの令などによって、年貢の徴収を安定させた。

江戸幕府の統制⑤身分制度
いわゆる士農工商。
武士は特権階級かつ支配身分ということで政治や軍事を担当。苗字や帯刀権を持つ。
同じレベルとして天皇家や公家、僧侶や神職がいた。
最下層が非人、かたわ。
非人は物乞いや清掃、芸能に従事した人。貧困や罪を犯して転落する人もいた。
かたわ(えた)は百姓のように村を作って農業を行い、皮革やわら細工などを作ったが、差別され、死んだ馬や牛、人(死刑囚)の処理をさせられた。

江戸時代の村
17世紀末には6万を超える村が全国にあったらしい。
ほとんどが農村だったが、漁村や山村、定期市などによって村が都市化した在郷町もあった。
村では村人が自治的な運営を行い、幕府や大名もそれを認めて年貢を徴収した(村請制)。
村の運営は、いわゆる庄屋さんの名主(なぬし)、名主を補佐する組頭、村民代表の本百姓の三者(村方三役)が村掟に従って行なった。
本百姓は高持とも呼ばれ、検地帳に登録された田畑や屋敷を所有し、各種の年貢を請け負った。
一般的に百姓の生活は貧しく、田畑を持たず、日雇い労働をする百姓は水呑百姓と呼ばれ、本百姓に隷属した名子(なご)、被官(ひかん)、譜代という人もいた。なんか名称がややこしいな。
田植えや稲刈りなどの作業は結(ゆい)と呼ばれた。

年貢①本途物成(ほんとものなり)
四公六民ということで、石高の約40%の米や貨幣を納める。年貢率はと言い、その年の収穫量に応じて変わる検見法と、一定期間変動しない定免法(徳川吉宗が導入したことで有名)の二種類があった。

年貢②小物成(こものなり)
農業以外の副業にかかる税。
山林、原野、河川、海などの用益、生産物など。1500種類以上あったらしい。

年貢③国役
河川の土木工事といった労働。国単位で課せられた。

年貢④伝馬役
公的な人や物の輸送のために人馬を差し出す。街道周辺の村に課せられた。

江戸時代の町
特に城下町が発展した。
町内は武家地、寺社地、町人地に分けられ、城下町の大半は武家地だった。
商人や手工業者の住む町人地は小さかったが、経済活動の中心となり全国と領地を結んだ。
町の運営は、名主、町年寄、月行事(がちぎょうじ)などの代表が町法に従って行なった。
ほかにも地借(宅地を借りて家を建てた人)、借家、店借(たながり)などが町にいたが、彼らは町の運営には参加できなかった。

徳川家康の積極外交
1600年に大分県に漂着したオランダ船リーフデ号に乗っていた航海士ヤン=ヨーステンと案内人のイギリス人ウィリアム=アダムス(三浦按針)を、徳川家康が江戸に招いたことがきっかけになって、1609年にオランダ、1613年にイギリスが平戸に商館を開いた。
家康はスペインとも積極的に貿易をし、さらにスペイン領のメキシコとの取引も望んだがこれは実現しなかった。ちなみに仙台の伊達政宗もメキシコとの貿易を目指し、スペインに家臣の支倉常長(はせくらつねなが)を送ったが、これもやっぱりダメだった(慶長遣欧使節)。

糸割賦制度(いとわっぷせいど)
これまで日本は中国産の生糸をポルトガル商人の仲立ちで購入していたが、家康は京都、堺、長崎の商人に独占輸入権と独占卸売権を与えることで生糸を一括購入させ、ポルトガルの利益独占を排除した(日本の商人間で市場メカニズムが発生しないため、ポルトガル商人は不当に生糸の輸入価格を上げられない)。この時結成された組織を糸割賦仲間といい、その後江戸と大坂の商人も加わり五ヶ所商人となった。
そんな中国の明とは、戦国時代につながりがあった大内氏が滅んで以来国交が途絶えており、その後、朝鮮と琉球を通じて明に国交回復を呼びかけたが、拒否されている。

朝鮮通信使
家康は、秀吉の朝鮮出兵によってこじれた日朝関係を修復し講和を実現、1609年に宗氏と朝鮮との間で己酉条約(きゆうじょうやく)が結ばれ、釜山には和館が置かれた。
幕府は、朝鮮との外交で毎度お世話になっている宗氏に対朝鮮貿易を独占させ、朝鮮からは計12回の使節が送られ、4回目から通信使と呼ばれるようになった。

琉球王国
1609年に薩摩藩に征服された琉球は、琉球国王の代が変わるごとに謝恩使を、江戸の将軍の代が変わるごとに慶賀使(けいがし)を幕府に送った。

蝦夷地
室町時代にコシャマインの反乱を鎮圧した蠣崎氏が相変わらず勢力を保っており、蠣崎氏は松前氏と名前を変え、松前藩は1604年には家康からアイヌとの交易独占権を与えられた。
1669年には、アイヌの首長のシャクシャインの戦いが起きるが、松前藩はこれを鎮圧、多くの交易対象地(商場)が和人の請負となった。

朱印船貿易
幕府は海外進出をする日本人に朱印状というパスポートを与え貿易を促進した。
その為、海外移住する日本人も増加し、ベトナム、カンボジア、フィリピンなどに日本町が作られた。
その中でも最大のものはタイのアユタヤのもので、山田長政はアユタヤ王朝に重用された。

鎖国政策
家康は海外との公益に積極的だったが(キリスト教は割と規制してたけど)、秀忠が将軍に就くと、幕府はキリスト教徒と、貿易による西国の大名たちの強大化に危機感を感じるようになる。
秀忠は1616年に外国船(中国船除く)の寄港を平戸と長崎のみにし、1624年にはスペイン船の来航を禁止。
これが家光の代になると、1633年に許可証(老中奉書)を得た奉書船以外の海外渡航が禁止され、1635年には日本人の海外渡航は全面禁止、在外日本人も帰国ができなくなった。
中国船の寄港も長崎のみになり、オランダとの競争に負けたイギリスは1623年に平戸の商館の閉鎖し、日本から撤退した。
1637年にクリスチャンの反乱である島原・天草一揆が起きると、幕府のキリスト教への締めつけは当然更に厳しくなり、1639年にはポルトガル船の来航が禁止、1641年にはオランダ商館を平戸から長崎の人工島、出島に移転させ、長崎奉行に厳しく監視させた。
これにより日本は鎖国体制に入り、オランダ、中国、朝鮮、琉球の4カ国だけと貿易をするようになった。

オランダと中国
ヨーロッパ情勢については、唯一ヨーロッパで日本とつながりを保ったオランダ商船が、日本に来航する際に提出するオランダ風説書でわずかに知るくらいになった。
なんでヨーロッパの国でオランダだけが幕府との貿易を許されたのかというと、プロテスタントのオランダはキリスト教を熱心に布教しなかったので、日本も「まあいいか」となったのだ。
しかしこれにより日本の近代化は大きく遅れた。
ちなみに1644年になると、明から清に中国の王朝が変わり、日本と通商をはじめるが、日本から大量の銀が流出すると、中国船の輸入も制限するようになった。

島原・天草一揆
かつては乱と呼ばれたが、最近の教科書では一揆になっている。
これは飢饉にもかかわらず無慈悲な年貢を課し、キリスト教を弾圧した長崎県島原と熊本県天草の領主に対して3万人もの百姓たちが立ち上がった事件で、リーダーは様々な奇術で農民たちから人気があった天草四郎だった。
島原と天草はかつてキリシタン大名(天正遣欧使節団を送った有馬晴信や小西行長)の領地だったためクリスチャンが多く、天草四郎も熱心な信者だった(しかも美少年)。
この反乱を鎮圧するために、家光は戦国時代並みの13万人もの軍隊を送り込み、国家予算の3分の1を使ってしまった。

寛永文化
17世紀前半の江戸時代の文化。寛永の元号の頃に新しい傾向が見られたためこう呼ばれる。

朱子学
上下の秩序を重んじる学問(上下定分)なので江戸時代の身分制度を正統化するうえでマッチした。
大御所は藤原惺窩で、彼の紹介で幕府の御用学者になったのが林羅山である。
朱子学とは、儒教的な思想(目上の人を敬おう)と仏教が組み合わさったような理論で、自分が正しいと思うなら行動で示せというテーゼは後醍醐天皇の原動力にもなった。

寛永文化の建築
権現造(ごんげんづくり)と数奇屋造が普及。
権現造は、先祖の霊を祀る神社建築で、桃山文化を思わせる豪華な彫刻が特徴。
神君家康公をまつる日光東照宮がそれ。神となった彼の遺骨は塔に封印されている。
数奇屋造は、書院造に、千利休が完成させた草庵風の茶室を取り入れたもの。
桂離宮の新書院がそれ。現代では高級料亭などで取り入れられているイメージ。

寛永文化の芸術
大徳寺方丈襖絵:幕府の御用絵師、狩野探幽の作品。
風神雷神図屏風:修飾画の新様式、琳派の創始者、俵屋宗達の作品。
舟橋蒔絵硯箱:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の作品。丸くて可愛い。
有田焼:酒井田柿右衛門が赤絵の技法を完成。窯は現代も続き、ビートたけしさんによれば柿右衛門はいい色を出す父(14代目)と、いい絵を描く息子で技術を高めあっていたらしい。

寛永文化の文学
仮名草子:教訓と道徳を説く。
貞門俳諧:松永貞徳が徘徊を連歌の入門編として独立させた。

戦国時代覚え書き

戦国時代~安土桃山時代の概要(1467年~1603年)
近年では応仁の乱からではなく、室町幕府から中央政権としての機能が決定的になくなった明応の政変(1493年)以降を戦国時代と呼ぶという説もある。
なんにせよ室町幕府は統治機構として完全に形骸化し、ツワモノたちによる群雄割拠の時代となった。ご存知、織田信長と、その部下の豊臣秀吉が、この戦乱をおさめたが、豊臣氏はその後の朝鮮出兵で失敗し、チャンスが来るまで待って待って待った徳川家康が天下泰平の世を築くことになる。

室町幕府の実権
応仁の乱のあとも室町幕府の内部では権力争いが継続しており、その実権は管領家の細川氏から、その家臣の三好長慶(みよしながよし)、そしてさらにその家臣の松永久秀へと移っていった。

鎌倉公方の分裂
関東を統括する鎌倉公方は、足利成氏の古河公方と、8代将軍足利義政の弟(実際は兄だが母親のランク的なあれで弟に)の足利政知(あしかがまさとも)の堀越公方に分裂し争った。

関東管領の分裂
鎌倉公方の補佐役の関東管領は、山内と扇谷(おうぎがやつ)の両上杉氏が内部分裂をしていた。

戦国大名
こんな中央政府の権力争いを尻目に、地方では自ら領国を作り上げ独自支配を行う権力者、つまり戦国大名が育っていった。
15世紀末の北条早雲(鎌倉時代の執権北条家とは無関係で改名の際にあやかっただけ)もそんな一人で、堀越公方を滅ぼして伊豆(堀越)を奪うと、相模へ進出して、小田原を拠点とする戦国大名となり、彼らの子孫は関東一帯にその勢力を広げた。
16世紀に入ると、さらに多くの戦国大名が現れることになる。以下三つの系譜をまとめる。

守護大名系戦国大名
守護大名から戦国大名にそのまま移行したケース。
実は割とレアな存在で、駿河、近江を支配した今川義元や、山梨県“甲斐の虎”武田信玄、薩摩の島津貴久など下克上を一切許さなかった強大な大名が該当する。

守護代系戦国大名
守護の代理出身の戦国大名。
管領の斯波氏の守護代からのし上がった愛知県尾張の織田信長、福井県越前の朝倉義景や、上杉氏の守護代からのし上がった新潟“越後の龍”上杉謙信(旧姓:長尾)らが該当する。

国人系戦国大名
国人出身の戦国大名。広島県安芸の毛利元就や、高知県土佐の長宗我部元親など。
戦国武将の家臣たちは国人や地侍がほとんどだったので、彼らは一番家臣と近しいリーダーだったのかもしれない。

戦国大名の政策①貫高制
家臣の収入額を銭に換算して、それ(貫高)に応じて軍役を課す制度。
経済に割と強い織田信長がいち早く導入した。ちなみに自己申告制だったらしい。

戦国大名の政策②寄親・寄子制
家臣団に組み入れた地侍(子)を、有力家臣(親)に預けて監督させる手法。

戦国大名の政策③分国法(家法、壁書)
武将ごとに制定された家臣団統制や領国支配の基本法で、私婚の禁、罰則の連座制など中世法の集大成的な感じだった。
また喧嘩両成敗法など中世にはなかった新しい法も定められた。
伊達氏の塵芥集、今川氏の今川仮名目録、武田氏の甲州法度之次第、朝倉氏の朝倉孝景条々など。

戦国大名の政策④指出検地
家臣の領主や名主に田畑の面積や収入額を自己申告させ、そのデータを検地帳に登録した。

地方都市の発展
戦国大名は市場税を課さない楽市令を出すことで、経済を活性化させたため、農村の市場や町が飛躍的に増加した。
町(ちょう)とはそもそも裕福な商工業者である町衆を中心とした自治組織を指し、寺社周辺には門前町、浄土真宗の寺院の境内に商工業者が集まった寺内町、ほかに港町や宿場町などの町できた。

中継貿易
戦国時代の明は私的貿易をすべて禁じる海禁政策をとっていたのだが、北のモンゴルと南の倭寇の勢力によって衰えつつあった明には私的貿易のすべてを押さえ込む力がなく、実際には中国、日本、朝鮮、琉球、ベトナムなどの間で中継貿易が盛んに行われていた。

鉄砲の伝来
新たなキリスト教信者獲得と海外貿易圏の拡大を目指したヨーロッパは世界に積極的に進出(いわゆる大航海時代)、1543年に九州薩摩の種子島にポルトガル人フェルナン・メンデス・ピントを乗せた中国人倭寇の船が漂着すると、島主の種子島時尭(たねがしまときたか)は彼らが持っていた鉄砲3丁を購入した。
鉄砲は当時の最新ハイテク兵器で、というか最新過ぎて開発されたヨーロッパでもあまり実戦で使用されていなかったのだが(弓の信頼度の方が高かった)、新しもの好きな織田信長はいち早く戦争に導入し足軽鉄砲隊によって長篠の戦いを勝利に導いた。
ちなみに当時の鉄砲の価格は一丁辺りなんと2000万円以上で、その後、国産化によってコストダウンに成功、織田信長の時は1丁50万円にまで値下がりしている。
私的に貨幣を偽造できるような高い鋳造技術がここで生きたのだ。さすが物作りジャパン。
この時代の有名な鉄砲メーカーとして大阪府和泉の堺、紀伊半島の根来衆と雑賀衆、滋賀県近江の国友などがある。全部近畿地方なんだね。

南蛮貿易
その後、ポルトガル人は毎年のように九州の港に来航、1584年にはスペイン人も佐賀県肥前の平戸に来航して日本と貿易を始めた。
彼らヨーロッパ人は当時の日本人に南蛮人と呼ばれたため(酷い蔑称)、この貿易を南蛮貿易という。日本は16世紀半ばから生産量が伸びていた銀や刀、漆器などを輸出し、中国産生糸や火薬(硝石)、鉄砲を輸入した。
また人身売買(奴隷貿易)も盛んで、一人当たり4万円ほどで安売りされていた。
ほかにも天文学、医学、地理学などの学問、カボチャ、トウモロコシ、ジャガイモといった南米由来の野菜、パン、カステラ、コップ、ボタン、タバコ、地球儀、メガネ、カルタ(!)などが日本に伝わっている。
芸術分野では油絵や銅版画の技法が伝わり、ポルトガル人来航の様子を緻密な写実性で描写した南蛮屏風など西洋絵画の影響を受けた作品も描かれた。
主な貿易港は平戸、長崎、大分の御府内(ごふない)で、京都や堺、博多の商人達が積極的に参加した。

キリスト教の布教
南蛮貿易はキリスト教の布教活動とセットで付いてきた。宗教改革で信者が減ったカトリックイエズス会(耶蘇会)のフランシスコ=ザビエルは1549年に鹿児島にやってくると、大内義隆や大友義鎮たちの保護を受けて布教を開始した。
ザビエルは外国人に慈悲深い人物で、日本人を「異教徒の中で最も優れていて、親しみやすく善良である」と大絶賛。それと同時にキリスト教では考えられない、公然と行われるBL文化にはたまげたという。
ちなみにキリスト教の神様であるイエスは、当初は「大日」と通訳のヤジロウが超訳しちゃったため仏教の一派と勘違いされた。そこでザビエルはデウス(ポルトガル語で神様)という呼び名で布教することにした。
その後、相次いで来日した宣教師たちは教会堂(南蛮寺)を建てたり、聖職者養成学校のコレジオ(カレッジ)、神学校のセミナリオ(セミナー)を作った。
ポルトガル船は布教を認めてくれた大名領に入港したので、南蛮貿易の利益が欲しい大名は積極的にキリスト教を保護、中には洗礼を受けてクリスチャンになるキリシタン大名も現れた。

天正遣欧使節団
1582年に宣教師ヴァリニャーニの勧めで、キリシタン大名の大友義鎮(おおともよししげ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村純忠(おおむらすみただ)が、ローマ教皇のもとに派遣した少年使節団。
チームリーダーは伊東マンショでメンバーの年齢は全員中学生くらいだった。
スペイン王フェリペ2世に謁見するなどしてヨーロッパに日本人の存在を広めた彼らは、お土産としてグーテンベルグの活版印刷機を日本に持ち帰ってきた。
この技術で印刷されたローマ字による日本の古典をキリシタン版(天草版)といい、天草版『平家物語』などや『イソップ物語』、ポルトガル語の辞書が有名。

信長の野望
信長様は、尾張の守護代の分家に生まれた。
幼少時は常識破りの行動から「大うつけ」と呼ばれ、身分を気にせず町の民と遊んでいたらしい。しかし信長が中学生くらいの頃に初めて出会った斎藤道三(のちに信長の義理のお父さんになる)は、早くして信長の才能に気づいていたという。
しかしそんな斎藤道三は、長良川の戦いで実の息子のクーデターにあい、織田信長の助けも間に合わず殺されてしまう。
その後、稲生の戦いで弟の織田信勝を倒し、名実ともに尾張の主になった信長は1560年に東海一の大名の今川義元を桶狭間の戦いで破ると、さらに西へ進軍し、美濃の斎藤氏を稲葉山城の戦いで撃破。
美濃を岐阜と名称を変更した信長は、ここで天下布武の印判を押し、天下統一の野望を宣言した。
1568年には、畿内を追われていた足利義昭を京都に連れ戻し、将軍職に就け、自分が将軍を凌ぐ力を持つことを大々的にアピール。
1570年、姉川の戦いで近江の浅井氏と福井県越前の朝倉氏を倒すと、1571年には比叡山延暦寺を焼き討ち、1573年になると将軍職の権威を復活させようと動いた足利義昭を追放し室町幕府を滅ぼした。
この翌年には、伊勢長島の一向一揆を鎮圧、1575年に徳川家康とタッグを組んで戦った長篠の戦いでは、騎馬や投石中心の武田勝頼の軍隊を最新兵器の鉄砲で撃破した。同年には越前の一向一揆も鎮圧している。
こういった宗教勢力は非常に手ごわい相手だったのだが、信長はキリスト教を保護することで、目には目を宗教には宗教をで対抗を試み、1580年には11年も抵抗した強敵石山本願寺をついに屈服させ、お館様は日本の三分の一を征服、天下統一まで後一歩というところまで及んだ。
しかし1582年、中国地方の毛利氏に手を焼いた豊臣秀吉を助けに向かうため、京都に滞在していた信長は、明智光秀の裏切りにあい自害してしまう(本能寺の変)。
これにより信長の野望は惜しくも潰えた。

織田信長の政策①関所の撤廃
寺社や公家が、関銭徴収のために設けた関所を廃止し、自由に人や物が移動できるようにした。

織田信長の政策②楽市令
安土城下で、特権的な販売権であった市座を廃止し、自由に商売をさせることで、経済を活性化させた。秀吉も信長に習って実施している。
江戸時代になると朱子学の影響でお金儲けは後ろめたいものみたいなイメージになってしまうが(だから商社を営んだ坂本龍馬や塾で月謝をとった福澤諭吉は疎まれた)、信長はアダム=スミス的に経済を自由化させたほうが最終的にはみんなが豊かになると考えたらしい。そう言う意味では、信長はやっぱり時代の先を行っていた(アダム=スミスが生まれたのはこの100年以上あと)。

豊臣秀吉の天下統一
信長の野望を継承したのが、身分にとらわれない人事がモットーのお館様に、地侍の生まれながら可愛がられた羽柴秀吉である。
彼は信長の死を知ると、戦っていた毛利氏と講和を結んで、すぐさま明智光秀を山崎の戦いで討伐した。たった11日の天下であった。ただ明智光秀は生存していた可能性があって、千利休や、徳川三代に仕えた僧侶の天海が光秀だったんじゃないかという珍説もある。
なんにせよ、三谷幸喜監督の『清洲会議』見てくれれば分かるけど、信長の敵を討って名を上げた秀吉は、信長の孫の秀信(三法師様)を、信長の息子たちを差し置いて後継者にしてしまうと、このとき対立した信長の筆頭家老、柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、石山本願寺の跡地に大坂城を建設した。
1584年には、妻夫木くん・・・じゃなかった信長の次男の織田信雄&徳川家康の連合軍と小牧・長久手の戦いを繰り広げ、実力者の徳川家康を味方につけてしまう。
1585年に関白に任命され名字が変わった藤原秀吉は、長宗我部元親を降参させ中国地方を平定、翌年には太政大臣の豊臣秀吉となり、天皇の命令という形で惣無事令を出して日本各地に停戦を呼びかけた。
このように秀吉は、後陽成天皇を京都に作った聚楽第(じゅらくだい)に迎えるなど、伝統的権威を巧みに利用することが得意だった。
でも、この停戦の呼びかけを無視したのが九州の島津義久(しまづよしひさ)で、秀吉はしょうがないから1587年に彼を降伏させている。その後、北条氏政・氏直親子(小田原攻め)を滅ぼし、伊達政宗ら東北地方の大名たちも服属させて(奥州平定)、1590年についに天下統一を果たした。

豊臣秀吉の政策①太閤検地(天正の石直し)
土地の面積を町、段、畝(せ)、歩に、米を量る升の容量を京升に全国的に統一した。
また田畑と屋敷の土地面積を計算し、その収穫量(石高)を算出、全国の生産力が米の収穫量で一元的に換算されるようになった。これを石高制という。
さらに荘園制度によって一つの土地に複数の土地所有者がいるややこしい状況を改善、実際にそこで働いている農民の田地と屋敷地のものにした。
これを一地一作人といい、農民は自分たちの田畑を法的に所有することができるようになったが、その代わりに石高に応じた年貢を収める義務が課せられた。
ほかにも秀吉は、大名たちには検地帳とともに、徴税や軍役をする際に便利な行政用地図である国絵図も提出させている。

豊臣秀吉の政策②刀狩り
第1条:百姓の武具を全て没収します。
第2条:取り上げた武具は方広寺の大仏建立に役立てられます。
第3条:農民は耕作に専念しましょう。
1588年に実施。農民から武器を取り上げ、土一揆や一向一揆を防ぐ狙いがあったというのが一般的な解説だが、近年ではそういった武力解除としての側面より、農民から帯刀権を奪うことで身分制度を徹底させる側面のほうが大きかったのではないかとれている。

豊臣秀吉の政策③人掃令(ひとばらいれい)
1591年に実施。武家奉公人が町人や百姓になることや、百姓が商人や職人になることを禁じた、身分統制令。江戸時代の身分制度につながる。
これを徹底させるために、職業別に戸数と人数を調査し、兵農分離を実現させた。
江戸時代は8割以上が農民などのデータもここら辺のセンサスから来ている。

豊臣秀吉の政策④バテレン追放令
織田信長は日本の宗教勢力を制圧するためにキリスト教を保護したが、秀吉はポルトガルが日本を植民地にするんじゃないかと危機意識を持ち、1587年の九州平定の際に宣教師(バテレン)を国外退去させた。
しかし1588年に海賊取締令を出して倭寇を鎮圧させた秀吉は、その後も南方貿易を継続させたため、キリスト教徒の取り締まりは不徹底だった。

豊臣政権の財源
①蔵入地(直轄領)からの収入。
②佐渡金山、石見銀山などの直轄化した主要鉱山の利益。
③京都、大阪、堺、伏見、長崎などの豪商の経済力。
とにかく広大な版図を持っていたので、財源は莫大だった。
この時作られた天正大判は巨大な金貨で秀吉政権の経済力を象徴している。
これ一枚(=10両)で米が6トン以上購入でき、現在の価値に直すと大体100万円ほど。

朝鮮出兵
戦国時代が終わり、領土拡大の機会がなくなってしまった諸大名のモチベーションを上げるために秀吉は没落しつつある明の征服を計画した。
とりあえず、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に朝貢と明への先導を要求したが、明に従属していた朝鮮は当然断り、秀吉は朝鮮への出兵を決めた。
秀吉はどうやら東アジアに、アジア版EUというか大東亜共栄圏みたいなものを作ろうとしていたらしく、インドのゴア州に置かれたポルトガル政庁や、フィリピンのマニアに置かれたスペイン政庁、台湾の高山国などにも朝貢を求めている。
さて、第一回目の進軍となる1592年の文録の役では、日本は明との国境付近まで軍隊を進めることができたが、朝鮮義勇軍や明の援軍によって次第に押し戻され停戦。
もう先が長くないと感じていた秀吉は、これが人生最後の大勝負だと、1597年にもう一度朝鮮に軍を送り、慶長の役を始めるが、今度は李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍にハナから苦戦、秀吉が病気で死ぬと、徳川家康や石田三成はすぐに日本軍の撤退を開始した。
この朝鮮出兵によって、諸大名のあいだには亀裂が生じ、大阪城に蓄えていた莫大な財宝をかなり使ってしまった豊臣家は、その没落を早めてしまう。
そんな秀吉とは対照的に、この時うまいこと財力や兵力を温存していたのが徳川家康で、天下泰平は彼の手によって実現することになる。

桃山文化
「桃山」とは、秀吉が晩年に住んだ京都の伏見城の城跡に桃が植えられていたことに由来する。
その特徴は、とにかく豪華絢爛、ヨーロッパの影響が随所に見られ、逆に仏教の影響が薄い点(世俗的)。
建築では、戦時の要塞としての機能よりも領国支配の利便性が優先された城郭建築が有名で、安土城、大阪城、姫路城などが挙げられる。
このような城の内部には大書院という大広間が設けられ、壁やふすまには濃絵(だみえ)という金ピカで強烈な色彩の絵が描かれた。狩野永徳の唐獅子図屏風はあまりにも有名。
こういった障壁画にはダイナミックな水墨画が描かれることもあり、こちらは長谷川等伯の松林図屏風が有名。
扉と天井の間の欄間には透かし彫りの彫刻が施された。

茶道
豊臣秀吉のお茶の先生だった堺の豪商、千利休が確立。
千利休は、茶の湯から余計な要素を取り除いて(バサラ大名がやってた闘茶ゲームとか)、精神的な要素だけを高めることで、たった二畳の茶室で簡素に行う侘び茶にたどり着いた。
1587年にはどんな身分の人も自由に参加できる北野大茶湯を開催している。
ちなみに、この時代の茶器や茶室、庭園には優れたものが多いという。

陶磁器
朝鮮の職人さんを捕虜として連れてきたので、技術が飛躍的に発展。
佐賀の有田焼(伊万里焼)、唐津焼、山口の萩焼、鹿児島の薩摩焼などは朝鮮の陶工が伝えたもの。
ちなみにそれ以前の縄文土器→弥生土器→須恵器・・・と続く日本の焼き物は六古窯といい、これらと区別される。その6つとは瀬戸、常滑、越前、備前、信楽、丹波で、大学時代、有名な陶芸家の先生に強制暗記させられました。

庶民文化
歌舞伎踊り:出雲大社の巫女さんだった出雲の阿国が京都で始めた。
人形浄瑠璃:琉球から伝わった三味線の伴奏付きの人形劇。
隆達節(りゅうたつぶし):高三隆達(たかさぶりゅうたつ)が小歌に節をつけた。
小袖の着流し:当時の女子に流行。袖口が狭く、後の和服(着物)の原型になった。

室町時代覚え書き

室町時代の概要(1392年~1573年)
南北朝を統一した足利義満と守護大名たちによる連合政権。
注目すべきは中国と再び国交を結んだことで、なんと菅原道真の遣唐使廃止以来500年ぶり。
その後、独裁的だった足利義教は殺され、文化に没頭しすぎて政治をないがしろにした足利義政は奥さんと弟による跡目争いをきっかけに11年も続いた応仁の乱を起こし、京都を火の海にしてしまう。
これにより下克上の戦国時代に突入、室町幕府自体は戦国時代も続いたが、戦国武将の織田信長によって終わりを遂げた。

足利義満
室町幕府3大将軍で、足利尊氏の子、足利義詮(あしかがよしあきら)の息子。
南北朝の統一を果たした足利義満は、諸国に課す税を徴収する権限、京都の政治を取り仕切る権限といった、朝廷の権限を幕府の管理下に敷いた。
また強大な勢力となった守護の統制を試みた義満は、山名氏、大内氏といった有力守護を挑発し、明徳の乱、応永の乱などの戦争を仕掛け、彼らを討伐していった(山名氏は中国・近畿を合わせて、なんと日本の6分の1を支配していた)。
こうして室町幕府は安定していったが、その安定は将軍と有力守護との勢力均衡によって保たれており、将軍の地位は相対的に低下していた。
そんな義満は、南北朝統一のわずか2年後に、将軍の地位を息子の足利義持に譲っているが、太政大臣になり出家したあとも実権を握り続け、天皇への野望も持っていたという(義満暗殺説があるのはそのため)。
ちなみにこの時代には珍しく、大変時間に厳しい人だったらしい。

管領
室町時代に新設されたポストで、将軍を補佐するという点では鎌倉時代の執権みたいなものだが、侍所、政所、評定衆といった中央機関をまとめて統括しながら、各国の守護に将軍の命令を伝えるという、将軍を凌ぐ幕府の影の支配者にまで発展した執権と比べて、よりサポート色の強いものになっている。
この役職は足利氏一門の、細川氏、斯波氏、畠山氏三管領として交代で任命された。ここら辺も北条氏がポストを独占した鎌倉時代と異なり、室町幕府が守護大名たちの連合政権だったということがよくわかる。

四職(ししき)
京都内外の警備や刑事裁判を担当する侍所の長官は所司と呼ばれ(その最高の地位が別当)、赤松氏、一色氏、山名氏、京極氏の4氏から任命される慣例になっていた。
これを四職と言い、彼らはみんな守護大名だったため、幕府での仕事の際は領国を留守にしなければならなかった。この時、守護の代役を務めたのが守護代だった。

奉公衆
室町幕府直轄軍のこと。
彼らは将軍の護衛や全国に散在する将軍直轄領である御料所(ごりょうじょ)を管理し、守護を牽制した。親衛隊的な。

鎌倉府(関東府)
東国を統治する地方機関で、リーダーは鎌倉公方と呼ばれ、初代鎌倉公方は足利尊氏の息子の足利基氏が務めた。
鎌倉公方の補佐役は関東管領と呼ばれ、こちらは上杉氏が世襲した。
鎌倉公方は当初は将軍に従っていたが、やがて幕府から独立して関東地方を支配、将軍と対立するようになった。

室町幕府の財政基盤
①御料所の収入
②守護の分担金
③地頭や御家人への賦課金
④京都の高利貸、土倉や酒屋への課税
⑤関所や港で徴収する関銭、津料
⑥京都五山の僧侶への課税
⑦公共事業の際に全国の守護に課す段銭、棟別銭
⑧日明貿易の利益

日明貿易
足利義満は1401年に明の呼びかけに応じ、『日本国王源道義』の返信用紙と明の暦を受け取り、平安時代以来となる中国との国交を500年ぶりに回復させた。
とはいうものの、これは「日本国王」である義満を、明の皇帝である朱元璋の臣下にしてやるというもので、対等な外交というよりは属国扱いだったのだが、これにより日明貿易は明への朝貢という扱いになったので、貿易にかかる経費はすべて明が負担し、日本は莫大な利益を得ることができた。
明は当時中国や朝鮮沿岸で暴れていた倭寇との区別をするために、日本からの遣明船に正式な貿易船であることを示す勘合を持参させたため、日明貿易は勘合貿易と呼ばれた。
これにより大量の銅銭(永楽通宝)が日本に持ち込まれ、このような外貨は日本の貨幣経済に大きな影響を与えた。
日本にはほかにも生糸や高級織物、書画が輸入され、逆に明へは金や銅、硫黄といった鉱物、刀剣や槍などの武器、鎧、扇、屏風といった工芸品などが輸出された。
日明貿易はその後、義満の政策に否定的だった4代将軍足利義持(あしかがよしもち)の時に「侮辱的である」と一時中止になるが、6代将軍足利義教(あしかがよしのり)の時に再開され結局150年間続いた。
ちなみに倭寇とは、もともと日本と明との貿易を要求していた密貿易商人だったため、日明貿易の実現によって沈静化した。しかし彼らによって高麗の衰退は早まった。

朝鮮外交
李氏朝鮮は1339年に李成桂(りせいけい)が高麗を倒して建国した国家で、義満はこちらとも国交を樹立した。
倭寇によって高麗が衰退したことを知る朝鮮は、うちもやられちゃたまらないと日本に倭寇の禁止を要求、義満はこれに応じた。
日朝貿易は対馬の守護大名である宗氏を通じて対等に行われ、幕府だけではなく、守護や国人、商人も参加した。
朝鮮からは木綿といった織物や大蔵経が輸入され、日本からは銅といった鉱物、工芸品、南洋諸島のコショウや香料などが輸出された。

応永の外寇
1419年に沈静化はしたもののまだ暴れていた倭寇に悩む朝鮮が、対馬を倭寇撃退という名目で攻撃した事件。これにより日朝貿易は一時中断したが、すぐに再開された。

琉球王国の成立
沖縄では北山、中山、南山の3つの地方勢力が覇権争いをしていたが中山(ちゅうざん)の王様の尚巴志(しょうはし)が統一、1429年に琉球王国を建国した。
室町時代中期には日本と琉球王国の国交はなかったものの民間レベルでは盛んに交易が行われた。

和人とアイヌ
畿内と津軽の十三湊(とさみなと)の日本海貿易が14世紀にはすでに行われていた。
その後、津軽の豪族、安藤氏の支配下に置かれた和人と言う本州人が津軽海峡を渡り、蝦夷が島(北海道南部)に進出し、道南十二館(どうなんじゅうにたて)などの居住地や港を建設した。
和人は北海道に古来から住んでいたアイヌと交易、しだいにアイヌの生活圏を脅かした。

室町時代の農業
生産性はより向上、農村は豊かになり、商品経済が浸透した。
桑、漆、藍、茶なども栽培。
三毛作:二毛作がさらにパワーアップ。米、麦、そばを生産。
米の品種改良:早稲(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)など収穫時期の異なる稲ができた。
大唐米:大陸から伝わった災害に強く収穫量も多い品種。
下肥(しもごえ):肥料として使う人の糞尿。
水車:灌漑用水をくみ上げる。

室町時代の経済
連雀商人や振売:行商人。
大原女:炭や薪を売った女性。
桂女:鮎を売った女性。
六斎市:鎌倉時代では月に3回だったのが6回に増えた。
見世棚:さらに増えた。
座:さらに増えた。大寺社所属は神人、皇室所属は供御人。
米場:米を専門に扱う市場。
魚市:海産物を専門に扱う市場。
古式入浜:のちの入浜塩田。日本では岩塩がないので塩を作るための専用の砂田を作った。
貨幣経済:貨幣の流通量はさらに増えた。
永楽通宝:明銭。
私鋳銭:私的に造られた粗悪な貨幣。
撰銭令(えりぜにれい):私鋳銭などの悪貨と良貨を選別し、その基準や混入率を定めた法律。
酒屋:裕福な酒屋さんは高利貸(土倉)を営むことが多かった。
交通の発達:廻船(かいせん)、馬借、車借など。

北山文化
公家文化と武家文化が合体、禅宗などの中国文化にも影響を受けた文化。
足利義満が京都の北山に山荘(と金閣)を作ったことに由来する。
鹿苑寺金閣は、寝殿造と禅宗様の折衷様建築で修学旅行の定番。

臨済宗
鎌倉時代に生まれた禅宗だが、ストイックな曹洞宗と異なり、幕府の保護を受けたためかなり栄えた。
南宋の官寺の制にならった五山・十刹の制という寺のランキングが作られ、京都の南禅寺が最高ランクに認定され、それに次ぐ五山格には京都五山と鎌倉五山が、その下に十刹格のお寺、さらにその下に諸山のお寺が続いた。
京都五山は天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺。
鎌倉五山は建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺。
五山の僧侶は渡来僧や留学僧が多く、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)や義堂周信(ぎどうしゅうしん)らが宋の研究や漢文詩の創作をした。

水墨画
渡来僧や留学僧によって技法が伝えられた。
如拙の瓢鮎図(ひょうねんず)や周文の寒山拾得図(かんざんじっとくず)など。

庶民文化
商工業者や農民の間にも、読み・書き・計算といったリテラシーが向上し、奈良には『節用集』という辞書を刊行した商人もいた。
また庶民のあいだでは、室町時代に流行った小歌を311首収録した『閑吟集(かんぎんしゅう)』が作られ、さらに格式高い能楽と異なり、風刺性の強い喜劇の狂言(コメディだったのか)や、一遍の踊念仏が発展した盆踊り、能や歌舞伎の原型と呼ばれる幸若舞(こうわかまい)、三味線を伴奏とする語り物である古浄瑠璃(有名な義太夫節ができる前の浄瑠璃をこう呼ぶ)なども楽しまれた。

お伽草子
庶民の間で広まった通俗的な短編小説集。
小人が打出の小槌によってコンプレックスを克服する「一寸法師」や、歌の才能に恵まれたニートが宮中に呼ばれる「ものぐさ太郎」など、身分や境遇に恵まれなくても、その人の能力次第では出世できるというアメリカンドリーム的な作品が多く、下克上の思想につながった。
ほかにも相対性理論を思わせるSF作品『浦島太郎』、ヤマタノオロチを父に持ち平安時代を恐怖に陥れた日本最大最強の鬼を描いた『酒呑童子』などが有名。


ここでいう「座」とは武田鉄矢一座的な、寺社の保護を受けて能を演じる専門集団のことで、興福寺を拠点とした大和猿楽四座の一つである観世座からは世阿弥・観阿弥親子が出た。彼らは足利義満に評価され、猿楽能を完成させた。
また世阿弥は『風姿花伝』という能楽書を著した。

永享の乱(えいきょうのらん)
なんとくじ引きで決まった衝撃の将軍、足利義教が将軍の権力強化を狙って、1438年に幕府に反抗的だった鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした戦い。彼は比叡山や九州もこんな感じで平定しており、室町将軍家における最大領土を獲得している。
足利義教は突然怒りだしたり性格に難があったものの、十代で天台宗の大僧正になったという超エリートで、4代将軍家持が後継者を決めずに亡くなった為(※5代将軍義量は家持より先に亡くなった)、出家していたにも関わらずピンチヒッターで6代将軍に抜擢された経緯がある。

嘉吉の乱(かきつのらん)
有力守護を弾圧し続けた第六天魔王の足利義教が逆に、有力守護の赤松満祐(あかまつみつすけ)に殺されてしまった事件。
赤松満祐はすぐに幕府に討たれたが、義教の殺害によって将軍権力は大きく揺らぎ、室町幕府は衰退していった。室町時代版本能寺の変みたいなもの。

応仁の乱
世継ぎに恵まれなかった8代将軍足利義政は、弟の足利義視(あしかがよしみ)を次の将軍にすることを約束するが、その後妻の富子が男の子を出産、この時生まれた足利義尚(あしかがよしひさ)を推す富子と足利義視のあいだで家督争いが勃発した。
これに管領の細川勝元(ほそかわかつもと)が義視派として、四職の山名持豊(やまなもちとよ)が富子派として参戦したことで、家督争いは他の有力守護たちも巻きこむほどに拡大、1467年には細川方の東軍と山名方の西軍に分かれて争う応仁の乱に発展した。
応仁の乱は11年も続いたため、主な戦場だった京都は火の海になり(これで何回目だ)、1477年にやっと両者痛みわけで終結したが、各地での地域的な紛争はその後も継続し、室町時代の統治体制は崩壊した。

惣村の団結
室町時代後期になると、結束した惣村の農民たちが、悪徳荘官の免職や天災による不作などを理由に年貢の減免を求めて文書を送る愁訴や、荘園領主に大挙して押し寄せる強訴、惣村の全員が耕作を放棄して村から逃げ出してしまう逃散(ちょうさん)などを起こすようになった。
また、農民たちは傘連判状(からかされんばんじょう)に円環状に署名をしており、みんなが対等の立場で立ち向かうことを確認するとともに、事件の首謀者が処罰されることを防いだ。

土一揆
さらに惣村同士が結束して起こす土一揆も多発、なかでも売買や貸借契約の破棄を求める徳政一揆が多かった。
当初は簡単に徳政令を出さなかった幕府も、繰り返される一揆に負けて次第に徳政令を乱発、挙げ句の果てには徳政令を出す際に手数料を取っていた(分一徳政令)。
土一揆の「土」とは土を耕す農民が中心になって起こしたことに由来。

正長の徳政一揆
1428年。最初に起きた徳政一揆として知られる。
滋賀県の近江で琵琶湖を渡ってきた荷物を馬で京都へ運ぶ運送業の馬借らが、生活苦に耐え兼ねて蜂起。これに農民も加わり、高利貸を営む酒屋、土倉、寺院を襲撃した。
当時情勢が不安定だった幕府は徳政令を出さなかったが、畿内では守護大名によって地域ごとに徳政令が認められた。

嘉吉の徳政一揆
1441年。足利義教が殺された嘉吉の乱直後に勃発。
数十万もの惣村農民が京都を占拠した。
この時には幕府は押し切られる形で徳政令を出している。

山城国一揆
1485年。こちらは応仁の乱で戦争に明け暮れていた守護に代わって力をつけた、京都南部の山城国の国人たちが既得権を守るために結んだ一揆で、内部対立をしていた畠山氏をまとめて国外に追い出した。
山城国はその後、国人たちが8年間自治的支配をした。まさに住民自治。まさにイニシアティブ。

加賀一向一揆
1488年。一向宗(浄土真宗本願寺派)の信仰で結束した講という組織が、守護の冨樫政親(とがしまさちか)を自殺に追い込んだ一揆。
その後加賀は「百姓たちの国」となり、石山本願寺が支えた自治は100年も続き、戦国大名たちをも手こずらせた。彼らは死ねば極楽浄土の阿弥陀如来のもとへ行けると信じていたため、死をも恐れず戦ったのである。

寧波の乱(ニンポーのらん)
1523年。ニンポーとは中国の港の名前。
室町幕府が衰退したことで明との国交は途絶えてしまったのだが、日明貿易自体はその後も、堺商人とつながった細川氏と、博多商人とつながった大内氏によって続けられ、その両者が日明貿易の主導権を争った経済戦争。勝利した大内氏は日明貿易の利益を独占した。

嘉吉条約
1443年。対馬の宗氏と朝鮮の間で結ばれた貿易協定で、日本からの渡航者が増大したため負担が増えた朝鮮は、宗氏を通じて日本から派遣される渡来船を年間50隻に削減させた。これにより日朝貿易は縮小した。

三浦の乱(さんぽのらん)
1510年に在朝日本人が起こした暴動。三浦とは朝鮮が貿易のために開いた3つの港。

コシャマインの戦い
1457年。アイヌの大首長コシャマインが和人の居住地を襲撃した。
上ノ国の領主、蠣崎氏が反撃し制圧された。

東山文化
8代将軍足利義政は(度を越した)文化人として知られ、祖父の足利義満にならって京都の東山に慈照寺銀閣を作った。修学旅行の時に、金閣が本当に金ピカだったから、銀閣もさぞ銀ピカに輝いていると思ったら、割と地味でガッカリした記憶があるが、足利義政の時代には応仁の乱などによって幕府の財政はかなり逼迫していて、銀ピカにする余裕はなかった上に、もともと東山文化のモットーが禅の簡素の追求やわび・さびなので当初から銀ピカにする予定はなかったらしい(銀閣という呼び名も江戸時代以降に「あっちが金閣ならこっちは銀閣にしよう」みたいな感じで付けられた)。
また、有名な近代和風建築の原型である書院造(床の間)や、枯山水という庭園様式も禅宗の影響である。
さらに、茶道では、村田珠光(むらたじゅこう)が茶に禅の精神を取り入れ侘び茶を創始、生花では座敷の床間を飾る立花様式が定まった。

林下(りんか)
五山・十刹の制による臨済宗のヒエラルキーに入らなかった寺のことで、室町幕府衰退とともに衰えた五山に代わって地方武士や民衆の支持を得た。
この代表的な人物に宗純(一休さん)がいる。実際の一休さんは愉快な小坊主ではなく、ニヒルで自由主義的な反骨精神を持つ人物だったらしい。
ちなみにとんねるずのタカさんがリアル野球盤などでよく言う「花は桜木(男は石橋)」はもともとは一休さんの言葉。
ほかにも一休さんは後小松天皇の隠し子だったという説がある。まさかの皇族。
あと一休さんに「屏風の虎を捕まえろ」というディメンション的に無茶なことを言ったのは足利義満。

天文法華の乱
1536年。法華一揆が延暦寺と衝突し、寺を焼き討ちにされた挙句京都を追われた事件。
他宗派を厳しく批判することが特徴の法華宗の日親は『立正治国論』で足利義教を諌めてしまったので、幕府から迫害&拷問されたが、その後布教によって京都の商工業者に広まった。

蓮如
応仁の乱の頃に現れた浄土真宗本願寺の僧。
彼は布教の際に、読みやすい平仮名で書かれた御文(おふみ)を用いて、信者たちを講と呼ばれる団体に組織、北陸や東海を中心に信者が増えた。

東山文化の芸術
彫刻では能面、工芸では後藤祐乗の金工や、金箔をまいた漆工芸の蒔絵が有名。
また雪舟が日本的な水墨画の作画技術を集大成し、大和絵では応仁の乱のあとに土佐光信が土佐派の基礎を固めた。
土佐派の狩野正信と狩野元信親子は水墨画に大和絵の手法を融合し有名な狩野派を開始している。狩野元信の代表作は大徳寺大仙院花鳥図。

東山文化の文学
『新撰莬玖波集』:正風連歌を確立した宗祇(そうぎ)が編纂。
『犬莬玖波集』:より自由な俳諧連歌を作った山崎宗鑑が編纂。

東山文化の学問
『公事根源』をまとめた一条兼良など、政治や経済において力を失った公家が有職故実の研究を行った。
また、応仁の乱が終わると公家や僧侶は荒廃した京都から地方へ移り、地方武士たちに都の文化を伝えた。肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に講師として招かれた桂庵玄樹による薩南学派や、中部や関東をめぐった臨済僧の万里集九が残した漢詩文などがそれである。

足利学校
平安初期に建てられ、鎌倉後期には既に廃れていたが15世紀半ば、関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)が、校長先生に有名なお坊さんを呼んだり、蔵書の数を増やしたりするなど再興。
これにより足利学校は、室町時代から戦国時代における日本の最高学府となり、全国から集まった禅僧や武士が高度な教育を受けた。現在の復元は江戸時代に最も栄えた時のもの。
フランシスコ・ザビエルはここを「坂東の大学」と呼んだ。

寺子屋
地方武士の子弟の教育が行われる寺院のこと。
テキストは『御成敗式目』や、社会に必要な一般教養をやさしくまとめた『庭訓往来』だった。
足利学校同様こちらも平安時代には既にあったらしい。

南北朝時代覚え書き

南北朝時代の概要(1336年~1392年)
天皇中心の社会に戻そうと建武の新政が行われたが結局すぐに失敗、その後、朝廷が京都と奈良の二つにでき、政治は大混乱。
日本史における戦乱の時代と言ったらやっぱり戦国時代がイメージされるが、南北朝戦争は戦国時代に匹敵するほど長期化しており、その利害関係があまりに複雑な上に、情勢が二転三転しているため、テレビゲームなどにはややこしくて取り上げられないという事情がある。
戦争を略奪のチャンスとしか考えない新興武士の悪党、部下になんでもあげちゃう足利尊氏によって権限が大きく拡大した守護、その守護から独立しようと国人と名乗る地頭、そして守護と主従関係を結び侍の身分を獲得する農民など、戦国時代におけるバトルロイヤルの伏線がはられている。

建武の新政
鎌倉幕府滅亡後に京都に戻った後醍醐天皇が、10世紀後半の醍醐天皇や村上天皇に習って1333年~1336年の間に行った、急進的な天皇親政。
後醍醐天皇は幕府、院政、摂政・関白の全てを廃止し、中央には重要政務を一手に引き受ける記録所、鎌倉時代の引付衆に当たる雑訴決断所、警察省に当たる武者所(長官は新田義貞)、後醍醐天皇を支持した武士に恩賞を与える恩賞方を設置した。
地方では行政府の国司の力を強化、守護の権限を引き下げると共に、東国には陸奥将軍府(頼良親王と北畠顕家)と鎌倉将軍府(成良親王と足利直義)を置いた。
また、後醍醐天皇は天皇の法令である綸旨(りんじ)によって、土地所有権は天皇の許可がなければ認められないようにし、さらに強力な人事権を行使して、役職と家柄を切り離し(得宗専制政治を廃止)、官職と官位を切り離した(大宝律令からの官吏相当制を廃止)。
このような後醍醐天皇の改革は、醍醐&村上の延喜・天暦の治よりは、中国の君主独裁制に近く、その上、武士の力に頼りながら、武士社会の慣習を無視したものだったので、武士たちは当然反発し、護良親王のクーデターや、西園寺公宗による後醍醐天皇暗殺計画などが起きた。

中先代の乱
1335年に鎌倉時代の執権北条高時の息子の北条時行が鎌倉を占拠した事件。
このクーデターを後醍醐天皇のために鎮圧した足利尊氏は、協力してくれた武士たちに勝手に恩賞を与え始め、これを危険視した後醍醐天皇は足利尊氏を朝敵として認定、新田義貞に足利尊氏討伐を命じた。
ちなみに足利尊氏はかつては歴史ファンの人気が低く、江戸時代に水戸学を始めた水戸光圀(水戸のご老公)も『大日本史』において天皇に弓を引いた逆賊だと批判していたが、現在では客観的な評価がされている。

南北朝時代の始まり
朝敵にされてしまった足利尊氏は当初は苦戦したものの、九州での大逆転(多々良浜合戦)をきっかけに、西国のほとんどの武士を、自身のカリスマ性や、持明院統の担ぎ出し、宗教的演出などで味方に付け、1336年に京都を制圧、新たに光明天皇を即位させ、聖徳太子を思わせるトラディショナルな建武式目を発表した。
これにより戦争は集結したかと思いきや、講和に一度は納得した後醍醐天皇が吉野で正統な天皇であると主張したため、京都の光明天皇と奈良の後醍醐天皇という、二つの王朝が日本にできてしまった。

二頭政治
1338年に征夷大将軍に任命された足利尊氏は、弟の足利直義(あしかがただよし)と職権を分担して政治にあたった。
人情味があり武士の人気が高かった尊氏は軍事的な指揮権や人事権を、理論派で冷静だった直義は法令順守に則った行政権や司法権を掌握した。
一方南朝の後醍醐天皇は、新田義貞や北畠顕家を失い劣勢のまま亡くなった。

観応の擾乱
1350年。武力によって領土拡大を訴える急進派の高師直と、戦争を早急に終結させようとする保守派の足利直義による北朝の内部分裂。
最終的に幕府派(尊氏派)と、足利直冬率いる旧直義派、そして南朝の三つ巴の戦いになった。

単独相続
南北朝戦争時には、所領の細分化が進みすぎたため(子孫が幾何級数的に増えるため一人あたりの土地の面積がどんどん減る)、本家と分家の嫡子(長男)がそれぞれに土地を単独相続するようになり、それまでの惣領制を支えてきた血縁的結合よりも地縁的結合が優先されるようになった。
そのため本家と分家の対立も増え、それが南北朝戦争を長期化させることになった。
ちなみに、この単独相続への移行によって夫と別に財産を持っていた嫁、つまり女性の社会的地位が低下した。それまでは自分の旦那を選択できたり、複数の異性との交際がOKだったりと、割と日本の女性の地位は高かった。実際北条政子は夫婦別姓だったしね。

南北朝統一
南北朝戦争は60年も続いたが、1392年に3代将軍足利義満が南北朝を統一させ戦争を集結させた。
具体的には、南朝の後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に神器を渡し、以後は北朝の持明院統が皇位を継承することになった。
ちなみに、義満は京都の室町にある邸宅「花の御所」で政治を行ったので、足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになった。
したがって学校の教科書では南北朝時代も室町時代に含んでいたりするけれど、1392年以前は室町幕府は存在しないので足利幕府と呼ぶ本もある。

守護大名
南北朝戦争の際、味方を増やしたい幕府によって、苅田狼藉(田地の紛争の際に一方が勝手に稲を刈り取ってしまう行為)の取り締まりが出来る権利、使節遵行権(しせつじゅんぎょうけん)という幕府の判決を強制執行する権利、半済令(はんぜいれい)という国内の荘園や公領の年貢の半分を徴収する権利などを与えられた全国の守護たちは、他の荘園や公領を襲撃し、その利益を分け与えることで地方武士を支配しだした。
また、本来領主の仕事である年貢の徴収を請け負う守護請も現れた。
このような国衙の権限を吸収し一国を支配する守護を守護大名という。

国人一揆(こくじんいっき)
国人とは地頭などの領主をやっていた一部の地方武士。
彼らは守護に頼らず自分たちで結束し、自主的に紛争を解決したり農民と契約を結んだ。
このような結束を一揆といい(暴動って意味じゃなかったんだ)、ひとつの地域権力として守護と対立した。

惣村の普及
惣村とは、荘園の内部に農民が自主的に作り上げた自治的な村のこと。
惣村の農民は惣百姓と呼ばれ、農業につかう灌漑用水などの共同管理や入会地(いりあいち)と言う共同利用地を確保し、年貢も惣村単位でひとまとめに行った(村請)。
また、おとな(沙汰人)と呼ばれた惣村の指導者は、寄合という会議で決められたルールである惣掟に従って村を運営した。
惣村の祭礼は宮座という集団が行った。
惣村は力をつけ、惣百姓の中には守護などと主従関係を結んで、侍の身分を獲得するような地侍も現れた。

南北朝文化
動乱の時代だったので多くの歴史書、軍記物語が書かれた。
『増鏡』:源平争乱後の歴史を公家の立場で記述。
『梅松論』:室町幕府成立過程を描く。
『神皇正統記』:北畠顕家の父親の北畠新房(親房)が伊勢神道を根拠に南朝の正当性を主張。
『太平記』:南北朝の動乱を描いた軍記物語。戦争で翻弄される人々の姿を描く。

連歌
平安時代にできた長句(5・7・5)と短句(7・7)を別の人が交互に詠むゲーム。
武家、公家問わず大流行した。
南北朝時代の歌人である二条良基(にじょうよしもと)『応安新式』というルールブックを執筆し、方式を確立。彼は『莬玖波集(つくばしゅう)』を編纂し、これは後に勅撰和歌集に準じるものとして和歌と対等に扱われた。
このように本来は格式高いものだが、バサラ大名はパーティーピーポー的なゲームとして楽しんだ。
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